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単にツール(Le Tour)と称されることもある(本記事でも以下「ツール」と呼称する)。 | 単にツール(Le Tour)と称されることもある(本記事でも以下「ツール」と呼称する)。 |
2020年1月8日 (水) 05:05時点における版
rxy=森谷辰也=LTA:ASPE、 LTA:DCHANCE、LTA:SASHOという動かせない事実。ツール・ド・フランス(Le Tour de France)とは毎年7月にフランスおよび周辺国を舞台にして行われるプロロードレースである。1903年から開催されている。主催は傘下に新聞社のレキップ(スポーツ新聞)やパリジャン(一般紙)などを抱えるフランスの大企業・ASO(Amaury Sport Organisation)。
単にツール(Le Tour)と称されることもある(本記事でも以下「ツール」と呼称する)。
目次
概要
毎年7月に3週間以上かけて行われるステージレースで、距離にして3500km前後、高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走りぬく。フランス国内でのレースが中心だがイギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、モナコなど周辺国が舞台になるステージもある。ステージ数は通常21前後。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされているが、山岳の比重が大きくなることの多いジロ・デ・イタリアやブエルタ・ア・エスパーニャに比べて平地ステージと山岳ステージのバランスがとれた構成となっている[1]。
1社ないし数社のスポンサーの名を冠した20~22のチームが9人編成で参加するが、出場する選手の国籍はヨーロッパだけに限らずアメリカやオーストラリア、カザフスタン、コロンビアなど多様で、非常に国際色豊かな大会となっている。
総合成績1位の選手には「マイヨ・ジョーヌ」と呼ばれる黄色のジャージが与えられるほか、スプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。
賞金総額は2008年の場合で約320万ユーロ、うち総合優勝者に45万ユーロとなっている。
特徴
例年、前半は平坦基調のステージが続き、スピードマンたちの逃げやスプリンターたちによる迫力あるゴールスプリントが見られる。そして中盤から後半にかけてはラルプ・デュエズ、ガリビエ、モン・ヴァントゥなどの峠を舞台にした山岳ステージで総合優勝をかけたオールラウンダーたちの戦いが繰り広げられる。
従来は各ステージのゴールと次のステージのスタートが同じ町だったが、スタート・ゴール地点を希望する市町村が多いため現在は一致しないことが多い。ただし、最終ステージはパリ市街を中心に周るクリテリウム形式のコース設定がされ、シャンゼリゼゴールに設定されるのが恒例である。
なお、最終日は選手たちがシャンパンを片手に走る光景もよく見られるなど顔見せの凱旋パレードの色合いが強く、ポイント賞を争うスプリンターや何としても1勝したい選手は別として、総合優勝を争う選手は集団落車に巻き込まれないようアシスト選手で周囲を固めてゴールスプリントが済んだ後にゴールに入るため、実質的な総合優勝争いは最終日の前日までと考えて良い。
歴史
スポーツ新聞社・ロト(L’Auto、現在のレキップ紙)の宣伝のために当時の編集長アンリ・デグランジュが企画したのが始まりで、自転車レースを企画するライバル2紙、ル・プティ・ジュルナル(Le Petit Journal)によるパリ-ブレスト往復(PBP。現在のブルベ)、並びにヴェロ紙(L’Velo)がスポンサーとなるボルドー-パリ間レースに対抗するためのものであった。
1903年に行われた第1回大会は合計走行距離2428km・6ステージで行われ、1ステージ平均400kmを走るという過酷なレースであった。また初期のレースでは殆ど休みが無い耐久戦であり、眠る際にもライダーは道路脇で眠り、他者の協力を得る事は禁止されていた。
第3回大会からは距離を縮めた分、ステージ数が倍増。さらに山岳ステージが導入された。変速機が無い当時は登山用ギアは後輪の反対側に取り付けられており、坂に来るたびに選手は後輪を前後反対に付け直さねばならず1ステージの距離こそ短くなったが、レースは相変わらず過酷なものだった。
以後も徐々にステージ数は増えそれに伴いレースは大規模化していくが、第一次世界大戦によって1915年から1918年までは中断。1919年から再開されたが、この頃は再び走行距離も伸び1ステージ平均350kmを走るのが当たり前で、総距離は5000kmを超える傾向が1930年代まで続いた。
1930年代以降はステージ数20前後、走行距離は4500km程度の規模になりほぼ現在の開催スタイルとなるが、第二次世界大戦によって1940年から1946年まで再び中断を余儀なくされた。
1947年から再開され、以後1950年代にルイゾン・ボベが3連覇、1960年代はジャック・アンクティル、1970年代前半にエディ・メルクスが4連覇を達成。1970年代後半からはベルナール・イノー やローラン・フィニョンらフランス人が活躍。1980年代後半はグレッグ・レモンが活躍した。
1990年代前半にはミゲル・インドゥラインが史上初の5連覇を達成。2000年代にはランス・アームストロングが7連覇を達成している。
知名度と露出度
他に3週間程度にわたり行われる大規模なステージレースとしてはジロ・デ・イタリア(イタリア一周)とブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン一周)があり、これにツール・ド・フランスを加えて俗にグランツール(三大ツール)と呼ばれるが、その中でもツールの知名度・露出度は突出しており、日本でも「世界最大の自転車レース」として認識されている。
また世界中で他の自転車レースには興味がなくてもツールだけは熱狂的に応援するファンが多数存在しており、開催規模や放映される国の多さ、参加する選手の国籍の多彩さなどから見ても世界屈指のスポーツ競技大会である。
そのため総合優勝をはじめとした各賞のステータスが非常に高いことはもとより、各ステージの優勝もクラシックなどのビッグレースでの優勝に匹敵する価値があるとされ、1回のステージ優勝であっても生涯の勲章になる。それゆえプロロード選手にとっては一度は出場してみたい大会の筆頭である。
運営
レースが非常に大規模かつ知名度・露出度が高いため専門の本部が置かれ、およそ500名のスタッフが運営に関わる。また、交通規制やレース中の警備、極端な不正行為(ドーピングレベルでなく禁制薬物使用など)の取締りはジェンダルマリー(フランス国家憲兵隊)とポリスナシオナル(フランス国家警察)の2系統の警察が担当しており、これに動員される人数が約2万5000人。さらにボランティアで警備などを担当する人は数十万人にのぼると推察されている。
またレース中は情報・食料・飲料水を供給したり、機材のトラブルをサポートするメカニックが乗り込んだ「サービスカー」と呼ばれる車やオートバイが選手とともにおよそ1500台走る。このサービスカーはチーム専属の車両のほか、中立の立場で水や自社機材を提供する(ニュートラルカー)も参加している。
このほかにも選手が通過するおよそ1~2時間前にレーススポンサーの宣伝カーが連なったキャラバン隊が沿道の観客に帽子、菓子、キーホルダー、Tシャツ等々のグッズをばら撒いていくが、配られるグッズの数は1000万を超え、動員される車の台数はおよそ200台にもなり最初から最後まで見るのに30分以上かかるほどである。
運営費は主にテレビ放映権とスポンサー収入でまかなわれるほか、レースの舞台となる市町村から主催者に支払われる開催料も充てられている模様だが、正確な収入および運営費用は非公開となっている。
各賞とリーダージャージについて
数種の賞が設定されており、各賞に応じた色別のジャージ(リーダージャージ)、または特別なゼッケンがある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手およびチームは、翌ステージでそのジャージまたはゼッケンを着用しなければならない。
マイヨ・ジョーヌ(個人総合時間賞)
黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ(maillot jaune)」は個人総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。
誰がトップなのか一目で分かるようにと言う理由で1919年に初登場。色の由来はレース主催者「ロト」の紙面が黄色であったため。1987年からは同じく黄色をイメージカラーとするフランスの銀行「LCL(クレディ・リヨネ)」がスポンサーとなっており、同行のマスコットの黄色のライオンのぬいぐるみをジャージ着用者が持っているシーンもたびたび放映されている。
ちなみにジャージ両肩にデザインされた「HD」は、ツールの創始者であるアンリ・デグランジュ(Henri Desgrange)のイニシャルである。
マイヨ・ヴェール(ポイント賞)
緑色のジャージ「マイヨ・ヴェール(maillot vert)」は「スプリント賞」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算され、スプリントポイント1位の選手が「マイヨ・ヴェール」着用の権利を得る。
ツール50周年を記念して1953年に初登場。色の由来は当時のスポンサーであった園芸用品メーカーの「ベル・ジャルディニエール」の芝刈り機から。1991年からはフランスの公認場外馬券売り場「PMU」がスポンサーとなっている。
マイヨ・ブラン・ア・ポア・ルージュ(山岳賞)
赤玉の入った白色ジャージ「マイヨ・ブラン・ア・ポア・ルージュ(maillot blanc à pois rouges)」は「山岳賞」に対して与えられる。登り坂の勾配と長さに応じて点数が設定された山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手1位の選手が「マイヨ・ブラン・ア・ポア・ルージュ」着用の権利を得る。1933年に初登場。略して「マイヨ・ア・ポア」あるいは「マイヨ・グランペール」とも呼ばれる。
最優秀クライマーが表彰されるようになったのは1933年だが、ジャージが初登場したのは1975年である。色の由来は当時のスポンサーであった製菓会社「ショコラ・プーラン」の人気商品のキャンディーパッケージから。1993年からは同色をイメージカラーとするフランスのスーパーマーケット「シャンピオン」がスポンサーとなっている。
マイヨ・ブラン(新人賞)
白色のジャージ「マイヨ・ブラン(maillot blanc)」は開催年に25歳以下の誕生日を迎える選手の中で総合成績が最も上位の選手に与えられる。「新人賞」と訳されることが多いが、該当の年齢であれば複数回受賞できるため正確には「最優秀若手選手賞」と呼ぶのがふさわしい[2]。色の由来は不明。チェコの自動車メーカーシュコダがスポンサーとなっている。
ドサール・ルージュ(敢闘賞)
タイムトライアル以外のステージで特に果敢に動いたと認められた選手には「敢闘賞」として、通常白地に黒文字のゼッケンの代わりに赤地に白抜き数字のゼッケンが与えられる。
ドサール・ジョーヌ(チーム賞)
各ステージの終了後、チームごとに先頭から3名の所要時間が加算され、最も少ない時間のチームが表彰される。2006年と2007年の大会では黄色地に黒文字のゼッケンがチーム総合首位の選手たちに与えられた。
各種規則
ゴール争い時の危険防止のため、集団でゴールした場合、集団内のすべての選手は集団先頭と同タイムとみなされる。同様の目的でゴール手前3km以内(2004年までは1km以内)で落車した場合は、元々その選手が加わっていた集団と同じタイムが与えられる。
スプリントポイントについては与えられるポイント数がステージの形状により変わる。ゴールでのスプリントポイントは平坦ステージの場合が最も高く、以下、中位のステージ、山岳ステージ、タイムトライアルの順にポイントが少なくなる。また各ステージにはおおむね2箇所の中間スプリント地点が設定されており、そこを3位までに通過した選手にポイントが与えられる。総合成績と異なり1cmでも先に通過した選手がより高いポイントを得られるため、ポイント設定箇所、特にゴール前ではスプリンター同士の熾烈な争いが繰り広げられることとなる。
通過順位 | 1 位 |
2 位 |
3 位 |
4 位 |
5 位 |
6 位 |
7 位 |
8 位 |
9 位 |
10 位 |
11 位 |
12 位 |
13 位 |
14 位 |
15 位 |
16 位 |
17 位 |
18 位 |
19 位 |
20 位 |
21 位 |
22 位 |
23 位 |
24 位 |
25 位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
平坦ステージ | 35 | 30 | 26 | 24 | 22 | 20 | 19 | 18 | 17 | 16 | 15 | 14 | 13 | 12 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
中位山岳 | 25 | 22 | 20 | 18 | 16 | 15 | 14 | 13 | 12 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |||||
上級山岳 | 20 | 17 | 15 | 13 | 12 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | ||||||||||
プロローグ&TT | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |||||||||||||||
スプリントポイント | 6 | 4 | 2 |
山岳ポイントについては上り坂の勾配と長さに応じてカテゴリー超級からカテゴリー4級までの5段階に区分されており、通過順にカテゴリーに応じた山岳ポイントが与えられる。カテゴリー超級の坂はいずれも過酷な登りであり、ツールマレー峠、モンバントゥ、ガリビエ峠、ラルプ・デュエズ等が有名である。近年はポイント稼ぎの目的でコース前半の山岳でアタックし最後の上りとなる山頂ゴールでは大きく後退する作戦で山岳王を狙うケースが目立ったことから、2004年よりルールが改正され、最後の上り坂がカテゴリー2級以上の場合は与えられるポイントが2倍となった。このため最後まで上位集団に食らいついてゴールした方が総合優勝争いだけでなく山岳賞争いでも有利になったため、戦略にも大きな影響が出ている。
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歴代総合優勝者
回 | 開催期間 | 総合優勝者(所属チーム) | ステージ数 | 総距離 | 平均時速 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1903年7月1日~19日 | モリス・ガラン (La Française) | 6 | 2,428km | 25.679km/h |
2 | 1904年7月2日~24日 | アンリ・コルネ | 6 | 2,429km | 26.081km/h |
3 | 1905年7月9日~30日 | ルイ・トゥルスリエ (Peugeot) | 11 | 2,994km | 27.107km/h |
4 | 1906年7月4日~29日 | ルネ・ポチエ (Peugeot) | 13 | 4,545km | 24.463km/h |
5 | 1907年7月8日~8月4日 | ルシアン・プチプルドン (Peugeot) | 14 | 4,488km | 28.470km/h |
6 | 1908年7月13日~8月9日 | ルシアン・プチプルドン (Peugeot) | 14 | 4,488km | 28.740km/h |
7 | 1909年7月5日~8月1日 | フランソワ・ファベール (Alcyon) | 14 | 4,488km | 28.658km/h |
8 | 1910年7月3日~31日 | オクタブ・ラビス (Alcyon) | 15 | 4,737km | 28.680km/h |
9 | 1911年7月2日~30日 | ギュスタブ・ガリグー (Alcyon) | 15 | 5,344km | 27.322km/h |
10 | 1912年6月30日~7月28日 | オディル・ドフレイエ (Alcyon) | 15 | 5,319km | 27.894km/h |
11 | 1913年6月29日~7月27日 | フィリップ・ティス (Peugeot) | 15 | 5,388km | 26.715km/h |
12 | 1914年6月28日~7月26日 | フィリップ・ティス (Peugeot) | 15 | 5,405km | 27.028km/h |
13 | 1919年6月29日~7月27日 | フィルマン・ランボー (La Sportive) | 15 | 5,560km | 24.054km/h |
14 | 1920年6月27日~7月25日 | フィリップ・ティス (La Sportive) | 15 | 5,519km | 24.132km/h |
15 | 1921年6月26日~7月24日 | レオン・シウール (La Sportive) | 15 | 5,484km | 24.720km/h |
16 | 1922年6月25日~7月23日 | フィルマン・ランボー (Peugeot) | 15 | 5,372km | 24.202km/h |
17 | 1923年6月24日~7月22日 | アンリ・ペリシエ (Automoto) | 15 | 5,386km | 24.428km/h |
18 | 1924年6月22日~7月20日 | オッタビオ・ボテッキア ファイル:Flag of Italy (1861-1946).svg(Automoto) | 15 | 5,425km | 24.250km/h |
19 | 1925年6月21日~7月19日 | オッタビオ・ボテッキア ファイル:Flag of Italy (1861-1946).svg(Automoto) | 15 | 5,430km | 24.820km/h |
20 | 1926年6月20日~7月18日 | ルシアン・ビュイス (Automoto) | 17 | 5,745km | 24.063km/h |
21 | 1927年6月19日~7月17日 | ニコラ・フランツ (Alcyon) | 24 | 5,321km | 27.224km/h |
22 | 1928年6月17日~7月15日 | ニコラ・フランツ (Alcyon) | 22 | 5,375km | 27.876km/h |
23 | 1929年6月30日~7月28日 | モリス・ドゥワエル (Alcyon) | 22 | 5,276km | 28.320km/h |
24 | 1930年7月2日~27日 | アンドレ・ルデュック (France) | 21 | 4,818km | 27.978km/h |
25 | 1931年6月30日~7月26日 | アントナン・マーニュ (France) | 24 | 5,095km | 28.758km/h |
26 | 1932年7月6日~31日 | アンドレ・ルデュック (France) | 21 | 4,520km | 29.313km/h |
27 | 1933年6月27日~7月23日 | ジョルジュ・スペシェ (France) | 23 | 4,396km | 29.730km/h |
28 | 1934年7月3日~27日 | アントナン・マーニュ (France) | 23 | 4,363km | 31.233km/h |
29 | 1935年7月4日~28日 | ロマン・マエス (Belgique) | 21 | 4,338km | 30.650km/h |
30 | 1936年7月7日~8月2日 | シルベール・マエス (Belgique) | 21 | 4,414km | 30.912km/h |
31 | 1937年6月30日~7月25日 | ロジェ・ラプビー (France) | 20 | 4,415km | 31.768km/h |
32 | 1938年7月5日~31日 | ジーノ・バルタリ ファイル:Flag of Italy (1861-1946).svg(Italie) | 21 | 4,680km | 31.565 km/h |
33 | 1939年7月10日~30日 | シルベール・マエス (Belgique) | 18 | 4,225km | 31.994km/h |
34 | 1947年6月25日~7月25日 | ジャン・ロビック (Ouest) | 21 | 4,642km | 31.412km/h |
35 | 1948年6月30日~7月25日 | ジーノ・バルタリ (Italie) | 21 | 4,922km | 33.404km/h |
36 | 1949年6月30日~7月21日 | ファウスト・コッピ (Italie) | 21 | 4,808km | 32.119km/h |
37 | 1950年7月13日~8月7日 | フェルデイ・クブラー (Suisse) | 22 | 4,775km | 32.778km/h |
38 | 1951年7月4日~29日 | ユーゴ・コブレ (Suisse) | 24 | 4,697km | 32.979km/h |
39 | 1952年6月25日~7月19日 | ファウスト・コッピ (Italie) | 23 | 4,827km | 31.871km/h |
40 | 1953年7月3日~26日 | ルイゾン・ボベ (France) | 22 | 4,476km | 34.593km/h |
41 | 1954年7月8日~8月1日 | ルイゾン・ボベ (France) | 23 | 4,865km | 34.639km/h |
42 | 1955年7月7日~30日 | ルイゾン・ボベ (France) | 22 | 4,476km | 34.639km/h |
43 | 1956年7月5日~28日 | ロジェ・ワルコビャック (Nord-Est) | 22 | 4,527km | 36.268km/h |
44 | 1957年6月27日~7月20日 | ジャック・アンクティル (France) | 23 | 4,664km | 34.520km/h |
45 | 1958年6月26日~7月19日 | シャルリー・ゴール (HOL-LUX) | 24 | 4,319km | 36.905km/h |
46 | 1959年6月26日~7月19日 | フェデリコ・バーモンテス (Esp) | 22 | 4,358km | 35.474km/h |
47 | 1960年6月26日~7月17日 | ガストネ・ネンチーニ (Italie) | 21 | 4,173km | 37.210km/h |
48 | 1961年6月25日~7月16日 | ジャック・アンクティル (France) | 21 | 4,397km | 36.033km/h |
49 | 1962年6月24日~7月15日 | ジャック・アンクティル (St-Raphaël) | 22 | 4,274km | 37.317km/h |
50 | 1963年6月23日~7月14日 | ジャック・アンクティル (St-Raphaël) | 21 | 4,138km | 36.456km/h |
51 | 1964年6月22日~7月14日 | ジャック・アンクティル (St-Raphaël) | 22 | 4,505km | 35.419km/h |
52 | 1965年7月8日~8月1日 | フェリーチェ・ジモンディ (Salvarani) | 22 | 4,188km | 35.882km/h |
53 | 1966年6月21日~7月14日 | ルシアン・エマール (Ford) | 22 | 4,329km | 36.819km/h |
54 | 1967年6月29日~7月13日 | ロジェ・パンジョン (France) | 22 | 4,779km | 35.882 km/h |
55 | 1968年6月27日~7月21日 | ヤン・ヤンセン (Hollande) | 22 | 4,492km | 34.894 km/h |
56 | 1969年6月28日~7月20日 | エディ・メルクス (Faema) | 22 | 4,117km | 35.296km/h |
57 | 1970年6月27日~7月19日 | エディ・メルクス (Faema) | 22 | 4,492km | 34.894km/h |
58 | 1971年6月26日~7月18日 | エディ・メルクス (Molten) | 20 | 3,585km | 37.290km/h |
59 | 1972年7月1日~23日 | エディ・メルクス (Molteni) | 20 | 3,846km | 35.514km/h |
60 | 1973年6月30日~7月22日 | ルイス・オカーニャ (bic) | 20 | 4,150km | 33.407km/h |
61 | 1974年6月27日~7月21日 | エディ・メルクス (Molteni) | 22 | 4,098km | 35.661km/h |
62 | 1975年6月26日~7月20日 | ベルナール・テブネ (Peugeot) | 22 | 4,000km | 34.906km/h |
63 | 1976年6月24日~7月18日 | ルシアン・バンインプ (Gitane) | 22 | 4,098km | 34.518km/h |
64 | 1977年6月30日~7月24日 | ベルナール・テブネ (Peugeot) | 22 | 4,096km | 35.393km/h |
65 | 1978年6月29日~7月23日 | ベルナール・イノー (Renault-Gitane) | 22 | 3,908km | 36.084km/h |
66 | 1979年6月27日~7月22日 | ベルナール・イノー (Renault-Gitane) | 24 | 3,765km | 36.512km/h |
67 | 1980年6月26日~7月21日 | ヨープ・ズートメルク (Raleigh) | 22 | 3,842km | 35.068km/h |
68 | 1981年6月25日~7月19日 | ベルナール・イノー (Renault-Gitane) | 24 | 3,758km | 37.844km/h |
69 | 1982年7月2日~25日 | ベルナール・イノー (Renault-Gitane) | 21 | 3,507km | 37.458km/h |
70 | 1983年7月1日~24日 | ローラン・フィニョン (Renault-Gitane) | 22 | 3,860km | 36.230km/h |
71 | 1984年6月29日~7月22日 | ローラン・フィニョン (Renault-Gitane) | 23 | 4,021km | 34.906km/h |
72 | 1985年6月28日~7月21日 | ベルナール・イノー (La Vie Claire) | 22 | 4,109km | 36.232km/h |
73 | 1986年7月4日~27日 | グレッグ・レモン (La Vie Claire) | 23 | 4,084km | 37.020km/h |
74 | 1987年7月1日~26日 | ステファン・ロシュ (Carrera) | 25 | 4,331km | 36.644km/h |
75 | 1988年7月4日~24日 | ペドロ・デルガド (Reynolds) | 22 | 3,286km | 38.909km/h |
76 | 1989年7月1日~23日 | グレッグ・レモン (ADR) | 21 | 3,285km | 37.487km/h |
77 | 1990年6月30日~7月22日 | グレッグ・レモン (Z) | 21 | 3,286km | 38.621km/h |
78 | 1991年7月6日~28日 | ミゲル・インドゥライン (バネスト) | 22 | 3,914km | 38.747km/h |
79 | 1992年7月4日~26日 | ミゲル・インドゥライン (バネスト) | 21 | 3,983km | 39.504km/h |
80 | 1993年7月2日~25日 | ミゲル・インドゥライン (バネスト) | 20 | 3,714km | 38.709km/h |
81 | 1994年7月2日~24日 | ミゲル・インドゥライン (バネスト) | 21 | 3,978km | 38.381km/h |
82 | 1995年7月1日~23日 | ミゲル・インドゥライン (バネスト) | 20 | 3,635km | 39.191km/h |
83 | 1996年6月29日~7月21日 | ビャルヌ・リース (ドイツテレコム) | 21 | 3,765km | 39.235km/h |
84 | 1997年7月5日~27日 | ヤン・ウルリッヒ (ドイツテレコム) | 21 | 3,950km | 39.237km/h |
85 | 1998年7月11日~8月2日 | マルコ・パンターニ (メルカトーネ・ウノ) | 21 | 3,875km | 39.983km/h |
86 | 1999年7月3日~25日 | ランス・アームストロング (USポスタル・サービス) | 20 | 3,687km | 40.276km/h |
87 | 2000年7月1日~23日 | ランス・アームストロング (USポスタル・サービス) | 21 | 3,662km | 39.545km/h |
88 | 2001年7月7日~29日 | ランス・アームストロング (USポスタル・サービス) | 20 | 3,453km | 40.070km/h |
89 | 2002年7月6日~28日 | ランス・アームストロング (USポスタル・サービス) | 20 | 3,276km | 39.909km/h |
90 | 2003年7月5日~27日 | ランス・アームストロング (USポスタル・サービス) | 20 | 3,426km | 40.956km/h |
91 | 2004年7月3日~25日 | ランス・アームストロング (USポスタル・サービス) | 20 | 3,391km | 40.563km/h |
92 | 2005年7月2日~24日 | ランス・アームストロング (ディスカバリーチャンネル) | 21 | 3,608km | 41.654km/h |
93 | 2006年7月1日~23日 | オスカル・ペレイロ[3] (ケス・デパーニュ) | 21 | 3,654km | 40.784km/h |
94 | 2007年7月1日~23日 | アルベルト・コンタドール (ディスカバリーチャンネル) | 20 | 3,554km | 39.226km/h |
国別優勝回数
2007年まで国籍別ではフランスが36勝、次いでベルギーが18勝、スペインとアメリカ合衆国が10勝、イタリアが9勝、ルクセンブルグが4勝、スイスとオランダがそれぞれ2勝、アイルランドとデンマークとドイツが各1勝となっている。
5勝クラブ
ツールで総合優勝を5回達成した選手達を俗に「5勝クラブ」と呼んでいる。「5勝クラブ」に名を連ねている5人はいずれも歴史に残る名選手である。2005年ツールにてランス・アームストロングは史上初の7回の総合優勝を達成した。
- ジャック・アンクティル(フランス)
- 優勝年・・・1957年、1961年、1962年、1963年、1964年
- タイムトライアルのスペシャリストである。1957年にツール初出場にも関わらず、圧倒的な強さで初優勝を飾った。その後、肺炎等のため勝利から見放されていたが、1961年にカムバックを遂げ、勝利を重ねた。1964年のツールでは消化不良に苦しんだが(ピレネーの休養日に振舞われた羊料理のためとされる)、それを隠し通し、ライバルの追撃を振り切り5度目の栄冠を掴んでいる。
- エディ・メルクス(ベルギー)
- 優勝年・・・1969年、1970年、1971年、1972年、1974年
- ツール5勝に加え、ジロ・デ・イタリアでも5勝、世界チャンピオンにも3度なっている。トータル525勝、勝率28.12%は、史上最も偉大な選手としてふさわしい記録である。初優勝の1969年の際にはポイント賞、山岳賞も併せて受賞し、主要3部門独占を果たしている。この記録を達成した選手は今もなお、メルクスただ一人だけある。クラシックレースでの強さも圧倒的で、勝利に対するあまりの貪欲さから「食人鬼」の異名をとった。
- ベルナール・イノー(フランス)
- 優勝年・・・1978年、1979年、1981年、1982年、1985年
- ジャック・アンクティルに次いで、ツール初出場で初優勝を勝ち取っている。1985年のツールでは山岳ステージの落車で鼻を痛め、呼吸が困難になるアクシデントに見舞われた。このときチームメートのグレッグ・レモンに優勝のチャンスが舞い込んだが、来年は自分がレモンのアシストに徹することを条件に優勝を譲らせたという逸話が残っている。しかし翌年、6勝目をあげるべくレモンに立ちはだかったため、2人の間に確執が生じることとなった。結局この年はレモンが総合優勝をしている。イノーはかねてからの公言通り、1986年に32歳の若さで引退している。「ブルターニュの穴熊」の異名をとった。
- ミゲル・インドゥライン(スペイン)
- 優勝年・・・1991年、1992年、1993年、1994年、1995年
- ツール史上初の5年連続優勝を達成した。80kgを超す巨体ながら山岳ステージや特に個人タイムトライアルで絶対的な強さを発揮した。92年、93年にはジロ・デ・イタリアとツールを両方勝つという「ダブルツール」を達成している。2年連続のダブルツールを達成したのは彼一人である。圧倒的な強さに加え、どの選手からも尊敬され愛される穏やかな人柄から「ロワ・ソレイユ(太陽王)」とまで呼ばれた。
- ランス・アームストロング(アメリカ)
- 優勝年・・・1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年
- 1996年に睾丸ガンに冒されたが奇跡のカムバックを果たし、初の7連続優勝を達成した。高ケイデンス(回転数)の独特の走法で山岳およびタイムトライアルに圧倒的強さを示す。2005年限りで引退。ツールにおける彼の圧倒的な強さの背景にはツール・ド・フランス以外のレースを全て捨ててツールを勝つことのみに特化した調整を行っていたという事情もあり、競技生活全体を見ると彼の実績が「5勝クラブ」の中でも突出しているというわけではない。
ツールをめぐる問題
ドーピング問題
1998年にチームフェスティナの車から禁止薬物が発見されたことに端を発し、逮捕者8人を出す一大スキャンダルに発展、第6ステージ終了後、チームフェスティナはツールから除名された。さらにツールに国家憲兵隊が介入したことに抗議して、第17ステージを選手全員がボイコット。次の第18ステージではスペインから参加した全チーム、およびイタリアから参加した1チームが棄権する事態となってしまった。
2006年にはオペラシオン・プエルトの余波を受けてヤン・ウルリッヒやイヴァン・バッソ、アレクサンドル・ヴィノクロフなどの優勝候補が軒並み出場停止となったほか、総合優勝したフロイド・ランディスも後にドーピング違反により、タイトルの剥奪が決定した。
2007年にもドーピング問題は再び猛威を振るい、優勝の大本命とされていたアレクサンドル・ヴィノクロフが第15ステージ終了後にドーピング検査で陽性反応が出たことで棄権。さらに第16ステージ終了後にコフィディスのクリスティアン・モレーニがドーピング疑惑で連行されたうえ、総合優勝をほぼ確実にしていたラボバンクのミカエル・ラスムッセンも検査に際して虚偽の居場所を報告したことでドーピング疑惑をかけられて棄権。この影響でアスタナ・チーム、コフィディスはチーム全体が棄権することになった。
UCIとの確執
主催者であるASOとUCIとの間でツールの管理に関して確執が起こっており、2008年からはUCIプロツアーからツールをはじめ、ASOの主催するレースが離脱することになった。
そのほか
ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアを同一人物が同年に優勝することを指して「ダブルツール」と呼び、加えて世界選手権自転車競技大会を制すると「トリプルクラウン」と呼び、「カンピオニッシモ(伊:championissimo、「チャンピオン」の最上級)」として讃えられる。
日本人選手
日本でのテレビ放送
現在日本での放送はスポーツ専門チャンネル「J SPORTS」で全戦生中継されている。
1985年から1991年にかけてはNHKが放映権を持ち、主にBS1で中継を行っていた他、地上波でも数回「世界最大の自転車レース」と題して単発特番を放送していた事もある(現在この間の放送をDVD化したものがNHKエンタープライズから発売されている[4])。
1992年にフジテレビが放映権を取得し、同系列で「英雄たちの夏物語」というダイジェスト番組を2~3回にわたり放送していた。またJ SPORTSが生中継を始める前は、フジテレビが衛星録画、山岳ステージの衛星中継を独占で行なっていた。
1998年には当時の「SKY Sports」(J SPORTSの前身)がフジテレビからサブライセンスを受ける形で生中継を開始(その関係から、青嶋達也などフジテレビのアナウンサーが実況を担当することが多かった)。2005年よりフジテレビが放送権を放棄し、代わってJ SPORTSが5年間の独占放送の権利を取得した。
なおJ SPORTSの生中継では中継が非常に長時間(最大で7時間強)に及ぶことから、放送中に実況・解説者に補給食(レース中に選手が補給食を受け取るための袋にちなんで「サコッシュ」と呼ばれている)が配られそれを食べながら放送を行うという、他のスポーツ中継にはない特色がある。2007年にはJ SPORTSの携帯サイトにおいて、視聴者が中継を見ながら食べているものを写メールで送ってもらう「今日のサコッシュ」というコーナーが展開されるなど、ツール中継における名物となっている。また、2000年から2004年まで開催期間中に非公式裏ツールとサイトが公式サイト内に設置され、視聴者からの質問等をフォローしていた。川柳の投稿や放送内に行われるプレゼントクイズへの珍回答などを題材に毒舌の担当者の独断と偏見でプレゼントが贈られるなどファンには人気があったが、いまは終了している。
スポーツ番組とは関係がないが、ドラマ『僕の歩く道』では、主人公の大竹輝明が自閉症の症状でこのレースの歴代優勝者を落ち着かなくなったときにつぶやくというシーンがある。
脚注
- ↑ 2008年の場合は平坦10ステージ、山岳5ステージ、中級山岳4ステージ、個人タイムトライアル2ステージという構成。
- ↑ 実際にマルコ・パンターニは1994年・1995年の2回、ヤン・ウルリッヒは1996年から1998年まで連続3回獲得している。
- ↑ 全レース終了後に行われたドーピング検査において総合1位となったフロイド・ランディスの体内から多数の禁止薬物が検出された。これを受け、ランディスの総合優勝は保留とされ、その後公聴会などの調査が続けられた。1年以上に亘る調査の結果、2007年9月20日に「アメリカ合衆国反ドーピング機関」(USADA)が後日ランディスの総合1位記録を取り消し、失格とする告知を出したことからオスカル・ペレイロの繰り上げ優勝はこの時点で決定的となった。21日には、UCIが正式にランディスの失格とペレイロの優勝を認定し優勝が決定。そして同年10月15日に総合ディレクターのクリスティアン・プリュドムより優勝ジャージ(マイヨ・ジョーヌ)が授与された。
- ↑ ツール・ド・フランス 1985~1991 7YEARS BOX 【NHKエンタープライズ】
外部リンク
- 公式サイト(フランス語)
- cycle road race(J SPORTS)
- ツール・ド・フランス速報
- TdF Quiz
- Video of the Tour de France 2006 final stage on the Champs-Elysees
- フジテレビ(2004年版)
- ツール・ド・フランス動画集
- 歴史等紹介ページ(フランス語)
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