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2012年7月31日 (火) 18:35時点における版
日本のボクシング(にほんのボクシング)の本格的な始まりは、渡辺勇次郎が「日本拳闘倶楽部」を開設した1921年とされるが、この競技が最初に伝わったのは英国でクイーンズベリー・ルールが制定される以前の1854年であった[1]。この項目では、日本のボクシングの歴史を概説するが、アマチュアボクシングの史料が少ないため、やむをえずプロボクシング主体の記述になっている。
通史
黎明以前
1854年2月(嘉永7年1月)のマシュー・ペリーの2度目の日本来航を記録した1956年の『ペリー日本遠征記』に、同年2月26日に横浜で行われたペリー艦隊の水兵であるアメリカ人ボクサー1名、レスラー2名と相撲の大関・小柳常吉による3対1の他流試合の様子が記述されている[2]。これが日本におけるボクシングに関する最古の記録となっており、この時、日本に始めてボクシングが紹介された(同じく1854年に田崎草雲とボクシング技術を使うアメリカ人水兵の喧嘩の記録が残されているが、あくまで試合ではなく喧嘩である)。この他、1879年(明治12年)に天覧相撲で鞆ノ平武右衛門に欧米人ボクサーが挑戦した記録もある。これらの他流試合が明治後期から第二次世界大戦後(以下、戦後)にかけて流行した外国人ボクサー(そのほとんどが力自慢の水兵)と柔道家による他流試合興行「柔拳試合」を生み、また、ボクシング技術を学ぶ者を増やしていった。柔拳試合に興味を持った嘉納治五郎の甥の嘉納健治は、1909年(明治42年)に神戸市の自宅に「国際柔拳倶楽部」を設立、日本に立ち寄る外国人船員からボクシングの技術を学んだ。この国際柔拳倶楽部がのちに日本選手権大会を開催する「大日本拳闘会」(大日拳)となる。
これより以前、1887年(明治20年)5月には、プロレスラーになるため3年間渡米していた元力士の浜田庄吉がボクシング技術を習得し、18人のボクサーとレスラーを伴って帰国。見世物として全国を回った。事実上、この浜田が日本最初のボクサーであった。また、「西洋大角力」と銘打ったこの見世物は、内容的には柔拳試合のような他流試合や事前に打ち合わせをしてある試合ばかりで、日本最初のプロレス興行とされているが、ボクシングの試合も行われており、日本最初のボクシング興行とも言える。1896年(明治29年)には、米国帰りの元柔道家・齋藤虎之助が、友人のジェームス北條とともに横浜市に日本最初のボクシングジムである「メリケン練習場」を開設。しかしこれは入門者が定着せず間もなく閉鎖されている。
また、大正期に流行したアメリカ映画や新聞記事などでボクシングが紹介されており、一般庶民にも西洋にはボクシングというスポーツがあるという認識が広まっていった。
黎明期
1920年代
1921年(大正10年)1月、サンフランシスコでプロボクサーとして活躍していた渡辺勇次郎が帰国し、「ボクシングは体育、精神力、国際親善、外貨獲得」に欠かせない国際競技として[3]、同年12月25日に東京・目黒区に「日本拳闘倶楽部」(日倶)を開設。これが日本の本格的なボクシング競技の幕開けとされる。日倶は本格的ボクシングジムとして多くのボクサーを育成。練習生の中から後の帝国拳闘会(帝拳)創設者・荻野貞行など日本ボクシング繁栄の礎となった人物や拳聖・ピストン堀口などのスター選手を輩出している。また、1922年(大正11年)5月7日には靖国神社境内の相撲場にて「日米拳闘大試合」を主催。以後、翌年の関東大震災まで継続的に開催し、それまで見世物でしかなかったボクシング興行を本格的なスポーツとして定着させた。
1923年(大正12年)2月23日、日倶の師範代であった臼田金太郎が、日倶後援のもと東京・上野の輪王寺の境内で学生拳闘試合を開催した。これが日本初のアマチュアボクシングの試合である。1924年(大正13年)4月26日、東京の日比谷公園音楽堂で日倶主催による初のタイトルマッチとして第1回日本軽体重級拳闘選手権試合が開催され、日本王者が誕生した。1925年(大正14年)には複数の大学に「拳闘部」が創設されると、靖国神社境内の相撲場にて第1回学生選手権が開催された。この大会の成功を受けて、同年5月、渡辺勇次郎を理事長として「全日本アマチュア拳闘連盟」が発足、11月に連盟主催による第1回アマチュア選手権が開催された。1927年6月5日、大日拳主催の第1回日本選手権大会が開催され、11月3日にはボクシング競技が第4回明治神宮大会に参加した。
1928年のアムステルダムオリンピックにはウェルター級の臼田金太郎とバンタム級の岡本不二が出場した[4]。監督は渡辺勇次郎で、臼田はベスト8に進出した[5][6]。
1930年代
その後、日倶がプロ活動に専念するようになり、1931年2月11日に全日本プロフェッショナル拳闘協会が発足したが、翌年には日倶、帝国拳闘会、国際拳闘倶楽部のグループと、大日拳、東京拳闘協会、極東、日米拳のグループの2派に分裂し、全日本アマチュア拳闘連盟のような結束力はなかった[4][5]。しかし同年7月、拳闘ファンは急増。スター選手の月収は1,000円以上(教員の初任給が15円、米10キロ1円20銭、ざるそば4銭)で、帝国・大日本・日本・東洋など拳闘クラブ(ボクシングジム)も10を超え、税務署が財源として目をつけるほどであった[7]。
1933年4月に読売新聞による日仏対抗戦の開催が決まると国内のジムは全日本拳闘連盟として再び結束した[5]。フランス側の捉え方は親善エキシビションのようなものであったが[8]、同月からの日本代表決定トーナメントでは[4]、それまで関東と関西に分かれていた日倶、帝拳、大日拳から出場した選手が新人・ベテランの区別なく勝ち抜きトーナメントを行い[6]、事実上の初代日本王座決定戦と呼べるものとなり[4][5]、フライ級で花田陽一郎、バンタム級で大津正一、フェザー級でピストン堀口、ライト級で鈴木幸太郎、ウェルター級で名取芳夫の5人が王者と認定されている[5]。プロ転向後4試合を戦ったのみでまだ早稲田大学の学生であったピストン堀口は準決勝で帝拳荻野道場のテクニシャン橋本淑を破り、決勝ではKOアーチストと呼ばれたベテラン中村金雄を破り[6]、フェザー級で優勝[4]。日仏対抗戦のためにエミール・プラドネルら3人のフランス人選手が来日する頃、ボクシングブームは絶頂期を迎えていた[5][6]。7月3日に行われたプラドネルと堀口の8回戦は、早稲田戸塚球場に詰めかけた30,000人の観衆の前で引き分けとなり[6]、堀口は日本プロボクシング界のニューヒーローとなった[5][8]。
1934年11月には全日本拳闘連盟と東京日日新聞の共催で、第1回全日本選手権決定戦が行われた。それまではアマチュアとプロの区別がはっきりせず、認定団体も単独であったり複数であったりとまちまちであったため、全日本の名の下に全選手が参加した初の大会であった。徐廷権が、「エバーラスト拳闘年鑑」で世界バンタム級6位になると連盟は初の東洋選手権を東京で開催し、ライト級の佐藤利一とウェルター級の名取芳夫が東洋王者に認定された[5]。
昭和初期に日本のボクサーはハワイ、カリフォルニア、上海、フィリピンなどへ盛んに遠征した[8]。その中には米国に長期滞在してサンフランシスコやハリウッドなどで戦い、戦前日本人で唯一の世界ランカーとなった徐廷権の他、中村金雄[6]、ハワイで東洋タイトルを奪取した堀口、米国西海岸で強豪とばかり対戦した玄海男らがいる。堀口が連勝記録を47で止められた1937年1月27日の東洋フェザー級タイトルマッチや、玄が堀口を下した1939年5月29日の両選手のリマッチ、堀口が笹崎僙の挑戦を退けた1941年5月28日の一戦は社会的な注目度、訴求力で後の世界タイトルマッチ以上の存在感をボクシング史上に残している[8]。この頃は熊谷二郎やライオン野口らも活躍していた[6]。
1940年代
しかし第二次世界大戦によって、プロデビューしたばかりの白井義男を含む多くの日本人ボクサーが出征。1943年から興行を統轄していた大日本拳闘協会は1944年3月11日に同月28日をもってすべての興行を中止する声明を発表して解散した。1945年には世界タイトルマッチは2試合行われただけであった[8]。
世界王者の誕生
戦後のボクシングは東京・新橋駅付近の焼け跡で中村正美が会長を務める国民拳闘倶楽部が開いた青空道場から始まり[9]、進駐米軍の慰問や在日朝鮮人連盟が主催する興行を中心に活気づいていった[10]。戦後初の試合は1945年12月に西宮で行われ、続いて東京でも試合が行われた[5]。『ボクシング・ガゼット』編集長の郡司信夫の提案に乗った「銀座グリル」経営者の長井金太郎が社長となり[9]、1946年6月にはプロモーション会社の日本拳闘株式会社(日拳)が創設され[10][9]、翌月には東京・銀座木挽町にあった築地東宝劇場を改装し、練習場・試合場を兼ねた日拳ホールが開設された[9]。また同年7月8日には日本拳闘協会が発足。1947年8月には全日本選手権も再開され、6人が王者となっている[10]。
コミッションがなかった時代、試合は主に草試合と呼ばれるドサ回りの興行で行われた。十数人で一座を組んで自ら運んだキャンバスで仮設リングを作ると、もぎりやレフェリー、タイムキーパーなどを選手たちが交代で務め、昼夜2興行を4日続けるようなことをしていた。空腹のあまり真剣に打ち合えなければパンチが当たらなくても意図的に倒れることがあった。しかし中には故意にではなく、試合中に疲労と空腹のあまり気を失って倒れるボクサーもいた[9]。
1950年代
進駐軍の生物化学者アルビン・R・カーンのマネジメントや援助を受けて米国式トレーニングを積んだ白井義男は、花田陽一郎、堀口宏を下して日本王座の2階級制覇を成し遂げる。白井がダド・マリノとの2度の対戦を経て世界フライ級1位にランクされると[10]、世界戦実現に不可欠なコミッショナー制度の確立が急務となり、当時は本田明が理事長を務めていた全日本ボクシング協会が協議を重ねた結果、初代コミッショナーには後楽園スタヂアム(後の東京ドーム)社長の田邊宗英、コミッショナー諮問委員には真鍋八千代、喜多壮一郎の2名が選出された。1952年4月21日に東京会館でJBC(日本ボクシングコミッション)の設立を発表。事務局長には新聞社で編集局長を務めていた菊池弘泰が就任し、試合経過などを掲載した『ボクシング広報』を発行した他、インスペクターには戦前は中村屋群造の名でボクサーとして活躍した丸屋群造が起用された[11][12]。JBCの設立と同時に、それまでコミッションと協会を兼務してきた全日本ボクシング協会はいったん解散した。白井は1952年5月19日、後楽園球場で45,000人の観衆を前にマリノを下して日本初の世界王者となった[10]。
1954年1月7日、JBCは当時の世界王座統括団体NBA(全米ボクシング協会、後の世界ボクシング協会)に正式加盟。事務局は東京都港区の他、名古屋、大阪、福岡に設置された。またJBCは1954年4月に米国のボクシング専門誌『リング』の編集長ナット・フライシャーを招待。フライシャーの目に留まった金子繁治は同誌ランキングの10位に入った。同年10月27日には田辺の呼びかけで日本、フィリピン、タイの3か国によりOBF(東洋ボクシング連盟、後のOPBF=東洋太平洋ボクシング連盟)が発足した[12]。
昭和30年代初め、東京での試合は戦前から焼け残った浅草公会堂、下谷公会堂、王子デパート特設リングなどで行われていた。粗末なリングは軋んで揺れ、場内には煙草の煙が立ち込めていた。日本は国際ボクシングビジネスの実績がなく、日本銀行には他国の世界王者に支払える十分な外貨の蓄積がなかった[9]。白井以後、金子繁治、三迫仁志は世界ランカーとなったが世界王座挑戦の機会を得られず[13]、秋山政司は日本ライト級王座を19度防衛しながら、その業績に見合うような報酬を得られなかった[9]。最も存在感を示した矢尾板貞雄が1959年11月5日にパスカル・ペレスに挑戦した世界タイトルマッチは、非公式でテレビ視聴率92.3%を記録したが、王座奪取はならなかった[13]。この頃は、矢尾板に次いで三迫を下した木村七郎やメルボルンオリンピック代表からプロへ転向した米倉健司らも活躍した[9]。
1960年代
アマチュアでは1960年、ローマオリンピックのフライ級で田辺清が日本ボクシング初となる銅メダルを獲得した[13][14]。しかし、決勝進出を妨げたのは不運な判定であった[14]。
1960年の新人王戦のフライ級には、原田政彦(のちのファイティング原田)、海老原博幸、青木勝利の3人が登場し、「フライ級三羽烏」として知られるようになる[9][15]。原田と海老原で争われたこの年の東日本新人王決定戦フライ級決勝についてスポーツライターで作家の佐瀬稔は、両者はこの時点で天才的なテクニシャンであり、彼らの見せた攻防の技術、的確なパンチ、優れた戦術、敗北を恐れない勇気は、日本で行われた全公式試合を通じても滅多に見られないものとして、1993年に新人王戦におけるベストバウトと回顧している。3人は後に努力型のラッシャー原田、スマートなカミソリパンチャー海老原、天才肌のメガトンパンチャー青木とそれぞれの個性を発揮していった[9]。
プロボクシング黄金時代
1962年10月10日には、新人王の実績しかなかったファイティング原田が突如引退した矢尾板の代理挑戦でKO勝利を収め、7年10か月ぶりに日本に世界王座をもたらし、プロ野球のON砲、大相撲の大鵬らと並ぶヒーローとなった。この年、全日本ボクシング協会が改めて発足され、NBAはWBA(世界ボクシング協会)に改称した[13]。
1960年代前半、日本にはかつてないボクシング・ブームが起こり、元旦から試合が行われ、テレビでは週に10本以上のプロボクシング中継があった。高度経済成長のおかげで1962年3月にはテレビ受像機の普及台数が1,000万台を超え、新たなスターが育ちつつあったプロボクシングは視聴者とテレビ局とスポンサーの需要を満たしていた。関光徳や、原田、海老原、青木の元祖三羽烏、小坂照男、小林弘に加え、アマチュアからは川上林成、高橋美徳らがプロに転向した。TBSが極東ジムと提携して募集した「ボクシング教室」には7,000人が殺到し、沼田義明や石山六郎を輩出した。平均視聴率が30%に達するレギュラー番組もあったが、やがて視聴者やテレビ局が野球、大相撲、ボクシング以外にも放送に適した競技があることに気づくと、各局のボクシング中継はそれぞれ週に1本程度となった。しかし、同時期の米国と較べると会場の集客数が激減するような損失はなかった[16]。
原田が王座を失った約8か月後の1963年9月18日、海老原が世界王者となるが、前王者との再戦で王座を失う。しかしこの間にカルロス・オルティス、エデル・ジョフレ、エディ・パーキンス、シュガー・ラモス、フラッシュ・エロルデらの世界王者が防衛戦のために来日し、日本人挑戦者はことごとく敗れたものの、彼らの試合を観ることで日本のボクシングは向上していった[16]。
アマチュアでは1964年、桜井孝雄がボクシング競技で日本初となる金メダルを獲得。この頃には日本は世界有数のボクシング市場となっていた[16]。
1965年5月18日、世界王者不在の時期を終わらせた原田は、同時に世界王座の2階級制覇を達成。限られた階級しかなかった当時、日本人として初であり、原田以前に2階級以上を制した王者は全階級を通じて世界に12人しかいなかった[16]。原田が4度の防衛をする間、強打の藤猛、技巧派の沼田義明が世界王者となり[17]、高山勝義、田辺清はいずれもノンタイトルで現役世界王者に勝利した[18]。しかし田辺は世界タイトルマッチを目前に網膜剥離で引退を余儀なくさせられた[14]。
1967年には王者・沼田と挑戦者・小林弘の間で初の日本人同士による世界タイトルマッチが行われた。試合は赤穂浪士討ち入りの12月14日に設定され、精密機械・沼田、雑草・小林と対照的な両者が舌戦を展開した。前半は沼田がジャブで攻勢をとるが、6回に小林の右クロスを受け、ダウンを喫すると形勢は逆転し、12回に再び右クロスで小林がKO勝利を収めた[19]。この試合は日本の年間最高試合に選ばれている[18]。1968年9月27日に西城正三がロサンゼルスで世界王者を下し、日本初の海外奪取を達成すると、1960年代後半から1970年代にかけての海外遠征ブームは加速していった[20][18]。
1970年代
1970年12月11日から1971年7月28日までの時期は、小林弘、西城正三、沼田義明、メキシコで西城に続く2人目の海外世界王座奪取を成功させた柴田国明、大場政夫の5人が同時にプロボクシングの世界王座を保持し、フェザー級とジュニアライト級ではWBA・WBCの両団体世界王座を日本が独占していた[21]。1970年末、11階級に15人いた世界王者の国別分布は、日本が5名、米国が3名、アルゼンチンとイタリアが各2名、フィリピン、メキシコ、英国が各1名であった[22]。一階級違いの現役王者同士であった小林と西城は、1970年12月3日にノンタイトルマッチで対戦し、僅差で小林が勝利。この時期は「日本ボクシングの黄金時代」と呼ばれた。1971年夏から秋にかけて、小林、西城、沼田が次々と王座を失うが、10月には輪島功一が新たに世界王者となり、ルーベン・オリバレスに挑戦した金沢和良が名勝負を演じて日本の年間最高試合に選ばれ、王座流出の雪崩現象とは別に黄金時代は続いた[21]。
ラテンアメリカの台頭と日本
1970年代に入ると当たり前のように年間10試合以上の世界戦が行われるようになるが[23]、1972年初めから小林、西城、沼田が相次いで引退するとボクシング人気に陰りが見え始める。協栄ボクシングジムの会長・金平正紀は西城をキックボクシングに転向させ、類似競技との兼業を禁じた業界の内部規定違反として全日本ボクシング協会を除名された。金平は4月にモハメド・アリの試合に不明瞭な形で関与したと疑われると、6月には有志とともに別の協会を設立し、業界は分裂した[21]。1973年3月には柴田がハワイで世界王者を下し、原田に次ぐ2人目の2階級制覇を達成[24]。1973年9月にはジョージ・フォアマンとジョー・キング・ローマンによる日本初の世界ヘビー級タイトルマッチが行われた[25]。
日本ボクシングの黄金時代の5人の世界王者のうち、4人はラテンアメリカのボクサーに王座を奪われていた。1970年代にはラテンアメリカがボクシングの黄金時代を迎え[26][24]、1975年末に12階級に22人いた世界王者の地域別分布はラテンアメリカが13名、アジアが5名、欧州が2名、アフリカと米国が各1名であった。この時期、ミゲル・カント、アレクシス・アルゲリョ、ウィルフレド・ゴメス、アントニオ・セルバンテスらのラテンアメリカの世界王者が来日し、ホームで挑戦する日本人ボクサーたちを退けていった。また、日本以外でもロベルト・デュラン、カルロス・サラテらが日本人相手に世界王座を防衛している。ラテンアメリカ勢はやがてWBA・WBCの統括団体に支配的な力を持つようになり、統括団体乱立と王座の増殖を引き起こすことになる[24]。
この間、ガッツ石松、小熊正二(後の大熊正二)、花形進らが世界王者となるが、1976年5月に輪島が王座を失うと日本は現役世界王者不在の時代を迎える。1976年10月9日にロイヤル小林が世界王者となるが、この王座は45日で失われ、小林に1日遅れて世界王者となった具志堅用高が日本最多となる13度の連続防衛を重ね、一時代を築くことになった。1977年には分裂していた協会が統一された。具志堅が5度の防衛を成功させていた頃、各階級で世界王座に挑戦した選手はことごとく退けられ、1978年8月に工藤政志が王者となるまで16連敗を記録していた[21]。
1980年代
1980年1月に中島成雄が王者となると日本はWBA・WBC両団体のジュニアフライ級の世界王座を独占した。この年には大熊がソウルで、上原がデトロイトで、いずれもKO勝利で世界王座を奪取[21]。この頃には再び米国がボクシング界を牽引しつつあった[23][26]。シュガー・レイ・レナードやトーマス・ハーンズ、マービン・ハグラーらに、ラテンアメリカ黄金時代の中心的な役割を果たしたロベルト・デュランが加わって熱戦を展開し、彼らの試合は新たな形態としてペイ・パー・ビューで放送され、その報酬は高騰し、プロモーターは桁違いの収入を得るようになっていた[23]。
冬の時代と新鋭たち
1981年に具志堅、上原、大熊が3か月の間に王座を失うと日本は再び世界王者不在の時期を迎えた。同年11月に三原正が米国での王座決定戦で世界王者となり、12月には渡嘉敷勝男が世界王座を獲得するが、渡嘉敷の初防衛戦を前に、彼の所属する協栄ジムの会長・金平正紀が具志堅の対戦相手に薬物を投与していたとされる騒動が起こり、その評価は貶められることになった。1982年4月に世界王者となった渡辺二郎は、1985年12月には韓国で日本人初となる海外防衛に成功した[27]。
1980年代には友利正、小林光二、新垣諭(新垣は日本未公認のIBF王座)、浜田剛史、六車卓也、井岡弘樹らが世界王者となったが[21]、アジアでプロボクシングをリードするのは経済成長を遂げて1988年のソウルオリンピックを控えた韓国に移っていた[27]。日本開催の世界戦は1983年には10試合(IBFの王座戦は除く)行われていたが、1984年は5試合、1985年は渡辺の防衛戦のみで1961年以来となる2試合しか行われず、1986年も4試合のみだった。1985年11月にはJBCが義務付けた頭部CTスキャン検査の結果、8名が不適格と診断され、引退を余儀なくされている[28]。1987年末のアジア圏では、世界王者が韓国3名、タイ2名、日本1名(井岡)で、OPBF王者は韓国7名 (±0)、タイ2名 (-2)、日本2名 (+2)、フィリピン1名 (±0)、インドネシア1名 (±0) であった(括弧内は前年との差)。ただし、韓国では国内王座、東洋太平洋王座を経て世界王座に挑戦する傾向が比較的保たれ、日本やタイでは東洋太平洋王座を通り越して世界王座に挑戦する傾向が強まっていることを『リング』誌東洋地区リポーターのジョー小泉は指摘している[29]。
1988年に開催された年間興行数は前年度の104から132に増えた。地域別では関東・東北82 (+3)、関西31 (+15)、中部9 (+6)、西部10 (+4) で、渡辺、六車、井岡らの世界王者に加え、赤井英和、串木野純也らのスター選手を擁して人気が定着しつつあった関西では大幅な増加が見られた(括弧内は前年との差)[30]。1988年に開催されたタイトルマッチは世界王座戦が11試合 (+7)、東洋太平洋王座戦が6試合 (+2)、日本王座戦48試合 (+3) といずれも増加している[31]。WBA・WBCが承認した77の世界戦の開催地は米国29試合、韓国13試合、日本12試合、イタリア8試合、オーストラリア3試合、タイ2試合、メキシコ1試合で、タイには4人、メキシコには6人の世界王者が存在していた[26]。
1988年3月21日にはマイク・タイソン対トニー・タッブス戦が行われ、会場の東京ドームには日本ボクシング史上最多記録となる51,000人の観衆が集まった[31][32][21]。タイソンは試合より1か月以上も前の2月17日に日本に到着し、マスメディアは大騒ぎとなった[31]。
しかし、1988年11月13日に井岡が王座を失うと再び現役王者は不在となった。王者不在のまま新年を迎えたのは1964年以来で、年間最優秀選手が該当者なしという結果になったのは1961年以来のことであった[30]。日本のプロボクシングはかつてないスランプを迎え[30]、この1980年代は「冬の時代」と呼ばれた[33][27]。競技人気低迷に危機感をもった全日本ボクシング協会は、1990年1月に世界挑戦資格に「指名試合をクリアした日本王者」との条件を加えている。
新しいヒーローたち
1990年代
1988年11月13日に井岡が王座を失ってから1990年2月6日まで1年3か月にわたって日本の世界王者は誕生せず、バブル期にあった日本の経済力を背景に世界戦が濫発されたが、挑戦者は次々に敗退し、ウィルフレド・バスケス 対 六車戦の引き分けを皮切りに世界挑戦21連続失敗という記録を作る結果となった。しかし、金容江 対 レパード玉熊戦、カオサイ・ギャラクシー 対 松村謙二戦、ファン・マルチン・コッジ 対 平仲伸章(後の平仲明信)戦などの激戦があり、1988年の新人王戦に登場した鬼塚勝也、ピューマ渡久地、ウェルター級やジュニアミドル級で国内選手を圧倒した吉野弘幸、上山仁、デビューしたばかりの辰𠮷𠀋一郎らの次世代が育ちつつあったこと、さらに大橋秀行と高橋ナオトの存在で見通しは明るくなっていった。高橋はマーク堀越戦で2度目の日本の年間最高試合賞を受けるが、堀越戦や続くノリー・ジョッキージム戦の逆転劇で高橋がダメージを蓄積させていく一方で、大橋は1990年2月7日に3度目の挑戦で階級を下げて熱狂的な勝利で世界王者となり、日本ボクシング再興のきっかけをつくった[34]。この4日後に東京ドームで行われたマイク・タイソン対ジェームス・ダグラス戦のアンダーカードでは高橋がジョッキージムとの再戦に負け、辰𠮷がプロ2戦目でKO勝利を収めていた[35]。
続いて、世界挑戦失敗経験のあるレパード玉熊、畑中清詞が再挑戦で王座を獲得したが、いずれも王座を長く保持することなく、入れ替わりに台頭してきたのが辰𠮷、鬼塚、ピューマ渡久地の「平成三羽烏」[34](1987年には川島郭志がインターハイのフライ級で鬼塚、渡久地をそれぞれ準決勝、決勝で破って優勝し、この3人が「高校フライ級三羽烏」と呼ばれていた[36][15])と、1990年に協栄ジムが輸入ボクサーとして招き入れたユーリ・アルバチャコフ(後の勇利・アルバチャコフ)、グッシー・ナザロフ(後のオルズベック・ナザロフ)、スラフ・ヤノフスキー(日本での活動以外はビアチェスラフ・ヤノフスキー)ら5人のロシア人であった。辰𠮷がプロ8戦目で王者のギブアップを招き世界王者になると[34]、井岡が大番狂わせの判定勝利で日本人3人目となる世界王座の2階級制覇を達成[35]、平仲はメキシコでの初回KO勝利で世界王座奪取、前後して鬼塚・ユーリ海老原も世界王者となり、この時点で日本プロボクシング界は史上タイ記録となる5人の世界王者を擁することになった[34]。この5人王者時代は長く続かなかったが[37]、辰𠮷のカリスマ性はかつての黄金時代を超える熱狂を世界戦のすべてで引き起こした[35]。
1993年にオルズベック・ナザロフ、薬師寺保栄、1994年に川島郭志が世界王座を獲得すると再び日本は5人の世界王者を抱えるが、このうち2人は輸入ボクサーであった。1994年12月4日には正規王者・薬師寺と暫定王者・辰𠮷の王座統一戦がかつてない社会的関心度と経済規模で行われ、勝者のみならず敗者もまた、その人気を高めることになり、プロボクシング界に計り知れない効果をもたらした。1995年には竹原慎二が日本初のミドル級世界王者に、翌年には山口圭司も世界王者になった。1997年には辰𠮷が王座に復帰、飯田覚士が世界王者となった[37]。
1998年には畑山隆則がコウジ有沢の日本王座に挑戦。畑山は1年以上も前から「向こうが受けてくれるというなら、俺がテレビ局を説得してもいい」と言って有沢と対戦したい意向を示していたが、畑山がTBSの「ガッツファイティング」、有沢はフジテレビの「ダイヤモンドグローブ」の看板選手であったため、実現の見込みは薄いとされていた。しかし、両陣営はたとえノーテレビでも挙行すると決めて交渉を続け、合意に至った後で放映の折衝をプロモーターに依頼することで実現を成功させた[38]。両者無敗のトップアイドルで史上最大のタイトルマッチと呼ばれ[38][37]、同年の日本の年間最高試合となったこの試合に勝利した畑山は次戦で2度目の世界挑戦を成功させ、後に2階級制覇を果たす。畑山は試合以外での露出度も高く、坂本博之との初防衛戦をはじめとする3度の防衛戦では辰𠮷に匹敵する集客力を示した[37]。
2000年代
2009年11月29日開催の内藤大助 対 亀田興毅戦の平均視聴率は、関東地区、関西地区ともにが43.1%で、1977年9月以降のプロボクシング中継では2位を記録している[39]。1位は1978年5月7日に行われた具志堅用高 対 ハイメ・リオス戦の43.2%で、この具志堅戦の平均視聴率は1959年以降のプロボクシング中継の記録では19位である[40]。
2010年代
2011年に日本ボクシングコミッション (JBC) が女子の試合を認可した[41]。
- 詳細は女子ボクシング#日本での歴史を参照
西岡利晃は2009年と2011年にそれぞれメキシコ、米国でWBC世界スーパーバンタム級王座を防衛した。国外での2度の防衛は日本初であった[42]。2011年4月に石田順裕が米国で期待選手のジェームス・カークランドに初回KO勝利を収めたミドル級ノンタイトルマッチは中継局のHBOを震撼させた[映像 1]。同年、アマチュアでは村田諒太が世界選手権で日本人初の銀メダルを獲得している[43]。国際的なリングで活躍する選手が目立ち始める一方で、2012年現在、日本開催のプロの公式試合では日本人同士の対戦のほうが観客を喜ばせ、経費もかからないため、故障明けの調整試合以外で外国人選手を招聘することは少なくなっている[44]。
『リング』誌の記者ダグ・フィッシャーは、日本のプロボクサーが日本でしか試合をせずに国際的に評価されるのは難しいが、その多くはフェザー級より下の階級であり、米国のケーブルテレビ放送局HBO・ショウタイムは軽量級にそれほど関心を持っていないため、軽量級の日本人ボクサーは日本で試合をするほうが試合枯れすることもなく、まともな収入を得ることができると考えている[45]。HBOのボクシング中継のベテラン解説者ラリー・マーチャントは実際に、米国で本格的なファイトマネーが入り、注目を集めるのはフェザー級以上の階級だと話している[46]。ボクシング人気が健在なメキシコからは高額なファイトマネーを提示されるが、オファーが来るのが3週間前だったり、日程がしばしば変更されたりするため、日本の選手は対応できないことも多い[44]。この閉塞状況を打開し、ボクサーが国際的な認識を得るために、日本のプロボクシング界には「JBCがWBOとIBFを認可すること」「日本のボクシングプロモーターが国際的に通用するようなボクサーをもっとアジア圏外から招聘して日本のボクサーに挑戦させること」「日本の世界王者同士が対戦すること」という3つの条件が求められるとフィッシャーは2012年4月に述べている[45]。
こうした状況の下で2011年10月に八重樫東が東京の後楽園ホールでポンサワン・ポープラムックからWBA世界ミニマム級王座を奪取した試合は、国内開催の軽量級の試合でありながら、YouTubeにアップロードされた映像を通して米国のファンやメディアに絶賛された[45]。また、2012年6月に大阪のボディーメーカーコロシアムで行われた井岡一翔と八重樫のWBC・WBA世界ミニマム級王座統一戦はKeyHoleTVを利用してリアルタイムで観戦した国外の記者たち[47][48]からも、事前の大きな期待を裏切らない好試合であり将来にも期待をつなぐものとして高く評価されている[49][50][51]。
各階級における歴史
下記の各節では特に断りがない限り、それぞれの階級での出来事およびその背景を記し、紛らわしい場合を除いて階級名は省略している。
ミニマム級
初代日本王者は小野健治。1993年6月には江口九州男・勝昭の兄弟が日本王座決定戦に出場。日本初の兄弟での王座争いはダウン応酬の熱戦となり、兄が6回KO勝ちで日本王者となっている[52]。
この階級の主力選手は中南米・アジアが中心である[52]。1987年に階級が新設されると6月にIBFで世界王者が誕生し、10月に井岡弘樹がWBCの初代王座決定戦に出場、18歳9か月の日本人最年少で同団体の初代王者となった。1990年、高校時代から非凡なボクサーと言われ「150年に一人の天才」のキャッチフレーズでプロデビューした大橋秀行がライトフライ級での2度の世界挑戦失敗の後、階級を下げて世界王者となった。日本が世界戦に21連敗していた時期で、後楽園ホールには「万歳」の歓声が湧き上がった[53]。ロッキー・リンの2度の挑戦失敗の後、2000年に星野敬太郎が初奪取としては最年長記録で世界王座を獲得。また所属ジムの会長・花形進とともに日本初の師弟世界王者ともなった。日本人離れしたハンドスピードと均整のとれた総合力をもって2001年に16戦無敗で挑み、世界王座を獲得した新井田豊は、2か月後には引退を発表したが、2003年に復帰[52]。2004年には世界王座に復帰し、7度防衛した[54]。ウルフ時光は1998年に日本初の東洋太平洋王者となったが世界挑戦は2度失敗(うち1度は暫定王座挑戦)。時光が敵わなかったホセ・アントニオ・アギーレを破って世界王者となったのがイーグル赤倉(後のイーグル・デーン・ジュンラパン)であった[52]。
ライトフライ級
初代日本王者は渡辺功との決定戦で2度倒された後に巻き返して判定勝利を収めた天龍数典。天龍はパナマ開催のWBAの初代王座決定トーナメント準決勝でハイメ・リオスに敗退。翌年、日本でリオスへの再挑戦に失敗したが、日本王座は16度防衛した[55]。
具志堅用高は1974年のプロデビュー時には動きが悪く、「これが100年に一人の男か」と疑問視されていた。具志堅がデビューした当時の最軽量級はフライ級であった。しかし、この階級が新設されると能力を発揮[53]。当時の日本最短記録の9戦目でWBAの世界王座を獲得し、日本最多となる13度の連続防衛記録を残した。1980年には中島成雄もWBCの世界王者となった。具志堅の失ったWBA王座は1年足らずで協栄ジムの後輩・渡嘉敷勝男が取り戻した。天龍との2戦目で日本王者となった友利正は1982年にWBCの世界王者となった[55]。
友利に勝利して日本王者となった穂積秀一は、フライ級で日本王座の2階級制覇を果たすと世界王座にも挑戦した。1980年代には名嘉真堅徳、竹下鉄美、倉持正、喜友名朝博、大橋秀行、大鵬健文、宮田博行らを擁して必ずしも低迷していたわけではないが[55]、プロボクシングにおけるアジアの覇権は1970年代の日本から韓国へ移っていた。韓国人世界王者の張正九と柳明佑は11年間に33度の防衛を果たすが、そのうち16試合が渡嘉敷、ヘルマン・トーレス、大橋を含む日本人ボクサー9人と日本のジムの輸入ボクサー3人を相手に成功させたものであり、井岡弘樹が17度連続防衛中の柳から王座を奪って2階級制覇を成功させた一戦は衝撃的であった。その後、山口圭司がWBAの世界王者となっている。1990年代には世界ライトフライ級の覇権が1980年代の韓国から米国、メキシコ、タイへ移っていく中で、八尋史朗、細野雄一、塩濱崇、戸髙秀樹、本田秀伸らのような世界ランカーを輩出。この時期、フライ級以下の階級では、世界ランキングが身近なものとなる一方で、世界王座は縁遠いものとなっていた[56]。
フライ級
白井義男が1952年に日本初の世界王者となった後、2人目のファイティング原田、3人目の海老原博幸もフライ級であり、世界戦の最初の15試合のうち12試合がこの階級であった。白井以前のスピーディ章や花田陽一郎も白井に匹敵するポテンシャルを備えていた。白井から原田に至るまでの時代、三迫仁志、岩本正治、矢尾板貞雄、米倉健治、野口恭、関光徳らの世界ランカーは、アジアにおけるフライ級の覇権をフィリピンから日本へ移すのに貢献した[14]。特に、当時50連勝中で[57]フライ級最強と言われたパスカル・ペレスをノンタイトルで破って51連勝記録を阻止した矢尾板は世界王者が不在だった日本のヒーローであった。1958年5月13日の矢尾板と米倉の6ラウンドのエキシビション、1960年12月24日に後楽園ジムで行われた東日本新人王決勝の原田対海老原は将来の見通しを明るくしていた。1960年代中盤には海老原が階級トップを維持し、1970年代には大場政夫、小熊正二(後の大熊正二)、花形進らが世界王者となった。この間、高山勝義、田辺清はノンタイトルマッチで世界王者に勝利し、世界ランクには東洋太平洋王座を10度防衛した中村剛や日本王者の松本芳明が常連として名を連ねた[14]。
1970年代中盤には東洋王者の高田次郎、日本王者の五十嵐力、小熊をノンタイトルマッチでノックアウトした世界ランカーの触沢公男らも抱え、世界は遠いものではなかったが、1970年代に軽・中量級で黄金時代を迎えたラテンアメリカ勢が台頭し、韓国、タイなど他のアジア勢が底上げされると、日本フライ級は主舞台から遠ざかっていった。小熊以後、小林光二、レパード玉熊が世界王者となったものの、アマチュアの世界選手権で銅メダルを獲得した石井幸喜はノンタイトルマッチで日本王者・東洋太平洋王者を破ったが世界挑戦の機会は得られず、日本王座を2階級制覇した穂積秀一やプロ8戦目で世界挑戦した神代英明も敗れ、小熊、小林、玉熊はいずれもラテンアメリカのボクサーとの防衛戦で王座を明け渡した。1992年には勇利・アルバチャコフが世界王者となるが、そのボクシングの根本は母国ロシアで育まれたものであった。渡久地隆人はアルバチャコフの世界王座に挑戦して敗れ、井岡弘樹、山口圭司、川端賢樹らが同じ1990年代に世界挑戦に失敗、2000年の世界戦ではセレス小林が引き分けに終わり、浅井勇登、本田秀伸、トラッシュ中沼らが敗れた[57]。
スーパーフライ級
初代日本王者は古口哲との決定戦を制したジャッカル丸山。丸山はWBAの初代王座決定トーナメントを準決勝で敗退。翌1981年にはWBC王者の金喆鎬に挑戦して失敗。金には、この前後10か月足らずの間に、渡辺二郎、石井幸喜も退けられている[58]。
1982年、渡辺はWBA王座を獲得し、この階級で日本初の世界王者となり、丸山は日本王座に復帰した。渡辺は1984年にWBC王者のパヤオ・プーンタラットに勝利し、試合当日に剥奪された自身のWBA王座との事実上の王座統一を果たしていた。この前後、日本からは小熊正二、勝間和雄らが渡辺に挑戦して退けられた。渡辺はさらに1985年に韓国で日本人世界王者初となる海外防衛にも成功した。ドライな渡辺に対し[58]、丸山の試合は両者合わせて9度のダウンを奪い合った[59]関博之との再戦をはじめとして旧日本的な「精神と肉体の劇」であったと言われる[58]。
丸山を倒して日本王者となった畑中清詞はヒルベルト・ローマンへの挑戦に失敗した後、スーパーバンタム級で世界王者となった[58]。ローマンには内田好之も退けられ、カオサイ・ギャラクシーには松村謙二、中島俊一が挑戦して失敗した。日本初の東洋太平洋王者・杉辰也を下した鬼塚勝也は1992年に世界王者となった。川島郭志は1994年に世界王座を獲得。1997年のジェリー・ペニャロサとのラストファイトは、渡辺対ヒルベルト・ローマン戦に匹敵する技術戦であった。田村知範は世界挑戦に失敗。1997年にWBAの世界王者となった飯田覚士は井岡弘樹らを退けヘスス・ロハスに王座を明け渡すが、ロハスに勝って世界王者となったのが戸髙秀樹であった。この王座は戸髙からレオ・ガメス、セレス小林、アレクサンドル・ムニョスへとKO、TKOで引き継がれていく。ムニョスには小島英次、本田秀伸が退けられている。2000年にWBC王者となった徳山昌守はこの時期、世界王座を8度防衛し、東洋太平洋・日本王者としては名護明彦、柳光和博、佐々木真吾、石原英康らが活躍した[60]。
バンタム級
日本のボクサーとして初の世界ランカーとなった在日朝鮮人の徐廷権、全日本選手権を連覇した原靖らが黎明期の基礎を築いた。ピストン堀口の実弟で初代日本王者となった堀口宏から王座を奪った花田陽一郎、白井義男はいずれもその試合で2階級制覇を達成した。堀口は初代東洋王座決定戦ではフラッシュ・エロルデに判定負けを喫している。この王座は後に小室恵市、三浦清が獲得した。日本王者の石橋広次や稲垣健治はキューバのマヌエル・アルメンテロスの強打に打ち負かされるが、1960年には米倉健司がホセ・ベセラの世界王座に肉迫した。米倉を下して東洋王者となった青木勝利が「黄金のバンタム」の異名をとるエデル・ジョフレの世界王座に挑戦して退けられ、「ロープ際の魔術師」と呼ばれたジョー・メデルが日本のトップボクサーたちをことごとく下した後、ファイティング原田がジョフレから世界王座を奪い、日本初の世界王者となったのは1965年のことだった。1964年に原田がライバルと目された青木を一方的に打倒した試合は史上最大のノンタイトルマッチと言われる[61]。
その後、原田の後継者として、ノンタイトルで原田に善戦した斎藤勝男、メキシコで世界1位を下した中根義雄、東京オリンピック金メダリストで東洋王者の桜井孝雄、「小型原田」と言われた高木永伍、実弟の牛若丸原田、米国をはじめとして諸外国へ遠征を繰り返した内山真太郎、大木重良、メキシコオリンピック銅メダリストの森岡栄治らが期待を集める中、技巧派の金沢和良がルーベン・オリバレスとの再戦で死闘の末に敗れた一戦は国内世界戦史上に残るインパクトをもたらした。ラテンアメリカの覇権がバンタム級をも覆っていた1970年代以降の世界戦では、沼田剛がロドルフォ・マルチネスに、ワルインゲ中山がカルロス・サラテに[61]、磯上修一がホルヘ・ルハンに、ハリケーン・テルがルペ・ピントールに退けられた。この時期、アマチュアのアジア王者からプロへ転向し、日本王者となった石垣仁らがいた。東洋王座を12度防衛し、4度の世界挑戦で2度引き分けた村田英次郎のピントール戦はオリバレス対金沢戦に匹敵する激闘であった[62]。
1987年にはスーパーバンタム級から階級を下げた六車卓也が世界王者となる。後楽園ホールでは今里光男、高橋ナオト、小林智昭、島袋忠らがしのぎを削り、中でも高橋は世界王者と同等の人気を博した。辰𠮷𠀋一郎は4戦目で日本王座、8戦目で世界王座を当時の最短記録で獲得し、網膜裂孔、網膜剥離のためにブランクを繰り返しながら、暫定を含めれば世界王座を3度獲得した。1994年の正規王者・薬師寺保栄との統一戦は、ビジネス規模において日本プロボクシング史上最大であった。辰𠮷以後の主力選手は日本王座を7度防衛したグレート金山、仲宣明、5度防衛した川益設男(後の瀬川設男)らから西岡利晃、長谷川穂積、サーシャ・バクティンらへと引き継がれ[62]、長谷川は2005年に世界王座を獲得、10度の防衛を果たした[63]。
スーパーバンタム級
1922年、荻野貞行が日倶認定の初代日本王者となり、高橋一男、木村久が続いた。戦後は太郎浦一が王者となっている。1969年、半年余りの間に行われた清水精と東京オリンピック強化選手の中島健次郎の3連戦はすべて逆転KOで決着した[64]。
階級新設後のWBCの初代王者は、1976年4月にパナマ市で行われた決定戦でメキシコシティオリンピック銀メダリストのワルインゲ中山を下したリゴベルト・リアスコ。ミュンヘンオリンピックに出場したロイヤル小林はアレクシス・アルゲリョに挑戦して失敗、リアスコへの2度目の挑戦で世界王者となった。ソウルで王座を失った後、小林はウィルフレド・ゴメスに挑み、KO負けを喫するが、3回にゴメスが見せた左フックは歴史に残る一撃であった。1991年には畑中清詞が2度目の挑戦で初回のダウンを挽回して名古屋のジム初の世界王者となる。2002年には佐藤修が同じく2度目の挑戦で逆転KOにより王者となった[64]。
初代東洋王者は坂本春夫。上述(#1960年代 )の「ボクシング教室」出身で東洋王者となった石山六郎は天才的なボクサーとして人気を集めた。湯通堂清秀は1967年、韓国人の東洋王者を右フックでロープ下へ吹っ飛ばしているが、岡田晃一が1971年に王座を失った後、日本人は20年以上この王座を奪回することはなかった。1989年、高橋ナオトがマーク堀越から日本王座を奪った試合は逆転KOによる日本ボクシング史を代表する名勝負だった。アマエリートでラスベガスなどで修行した葛西裕一は世界初挑戦に失敗した後、ホノルル、カラカスに遠征。帰国後の1995年に東洋太平洋王者となり、その後石井広三、大和心らが同王者となった。第28代東洋太平洋王者の仲里繁は、2003年にオスカー・ラリオスの世界王座に挑戦。5回にダウンを奪われながらも反撃して王者の顎を砕いたが、王座獲得はならず[65]、翌年の再挑戦にも失敗[66]、2005年のマヤル・モンシプールへの挑戦ではTKO負けを喫した[67]。
フェザー級
黎明期には中村金雄、玄海男、ピストン堀口らの活躍したフェザー級が日本を代表する階級だった。戦後初の日本王者となったベビー・ゴステロは変則的なテクニックで28連勝を記録した。後藤秀夫、中西清明らの多彩なボクサーがおり、金子繁治は後にスーパーバンタム級で世界王者となるフラッシュ・エロルデに4戦4勝したが、この階級の世界王者サンディ・サドラーとのノンタイトルマッチでは一方的なTKO負けを喫した。その後は大川寛、小林久雄、池山伊佐巳らが登場。高山一夫は2度の世界挑戦に失敗。東洋王座を12度防衛した関光徳はフライ級で1度、フェザー級で4度の世界挑戦に失敗するが、1964年のシュガー・ラモスへの挑戦では痛烈なダウンを奪い、日本人で初めて世界王座に接近した。関を下した小林弘は益子勇治との激戦で日本王者となり、後に1階級上げて世界王者となった。その後、斎藤勝男、千葉信夫が東洋王者となり、日本の黄金時代の基礎を固めていった[20]。
1968年に西城正三がロサンゼルスでWBA王者を破り、全階級を通じて日本人として初めて国外での世界挑戦を成功させ、1970年には柴田国明がメキシコでWBCの世界王者となった[20]。西城は5度、柴田は2度防衛した。歌川善介は世界王座決定戦に敗れ、ミュンヘンオリンピック代表で東洋王座を7度防衛し、後にスーパーバンタム級で世界王者となったロイヤル小林も世界挑戦に失敗。2度日本王者となったフリッパー上原、米国遠征で後の世界王者ダニー・ロペスをノックアウトしたシゲ福山、日本王座を13度防衛したスパイダー根本も世界挑戦に失敗。1970年代にはアマチュアでアフリカ王者だった友伸ナプニや田中敏之(後の五代登)らも登場した。1980年代後半、来馬英二郎、飯泉健二らと激戦を演じた杉谷満は日本タイトル戦11試合のうち10試合がKO決着で世界挑戦ではKO負けを喫した。竹田益朗、松本好二、浅川誠二、平仲信敏、渡辺雄二、越本隆志らが世界戦で敗れた[68]。
スーパーフェザー級
初代日本王者は大日拳認定の田中禎之助。第2代は帝拳認定の佐藤東洋、戦後の初代日本王者は高田安信であった[25]。東洋太平洋では、1963年3月に王者の勝又行雄が2度のダウンを喫しながら高山一夫を6回の右フック一発で逆転KO勝利を果たした防衛戦が壮絶で[25]、寺山修司はこれを「奇蹟の逆転」と表現し、勝又を「忘れがたい男」と書いている[69]。日本王者の奄島勇児はコンバーテッド・サウスポーで右フックが強く、沼田義明をKOで下して初黒星を与えた[25]。
1964年、小坂照男がフラッシュ・エロルデの世界王座に挑戦。最終回のエロルデのラッシュで試合は止められるが、それまで善戦していたためストップが早過ぎると騒がれた。1967年には沼田義明がエロルデを下して世界王者となる。3回にはエロルデの左ストレートでダウンを喫していたが、それによって動きの硬さがとれ、4回以降は王者を翻弄した。初防衛戦では小林弘と対戦し、日本人同士の初の世界タイトルマッチに負けて王座を失ったが、1970年にWBCで世界王座に復帰。ラウル・ロハスとの初防衛戦では大逆転KO勝利を果たした。その後、岩田健二、岡部進、アポロ嘉男らが世界戦で敗れた。1973年、柴田国明がホノルルで世界王座の2階級制覇に成功[19]。1973年にはジョージ・フォアマン戦の前座で柏葉守人が世界挑戦に失敗。1980年に上原康恒がデトロイトでサムエル・セラノを逆転KOで下し、世界王者となった。1990年代は竹田益朗、渡辺雄二、三谷大和が世界挑戦に失敗。1998年には日本王者のコウジ有沢が畑山隆則を挑戦者に迎えての防衛戦を両国国技館で行い、両者はクリンチの少ない真っ向勝負を見せた。畑山はこれを前哨戦として同年、世界王者となった[25]。
ライト級
初代日本王者は日倶認定の臼田金太郎で、緒方哲夫、小林信夫、ジョー・サクラメントと続いた。日本王座を19度防衛した秋山政司は東洋王座の初防衛戦で17歳の沢田二郎に5度倒されて負け、引退した。[70]。東洋王者の門田新一はガッツ石松と2度戦い、1勝1敗。1962年、小坂照男が世界挑戦に失敗[71]。オリンピック候補にもなった染谷彰久は1967年にマニラで前世界王者のフラッシュ・エロルデを判定で下し、世界1位にランクされたが、1968年に大阪で開催されたグレグ・ギュルレ戦では8回までポイントで上回っていたものの、9回開始時に微熱と真夏の暑さのためにコーナーを出ることができず、試合放棄と見なされてKO負け。その直後に我にかえり、リング上でファンに土下座をした。1969年に沼田義明がロサンゼルスで世界王座に挑戦して失敗[71]。染谷が返上した日本王座は辻本英守が右アッパーによるKO勝利で獲得。1973年にはホノルルでデビューしたバズソー山辺が高山将孝を下している。その後、バトルホーク風間、尾崎富士雄、シャイアン山本らが日本王者となった[70]。
1974年には、ガッツ石松が3度目の挑戦で世界王者となり、高山将孝はコスタリカで挑戦失敗。石松は1976年、プエルトリコのバヤモンで自身初の国外防衛に挑み、王座を失った。その後は1993年になってオルズベック・ナザロフが南アフリカのヨハネスブルグで世界王座を獲得した。畑山隆則は2000年6月、スーパーフェザー級の世界王座防衛失敗からの再起戦で2階級制覇に成功した。10月に行われた坂本博之との初防衛戦は歴史に残る激闘となった[71]。
スーパーライト級
戦後初の日本王者は1964年に窪倉和嘉との互いに連勝中のサウスポー同士の王座決定戦を制した岡野耕司。しかし、それ以前に日本のボクサーたちは東洋・世界で王座を争っていた。アマチュア出身の川上林成は1937年、プロ4戦目にしてマニラへ赴き、世界5位のロベルト・クルスをノックアウト。クルスは翌年に初回KOで世界王者となっている。同じくアマチュア出身の高橋美徳はウェルター級で世界ランカーとなり、1939年に日本人として初めてスーパーライト級で世界王座に挑戦[72]。しかしKO負けを喫して試合会場から病院へ直行した[33]。
米国籍で[72]ハワイ出身、日系3世の藤猛は1967年、サンドロ・ロポポロを2回KOで破り、世界王者となった。藤以後はライオン古山が1969年4月から1977年10月まで国内無敵を誇ったが、世界挑戦には3度失敗している。古山はキャリア晩年に三迫ボクシングジムの輸入ボクサーであったクォーリー・フジをKO寸前に追い込みながら逆転KO負け。試合後にはフジがモントリオールオリンピック代表選考会の決勝をシュガー・レイ・レナードと争ったブルース・カリーであったことが判明した。1980年代前半には無敗の日本ウェルター級王者・亀田昭雄がこの階級で世界挑戦の機会を狙い、赤井英和はデビュー以来の連続KO記録で人気を集めていた。上述のように(#1980年代)「冬の時代」と呼ばれて会場から客足が遠のきつつあった当時、赤井の試合があるとチケットが飛ぶように売れた。世界王者となったカリーへの挑戦は打ち合いの果てにTKO負けに終わるが、赤井の人気は衰えず、1984年6月には大阪城ホールでの中堅選手との試合に、近畿大学記念館で行われた世界戦と同じ[73]12,000人の観衆を集めた。ボクシング人気回復の切り札として亀田と赤井の対戦が期待されたが、亀田は東洋太平洋戦で敗れ、赤井は世界再挑戦の前哨戦で負傷し、実現しなかった。1980年代後半にはライト級から階級を上げた浜田剛史が初回KOで世界王座を獲得。1992年には浜田と同じ沖縄出身の平仲明信が初回TKOで世界王者となった。平仲以後、ソウルオリンピック金メダリストで輸入ボクサーとしてプロデビューしたスラフ・ヤノフスキーが無敗のまま日本を去ると、桑田弘、新井久雄、小野淳一らが国内の安定王者となった。佐竹政一は東洋太平洋王座を9度防衛し、アジア無敵として世界奪取の期待が高まったが[33]、世界挑戦の機会は得られないまま10度目の防衛に失敗して引退した[74]。
ウェルター級
初代日本王者は日倶認定の川田藤吉。その後、野口修、臼田金太郎、名取芳夫らが続く。戦後の初代王者は河田一郎。河田を倒したのが辰巳八郎で王座を2度獲得し、階級を上げた。同じく日本王者となった羽後武夫は引退後、レフェリーを務め、モハメド・アリ対ジョー・バグナー戦などを裁いた。1960年代、帝拳ジムは人気選手を抱えて黄金時代と呼ばれる時期を迎えていたが、その人気選手の一人が渡辺亮で、1961年に沢田二郎の王座を奪い、都合3度日本王者となった。元アマチュア・エリートの辻本章次を破った亀田昭雄は日本王座を12度防衛。1988年、吉野弘幸は不利予想を覆し、坂本孝雄をノックアウトして日本王者となった。他に佐藤仁徳、加山利治らが日本王者となった[75]。
福地健治は沢田らを相手に東洋太平洋王座を4度防衛した後、マニラでフィリピーノ・ラバロに敗れて王座を失い[76]、翌年にはラバロに雪辱を果たして王座に復帰し、引退した。高橋美徳は渡辺亮との決定戦を制して東洋太平洋王者となった。ムサシ中野は1967年に東洋太平洋王座を獲得。しかし「世界ウェルター級挑戦者決定戦」と銘打たれた試合でアーニー・ロペスに負け、24歳で東洋太平洋王座を保持したまま引退した[75]。龍反町や中野を破った南久雄は1968年に前世界ジュニアミドル級王者の金基洙を下して東洋のミドル級王者となり[77]、翌年空位のウェルター級王座を獲得して2階級を制覇。反町は1970年にKO勝利で東洋王者になると1979年まで王座を守った[75]。
1976年、辻本章次が18歳の世界王者ホセ・クエバスに挑戦。5回まで善戦したが6回に3度倒されて敗退。1978年、反町がラスベガスで挑戦失敗。1988年、尾崎富士雄がアトランティックシティでマーロン・スターリングの世界王座に挑戦。終盤には主導権を奪い、最終回にロープに詰めて連打を叩き込むとスターリングはダメージを負ってマウスピースを吐き出した[76]。当時の「ニューヨーク・タイムズ」には、王者が尾崎より優れていることは明らかだったものの、軽いパンチを当てるだけで単なるジムワークのように戦う王者に試合の間じゅうブーイングが起こり、8回と9回の間のインターバルではプロモーターが王者を怒鳴りつけ、ユナニマス・デシジョンで勝った王者のパフォーマンスにプロモーターと4,925人の観客の多くが当惑したと記述されている[78]。
スーパーウェルター級
力道山が重量級ボクサー育成のために設立したリキジムの溝口宗男が1966年7月に初代日本王者となる。金沢英雄は日本ウェルター級王座に挑戦して敗れた後、スーパーウェルター級で東洋王座を獲得し、防衛を重ねた。この頃、米国のスーパーウェルター級に対する関心はまだ薄く、日本の経済力は世界戦開催が可能なところまで成長していた。ミドル級、ウェルター級で東洋を2階級制覇した南久雄は1969年12月にスーパーウェルター級で世界王座に挑戦し、2回KO負けで失敗。2か月前には12戦全勝 (11KO) で台頭してきた日本王者の輪島功一が2階級下の世界王者ペドロ・アディグとのノンタイトルマッチに初回KOで敗れ、東京慈恵会医科大学附属病院に運び込まれていた。輪島陣営はこの階級で世界王者になるのは難しいと考え、アディグに勝てばスーパーライト級で世界挑戦させようとしていたため、輪島は厳しい減量をして臨んでいた。アディグ戦から4か月後、輪島は日本王座をジョージ・カーターに奪われるが、2か月後の再戦で王座に復帰。南と金沢をノックアウトし、1970年にローマオリンピック金メダリストのカルメロ・ボッシの世界王座に挑戦。反則すれすれの動きで王者を幻惑して世界王座を獲得し、欧州の正統派、中南米の技巧派を相手に防衛を続け、当時のスーパーウェルター級最多連続防衛記録を残している[77]。輪島所属の三迫ジムは王座の国外流出を防ぐため、オプションを活かして輪島の王座を奪ったオスカー・アルバラードの初防衛戦には龍反町を、柳済斗には三迫将弘を挑戦させた。反町、三迫は退けられるが、輪島は2度も王座を奪還した。当時、テレビのボクシング中継が衰退する一方で、まだゴールデンタイムで日本タイトルマッチが放映されることもあり、輪島は日本人の持つ浪花節的な感覚を刺激して全国区の人気を博していた。世界王座に2度目の復帰を果たした直後、東京・新宿区で起きた銀行強盗事件で犯人が立てこもった時[79][80][81]、警察官は「自首をして、あの輪島の根性を見習って人生をやり直してみろ」と言って説得している[79]。
1978年、無敗の日本ミドル級王者・工藤政志が世界王座を獲得。しかし、それまでウェルター級、ミドル級で活躍していた米国や中南米のトップボクサーたちがこの階級を狙い始めていた。三原正は1981年に米国で24戦全勝のロッキー・フラットを下し空位の世界王座を獲得するが、初防衛戦でデビー・ムーアと打ち合って王座を失うと、上述(#1980年代)のように覇権を握っていた米国のリングからシュガー・レイ・レナード、トーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランらスーパースターの勢力が流れ込み、世界王座は日本人には縁遠いものとなっていった。1980年代にはカーロス・エリオット、田端信之らが登場。エリオットは後にグアドループのポワンタピートルで世界王座に挑戦したが、顎を骨折して失敗。田端はウェルター級、スーパーウェルター級で日本王座の2階級制覇を果たしミドル級へ転向したが、3階級制覇には失敗している。上山仁は1989年から1995年にかけて日本王座で当時最多となる20度連続防衛を記録。1991年12月にはウェルター級王者の吉野弘幸とノンタイトルマッチで対戦し、7回TKOで下している。ともに日本王座を10度連続防衛中で、派手なKOで人気の吉野に対し[79]、堅実な正統派スタイルの上山はかつて4回戦時代に引き分け、日本初挑戦でKO負けを喫しており、この2度の吉野戦以外は全勝であった[82]。3度目の対戦が決まり、上山が「おかげでこっちは裏街道。ボクサー生命賭けてます」と言えば、吉野は「中盤までに倒します。また負けても根に持たないでネ」と返し、戦前から試合を盛り上げた。上山の王座返上後、同じ新日本木村ボクシングジム所属で元アマチュア・エリートの伊藤辰史が大東旭との決定戦を制して王者となるが、大東との再戦で不用意なパンチを受けてKO負けで王座を失い、再三の不運な判定で王座を奪還できないまま引退した。1990年代後半、地元大阪で防衛を重ねた大東は世界挑戦の機会が得られないまま王座を返上。大東に幕を引かせたのが石田順裕であり、東洋太平洋と日本の王座を保持していたのが金山俊治(後のクレイジー・キム)であった[79]。
ミドル級
1947年、新井正吉が戦後初代日本ミドル級王者となる。第2代王者は戦前のフェザー級王者・堀口恒男。1950年代には日本ミドル級創世記に最も貢献した辰巳八郎が登場。辰巳は日本タイトルマッチ21勝 (2KO) 1敗1分の記録を残しているが、ウェルター級時代が選手としての全盛期で、ミドル級での実績は選手層の薄さによるものでもあり、東洋のタイトルマッチでは5勝6敗であった。しかし東洋王座は辰巳の他に、大貫照雄、海津文雄、権藤正雄も獲得し、他のアジア諸国のレベルも日本と大差はなかった。1952年4月に辰巳が羽後武夫との防衛戦で判定勝利を収めてから1963年2月に前溝隆男が斎藤登から判定で王座を奪取するまでの約11年間、日本ミドル級タイトルマッチは25試合連続で判定決着であった。同じボクサー同士の対戦が多かったのも、この階級の特徴である。1960年代前半には前溝、斎藤、金田森男、海津、権藤の5人が総当たり戦を展開した。特に東洋タイトルマッチで初回48秒KO勝ちを記録した海津は爆発的な人気を博したが、後に世界王者となった金基洙や世界ランカーのスタン・ハーリントンらには完敗している[83]。
後にスーパーウェルター級で世界挑戦する南久雄が金を下して東洋王者となった後、1970年代初めにはアフリカ系米国人と日本人のハーフのカシアス内藤が登場。アウトボクシングで22連勝を重ね、日本・東洋の王座を獲得したが、柳済斗に敗れて東洋王座を失い、柳は東洋タイトルマッチで日本人に15戦全勝を記録した。1980年代の韓国の黄金時代に先駆け、ミドル級ではフィジカルで優る韓国勢に圧されていた。国内では米軍属選手のジョージ・カーター、フラッシャー石橋らが日本王者となり、カーターは日本王座を2階級制覇、石橋は世界ランカーのビル・ダグラスとの対戦にKO負けを喫している。その後、日本王座を8度防衛し、スーパーウェルター級で世界王者となった工藤政志、アマチュアのアジア王者でプロ入り後は工藤が返上した日本王座の決定戦に出場したが体重超過で失格、ミドル級とライトヘビー級で東洋王座に挑戦した鈴木利明が登場、1980年代の日本王者には2階級制覇を果たした柴田賢治、5度防衛した千里馬啓徳、デビュー以来5階級上げて王座を獲得した大和田正春、後に俳優になった大和武士、フィジカルの強いファイターの西條岳人らがいた。1990年代には竹原慎二が全日本新人王、日本王座、東洋太平洋王座を獲得し、1995年に世界王者となったが、ウィリアム・ジョッピーとの初防衛戦に敗れると眼疾も発覚して現役を引退した。竹原以後は、スーパーウェルター級から転向し、2階級を制覇したビニー・マーチンや米海軍所属で日本・東洋太平洋の両王座を獲得し、世界の上位ランカーとなったケビン・パーマー、元高校ライトヘビー級王者で日本・東洋太平洋を制し、ジョッピーの世界王座に挑戦した保住直孝、日本王座を9度防衛した鈴木悟らの個性的な選手が活躍した[84]。
スーパーミドル級
日本・東洋太平洋のミドル級王者となった田島吉秋は1980年、スーパーミドル級の世界王座に日本人として初挑戦。韓国でWBA王者の白仁鉄に挑戦し、7回TKO負けを喫した。階級が新設されて間もなく、世界ランカーの層が薄かったため、日本ではミドル級に先駆けての挑戦であった[84]。西澤ヨシノリは日本ミドル級王座、東洋太平洋スーパーミドル級王座を獲得した後、2004年に38歳の日本最高齢記録でWBAの世界王座に挑戦した[84]。
しかし、スーパーミドル級からクルーザー級までの3階級で日本王座が新設されたのは2009年9月で、他階級からは大幅に遅れをとっている[85]。
ライトヘビー級
寺地永はミドル級で日本王者となった後、日本人として初めて東洋太平洋ライトヘビー級王座を獲得した[84]。
クルーザー級
西島洋介山は1990年代中盤からヘビー級ボクサーとして米国を拠点に活動し、世界王者以上の注目を集めたこともあったが、本来のベストウェイトのクルーザー級では東洋太平洋やWBOの下部組織であるNABO、マイナー団体のWBFの王座を獲得した[84]。
ヘビー級
戦前には大関であった武藏山武のボクシング転向が計画されたものの実現には至らなかったが、1957年に大相撲出身の片岡昇が戦後初代日本ヘビー級王者となる。体重約80キログラムの片岡は防衛戦を行わずに引退し、王座はJBC預かりとなった。モハメド・アリやジョージ・フォアマンの来日を経た1970年代中盤には、米国でデビューして5連続KO勝利を収めたコング斉藤が逆上陸。日本では世界王者並みの関心を集めたが、ミドル級の選手にノックアウトされるなど実力不足を露呈した[83]。その後、「和製タイソン」と呼ばれた西島洋介山が登場し、NHK衛星放送が米国での試合を録画中継した。高橋良輔は国外の選手を相手に勝利を重ね、2005年に日本人として初めて東洋太平洋ヘビー級王座に挑戦した[86]。その後、竹原真敬が台頭したが、日本王座がJBC預かりとなっていた当時はいずれの選手も国内では試合数が限られ、JBCのボクサーライセンスを維持しながらの活動は難しく、西島はライセンスを剥奪され、竹原も返上を余儀なくされたことがあった。オケロ・ピーターは東洋太平洋王座を獲得し、2006年にオレグ・マスカエフの世界王座に挑戦したが、判定で敗れている[87]。日本王座は2009年9月にスーパーミドル級からクルーザー級までの3階級が新設されると同時に再設置された[85]。
外部リンク
- 日本アマチュアボクシング連盟の公式ウェブサイト
- 日本ボクシングコミッションの公式ウェブサイト
- 日本プロボクシング協会の公式ウェブサイト
- 東日本ボクシング協会の公式ウェブサイト
- 西日本ボクシング協会の公式ウェブサイト
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