「日本のオリンピックボクシング競技」の版間の差分
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− | '''日本のボクシング'''(にほんのボクシング)の本格的な始まりは、[[渡辺勇次郎]]が「日本拳闘倶楽部」を開設した1921年とされるが、この競技が最初に伝わったのは英国で[[クイーンズベリー・ルール]]が制定される以前の1854年であった<ref>{{Cite web|url=http://jpba.gr.jp/history/origin/origin_02.html|title=ボクシングの伝来と協会の歴史 | + | '''日本のボクシング'''(にほんのボクシング)の本格的な始まりは、[[渡辺勇次郎]]が「日本拳闘倶楽部」を開設した1921年とされるが、この競技が最初に伝わったのは英国で[[クイーンズベリー・ルール]]が制定される以前の1854年であった<ref>{{Cite web|url=http://jpba.gr.jp/history/origin/origin_02.html|title=ボクシングの伝来と協会の歴史 – 第二章 ペリー提督によって日本に伝来|year=2008|publisher=[[日本プロボクシング協会]]|accessdate=2012年5月1日}}</ref>。この項目では、日本のボクシングの歴史を概説する。 |
− | == | + | == 通史 == |
=== 黎明以前 === | === 黎明以前 === | ||
− | + | 1854年2月([[嘉永]]7年1月)の[[マシュー・ペリー]]の[[黒船来航#嘉永7年来航|2度目の日本来航]]を記録した1956年の『ペリー日本遠征記』<!--({{Lang|en|''Narrative of the expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan''}}) -->に、同年2月26日に横浜で行われたペリー艦隊の水兵であるアメリカ人ボクサー1名、[[プロレスラー|レスラー]]2名と相撲の[[大関]]・[[阿武松 (相撲)|小柳常吉]]による3対1の他流試合の様子が記述されている<ref>{{Cite book|author=Commodore M. C. Perry, Lambert Lilly|editor=Francis L. Hawks|title=Narrative of the expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan|trans_title=ペリー日本遠征記|year=1856|publisher=D. Appleton and Company|location=米国・ニューヨーク市|language=英語|pages=429–433|url=http://books.google.co.jp/books?id=LSIPAAAAYAAJ&pg=PA429|chapter=XX}}</ref>。これが日本におけるボクシングに関する最古の記録となっており、この時、日本に始めてボクシングが紹介された(同じく1854年に[[田崎草雲]]とボクシング技術を使うアメリカ人水兵の喧嘩の記録が残されているが、あくまで試合ではなく喧嘩である)。この他、1879年([[明治]]12年)に[[天覧相撲]]で[[鞆ノ平武右衛門]]に欧米人ボクサーが挑戦した記録もある。これらの他流試合が明治後期から[[第二次世界大戦]]後(以下、戦後)にかけて流行した外国人ボクサー(そのほとんどが力自慢の水兵)と柔道家による他流試合興行「柔拳試合」を生み、また、ボクシング技術を学ぶ者を増やしていった。柔拳試合に興味を持った[[嘉納治五郎]]の甥の嘉納健治は、1909年(明治42年)に神戸市の自宅に「国際柔拳倶楽部」を設立、日本に立ち寄る外国人船員からボクシングの技術を学んだ。この国際柔拳倶楽部がのちに日本選手権大会を開催する「大日本拳闘会」(大日拳)となる。 | |
− | + | これより以前、1887年(明治20年)5月には、プロレスラーになるため3年間渡米していた元力士の浜田庄吉がボクシング技術を習得し、18人のボクサーとレスラーを伴って帰国。見世物として全国を回った。事実上、この浜田が日本最初のボクサーであった。また、「西洋大角力」と銘打ったこの見世物は、内容的には柔拳試合のような他流試合や事前に打ち合わせをしてある試合ばかりで、日本最初のプロレス興行とされているが、ボクシングの試合も行われており、日本最初のボクシング興行とも言える。1896年(明治29年)には、[[アメリカ合衆国|米国]]帰りの元柔道家・齋藤虎之助が、友人の[[ジェームス北條]]とともに横浜市に日本最初のボクシングジムである「メリケン練習場」を開設。しかしこれは入門者が定着せず間もなく閉鎖されている。 | |
また、[[大正]]期に流行したアメリカ映画や新聞記事などでボクシングが紹介されており、一般庶民にも西洋にはボクシングというスポーツがあるという認識が広まっていった。 | また、[[大正]]期に流行したアメリカ映画や新聞記事などでボクシングが紹介されており、一般庶民にも西洋にはボクシングというスポーツがあるという認識が広まっていった。 | ||
=== 黎明期 === | === 黎明期 === | ||
− | + | ==== 1920年代 ==== | |
+ | 1921年(大正10年)1月、[[サンフランシスコ]]でプロボクサーとして活躍していた[[渡辺勇次郎]]が帰国し、「ボクシングは体育、精神力、国際親善、外貨獲得」に欠かせない国際競技として<ref name="04p66">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=66}}</ref>、同年12月25日に東京・[[目黒区]]に「日本拳闘倶楽部」(日倶)を開設。これが日本の本格的なボクシング競技の幕開けとされる。日倶は本格的[[ボクシングジム]]として多くのボクサーを育成。練習生の中から後の[[帝拳プロモーション|帝国拳闘会(帝拳)]]創設者・[[荻野貞行]]など日本ボクシング繁栄の礎となった人物や拳聖・[[ピストン堀口]]などのスター選手を輩出している。また、1922年(大正11年)5月7日には[[靖国神社]]境内の相撲場にて「日米拳闘大試合」を主催。以後、翌年の[[関東大震災]]まで継続的に開催し、それまで見世物でしかなかったボクシング興行を本格的なスポーツとして定着させた。 | ||
− | [[ | + | 1923年(大正12年)2月23日、日倶の師範代であった[[臼田金太郎]]が、日倶後援のもと東京・上野の輪王寺の境内で学生拳闘試合を開催した。これが日本初のアマチュアボクシングの試合である。1924年(大正13年)4月26日、東京の[[日比谷公園]]音楽堂で日倶主催による初のタイトルマッチとして第1回日本軽体重級拳闘選手権試合が開催され、日本王者が誕生した。1925年(大正14年)には複数の大学に「拳闘部」が創設されると、靖国神社境内の相撲場にて第1回学生選手権が開催された。この大会の成功を受けて、同年5月、渡辺勇次郎を理事長として「[[日本アマチュアボクシング連盟|全日本アマチュア拳闘連盟]]」が発足、11月に連盟主催による第1回アマチュア選手権が開催された。1927年6月5日、大日拳主催の第1回日本選手権大会が開催され、11月3日にはボクシング競技が第4回[[明治神宮大会]]に参加した。 |
− | [[ | + | 1928年の[[アムステルダムオリンピック]]には[[ウェルター級]]の臼田金太郎と[[バンタム級]]の[[岡本不二]]が出場した<ref name="02p40">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=40}}</ref>。監督は渡辺勇次郎で、臼田はベスト8に進出した<ref name="04p67">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=67}}</ref><ref name="terauchi">{{Harvnb|寺内|佐瀬|芦沢|粂川|1993|pp=78–79(寺内)}}</ref>。 |
− | [[ | + | ==== 1930年代 ==== |
+ | その後、日倶がプロ活動に専念するようになり、1931年2月11日に全日本プロフェッショナル拳闘協会が発足したが、翌年には日倶、帝国拳闘会、国際拳闘倶楽部のグループと、大日拳、東京拳闘協会、極東、日米拳のグループの2派に分裂し、全日本アマチュア拳闘連盟のような結束力はなかった<ref name="02p40" /><ref name="04p67" />。しかし同年7月、拳闘ファンは急増。スター選手の月収は1,000円以上(教員の初任給が15円、米10キロ1円20銭、ざるそば4銭)で、帝国・大日本・日本・東洋など拳闘クラブ(ボクシングジム)も10を超え、税務署が財源として目をつけるほどであった<ref>『昭和・平成 家庭史年表 1926〜2,000 増補』 [[河出書房新社]] 1997年12月発行(2001年4月増補改訂 ISBN 4-309-22370-2) 下川耿史 家庭総合研究会 編</ref>。 | ||
− | [[ | + | 1933年4月に[[読売新聞]]による日仏対抗戦の開催が決まると国内のジムは全日本拳闘連盟として再び結束した<ref name="04p67" />。フランス側の捉え方は親善[[エキシビション]]のようなものであったが<ref name="02p41">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=41}}</ref>、同月からの日本代表決定トーナメントでは<ref name="02p40" />、それまで関東と関西に分かれていた日倶、帝拳、大日拳から出場した選手が新人・ベテランの区別なく勝ち抜きトーナメントを行い<ref name="terauchi" />、事実上の初代日本王座決定戦と呼べるものとなり<ref name="02p40" /><ref name="04p67" />、[[フライ級]]で[[花田陽一郎]]、バンタム級で[[大津正一]]、[[フェザー級]]でピストン堀口、[[ライト級]]で[[鈴木幸太郎]]、ウェルター級で[[名取芳夫]]の5人が王者と認定されている<ref name="04p67" />。プロ転向後4試合を戦ったのみでまだ早稲田大学の学生であったピストン堀口は準決勝で帝拳荻野道場のテクニシャン[[橋本淑]]を破り、決勝ではKOアーチストと呼ばれたベテラン[[中村金雄]]を破り<ref name="terauchi" />、フェザー級で優勝<ref name="02p40" />。日仏対抗戦のために[[エミール・プラドネル]]ら3人のフランス人選手が来日する頃、ボクシングブームは絶頂期を迎えていた<ref name="04p67" /><ref name="terauchi" />。7月3日に行われたプラドネルと堀口の8回戦は、[[戸塚球場|早稲田戸塚球場]]に詰めかけた30,000人の観衆の前で引き分けとなり<ref name="terauchi" />、堀口は日本プロボクシング界のニューヒーローとなった<ref name="04p67" /><ref name="02p41" />。 |
− | + | 1934年11月には全日本拳闘連盟と東京日日新聞の共催で、第1回[[全日本アマチュアボクシング選手権大会|全日本選手権]]決定戦が行われた。それまではアマチュアとプロの区別がはっきりせず、認定団体も単独であったり複数であったりとまちまちであったため、全日本の名の下に全選手が参加した初の大会であった。徐廷権が、「エバーラスト拳闘年鑑」で世界バンタム級6位になると連盟は初の東洋選手権を東京で開催し、ライト級の[[佐藤利一]]とウェルター級の名取芳夫が東洋王者に認定された<ref name="04p67" />。 | |
− | == | + | 昭和初期に日本のボクサーは[[ハワイ]]、[[カリフォルニア]]、[[上海]]、[[フィリピン]]などへ盛んに遠征した<ref name="02p41" />。その中には米国に長期滞在して[[サンフランシスコ]]や[[ハリウッド]]などで戦い、戦前日本人で唯一の世界ランカーとなった徐廷権の他、中村金雄<ref name="terauchi" />、ハワイで東洋タイトルを奪取した堀口、米国西海岸で強豪とばかり対戦した[[玄海男]]らがいる。堀口が連勝記録を47で止められた1937年1月27日の東洋フェザー級タイトルマッチや、玄が堀口を下した1939年5月29日の両選手のリマッチ、堀口が[[笹崎たけし|笹崎僙]]の挑戦を退けた1941年5月28日の一戦は社会的な注目度、訴求力で後の世界タイトルマッチ以上の存在感をボクシング史上に残している<ref name="02p41" />。この頃は[[熊谷二郎]]や[[ライオン野口]]らも活躍していた<ref name="terauchi" />。 |
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− | + | ==== 1940年代 ==== | |
− | + | しかし第二次世界大戦によって、プロデビューしたばかりの[[白井義男]]を含む多くの日本人ボクサーが出征。1943年から興行を統轄していた大日本拳闘協会は1944年3月11日に同月28日をもってすべての興行を中止する声明を発表して解散した。1945年には世界タイトルマッチは2試合行われただけであった<ref name="02p41" />。 | |
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− | + | === 世界王者の誕生 === | |
+ | 戦後のボクシングは東京・[[新橋駅]]付近の焼け跡で中村正美が会長を務める国民拳闘倶楽部が開いた青空道場から始まり<ref name="sase">{{Harvnb|寺内|佐瀬|芦沢|粂川|1993|pp=78–79(佐瀬)}}</ref>、進駐米軍の慰問や在日朝鮮人連盟が主催する興行を中心に活気づいていった<ref name="02p74">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=74}}</ref>。戦後初の試合は1945年12月に[[西宮市|西宮]]で行われ、続いて東京でも試合が行われた<ref name="04p67" />。『[[ボクシング・マガジン#ボクシング・ガゼット|ボクシング・ガゼット]]』編集長の[[郡司信夫]]の提案に乗った「銀座グリル」経営者の長井金太郎が社長となり<ref name="sase" />、1946年6月にはプロモーション会社の日本拳闘株式会社(日拳)が創設され<ref name="02p74" /><ref name="sase" />、翌月には東京・銀座木挽町にあった築地東宝劇場を改装し、練習場・試合場を兼ねた日拳ホールが開設された<ref name="sase" />。また同年7月8日には日本拳闘協会が発足。1947年8月には全日本選手権も再開され、6人が王者となっている<ref name="02p74" />。 | ||
− | + | コミッションがなかった時代、試合は主に草試合と呼ばれるドサ回りの興行で行われた。十数人で一座を組んで自ら運んだキャンバスで仮設リングを作ると、もぎりや[[審判員 (ボクシング)|レフェリー]]、タイムキーパーなどを選手たちが交代で務め、昼夜2興行を4日続けるようなことをしていた。空腹のあまり真剣に打ち合えなければパンチが当たらなくても意図的に倒れることがあった。しかし中には故意にではなく、試合中に疲労と空腹のあまり気を失って倒れるボクサーもいた<ref name="sase" />。 | |
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− | + | ==== 1950年代 ==== | |
+ | 進駐軍の生物化学者[[アルビン・R・カーン]]のマネジメントや援助を受けて米国式トレーニングを積んだ白井義男は、花田陽一郎、[[堀口宏]]を下して日本王座の2階級制覇を成し遂げる。白井が[[ダド・マリノ]]との2度の対戦を経て世界フライ級1位にランクされると<ref name="02p74" />、世界戦実現に不可欠なコミッショナー制度の確立が急務となり、当時は本田明が理事長を務めていた全日本ボクシング協会が協議を重ねた結果、初代コミッショナーには後楽園スタヂアム(後の[[東京ドーム (企業)|東京ドーム]])社長の[[田邊宗英]]、コミッショナー諮問委員には[[真鍋八千代]]、喜多壮一郎の2名が選出された。1952年4月21日に[[東京会館]]でJBC([[日本ボクシングコミッション]])の設立を発表。事務局長には新聞社で編集局長を務めていた菊池弘泰が就任し、試合経過などを掲載した『[[ボクシング広報]]』を発行した他、インスペクターには戦前は中村屋群造の名でボクサーとして活躍した丸屋群造が起用された<ref>{{Harvnb|宮崎|原|1989|p=15(宮崎)}}</ref><ref name="02p286">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=286}}</ref>。JBCの設立と同時に、それまでコミッションと協会を兼務してきた[[日本プロボクシング協会|全日本ボクシング協会]]はいったん解散した。白井は1952年5月19日、[[後楽園球場]]で45,000人の観衆を前にマリノを下して日本初の世界王者となった<ref name="02p74" />。 | ||
− | + | 1954年1月7日、JBCは当時の世界王座統括団体NBA(全米ボクシング協会、後の[[世界ボクシング協会]])に正式加盟。事務局は東京都[[港区 (東京都)|港区]]の他、[[名古屋市|名古屋]]、[[大阪]]、[[福岡県|福岡]]に設置された。またJBCは1954年4月に米国のボクシング専門誌『[[リングマガジン|リング]]』の編集長ナット・フライシャーを招待。フライシャーの目に留まった[[金子繁治]]は同誌ランキングの10位に入った。同年10月27日には田辺の呼びかけで日本、[[フィリピン]]、[[タイ王国|タイ]]の3か国によりOBF(東洋ボクシング連盟、後のOPBF=[[東洋太平洋ボクシング連盟]])が発足した<ref name="02p286" />。 | |
+ | 昭和30年代初め、東京での試合は戦前から焼け残った浅草公会堂、下谷公会堂、王子デパート特設リングなどで行われていた。粗末なリングは軋んで揺れ、場内には煙草の煙が立ち込めていた。日本は国際ボクシングビジネスの実績がなく、日本銀行には他国の世界王者に支払える十分な[[外貨準備|外貨]]の蓄積がなかった<ref name="sase" />。白井以後、金子繁治、[[三迫仁志]]は世界ランカーとなったが世界王座挑戦の機会を得られず<ref name="02p75">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=75}}</ref>、[[秋山政司]]は日本ライト級王座を19度防衛しながら、その業績に見合うような報酬を得られなかった<ref name="sase" />。最も存在感を示した[[矢尾板貞雄]]が1959年11月5日に[[パスカル・ペレス]]に挑戦した世界タイトルマッチは、非公式でテレビ視聴率92.3%を記録したが、王座奪取はならなかった<ref name="02p75" />。この頃は、矢尾板に次いで三迫を下した[[木村七郎]]や[[メルボルンオリンピック]]代表からプロへ転向した[[米倉健司]]らも活躍した<ref name="sase" />。 | ||
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+ | ==== 1960年代 ==== | ||
+ | アマチュアでは1960年、[[ローマオリンピック]]のフライ級で[[田辺清]]が日本ボクシング初となる銅メダルを獲得した<ref name="02p75" /><ref name="04p230">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=230}}</ref>。しかし、決勝進出を妨げたのは不運な判定であった<ref name="04p230" />。 | ||
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+ | 1960年の[[全日本新人王決定戦|新人王戦]]のフライ級には、原田政彦(のちの[[ファイティング原田]])、[[海老原博幸]]、[[青木勝利]]の3人が登場し、「フライ級三羽烏」として知られるようになる<ref name="sase" /><ref name="ashizawa column">{{Cite web|url=http://www.boxing.jp/column/ashizawa/ashizawa03.htm|title=夢かうつつか、酔いどれ記者が行く 『酔いどれ交遊録』酒に勝て | ||
+ | ず – 天才・ピューマ渡久地|author=芦沢清一|date=? | ||
+ | |publisher=boxing.jp|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。原田と海老原で争われたこの年の東日本新人王決定戦フライ級決勝についてスポーツライターで作家の[[佐瀬稔]]は、両者はこの時点で天才的なテクニシャンであり、彼らの見せた攻防の技術、的確なパンチ、優れた戦術、敗北を恐れない勇気は、日本で行われた全公式試合を通じても滅多に見られないものとして、1993年に新人王戦におけるベストバウトと回顧している。3人は後に努力型のラッシャー原田、スマートなカミソリパンチャー海老原、天才肌のメガトンパンチャー青木とそれぞれの個性を発揮していった<ref name="sase" />。 | ||
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+ | === プロボクシング黄金時代 === | ||
+ | 1962年10月10日には、新人王の実績しかなかったファイティング原田が突如引退した矢尾板の代理挑戦でKO勝利を収め、7年10か月ぶりに日本に世界王座をもたらし、プロ野球の[[ON砲]]、大相撲の[[大鵬幸喜|大鵬]]らと並ぶヒーローとなった。この年、全日本ボクシング協会が改めて発足され、NBAはWBA(世界ボクシング協会)に改称した<ref name="02p75" />。 | ||
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+ | 1960年代前半、日本にはかつてないボクシング・ブームが起こり、元旦から試合が行われ、テレビでは週に10本以上のプロ[[ボクシング中継]]があった。高度経済成長のおかげで1962年3月には[[テレビ受像機]]の普及台数が1,000万台を超え、新たなスターが育ちつつあったプロボクシングは視聴者とテレビ局とスポンサーの需要を満たしていた。[[関光徳]]や、原田、海老原、青木の元祖三羽烏、[[小坂照男]]、[[小林弘]]に加え、アマチュアからは[[川上林成]]、[[高橋美徳]]らがプロに転向した。[[TBSテレビ|TBS]]が[[極東ボクシングクラブ|極東ジム]]と提携して募集した「ボクシング教室」には7,000人が殺到し、[[沼田義明]]や[[石山六郎]]を輩出した。平均視聴率が30%に達するレギュラー番組もあったが、やがて視聴者やテレビ局が野球、大相撲、ボクシング以外にも放送に適した競技があることに気づくと、各局のボクシング中継はそれぞれ週に1本程度となった。しかし、同時期の米国と較べると会場の集客数が激減するような損失はなかった<ref name="02p118">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=118}}</ref>。 | ||
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+ | 原田が王座を失った約8か月後の1963年9月18日、海老原が世界王者となるが、前王者との再戦で王座を失う。しかしこの間に[[カルロス・オルティス]]、[[エデル・ジョフレ]]、[[エディ・パーキンス]]、[[シュガー・ラモス]]、[[フラッシュ・エロルデ]]らの世界王者が防衛戦のために来日し、日本人挑戦者はことごとく敗れたものの、彼らの試合を観ることで日本のボクシングは向上していった<ref name="02p118" />。 | ||
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+ | アマチュアでは1964年、[[桜井孝雄]]がボクシング競技で日本初となる金メダルを獲得。この頃には日本は世界有数のボクシング市場となっていた<ref name="02p118" />。 | ||
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+ | 1965年5月18日、世界王者不在の時期を終わらせた原田は、同時に世界王座の2階級制覇を達成。限られた階級しかなかった当時、日本人として初であり、原田以前に2階級以上を制した王者は全階級を通じて世界に12人しかいなかった<ref name="02p118" />。原田が4度の防衛をする間、強打の[[藤猛]]、技巧派の[[沼田義明]]が世界王者となり<ref>{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|pp=118–119}}</ref>、[[高山勝義]]、田辺清はいずれもノンタイトルで現役世界王者に勝利した<ref name="02p119">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=119}}</ref>。しかし田辺は世界タイトルマッチを目前に[[網膜剥離]]で引退を余儀なくさせられた<ref name="04p230">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=230}}</ref>。 | ||
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+ | 1967年には王者・沼田と挑戦者・小林弘の間で初の日本人同士による世界タイトルマッチが行われた。試合は[[元禄赤穂事件|赤穂浪士討ち入り]]の12月14日に設定され、精密機械・沼田、雑草・小林と対照的な両者が舌戦を展開した。前半は沼田がジャブで攻勢をとるが、6回に小林の右クロスを受け、ダウンを喫すると形勢は逆転し、12回に再び右クロスで小林がKO勝利を収めた<ref name="04p308">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=308}}</ref>。この試合は日本の[[年間表彰選手 (ボクシング)#歴代年間最高試合|年間最高試合]]に選ばれている<ref name="02p119" />。1968年9月27日に[[西城正三]]が[[ロサンゼルス]]で世界王者を下し、日本初の海外奪取を達成すると、1960年代後半から1970年代にかけての海外遠征ブームは加速していった<ref name="04p238">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=238}}</ref><ref name="02p119" />。 | ||
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+ | ==== 1970年代 ==== | ||
+ | 1970年12月11日から1971年7月28日までの時期は、小林弘、西城正三、沼田義明、メキシコで西城に続く2人目の海外世界王座奪取を成功させた[[柴田国明]]、[[大場政夫]]の5人が同時にプロボクシングの世界王座を保持し、フェザー級と[[スーパーフェザー級|ジュニアライト級]]ではWBA・[[世界ボクシング評議会|WBC]]の両団体世界王座を日本が独占していた<ref name="ashizawa">{{Harvnb|寺内|佐瀬|芦沢|粂川|1993|pp=128–129(芦沢)}}</ref>。1970年末、11階級に15人いた世界王者の国別分布は、日本が5名、米国が3名、[[アルゼンチン]]と[[イタリア]]が各2名、フィリピン、[[メキシコ]]、[[イギリス|英国]]が各1名であった<ref>{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=119}}</ref>。一階級違いの現役王者同士であった小林と西城は、1970年12月3日にノンタイトルマッチで対戦し、僅差で小林が勝利。この時期は「日本ボクシングの黄金時代」と呼ばれた。1971年夏から秋にかけて、小林、西城、沼田が次々と王座を失うが、10月には[[輪島功一]]が新たに世界王者となり、[[ルーベン・オリバレス]]に挑戦した[[金沢和良]]が名勝負を演じて日本の年間最高試合に選ばれ、王座流出の雪崩現象とは別に黄金時代は続いた<ref name="ashizawa" />。 | ||
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+ | === ラテンアメリカの台頭と日本 === | ||
+ | 1970年代に入ると当たり前のように年間10試合以上の世界戦が行われるようになるが<ref name="02p183">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=183}}</ref>、1972年初めから小林、西城、沼田が相次いで引退するとボクシング人気に陰りが見え始める。[[協栄ボクシングジム]]の会長・[[金平正紀]]は西城をキックボクシングに転向させ、類似競技との兼業を禁じた業界の内部規定違反として全日本ボクシング協会を除名された。金平は4月に[[モハメド・アリ]]の試合に不明瞭な形で関与したと疑われると、6月には有志とともに別の協会を設立し、業界は分裂した<ref name="ashizawa" />。1973年3月には柴田がハワイで世界王者を下し、原田に次ぐ2人目の2階級制覇を達成<ref name="02p182">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=182}}</ref>。1973年9月には[[ジョージ・フォアマン]]とジョー・キング・ローマンによる日本初の世界ヘビー級タイトルマッチが行われた<ref name="04p309">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=309}}</ref>。 | ||
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+ | 日本ボクシングの黄金時代の5人の世界王者のうち、4人は[[ラテンアメリカ]]のボクサーに王座を奪われていた。1970年代にはラテンアメリカがボクシングの黄金時代を迎え<ref name="89p20">{{Harvnb|宮崎|原|1989|p=20(原)}}</ref><ref name="02p182" />、1975年末に12階級に22人いた世界王者の地域別分布はラテンアメリカが13名、[[アジア]]が5名、[[ヨーロッパ|欧州]]が2名、[[アフリカ]]と米国が各1名であった。この時期、[[ミゲル・カント]]、[[アレクシス・アルゲリョ]]、[[ウィルフレド・ゴメス]]、[[アントニオ・セルバンテス]]らのラテンアメリカの世界王者が来日し、ホームで挑戦する日本人ボクサーたちを退けていった。また、日本以外でも[[ロベルト・デュラン]]、[[カルロス・サラテ]]らが日本人相手に世界王座を防衛している。ラテンアメリカ勢はやがてWBA・WBCの統括団体に支配的な力を持つようになり、統括団体乱立と王座の増殖を引き起こすことになる<ref name="02p182" />。 | ||
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+ | この間、[[ガッツ石松]]、小熊正二(後の[[大熊正二]])、[[花形進]]らが世界王者となるが、1976年5月に輪島が王座を失うと日本は現役世界王者不在の時代を迎える。1976年10月9日に[[ロイヤル小林]]が世界王者となるが、この王座は45日で失われ、小林に1日遅れて世界王者となった[[具志堅用高]]が日本最多となる13度の連続防衛を重ね、一時代を築くことになった。1977年には分裂していた協会が統一された。具志堅が5度の防衛を成功させていた頃、各階級で世界王座に挑戦した選手はことごとく退けられ、1978年8月に[[工藤政志]]が王者となるまで16連敗を記録していた<ref name="ashizawa" />。 | ||
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+ | ==== 1980年代 ==== | ||
+ | 1980年1月に[[中島成雄]]が王者となると日本はWBA・WBC両団体の[[ライトフライ級|ジュニアフライ級]]の世界王座を独占した。この年には大熊が[[ソウル特別市|ソウル]]で、上原が[[デトロイト]]で、いずれもKO勝利で世界王座を奪取<ref name="ashizawa" />。この頃には再び米国がボクシング界を牽引しつつあった<ref name="02p183" /><ref name="89p20" />。[[シュガー・レイ・レナード]]や[[トーマス・ハーンズ]]、[[マービン・ハグラー]]らに、ラテンアメリカ黄金時代の中心的な役割を果たした[[ロベルト・デュラン]]が加わって熱戦を展開し、彼らの試合は新たな形態として[[ペイ・パー・ビュー]]で放送され、その報酬は高騰し、プロモーターは桁違いの収入を得るようになっていた<ref name="02p183" />。 | ||
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+ | === 冬の時代と新鋭たち === | ||
+ | 1981年に具志堅、上原、大熊が3か月の間に王座を失うと日本は再び世界王者不在の時期を迎えた。同年11月に[[三原正]]が米国での王座決定戦で世界王者となり、12月には[[渡嘉敷勝男]]が世界王座を獲得するが、渡嘉敷の初防衛戦を前に、彼の所属する協栄ジムの会長・金平正紀が具志堅の対戦相手に薬物を投与していたとされる[[毒入りオレンジ事件|騒動]]が起こり、その評価は貶められることになった。1982年4月に世界王者となった[[渡辺二郎]]は、1985年12月には[[大韓民国|韓国]]で日本人初となる海外防衛に成功した<ref name="02p206">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=206}}</ref>。 | ||
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+ | 1980年代には[[友利正]]、[[小林光二]]、[[新垣諭]](新垣は日本未公認のIBF王座)、[[浜田剛史]]、[[六車卓也]]、[[井岡弘樹]]らが世界王者となったが<ref name="ashizawa" />、アジアでプロボクシングをリードするのは経済成長を遂げて1988年の[[ソウルオリンピック]]を控えた韓国に移っていた<ref name="02p206" />。日本開催の世界戦は1983年には10試合(IBFの王座戦は除く)行われていたが、1984年は5試合、1985年は渡辺の防衛戦のみで1961年以来となる2試合しか行われず、1986年も4試合のみだった。1985年11月にはJBCが義務付けた頭部[[コンピュータ断層撮影|CTスキャン]]検査の結果、8名が不適格と診断され、引退を余儀なくされている<ref name="02p207">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=207}}</ref>。1987年末のアジア圏では、世界王者が韓国3名、タイ2名、日本1名(井岡)で、[[東洋太平洋ボクシング連盟|OPBF]]王者は韓国7名 (±0)、タイ2名 (-2)、日本2名 (+2)、フィリピン1名 (±0)、[[インドネシア]]1名 (±0) であった(括弧内は前年との差)。ただし、韓国では国内王座、東洋太平洋王座を経て世界王座に挑戦する傾向が比較的保たれ、日本やタイでは東洋太平洋王座を通り越して世界王座に挑戦する傾向が強まっていることを『リング』誌東洋地区リポーターの[[ジョー小泉]]は指摘している<ref>{{Harvnb|小泉|1988|p=18}}</ref>。 | ||
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+ | 1988年に開催された年間興行数は前年度の104から132に増えた。地域別では関東・東北82 (+3)、関西31 (+15)、中部9 (+6)、西部10 (+4) で、渡辺、六車、井岡らの世界王者に加え、[[赤井英和]]、[[串木野純也]]らのスター選手を擁して人気が定着しつつあった関西では大幅な増加が見られた(括弧内は前年との差)<ref name="88p12">{{Harvnb|宮崎|原|1989|p=12(宮崎)}}</ref>。1988年に開催されたタイトルマッチは世界王座戦が11試合 (+7)、東洋太平洋王座戦が6試合 (+2)、日本王座戦48試合 (+3) といずれも増加している<ref name="89p13">{{Harvnb|宮崎|原|1989|p=13(宮崎)}}</ref>。WBA・WBCが承認した77の世界戦の開催地は米国29試合、韓国13試合、日本12試合、イタリア8試合、[[オーストラリア]]3試合、タイ2試合、メキシコ1試合で、タイには4人、メキシコには6人の世界王者が存在していた<ref name="89p20" />。 | ||
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+ | 1988年3月21日には[[マイク・タイソン]]対[[トニー・タッブス]]戦が行われ、会場の[[東京ドーム]]には日本ボクシング史上最多記録となる51,000人の観衆が集まった<ref name="89p13" /><ref name="02p291">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=291}}</ref><ref name="ashizawa" />。タイソンは試合より1か月以上も前の2月17日に日本に到着し、マスメディアは大騒ぎとなった<ref name="89p13" />。 | ||
+ | |||
+ | しかし、1988年11月13日に井岡が王座を失うと再び現役王者は不在となった。王者不在のまま新年を迎えたのは1964年以来で、[[年間表彰選手 (ボクシング)#歴代年間表彰選手|年間最優秀選手]]が該当者なしという結果になったのは1961年以来のことであった<ref name="88p12" />。日本のプロボクシングはかつてないスランプを迎え<ref name="88p12" />、この1980年代は「冬の時代」と呼ばれた<ref name="04p313">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=313}}</ref><ref name="02p206" />。競技人気低迷に危機感をもった全日本ボクシング協会は、1990年1月に世界挑戦資格に「指名試合をクリアした日本王者」との条件を加えている。 | ||
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+ | === 新しいヒーローたち === | ||
+ | ==== 1990年代 ==== | ||
+ | 1988年11月13日に井岡が王座を失ってから1990年2月6日まで1年3か月にわたって日本の世界王者は誕生せず、バブル期にあった日本の経済力を背景に世界戦が濫発されたが、挑戦者は次々に敗退し、[[ウィルフレド・バスケス]] 対 六車戦の引き分けを皮切りに世界挑戦21連続失敗という記録を作る結果となった。しかし、[[金容江]] 対 [[レパード玉熊]]戦、[[カオサイ・ギャラクシー]] 対 [[松村謙二]]戦、ファン・マルチン・コッジ 対 平仲伸章(後の[[平仲明信]])戦などの激戦があり、1988年の新人王戦に登場した[[鬼塚勝也]]、[[ピューマ渡久地]]、ウェルター級や[[スーパーウェルター級|ジュニアミドル級]]で国内選手を圧倒した[[吉野弘幸 (ボクサー)|吉野弘幸]]、[[上山仁]]、デビューしたばかりの[[辰吉丈一郎|辰{{JIS2004フォント|𠮷}}{{JIS2004フォント|𠀋}}一郎]]らの次世代が育ちつつあったこと、さらに[[大橋秀行]]と[[高橋ナオト]]の存在で見通しは明るくなっていった。高橋はマーク堀越戦で2度目の日本の年間最高試合賞を受けるが、堀越戦や続くノリー・ジョッキージム戦の逆転劇で高橋がダメージを蓄積させていく一方で、大橋は1990年2月7日に3度目の挑戦で階級を下げて熱狂的な勝利で世界王者となり、日本ボクシング再興のきっかけをつくった<ref name="kumekawa">{{Harvnb|寺内|佐瀬|芦沢|粂川|1993|pp=150–151(粂川)}}</ref>。この4日後に東京ドームで行われたマイク・タイソン対[[ジェームス・ダグラス]]戦のアンダーカードでは高橋がジョッキージムとの再戦に負け、辰{{JIS2004フォント|𠮷}}がプロ2戦目でKO勝利を収めていた<ref name="02p260">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=260}}</ref>。 | ||
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+ | 続いて、世界挑戦失敗経験のある[[レパード玉熊]]、[[畑中清詞]]が再挑戦で王座を獲得したが、いずれも王座を長く保持することなく、入れ替わりに台頭してきたのが辰{{JIS2004フォント|𠮷}}、鬼塚、ピューマ渡久地の「平成三羽烏」<ref name="kumekawa" />(1987年には[[川島郭志]]が[[全国高等学校総合体育大会ボクシング競技大会|インターハイ]]のフライ級で鬼塚、渡久地をそれぞれ準決勝、決勝で破って優勝し、この3人が「高校フライ級三羽烏」と呼ばれていた<ref>{{Harvnb|佐藤|1993|p=46}}</ref><ref name="ashizawa column" />)と、1990年に協栄ジムが輸入ボクサーとして招き入れたユーリ・アルバチャコフ(後の[[勇利アルバチャコフ|勇利・アルバチャコフ]])、グッシー・ナザロフ(後の[[オルズベック・ナザロフ]])、スラフ・ヤノフスキー(日本での活動以外は[[ビアチェスラフ・ヤノフスキー]])ら5人のロシア人であった。辰{{JIS2004フォント|𠮷}}がプロ8戦目で王者のギブアップを招き世界王者になると<ref name="kumekawa" />、井岡が大番狂わせの判定勝利で日本人3人目となる世界王座の2階級制覇を達成<ref name="02p260">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=260}}</ref>、平仲はメキシコでの初回KO勝利で世界王座奪取、前後して鬼塚・ユーリ海老原も世界王者となり、この時点で日本プロボクシング界は史上タイ記録となる5人の世界王者を擁することになった<ref name="kumekawa" />。この5人王者時代は長く続かなかったが<ref name="02p261">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=261}}</ref>、辰{{JIS2004フォント|𠮷}}のカリスマ性はかつての黄金時代を超える熱狂を世界戦のすべてで引き起こした<ref name="02p260" />。 | ||
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+ | 1993年にオルズベック・ナザロフ、[[薬師寺保栄]]、1994年に川島郭志が世界王座を獲得すると再び日本は5人の世界王者を抱えるが、このうち2人は輸入ボクサーであった。1994年12月4日には[[正規王座|正規王者]]・薬師寺と[[暫定王座|暫定王者]]・辰{{JIS2004フォント|𠮷}}の王座統一戦がかつてない社会的関心度と経済規模で行われ、勝者のみならず敗者もまた、その人気を高めることになり、プロボクシング界に計り知れない効果をもたらした。1995年には[[竹原慎二]]が日本初の[[ミドル級]]世界王者に、翌年には[[山口圭司]]も世界王者になった。1997年には辰{{JIS2004フォント|𠮷}}が王座に復帰、[[飯田覚士]]が世界王者となった<ref name="02p261" />。 | ||
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+ | 1998年には[[畑山隆則]]が[[コウジ有沢]]の日本王座に挑戦。畑山は1年以上も前から「向こうが受けてくれるというなら、俺がテレビ局を説得してもいい」と言って有沢と対戦したい意向を示していたが、畑山がTBSの「[[ガッツファイティング]]」、有沢は[[フジテレビ]]の「[[ダイヤモンドグローブ]]」の看板選手であったため、実現の見込みは薄いとされていた。しかし、両陣営はたとえノーテレビでも挙行すると決めて交渉を続け、合意に至った後で放映の折衝をプロモーターに依頼することで実現を成功させた<ref name="kaga">{{Harvnb|加賀|1998|pp=26–27}}</ref>。両者無敗のトップアイドルで史上最大のタイトルマッチと呼ばれ<ref name="kaga" /><ref name="02p261" />、同年の日本の年間最高試合となったこの試合に勝利した畑山は次戦で2度目の世界挑戦を成功させ、後に2階級制覇を果たす。畑山は試合以外での露出度も高く、[[坂本博之]]との初防衛戦をはじめとする3度の防衛戦では辰{{JIS2004フォント|𠮷}}に匹敵する集客力を示した<ref name="02p261" />。 | ||
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+ | ==== 2000年代 ==== | ||
+ | 2009年11月29日開催の[[内藤大助]] 対 [[亀田興毅]]戦の平均視聴率は、関東地区、関西地区ともにが43.1%で、1977年9月以降のプロボクシング中継では2位を記録している<ref>{{Cite web|url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20091130-571121.html|title=亀田vs内藤戦の平均視聴率は43・1%|date=2009年11月30日|publisher=[[日刊スポーツ]]|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。1位は1978年5月7日に行われた具志堅用高 対 ハイメ・リオス戦の43.2%で、この具志堅戦の平均視聴率は1959年以降のプロボクシング中継の記録では19位である<ref>{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=291}}</ref>。 | ||
+ | :<div style="line-height:1.5em; margin:3px 0 .5em 2em><small>''この節は、[[Wikipedia:スタブ|スタブ]]ですが、[{{SERVER}}{{localurl:{{NAMESPACE}}:{{PAGENAME}}|action=edit}} 加筆、訂正]して下さる協力者を求めてはいません。''</small></div> | ||
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+ | ==== 2010年代 ==== | ||
+ | 2011年に[[日本ボクシングコミッション]] (JBC) が女子の試合を認可した<ref>{{Cite web|url=http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20071120-285637.html|title=JBCが女子ボクシングを正式認可|date=2007年11月20日|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。 | ||
+ | :<small>''詳細は[[wiki:女子ボクシング#日本での歴史|女子ボクシング#日本での歴史]]を参照''</small> | ||
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+ | [[西岡利晃]]は2009年と2011年にそれぞれメキシコ、米国でWBC世界[[スーパーバンタム級]]王座を防衛した。国外での2度の防衛は日本初であった<ref>{{Cite web|url=http://www.nikkei.com/article/DGXZZO36389740Q1A111C1000000/?df=3|title=ボクシング・西岡、自ら語るラスベガスで勝てた理由|date=2011年11月13日|publisher=[[日本経済新聞]]|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。2011年4月に[[石田順裕]]が米国で期待選手のジェームス・カークランドに初回KO勝利を収めた[[ミドル級]]ノンタイトルマッチは中継局の[[HBO]]を震撼させた<ref group="映像">{{Cite video|date=2012年3月8日|title=HBO Boxing: Days - Portrait Of A Fighter - James Kirkland|url=http://www.youtube.com/watch?v=KX1B6ujb0CY|medium=石田戦までの2日間を追ったカークランドのドキュメンタリー番組|time=8:04|timecaption=石田対カークランド|publisher=[[HBO]]公式[[YouTube]]チャンネル|language=英語|accessdate=2012年6月25日}}</ref>。同年、アマチュアでは[[村田諒太]]が[[2011年世界ボクシング選手権大会|世界選手権]]で日本人初の銀メダルを獲得している<ref>{{Harvnb|『ボクシング・ビート』|2011年11月号|pp=108–109}}</ref>。国際的なリングで活躍する選手が目立ち始める一方で、2012年現在、日本開催のプロの公式試合では日本人同士の対戦のほうが観客を喜ばせ、経費もかからないため、故障明けの調整試合以外で外国人選手を招聘することは少なくなっている<ref name="beat201111-89">{{Harvnb|『ボクシング・ビート』|2011年11月号|pp=89–90(林)}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | 『リング』誌の記者ダグ・フィッシャーは、日本のプロボクサーが日本でしか試合をせずに国際的に評価されるのは難しいが、その多くはフェザー級より下の階級であり、米国のケーブルテレビ放送局HBO・[[ショウタイム (テレビ局)|ショウタイム]]は軽量級にそれほど関心を持っていないため、軽量級の日本人ボクサーは日本で試合をするほうが試合枯れすることもなく、まともな収入を得ることができると考えている<ref name="ring20120406">{{Cite web|url=http://ringtv.craveonline.com/blog/172241-dougies-friday-mailbag|title=Dougie's Friday mailbag|author=Doug Fischer|date=2012年4月6日|publisher=[[リングマガジン|RingTV.com]]|language=英語|accessdate=2012年6月25日}}</ref>。HBOの[[ボクシング中継]]のベテラン解説者ラリー・マーチャントは実際に、米国で本格的な[[出場給|ファイトマネー]]が入り、注目を集めるのはフェザー級以上の階級だと話している<ref>{{Cite web|url=http://www.abs-cbnnews.com/sports/03/13/12/donaire-needs-be-featherweight-soon|title='Donaire needs to be a featherweight soon'|date=2012年3月13日|publisher=ABS-CBN news|language=英語|accessdate=2012年6月25日}}</ref>。ボクシング人気が健在なメキシコからは高額なファイトマネーを提示されるが、オファーが来るのが3週間前だったり、日程がしばしば変更されたりするため、日本の選手は対応できないことも多い<ref name="beat201111-89" />。この閉塞状況を打開し、ボクサーが国際的な認識を得るために、日本のプロボクシング界には「JBCが[[世界ボクシング機構|WBO]]と[[国際ボクシング連盟|IBF]]を認可すること」「日本のボクシングプロモーターが国際的に通用するようなボクサーをもっとアジア圏外から招聘して日本のボクサーに挑戦させること」「日本の世界王者同士が対戦すること」という3つの条件が求められるとフィッシャーは2012年4月に述べている<ref name="ring20120406" />。 | ||
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+ | こうした状況の下で2011年10月に[[八重樫東]]が東京の[[後楽園ホール]]でポンサワン・ポープラムックからWBA世界[[ミニマム級]]王座を奪取した試合は、国内開催の軽量級の試合でありながら、[[YouTube]]にアップロードされた映像を通して米国のファンやメディアに絶賛された<ref name="ring20120406" />。また、2012年6月に大阪の[[大阪府立体育会館|ボディーメーカーコロシアム]]で行われた[[井岡一翔]]と八重樫の[[井岡一翔 対 八重樫東戦|WBC・WBA世界ミニマム級王座統一戦]]は[[KeyHoleTV]]を利用してリアルタイムで観戦した国外の記者たち<ref>{{Cite web|url=https://twitter.com/MarkEOrtega/status/215379869146685440|title=井岡一翔 対 八重樫東戦をKeyHoleTVで観戦することについてのツイート|author=Jake Donovan, Mark Ortega|date=2012年6月20日|publisher=[[Twitter]]|language=英語|accessdate=2012年6月25日}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://twitter.com/corey_erdman/status/215396227536269312|title=井岡一翔 対 八重樫東戦をKeyHoleTVで観戦することについてのツイート|author=Corey Erdman, Gabriel Montoya|date=2012年6月20日|publisher=Twitter|language=英語|accessdate=2012年6月25日}}</ref>からも、事前の大きな期待を裏切らない好試合であり将来にも期待をつなぐものとして高く評価されている<ref>{{Cite web|url=http://www.queensberry-rules.com/2012-articles/june/kazuto-ioka-decisions-one-eyed-akira-yaegashi-in-minimumweight-title-tilt.html|title=Kazuto Ioka Decisions One-Eyed Akira Yaegashi In Minimumweight Title Tilt|author=Mark Ortega|date=2012年6月20日|publisher=Queensberry-Rules.com|language=英語|accessdate=2012年6月25日}}(記事中、結果をスプリットデシジョンと勘違いしているので注意)</ref><ref>{{Cite web|url=http://ringtv.craveonline.com/blog/173457|title=Ioka bests valiant Yaegashi to unify strawweight titles|author=Corey Erdman|date=2012年6月25日|publisher=RingTV.com|language=英語|accessdate=2012年6月25日}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.boxingscene.com/?m=show&opt=printable&id=54174|title=Kazuto Ioka Outlasts Akira Yaegashi In A War|author=Jake Donovan|date=2012年6月20日|publisher=BoxingScene.com|language=英語|accessdate=2012年6月25日}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | == 各階級における歴史 == | ||
+ | 下記の各節では特に断りがない限り、それぞれの階級での出来事およびその背景を記し、紛らわしい場合を除いて階級名は省略している。 | ||
+ | === ミニマム級 === | ||
+ | 初代日本王者は小野健治。1993年6月には[[江口九州男]]・勝昭の兄弟が日本王座決定戦に出場。日本初の兄弟での王座争いはダウン応酬の熱戦となり、兄が6回KO勝ちで日本王者となっている<ref name="04p227">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=227}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | この階級の主力選手は中南米・アジアが中心である<ref name="04p227" />。1987年に階級が新設されると6月にIBFで世界王者が誕生し、10月に[[井岡弘樹]]がWBCの初代王座決定戦に出場、18歳9か月の日本人最年少で同団体の初代王者となった。1990年、高校時代から非凡なボクサーと言われ「150年に一人の天才」のキャッチフレーズでプロデビューした[[大橋秀行]]がライトフライ級での2度の世界挑戦失敗の後、階級を下げて世界王者となった。日本が世界戦に21連敗していた時期で、後楽園ホールには「万歳」の歓声が湧き上がった<ref name="04p226">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=226}}</ref>。[[ロッキー・リン]]の2度の挑戦失敗の後、2000年に[[星野敬太郎]]が初奪取としては最年長記録で世界王座を獲得。また所属ジムの会長・[[花形進]]とともに日本初の師弟世界王者ともなった。日本人離れしたハンドスピードと均整のとれた総合力をもって2001年に16戦無敗で挑み、世界王座を獲得した新井田豊は、2か月後には引退を発表したが、2003年に復帰<ref name="04p227" />。2004年には世界王座に復帰し、7度防衛した<ref>{{Cite web|url=http://jpba.gr.jp/archive/2000_04.html|title=新井田豊 – チャンピオンアーカイヴス|date=2012年1月10日|publisher=[[日本プロボクシング協会]]|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。[[ウルフ時光]]は1998年に日本初の東洋太平洋王者となったが世界挑戦は2度失敗(うち1度は暫定王座挑戦)。時光が敵わなかった[[ホセ・アントニオ・アギーレ]]を破って世界王者となったのがイーグル赤倉(後の[[イーグル・デーン・ジュンラパン]])であった<ref name="04p227" />。 | ||
+ | |||
+ | === ライトフライ級 === | ||
+ | 初代日本王者は渡辺功との決定戦で2度倒された後に巻き返して判定勝利を収めた[[天龍数典]]。天龍は[[パナマ]]開催のWBAの初代王座決定トーナメント準決勝で[[ハイメ・リオス]]に敗退。翌年、日本でリオスへの再挑戦に失敗したが、日本王座は16度防衛した<ref name="04p228">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=228}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | 具志堅用高は1974年のプロデビュー時には動きが悪く、「これが100年に一人の男か」と疑問視されていた。具志堅がデビューした当時の最軽量級はフライ級であった。しかし、この階級が新設されると能力を発揮<ref name="04p226" />。当時の日本最短記録の9戦目でWBAの世界王座を獲得し、日本最多となる13度の連続防衛記録を残した。1980年には[[中島成雄]]もWBCの世界王者となった。具志堅の失ったWBA王座は1年足らずで協栄ジムの後輩・[[渡嘉敷勝男]]が取り戻した。天龍との2戦目で日本王者となった[[友利正]]は1982年にWBCの世界王者となった<ref name="04p228" />。 | ||
+ | |||
+ | 友利に勝利して日本王者となった[[穂積秀一]]は、フライ級で日本王座の2階級制覇を果たすと世界王座にも挑戦した。1980年代には[[名嘉真堅徳]]、[[竹下鉄美]]、[[倉持正]]、[[喜友名朝博]]、[[大橋秀行]]、[[大鵬健文]]、[[宮田博行]]らを擁して必ずしも低迷していたわけではないが<ref name="04p228" />、プロボクシングにおけるアジアの覇権は1970年代の日本から韓国へ移っていた。韓国人世界王者の[[張正九]]と[[柳明佑]]は11年間に33度の防衛を果たすが、そのうち16試合が渡嘉敷、[[ヘルマン・トーレス]]、大橋を含む日本人ボクサー9人と日本のジムの輸入ボクサー3人を相手に成功させたものであり、井岡弘樹が17度連続防衛中の柳から王座を奪って2階級制覇を成功させた一戦は衝撃的であった。その後、[[山口圭司]]がWBAの世界王者となっている。1990年代には世界ライトフライ級の覇権が1980年代の韓国から米国、メキシコ、タイへ移っていく中で、[[八尋史朗]]、[[細野雄一]]、[[塩濱崇]]、[[戸高秀樹|戸髙秀樹]]、[[本田秀伸]]らのような世界ランカーを輩出。この時期、フライ級以下の階級では、世界ランキングが身近なものとなる一方で、世界王座は縁遠いものとなっていた<ref name="04p229">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=229}}</ref>。 | ||
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+ | === フライ級 === | ||
+ | [[白井義男]]が1952年に日本初の世界王者となった後、2人目の[[ファイティング原田]]、3人目の[[海老原博幸]]もフライ級であり、世界戦の最初の15試合のうち12試合がこの階級であった。白井以前の[[スピーディ章]]や[[花田陽一郎]]も白井に匹敵するポテンシャルを備えていた。白井から原田に至るまでの時代、[[三迫仁志]]、[[岩本正治]]、[[矢尾板貞雄]]、[[米倉健治]]、[[野口恭]]、[[関光徳]]らの世界ランカーは、アジアにおけるフライ級の覇権をフィリピンから日本へ移すのに貢献した<ref name="04p230">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=230}}</ref>。特に、当時50連勝中で<ref name="04p231">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=231}}</ref>フライ級最強と言われた[[パスカル・ペレス]]をノンタイトルで破って51連勝記録を阻止した矢尾板は世界王者が不在だった日本のヒーローであった。1958年5月13日の矢尾板と米倉の6ラウンドのエキシビション、1960年12月24日に後楽園ジムで行われた東日本新人王決勝の原田対海老原は将来の見通しを明るくしていた。1960年代中盤には海老原が階級トップを維持し、1970年代には[[大場政夫]]、小熊正二(後の[[大熊正二]])、[[花形進]]らが世界王者となった。この間、[[高山勝義]]、[[田辺清]]はノンタイトルマッチで世界王者に勝利し、世界ランクには東洋太平洋王座を10度防衛した[[中村剛]]や日本王者の[[松本芳明]]が常連として名を連ねた<ref name="04p230" />。 | ||
+ | |||
+ | 1970年代中盤には東洋王者の[[高田次郎]]、日本王者の[[五十嵐力]]、小熊をノンタイトルマッチでノックアウトした世界ランカーの[[触沢公男]]らも抱え、世界は遠いものではなかったが、1970年代に軽・中量級で黄金時代を迎えたラテンアメリカ勢が台頭し、韓国、タイなど他のアジア勢が底上げされると、日本フライ級は主舞台から遠ざかっていった。小熊以後、[[小林光二]]、[[レパード玉熊]]が世界王者となったものの、アマチュアの[[AIBA世界ボクシング選手権|世界選手権]]で銅メダルを獲得した[[石井幸喜]]はノンタイトルマッチで日本王者・東洋太平洋王者を破ったが世界挑戦の機会は得られず、日本王座を2階級制覇した[[穂積秀一]]やプロ8戦目で世界挑戦した[[神代英明]]も敗れ、小熊、小林、玉熊はいずれもラテンアメリカのボクサーとの防衛戦で王座を明け渡した。1992年には[[勇利アルバチャコフ|勇利・アルバチャコフ]]が世界王者となるが、そのボクシングの根本は母国ロシアで育まれたものであった。[[ピューマ渡久地|渡久地隆人]]はアルバチャコフの世界王座に挑戦して敗れ、井岡弘樹、山口圭司、[[川端賢樹]]らが同じ1990年代に世界挑戦に失敗、2000年の世界戦では[[セレス小林]]が引き分けに終わり、[[浅井勇登]]、[[本田秀伸]]、[[トラッシュ中沼]]らが敗れた<ref name="04p231" />。 | ||
+ | |||
+ | === スーパーフライ級 === | ||
+ | 初代日本王者は[[古口哲]]との決定戦を制した[[ジャッカル丸山]]。丸山はWBAの初代王座決定トーナメントを準決勝で敗退。翌1981年にはWBC王者の[[金チョル鎬|金喆鎬]]に挑戦して失敗。金には、この前後10か月足らずの間に、[[渡辺二郎]]、石井幸喜も退けられている<ref name="04p232">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=232}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | 1982年、渡辺はWBA王座を獲得し、この階級で日本初の世界王者となり、丸山は日本王座に復帰した。渡辺は1984年にWBC王者の[[パヤオ・プーンタラット]]に勝利し、試合当日に剥奪された自身のWBA王座との事実上の[[統一世界王者|王座統一]]を果たしていた。この前後、日本からは小熊正二、[[勝間和雄]]らが渡辺に挑戦して退けられた。渡辺はさらに1985年に韓国で日本人世界王者初となる海外防衛にも成功した。ドライな渡辺に対し<ref name="04p232" />、丸山の試合は両者合わせて9度のダウンを奪い合った<ref>{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=192}}</ref>関博之との再戦をはじめとして旧日本的な「精神と肉体の劇」であったと言われる<ref name="04p232" />。 | ||
+ | |||
+ | 丸山を倒して日本王者となった[[畑中清詞]]は[[ヒルベルト・ローマン]]への挑戦に失敗した後、スーパーバンタム級で世界王者となった<ref name="04p232" />。ローマンには[[内田好之]]も退けられ、[[カオサイ・ギャラクシー]]には[[松村謙二]]、[[中島俊一]]が挑戦して失敗した。日本初の東洋太平洋王者・[[杉辰也]]を下した[[鬼塚勝也]]は1992年に世界王者となった。[[川島郭志]]は1994年に世界王座を獲得。1997年の[[ジェリー・ペニャロサ]]とのラストファイトは、渡辺対[[ヒルベルト・ローマン]]戦に匹敵する技術戦であった。[[田村知範]]は世界挑戦に失敗。1997年にWBAの世界王者となった[[飯田覚士]]は井岡弘樹らを退け[[ヘスス・ロハス]]に王座を明け渡すが、ロハスに勝って世界王者となったのが戸髙秀樹であった。この王座は戸髙から[[レオ・ガメス]]、[[セレス小林]]、[[アレクサンドル・ムニョス]]へとKO、TKOで引き継がれていく。ムニョスには[[小島英次]]、本田秀伸が退けられている。2000年にWBC王者となった[[徳山昌守]]はこの時期、世界王座を8度防衛し、東洋太平洋・日本王者としては[[名護明彦]]、[[柳光和博]]、[[佐々木真吾]]、[[石原英康]]らが活躍した<ref name="04p233">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=233}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === バンタム級 === | ||
+ | 日本のボクサーとして初の世界ランカーとなった[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]の徐廷権、[[全日本アマチュアボクシング選手権大会|全日本選手権]]を連覇した原靖らが黎明期の基礎を築いた。[[ピストン堀口]]の実弟で初代日本王者となった[[堀口宏]]から王座を奪った[[花田陽一郎]]、[[白井義男]]はいずれもその試合で2階級制覇を達成した。堀口は初代東洋王座決定戦では[[フラッシュ・エロルデ]]に判定負けを喫している。この王座は後に[[小室恵市]]、[[三浦清]]が獲得した。日本王者の[[石橋広次]]や[[稲垣健治]]は[[キューバ]]のマヌエル・アルメンテロスの強打に打ち負かされるが、1960年には[[米倉健司]]が[[ホセ・ベセラ]]の世界王座に肉迫した。米倉を下して東洋王者となった[[青木勝利]]が「黄金のバンタム」の異名をとる[[エデル・ジョフレ]]の世界王座に挑戦して退けられ、「ロープ際の魔術師」と呼ばれた[[ジョー・メデル]]が日本のトップボクサーたちをことごとく下した後、[[ファイティング原田]]がジョフレから世界王座を奪い、日本初の世界王者となったのは1965年のことだった。1964年に原田がライバルと目された青木を一方的に打倒した試合は史上最大のノンタイトルマッチと言われる<ref name="04p234">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=234}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | その後、原田の後継者として、ノンタイトルで原田に善戦した[[斎藤勝男]]、メキシコで世界1位を下した中根義雄、[[東京オリンピック]]金メダリストで東洋王者の[[桜井孝雄]]、「小型原田」と言われた[[高木永伍]]、実弟の[[牛若丸原田]]、米国をはじめとして諸外国へ遠征を繰り返した[[内山真太郎]]、[[大木重良]]、[[メキシコオリンピック]]銅メダリストの[[森岡栄治]]らが期待を集める中、技巧派の[[金沢和良]]が[[ルーベン・オリバレス]]との再戦で死闘の末に敗れた一戦は国内世界戦史上に残るインパクトをもたらした。ラテンアメリカの覇権がバンタム級をも覆っていた1970年代以降の世界戦では、[[沼田剛]]が[[ロドルフォ・マルチネス]]に、[[ワルインゲ中山]]が[[カルロス・サラテ]]に<ref name="04p234" />、[[磯上修一]]が[[ホルヘ・ルハン]]に、[[ハリケーン・テル]]が[[ルペ・ピントール]]に退けられた。この時期、アマチュアの[[アジア競技大会|アジア王者]]からプロへ転向し、日本王者となった[[石垣仁]]らがいた。東洋王座を12度防衛し、4度の世界挑戦で2度引き分けた[[村田英次郎]]のピントール戦はオリバレス対金沢戦に匹敵する激闘であった<ref name="04p235">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=235}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | 1987年にはスーパーバンタム級から階級を下げた[[六車卓也]]が世界王者となる。後楽園ホールでは[[今里光男]]、[[高橋ナオト]]、[[小林智昭]]、[[島袋忠]]らがしのぎを削り、中でも高橋は世界王者と同等の人気を博した。[[辰吉丈一郎|辰{{JIS2004フォント|𠮷}}{{JIS2004フォント|𠀋}}一郎]]は4戦目で日本王座、8戦目で世界王座を当時の最短記録で獲得し、[[網膜裂孔]]、[[網膜剥離]]のためにブランクを繰り返しながら、[[暫定王座|暫定]]を含めれば世界王座を3度獲得した。1994年の[[正規王者]]・[[薬師寺保栄]]との統一戦は、ビジネス規模において日本プロボクシング史上最大であった。辰{{JIS2004フォント|𠮷}}以後の主力選手は日本王座を7度防衛した[[グレート金山]]、[[仲宣明]]、5度防衛した川益設男(後の[[瀬川設男]])らから[[西岡利晃]]、[[長谷川穂積]]、[[サーシャ・バクティン]]らへと引き継がれ<ref name="04p235" />、長谷川は2005年に世界王座を獲得、10度の防衛を果たした<ref>{{Cite web|url=http://www.jiji.com/jc/v2?id=hozumi_hasegawa_16|title=特集 長谷川穂積〜最強への軌跡〜【16】バイオグラフィー|date=2011年4月8日|publisher=[[時事通信社]]|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === スーパーバンタム級 === | ||
+ | 1922年、[[荻野貞行]]が日倶認定の初代日本王者となり、[[高橋一男]]、[[木村久]]が続いた。戦後は[[太郎浦一]]が王者となっている。1969年、半年余りの間に行われた[[清水精]]と[[東京オリンピック]]強化選手の[[中島健次郎]]の3連戦はすべて逆転KOで決着した<ref name="04p236">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=236}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | 階級新設後のWBCの初代王者は、1976年4月に[[パナマ市]]で行われた決定戦で[[メキシコシティオリンピック]]銀メダリストの[[ワルインゲ中山]]を下した[[リゴベルト・リアスコ]]。[[ミュンヘンオリンピック]]に出場した[[ロイヤル小林]]は[[アレクシス・アルゲリョ]]に挑戦して失敗、リアスコへの2度目の挑戦で世界王者となった。ソウルで王座を失った後、小林は[[ウィルフレド・ゴメス]]に挑み、KO負けを喫するが、3回にゴメスが見せた左フックは歴史に残る一撃であった。1991年には畑中清詞が2度目の挑戦で初回のダウンを挽回して名古屋のジム初の世界王者となる。2002年には[[佐藤修 (ボクサー)|佐藤修]]が同じく2度目の挑戦で逆転KOにより王者となった<ref name="04p236" />。 | ||
+ | |||
+ | 初代東洋王者は[[坂本春夫]]。上述([[#1960年代 ]])の「ボクシング教室」出身で東洋王者となった[[石山六郎]]は天才的なボクサーとして人気を集めた。[[湯通堂清秀]]は1967年、韓国人の東洋王者を右フックでロープ下へ吹っ飛ばしているが、[[岡田晃一]]が1971年に王座を失った後、日本人は20年以上この王座を奪回することはなかった。1989年、高橋ナオトが[[マーク堀越]]から日本王座を奪った試合は逆転KOによる日本ボクシング史を代表する名勝負だった。アマエリートで[[ラスベガス]]などで修行した[[葛西裕一]]は世界初挑戦に失敗した後、[[ホノルル]]、[[カラカス]]に遠征。帰国後の1995年に東洋太平洋王者となり、その後石井広三、[[大和心]]らが同王者となった。第28代東洋太平洋王者の[[仲里繁]]は、2003年に[[オスカー・ラリオス]]の世界王座に挑戦。5回にダウンを奪われながらも反撃して王者の顎を砕いたが、王座獲得はならず<ref name="04p237">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=237}}</ref>、翌年の再挑戦にも失敗<ref>{{Cite web|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200403/0306sn_02.html|title=仲里、奮闘及ばず判定負け WBCSバンタム級タイトル戦|date=2004年3月6日publisher=[[スポーツナビ]]|accessdate=2012年7月?日}}</ref>、2005年のマヤル・モンシプールへの挑戦ではTKO負けを喫した<ref>{{Cite web|url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-1802-storytopic-2.html|title=仲里6回TKO負け ボクシング世界王者戦|date=2005年4月30日|publisher=[[琉球新報]]|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === フェザー級 === | ||
+ | 黎明期には[[中村金雄]]、[[玄海男]]、[[ピストン堀口]]らの活躍したフェザー級が日本を代表する階級だった。戦後初の日本王者となった[[ベビー・ゴステロ]]は変則的なテクニックで28連勝を記録した。[[後藤秀夫]]、[[中西清明]]らの多彩なボクサーがおり、[[金子繁治]]は後にスーパーバンタム級で世界王者となる[[フラッシュ・エロルデ]]に4戦4勝したが、この階級の世界王者[[サンディ・サドラー]]とのノンタイトルマッチでは一方的なTKO負けを喫した。その後は[[大川寛]]、[[小林久雄]]、[[池山伊佐巳]]らが登場。[[高山一夫 (ボクサー)|高山一夫]]は2度の世界挑戦に失敗。東洋王座を12度防衛した[[関光徳]]はフライ級で1度、フェザー級で4度の世界挑戦に失敗するが、1964年の[[シュガー・ラモス]]への挑戦では痛烈なダウンを奪い、日本人で初めて世界王座に接近した。関を下した[[小林弘]]は[[益子勇治]]との激戦で日本王者となり、後に1階級上げて世界王者となった。その後、[[斎藤勝男]]、[[千葉信夫]]が東洋王者となり、日本の黄金時代の基礎を固めていった<ref name="04p238" />。 | ||
+ | |||
+ | 1968年に[[西城正三]]がロサンゼルスでWBA王者を破り、全階級を通じて日本人として初めて国外での世界挑戦を成功させ、1970年には[[柴田国明]]がメキシコでWBCの世界王者となった<ref name="04p238" />。西城は5度、柴田は2度防衛した。[[歌川善介]]は世界王座決定戦に敗れ、[[ミュンヘンオリンピック]]代表で東洋王座を7度防衛し、後にスーパーバンタム級で世界王者となった[[ロイヤル小林]]も世界挑戦に失敗。2度日本王者となった[[フリッパー上原]]、米国遠征で後の世界王者[[ダニー・ロペス]]をノックアウトした[[シゲ福山]]、日本王座を13度防衛した[[スパイダー根本]]も世界挑戦に失敗。1970年代にはアマチュアでアフリカ王者だった[[友伸ナプニ]]や田中敏之(後の[[五代登]])らも登場した。1980年代後半、[[来馬英二郎]]、[[飯泉健二]]らと激戦を演じた[[杉谷満]]は日本タイトル戦11試合のうち10試合がKO決着で世界挑戦ではKO負けを喫した。[[竹田益朗]]、[[松本好二]]、[[浅川誠二]]、[[平仲信敏]]、[[渡辺雄二]]、[[越本隆志]]らが世界戦で敗れた<ref name="04p239">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=239}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === スーパーフェザー級 === | ||
+ | 初代日本王者は大日拳認定の[[田中禎之助]]。第2代は帝拳認定の[[佐藤東洋]]、戦後の初代日本王者は[[高田安信]]であった<ref name="04p309" />。東洋太平洋では、1963年3月に王者の[[勝又行雄]]が2度のダウンを喫しながら[[高山一夫 (ボクサー)|高山一夫]]を6回の右フック一発で逆転KO勝利を果たした防衛戦が壮絶で<ref name="04p309" />、[[寺山修司]]はこれを「奇蹟の逆転」と表現し、勝又を「忘れがたい男」と書いている<ref>{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=108}}</ref>。日本王者の[[奄島勇児]]は[[サウスポー#ボクシングにおけるサウスポー|コンバーテッド・サウスポー]]で右フックが強く、[[沼田義明]]をKOで下して初黒星を与えた<ref name="04p309" />。 | ||
+ | |||
+ | 1964年、[[小坂照男]]が[[フラッシュ・エロルデ]]の世界王座に挑戦。最終回のエロルデのラッシュで試合は止められるが、それまで善戦していたためストップが早過ぎると騒がれた。1967年には沼田義明がエロルデを下して世界王者となる。3回にはエロルデの左ストレートでダウンを喫していたが、それによって動きの硬さがとれ、4回以降は王者を翻弄した。初防衛戦では[[小林弘]]と対戦し、日本人同士の初の世界タイトルマッチに負けて王座を失ったが、1970年にWBCで世界王座に復帰。[[ラウル・ロハス]]との初防衛戦では大逆転KO勝利を果たした。その後、[[岩田健二]]、[[岡部進 (ボクサー)|岡部進]]、[[アポロ嘉男]]らが世界戦で敗れた。1973年、[[柴田国明]]がホノルルで世界王座の2階級制覇に成功<ref name="04p308" />。1973年にはジョージ・フォアマン戦の前座で[[柏葉守人]]が世界挑戦に失敗。1980年に[[上原康恒]]がデトロイトで[[サムエル・セラノ]]を逆転KOで下し、世界王者となった。1990年代は竹田益朗、渡辺雄二、[[三谷大和]]が世界挑戦に失敗。1998年には日本王者の[[コウジ有沢]]が[[畑山隆則]]を挑戦者に迎えての防衛戦を[[両国国技館]]で行い、両者は[[クリンチ]]の少ない真っ向勝負を見せた。畑山はこれを前哨戦として同年、世界王者となった<ref name="04p309" />。 | ||
+ | |||
+ | === ライト級 === | ||
+ | 初代日本王者は日倶認定の[[臼田金太郎]]で、[[緒方哲夫]]、[[小林信夫]]、[[ジョー・サクラメント]]と続いた。日本王座を19度防衛した[[秋山政司]]は東洋王座の初防衛戦で17歳の[[沢田二郎]]に5度倒されて負け、引退した。<ref name="04p311">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=311}}</ref>。東洋王者の[[門田新一]]は[[ガッツ石松]]と2度戦い、1勝1敗。1962年、小坂照男が世界挑戦に失敗<ref name="04p310">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=310}}</ref>。オリンピック候補にもなった[[染谷彰久]]は1967年に[[マニラ]]で前世界王者のフラッシュ・エロルデを判定で下し、世界1位にランクされたが、1968年に大阪で開催されたグレグ・ギュルレ戦では8回までポイントで上回っていたものの、9回開始時に微熱と真夏の暑さのためにコーナーを出ることができず、試合放棄と見なされてKO負け。その直後に我にかえり、リング上でファンに土下座をした。1969年に沼田義明が[[ロサンゼルス]]で世界王座に挑戦して失敗<ref name="04p310" />。染谷が返上した日本王座は[[辻本英守]]が右アッパーによるKO勝利で獲得。1973年にはホノルルでデビューした[[バズソー山辺]]が[[高山将孝]]を下している。その後、[[バトルホーク風間]]、[[尾崎富士雄]]、[[シャイアン山本]]らが日本王者となった<ref name="04p311" />。 | ||
+ | |||
+ | 1974年には、ガッツ石松が3度目の挑戦で世界王者となり、高山将孝は[[コスタリカ]]で挑戦失敗。石松は1976年、[[プエルトリコ]]の[[バヤモン]]で自身初の国外防衛に挑み、王座を失った。その後は1993年になって[[オルズベック・ナザロフ]]が[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[ヨハネスブルグ]]で世界王座を獲得した。畑山隆則は2000年6月、スーパーフェザー級の世界王座防衛失敗からの再起戦で2階級制覇に成功した。10月に行われた[[坂本博之]]との初防衛戦は歴史に残る激闘となった<ref name="04p310">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=310}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === スーパーライト級 === | ||
+ | 戦後初の日本王者は1964年に[[窪倉和嘉]]との互いに連勝中のサウスポー同士の王座決定戦を制した[[岡野耕司]]。しかし、それ以前に日本のボクサーたちは東洋・世界で王座を争っていた。アマチュア出身の[[川上林成]]は1937年、プロ4戦目にしてマニラへ赴き、世界5位の[[ロベルト・クルス]]をノックアウト。クルスは翌年に初回KOで世界王者となっている。同じくアマチュア出身の[[高橋美徳]]はウェルター級で世界ランカーとなり、1939年に日本人として初めてスーパーライト級で世界王座に挑戦<ref name="04p312" />。しかしKO負けを喫して試合会場から病院へ直行した<ref name="04p313" />。 | ||
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+ | 米国籍で<ref name="04p312">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=312}}</ref>ハワイ出身、日系3世の[[藤猛]]は1967年、[[サンドロ・ロポポロ]]を2回KOで破り、世界王者となった。藤以後は[[ライオン古山]]が1969年4月から1977年10月まで国内無敵を誇ったが、世界挑戦には3度失敗している。古山はキャリア晩年に[[三迫ボクシングジム]]の輸入ボクサーであったクォーリー・フジをKO寸前に追い込みながら逆転KO負け。試合後にはフジが[[モントリオールオリンピック]]代表選考会の決勝を[[シュガー・レイ・レナード]]と争った[[ブルース・カリー]]であったことが判明した。1980年代前半には無敗の日本ウェルター級王者・[[亀田昭雄]]がこの階級で世界挑戦の機会を狙い、[[赤井英和]]はデビュー以来の連続KO記録で人気を集めていた。上述のように([[#1980年代]])「冬の時代」と呼ばれて会場から客足が遠のきつつあった当時、赤井の試合があるとチケットが飛ぶように売れた。世界王者となったカリーへの挑戦は打ち合いの果てにTKO負けに終わるが、赤井の人気は衰えず、1984年6月には[[大阪城ホール]]での中堅選手との試合に、近畿大学記念館で行われた世界戦と同じ<ref name="02p255">{{Harvnb|『日本プロボクシング史』|2002|p=255}}</ref>12,000人の観衆を集めた。ボクシング人気回復の切り札として亀田と赤井の対戦が期待されたが、亀田は東洋太平洋戦で敗れ、赤井は世界再挑戦の前哨戦で負傷し、実現しなかった。1980年代後半にはライト級から階級を上げた[[浜田剛史]]が初回KOで世界王座を獲得。1992年には浜田と同じ沖縄出身の[[平仲明信]]が初回TKOで世界王者となった。平仲以後、[[ソウルオリンピック]]金メダリストで輸入ボクサーとしてプロデビューしたスラフ・ヤノフスキーが無敗のまま日本を去ると、[[桑田弘]]、[[新井久雄]]、[[小野淳一]]らが国内の安定王者となった。[[佐竹政一]]は東洋太平洋王座を9度防衛し、アジア無敵として世界奪取の期待が高まったが<ref name="04p313" />、世界挑戦の機会は得られないまま10度目の防衛に失敗して引退した<ref>{{Cite web|url=http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sport04/1023jf50750.html|title=佐竹が引退表明 東洋太平洋Sライト級前王者|date=2004年10月23日|publisher=[[神戸新聞]]|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === ウェルター級 === | ||
+ | 初代日本王者は日倶認定の[[川田藤吉]]。その後、[[野口修]]、[[臼田金太郎]]、[[名取芳夫]]らが続く。戦後の初代王者は[[河田一郎]]。河田を倒したのが[[辰巳八郎]]で王座を2度獲得し、階級を上げた。同じく日本王者となった[[羽後武夫]]は引退後、レフェリーを務め、[[モハメド・アリ]]対[[ジョー・バグナー]]戦などを裁いた。1960年代、帝拳ジムは人気選手を抱えて黄金時代と呼ばれる時期を迎えていたが、その人気選手の一人が[[渡辺亮 (ボクサー)|渡辺亮]]で、1961年に沢田二郎の王座を奪い、都合3度日本王者となった。元アマチュア・エリートの[[辻本章次]]を破った亀田昭雄は日本王座を12度防衛。1988年、[[吉野弘幸 (ボクサー)|吉野弘幸]]は不利予想を覆し、[[坂本孝雄]]をノックアウトして日本王者となった。他に[[佐藤仁徳]]、[[加山利治]]らが日本王者となった<ref name="04p315">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=315}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | [[福地健治]]は沢田らを相手に東洋太平洋王座を4度防衛した後、マニラで[[フィリピーノ・ラバロ]]に敗れて王座を失い<ref name="04p314" />、翌年にはラバロに雪辱を果たして王座に復帰し、引退した。高橋美徳は渡辺亮との決定戦を制して東洋太平洋王者となった。[[ムサシ中野]]は1967年に東洋太平洋王座を獲得。しかし「世界ウェルター級挑戦者決定戦」と銘打たれた試合で[[アーニー・ロペス]]に負け、24歳で東洋太平洋王座を保持したまま引退した<ref name="04p315" />。[[龍反町]]や中野を破った[[南久雄]]は1968年に前世界[[スーパーウェルター級|ジュニアミドル級]]王者の[[金基洙]]を下して東洋のミドル級王者となり<ref name="04p316">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=316}}</ref>、翌年空位のウェルター級王座を獲得して2階級を制覇。反町は1970年にKO勝利で東洋王者になると1979年まで王座を守った<ref name="04p315" />。 | ||
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+ | 1976年、辻本章次が18歳の世界王者[[ホセ・クエバス]]に挑戦。5回まで善戦したが6回に3度倒されて敗退。1978年、反町がラスベガスで挑戦失敗。1988年、[[尾崎富士雄]]が[[アトランティックシティ]]で[[マーロン・スターリング]]の世界王座に挑戦。終盤には主導権を奪い、最終回にロープに詰めて連打を叩き込むとスターリングはダメージを負って[[マウスピース]]を吐き出した<ref name="04p314">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=314}}</ref>。当時の「[[ニューヨーク・タイムズ]]」には、王者が尾崎より優れていることは明らかだったものの、軽いパンチを当てるだけで単なるジムワークのように戦う王者に試合の間じゅうブーイングが起こり、8回と9回の間のインターバルではプロモーターが王者を怒鳴りつけ、[[ユナニマス・デシジョン]]で勝った王者のパフォーマンスにプロモーターと4,925人の観客の多くが当惑したと記述されている<ref>{{Cite web|url=http://www.nytimes.com/1988/02/06/sports/starling-is-winner-in-lackluster-effort.html|title=Starling Is Winner In Lackluster Effort|author=Phil Berger|date=1988年2月6日|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|language=英語|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === スーパーウェルター級 === | ||
+ | [[力道山]]が重量級ボクサー育成のために設立したリキジムの[[溝口宗男]]が1966年7月に初代日本王者となる。[[金沢英雄]]は日本ウェルター級王座に挑戦して敗れた後、スーパーウェルター級で東洋王座を獲得し、防衛を重ねた。この頃、米国のスーパーウェルター級に対する関心はまだ薄く、日本の経済力は世界戦開催が可能なところまで成長していた。ミドル級、ウェルター級で東洋を2階級制覇した[[南久雄]]は1969年12月にスーパーウェルター級で世界王座に挑戦し、2回KO負けで失敗。2か月前には12戦全勝 (11KO) で台頭してきた日本王者の[[輪島功一]]が2階級下の世界王者[[ペドロ・アディグ]]とのノンタイトルマッチに初回KOで敗れ、[[東京慈恵会医科大学附属病院]]に運び込まれていた。輪島陣営はこの階級で世界王者になるのは難しいと考え、アディグに勝てばスーパーライト級で世界挑戦させようとしていたため、輪島は厳しい減量をして臨んでいた。アディグ戦から4か月後、輪島は日本王座を[[ジョージ・カーター]]に奪われるが、2か月後の再戦で王座に復帰。南と金沢をノックアウトし、1970年に[[ローマオリンピック]]金メダリストの[[カルメロ・ボッシ]]の世界王座に挑戦。反則すれすれの動きで王者を幻惑して世界王座を獲得し、欧州の正統派、中南米の技巧派を相手に防衛を続け、当時のスーパーウェルター級最多連続防衛記録を残している<ref name="04p316" />。輪島所属の三迫ジムは王座の国外流出を防ぐため、[[タイトルマッチ#興行権(オプション)|オプション]]を活かして輪島の王座を奪った[[オスカー・アルバラード]]の初防衛戦には龍反町を、[[柳済斗]]には[[三迫将弘]]を挑戦させた。反町、三迫は退けられるが、輪島は2度も王座を奪還した。当時、テレビの[[ボクシング中継]]が衰退する一方で、まだ[[ゴールデンタイム]]で日本タイトルマッチが放映されることもあり、輪島は日本人の持つ[[浪曲|浪花節]]的な感覚を刺激して全国区の人気を博していた。世界王座に2度目の復帰を果たした直後、東京・[[新宿区]]で起きた銀行強盗事件で犯人が立てこもった時<ref name="04p317">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=317}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.npa.go.jp/kouhousi/police-50th/hensen/s50_jiken.html|title=事件・事故・災害 昭和50年代 警察活動の変遷|publisher=[[警視庁]]オフィシャルウェブサイト|accessdate=2012年7月?日}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.npa.go.jp/hakusyo/s52/s520300.html|title=昭和52年 警察白書 第3章 犯罪情勢と捜査活動 – 2犯罪の特徴的傾向 (2) 銃器使用犯罪の増加 〔事例1〕|publisher=警視庁オフィシャルウェブサイト|accessdate=2012年7月?日}}</ref>、警察官は「自首をして、あの輪島の根性を見習って人生をやり直してみろ」と言って説得している<ref name="04p317" />。 | ||
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+ | 1978年、無敗の日本ミドル級王者・[[工藤政志]]が世界王座を獲得。しかし、それまでウェルター級、ミドル級で活躍していた米国や中南米のトップボクサーたちがこの階級を狙い始めていた。[[三原正]]は1981年に米国で24戦全勝の[[ロッキー・フラット]]を下し空位の世界王座を獲得するが、初防衛戦で[[デビー・ムーア (1959年生)|デビー・ムーア]]と打ち合って王座を失うと、上述([[#1980年代]])のように覇権を握っていた米国のリングから[[シュガー・レイ・レナード]]、[[トーマス・ハーンズ]]、[[ロベルト・デュラン]]らスーパースターの勢力が流れ込み、世界王座は日本人には縁遠いものとなっていった。1980年代には[[カーロス・エリオット]]、[[田端信之]]らが登場。エリオットは後に[[グアドループ]]の[[ポワンタピートル]]で世界王座に挑戦したが、顎を骨折して失敗。田端はウェルター級、スーパーウェルター級で日本王座の2階級制覇を果たしミドル級へ転向したが、3階級制覇には失敗している。[[上山仁]]は1989年から1995年にかけて日本王座で当時最多となる20度連続防衛を記録。1991年12月にはウェルター級王者の吉野弘幸とノンタイトルマッチで対戦し、7回TKOで下している。ともに日本王座を10度連続防衛中で、派手なKOで人気の吉野に対し<ref name="04p317" />、堅実な正統派スタイルの上山はかつて4回戦時代に引き分け、日本初挑戦でKO負けを喫しており、この2度の吉野戦以外は全勝であった<ref>{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=354}}</ref>。3度目の対戦が決まり、上山が「おかげでこっちは裏街道。ボクサー生命賭けてます」と言えば、吉野は「中盤までに倒します。また負けても根に持たないでネ」と返し、戦前から試合を盛り上げた。上山の王座返上後、同じ[[新日本木村ボクシングジム]]所属で元アマチュア・エリートの[[伊藤辰史]]が[[大東旭]]との決定戦を制して王者となるが、大東との再戦で不用意なパンチを受けてKO負けで王座を失い、再三の不運な判定で王座を奪還できないまま引退した。1990年代後半、地元大阪で防衛を重ねた大東は世界挑戦の機会が得られないまま王座を返上。大東に幕を引かせたのが[[石田順裕]]であり、東洋太平洋と日本の王座を保持していたのが金山俊治(後の[[クレイジー・キム]])であった<ref name="04p317" />。 | ||
+ | |||
+ | === ミドル級 === | ||
+ | 1947年、[[新井正吉]]が戦後初代日本ミドル級王者となる。第2代王者は戦前のフェザー級王者・[[堀口恒男]]。1950年代には日本ミドル級創世記に最も貢献した[[辰巳八郎]]が登場。辰巳は日本タイトルマッチ21勝 (2KO) 1敗1分の記録を残しているが、ウェルター級時代が選手としての全盛期で、ミドル級での実績は選手層の薄さによるものでもあり、東洋のタイトルマッチでは5勝6敗であった。しかし東洋王座は辰巳の他に、[[大貫照雄]]、[[海津文雄]]、[[権藤正雄]]も獲得し、他のアジア諸国のレベルも日本と大差はなかった。1952年4月に辰巳が[[羽後武夫]]との防衛戦で判定勝利を収めてから1963年2月に[[前溝隆男]]が[[斎藤登]]から判定で王座を奪取するまでの約11年間、日本ミドル級タイトルマッチは25試合連続で判定決着であった。同じボクサー同士の対戦が多かったのも、この階級の特徴である。1960年代前半には前溝、斎藤、[[金田森男]]、海津、権藤の5人が総当たり戦を展開した。特に東洋タイトルマッチで初回48秒KO勝ちを記録した海津は爆発的な人気を博したが、後に世界王者となった[[金基洙]]や世界ランカーのスタン・ハーリントンらには完敗している<ref name="04p318">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=318}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | 後にスーパーウェルター級で世界挑戦する南久雄が金を下して東洋王者となった後、1970年代初めには[[アフリカ系アメリカ人|アフリカ系米国人]]と日本人のハーフの[[カシアス内藤]]が登場。[[アウトボクシング]]で22連勝を重ね、日本・東洋の王座を獲得したが、[[柳済斗]]に敗れて東洋王座を失い、柳は東洋タイトルマッチで日本人に15戦全勝を記録した。1980年代の韓国の黄金時代に先駆け、ミドル級ではフィジカルで優る韓国勢に圧されていた。国内では米軍属選手のジョージ・カーター、[[フラッシャー石橋]]らが日本王者となり、カーターは日本王座を2階級制覇、石橋は世界ランカーのビル・ダグラスとの対戦にKO負けを喫している。その後、日本王座を8度防衛し、スーパーウェルター級で世界王者となった工藤政志、アマチュアのアジア王者でプロ入り後は工藤が返上した日本王座の決定戦に出場したが体重超過で失格、ミドル級とライトヘビー級で東洋王座に挑戦した鈴木利明が登場、1980年代の日本王者には2階級制覇を果たした[[柴田賢治]]、5度防衛した[[千里馬啓徳]]、デビュー以来5階級上げて王座を獲得した[[大和田正春]]、後に俳優になった[[大和武士]]、フィジカルの強いファイターの[[西條岳人]]らがいた。1990年代には[[竹原慎二]]が全日本新人王、日本王座、東洋太平洋王座を獲得し、1995年に世界王者となったが、[[ウィリアム・ジョッピー]]との初防衛戦に敗れると眼疾も発覚して現役を引退した。竹原以後は、スーパーウェルター級から転向し、2階級を制覇した[[ビニー・マーチン]]や米海軍所属で日本・東洋太平洋の両王座を獲得し、世界の上位ランカーとなった[[ケビン・パーマー]]、元高校ライトヘビー級王者で日本・東洋太平洋を制し、ジョッピーの世界王座に挑戦した[[保住直孝]]、日本王座を9度防衛した[[鈴木悟]]らの個性的な選手が活躍した<ref name="04p319">{{Harvnb|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004|p=319}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === スーパーミドル級 === | ||
+ | 日本・東洋太平洋のミドル級王者となった[[田島吉秋]]は1980年、スーパーミドル級の世界王座に日本人として初挑戦。韓国でWBA王者の[[白仁鉄]]に挑戦し、7回TKO負けを喫した。階級が新設されて間もなく、世界ランカーの層が薄かったため、日本ではミドル級に先駆けての挑戦であった<ref name="04p319" />。[[西澤ヨシノリ]]は日本ミドル級王座、東洋太平洋スーパーミドル級王座を獲得した後、2004年に38歳の日本最高齢記録でWBAの世界王座に挑戦した<ref name="04p319" />。 | ||
+ | |||
+ | しかし、スーパーミドル級からクルーザー級までの3階級で日本王座が新設されたのは2009年9月で、他階級からは大幅に遅れをとっている<ref name="boxon20090924">{{Cite web|date=2009年9月24日|url=http://boxingnewsboxon.blogspot.com/2009/09/blog-post_24.html|title=日本にS・ミドル級超ランキング設置|publisher=ボクシングニュース「Box-on!」|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === ライトヘビー級 === | ||
+ | [[寺地永]]はミドル級で日本王者となった後、日本人として初めて東洋太平洋ライトヘビー級王座を獲得した<ref name="04p319" />。 | ||
+ | |||
+ | === クルーザー級 === | ||
+ | [[西島洋介山]]は1990年代中盤からヘビー級ボクサーとして米国を拠点に活動し、世界王者以上の注目を集めたこともあったが、本来のベストウェイトのクルーザー級では東洋太平洋やWBOの下部組織である[[北米ボクシング機構|NABO]]、マイナー団体の[[世界ボクシング基金|WBF]]の王座を獲得した<ref name="04p319" />。 | ||
+ | |||
+ | === ヘビー級 === | ||
+ | 戦前には大関であった[[武藏山武]]のボクシング転向が計画されたものの実現には至らなかったが、1957年に大相撲出身の[[片岡昇]]が戦後初代日本ヘビー級王者となる。体重約80キログラムの片岡は防衛戦を行わずに引退し、王座はJBC預かりとなった。[[モハメド・アリ]]や[[ジョージ・フォアマン]]の来日を経た1970年代中盤には、米国でデビューして5連続KO勝利を収めた[[コング斉藤]]が逆上陸。日本では世界王者並みの関心を集めたが、ミドル級の選手にノックアウトされるなど実力不足を露呈した<ref name="04p318" />。その後、「和製タイソン」と呼ばれた西島洋介山が登場し、NHK衛星放送が米国での試合を録画中継した。高橋良輔は国外の選手を相手に勝利を重ね、2005年に日本人として初めて東洋太平洋ヘビー級王座に挑戦した<ref>{{Cite web|url=http://www.47news.jp/topics/entertainment/2009/04/post_2146.php|title=コングから西島、高橋 話題の日本人ヘビー級|author=草野克己|date=2009年04月21日|publisher=[[47NEWS]]|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。その後、[[竹原真敬]]が台頭したが、日本王座がJBC預かりとなっていた当時はいずれの選手も国内では試合数が限られ、JBCのボクサーライセンスを維持しながらの活動は難しく、西島はライセンスを剥奪され、竹原も返上を余儀なくされたことがあった。[[オケロ・ピーター]]は東洋太平洋王座を獲得し、2006年に[[オレグ・マスカエフ]]の世界王座に挑戦したが、判定で敗れている<ref>{{Cite web|url=http://www.nikkansports.com/battle/news/p-bt-tp0-20120429-942288.html|title=日本ヘビー級は慢性的な選手不足|date=2012年4月29日|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2012年7月?日}}</ref>。日本王座は2009年9月にスーパーミドル級からクルーザー級までの3階級が新設されると同時に再設置された<ref name="boxon20090924" />。 | ||
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== 脚注 == | == 脚注 == | ||
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== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
* 『ボクシング百年』[[郡司信夫]] [[時事通信社]] 1966年(1976年改訂再版)- [[#黎明以前]]および[[#黎明期]]で使用 | * 『ボクシング百年』[[郡司信夫]] [[時事通信社]] 1966年(1976年改訂再版)- [[#黎明以前]]および[[#黎明期]]で使用 | ||
− | * 『ボクシング見聞記』下田辰雄 [[ベースボール・マガジン社]] | + | * 『ボクシング見聞記』下田辰雄 [[ベースボール・マガジン社]] 1982年1月 ISBN 978-4583021409 - [[#黎明以前]]および[[#黎明期]]で使用 |
+ | * {{Cite book|和書|editor=[[ボクシング・マガジン]]編集部|title=日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年|date=2002年5月31日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03695-3|pages=pp. 40–41、74–75、 118–119、 182–183、206–207、255、261–262、286–287、291|ref={{SfnRef|『日本プロボクシング史』|2002}}}} | ||
+ | * {{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部|title=日本プロボクシングチャンピオン大鑑|date=2004年3月1日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03784-4|pages=pp. 66–67、192、226–239、308–319|ref={{SfnRef|『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』|2004}}}} | ||
+ | * {{Cite journal|和書|author1=寺内大吉|authorlink1=寺内大吉|author2=佐瀬稔|authorlink2=佐瀬稔|author3=芦沢清一|author4=粂川麻里生|date=1993年7月31日|journal=[[ボクシング・ビート|ワールド・ボクシング]]|issue=7月号増刊|pages=pp. 54–55、78–79、128–129、150–151|title=日本のリング変遷史|publisher=[[日本スポーツ出版社]]|ref={{SfnRef|寺内|佐瀬|芦沢|粂川|1993}}}} | ||
+ | * {{Cite journal|和書|author=[[ジョー小泉]]|date=1988年5月15日|journal=ボクシング・マガジン|issue=5月号増刊(『日本ボクシング年鑑』 1988年版)|title=東洋|page=p. 18|publisher=ベースボール・マガジン社|ref={{SfnRef|小泉|1988}}}} | ||
+ | * {{Cite journal|和書|author1=宮崎正博「日本」|author2=[[原功 (ボクシング)|原功]]「世界」、|date=1989年4月30日|journal=ボクシング・マガジン|issue=4月号増刊(『日本ボクシング年鑑』 1989年版)|page=pp. 12–13、15、20|publisher=ベースボール・マガジン社|ref={{SfnRef|宮崎|原|1989}}}} | ||
+ | * {{Cite journal|和書|author=佐藤純郎|date=1993年3月20日|journal=競馬・最強の法則|issue=3月号増刊|page=p. 46|title=遅れてきたビッグ・ルーキー 川島郭志の長い日々|publisher=[[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]]|ref={{SfnRef|佐藤|1993}}}} | ||
+ | * {{Cite journal|和書|author=加賀新一郎|date=1998年4月10日|journal=ワールド・ボクシング|issue=4月号増刊|pages=pp. 26–27|title=史上最大の日本タイトルマッチ展望 コウジ有沢vs畑山隆則|publisher=日本スポーツ出版社|ref={{SfnRef|加賀|1998}}}} | ||
+ | *{{Cite journal|和書|ref=harv|author=MACC出版|date=2011年10月15日|journal=アイアンマン|issue=11月号増刊(『[[ボクシング・ビート]]』11月号)|pages=pp. 89–90、108–109|title=飯田覚士の直撃トーク 第104回 ゲスト 林隆治さん – 流出? 進出? 流れは国境を越えている」「村田が銀&五輪切符獲得|publisher=フィットネススポーツ|ref={{SfnRef|『ボクシング・ビート』|2011年11月号}}}} | ||
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+ | == 関連項目 == | ||
+ | * [[:Category:オリンピックボクシング日本代表選手]] | ||
+ | * [[アマチュアボクシング日本王者一覧]] | ||
+ | * [[日本のボクシング世界王者一覧]] | ||
+ | * [[ボクシング日本王者一覧]] | ||
+ | * [[日本のボクシング地域王者一覧]] | ||
+ | * [[日本のボクシング国内王者一覧]] | ||
+ | * [[日本のボクシング地区王者一覧]] | ||
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+ | == 外部リンク == | ||
+ | <!--{{Commons category}}--> | ||
+ | *[http://jabf-kizuna.com/ 日本アマチュアボクシング連盟の公式ウェブサイト] | ||
+ | *[http://www.jbc.or.jp/ 日本ボクシングコミッションの公式ウェブサイト] | ||
+ | *[http://jpba.gr.jp/ 日本プロボクシング協会の公式ウェブサイト] | ||
+ | *[http://jpbox.jp/ 東日本ボクシング協会の公式ウェブサイト] | ||
+ | *[http://j-boxwest.com/ 西日本ボクシング協会の公式ウェブサイト] | ||
+ | <!--{{日本のボクシング世界王者}} | ||
+ | {{年間最優秀選手賞 (日本プロボクシング)}--> | ||
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2012年7月31日 (火) 18:30時点における版
日本のボクシング(にほんのボクシング)の本格的な始まりは、渡辺勇次郎が「日本拳闘倶楽部」を開設した1921年とされるが、この競技が最初に伝わったのは英国でクイーンズベリー・ルールが制定される以前の1854年であった[1]。この項目では、日本のボクシングの歴史を概説する。
通史
黎明以前
1854年2月(嘉永7年1月)のマシュー・ペリーの2度目の日本来航を記録した1956年の『ペリー日本遠征記』に、同年2月26日に横浜で行われたペリー艦隊の水兵であるアメリカ人ボクサー1名、レスラー2名と相撲の大関・小柳常吉による3対1の他流試合の様子が記述されている[2]。これが日本におけるボクシングに関する最古の記録となっており、この時、日本に始めてボクシングが紹介された(同じく1854年に田崎草雲とボクシング技術を使うアメリカ人水兵の喧嘩の記録が残されているが、あくまで試合ではなく喧嘩である)。この他、1879年(明治12年)に天覧相撲で鞆ノ平武右衛門に欧米人ボクサーが挑戦した記録もある。これらの他流試合が明治後期から第二次世界大戦後(以下、戦後)にかけて流行した外国人ボクサー(そのほとんどが力自慢の水兵)と柔道家による他流試合興行「柔拳試合」を生み、また、ボクシング技術を学ぶ者を増やしていった。柔拳試合に興味を持った嘉納治五郎の甥の嘉納健治は、1909年(明治42年)に神戸市の自宅に「国際柔拳倶楽部」を設立、日本に立ち寄る外国人船員からボクシングの技術を学んだ。この国際柔拳倶楽部がのちに日本選手権大会を開催する「大日本拳闘会」(大日拳)となる。
これより以前、1887年(明治20年)5月には、プロレスラーになるため3年間渡米していた元力士の浜田庄吉がボクシング技術を習得し、18人のボクサーとレスラーを伴って帰国。見世物として全国を回った。事実上、この浜田が日本最初のボクサーであった。また、「西洋大角力」と銘打ったこの見世物は、内容的には柔拳試合のような他流試合や事前に打ち合わせをしてある試合ばかりで、日本最初のプロレス興行とされているが、ボクシングの試合も行われており、日本最初のボクシング興行とも言える。1896年(明治29年)には、米国帰りの元柔道家・齋藤虎之助が、友人のジェームス北條とともに横浜市に日本最初のボクシングジムである「メリケン練習場」を開設。しかしこれは入門者が定着せず間もなく閉鎖されている。
また、大正期に流行したアメリカ映画や新聞記事などでボクシングが紹介されており、一般庶民にも西洋にはボクシングというスポーツがあるという認識が広まっていった。
黎明期
1920年代
1921年(大正10年)1月、サンフランシスコでプロボクサーとして活躍していた渡辺勇次郎が帰国し、「ボクシングは体育、精神力、国際親善、外貨獲得」に欠かせない国際競技として[3]、同年12月25日に東京・目黒区に「日本拳闘倶楽部」(日倶)を開設。これが日本の本格的なボクシング競技の幕開けとされる。日倶は本格的ボクシングジムとして多くのボクサーを育成。練習生の中から後の帝国拳闘会(帝拳)創設者・荻野貞行など日本ボクシング繁栄の礎となった人物や拳聖・ピストン堀口などのスター選手を輩出している。また、1922年(大正11年)5月7日には靖国神社境内の相撲場にて「日米拳闘大試合」を主催。以後、翌年の関東大震災まで継続的に開催し、それまで見世物でしかなかったボクシング興行を本格的なスポーツとして定着させた。
1923年(大正12年)2月23日、日倶の師範代であった臼田金太郎が、日倶後援のもと東京・上野の輪王寺の境内で学生拳闘試合を開催した。これが日本初のアマチュアボクシングの試合である。1924年(大正13年)4月26日、東京の日比谷公園音楽堂で日倶主催による初のタイトルマッチとして第1回日本軽体重級拳闘選手権試合が開催され、日本王者が誕生した。1925年(大正14年)には複数の大学に「拳闘部」が創設されると、靖国神社境内の相撲場にて第1回学生選手権が開催された。この大会の成功を受けて、同年5月、渡辺勇次郎を理事長として「全日本アマチュア拳闘連盟」が発足、11月に連盟主催による第1回アマチュア選手権が開催された。1927年6月5日、大日拳主催の第1回日本選手権大会が開催され、11月3日にはボクシング競技が第4回明治神宮大会に参加した。
1928年のアムステルダムオリンピックにはウェルター級の臼田金太郎とバンタム級の岡本不二が出場した[4]。監督は渡辺勇次郎で、臼田はベスト8に進出した[5][6]。
1930年代
その後、日倶がプロ活動に専念するようになり、1931年2月11日に全日本プロフェッショナル拳闘協会が発足したが、翌年には日倶、帝国拳闘会、国際拳闘倶楽部のグループと、大日拳、東京拳闘協会、極東、日米拳のグループの2派に分裂し、全日本アマチュア拳闘連盟のような結束力はなかった[4][5]。しかし同年7月、拳闘ファンは急増。スター選手の月収は1,000円以上(教員の初任給が15円、米10キロ1円20銭、ざるそば4銭)で、帝国・大日本・日本・東洋など拳闘クラブ(ボクシングジム)も10を超え、税務署が財源として目をつけるほどであった[7]。
1933年4月に読売新聞による日仏対抗戦の開催が決まると国内のジムは全日本拳闘連盟として再び結束した[5]。フランス側の捉え方は親善エキシビションのようなものであったが[8]、同月からの日本代表決定トーナメントでは[4]、それまで関東と関西に分かれていた日倶、帝拳、大日拳から出場した選手が新人・ベテランの区別なく勝ち抜きトーナメントを行い[6]、事実上の初代日本王座決定戦と呼べるものとなり[4][5]、フライ級で花田陽一郎、バンタム級で大津正一、フェザー級でピストン堀口、ライト級で鈴木幸太郎、ウェルター級で名取芳夫の5人が王者と認定されている[5]。プロ転向後4試合を戦ったのみでまだ早稲田大学の学生であったピストン堀口は準決勝で帝拳荻野道場のテクニシャン橋本淑を破り、決勝ではKOアーチストと呼ばれたベテラン中村金雄を破り[6]、フェザー級で優勝[4]。日仏対抗戦のためにエミール・プラドネルら3人のフランス人選手が来日する頃、ボクシングブームは絶頂期を迎えていた[5][6]。7月3日に行われたプラドネルと堀口の8回戦は、早稲田戸塚球場に詰めかけた30,000人の観衆の前で引き分けとなり[6]、堀口は日本プロボクシング界のニューヒーローとなった[5][8]。
1934年11月には全日本拳闘連盟と東京日日新聞の共催で、第1回全日本選手権決定戦が行われた。それまではアマチュアとプロの区別がはっきりせず、認定団体も単独であったり複数であったりとまちまちであったため、全日本の名の下に全選手が参加した初の大会であった。徐廷権が、「エバーラスト拳闘年鑑」で世界バンタム級6位になると連盟は初の東洋選手権を東京で開催し、ライト級の佐藤利一とウェルター級の名取芳夫が東洋王者に認定された[5]。
昭和初期に日本のボクサーはハワイ、カリフォルニア、上海、フィリピンなどへ盛んに遠征した[8]。その中には米国に長期滞在してサンフランシスコやハリウッドなどで戦い、戦前日本人で唯一の世界ランカーとなった徐廷権の他、中村金雄[6]、ハワイで東洋タイトルを奪取した堀口、米国西海岸で強豪とばかり対戦した玄海男らがいる。堀口が連勝記録を47で止められた1937年1月27日の東洋フェザー級タイトルマッチや、玄が堀口を下した1939年5月29日の両選手のリマッチ、堀口が笹崎僙の挑戦を退けた1941年5月28日の一戦は社会的な注目度、訴求力で後の世界タイトルマッチ以上の存在感をボクシング史上に残している[8]。この頃は熊谷二郎やライオン野口らも活躍していた[6]。
1940年代
しかし第二次世界大戦によって、プロデビューしたばかりの白井義男を含む多くの日本人ボクサーが出征。1943年から興行を統轄していた大日本拳闘協会は1944年3月11日に同月28日をもってすべての興行を中止する声明を発表して解散した。1945年には世界タイトルマッチは2試合行われただけであった[8]。
世界王者の誕生
戦後のボクシングは東京・新橋駅付近の焼け跡で中村正美が会長を務める国民拳闘倶楽部が開いた青空道場から始まり[9]、進駐米軍の慰問や在日朝鮮人連盟が主催する興行を中心に活気づいていった[10]。戦後初の試合は1945年12月に西宮で行われ、続いて東京でも試合が行われた[5]。『ボクシング・ガゼット』編集長の郡司信夫の提案に乗った「銀座グリル」経営者の長井金太郎が社長となり[9]、1946年6月にはプロモーション会社の日本拳闘株式会社(日拳)が創設され[10][9]、翌月には東京・銀座木挽町にあった築地東宝劇場を改装し、練習場・試合場を兼ねた日拳ホールが開設された[9]。また同年7月8日には日本拳闘協会が発足。1947年8月には全日本選手権も再開され、6人が王者となっている[10]。
コミッションがなかった時代、試合は主に草試合と呼ばれるドサ回りの興行で行われた。十数人で一座を組んで自ら運んだキャンバスで仮設リングを作ると、もぎりやレフェリー、タイムキーパーなどを選手たちが交代で務め、昼夜2興行を4日続けるようなことをしていた。空腹のあまり真剣に打ち合えなければパンチが当たらなくても意図的に倒れることがあった。しかし中には故意にではなく、試合中に疲労と空腹のあまり気を失って倒れるボクサーもいた[9]。
1950年代
進駐軍の生物化学者アルビン・R・カーンのマネジメントや援助を受けて米国式トレーニングを積んだ白井義男は、花田陽一郎、堀口宏を下して日本王座の2階級制覇を成し遂げる。白井がダド・マリノとの2度の対戦を経て世界フライ級1位にランクされると[10]、世界戦実現に不可欠なコミッショナー制度の確立が急務となり、当時は本田明が理事長を務めていた全日本ボクシング協会が協議を重ねた結果、初代コミッショナーには後楽園スタヂアム(後の東京ドーム)社長の田邊宗英、コミッショナー諮問委員には真鍋八千代、喜多壮一郎の2名が選出された。1952年4月21日に東京会館でJBC(日本ボクシングコミッション)の設立を発表。事務局長には新聞社で編集局長を務めていた菊池弘泰が就任し、試合経過などを掲載した『ボクシング広報』を発行した他、インスペクターには戦前は中村屋群造の名でボクサーとして活躍した丸屋群造が起用された[11][12]。JBCの設立と同時に、それまでコミッションと協会を兼務してきた全日本ボクシング協会はいったん解散した。白井は1952年5月19日、後楽園球場で45,000人の観衆を前にマリノを下して日本初の世界王者となった[10]。
1954年1月7日、JBCは当時の世界王座統括団体NBA(全米ボクシング協会、後の世界ボクシング協会)に正式加盟。事務局は東京都港区の他、名古屋、大阪、福岡に設置された。またJBCは1954年4月に米国のボクシング専門誌『リング』の編集長ナット・フライシャーを招待。フライシャーの目に留まった金子繁治は同誌ランキングの10位に入った。同年10月27日には田辺の呼びかけで日本、フィリピン、タイの3か国によりOBF(東洋ボクシング連盟、後のOPBF=東洋太平洋ボクシング連盟)が発足した[12]。
昭和30年代初め、東京での試合は戦前から焼け残った浅草公会堂、下谷公会堂、王子デパート特設リングなどで行われていた。粗末なリングは軋んで揺れ、場内には煙草の煙が立ち込めていた。日本は国際ボクシングビジネスの実績がなく、日本銀行には他国の世界王者に支払える十分な外貨の蓄積がなかった[9]。白井以後、金子繁治、三迫仁志は世界ランカーとなったが世界王座挑戦の機会を得られず[13]、秋山政司は日本ライト級王座を19度防衛しながら、その業績に見合うような報酬を得られなかった[9]。最も存在感を示した矢尾板貞雄が1959年11月5日にパスカル・ペレスに挑戦した世界タイトルマッチは、非公式でテレビ視聴率92.3%を記録したが、王座奪取はならなかった[13]。この頃は、矢尾板に次いで三迫を下した木村七郎やメルボルンオリンピック代表からプロへ転向した米倉健司らも活躍した[9]。
1960年代
アマチュアでは1960年、ローマオリンピックのフライ級で田辺清が日本ボクシング初となる銅メダルを獲得した[13][14]。しかし、決勝進出を妨げたのは不運な判定であった[14]。
1960年の新人王戦のフライ級には、原田政彦(のちのファイティング原田)、海老原博幸、青木勝利の3人が登場し、「フライ級三羽烏」として知られるようになる[9][15]。原田と海老原で争われたこの年の東日本新人王決定戦フライ級決勝についてスポーツライターで作家の佐瀬稔は、両者はこの時点で天才的なテクニシャンであり、彼らの見せた攻防の技術、的確なパンチ、優れた戦術、敗北を恐れない勇気は、日本で行われた全公式試合を通じても滅多に見られないものとして、1993年に新人王戦におけるベストバウトと回顧している。3人は後に努力型のラッシャー原田、スマートなカミソリパンチャー海老原、天才肌のメガトンパンチャー青木とそれぞれの個性を発揮していった[9]。
プロボクシング黄金時代
1962年10月10日には、新人王の実績しかなかったファイティング原田が突如引退した矢尾板の代理挑戦でKO勝利を収め、7年10か月ぶりに日本に世界王座をもたらし、プロ野球のON砲、大相撲の大鵬らと並ぶヒーローとなった。この年、全日本ボクシング協会が改めて発足され、NBAはWBA(世界ボクシング協会)に改称した[13]。
1960年代前半、日本にはかつてないボクシング・ブームが起こり、元旦から試合が行われ、テレビでは週に10本以上のプロボクシング中継があった。高度経済成長のおかげで1962年3月にはテレビ受像機の普及台数が1,000万台を超え、新たなスターが育ちつつあったプロボクシングは視聴者とテレビ局とスポンサーの需要を満たしていた。関光徳や、原田、海老原、青木の元祖三羽烏、小坂照男、小林弘に加え、アマチュアからは川上林成、高橋美徳らがプロに転向した。TBSが極東ジムと提携して募集した「ボクシング教室」には7,000人が殺到し、沼田義明や石山六郎を輩出した。平均視聴率が30%に達するレギュラー番組もあったが、やがて視聴者やテレビ局が野球、大相撲、ボクシング以外にも放送に適した競技があることに気づくと、各局のボクシング中継はそれぞれ週に1本程度となった。しかし、同時期の米国と較べると会場の集客数が激減するような損失はなかった[16]。
原田が王座を失った約8か月後の1963年9月18日、海老原が世界王者となるが、前王者との再戦で王座を失う。しかしこの間にカルロス・オルティス、エデル・ジョフレ、エディ・パーキンス、シュガー・ラモス、フラッシュ・エロルデらの世界王者が防衛戦のために来日し、日本人挑戦者はことごとく敗れたものの、彼らの試合を観ることで日本のボクシングは向上していった[16]。
アマチュアでは1964年、桜井孝雄がボクシング競技で日本初となる金メダルを獲得。この頃には日本は世界有数のボクシング市場となっていた[16]。
1965年5月18日、世界王者不在の時期を終わらせた原田は、同時に世界王座の2階級制覇を達成。限られた階級しかなかった当時、日本人として初であり、原田以前に2階級以上を制した王者は全階級を通じて世界に12人しかいなかった[16]。原田が4度の防衛をする間、強打の藤猛、技巧派の沼田義明が世界王者となり[17]、高山勝義、田辺清はいずれもノンタイトルで現役世界王者に勝利した[18]。しかし田辺は世界タイトルマッチを目前に網膜剥離で引退を余儀なくさせられた[14]。
1967年には王者・沼田と挑戦者・小林弘の間で初の日本人同士による世界タイトルマッチが行われた。試合は赤穂浪士討ち入りの12月14日に設定され、精密機械・沼田、雑草・小林と対照的な両者が舌戦を展開した。前半は沼田がジャブで攻勢をとるが、6回に小林の右クロスを受け、ダウンを喫すると形勢は逆転し、12回に再び右クロスで小林がKO勝利を収めた[19]。この試合は日本の年間最高試合に選ばれている[18]。1968年9月27日に西城正三がロサンゼルスで世界王者を下し、日本初の海外奪取を達成すると、1960年代後半から1970年代にかけての海外遠征ブームは加速していった[20][18]。
1970年代
1970年12月11日から1971年7月28日までの時期は、小林弘、西城正三、沼田義明、メキシコで西城に続く2人目の海外世界王座奪取を成功させた柴田国明、大場政夫の5人が同時にプロボクシングの世界王座を保持し、フェザー級とジュニアライト級ではWBA・WBCの両団体世界王座を日本が独占していた[21]。1970年末、11階級に15人いた世界王者の国別分布は、日本が5名、米国が3名、アルゼンチンとイタリアが各2名、フィリピン、メキシコ、英国が各1名であった[22]。一階級違いの現役王者同士であった小林と西城は、1970年12月3日にノンタイトルマッチで対戦し、僅差で小林が勝利。この時期は「日本ボクシングの黄金時代」と呼ばれた。1971年夏から秋にかけて、小林、西城、沼田が次々と王座を失うが、10月には輪島功一が新たに世界王者となり、ルーベン・オリバレスに挑戦した金沢和良が名勝負を演じて日本の年間最高試合に選ばれ、王座流出の雪崩現象とは別に黄金時代は続いた[21]。
ラテンアメリカの台頭と日本
1970年代に入ると当たり前のように年間10試合以上の世界戦が行われるようになるが[23]、1972年初めから小林、西城、沼田が相次いで引退するとボクシング人気に陰りが見え始める。協栄ボクシングジムの会長・金平正紀は西城をキックボクシングに転向させ、類似競技との兼業を禁じた業界の内部規定違反として全日本ボクシング協会を除名された。金平は4月にモハメド・アリの試合に不明瞭な形で関与したと疑われると、6月には有志とともに別の協会を設立し、業界は分裂した[21]。1973年3月には柴田がハワイで世界王者を下し、原田に次ぐ2人目の2階級制覇を達成[24]。1973年9月にはジョージ・フォアマンとジョー・キング・ローマンによる日本初の世界ヘビー級タイトルマッチが行われた[25]。
日本ボクシングの黄金時代の5人の世界王者のうち、4人はラテンアメリカのボクサーに王座を奪われていた。1970年代にはラテンアメリカがボクシングの黄金時代を迎え[26][24]、1975年末に12階級に22人いた世界王者の地域別分布はラテンアメリカが13名、アジアが5名、欧州が2名、アフリカと米国が各1名であった。この時期、ミゲル・カント、アレクシス・アルゲリョ、ウィルフレド・ゴメス、アントニオ・セルバンテスらのラテンアメリカの世界王者が来日し、ホームで挑戦する日本人ボクサーたちを退けていった。また、日本以外でもロベルト・デュラン、カルロス・サラテらが日本人相手に世界王座を防衛している。ラテンアメリカ勢はやがてWBA・WBCの統括団体に支配的な力を持つようになり、統括団体乱立と王座の増殖を引き起こすことになる[24]。
この間、ガッツ石松、小熊正二(後の大熊正二)、花形進らが世界王者となるが、1976年5月に輪島が王座を失うと日本は現役世界王者不在の時代を迎える。1976年10月9日にロイヤル小林が世界王者となるが、この王座は45日で失われ、小林に1日遅れて世界王者となった具志堅用高が日本最多となる13度の連続防衛を重ね、一時代を築くことになった。1977年には分裂していた協会が統一された。具志堅が5度の防衛を成功させていた頃、各階級で世界王座に挑戦した選手はことごとく退けられ、1978年8月に工藤政志が王者となるまで16連敗を記録していた[21]。
1980年代
1980年1月に中島成雄が王者となると日本はWBA・WBC両団体のジュニアフライ級の世界王座を独占した。この年には大熊がソウルで、上原がデトロイトで、いずれもKO勝利で世界王座を奪取[21]。この頃には再び米国がボクシング界を牽引しつつあった[23][26]。シュガー・レイ・レナードやトーマス・ハーンズ、マービン・ハグラーらに、ラテンアメリカ黄金時代の中心的な役割を果たしたロベルト・デュランが加わって熱戦を展開し、彼らの試合は新たな形態としてペイ・パー・ビューで放送され、その報酬は高騰し、プロモーターは桁違いの収入を得るようになっていた[23]。
冬の時代と新鋭たち
1981年に具志堅、上原、大熊が3か月の間に王座を失うと日本は再び世界王者不在の時期を迎えた。同年11月に三原正が米国での王座決定戦で世界王者となり、12月には渡嘉敷勝男が世界王座を獲得するが、渡嘉敷の初防衛戦を前に、彼の所属する協栄ジムの会長・金平正紀が具志堅の対戦相手に薬物を投与していたとされる騒動が起こり、その評価は貶められることになった。1982年4月に世界王者となった渡辺二郎は、1985年12月には韓国で日本人初となる海外防衛に成功した[27]。
1980年代には友利正、小林光二、新垣諭(新垣は日本未公認のIBF王座)、浜田剛史、六車卓也、井岡弘樹らが世界王者となったが[21]、アジアでプロボクシングをリードするのは経済成長を遂げて1988年のソウルオリンピックを控えた韓国に移っていた[27]。日本開催の世界戦は1983年には10試合(IBFの王座戦は除く)行われていたが、1984年は5試合、1985年は渡辺の防衛戦のみで1961年以来となる2試合しか行われず、1986年も4試合のみだった。1985年11月にはJBCが義務付けた頭部CTスキャン検査の結果、8名が不適格と診断され、引退を余儀なくされている[28]。1987年末のアジア圏では、世界王者が韓国3名、タイ2名、日本1名(井岡)で、OPBF王者は韓国7名 (±0)、タイ2名 (-2)、日本2名 (+2)、フィリピン1名 (±0)、インドネシア1名 (±0) であった(括弧内は前年との差)。ただし、韓国では国内王座、東洋太平洋王座を経て世界王座に挑戦する傾向が比較的保たれ、日本やタイでは東洋太平洋王座を通り越して世界王座に挑戦する傾向が強まっていることを『リング』誌東洋地区リポーターのジョー小泉は指摘している[29]。
1988年に開催された年間興行数は前年度の104から132に増えた。地域別では関東・東北82 (+3)、関西31 (+15)、中部9 (+6)、西部10 (+4) で、渡辺、六車、井岡らの世界王者に加え、赤井英和、串木野純也らのスター選手を擁して人気が定着しつつあった関西では大幅な増加が見られた(括弧内は前年との差)[30]。1988年に開催されたタイトルマッチは世界王座戦が11試合 (+7)、東洋太平洋王座戦が6試合 (+2)、日本王座戦48試合 (+3) といずれも増加している[31]。WBA・WBCが承認した77の世界戦の開催地は米国29試合、韓国13試合、日本12試合、イタリア8試合、オーストラリア3試合、タイ2試合、メキシコ1試合で、タイには4人、メキシコには6人の世界王者が存在していた[26]。
1988年3月21日にはマイク・タイソン対トニー・タッブス戦が行われ、会場の東京ドームには日本ボクシング史上最多記録となる51,000人の観衆が集まった[31][32][21]。タイソンは試合より1か月以上も前の2月17日に日本に到着し、マスメディアは大騒ぎとなった[31]。
しかし、1988年11月13日に井岡が王座を失うと再び現役王者は不在となった。王者不在のまま新年を迎えたのは1964年以来で、年間最優秀選手が該当者なしという結果になったのは1961年以来のことであった[30]。日本のプロボクシングはかつてないスランプを迎え[30]、この1980年代は「冬の時代」と呼ばれた[33][27]。競技人気低迷に危機感をもった全日本ボクシング協会は、1990年1月に世界挑戦資格に「指名試合をクリアした日本王者」との条件を加えている。
新しいヒーローたち
1990年代
1988年11月13日に井岡が王座を失ってから1990年2月6日まで1年3か月にわたって日本の世界王者は誕生せず、バブル期にあった日本の経済力を背景に世界戦が濫発されたが、挑戦者は次々に敗退し、ウィルフレド・バスケス 対 六車戦の引き分けを皮切りに世界挑戦21連続失敗という記録を作る結果となった。しかし、金容江 対 レパード玉熊戦、カオサイ・ギャラクシー 対 松村謙二戦、ファン・マルチン・コッジ 対 平仲伸章(後の平仲明信)戦などの激戦があり、1988年の新人王戦に登場した鬼塚勝也、ピューマ渡久地、ウェルター級やジュニアミドル級で国内選手を圧倒した吉野弘幸、上山仁、デビューしたばかりの辰𠮷𠀋一郎らの次世代が育ちつつあったこと、さらに大橋秀行と高橋ナオトの存在で見通しは明るくなっていった。高橋はマーク堀越戦で2度目の日本の年間最高試合賞を受けるが、堀越戦や続くノリー・ジョッキージム戦の逆転劇で高橋がダメージを蓄積させていく一方で、大橋は1990年2月7日に3度目の挑戦で階級を下げて熱狂的な勝利で世界王者となり、日本ボクシング再興のきっかけをつくった[34]。この4日後に東京ドームで行われたマイク・タイソン対ジェームス・ダグラス戦のアンダーカードでは高橋がジョッキージムとの再戦に負け、辰𠮷がプロ2戦目でKO勝利を収めていた[35]。
続いて、世界挑戦失敗経験のあるレパード玉熊、畑中清詞が再挑戦で王座を獲得したが、いずれも王座を長く保持することなく、入れ替わりに台頭してきたのが辰𠮷、鬼塚、ピューマ渡久地の「平成三羽烏」[34](1987年には川島郭志がインターハイのフライ級で鬼塚、渡久地をそれぞれ準決勝、決勝で破って優勝し、この3人が「高校フライ級三羽烏」と呼ばれていた[36][15])と、1990年に協栄ジムが輸入ボクサーとして招き入れたユーリ・アルバチャコフ(後の勇利・アルバチャコフ)、グッシー・ナザロフ(後のオルズベック・ナザロフ)、スラフ・ヤノフスキー(日本での活動以外はビアチェスラフ・ヤノフスキー)ら5人のロシア人であった。辰𠮷がプロ8戦目で王者のギブアップを招き世界王者になると[34]、井岡が大番狂わせの判定勝利で日本人3人目となる世界王座の2階級制覇を達成[35]、平仲はメキシコでの初回KO勝利で世界王座奪取、前後して鬼塚・ユーリ海老原も世界王者となり、この時点で日本プロボクシング界は史上タイ記録となる5人の世界王者を擁することになった[34]。この5人王者時代は長く続かなかったが[37]、辰𠮷のカリスマ性はかつての黄金時代を超える熱狂を世界戦のすべてで引き起こした[35]。
1993年にオルズベック・ナザロフ、薬師寺保栄、1994年に川島郭志が世界王座を獲得すると再び日本は5人の世界王者を抱えるが、このうち2人は輸入ボクサーであった。1994年12月4日には正規王者・薬師寺と暫定王者・辰𠮷の王座統一戦がかつてない社会的関心度と経済規模で行われ、勝者のみならず敗者もまた、その人気を高めることになり、プロボクシング界に計り知れない効果をもたらした。1995年には竹原慎二が日本初のミドル級世界王者に、翌年には山口圭司も世界王者になった。1997年には辰𠮷が王座に復帰、飯田覚士が世界王者となった[37]。
1998年には畑山隆則がコウジ有沢の日本王座に挑戦。畑山は1年以上も前から「向こうが受けてくれるというなら、俺がテレビ局を説得してもいい」と言って有沢と対戦したい意向を示していたが、畑山がTBSの「ガッツファイティング」、有沢はフジテレビの「ダイヤモンドグローブ」の看板選手であったため、実現の見込みは薄いとされていた。しかし、両陣営はたとえノーテレビでも挙行すると決めて交渉を続け、合意に至った後で放映の折衝をプロモーターに依頼することで実現を成功させた[38]。両者無敗のトップアイドルで史上最大のタイトルマッチと呼ばれ[38][37]、同年の日本の年間最高試合となったこの試合に勝利した畑山は次戦で2度目の世界挑戦を成功させ、後に2階級制覇を果たす。畑山は試合以外での露出度も高く、坂本博之との初防衛戦をはじめとする3度の防衛戦では辰𠮷に匹敵する集客力を示した[37]。
2000年代
2009年11月29日開催の内藤大助 対 亀田興毅戦の平均視聴率は、関東地区、関西地区ともにが43.1%で、1977年9月以降のプロボクシング中継では2位を記録している[39]。1位は1978年5月7日に行われた具志堅用高 対 ハイメ・リオス戦の43.2%で、この具志堅戦の平均視聴率は1959年以降のプロボクシング中継の記録では19位である[40]。
2010年代
2011年に日本ボクシングコミッション (JBC) が女子の試合を認可した[41]。
- 詳細は女子ボクシング#日本での歴史を参照
西岡利晃は2009年と2011年にそれぞれメキシコ、米国でWBC世界スーパーバンタム級王座を防衛した。国外での2度の防衛は日本初であった[42]。2011年4月に石田順裕が米国で期待選手のジェームス・カークランドに初回KO勝利を収めたミドル級ノンタイトルマッチは中継局のHBOを震撼させた[映像 1]。同年、アマチュアでは村田諒太が世界選手権で日本人初の銀メダルを獲得している[43]。国際的なリングで活躍する選手が目立ち始める一方で、2012年現在、日本開催のプロの公式試合では日本人同士の対戦のほうが観客を喜ばせ、経費もかからないため、故障明けの調整試合以外で外国人選手を招聘することは少なくなっている[44]。
『リング』誌の記者ダグ・フィッシャーは、日本のプロボクサーが日本でしか試合をせずに国際的に評価されるのは難しいが、その多くはフェザー級より下の階級であり、米国のケーブルテレビ放送局HBO・ショウタイムは軽量級にそれほど関心を持っていないため、軽量級の日本人ボクサーは日本で試合をするほうが試合枯れすることもなく、まともな収入を得ることができると考えている[45]。HBOのボクシング中継のベテラン解説者ラリー・マーチャントは実際に、米国で本格的なファイトマネーが入り、注目を集めるのはフェザー級以上の階級だと話している[46]。ボクシング人気が健在なメキシコからは高額なファイトマネーを提示されるが、オファーが来るのが3週間前だったり、日程がしばしば変更されたりするため、日本の選手は対応できないことも多い[44]。この閉塞状況を打開し、ボクサーが国際的な認識を得るために、日本のプロボクシング界には「JBCがWBOとIBFを認可すること」「日本のボクシングプロモーターが国際的に通用するようなボクサーをもっとアジア圏外から招聘して日本のボクサーに挑戦させること」「日本の世界王者同士が対戦すること」という3つの条件が求められるとフィッシャーは2012年4月に述べている[45]。
こうした状況の下で2011年10月に八重樫東が東京の後楽園ホールでポンサワン・ポープラムックからWBA世界ミニマム級王座を奪取した試合は、国内開催の軽量級の試合でありながら、YouTubeにアップロードされた映像を通して米国のファンやメディアに絶賛された[45]。また、2012年6月に大阪のボディーメーカーコロシアムで行われた井岡一翔と八重樫のWBC・WBA世界ミニマム級王座統一戦はKeyHoleTVを利用してリアルタイムで観戦した国外の記者たち[47][48]からも、事前の大きな期待を裏切らない好試合であり将来にも期待をつなぐものとして高く評価されている[49][50][51]。
各階級における歴史
下記の各節では特に断りがない限り、それぞれの階級での出来事およびその背景を記し、紛らわしい場合を除いて階級名は省略している。
ミニマム級
初代日本王者は小野健治。1993年6月には江口九州男・勝昭の兄弟が日本王座決定戦に出場。日本初の兄弟での王座争いはダウン応酬の熱戦となり、兄が6回KO勝ちで日本王者となっている[52]。
この階級の主力選手は中南米・アジアが中心である[52]。1987年に階級が新設されると6月にIBFで世界王者が誕生し、10月に井岡弘樹がWBCの初代王座決定戦に出場、18歳9か月の日本人最年少で同団体の初代王者となった。1990年、高校時代から非凡なボクサーと言われ「150年に一人の天才」のキャッチフレーズでプロデビューした大橋秀行がライトフライ級での2度の世界挑戦失敗の後、階級を下げて世界王者となった。日本が世界戦に21連敗していた時期で、後楽園ホールには「万歳」の歓声が湧き上がった[53]。ロッキー・リンの2度の挑戦失敗の後、2000年に星野敬太郎が初奪取としては最年長記録で世界王座を獲得。また所属ジムの会長・花形進とともに日本初の師弟世界王者ともなった。日本人離れしたハンドスピードと均整のとれた総合力をもって2001年に16戦無敗で挑み、世界王座を獲得した新井田豊は、2か月後には引退を発表したが、2003年に復帰[52]。2004年には世界王座に復帰し、7度防衛した[54]。ウルフ時光は1998年に日本初の東洋太平洋王者となったが世界挑戦は2度失敗(うち1度は暫定王座挑戦)。時光が敵わなかったホセ・アントニオ・アギーレを破って世界王者となったのがイーグル赤倉(後のイーグル・デーン・ジュンラパン)であった[52]。
ライトフライ級
初代日本王者は渡辺功との決定戦で2度倒された後に巻き返して判定勝利を収めた天龍数典。天龍はパナマ開催のWBAの初代王座決定トーナメント準決勝でハイメ・リオスに敗退。翌年、日本でリオスへの再挑戦に失敗したが、日本王座は16度防衛した[55]。
具志堅用高は1974年のプロデビュー時には動きが悪く、「これが100年に一人の男か」と疑問視されていた。具志堅がデビューした当時の最軽量級はフライ級であった。しかし、この階級が新設されると能力を発揮[53]。当時の日本最短記録の9戦目でWBAの世界王座を獲得し、日本最多となる13度の連続防衛記録を残した。1980年には中島成雄もWBCの世界王者となった。具志堅の失ったWBA王座は1年足らずで協栄ジムの後輩・渡嘉敷勝男が取り戻した。天龍との2戦目で日本王者となった友利正は1982年にWBCの世界王者となった[55]。
友利に勝利して日本王者となった穂積秀一は、フライ級で日本王座の2階級制覇を果たすと世界王座にも挑戦した。1980年代には名嘉真堅徳、竹下鉄美、倉持正、喜友名朝博、大橋秀行、大鵬健文、宮田博行らを擁して必ずしも低迷していたわけではないが[55]、プロボクシングにおけるアジアの覇権は1970年代の日本から韓国へ移っていた。韓国人世界王者の張正九と柳明佑は11年間に33度の防衛を果たすが、そのうち16試合が渡嘉敷、ヘルマン・トーレス、大橋を含む日本人ボクサー9人と日本のジムの輸入ボクサー3人を相手に成功させたものであり、井岡弘樹が17度連続防衛中の柳から王座を奪って2階級制覇を成功させた一戦は衝撃的であった。その後、山口圭司がWBAの世界王者となっている。1990年代には世界ライトフライ級の覇権が1980年代の韓国から米国、メキシコ、タイへ移っていく中で、八尋史朗、細野雄一、塩濱崇、戸髙秀樹、本田秀伸らのような世界ランカーを輩出。この時期、フライ級以下の階級では、世界ランキングが身近なものとなる一方で、世界王座は縁遠いものとなっていた[56]。
フライ級
白井義男が1952年に日本初の世界王者となった後、2人目のファイティング原田、3人目の海老原博幸もフライ級であり、世界戦の最初の15試合のうち12試合がこの階級であった。白井以前のスピーディ章や花田陽一郎も白井に匹敵するポテンシャルを備えていた。白井から原田に至るまでの時代、三迫仁志、岩本正治、矢尾板貞雄、米倉健治、野口恭、関光徳らの世界ランカーは、アジアにおけるフライ級の覇権をフィリピンから日本へ移すのに貢献した[14]。特に、当時50連勝中で[57]フライ級最強と言われたパスカル・ペレスをノンタイトルで破って51連勝記録を阻止した矢尾板は世界王者が不在だった日本のヒーローであった。1958年5月13日の矢尾板と米倉の6ラウンドのエキシビション、1960年12月24日に後楽園ジムで行われた東日本新人王決勝の原田対海老原は将来の見通しを明るくしていた。1960年代中盤には海老原が階級トップを維持し、1970年代には大場政夫、小熊正二(後の大熊正二)、花形進らが世界王者となった。この間、高山勝義、田辺清はノンタイトルマッチで世界王者に勝利し、世界ランクには東洋太平洋王座を10度防衛した中村剛や日本王者の松本芳明が常連として名を連ねた[14]。
1970年代中盤には東洋王者の高田次郎、日本王者の五十嵐力、小熊をノンタイトルマッチでノックアウトした世界ランカーの触沢公男らも抱え、世界は遠いものではなかったが、1970年代に軽・中量級で黄金時代を迎えたラテンアメリカ勢が台頭し、韓国、タイなど他のアジア勢が底上げされると、日本フライ級は主舞台から遠ざかっていった。小熊以後、小林光二、レパード玉熊が世界王者となったものの、アマチュアの世界選手権で銅メダルを獲得した石井幸喜はノンタイトルマッチで日本王者・東洋太平洋王者を破ったが世界挑戦の機会は得られず、日本王座を2階級制覇した穂積秀一やプロ8戦目で世界挑戦した神代英明も敗れ、小熊、小林、玉熊はいずれもラテンアメリカのボクサーとの防衛戦で王座を明け渡した。1992年には勇利・アルバチャコフが世界王者となるが、そのボクシングの根本は母国ロシアで育まれたものであった。渡久地隆人はアルバチャコフの世界王座に挑戦して敗れ、井岡弘樹、山口圭司、川端賢樹らが同じ1990年代に世界挑戦に失敗、2000年の世界戦ではセレス小林が引き分けに終わり、浅井勇登、本田秀伸、トラッシュ中沼らが敗れた[57]。
スーパーフライ級
初代日本王者は古口哲との決定戦を制したジャッカル丸山。丸山はWBAの初代王座決定トーナメントを準決勝で敗退。翌1981年にはWBC王者の金喆鎬に挑戦して失敗。金には、この前後10か月足らずの間に、渡辺二郎、石井幸喜も退けられている[58]。
1982年、渡辺はWBA王座を獲得し、この階級で日本初の世界王者となり、丸山は日本王座に復帰した。渡辺は1984年にWBC王者のパヤオ・プーンタラットに勝利し、試合当日に剥奪された自身のWBA王座との事実上の王座統一を果たしていた。この前後、日本からは小熊正二、勝間和雄らが渡辺に挑戦して退けられた。渡辺はさらに1985年に韓国で日本人世界王者初となる海外防衛にも成功した。ドライな渡辺に対し[58]、丸山の試合は両者合わせて9度のダウンを奪い合った[59]関博之との再戦をはじめとして旧日本的な「精神と肉体の劇」であったと言われる[58]。
丸山を倒して日本王者となった畑中清詞はヒルベルト・ローマンへの挑戦に失敗した後、スーパーバンタム級で世界王者となった[58]。ローマンには内田好之も退けられ、カオサイ・ギャラクシーには松村謙二、中島俊一が挑戦して失敗した。日本初の東洋太平洋王者・杉辰也を下した鬼塚勝也は1992年に世界王者となった。川島郭志は1994年に世界王座を獲得。1997年のジェリー・ペニャロサとのラストファイトは、渡辺対ヒルベルト・ローマン戦に匹敵する技術戦であった。田村知範は世界挑戦に失敗。1997年にWBAの世界王者となった飯田覚士は井岡弘樹らを退けヘスス・ロハスに王座を明け渡すが、ロハスに勝って世界王者となったのが戸髙秀樹であった。この王座は戸髙からレオ・ガメス、セレス小林、アレクサンドル・ムニョスへとKO、TKOで引き継がれていく。ムニョスには小島英次、本田秀伸が退けられている。2000年にWBC王者となった徳山昌守はこの時期、世界王座を8度防衛し、東洋太平洋・日本王者としては名護明彦、柳光和博、佐々木真吾、石原英康らが活躍した[60]。
バンタム級
日本のボクサーとして初の世界ランカーとなった在日朝鮮人の徐廷権、全日本選手権を連覇した原靖らが黎明期の基礎を築いた。ピストン堀口の実弟で初代日本王者となった堀口宏から王座を奪った花田陽一郎、白井義男はいずれもその試合で2階級制覇を達成した。堀口は初代東洋王座決定戦ではフラッシュ・エロルデに判定負けを喫している。この王座は後に小室恵市、三浦清が獲得した。日本王者の石橋広次や稲垣健治はキューバのマヌエル・アルメンテロスの強打に打ち負かされるが、1960年には米倉健司がホセ・ベセラの世界王座に肉迫した。米倉を下して東洋王者となった青木勝利が「黄金のバンタム」の異名をとるエデル・ジョフレの世界王座に挑戦して退けられ、「ロープ際の魔術師」と呼ばれたジョー・メデルが日本のトップボクサーたちをことごとく下した後、ファイティング原田がジョフレから世界王座を奪い、日本初の世界王者となったのは1965年のことだった。1964年に原田がライバルと目された青木を一方的に打倒した試合は史上最大のノンタイトルマッチと言われる[61]。
その後、原田の後継者として、ノンタイトルで原田に善戦した斎藤勝男、メキシコで世界1位を下した中根義雄、東京オリンピック金メダリストで東洋王者の桜井孝雄、「小型原田」と言われた高木永伍、実弟の牛若丸原田、米国をはじめとして諸外国へ遠征を繰り返した内山真太郎、大木重良、メキシコオリンピック銅メダリストの森岡栄治らが期待を集める中、技巧派の金沢和良がルーベン・オリバレスとの再戦で死闘の末に敗れた一戦は国内世界戦史上に残るインパクトをもたらした。ラテンアメリカの覇権がバンタム級をも覆っていた1970年代以降の世界戦では、沼田剛がロドルフォ・マルチネスに、ワルインゲ中山がカルロス・サラテに[61]、磯上修一がホルヘ・ルハンに、ハリケーン・テルがルペ・ピントールに退けられた。この時期、アマチュアのアジア王者からプロへ転向し、日本王者となった石垣仁らがいた。東洋王座を12度防衛し、4度の世界挑戦で2度引き分けた村田英次郎のピントール戦はオリバレス対金沢戦に匹敵する激闘であった[62]。
1987年にはスーパーバンタム級から階級を下げた六車卓也が世界王者となる。後楽園ホールでは今里光男、高橋ナオト、小林智昭、島袋忠らがしのぎを削り、中でも高橋は世界王者と同等の人気を博した。辰𠮷𠀋一郎は4戦目で日本王座、8戦目で世界王座を当時の最短記録で獲得し、網膜裂孔、網膜剥離のためにブランクを繰り返しながら、暫定を含めれば世界王座を3度獲得した。1994年の正規王者・薬師寺保栄との統一戦は、ビジネス規模において日本プロボクシング史上最大であった。辰𠮷以後の主力選手は日本王座を7度防衛したグレート金山、仲宣明、5度防衛した川益設男(後の瀬川設男)らから西岡利晃、長谷川穂積、サーシャ・バクティンらへと引き継がれ[62]、長谷川は2005年に世界王座を獲得、10度の防衛を果たした[63]。
スーパーバンタム級
1922年、荻野貞行が日倶認定の初代日本王者となり、高橋一男、木村久が続いた。戦後は太郎浦一が王者となっている。1969年、半年余りの間に行われた清水精と東京オリンピック強化選手の中島健次郎の3連戦はすべて逆転KOで決着した[64]。
階級新設後のWBCの初代王者は、1976年4月にパナマ市で行われた決定戦でメキシコシティオリンピック銀メダリストのワルインゲ中山を下したリゴベルト・リアスコ。ミュンヘンオリンピックに出場したロイヤル小林はアレクシス・アルゲリョに挑戦して失敗、リアスコへの2度目の挑戦で世界王者となった。ソウルで王座を失った後、小林はウィルフレド・ゴメスに挑み、KO負けを喫するが、3回にゴメスが見せた左フックは歴史に残る一撃であった。1991年には畑中清詞が2度目の挑戦で初回のダウンを挽回して名古屋のジム初の世界王者となる。2002年には佐藤修が同じく2度目の挑戦で逆転KOにより王者となった[64]。
初代東洋王者は坂本春夫。上述(#1960年代 )の「ボクシング教室」出身で東洋王者となった石山六郎は天才的なボクサーとして人気を集めた。湯通堂清秀は1967年、韓国人の東洋王者を右フックでロープ下へ吹っ飛ばしているが、岡田晃一が1971年に王座を失った後、日本人は20年以上この王座を奪回することはなかった。1989年、高橋ナオトがマーク堀越から日本王座を奪った試合は逆転KOによる日本ボクシング史を代表する名勝負だった。アマエリートでラスベガスなどで修行した葛西裕一は世界初挑戦に失敗した後、ホノルル、カラカスに遠征。帰国後の1995年に東洋太平洋王者となり、その後石井広三、大和心らが同王者となった。第28代東洋太平洋王者の仲里繁は、2003年にオスカー・ラリオスの世界王座に挑戦。5回にダウンを奪われながらも反撃して王者の顎を砕いたが、王座獲得はならず[65]、翌年の再挑戦にも失敗[66]、2005年のマヤル・モンシプールへの挑戦ではTKO負けを喫した[67]。
フェザー級
黎明期には中村金雄、玄海男、ピストン堀口らの活躍したフェザー級が日本を代表する階級だった。戦後初の日本王者となったベビー・ゴステロは変則的なテクニックで28連勝を記録した。後藤秀夫、中西清明らの多彩なボクサーがおり、金子繁治は後にスーパーバンタム級で世界王者となるフラッシュ・エロルデに4戦4勝したが、この階級の世界王者サンディ・サドラーとのノンタイトルマッチでは一方的なTKO負けを喫した。その後は大川寛、小林久雄、池山伊佐巳らが登場。高山一夫は2度の世界挑戦に失敗。東洋王座を12度防衛した関光徳はフライ級で1度、フェザー級で4度の世界挑戦に失敗するが、1964年のシュガー・ラモスへの挑戦では痛烈なダウンを奪い、日本人で初めて世界王座に接近した。関を下した小林弘は益子勇治との激戦で日本王者となり、後に1階級上げて世界王者となった。その後、斎藤勝男、千葉信夫が東洋王者となり、日本の黄金時代の基礎を固めていった[20]。
1968年に西城正三がロサンゼルスでWBA王者を破り、全階級を通じて日本人として初めて国外での世界挑戦を成功させ、1970年には柴田国明がメキシコでWBCの世界王者となった[20]。西城は5度、柴田は2度防衛した。歌川善介は世界王座決定戦に敗れ、ミュンヘンオリンピック代表で東洋王座を7度防衛し、後にスーパーバンタム級で世界王者となったロイヤル小林も世界挑戦に失敗。2度日本王者となったフリッパー上原、米国遠征で後の世界王者ダニー・ロペスをノックアウトしたシゲ福山、日本王座を13度防衛したスパイダー根本も世界挑戦に失敗。1970年代にはアマチュアでアフリカ王者だった友伸ナプニや田中敏之(後の五代登)らも登場した。1980年代後半、来馬英二郎、飯泉健二らと激戦を演じた杉谷満は日本タイトル戦11試合のうち10試合がKO決着で世界挑戦ではKO負けを喫した。竹田益朗、松本好二、浅川誠二、平仲信敏、渡辺雄二、越本隆志らが世界戦で敗れた[68]。
スーパーフェザー級
初代日本王者は大日拳認定の田中禎之助。第2代は帝拳認定の佐藤東洋、戦後の初代日本王者は高田安信であった[25]。東洋太平洋では、1963年3月に王者の勝又行雄が2度のダウンを喫しながら高山一夫を6回の右フック一発で逆転KO勝利を果たした防衛戦が壮絶で[25]、寺山修司はこれを「奇蹟の逆転」と表現し、勝又を「忘れがたい男」と書いている[69]。日本王者の奄島勇児はコンバーテッド・サウスポーで右フックが強く、沼田義明をKOで下して初黒星を与えた[25]。
1964年、小坂照男がフラッシュ・エロルデの世界王座に挑戦。最終回のエロルデのラッシュで試合は止められるが、それまで善戦していたためストップが早過ぎると騒がれた。1967年には沼田義明がエロルデを下して世界王者となる。3回にはエロルデの左ストレートでダウンを喫していたが、それによって動きの硬さがとれ、4回以降は王者を翻弄した。初防衛戦では小林弘と対戦し、日本人同士の初の世界タイトルマッチに負けて王座を失ったが、1970年にWBCで世界王座に復帰。ラウル・ロハスとの初防衛戦では大逆転KO勝利を果たした。その後、岩田健二、岡部進、アポロ嘉男らが世界戦で敗れた。1973年、柴田国明がホノルルで世界王座の2階級制覇に成功[19]。1973年にはジョージ・フォアマン戦の前座で柏葉守人が世界挑戦に失敗。1980年に上原康恒がデトロイトでサムエル・セラノを逆転KOで下し、世界王者となった。1990年代は竹田益朗、渡辺雄二、三谷大和が世界挑戦に失敗。1998年には日本王者のコウジ有沢が畑山隆則を挑戦者に迎えての防衛戦を両国国技館で行い、両者はクリンチの少ない真っ向勝負を見せた。畑山はこれを前哨戦として同年、世界王者となった[25]。
ライト級
初代日本王者は日倶認定の臼田金太郎で、緒方哲夫、小林信夫、ジョー・サクラメントと続いた。日本王座を19度防衛した秋山政司は東洋王座の初防衛戦で17歳の沢田二郎に5度倒されて負け、引退した。[70]。東洋王者の門田新一はガッツ石松と2度戦い、1勝1敗。1962年、小坂照男が世界挑戦に失敗[71]。オリンピック候補にもなった染谷彰久は1967年にマニラで前世界王者のフラッシュ・エロルデを判定で下し、世界1位にランクされたが、1968年に大阪で開催されたグレグ・ギュルレ戦では8回までポイントで上回っていたものの、9回開始時に微熱と真夏の暑さのためにコーナーを出ることができず、試合放棄と見なされてKO負け。その直後に我にかえり、リング上でファンに土下座をした。1969年に沼田義明がロサンゼルスで世界王座に挑戦して失敗[71]。染谷が返上した日本王座は辻本英守が右アッパーによるKO勝利で獲得。1973年にはホノルルでデビューしたバズソー山辺が高山将孝を下している。その後、バトルホーク風間、尾崎富士雄、シャイアン山本らが日本王者となった[70]。
1974年には、ガッツ石松が3度目の挑戦で世界王者となり、高山将孝はコスタリカで挑戦失敗。石松は1976年、プエルトリコのバヤモンで自身初の国外防衛に挑み、王座を失った。その後は1993年になってオルズベック・ナザロフが南アフリカのヨハネスブルグで世界王座を獲得した。畑山隆則は2000年6月、スーパーフェザー級の世界王座防衛失敗からの再起戦で2階級制覇に成功した。10月に行われた坂本博之との初防衛戦は歴史に残る激闘となった[71]。
スーパーライト級
戦後初の日本王者は1964年に窪倉和嘉との互いに連勝中のサウスポー同士の王座決定戦を制した岡野耕司。しかし、それ以前に日本のボクサーたちは東洋・世界で王座を争っていた。アマチュア出身の川上林成は1937年、プロ4戦目にしてマニラへ赴き、世界5位のロベルト・クルスをノックアウト。クルスは翌年に初回KOで世界王者となっている。同じくアマチュア出身の高橋美徳はウェルター級で世界ランカーとなり、1939年に日本人として初めてスーパーライト級で世界王座に挑戦[72]。しかしKO負けを喫して試合会場から病院へ直行した[33]。
米国籍で[72]ハワイ出身、日系3世の藤猛は1967年、サンドロ・ロポポロを2回KOで破り、世界王者となった。藤以後はライオン古山が1969年4月から1977年10月まで国内無敵を誇ったが、世界挑戦には3度失敗している。古山はキャリア晩年に三迫ボクシングジムの輸入ボクサーであったクォーリー・フジをKO寸前に追い込みながら逆転KO負け。試合後にはフジがモントリオールオリンピック代表選考会の決勝をシュガー・レイ・レナードと争ったブルース・カリーであったことが判明した。1980年代前半には無敗の日本ウェルター級王者・亀田昭雄がこの階級で世界挑戦の機会を狙い、赤井英和はデビュー以来の連続KO記録で人気を集めていた。上述のように(#1980年代)「冬の時代」と呼ばれて会場から客足が遠のきつつあった当時、赤井の試合があるとチケットが飛ぶように売れた。世界王者となったカリーへの挑戦は打ち合いの果てにTKO負けに終わるが、赤井の人気は衰えず、1984年6月には大阪城ホールでの中堅選手との試合に、近畿大学記念館で行われた世界戦と同じ[73]12,000人の観衆を集めた。ボクシング人気回復の切り札として亀田と赤井の対戦が期待されたが、亀田は東洋太平洋戦で敗れ、赤井は世界再挑戦の前哨戦で負傷し、実現しなかった。1980年代後半にはライト級から階級を上げた浜田剛史が初回KOで世界王座を獲得。1992年には浜田と同じ沖縄出身の平仲明信が初回TKOで世界王者となった。平仲以後、ソウルオリンピック金メダリストで輸入ボクサーとしてプロデビューしたスラフ・ヤノフスキーが無敗のまま日本を去ると、桑田弘、新井久雄、小野淳一らが国内の安定王者となった。佐竹政一は東洋太平洋王座を9度防衛し、アジア無敵として世界奪取の期待が高まったが[33]、世界挑戦の機会は得られないまま10度目の防衛に失敗して引退した[74]。
ウェルター級
初代日本王者は日倶認定の川田藤吉。その後、野口修、臼田金太郎、名取芳夫らが続く。戦後の初代王者は河田一郎。河田を倒したのが辰巳八郎で王座を2度獲得し、階級を上げた。同じく日本王者となった羽後武夫は引退後、レフェリーを務め、モハメド・アリ対ジョー・バグナー戦などを裁いた。1960年代、帝拳ジムは人気選手を抱えて黄金時代と呼ばれる時期を迎えていたが、その人気選手の一人が渡辺亮で、1961年に沢田二郎の王座を奪い、都合3度日本王者となった。元アマチュア・エリートの辻本章次を破った亀田昭雄は日本王座を12度防衛。1988年、吉野弘幸は不利予想を覆し、坂本孝雄をノックアウトして日本王者となった。他に佐藤仁徳、加山利治らが日本王者となった[75]。
福地健治は沢田らを相手に東洋太平洋王座を4度防衛した後、マニラでフィリピーノ・ラバロに敗れて王座を失い[76]、翌年にはラバロに雪辱を果たして王座に復帰し、引退した。高橋美徳は渡辺亮との決定戦を制して東洋太平洋王者となった。ムサシ中野は1967年に東洋太平洋王座を獲得。しかし「世界ウェルター級挑戦者決定戦」と銘打たれた試合でアーニー・ロペスに負け、24歳で東洋太平洋王座を保持したまま引退した[75]。龍反町や中野を破った南久雄は1968年に前世界ジュニアミドル級王者の金基洙を下して東洋のミドル級王者となり[77]、翌年空位のウェルター級王座を獲得して2階級を制覇。反町は1970年にKO勝利で東洋王者になると1979年まで王座を守った[75]。
1976年、辻本章次が18歳の世界王者ホセ・クエバスに挑戦。5回まで善戦したが6回に3度倒されて敗退。1978年、反町がラスベガスで挑戦失敗。1988年、尾崎富士雄がアトランティックシティでマーロン・スターリングの世界王座に挑戦。終盤には主導権を奪い、最終回にロープに詰めて連打を叩き込むとスターリングはダメージを負ってマウスピースを吐き出した[76]。当時の「ニューヨーク・タイムズ」には、王者が尾崎より優れていることは明らかだったものの、軽いパンチを当てるだけで単なるジムワークのように戦う王者に試合の間じゅうブーイングが起こり、8回と9回の間のインターバルではプロモーターが王者を怒鳴りつけ、ユナニマス・デシジョンで勝った王者のパフォーマンスにプロモーターと4,925人の観客の多くが当惑したと記述されている[78]。
スーパーウェルター級
力道山が重量級ボクサー育成のために設立したリキジムの溝口宗男が1966年7月に初代日本王者となる。金沢英雄は日本ウェルター級王座に挑戦して敗れた後、スーパーウェルター級で東洋王座を獲得し、防衛を重ねた。この頃、米国のスーパーウェルター級に対する関心はまだ薄く、日本の経済力は世界戦開催が可能なところまで成長していた。ミドル級、ウェルター級で東洋を2階級制覇した南久雄は1969年12月にスーパーウェルター級で世界王座に挑戦し、2回KO負けで失敗。2か月前には12戦全勝 (11KO) で台頭してきた日本王者の輪島功一が2階級下の世界王者ペドロ・アディグとのノンタイトルマッチに初回KOで敗れ、東京慈恵会医科大学附属病院に運び込まれていた。輪島陣営はこの階級で世界王者になるのは難しいと考え、アディグに勝てばスーパーライト級で世界挑戦させようとしていたため、輪島は厳しい減量をして臨んでいた。アディグ戦から4か月後、輪島は日本王座をジョージ・カーターに奪われるが、2か月後の再戦で王座に復帰。南と金沢をノックアウトし、1970年にローマオリンピック金メダリストのカルメロ・ボッシの世界王座に挑戦。反則すれすれの動きで王者を幻惑して世界王座を獲得し、欧州の正統派、中南米の技巧派を相手に防衛を続け、当時のスーパーウェルター級最多連続防衛記録を残している[77]。輪島所属の三迫ジムは王座の国外流出を防ぐため、オプションを活かして輪島の王座を奪ったオスカー・アルバラードの初防衛戦には龍反町を、柳済斗には三迫将弘を挑戦させた。反町、三迫は退けられるが、輪島は2度も王座を奪還した。当時、テレビのボクシング中継が衰退する一方で、まだゴールデンタイムで日本タイトルマッチが放映されることもあり、輪島は日本人の持つ浪花節的な感覚を刺激して全国区の人気を博していた。世界王座に2度目の復帰を果たした直後、東京・新宿区で起きた銀行強盗事件で犯人が立てこもった時[79][80][81]、警察官は「自首をして、あの輪島の根性を見習って人生をやり直してみろ」と言って説得している[79]。
1978年、無敗の日本ミドル級王者・工藤政志が世界王座を獲得。しかし、それまでウェルター級、ミドル級で活躍していた米国や中南米のトップボクサーたちがこの階級を狙い始めていた。三原正は1981年に米国で24戦全勝のロッキー・フラットを下し空位の世界王座を獲得するが、初防衛戦でデビー・ムーアと打ち合って王座を失うと、上述(#1980年代)のように覇権を握っていた米国のリングからシュガー・レイ・レナード、トーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランらスーパースターの勢力が流れ込み、世界王座は日本人には縁遠いものとなっていった。1980年代にはカーロス・エリオット、田端信之らが登場。エリオットは後にグアドループのポワンタピートルで世界王座に挑戦したが、顎を骨折して失敗。田端はウェルター級、スーパーウェルター級で日本王座の2階級制覇を果たしミドル級へ転向したが、3階級制覇には失敗している。上山仁は1989年から1995年にかけて日本王座で当時最多となる20度連続防衛を記録。1991年12月にはウェルター級王者の吉野弘幸とノンタイトルマッチで対戦し、7回TKOで下している。ともに日本王座を10度連続防衛中で、派手なKOで人気の吉野に対し[79]、堅実な正統派スタイルの上山はかつて4回戦時代に引き分け、日本初挑戦でKO負けを喫しており、この2度の吉野戦以外は全勝であった[82]。3度目の対戦が決まり、上山が「おかげでこっちは裏街道。ボクサー生命賭けてます」と言えば、吉野は「中盤までに倒します。また負けても根に持たないでネ」と返し、戦前から試合を盛り上げた。上山の王座返上後、同じ新日本木村ボクシングジム所属で元アマチュア・エリートの伊藤辰史が大東旭との決定戦を制して王者となるが、大東との再戦で不用意なパンチを受けてKO負けで王座を失い、再三の不運な判定で王座を奪還できないまま引退した。1990年代後半、地元大阪で防衛を重ねた大東は世界挑戦の機会が得られないまま王座を返上。大東に幕を引かせたのが石田順裕であり、東洋太平洋と日本の王座を保持していたのが金山俊治(後のクレイジー・キム)であった[79]。
ミドル級
1947年、新井正吉が戦後初代日本ミドル級王者となる。第2代王者は戦前のフェザー級王者・堀口恒男。1950年代には日本ミドル級創世記に最も貢献した辰巳八郎が登場。辰巳は日本タイトルマッチ21勝 (2KO) 1敗1分の記録を残しているが、ウェルター級時代が選手としての全盛期で、ミドル級での実績は選手層の薄さによるものでもあり、東洋のタイトルマッチでは5勝6敗であった。しかし東洋王座は辰巳の他に、大貫照雄、海津文雄、権藤正雄も獲得し、他のアジア諸国のレベルも日本と大差はなかった。1952年4月に辰巳が羽後武夫との防衛戦で判定勝利を収めてから1963年2月に前溝隆男が斎藤登から判定で王座を奪取するまでの約11年間、日本ミドル級タイトルマッチは25試合連続で判定決着であった。同じボクサー同士の対戦が多かったのも、この階級の特徴である。1960年代前半には前溝、斎藤、金田森男、海津、権藤の5人が総当たり戦を展開した。特に東洋タイトルマッチで初回48秒KO勝ちを記録した海津は爆発的な人気を博したが、後に世界王者となった金基洙や世界ランカーのスタン・ハーリントンらには完敗している[83]。
後にスーパーウェルター級で世界挑戦する南久雄が金を下して東洋王者となった後、1970年代初めにはアフリカ系米国人と日本人のハーフのカシアス内藤が登場。アウトボクシングで22連勝を重ね、日本・東洋の王座を獲得したが、柳済斗に敗れて東洋王座を失い、柳は東洋タイトルマッチで日本人に15戦全勝を記録した。1980年代の韓国の黄金時代に先駆け、ミドル級ではフィジカルで優る韓国勢に圧されていた。国内では米軍属選手のジョージ・カーター、フラッシャー石橋らが日本王者となり、カーターは日本王座を2階級制覇、石橋は世界ランカーのビル・ダグラスとの対戦にKO負けを喫している。その後、日本王座を8度防衛し、スーパーウェルター級で世界王者となった工藤政志、アマチュアのアジア王者でプロ入り後は工藤が返上した日本王座の決定戦に出場したが体重超過で失格、ミドル級とライトヘビー級で東洋王座に挑戦した鈴木利明が登場、1980年代の日本王者には2階級制覇を果たした柴田賢治、5度防衛した千里馬啓徳、デビュー以来5階級上げて王座を獲得した大和田正春、後に俳優になった大和武士、フィジカルの強いファイターの西條岳人らがいた。1990年代には竹原慎二が全日本新人王、日本王座、東洋太平洋王座を獲得し、1995年に世界王者となったが、ウィリアム・ジョッピーとの初防衛戦に敗れると眼疾も発覚して現役を引退した。竹原以後は、スーパーウェルター級から転向し、2階級を制覇したビニー・マーチンや米海軍所属で日本・東洋太平洋の両王座を獲得し、世界の上位ランカーとなったケビン・パーマー、元高校ライトヘビー級王者で日本・東洋太平洋を制し、ジョッピーの世界王座に挑戦した保住直孝、日本王座を9度防衛した鈴木悟らの個性的な選手が活躍した[84]。
スーパーミドル級
日本・東洋太平洋のミドル級王者となった田島吉秋は1980年、スーパーミドル級の世界王座に日本人として初挑戦。韓国でWBA王者の白仁鉄に挑戦し、7回TKO負けを喫した。階級が新設されて間もなく、世界ランカーの層が薄かったため、日本ではミドル級に先駆けての挑戦であった[84]。西澤ヨシノリは日本ミドル級王座、東洋太平洋スーパーミドル級王座を獲得した後、2004年に38歳の日本最高齢記録でWBAの世界王座に挑戦した[84]。
しかし、スーパーミドル級からクルーザー級までの3階級で日本王座が新設されたのは2009年9月で、他階級からは大幅に遅れをとっている[85]。
ライトヘビー級
寺地永はミドル級で日本王者となった後、日本人として初めて東洋太平洋ライトヘビー級王座を獲得した[84]。
クルーザー級
西島洋介山は1990年代中盤からヘビー級ボクサーとして米国を拠点に活動し、世界王者以上の注目を集めたこともあったが、本来のベストウェイトのクルーザー級では東洋太平洋やWBOの下部組織であるNABO、マイナー団体のWBFの王座を獲得した[84]。
ヘビー級
戦前には大関であった武藏山武のボクシング転向が計画されたものの実現には至らなかったが、1957年に大相撲出身の片岡昇が戦後初代日本ヘビー級王者となる。体重約80キログラムの片岡は防衛戦を行わずに引退し、王座はJBC預かりとなった。モハメド・アリやジョージ・フォアマンの来日を経た1970年代中盤には、米国でデビューして5連続KO勝利を収めたコング斉藤が逆上陸。日本では世界王者並みの関心を集めたが、ミドル級の選手にノックアウトされるなど実力不足を露呈した[83]。その後、「和製タイソン」と呼ばれた西島洋介山が登場し、NHK衛星放送が米国での試合を録画中継した。高橋良輔は国外の選手を相手に勝利を重ね、2005年に日本人として初めて東洋太平洋ヘビー級王座に挑戦した[86]。その後、竹原真敬が台頭したが、日本王座がJBC預かりとなっていた当時はいずれの選手も国内では試合数が限られ、JBCのボクサーライセンスを維持しながらの活動は難しく、西島はライセンスを剥奪され、竹原も返上を余儀なくされたことがあった。オケロ・ピーターは東洋太平洋王座を獲得し、2006年にオレグ・マスカエフの世界王座に挑戦したが、判定で敗れている[87]。日本王座は2009年9月にスーパーミドル級からクルーザー級までの3階級が新設されると同時に再設置された[85]。
外部リンク
- 日本アマチュアボクシング連盟の公式ウェブサイト
- 日本ボクシングコミッションの公式ウェブサイト
- 日本プロボクシング協会の公式ウェブサイト
- 東日本ボクシング協会の公式ウェブサイト
- 西日本ボクシング協会の公式ウェブサイト
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