NHK杯 (競馬)
NHK杯 (競馬) | |
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開催地 | 東京競馬場 |
施行時期 | |
格付け | GII |
1着賞金 | 5400万円 |
賞金総額 | |
距離 | 芝2000m |
出走条件 | サラブレッド系4歳(現3歳) 牡馬・牝馬(指定) |
負担重量 | 定量(牡馬56kg 牝馬54kg) |
創設 | 1953年5月10日 |
特記事項:上位3着までの入賞馬に東京優駿優先出走権 | |
テンプレート |
NHK杯(エヌエイチケーはい)は、日本の日本中央競馬会が東京競馬場の芝2000メートルで施行していた競馬の重賞(GII)競走。1953年から1995年までの43年間、東京優駿(日本ダービー)のトライアル競走として行われ、上位入賞をした競走馬には東京優駿への優先出走権が与えられた(着順による優先出走権には変遷がある)。
概要[編集]
1953年のテレビ放送開始に伴い、日本放送協会 (NHK) では東京優駿(日本ダービー)の実況中継を計画した。その際、有力馬がNHKの冠名が付くレースで好成績を挙げたのを、放送や新聞等のメディアで取り上げられれば、NHKにとって好都合になると考え、それまで存在しなかったトライアルレースを設置して、その競走にNHKの冠名を付けてもらい、その代わりに優勝カップを提供することを農林省競馬部に提案した。競馬部としても、トライアルレースを設置することによって、東京優駿への出走馬への注目をさらに集めることができると考え、NHK杯競走の設置に同意した。
第1回は、皐月賞の優勝馬のボストニアンや2着馬ハクリヨウ、フソウなどが出走し、ボストニアンが勝利を飾った。この年の東京優駿は結局テレビ中継できなかったものの、これらの馬がNHK杯競走で好成績を挙げたことをメディアで取り上げられたことでNHKの狙いは達成され、翌年以降は両競走ともにテレビ中継されるようになった。
東京優駿のトライアルレースに相応しく、創設当初は皐月賞出走組が参戦する傾向が見られ、ボストニアンを初めとする5頭の優勝馬のほか、本競走に出走した11頭の出走馬が東京優駿で優勝を果たしたが、第30回に出走したバンブーアトラスを最後にNHK杯をステップとして東京優駿に優勝する競走馬は出ることがなく、さらにNHK杯優勝馬の東京優駿優勝に至っては1975年のカブラヤオー以降出なかった。1980年代以降、馬優先の出走ローテーションが競馬界に広まり、東京優駿本番まで中2週の本レースを有力馬の陣営が避けるようになり、皐月賞で好走した馬などはまず出走してこなくなった。必然的に出走馬のレベルは低下し、その競走意義に価値を示すことができなくなった。また、中央競馬内における外国産馬の活躍などの影響から、開催プログラムを改定することになり、1995年の秋にその年の第43回競走を最後に廃止が決まった。なお、東京優駿のトライアルレースとしての機能は翌年に新設されたプリンシパルステークス(OP・東京競馬場・芝2200メートル〈現:芝2000メートル〉)に引き継がれ、NHK杯としては1996年に新設されたNHKマイルカップ(GI・芝1600m)として現在に引き継がれている。
出走条件は3歳(旧4歳)の国内産の牡馬・牝馬限定で外国産馬(1972年 - 1983年までは持込馬含む)および、騸馬は出走できなかった。
この競走のテレビ中継に関してはNHKが優先権を持っていたため、フジテレビ系列の競馬番組では本競走を「ダービートライアル」と呼称していた。
歴史[編集]
- 1953年 東京競馬場の芝2000mの競走、NHK杯として創設。
- 1955年 1着に吉屋信子所有馬のイチモンジ、2着に吉川英治所有馬のケゴンという、当時の著名作家の所有馬同士による決着で話題となる。
- 1967年 厩務員ストライキにより開催順延となった皐月賞、桜花賞と同日開催となり、中山競馬場の芝2000mで振替開催。東京優駿は翌々週日曜の開催。
- 1968年 東京競馬場の施設改修工事により、施行期日を6月16日に設定。
- 1972年 流行性の馬インフルエンザの影響で6月に順延開催。
- 1973年 ハイセイコーがデビュー以来無傷の10連勝を飾る。
- 1974年 厩務員ストライキにより開催順延となった皐月賞と同日開催となる。
- 1984年 グレード制導入によりGIIに格付け。
- 1995年秋 廃止決定。
歴代優勝馬[編集]
回数 | 施行日 | 優勝馬 | 性齢 | 勝時計 | 優勝騎手 | 管理調教師 | 東京優駿単勝人気 | 東京優駿成績 |
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第1回 | 1953年5月10日 | ボストニアン | 牡3 | 2:05 0/5 | 蛯名武五郎 | 増本勇 | 1番人気 | 優勝 |
第2回 | 1954年5月5日 | タカオー | 牡3 | 2:05 1/5 | 高橋英夫 | 上村大治郎 | 2番人気 | 2着 |
第3回 | 1955年5月8日 | イチモンジ | 牡3 | 2:04 4/5 | 高橋英夫 | 鈴木勝太郎 | 12番人気 | 14着 |
第4回 | 1956年5月5日 | キタノオー | 牡3 | 2:04 4/5 | 勝尾竹男 | 久保田金造 | 2番人気 | 2着 |
第5回 | 1957年5月5日 | ヒカルメイジ | 牡3 | 2:05 1/5 | 蛯名武五郎 | 藤本冨良 | 1番人気 | 優勝 |
第6回 | 1958年5月5日 | ダイゴホマレ | 牡3 | 2:04 2/5 | 伊藤竹男 | 久保田金造 | 2番人気 | 優勝 |
第7回 | 1959年5月5日 | ウイルデイール | 牡3 | 2:03 1/5 | 渡辺正人 | 星川泉士 | 2番人気 | 15着 |
第8回 | 1960年5月5日 | ケンマルチカラ | 牡3 | 2:03.7 | 蛯名武五郎 | 藤本冨良 | 不出走 | |
第9回 | 1961年5月7日 | チトセミノル | 牡3 | 2:05.1 | 伊藤修司 | 伊藤勝吉 | 不出走 | |
第10回 | 1962年5月6日 | オヤシオ | 牡3 | 2:04.8 | 加賀武見 | 星川泉士 | 5番人気 | 19着 |
第11回 | 1963年5月3日 | キングダンデイー | 牡3 | 2:04.5 | 野平祐二 | 野平省三 | 7番人気 | 11着 |
第12回 | 1964年5月10日 | ウメノチカラ | 牡3 | 2:03.6 | 伊藤竹男 | 古賀嘉蔵 | 2番人気 | 2着 |
第13回 | 1965年5月9日 | ダイコーター | 牡3 | 2:03.7 | 栗田勝 | 柴田不二男 | 1番人気 | 2着 |
第14回 | 1966年5月8日 | ナスノコトブキ | 牡3 | 2:05.2 | 森安弘明 | 稲葉秀男 | 3番人気 | 3着 |
第15回 | 1967年4月30日 | アラジン | 牡3 | 2:05.5 | 中野渡清一 | 本郷重彦 | 6番人気 | 6着 |
第16回 | 1968年6月16日 | マーチス | 牡3 | 2:02.6 | 保田隆芳 | 伊藤修司 | 1番人気 | 4着 |
第17回 | 1969年5月4日 | カネハヤテ | 牡3 | 2:02.7 | 加賀武見 | 成宮明光 | 4番人気 | 12着 |
第18回 | 1970年5月10日 | アローエクスプレス | 牡3 | 2:08.5 | 加賀武見 | 高松三太 | 1番人気 | 5着 |
第19回 | 1971年5月23日 | ヒカルイマイ | 牡3 | 2:02.8 | 田島良保 | 谷八郎 | 2番人気 | 優勝 |
第20回 | 1972年6月18日 | ランドジャガー | 牡3 | 2:01.2 | 小島太 | 高橋直 | 6番人気 | 5着 |
第21回 | 1973年5月6日 | ハイセイコー | 牡3 | 2:02.3 | 増沢末夫 | 鈴木勝太郎 | 1番人気 | 3着 |
第22回 | 1974年5月3日 | ナスノカゲ | 牡3 | 2:02.2 | 嶋田功 | 稲葉秀男 | 3番人気 | 13着 |
第23回 | 1975年5月4日 | カブラヤオー | 牡3 | 2:06.1 | 菅原泰夫 | 茂木為二郎 | 1番人気 | 優勝 |
第24回 | 1976年5月9日 | コーヨーチカラ | 牡3 | 2:02.4 | 領家政蔵 | 田中良平 | 3番人気 | 15着 |
第25回 | 1977年5月8日 | プレストウコウ | 牡3 | 2:02.9 | 岡部幸雄 | 加藤朝治郎 | 8番人気 | 7着 |
第26回 | 1978年5月7日 | インターグシケン | 牡3 | 2:02.1 | 武邦彦 | 日迫清 | 3番人気 | 6着 |
第27回 | 1979年5月6日 | テルテンリュウ | 牡3 | 2:00.8 | 西浦勝一 | 土門健司 | 3番人気 | 3着 |
第28回 | 1980年5月4日 | モンテプリンス | 牡3 | 2:01.8 | 吉永正人 | 松山吉三郎 | 1番人気 | 2着 |
第29回 | 1981年5月10日 | サンエイソロン | 牡3 | 2:03.4 | 小島太 | 古山良司 | 1番人気 | 2着 |
第30回 | 1982年5月9日 | アスワン | 牡3 | 2:01.5 | 吉永正人 | 松山吉三郎 | 不出走 | |
第31回 | 1983年5月8日 | カツラギエース | 牡3 | 2:02.9 | 崎山博樹 | 土門一美 | 3番人気 | 6着 |
第32回 | 1984年5月6日 | ビゼンニシキ | 牡3 | 2:04.0 | 蛯沢誠治 | 成宮明光 | 2番人気 | 14着 |
第33回 | 1985年5月6日 | トウショウサミット | 牡3 | 2:02.3 | 中島啓之 | 奥平真治 | 7番人気 | 18着 |
第34回 | 1986年5月4日 | ラグビーボール | 牡3 | 2:03.6 | 河内洋 | 田中良平 | 1番人気 | 4着 |
第35回 | 1987年5月10日 | モガミヤシマ | 牡3 | 2:01.6 | 小島太 | 古山良司 | 不出走 | |
第36回 | 1988年5月8日 | マイネルグラウベン | 牡3 | 2:02.0 | 蛯沢誠治 | 栗田博憲 | 5番人気 | 20着 |
第37回 | 1989年5月7日 | トーワトリプル | 牡3 | 2:05.0 | 的場均 | 柄崎孝 | 8番人気 | 4着 |
第38回 | 1990年5月6日 | ユートジョージ | 牡3 | 2:00.8 | 岡潤一郎 | 安藤正敏 | 4番人気 | 9着 |
第39回 | 1991年5月4日 | イブキマイカグラ | 牡3 | 2:01.9 | 南井克巳 | 中尾正 | 不出走 | |
第40回 | 1992年5月10日 | ナリタタイセイ | 牡3 | 2:02.8 | 南井克巳 | 中尾謙太郎 | 2番人気 | 7着 |
第41回 | 1993年5月9日 | マイシンザン | 牡3 | 2:00.7 | 松永幹夫 | 山本正司 | 4番人気 | 5着 |
第42回 | 1994年5月8日 | ナムラコクオー | 牡3 | 2:01.9 | 南井克巳 | 野村彰彦 | 2番人気 | 6着 |
第43回 | 1995年5月7日 | マイネルブリッジ | 牡3 | 2:01.7 | 田中勝春 | 伊藤正徳 | 10番人気 | 7着 |
本競走からの東京優駿優勝馬[編集]
東京優駿(日本ダービー)のトライアルレースに相応しく、16頭(うち5頭が優勝馬)の出走馬が東京優駿で優勝をしている。
回数 | 施行日 | 馬名 | 性齢 | 着順 | 備考 |
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第1回 | 1953年5月10日 | ボストニアン | 牡3 | 1着 | 皐月賞優勝 |
第2回 | 1954年5月5日 | ゴールデンウエーブ | 牡3 | 7着 | 皐月賞7着 |
第3回 | 1955年5月8日 | オートキツ | 牡3 | 8着 | 皐月賞10着 |
第5回 | 1957年5月5日 | ヒカルメイジ | 牡3 | 1着 | 皐月賞2着 |
第6回 | 1958年5月5日 | ダイゴホマレ | 牡3 | 1着 | 皐月賞3着 |
第7回 | 1959年5月5日 | コマツヒカリ | 牡3 | 3着 | |
第9回 | 1961年5月7日 | ハクシヨウ | 牡3 | 4着 | 皐月賞10着 |
第16回 | 1968年6月16日 | タニノハローモア | 牡3 | 3着 | 皐月賞6着 |
第17回 | 1969年5月4日 | ダイシンボルガード | 牡3 | 4着 | 皐月賞14着 |
第18回 | 1970年5月10日 | タニノムーティエ | 牡3 | 2着 | 皐月賞優勝 |
第19回 | 1971年5月23日 | ヒカルイマイ | 牡3 | 1着 | 皐月賞優勝 |
第23回 | 1975年5月4日 | カブラヤオー | 牡3 | 1着 | 皐月賞優勝 |
第25回 | 1977年5月8日 | ラッキールーラ | 牡3 | 4着 | 皐月賞2着 |
第27回 | 1979年5月6日 | カツラノハイセイコ | 牡3 | 3着 | 皐月賞2着 |
第29回 | 1981年5月10日 | カツトップエース | 牡3 | 2着 | 皐月賞優勝 |
第30回 | 1982年5月9日 | バンブーアトラス | 牡3 | 6着 |
エピソード[編集]
- 創設当初は東京優駿(日本ダービー)のトライアルレースとしての位置づけのみならず、特に関西馬が東京優駿を目前にして、東京競馬場を一度も走ったことがないというハンデを補うために設けられたレースという意味合いもあり、皐月賞を勝った馬が当レースに出走するケースも少なくなかった。
- 1973年、調教師であった鈴木勝太郎が、ハイセイコーが日本ダービーを万全の状態で迎えるためには、一度もレース経験がない東京(府中)で競走経験を積ませることが重要であると考え、皐月賞からの直行出走が望ましいと論じていた競馬評論家が少なくなかったにもかかわらず、当レースの出走を決意させた。ハイセイコーは残り200メートル付近では4番手付近と絶体絶命の状況にもかかわらず、奇跡的な伸びを見せてデビュー以来無傷の10連勝を達成。またこの勝利により、ハイセイコーには死角が全くないという流れになっていった。しかし本番の日本ダービーでは3着と完敗。日本ダービーでの敗戦については距離がこの馬には長すぎたという話が大勢を占めるなかで、同年に開催された菊花賞では優勝馬のタケホープにきわどい差で敗れたことから、距離云々というよりも、NHK杯に出走させたことが日本ダービーでの敗戦に繋がったのではないかという人も中にはいた。
- 上記のハイセイコーの日本ダービーにおける敗戦がのちに影響したのか、「NHK杯を勝った馬は日本ダービーでは勝てない」といったジンクスが生まれ、同時にそれ以降、皐月賞上位組は日本ダービーへ直行するケースが多くなった。しかも長らく当レースにおいて5着までに入れば日本ダービーへの優先出走権が得られるといった特典が、後に3着以内までといった条件に変わってしまったこともあって、晩年は収得賞金額だけでは日本ダービーへの出走が厳しい馬たちのラストチャンス的な意味合いのレースに変わってしまった。
- 1970年代半ば以降、重賞勝ちすらない関西馬に人気が集中するケースが目立ち、そのことにちなんで関西の秘密兵器といった言い方もされるようになった。もっともそういった馬たちは、当レースを勝つことはあっても、本番の日本ダービーでは決まって完敗、大敗していたことから、競馬マスコミに異常に持ち上げられたという印象が強い。一方、大川慶次郎は関西の秘密兵器と言われた馬たちを常に軽視していた。しかも日本ダービーにおいてそうした馬たちに重い印をつけることはまずなかった。
- 牝馬も出走可能だったが、優駿牝馬(オークス)まで中2週に本レースが組まれた1960年にトキノキロクが出走したのを最後に、以後本レースはオークスまで中1週、ダービーまで中2週にほぼ固定されたため、1頭も牝馬が参戦することはなかった。