日本の学生運動

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日本の学生運動(にほんのがくせいうんどう)では、日本国内で行われた学生運動について扱う。

当時の高度経済成長期の日本にあって、親の仕送りで大学に通わせてもらえたボンボンが、あたかも労働者階級を代弁しているかのようにブルジョア批判をしつつ大学という公共の財産を閉鎖して、闘争ごっこをした日本史上有数の黒歴史のことである。

概要[編集]

日本の学生運動は、大正デモクラシーの時期に始まり、戦後になって盛んになった。運動の中心となるのは活動家と呼ばれる学生であり、彼らは学生全体からみれば少数であるのが常である。活動家の多くは政治党派の学生組織に属しているか、その共鳴者(シンパ)が多いが、政治党派とは距離を置き運動を担っている学生も存在する(ノンセクトラジカル)。運動内容は時代や個別学校によって様々なものがあるが、代表的なものとして、反戦運動、学費値上げ反対運動、学生会館の自治要求、反差別への取り組みなどがある。

日常的に彼ら活動家は、自治会や様々なサークル(社研など)を拠点にして討論や学習をし、自前のビラ(アジビラ)やポスター、立て看板(タテカン)を作製し、授業前のクラスや昼休みの広場などで演説をし、自らの主張をアピールする。時には校内で集会や講演会、学習会などのイベントを開く。運動は日常的には地道なものであり、地味なものである。しかし運動がまれに盛り上がるときもある。普段は大学問題や政治問題に関心のない一般の学生も運動に加わり、全学的に運動が高揚する場合である。そうなればデモや授業ボイコット(ストライキ)、大衆団交、果てはバリケードによる建物占拠などが行われる。

学生運動がそのような盛り上がりをもっともみせたのは、1960年の安保闘争、1968年 - 1970年の全共闘運動大学紛争の時期であったが、それ以降は下火となっている。原因としては、社会が豊かになったことでの政治離れ、内ゲバなど過激な運動への忌避、などがあげられる。

日本では、大学当局による学内組織の追放・排除などにより、一部を除き衰退傾向にある。

学生運動の歴史[編集]

戦前 学生運動の始まり[編集]

日本では、明治時代から旧制高校などで校長排斥運動や同盟休校が度々起きていた。

第一次世界大戦直後、大正デモクラシーの影響を受け1918年12月東京帝国大学新人会、同年京都帝国大学に労学会(2代目)、翌1919年2月21日早稲田大学民人同盟会がそれぞれ設立された。その後これらの団体は普選運動に参加し、1919年1月学生による運動が起こったが、翌1920年5月10日第14回衆議院議員総選挙戦後不況により衰退した。

その後学生たちは労働運動農民運動など学外の社会運動との連携を強め、1922年11月7日には学連を設立、この頃から次第にマルクス主義・社会主義の影響が次第に拡大し、1920年代には軍事教練反対運動(1923年5月10日軍事研究団事件→1924年11月12日全国学生軍事教育反対同盟結成→11月~1月社研解散命令および様々な軍教反対運動→1925年1月10日軍事教育案可決→10月三高進化会解散→12月1日京都学連事件)、自治擁護運動(1926年5月29日文相内訓五ヶ条→1926年6月28日全日本学生自由擁護同盟結成)などの運動が取り組まれた。

全学連の結成から安保闘争へ[編集]

第二次世界大戦中は完全に解体されていた学生運動は戦後すぐに復活した。多くの大学で大学民主化運動が行われ、その高揚を背景に1948年全日本学生自治会総連合(全学連)が結成された。全学連は当初は日本共産党の影響が強く、その活動方針と軌を一にしていた。しかし、1955年日本共産党第6回全国協議会(「六全協」)で、共産党が現場の運動家を半ば置き去りにする形で大幅な路線変更を行ったことを契機として徐々に距離を置くようになり、共産党から除名された学生達が中心となった新左翼共産主義者同盟(ブント)が、全学連を握った。

国民的な議論となった1960年の日米安全保障条約改定をめぐる反対運動(安保闘争/安保紛争)では、この全学連(安保全学連ブント全学連)が運動の中心を担った。この闘争の最中、東京大学文学部の学生だった樺美智子(かんばみちこ)が機動隊とのもみ合いの最中に死亡し、象徴的事件となった。

安保闘争後、ブントは四分五裂、全学連も分裂し、学生運動も下火となる。

全共闘と全国学園闘争[編集]

1960年代半ばになるとベトナム戦争反対などの運動を通して、再び学生運動が盛んになってきた。早稲田大学や慶應義塾大学などで学園紛争が起り始める(第一次早大闘争)。また新たに結成された三派全学連は、羽田闘争を皮切りに街頭で数々の武装闘争を繰り広げた。その戦いに多くの学生が参加し、ヘルメットにゲバ棒というスタイルが学生運動の定番になっていく。三派全学連は再び統一されたブント(第二次ブント)、そのブントをしのぐ勢力を誇る中核派などがヘゲモニーを握っていた。これら新左翼三派や革マル派など5流13派と呼ばれる新左翼党派が、様々な色のヘルメットを被って自派を差別化し、学生運動での勢力を競い合った。新左翼系の学生達と日共系の学生達、そして新左翼同士でも暴力的な対立があったものの、街頭で各学園で学生運動は高揚していく。それはこの時期、世界的な現象として現れたスチューデント・パワーに呼応していた。

1968年頃から東大闘争全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる運動形態が現れた。全共闘は、それまでの全学連のような特定の政治党派の影響が強い既存の学生自治会に拠る運動とは異なり、党派や学部を越えたものとして組織作られ、ノンセクト・ラジカルと呼ばれる党派に属さない学生達が数多く運動に参加した。彼らは武装を辞さず、大学をバリケード封鎖することによって主張の貫徹を試みた。東京大学で始まった全共闘運動は1969年には燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広がり、国公立大学私立大学の大半が、何らかの闘争状態・紛争状態となった。

街頭闘争でも1968年、1969年の国際反戦デーでは全国で投石や火炎ビンなどによる闘争が繰り広げられ、首都東京はさながら市街戦状態、また三里塚沖縄デーなどでも、学生達は激しく機動隊とぶつかり合った。

日大紛争の出来事として1968年10月、日本大学経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動した機動隊員が重さ約16kgのコンクリートの塊を校舎の4階から落とされ頭に直撃させられその日の内に死亡する事件が発生した。この時代、大学進学率は10%台であり、大学生はエリートであったため、警察も彼らの未来を潰さないよう、出来る限り穏便に事件を解決しようとしていた。しかし、警察は死亡者が出た事で方針を転換、少人数の集会でも数倍の人数で一気に征圧するなど、強硬手段を執るようになる(ちなみに、関与した容疑者は何人かいたが、全員が「その場にいた証拠がない」として無罪となり、現在も真相は明らかになっていない)。

さらにそのわずか半年後の1969年4月12日には、岡山大学において、学生の投石により機動隊員が頭部に直撃を受けて重傷を負い、同日夜に死亡する事件が起こった。これは岡山大学の学生による学生課長及び、教養部教官に対する集団暴行傷害事件が発生し、大学長が学生十数名を告発したことに伴い岡山県警が強制捜査を実施していた際に起きた事件で、学生約150人は警察官に激しい投石を行い、執行を妨害。その際、学生の投石により警察官多数が負傷をし、そのうち機動隊員の巡査が頭部に直撃を受けて重傷を負い、同日夜に死亡した。

こうした学生運動は、一部の浪人生や高校生などにも波及し、大阪では大阪府高連を中心に高校生によるキャンパスのバリケード封鎖が行われている。運動は、生徒会などを取り巻く環境の改革運動、服装自由化運動や制服廃止運動、教育課程や教育方法の改善運動を派生させたこともあった。浪人生においても、東京や大阪のような大都市では活発な運動が展開され、全国浪人共闘会議(浪共闘)が結成された。

なお、1969年にこれらの学生運動に対抗する形で、民族派系の全国学協日本学生同盟日本学生会議や、創価学会系の新学生同盟などの、左翼系でない(≒右翼)学生団体もこの頃出現した。

「内ゲバ」 - 暴力の激化、学生運動の停滞[編集]

1970年頃までは、このような学生運動に共感を持つ人々も存在していた。この背景には「学生は世の中をよくするために身を挺して立ち上がっている」という意識や、学生運動を「若者のエネルギーの発露」としてそれを許容する空気が広く存在したことが挙げられる。権力側も一部には学生運動をする学生たちを「左翼の国士」と見るような風潮もあった。しかし、内ゲバや武装のエスカレートなどで市民の支持は徐々に失われていく。1960年代の新左翼党派の再編過程、路線対立の過程で暴力的衝突は日常と化していた。

一方、学生側には分派が生まれ、党派闘争が発生し、1970年以降は殺し合いに発展していく。1971年法政大学での中核派による海老原事件と、それにたいする革マル派の報復から、両派は凄惨な内ゲバを繰り広げ、ここに革労協と革マル派の間での内ゲバも加わり、1970年代は全国の大学で暴力の恐怖が蔓延した。

これら内ゲバや、赤軍派に代表される爆弾や銃による武装のエスカレート、連合赤軍での12名のリンチ殺人事件などが発覚したことで学生運動は急速にその支持を失っていく。更に1972年の沖縄返還などにより日本人の反米感情が薄れ、日本社会が豊かになるにつれ、学生たちは潮をひくように学生運動から遠のいていった。

1980年代以降は学生運動が存在するのは、ごく一部の大学のみとなり、それもごく一部の新左翼党派に属する学生に限られた運動となっている場合がほとんどで、大部分の学生とは無縁の存在になっている。

「民族派」の学生運動[編集]

戦後日本の大学では、1945年8月の日本敗戦とその後の米軍による7年間にわたる占領政策の影響、そして世界的な共産主義思想の流行によって、左翼運動の独壇場ともいえる情況が現出した。

しかし、これら左翼学生運動の勃興に対する危機感から、「民族派」と呼ばれる右派学生組織も次々と結成され、大きな運動が起こった。

これら民族派学生組織の多くは、左翼による大学のバリケード封鎖に反対する「学園正常化」を掲げ、また、日本敗戦後の米軍による「日本弱体化」政策(ポツダム支配)と、米ソによる世界分割支配「ヤルタ体制」を厳しく批判して運動している(2つをまとめて「YP体制」と蔑称する)。 主な民族派学生組織には、全国学協日学同生学連日本学生会議民社学同反憲学連全日本学生文化会議楯の会等がある。

1980年代以降、日本社会が豊かになると、左翼学生運動同様「民族派」学生運動も次第に衰退していった。

現代の学生運動の状況[編集]

現在の日本の学生運動としては、2008年に起きたリーマンショック派遣切り内定切りによるデモ運動、及び、大学2年から大学3年までの間に内定を取らないと大学4年に卒業しても内定が取りにくいという「就職活動の早期化を辞めろ運動」、及び、自公政権でも民主党政権になっても「就職率の低下の歯止め」や「3年以内の既卒者も新卒扱いにする等の新卒内定を遅らせてほしい」というのを望んでいる就職未内定の学生が、政府批判、企業批判、日本経団連批判をする学生運動が起きている事が多い。

また、くら寿司の謎の研修による内定者の試験による不合格者に対し、強制に書かされ解雇される様な「不道理な不当解雇行為」には学生運動で批判をする事もある。

ただし、中国の学生による日本批判の様な、日本側による尖閣諸島問題の中国に対しての逆批判、北朝鮮批判、北方領土問題によるロシア批判、独島・竹島問題による韓国批判等の外国に対しての批判の学生運動は全く行ってはいない。

2006年から2009年には法政大学学生運動の一斉検挙により学生110人以上が逮捕された。

産経新聞の「さらば革命的世代」では、かつて学生運動に参加していた学生が団塊の世代として社会を引退しつつあるなか、なぜ急速に運動に対する熱が冷めたのか、また学生運動の功罪など、かつての学生が口をつぐんでいるがために総括されていないと指摘している。

各大学の学生運動(新左翼を中心に)[編集]

愛知大学[編集]

愛知大学豊橋校舎の学生自治会では、長年にわたり、執行部である常任委員会のポストを革マル派が排他的に独占し、学生自治会の実権を掌握している。民主青年同盟や体育会系極右と激しく対立している。また、東海地方には中核派の勢力が少ないため、内ゲバ事件などが全くと言っていいほど無い。他の敵対する極左を排除した、圧倒的なヘゲモニーを確立した環境を温床にして革マル派は思うがままに、毎年多くの新入生をオルグし「シンパ」として利用し、その中から革マル派の構成員へと獲得している。革マル派の一般学生に対する影響力は絶大である。サークル活動が特別に盛んな同大学学生は、大学当局に対して団体交渉を行う際に、革マル派の指導のもと数百人規模のデモを学内で行うことで有名。東海地方における革マル派の学生組織の最大の拠点はまさに愛知大学豊橋校舎にあると言えよう。学園周辺には複数のアジトが存在していると思われる。また革マル派の上部組織から多くのオルガナイザーが学生組織の強化と指導のために学内に入り込んでいる様子である。

青山学院大学[編集]

1968(昭和43)年11月21日、大学紛争が激化する東京・本郷の東大構内で過激派学生が、 ただ今腕立て伏せで筋トレ中。傍らにゲバ棒を置いて武闘訓練にも余念がないは反日共系の学生。翌日は日共系も決起集会を開いて衝突必至とみられたが「暴力否定」の一般学生の呼び掛けもあって流血の惨事は免れた。

1960年代に食堂の料金などを巡って、大学当局と学生側がしばしば対立するようになる。1968年に始まった青学大全共闘による学生闘争はブント共産主義者同盟)を中心として行われた。大学の管理機構が集中していた8号館、9号館を学生側が制圧した。これが翌年まで続き、長期化を恐れた大学当局側は学生側の要求を飲んで沈静化が図られた。しかし、大学立法反対運動の全国的な高まりを受けて、再び1969年5月6月と相次いで学生側によって全学バリケード封鎖が実施され、1969年8月には教授会などが反対する中で大木金次郎院長を中心とする理事会の判断によって機動隊導入が強行され、バリケード解除が実施された。当該事件以降、理事会の影響力が教授会を上回る形の力関係が続いている。解体後ブントの分派である叛旗派などが新聞編集委員会や文化団体連合などに勢力を維持していたが、1980年代に入ると新聞編集委員会の実質的な解体や文化団体連合などへの弾圧も相まって急速にその力を失った。

大阪市立大学[編集]

1990年代は中核派の拠点校として、バリケードストライキを頻発させていた。旧志全寮自治会は中核派が握っていた。また専門課程キャンパスには、民学同がいたが壊滅。

大阪芸術大学[編集]

1960年後半はアナキスト革命連合(ARF)の拠点。1969年、アナ革連の大学解体闘争で実力部隊の中枢が全員逮捕。

大阪外国語大学[編集]

1969年の全学バリケード封鎖期の同大の全共闘の主要三派は、アナ革連、第四インター、毛沢東派。

大阪経済大学[編集]

2005年まで革マル派が自治会を掌握していたものの、大学職員への暴行事件を切っ掛けとして自治会の公認を取り消し。

大阪大学[編集]

1990年代まで豊中に中核派が存在。

桃山学院大学[編集]

自治会から生協まで赤軍派が掌握。生協の書店部の店頭には赤軍派の機関誌が平積みにされていた。

岡山大学[編集]

  • 1969年 - 全学バリケード封鎖。9月、機動隊8百人が導入される。
  • 1973年 - 前年、造反教官・坂本守信が免職され、学生は坂本免職処分撤回を要求し教養部をバリケード封鎖。200人以上の機動隊が導入される。
  • 1975年5月25日 - マル青同による岡大生殺害事件が起きる。
  • 1995年 - 中核派が影響力をもっていた学友会が消滅。

神奈川大学[編集]

全学自治会を社青同解放派が握る。

  • 1968年1月 原子力空母エンタープライズ (CVN-65)寄港阻止支援カンパ問題(佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争)から学生運動が起きる。
  • 1973年5~6月川口大三郎事件を切っ掛けに、解放派はブントと共にWAC(早大行動委員会)に助太刀し、第3次早大闘争に介入。
  • 1973年 9月14~15日 深夜、新学期の直前、早稲田解放闘争(第3次早大闘争)の継続を恐れた早稲田大学生等の革マル派150名が「九・一五ミッドウェイ (空母) (USS Midway, CVB/CVA/CV-41) 横須賀母港化反対闘争」の為に神奈川大学に泊まり込んでいた解放派学生に夜襲をかけ、反撃された革マル派2名が死亡(神奈川大学内ゲバ殺人事件)。
  • 1970年代後半、学費値上げ阻止闘争の大衆団交で「学生運動初、値上げ決定後に白紙撤回」を勝ちとった。しかし、1981年の分裂により学内多数派が滝口弘人らのグループにつくことで弱体化、
  • 1996年に内ゲバ殺人事件に絡む機動隊の強制突入により全学自治会は潰される。二部の自治会はノンセクト系。
  • 1970年、一方、極右民族派としては「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協)に参加しに三島由紀夫と共に三島事件を起こす、楯の会の古賀浩靖(法学部)、小賀正義(工学部)らもいた。

関西大学[編集]

革労協の拠点校。1990年代、革労協のボックスが撤去。

国際基督教大学[編集]

第一期 授業ボイコット~食費値上げ反対共闘会議

ICUにおける学生運動は、湯浅学長退任後の1961年頃から段階を経て顕在化し始めた。1963年には最高裁によるポポロ事件判決の同日に一度目の授業ボイコットが行われた。初期の段階においては授業ボイコット、およびハンガーストライキなどの手法が主に用いられたが、次第に過激化し、1965年12月16日には学生が「食費値上げ反対共闘会議」を名乗り、本館を占拠、バリケードを構築するにいたった。61年から75年までの全期間を通じ、すわりこみ、履修登録拒否などの運動も散発的に行われ続けた。

第二期 能研テスト採用および受検料値上げ撤回要求運動

1967年の段階で、運動の争点は「能研テスト採用および受検料値上げ撤回」に移り、2月10日には再度約60名の学生によって本館が占拠された。実質的に休校状態に陥ったICUは、新たに完成した理学館および教会堂において授業を再開した(3月10日)が、これにも断続的妨害が加えられた。同日をもって中心的学生10名に対して除籍を勧告、最終的に処分者は63名にまで及んだ。

同年4月10日、ついに機動隊が突入し、本館は解放された。

第三期 三項目闘争

この騒乱の後も、続いて三項目(ガードマン体制即時撤廃、教授会議事録全面公開、能研処分白紙撤回)要求を争点として全共闘が結成され(1969年2月27日)、依然不安定な状態が続いていた。5月14日にはD館が占拠されたが、10月20日に再度機動隊が出動、解放された。10月25日には教育区域として指定された区画の周囲に鉄の板が設置され、断絶の象徴となった(70年4月19日に除去)。カリフォルニア大学からの留学生や、一部教員も加わった全共闘による運動は1970年5月19日の解散まで続けられた。学生運動の火種はくすぶり続けるものの、幾度かの波を経て少しずつ下降線をたどっていった。

第四期 学費値上げ阻止、11.17公示撤回要求運動

1974年が始まってすぐに、学費の値上げおよび順次引き上げが採用され、これを不服として同年1月16日に「学費値上げ阻止、11.17公示撤回」共闘会議が結成された。2月21日に実力行使に移行し、本館、理学館、図書館、体育館を占拠した。3月6日には封鎖を解除した。4月1日には学費が増額された。1975年には一部の学生が本館および理学館を占拠したが、2月4日から6日までの2日間でしかなく、ICUにおける学生運動の終焉を感じさせるものであった。

九州大学[編集]

1968年6月2日の九州大学電算センターファントム墜落事故を契機に学生運動が激化。1969年5月20日からは全学的に無期限スト、バリケード封鎖が行われ、10月14日には機動隊により封鎖が解除される事態となった。

京都大学[編集]

全学の学生自治会として同学会があり、その他、各学部自治会、寮自治会がある(学部自治会がない学部もある)。60年安保闘争時は共産主義者同盟ブント)が同学会を掌握。1965 - 1972年は民青が同学会のヘゲモニーを奪い、京大闘争はブント中核派解放派など新左翼各派のほか、京大パルチザンなどと呼ばれたノンセクトグループが担う。72年、赤ヘル系セクトとノンセクト連合軍が同学会を民青から奪還。以後、主に教養、法、理、教育の自治会を民青が、文、経、農、医と熊野寮、吉田寮の自治会を赤ヘル系ノンセクトが維持。工学部は1976年に自治会崩壊。教養の自治会を赤ヘルノンセクト側は、同学会を民青は、それぞれ「でっち上げ」などと批判していた。この間、赤ヘル系ノンセクトは、ゲバ棒、鉄パイプ、チェーン、千枚通しなどを使って、苛烈な暴力、人権侵害を行使し、75年度には新学期から三ヵ月のあいだに20件の暴力事件を起こし、百数十人の重軽傷者を出していた。

経済学部自治会は、1980年代ニューアカブームを牽引した浅田彰や、東京芸大毛利嘉孝らを輩出。しかし浅田彰は、現在ではしんぶん赤旗にも登場している。また、特に1977年まで続いた竹本処分粉砕闘争で同学会は、最大動員1000人という、新左翼斜陽の時代としては異例の組織力を誇り、週刊誌に「人民の海に浮かぶガラパゴス」と呼ばれた。

1971年、12人の仲間をリンチ殺人し、山中に埋め、人質をとって山荘に立てこもり、銃撃戦を展開した「連合赤軍・浅間山荘事件」の犯人のうち二人は京大在学・中退の赤ヘル系ノンセクトだった。無差別の銃撃で25人を殺害し、76人を負傷させた「テルアビブ空港事件(1972年)」の二人も同様である。京大の赤ヘル系ノンセクトは赤軍派に指導されていた。小俣昌道(68年法学部卒)は赤軍国際部長で、京大全共闘議長であった。

1980年代に入ると、吉田寮の廃寮問題が起こり、1980年代を通して最大の闘争課題となるが、最終的に事実上の廃寮決定撤回を勝ち取る。86年には、内ゲバで中核派メンバー一名が殺害された。70年代、1980年代の赤ヘルノンセクトは、一橋大学鵜飼哲神戸大学市田良彦筑波大学鬼界彰夫京都大学伊藤公雄などの学者や、HIV訴訟の徳永信一、少年実名報道裁判の金井塚康弘、在外被爆者訴訟足立修一、反権力人権基金の多田謡子など人権派弁護士を多数輩出した。暴力によって苛烈な人権侵害をしていた赤ヘル系ノンセクトが、「人権派」を名乗っているのが現状である。

中核派は、1970年代なかばから対権力・対革マル戦争に注力して京大から召還していたが、1981年に熊野寮を足がかりに再登場。当初は黒ヘルを被ってノンセクトとして登場した。83年の三里塚3・8分裂を期に、熱田派を支援する赤ヘルノンセクトと、北原派を支援する中核派系(熊野寮自治会と農学部自治会)という対立軸を形成し、84年4月、熊野寮自治会の同じメンバーが黒ヘルを白ヘルに被り直して中核派として公然登場を実現した。その後、90年初頭まで、教養部を完全に制圧して、教養部では他の政治勢力の活動を許さず、不抜の拠点を維持した。なお、農学部自治会は、80年代の終わりごろ崩壊。 1990年代に入ると、民青系の力が落ち、赤ヘルノンセクトは運動スタイルをやや和らげたこともあり、基盤を広げる。教育学部自治会がノンポリ化、農学部自治会はノンセクトなどで再建、理学部自治会評議会が民青系からノンセクトになった。1997年には赤ヘルノンセクトの主導で、副学長制導入問題にかんして、竹本処分以来20年ぶりの総長団交を500人の結集で勝ち取った。一方、民青系は自治会基盤を実質的に失い、同学会、赤ヘル批判もほぼまったくできなくなった。

ただし、団塊ジュニア世代が卒業し始めた90年代後半以降、全共闘運動など新左翼の従来のスタイルを活動家学生ですら知らない場合もある時代となり、赤ヘル系の運動も、もはや自分たちが赤ヘルだという意識は薄い。

かつては京都大学熊野寮自治会は中核派と密接な関係があった。しかし現在、歴史的遺産として、中核派のボックスは熊野寮に存在するが、多数の留学生の受け入れや、内部学生の意識が大きく変化したことによって、熊野寮自治会は寮生の意見調整の場として、本来の自治会機能を取り戻しており、あらゆる暴力的政治組織に加担することはなくなった。

埼玉大学[編集]

日向派の最大拠点だったが、現在は絶滅。

東京大学[編集]

東大安田講堂事件参照

1968年、医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入したのを皮切りに東大紛争、東大安田講堂事件へとつながる。

東京芸術大学[編集]

1960年代には現アートディレクターの北川フラムが大学全共闘リーダーとして一人でバリケードを作った(が決壊した)ほか、70年前後には高校在学時以来、馬場憲治らと活動していた音楽家の坂本龍一らが参加するなどといった形で、いくつかの動きがあったものの活動は断片的であり、結果的に終息に追い込まれている。

東北大学[編集]

1960年代後半は解放派の拠点だった。1970年以降、解放派は日就寮襲撃事件で影響力が低下、中核派が進出した。1990年代まで、中核派と解放派、ノンセクトが共存し、民青と対立していた。1990年代半ばに民青の自治会を中核・ノンセクト連合が奪還した。

東洋大学[編集]

1960年代後半は解放派が第1社自、第2社自、文連などを押さえ全共闘の主流派だった。1970年代は「セクトのデパート」と呼ばれ、中核、革マル、解放、第4インター、フロント、プロ青同、L学同、人民連帯、赤軍プロ革、社青同協会派、民学同新時代派、民青がごった煮状態で共存していた。1977年、経自再建(のち崩壊)。1979年、反移転・学費闘争。

成蹊大学[編集]

1968年 - 1969年の全共闘時代は解放派が主流だった。1980年代まで、ノンセクトがいて新聞会や文連を握っていたが、後に消滅した。新聞会は1970年代に休部(のち1996年に復活)に追い込まれている。

  • 1963年 - 学生会館闘争。
  • 1967年 - 学生会館闘争での牧田君停学処分自主退学勧告に対し校門でハンスト抗議行動。(牧田吉明は三菱重工社長の息子で、アナキストとしてのちに土田・日石・ピース缶爆弾事件の真犯人宣言をしたり、流行の先端をいくライブハウスや広告代理店を立ち上げたりした)。
  • 1969年 - 学費学館闘争、5月 成蹊初のバリスト(一号館)。
    • 6月 - 総長室、学長室、総務局長室などを封鎖。一週間後自主解除。
    • 9月 - 法経自治会室、新聞会室ロックアウト。
  • 1974年 - 学費値上げ阻止闘争
    • 12月 - 全学ロックアウト。
  • 1975年 - 学費値上げ阻止闘争
    • 3月 - 卒業式の前日に13名処分(無期停学7人、訓告6人)。裁判闘争へ。
  • 1988年ごろ - ノンセクトの社会科学研究会が消滅し、以後学生運動は存在しない。

芝浦工業大学[編集]

1960年末、学費値上げ反対闘争がおこり、1969年はバリケード封鎖のまま越年、一つの学部の教授会が2分裂するなど、紛争は1971年秋まで続いた。この間、1969年9月18日に学生運動史上初めての内ゲバの死者がでた芝浦工大事件が起る。これは大宮校舎のバリケード内で仮眠中の埼玉大経済学部自治会の委員長であり、中核派系全学連の中執だった滝沢紀昭が「埼大反戦連合」を名のる勢力によって襲撃され、墜落死した事件。この事件を契機に全共闘運動から離れた活動家は多い。1970年代以降、東京学芸大学と並ぶ第4インターの拠点として大宮校舎、工学部、芝工大寮を握っていた。1980年代芝工大寮が廃寮。現在、学生運動は壊滅。

専修大学[編集]

1970年代まで生田キャンパスの文連と文化祭実行委員会を革マルが握っていたが、1979年、解放派が革マルを襲撃、革マル派学生が二人死亡した。その後も学術文化会の名前で細々と活動を継続中。 神田カルチェ・ラタン闘争には応援要請があったにも関わらず参加を拒否し、学生は全体的におとなしいとされる。

筑波大学[編集]

新設大の中でも特に新しい大学である筑波大には当初学生運動そのものが存在せず、大学側も学生運動を極力排除する方針で学内の管理を厳に行い、貼り紙や立て看板なども厳しく制限し、従わない学生には強権を持って排除し、学内の綱紀を保っており、管理型大学の見本としてあった。
それでも、1970年代の学生運動ピーク時にはノンセクトによる学生運動が他大の支援を受けつつ活発化、1980年に反処連(ノンセクト)と社会学類等の全処連(社青同協会反主流派)による、開学初の集会と学内デモが行われた(筑波大学園祭闘争)。全処連のリーダーだった福嶋浩彦(後に日本社会党公認で我孫子市市長)は、無期停学処分を受けた。
しかしながら、学生運動側も国会に議席を持つ政党に比較的近い立場だったこともあり、血なまぐさい事件はおきていない。そもそも先述の闘争自体、学園祭を開きたいと言う政治思想というよりは単純に若年の学生としての欲求がきっかけという、他の大学の状況からすれば牧歌的とも言えるものだった。
それをピークに再び運動は下火になり、現在では活動する学生は極少数にとどまり、訪問者がその痕跡を見つけることは難しい。

中央大学[編集]

1960年代に、いわゆる安保闘争に加えて、完成した学生会館の自主管理闘争、学費値上反対闘争が起こり、ストライキなどの結果、いずれも学生側の勝利に終わった。これに危機感を抱いた大学の理事者側が、弱腰と見られた教授会の上部組織として「常置委員会」の設置を発表。これを「大学自治」の危機と捉えた学生側は「全学中央会議(全中闘)」を結成。「昼間部自治会」とサークル組織であった「学友会」は、闘争に関する権限を全中闘に集約し、全面対決となった。 神田カルチェ・ラタン闘争を主導した。 1969年に全学ストライキからバリケード封鎖、機動隊導入による排除と大学当局によるロックアウトという事態となり、半年間の中断を経て授業を再開したものの、文化系のサークル活動は壊滅状態で、学内はブント系各派(おもに2派)、革マル派、サークルを母体としたノンセクト派、社青同協会派、民青同盟が入り乱れて一触即発状態が長く続いた。(現在は社青同協会派は自然衰退しており、革マル派は微弱ながら学友会の中で存在している。)

1978年の文系4学部の多摩キャンパス移転が近づくと、他大学では衰退期に入っていた学生運動が、移転後のサークル室の確保、下宿や通学の見通しの情報不足、遠隔地(後楽園キャンパス)に残る理工学部のサークル活動への不安などの要素もあって、再び盛り上がることになる。この運動は、学友会の再建運動(1979年に紛争後初めての中央委員会が開催された)、白門祭の復活(それまでは自治組織壊滅により「大学祭」として大学当局主導で行われていたが、セクト間のトラブルでしばしば中止になっていたものを学生主体の「学園祭」として再開。)へと続いた。しかしやがて、多摩キャンパスでの学生生活が落ち着くにしたがって、他大学と同様、学生運動は徐々に衰退していった。

日本女子大学[編集]

1970年代は自治会を社青同協会反主流派が握り、バリストも行われていた。

法政大学[編集]

全共闘時代、「セクトのデパート」と呼ばれていた。最大勢力の中核派、一時は『中核派』を凌ぐ勢いがあった解放派、ML、フロント、革マル派、武装蜂起準備委員会が活動していた。 1970年代以降は、中核派が他党派を放逐し、一文・一法・一経・経営・二部教養の自治会を掌握、支配権を確立した。

ノンセクトは、一社や二教、府中寮の自治会、第一文化連盟(一文連)・第二文化連盟(二文連)・学生団体連盟(学団連)、任意団体連合(任連)などサークル団体執行部を握り、黒ヘルノンセクトの法大全共闘として活発な活動を行ってきた。1970年中核派による革マル派・海老原殺害事件を口実にして大学当局は、殺害現場となったサークルボックスのある六角校舎を解体するとともに、夜間休日学生立ち入り禁止など「三条件六項目」によるロックアウト体制を強行、飯田橋本校地区全体を取り囲む鉄柵を設置し、「法大動物園」を現出させた。 1971年学費値上げに対して、法大全共闘は、サークルボックスを含む学生会館建設に当たっての学生自主管理を掲げ、学費学館闘争として決起した。一方で中核派は入管闘争を主として闘い、学内闘争の場面においては、学費学館闘争を機に、黒ヘルノンセクトの法大全共闘が台頭していく。特に、学館闘争は自治会よりもサークル団体の問題として広範なサークル員に共感を広げ、各サークルに闘争委員会ができ、一文連のサークル共闘会議など、法大全共闘の主力を担っていった。当時62年館(市ヶ谷地区)を拠点にしていた日共系が運営に当たっていた生協の主導権をめぐり、学館での生協運営について学生連盟総会で日共系生協を排除したことに対して、1973年6月19日夕刻から、九段会館で開催されていた不破哲三の集会に集まった民青部隊と本校に潜入していた部隊が、本校防衛に当たっていた法大全共闘と正門と55年館などで激突、竹ヤリ、投石によるゲバルト戦が繰り広げられ、飯田橋〜市ヶ谷一帯は麹町署による戒厳下に置かれた。学館をめぐる闘いは、法大全共闘によって数次の泊まり込みによる夜間ロック粉砕・三条件六項目解体闘争が行われてきたが、73年11月14日、自治会・サークル員を中心に泊まり込み闘争に決起、70数名の逮捕者を出し、一気に闘いの高揚期を迎えた。また、法大全共闘は、1974年狭山闘争の高揚を前に部落問題研(解放研)とともに「狭山差別糾弾闘争連絡会議(狭糾連)」を結成、日共=解放同盟正常化連による「橋のない川」上映運動反対闘争、10・31寺尾判決糾弾闘争などを展開した。三里塚(浅川団結小屋労学連)などの現地闘争や日大・中大・明大・電通大のノンセクトとともに五大学共闘を形成して街頭デモなど共同闘争を展開した。

こうした大衆的実力闘争を重ねてきた法大全共闘は、時に中核派の意に沿わないとして放逐されることもある。その後1980年代に入り、対革マル戦争を終息させた中核派が法大に戻り、黒ヘル系法大全共闘を暴力的に排除した。多摩移転後の一社自は全国唯一のノンセクト自治会だったが、1990年代半ばに非公認化となる。市ヶ谷の自治団体を握っていた中核派も2000年代に入ると経営学部自治会が非公認になり、学生会館の取り壊しも手伝ってかその勢力を大きく落とした。

2006年には学生運動に対する一斉検挙が行われた。 2008年5月には法政大学文化連盟が中核派系全学連と共に学内デモを実行し、活動家33名が逮捕された。しかし2008年4月の“学生が警備員に暴行した”とされ逮捕された問題では、警備員の行為が警備業法に違反する実力行使であった事実が認定され無罪判決が下っている。

武蔵工業大学[編集]

1960年代は学友会、育励会、文連を中核派が握っていたが、解放派と社青同太田派がヘゲモニーを握った。第1次羽田闘争では、解放派の出撃拠点だった。1970年代前半に太田派から分派した人民の力派の拠点となり、さらに人民の力派から除名されたグループの学生組織であるL学同が1970年代を通じて学友会、育励会を握っていた。1980年代に入り壊滅状態となった。

明治大学[編集]

1968年〜1969年、東京・神田駿河台の学生街で起きた暴動事件(神田カルチェ・ラタン闘争)など、学生運動が活発な大学の1校であった。しかし、1970年代前半に崩壊し、その後再建された学生会及び学苑会(二部の全学自治会)は中執=解放派、営自・二文自=竹内ブント、商自=人民連帯、社研=L学同の明大4派共闘。また反勝共反原理首都圏学生共闘に集うノンセクトや赤色戦線などがいた。

1975年春 和泉校舎の学館に迷い込んだ新入生が革マル派のスパイと誤認され、解放派に暴行を受ける事件が発生。
1982年頃、明大生協(8号館)闘争の折、明大4派共闘は、対立したノンセクトや赤色戦線を明治から実力で放逐。

1990年代に入ると、解放派の最大拠点校となり、「全人民解放の砦」と謳われた。竹内ブントは二文自、また地下サークル連合をアナキストが握っていた。 2000年代になって、当局より解放派は放逐された。

  • 東京大学で発生した東大安田講堂事件では警視庁と対立した学生運動側の幹部を明治大学生が務めていた。
  • 2009年現在では入学試験などの日程を中心に受験生に対して明大当局打破をうたうビラ配布や拡声器による情宣を行うなど勢力は落ちたものの活動を続けている。

山形大学[編集]

  • 1978年3月26日・山形大における自治会活動を中心的に担ってきた新山幸男をはじめとする部隊が、成田空港管制塔突入部隊に呼応し、同空港第9ゲートからトラックで突入。警察の発砲を受け、トラックに積載した廃油が発火。新山は全身やけどの重傷を負うが、そのまま手錠をかけられ成田国際空港警察署に約6時間放置された後、警察病院に搬送。その後、数次にわたる皮膚の再生手術を受けたが同年6月13日、24歳で死亡した。
  • 1998年 - 学生寮の廃寮攻撃に対しノンセクトが反対運動。
  • 2000年 - 寮生の四人が逮捕され、寮の強制捜査が行なわれる。
  • 2001年2月19日 - 明け渡し仮処分に基づく執行が機動隊を使って強制的に行われた。寮生及び支援の学生(約80人)が座り込みで抗議。

和光大学[編集]

1970年代までサークル連合のノンセクトと文化祭実行委員会を握る革マルが共存。1980年代に入り中核派が進出。

早稲田大学[編集]

全国的に学生運動が低迷していた1960年代半ばに起った早大闘争は、後の全共闘運動爆発の先駆けとなる。第2次早大闘争前に革マル派は解放派やノンセクトを放逐し、早大を完全に支配した。ちなみに、1968年に文連・委員長だった社青同解放派の林が、ジャックナイフを携帯している事実を察知した革マル派は、林を取り囲み恫喝。暴力的挑発で、ナイフを抜くように仕向けた。革マル派は、この「林ジャックナイフ事件」を錦の御旗として、解放派へのテロを路線化。さらに文連執行部選挙当日には、同派の候補者に負傷を負わせた上で秩父の山中に放置するという手段で、文連執行部を乗っ取っていったのである。これに力を得た革マル派は、以降テルミド-ル的支配でノンセクト活動家にも屈服を強要した。以後、早大は革マル派の最大拠点校となった。 一方、法学部自治会を中心とした民青同盟とは、いわゆる「ボス交」による「クロス承認」を続け、他方では原理研や勝共連合などの右翼活動は黙認。成田闘争や狭山裁判を戦う新左翼各派の活動への弾圧を徹底した。大学当局も、革マル派と民青の泣き別れ的なバランス構造を利用して急進主義運動の拡大を防いだ、という分析もある。

革マル派による川口大三郎虐殺に抗議して多くの学生が立ち上がった1972~1973年には、各派の勢力が再度拡大。革マル派は、半年間にわたって一般学生達の砲火を浴び続け窮地に追い込まれたが、最終的にはお家芸の「恐怖政治」で早大生達の怒りを封じ込めた。客観的に見れば、この局面でも当局と警察が革マル派に加勢した形となり、学生達の自発的な運動の高まりを抑え込んでいったのである。しかし、その中で影響力を拡大していった第四インターは、1975年頃から一・二文を中心に公然と再登場。革マル派に下宿を襲われたり、「殲滅」宣言による暴力的敵対を受け、同時に岩山鉄塔防衛戦や第5ゲート突入戦、横堀要塞戦など、開港阻止を掲げた成田闘争で相当数の検挙者を出しながらも、並行的に学内活動を推進。朴正煕政権が在日韓国人留学生をスパイにでっち上げた「学園浸透間諜団事件」で、早稲田大学出身の崔然淑(Choi Yeon Sook) が逮捕されたこともあり、その糾弾闘争でも学内のノンセクト支援活動家達や共産同・戦旗派(荒派)とともに、クラスオルグ等の情宣活動や高田早苗銅像前でのハンスト闘争などを展開。自らの”先輩”が拘束されたことに抗議するこの運動は、多くの早大生の注目と支持を集めた。そのために、革マル派もハンストのテントを襲撃するなどの公然とした敵対ができず、個々の活動家に対して陰で暴力的恫喝を加えたり、第四インターの活動家数名の実名を挙げ、放逐や殲滅を宣言するビラを配るにとどまった。また、この運動に寄せられた学生たちの支援カンパを基に、崔然淑に接見するために2名の学友をソウルに派遣することもできたのである。

他方、文益煥、金大中らが、当時の朴正熙軍事独裁政権退陣を呼びかけた「民主救国宣言」を支持する国際的な運動を背景に、在日韓国青年同盟(韓青同)が中心となって推進した1976年の「百万人署名運動」でも、早大生が積極参加。地元である新宿区を中心に街頭活動や訪問活動を進め、多くの賛同署名を集めた。 さらにこの成果を受け、当時ソウルに拘束されていた詩人・金芝河や作曲家キム・ミンギの楽曲を紹介し、韓国・民主人士を支援することを目指して韓民統、韓青同、アジア・アフリカ作家会議などが、1977年に進めた全国キャラバン『ソウルへの道フェスティバル』のツアーメンバーにも、早大のメンバーが参加した。

そして、1978年3月26日の開港阻止決戦・管制塔占拠へと向かう成田闘争の高まり中で、横堀要塞建設現地闘争団、2月横堀要塞戦・戦闘団、開港阻止決戦現地闘争団、さらに管制塔突入グループでも早大のメンバーがその一翼を担い、管制塔1階のエレベータ前で機動隊の進入を阻止して、突入部隊の計画遂行を可能たらしめた。また学内では政経、商、教育、法、社学などの各学部にも陣容を拡大。多くのメンバーとシンパを獲得したのである。

しかしその後この党派は「レイプ事件」を引き起こした。

朝倉・現闘小屋の古参現闘を含む4名が引き起こしたいわゆる「ABCD事件」は、人間の根元的解放を目指すべき左翼党派として許されざる事態であったことは事実。Gender問題に無頓着かつ無防備であった第四インターナショナル日本支部は、この問題を巡って複数のグループに分化し、国際統一書記局から「支部」資格を剥奪された。現在は2グループが、オブザーバ組織として統一書記局に参加している。しかしこの問題は革マル派の暴力支配の中から、再度急進主義大衆運動を蘇生させんと闘った早大学生運動の歴史とは無縁である。

1980年代は学校当局と革マル派の蜜月時代が続く。1990年代以降、早稲田祭の中止や各自治会の非公認化など革マル派と大学の対立が激化。2000年代は革マルが拠点としていた学館、ノンセクトの拠点だった地下部室が閉鎖された。

静岡大学[編集]

法経短期大学部で中核派が存在した以外は全学部を民青同系全学連が掌握。ただし現在は不明。

学生運動の年表[編集]

  • 1967年10月8日 - 佐藤栄作の訪米阻止を目的とした羽田闘争。新左翼の大衆的街頭武装闘争が始まる。
  • 1980年4月20日 - 清水谷公園で全国学生共同闘争による「筑波大闘争支援/全国学生集会」を開かれ、55大学1000人結集、革マル以外の全党派が集まった。

学生運動に参加した著名人[編集]

  • 石井慎二 - 洋泉社社長。革マル派の影響力が強い早稲田大学新聞会に所属。
  • 猪瀬直樹 - 信州大学全共闘議長を務めた。
  • 内田樹 - 東大在学中に「過激派学生」として活動。某政治党派に属していた。内ゲバで殺された革マル派の金築寛とは当時、親友だった。
  • 江田五月 - 政治家。東京大学教養学部時代に学部自治会委員長として大学管理法反対ストを指揮し、退学処分を受ける。復学後は運動と絶縁。
  • 大野力 - 評論家。『デモに渦巻く青春』(番町書房、1968年)において「かれら反日共系活動家の求めているのは、経済的要求ではなく、その闘いを通じての、人間的文化的要求だと言えよう」としている。
  • 菅直人 - 政治家。第94代内閣総理大臣東京工業大学在学中に学生運動に参加していた。通称、4列目の男
  • 神津陽 - 評論家。ブント叛旗派のリーダー。
  • 坂本龍一 - 音楽家。高校時代に参加。
  • 塩崎恭久 - 政治家。安倍内閣内閣官房長官全国浪人共闘会議(浪共闘)に参加。
  • 塩見孝也 - 評論家。ブント赤軍派のリーダー。
  • 仙谷由人 - 政治家。菅内閣官房長官構造改革派フロント (社会主義同盟)の活動家として、東大法学部で全共闘運動に参加。
  • 高須基仁-出版プロデューサー。中央大学社学同の委員長として数々の闘争に参加。1968年の10・21国際反戦デーでは六本木防衛庁に丸太を抱えて先頭で突入した。
  • 高瀬幸途-太田出版社長。法政大学時代、非合法革命党派に所属。
  • 高橋源一郎 - 小説家。横浜国立大学在学中の1969年凶器準備集合罪で逮捕。翌年、半年間にわたって東京拘置所に留置される。この時期に高橋は一種の失語症に陥り、それが彼の文学活動に大きな影響を与えている。
  • 高橋伴明 - 映画監督。早稲田大学で全共闘運動に参加し内ゲバ事件で逮捕。
  • 千坂恭二 - 評論家。全国浪人共闘会議(浪共闘)やアナキスト革命連合に参加。1969年10月の大阪芸術大学夜襲闘争で逮捕。
  • テリー伊藤 - タレント。日本大学経済学部在学中に日大全共闘に参加。左眼の斜視は、デモ行進中に投石を受けて重傷を負った後遺症である。
  • 友成純一 - 映画評論家。高校時代に新左翼セクトに加盟。内ゲバを闘う。
  • 中上健次 - 小説家。ブント系で活動し羽田闘争に参加。早大では聴講生として活動した。
  • 中沢新一 - 思想家。毛沢東派であるML派の隊列にいたといわれる。
  • 西部邁 - 評論家。共産主義者同盟に所属。全学連中央執行委員として安保闘争に参加。のち、現在に見られるように転向。
  • 松岡正剛 - 評論家。革マル派の影響力が強い早稲田大学新聞会に所属。文学部議長。デモの先頭で闘争の日々を送る。
  • 宮崎学 - 評論家。第1次早大闘争に日本共産党側で参加。共産党系のゲバルト部隊あかつき隊の隊長として、早大全共闘および東大全共闘と激しいゲバルトを闘う。。
  • 村上龍 - 小説家。他の学生運動とは繋がりはないが、学生闘争が盛んな時期の1969年の高校在学中に高校の屋上をバリケード封鎖し停学処分を受ける。この経験を元に69 sixty nineを執筆。
  • 森田実 - 政治評論家。共産主義者同盟結成時のメンバーの一人。
  • 蓮見清一 - 宝島社社長。早稲田大学で革マル派の学生運動を行う。
  • 安彦良和 - 漫画家、アニメーター。弘前大学の全共闘運動に参加。校舎パリケード封鎖の責任者として逮捕。退学処分。
  • 矢作俊彦-小説家。第2次ブントの活動家だった。

関連項目[編集]

学生運動を描いた作品[編集]

小説[編集]

ノンフィクション[編集]

  • 佐々淳行 『東大落城』 - “学園暴動”の鎮圧に当たった立場から、「暴動」の赤裸々な実態がつづられている。
  • 島泰三 『安田講堂 1968-1969』中央公論新社〈中公新書〉 - 東大全共闘の一員として安田講堂に立てこもった側の記録。
  • 高野悦子 『二十歳の原点』 - 立命館大学で学生運動に参加したのち自殺した著者の日記。繊細な自意識と社会に対する葛藤がつづられていて、若い世代に読み継がれている。
  • 高橋和巳 『わが解体』
  • 日本大学文理学部闘争委員会書記局編 『叛逆のバリケード-日大闘争の記録』 - 日大全共闘の記録。
  • 宮崎学  『突破者-戦後史の陰を駆け抜けた50年 上』 - 著者は全共闘と激しく戦った日本民主青年同盟のゲバ部隊「あかつき行動隊」の隊長。早大闘争や東大闘争での彼らの実態が初めて明らかに。

歌集[編集]

映画(書籍の映画化作品は除く)[編集]

ドラマ[編集]

音楽[編集]

マンガ[編集]

  • 吾妻ひでお『我れらのアイドル ポップタン』 - 吾妻ひでおの漫画家デビュー以前の漫画作品。内容は当時問題となって学生運動を描いた漫画作品だが、その作品は当時の児童向き漫画雑誌に掲載されなかった幻の漫画作品である。
  • 真崎守『共犯幻想』 - 高校紛争を描く。真摯な青春としての学生運動。バリケードに最後まで立て篭もった4人の高校生の群像劇。
  • 山本直樹レッド』 - 全共闘運動の壊滅から連合赤軍へと流れていく学生・青年たちの群像劇。

参考文献[編集]

  • 菅孝行 『全学連』 現代書館、1982年9月
  • 蔵田計成 『安保全学連』 三一書房、1969年
  • 高木正幸 『全学連と全共闘』 講談社〈講談社現代新書〉、1985年4月
  • 日本大学文理学部闘争委員会書記局編 『叛逆のバリケード-日大闘争の記録』 三一書房、1991年9月
  • 日本大学文理学部闘争委員会書記局・『新版・叛逆のバリケード』編集委員会編著 『叛逆のバリケード:日大闘争の記録』 三一書房、2008年9月
  • 角間隆 『赤い雪-総括・連合赤軍事件-ドキュメント』 読売新聞社、1980年2月
  • れんだいこ 『検証学生運動-戦後史のなかの学生反乱』上巻、社会批評社、2009年2月

外部リンク[編集]