ウィキペディア

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本項目「ウィキペディア」は、先編集権が主張されています「同意を得ないリバート」「記事の置き換え・白紙化」等の不正改竄は荒らしとみなされブロックされますので、ご注意ください。また、このテンプレートを剥す行為も荒らしとみなされますのでご注意下さい。どうしても自分の意に沿う編集をされたい場合は「ウィキペディア (2)」という様な感じでフォークを立てて下さい。

ウィキペディアWikipedia)とはインターネット上で作成、公開されているオープンコンテント方式の「多言語百科事典」を自称するウェブサイトである。ウィキメディア財団の展開する最初の多言語プロジェクトである。

概要

Wikipedia(ウィキペディア)という名前はウィキペディアが使用しているソフトウェアである「Wikiウィキ)」と、百科事典を意味する英語「encyclopedia(エンサイクロペディア)」から合成されたものである。執筆・編集は主に参加者の共同作業によっておこなわれており、自由参加型である点に特徴がある。

しかし誰もが自由に参加できるため、情報の精度・信憑性は必ずしも保証されるものではない。特に政治や宗教、価値観のように意見対立が起きやすいテーマにおいては編集合戦がしばしば起こる。また、時には個人や団体に対する名誉毀損を目的としたゴシップや根も葉もない嘘の投稿が見過ごされ、しばらく訂正されないこともある。そしてそれとは逆に、その対象項目にとって都合の悪いファクターを不当に排除してしまうという事も同様にある。そんな中2005年度末にはジョン・シーゲンソーラー ウィキペディア経歴論争が起こった。

日本版の利用者数は2005年2月には221万人。2006年3月には700万人に成長している。日本版のユーザーの3%は英語版へ頻繁に訪問している。英語版は1416万人である[1]。日本語版の詳細については、ウィキペディア日本語版を参照。

実態

前述されているようにウィキペディアの記述のほとんどは間違いである。ウィキペディアの運営者達は御用メディアを使って「ウィキペディアの信頼性はブリタニカに匹敵する」等というネオコンと同レベルのプロパガンダを垂れ流しているが、これは明らかに嘘である。ミドルベリー大学の史学部ではウィキペディアの記述を鵜呑みにした学生が誤答を繰り返し続けている事が問題視されウィキペディアからの引用が禁止される等[2]、各地でウィキペディアの信頼性の無さが指摘されている。間違った記述が平然と多数ある中、新しめの記事にはやたら「要出典」を求められる。これは善良な利用者をだますためのワナであり、出典を示せば著作権侵害と攻撃するのである。今更改良しても意味がなく、最早手遅れである。(「~~という意見もある」「~~という見方もある」「~~と言われている」の記載は認めるべきではなかろうか)

ウィキペディアは表向きには著作物の無断転載を禁止しているが、「著作権侵害」と見做されるのは文章の構成が他人の著作物と丸々同じ記述だけである。段落等、文章の構成を少し変えた物に関しては「事実の列記だ」等と言い逃れして管理者達は一切取り締まらない為、外部から問題視されている。何故このような問題が起きるかと言うと、ウィキペディアの編集者のほとんどがまともな知識を有していない為、外部からのパクリをある程度黙認しなければウィキペディアの記事数が全く増えなくなってしまうという事が背景にある。

さらに公的な方針として「ウィキペディアは演説場所ではありません」や「ウィキペディアは戦いの場ではありません」等という標語を掲げているが実態は罵詈雑言のオンパレードで日夜、骨肉の中傷合戦が繰り広げられている。このように憎悪に満ちた場所なので青少年にとってウィキペディアの閲覧は教育上、悪影響を及ぼすと見られる。悪影響だけですめばまだ良いがそういう方針がますます荒しを生み出すというのを馬鹿管理者は分からずいつも同じミスを繰返す為、荒しの撲滅はまともな管理者に一掃しない限り100%無理である。しかしこれまでこういったウィキペディアの「暗部」はウィキペディアが必ずしもメジャーとは言い難い微妙なライン(言うなればマイナーとメジャーの中間地点)に居た為かあまり表に出て来る事は無かったが、某所の調査によれば利用者の増加とともにそういった負の側面に対するユーザーの認識もより深まっているような調査結果が出ている。そしてそれはユーザーの増加に比例してより顕在化していく事が予測される。

改竄不可能な「中立的な論点」もあるが、意味を成していない。また日本語版のみコピーライトメディアの使用が出来ないが、ウィキペディア関係のみはできるのも矛盾している。

まさにアンサイクロペディアの「専門家気取り」という表現がぴったりである。

活動の規模

2001年1月15日英語版が発足、その後多くの言語へ展開し、2007年1月1日現在、250言語で執筆が行われている。ただしこのうち継続的な活動が行われ100項目以上に達しているものは、180言語ほどである。ウィキペディアは多言語展開に力を入れており、つねに新しい言語プロジェクトに開かれてきた。現在は、まだ存在しない言語版を新規に立ち上げるには数名の参加者がいれば可能である。

項目は2007年1月現在、英語版で160万件近く、英語を除く他の諸言語の版で約450万件以上の記事が執筆されている。またAlexa.comの全インターネットを対象とするアクセスランキングでは、20位以内に入っている。

活動規模がもっとも大きいのは、英語版である。登録ユーザー数ベースで執筆者を見ると、英語版だけで2万人を超える。Alexa.com の統計によれば、wikipedia.orgの閲覧数のうち60%前後が英語版へのアクセスである。日本語版、スペイン語版ドイツ語版へのアクセスがこれに次ぐ。とはいえ英語版と他の言語版の規模の差は、プロジェクトの進展とともに漸進的に埋まりつつある。英語版の項目数と2位以下の言語版の項目数合計を比較すると、かつては10位までを合計してようやく英語版に並んだものが2007年1月には2位から5位までの4プロジェクト合計と等しくなっている。現在英語を含む14の言語が10万項目以上を保有している。

執筆者についてはプロジェクト発足以来2005年3月現在、3万人を越える登録ユーザーがおり、うち数千人が現在も活発に活動していると推測される。登録のみで投稿を行わないユーザーがいる一方でユーザー登録をすることなく執筆に参加することができる仕組みになっているため、正確な執筆者数の把握は難しい。データベースファイルを分析したエーリック・ザクテ(Erik Zachte)の統計によれば5回以上編集・投稿に携わったユーザーの総数はプロジェクト発足以来2004年12月30日までで3万2000人強とされるが、この統計でも未登録ユーザーの活動量が未集計の他、古いバージョンのソフトウェアを用いて活動しているウィキペディアについては分析の対象外としている。

参加者が何らかの編集、投稿を行いデータベースへ保存した回数を参考にすると、同じくザクテのデータからプロジェクト発足以来、185万回程度の編集、投稿が行われてきたことになる(これは未登録ユーザーによるものも含まれるが、ソフトウェアのバージョンの差から来るデータの欠落がある)。

主な特徴

他の類似のプロジェクトと比較した場合、ウィキペディアには次のような特徴がある。

  • 百科事典の作成に目標を限定していること。この点で、例えば議論や情報交換を行う場である掲示板USENETなどと異なっている。
  • ウィキを利用したプロジェクトであること。他の多くのウィキがそうであるように多くの利用者が簡単に執筆、編集できる仕組みになっている。つまり、使いやすいサイトなのである。ウィキペディアでは参加者の資格制限などを行っていないため年齢、職業、国籍などの点で多様な執筆者が参加する傾向にある。この点で、百科事典の開発プロジェクトとしては独特である。
  • オープンコンテント方式を採用。参加者によって投稿された内容をコピーレフト用のライセンスの一種であるGFDLの元に公開しており、複製・配布・改変などが容易にできると謳われている。しかし、GFDLが課す複雑な制約やGFDL自体の排他性のため、厳密にライセンスに従った利用は難しい。

プロジェクトの運営形態

ウィキペディアは比較的大規模なプロジェクトであり、運営方針や編集・執筆方針などについて多くの問題を抱えてもいる。編集・執筆のレベルでは非登録ユーザーを含む多くのユーザーに開かれているが同時にルールが一切存在しないわけではなく、またそうしたルールを定めるための意思決定が行われないわけでもない。

  • プロジェクトはその初期ジミー・ウェールズおよびインターネット会社・Bomisによって資金を提供されていた。Bomisは彼が以前最高経営責任者を務めていた会社である。後に財団が設立されてからは、寄付金や外部の団体から無償提供されたハードウェアの占める割合が増えた。運営団体によるハードウェアの購入は2004年以降、全額寄付金に依存している。ウェールズが2004年からCEOを務める企業・Wikiaからも帯域の経費などの資金援助がなされている。
  • 記事が中立的な観点から書かれるべきだとする方針も、ウェールズによって全ウィキペディアの共通方針だと定められた。またウェールズは、後述するプロジェクト全体の問題についての議論に参加し質問や意見を述べ、あるいは採決に加わる。彼の発言は必ずしも議論を終結させるものではないが、その意見は他の参加者の意見よりも尊重される傾向にある。
  • ウェールズはまた英語版の運営については比較的具体的な問題に関しても意見を述べる傾向がある。英語版の初期には、登録済ユーザーのアカウントを停止する場合には彼の了承を得るようにとの要請があった(2004年以降、この決定は選任されたユーザ代表に任されている)。他言語のウィキペディアで同様の問題が発生した場合にどうなるべきかについては特に明確にされていない。一方ウェールズが英語以外の言語は話さないこと、利用者の自治を尊重することもあり、英語以外の言語版の運営にウェールズが中心的な関与を行うことはほとんどない。ただしウェールズが利用者の紛争の調停に当たったり、あるいは利用者のアクセス権限についての決定を行う場合もある。これは関係者がみな英語を解する場合、かつ自治の枠組が問題の解決においてうまく機能していない場合に行なわれることが多い。
  • ソフトウェア開発のモデルである「善意独裁者」をウィキペディアに当てはめることがしばしば行われる。ウェールズはこれを否定しないが、一方でウィキペディアがつねに編集可能であることにより自身の関与が常に及ぶわけではないことをもって、自分は厳密な意味でこうしたモデルにはあてはまらないと発言している。
  • 開発者権限やサーバへのアクセス権限などは一部の人物に限られている。ソフトウェアの改変や非常時の対処などは彼らに任されている。ただしこのプロセスも基本的には自由参加型であるため、一定期間の活動を経て信用を築いた者にはそうした権限が与えられることになる。また、ソフトウェアの仕様変更については開発者とそれ以外の利用者を含めた公開・自由参加型の議論が行われている。
  • プロジェクト全体の問題は、公開のメーリングリストで扱われる。基本的には全て英語で、ごく稀にフランス語などが混ざる。議題には各言語のウィキペディアの記事数の集計方法、新しい言語のウィキペディアの発足、デザインや機能の変更、運営上の方針やユーザー間の争いの調整、法律問題などが含まれる。この議論は複数のリストで行われるが、誰でも参加、発言できるようになっている。またアーカイヴはウェブ上で公開されている。
  • ウィキペディア全体の話題を扱うメーリングリストのほか、各言語プロジェクト固有の話題を扱うメーリングリストが存在する場合もある。
  • またメタ・ウィキメディアという、ウィキメディア財団(後述)のプロジェクト全体を扱うウェブサイトがある。メーリングリスト以外に、ここでも全言語版共通の問題、あるいは他プロジェクトと共通の話題が取り上げられる。運営団体であるウィキメディア財団の将来計画などはこのメタ・ウィキメディアで公開され、質問や議論が行なわれる。話題はまた財団の運営に関する別のメーリングリストでも話しあわれる場合がある。
  • 各言語版毎に管理者がおり、一定の権限が与えられている。管理者は通常、その言語のウィキペディアの初期段階での立候補やそのウィキペディアの参加者内の議論などによって決まる。権限にはページの削除、ページの保護(管理者以外には編集できなくなる)、「荒らし」とみなされたユーザーの書き込み禁止などがある。ただし、ウィキペディアの各言語版の多くでは削除などのプロセスは参加者や関係者の話し合いによって決まり、管理者は独自の裁量に基づいて行動するという形をとらないことが多い。ただし、たとえば前述の「ページの保護」に関してはその性質上管理者がその項目に対し特定の方向性を有した意見を無条件で「保護」するかたちとなってしまいウィキペディアの本来の絶対的原則「中立的な観点」を最重視する方針と往々にして矛盾が生じ、また特定のユーザーへの書き込み禁止も元来の「荒らし」対策という事だけでなくシステムの裏面としてその時点でその項目の編集に参加している参加者や関係者の意に沿わない相手(ウィキペディアは2ちゃんねると異なり匿名性は無いので簡単に特定が出来る)を意図はどうあれ(つまり、言い換えれば意図的に行う事も出来るという事である)結果的に締め出す事になる事も多々ある。このように、例えば「管理人は君臨すれども統治せず」というスタンスの2ちゃんねるとは対照的に事実上ウィキペディアというHPを管理者(およびそれに酷似・追随する思考を有する常連的投稿者)の独裁空間へとたらしめている事実は否めない。
  • 執筆方針については項目名の付け方、フォーマットや表記上の諸問題に関して多くの方針が存在している。これらの大半は利用者間の話し合いで決定、改変されるもので各言語によって異なる。またこれらの内にはガイドラインという位置付けになっており、必ずしも万人が常に従うべきルールであるとはされていないものがある。これは部分的にはこれらの方針を知らない参加者からの投稿も積極的に受け付けるためであり、ガイドラインに通じた常連投稿者などが新規参加者の投稿を編集することが比較的容易であるためでもある。
  • 記事の内容について関係者間で論争が起きた場合には基本的にノートページでの話し合いが行われる。最終的にはウィキペディアの最も重要なガイドラインの1つ「中立的な観点」に従い“両論併記”によって決着することが求められる。
  • ただし項目の性質、特に人間(投稿者・管理者だけでなく、もっと広義的な意味合い)の好悪・嗜好・所属・社会的立場に関わるような属性であった場合、ウィキペディアの性質上明らかに管理者や関係者による偶発的もしくは意図的に不当かつ一方的な擁護(またはその逆)がしばしば行われる時がありそれが往々にして記事内容の偏りを発生させてしまいその他ウィキペディアというHPにおいて様々な「問題」(論争、罵倒、誹謗中傷)が発生する大きな要因となっている。

2ちゃんねるとの関連性

  • ウィキペディアを編集するウィキペディアンには2ちゃんねるとの関連性も決して浅はかでないとされている。実際、ウィキペディアで保護されているページの大半は2ちゃんねらーが敵視している(叩いてて面白い)対象であることが多い。そういったページの大半は記事が2ちゃんねるネタが多く左寄りであり、最早2ちゃんねる内で叩くことだけでは満足できない住人がウィキペディアに書き込むようだ。
  • しかし、肝心の2ちゃんねるや2ちゃんねる関連の項目は大半が都合の良いことしか書かれておらず、問題点を書き込んでも削除されるといった右寄り思考のページが多い。また2ちゃんねる関連の記事を編集するウィキペディアンは都合が悪くなると記事を削除、保護依頼をする、独自研究や要出典のテンプレートを乱立させ真実を書き込ませないといった暴挙に出るのも特徴である。
  • 要は中立的な記事を書くためのウィキペディアを司る機能が裏目に出た結果、こういった悪質2ちゃんねらーによりウィキペディアは中立的も糞もない過剰なまでの2ちゃんねる賛美をするための百科事典となってしまったと言えよう。
  • 池田信夫は記事の編集合戦の酷い様を「2ちゃんねる化するウィキペディア」と揶揄した。

ウィキペディアにおける悪質な2ちゃんねらーの実態

主要人物

ウィキペディアは多くの場面で参加者一般を強調し、特定のリーダー、所有者、最終決定権の保持者などを強調しない傾向にありコミュニティ参加者の共同作業、共同自治などを謳うことも多い。

特殊な役割を担った人物として例外的にしばしば言及される者に、ラリー・サンガーとジミー・ウェールズがいる。両者はウィキペディアの創設者でありラリー・サンガーはプロジェクトの発足から1年と数ヶ月の間、賃金の支払いを受けた参加者だった。このせいもあって、彼は折に触れてほかのメンバーから仲裁役を頼まれることもあったとされる。また彼は、ウィキペディアに先立って発足した査読制度付のオンライン百科事典作成プロジェクト「Nupedia(ヌーペディア)」の編集主幹も勤めた。

ウェールズはプロジェクトの出資者であり、発足当初からサーバやインターネット・トラフィックの料金を支払ってきた。ウィキペディアは彼を「寛大な独裁者」として戴くコミュニティ自治の集団であると形容されることがある。項目の中立性の方針など、ごく一部の件については議論の余地なく重要かつ不変のプロジェクトの方針であるとウェールズは宣言している。また、登録ユーザーのアクセス禁止処分の決定についても彼が最終的な判断を下すとしている。これは英語版で特に顕著であり、ユーザーのみの決定によるアクセス禁止は最長で1年とされている。

ウェールズはインターネット関連会社・Bomisの前最高経営責任者(CEO)である。プロジェクトに協力している同社の関係者の中には、他にもティム・シェル(同社の共同創立者、現最高経営責任者、ウィキメディア財団理事)やプログラマジェイソン・リッチー(後に退社、現・Wikia)、トアン・ヴォーがいる。

2006年10月にウェールズはプロジェクトの運営母体・ウィキメディア財団]]事長の職を辞し終身名誉理事長となり、後任としてフロランス・ドゥヴアールが理事長に就任した。

歴史

発足の経緯

ウィキペディアの着想は、ヌーペディアの主幹編集者ラリー・サンガー(Larry Sanger)とコンピュータ・プログラマベン・コヴィッツ(Ben Kovitz)が2001年1月2日にカリフォルニア州サンディエゴで行った会話に端を発するとされる。

ウィキウィキウェブのインターフェースを積極的に使っていたコヴィッツは当時Ward's Wikiの常連であり、夕食の席でその基本的なコンセプトをサンガーに説明したとされる。サンガーはそれを聞き、ウィキが「よりオープンでよりカジュアルな百科事典を作る」というプロジェクトに相応しいものと考えたという。それに先立つ数ヶ月の間、サンガーと彼の上司である有限会社・BomisのCEOジミー・ウェールズ(Jimmy Wales)はヌーペディアをよりオープンな形で補完するプロジェクトについて討議を重ねていた。

サンガーはウィキをヌーペディアに利用しようと考えウェールズを説得し、1月10日にはヌーペディアにウィキが登場することになった。

しかし、ウィキのウェブページをヌーペディアに利用するという案に対してはヌーペディアの執筆者と査読者から強硬な反対意見があったため「ウィキペディア」と名付けた新たなプロジェクトを立ち上げ、独自のアドレスである wikipedia.comにて1月15日から開始することになった。

ネットワーク帯域と、サンディエゴに設置したサーバはウェールズが資金を提供した。また、2002年1月までサンガーはNupediaの主幹編集員兼ウィキペディアの非公式管理人としてBomisに雇われていた。資金の枯渇から2002年3月にサンガーへの給与打ち切りが決まり、サンガーはウィキペディアを含むプロジェクトでの活動を停止した。

拡大とその契機

プロジェクトは参加人員、記事数、編集・投稿総数などいずれの尺度においても増加する傾向にあり、増加のペースも高まる傾向にある。この主な要因としてメディアや多くの人が利用するウェブサイトでの紹介、サーチエンジンへの掲載などが挙げられる。特に顕著なものとして、次のものが挙げられる。

投稿の内、特に大規模なものにアメリカ合衆国の各市町村を扱ったものがある。これはディレック・ラムゼイ("Ram-Man")が2002年10月、「ボット」(あるいは「プログラム」)を稼働させて国勢調査のデータから自動的に記事を生成したもの。同様のボットは他の主題についてもしばしば使用された。その総数はおよそ3万本とされる。

多言語化に乗り出したのは2001年5月頃であると思われる。当時の発表によれば12前後の非英語版サイトが発足した。ただし、それらの新設ウィキペディアで必ずしもすぐに執筆が盛んになったわけではない。

2002年12月、姉妹プロジェクトである ウィクショナリー(Wiktionary)が創設された。これは、多言語の辞書シソーラスを制作することを目標にしているプロジェクトである。ウィキペディアと同じサーバで、同じソフトウェアを使って活動している。翌2003年に本や教科書の作成プロジェクトであるウィキブックス(Wikibooks)、箴言集であるウィキクォート(Wikiquote)なども発足した。

これらのプロジェクトは、しばしばウィキメディアプロジェクトと総称される。こうした姉妹プロジェクトもまた増加傾向にあり、2004年には新規の3つのプロジェクトが創始された。

ソフトウェア及びハードウェア

ハードウェアは、発足当初はBomisのサーバを間借りする形であった。ソフトウェアはクリフォード・アダムズによるUseModWikiを用いていた。

2002年1月、英語版とプロジェクト全体に関わる問題を議論するためのサイトであるメタ・ウィキペディアが実験的にPHPMySQLによるソフトウェアに移行した。これは参加者の1人・Magnus Manskeによって制作されたもの。同年7月にウィキペディア専用のサーバ(コードネーム"pliny")が導入された。これは英語版と、やや遅れてメタウィキメディアのために用いられた。ソフトウェアもリー・ダニエル・クロッカーによる全面的な書き換えを経て新しいバージョンが運用され始めた(同じくPHPとMySQLの組み合わせによるもの)。活動が盛んな他言語版も、徐々に専用サーバへ移動していくことになった。2003年1月には、TeXの数学記号が導入された。コードの作成者は参加者の1人のTaw。

2003年5月半ば頃よりもう1台専用のサーバが導入された。コードネームは"larousse"。これは英語版のウェブサーバとして用いられた(データベース部分は、従来通り専用サーバによって担当される)。Bomisのサーバに間借りしているウィキペディアも、活動が活発になるにつれて徐々にplinyへ移行した。ソフトウェアの処理が効率化され、サーバへの負担が軽くなった時点で、larousseは全言語版のウェブサーバとして稼動する計画もある。

その後、プロジェクトの拡大によりサーバは順次増強されていった。ほとんどが個人からの寄付を財源として購入されたが、一部は企業や団体からの貸与によっている。

現在のサーバ構成についてはm:ウィキメディアのサーバ(メタ・ウィキメディア)に詳述されている。

分裂、論争

2002年2月、それまでEdgar Enyedyを中心に非常に活発に動いていたスペイン語版ウィキペディアが突然活動の中止と新たなプロジェクトエンサイクロペディア・リブレの立ち上げを宣言した(Enciclopedia Libreはセビリア大学にあるenciclopedia.us.es)。宣言は、離脱の理由として商業広告の危惧とコントロールの欠如を挙げた。10月にはダニエル・メイヤー("maveric149")他の参加者がウィキペディア復帰へ向けて交渉、説得を行ったが、復帰提案が完成する前にエンサイクロペディア・リブレは投票で復帰を否決した。

エンサイクロペディア・リブレは将来の統合の可能性は残し交流を維持することを表明し、現在でも統合の可能性が議論されることがあるが独立したままにとどまっている。この事件は英語版以外のウィキペディアの役割について、大きな議論の火付け役となった。また、これは非英語版のウィキペディア・コミュニティの要求によるいくつかの変更にもつながった。

また、プロジェクトはたびたび記事を削除したり、不適切な内容を投稿したりする荒らしに見舞われた。通常、そういった荒らしによる荒らし行為は参加者達により速やかに修復されるため、一般には大きな問題とされることは少ない。だが英語版ではメインページのいたずら書きが何回も発生したため、メインページは管理者のみが更新できるよう保護措置がとられた。

2002年3月、「24」というユーザー(この名前は彼のIPアドレスにちなむ)が特別に左傾的かつ物議を醸す編集をし始めた。白熱した議論は何人かに「恐怖」とまで言わしめるようなものになり、多くの人々が侮辱と個人攻撃を受けた。メーリングリストでの長期間にわたる話し合いの結果、2002年4月にジンボ・ウェールズは24をサイトから排除した。ドイツの歴史に関して右傾的で物議を醸す編集を再三に渡って行い、ウィキペディアの歴史関連の執筆者達の多くに抗議を受けた「Helga」は再びメーリングリストにおいて話し合いが行われた結果、2002年9月に排除された。

2003年11月、ロシア語版ウィキペディアでライセンス形態についての論争がもととなり、一部の利用者がウィキペディアを出て別の百科事典プロジェクトを立ち上げるというもうひとつの分裂が起こった。この分裂はウィキペディアのメーリングリストなどに不満の表明がなされなかったこと、ロシア語版の主な利用者と他のプロジェクトの参加者との人的交流が薄いことやロシア語を解するユーザが少ないことなどから、2004年10月まで他の言語版の利用者には知られていなかった。分裂だけでなくこのように事態の把握が遅れたことを重く見て、ウィキペディアプロジェクトの多言語的展開と各言語話者の間の連携を強化すべきだとする指摘が一部では改めてなされている。

2005年12月には英語版ウィキペディアでとあるジャーナリストケネディ暗殺事件の首謀者とされる嘘の投稿がされ、この記事が1週間掲載され問題となった(ジョン・シーゲンソーラー・ウィキペディア経歴論争)。この嘘の投稿を行った者は冗談のつもりで行ったと話しているがこのことが新聞などに掲載され問題となり、結局この投稿により当該投稿者は仕事を辞めることとなった。これにより英語版ウィキペディアは登録ユーザー以外が新規記事投稿を行うことを制限し、記事の執筆などを遅延反映させこういった嘘の投稿に対抗するためのシステムを構築することになった。

2006年には著名人の項目をその人自らが修正するケースがあり、日本語版でも西和彦の項目が当人と思われる人物が積極的に記事を編集して議論となった為に保護されることとなった。またライバル相手の記事を編集したりする場合もあり、アメリカでは選挙の際に議員がライバル議員の項目に対し誹謗中傷を行っていたことが発覚、アメリカ議会からの編集に対し制限する措置がとられた。

2007年1月には英語版ウィキペディアで、マイクロソフトがとある人物に対し「報酬を支払うからマイクロソフトの項目を修正してほしい」と打診していたことが発覚。マイクロソフト側も「ウィキペディアで相違していると思われる記述があり、修正してもらいたかった」と認め、謝罪した。

非営利化と非営利法人化

2002年8月、ジミー・ウェールズがウィキペディアでは今後一切商業広告を行わないという方針を発表し、そのすぐ後にウィキペディアのURLwikipedia.comからwikipedia.orgに変更された。

2003年6月20日、プロジェクトに法人格を与えるべくウィキメディア財団(Wikimedia Foundation, Inc.)が設立された旨がアナウンスされた[1]。ウィキメディア財団はフロリダ州法に基き、フロリダ州タンパを本拠地とする非営利法人である。

ウィキペディアの今後

アメリカ合衆国ではウィキペディアのサーバの負担が深刻な問題となっている。ウィキプロジェクトによって生み出されているデータファイルは加速度的に増加しており、近い将来プロジェクトは破綻を来たすことを心配するものもいる。現実的な対処としては利用者から課金することが挙げられた。財団発足ののち、財団の会員として希望者から年会費を徴収しこれを運営資金に充てるという構想が発表されたが、現状での導入の見通しは不透明である。

運営資金を公共教育を対象とする各種助成に頼ることも検討されている。情報媒体としてのウィキペディアに関する関心は高く、ウェールズは2004年夏には国連からの招待を受けて関係者に対してウィキペディアについての講演を行なっている。こうした状況の中で財団が運営資金としての助成を申請し、それを主要な財源のひとつとすることも検討されている。また、2005年現在でウィキペディアを含む姉妹プロジェクトに関して2つの公益団体から合計5万ドル規模の助成が申し入れが行なわれており、これらは一部は直接の運営経費に充てられている。

また欧米の他の非営利団体と同様、寄付による収益も大きな財源である。これは随時受け付けている寄付のほかに、四半期ごとに予算に対して不足する額への支援を求めるという形で行なわれている。年単位ではないのはプロジェクトの成長規模が大きく、年単位での経費予測が事実上不可能であることにも起因する。2005年4月にはアメリカ合衆国で内国歳入庁により501(c)(3)資格が与えられ、米国での免税資格を有する者に対しては設立にさかのぼってすべての寄付に免税が認められた。

2005年6月現在、アメリカ合衆国の母団体であるウィキメディア財団のほかドイツ、フランス、イタリアの3国に地方支部があり、うちドイツ支部へのドイツ国内からの寄付は免税となっている。恒常的な寄付を前提に、寄付への免税措置を目的とした支援団体として地方支部の設立が各地で検討されている。こうした国にはオランダ、ルーマニア、ポーランドなどがある。

ウィキペディアの運営者達は「利用者が増えれば増えるほど記事の品質は向上する」と考えていたが、実際には品質が低下し続ける一方である。数少ないまともな記事も悪質な利用者によって支離滅裂な記述が書き加えられたり、またその逆の例として前述の管理者が一部の投稿者グループと共に特定の項目(例:企業、漫画、アニメ、ゲーム)に肩入れし、それに対するネガティヴな意見(この場合は充分に裏が取れる信憑性があるものと仮定)をその権限を用いシャットアウトしてしまったりまたその正反対の否定的に書かれている項目に対し(あくまで事実に基づいた)フォローを入れられないようにしてしまうといった数々の横暴、強引に何かの宣伝が書き加えられたりする事が頻発しており、今やウィキペディアは「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉の見本になっている。また素行の悪い利用者がウィキペディア内だけでなく、外部サイトにも迷惑をかける等といった問題も発生しておりネット社会のスラム街とでも言うべき惨状に陥っている。

元来ウィキペディアには建前通りの「百科事典」としての一面とまた多目的・多話題対応型フリーBBSとしての一面があり、これらは本質的にダブルスタンダード、二律背反の関係にある。つまり、前者としての属性を重視すれば各々の項目に対し本当に必要最低限の事しか書けずわざわざ自由に参加者を募り思い思いにそれぞれの項目についての情報を書き込めるという、ウィキペディア最大の特徴とセールスポイントが無意味化する事になり逆に後者としての属性を重視すれば項目ごとに管理者や投稿者や価値観や知識、思惑が錯綜し合いその結果「百科事典」としての体裁・実質が失われてしまう事態に陥ってしまう事になり、現状は特にそういった傾向が目立つようである。

今までは利用者がそれ程多くは無かった為にそういう自己矛盾による弊害は無視出来る程度のものであったが、現時点においても管理者やおもな投稿人(常連的ウィキペディアン)の横暴や悪意、または善悪思惑・意思の関係ない部分としてのかれらの人的能力etcといった諸々の問題点ゆえか遺恨が基になっている荒らしやそれと関係ない所でのシステムの不備や項目に対する処理・整理等々の対応の不全さを批判する声など、様々な問題が徐々に析出・表層化している。そして今後なおウィキペディアというHPの知名度が上がり益々人の耳目が集まり行く事はまず間違いなく、そしてそうなっていけば現状只でさえ前述の自己矛盾やこういった様々な問題を完全に処理しきれているとは決して言えない状況である事を鑑みれば、今後益々システムの破綻と混迷化が進行する事は自明の理である。

先行事例

百科事典をより使いやすくするために、印刷物の代わりに機械的な仕掛けを使おうという考え方のはじまりはH・G・ウェルズの短編小説『世界の頭脳』(1937年)やヴァネヴァー・ブッシュのマイクロフィルムを使った未来のシステムMemex(論文"As We May Think"(1945年))に見ることができる。

インターネットを使ってフリーな百科事典を作ろうという試みは1990年代の初めには登場している。そのひとつとして、古い印刷物の百科事典をデジタル化しようというプロジェクトが挙げられる。1995年の1月、プロジェクト・グーテンベルク1911年に出版されたブリタニカ百科事典の11版をASCIIテキストにするという活動を開始した。しかし、第1巻をデジタル化したあと、方針の不一致から活動は中断した。2002年に、28巻全てのASCIIテキストは他から1911encyclopediaで公開された。同様の試みとして、イーストン聖書辞典(1897年)Christian Classics Ethereal Libraryにおいてデジタル化されている。

他のよりウィキペディアに近い活動として、自発的な参加によって新しくフリーな情報源を作り上げようというものがある。1991年usenetalt.fan.douglas-adamsニュースグループの参加者達がダグラス・アダムスの著作の中に登場する架空の百科事典銀河ヒッチハイク・ガイドを実際に作ろうと活動を開始し、これはいわゆるProject Galactic Guideへと発展した。このプロジェクトは当初は現実の物事だけを記載するようにしていたが、後に空想上の事柄なども収録するようになった。Project Galactic Guideは1,700以上の記事を保有しているが、2000年以降記事の追加は停止状態にある。

1993年には、インターペディアと呼ばれる計画が議論された。これはインターネット上に、誰もが参加できる百科事典を作ろうとするものであった。これはウェブの爆発的な成長と、精度の高いサーチエンジンの登場のため実行に移されないままに終わった。

姉妹プロジェクト

2005年7月現在、ウィキペディアは次の姉妹プロジェクトを持っている。日本語コンテンツを持つプロジェクトには*を冠した(運営文書を除く)。

類似のプロジェクト

ウィキペディアと比較されるものには、以下のような共同作業プロジェクトがある。

  • Nupediaは、専門家の査読制度に基づく百科事典プロジェクト。ウィキペディアはここから生まれた。2003年3月現在、プロジェクトは中断しており、成果がウィキペディアに取り込まれている最中である。
  • Everything2はより広い分野をカバーしているハイパーテクスト型のエッセイ集で、百科事典の構築を目指すものではない。また、Everithing2のコンテンツはコピーレフトライセンスを使用していない。
  • H2G2はDouglas Adams'sのThe Hitchhiker's Guide to the Galaxyからアイデアを得た、皮肉的な内容の記事で構成された百科事典。
  • スカラーペディアは2006年にスタートした査読制度つきのオンライン百科事典プロジェクト。執筆はすべて実名による。現在、計算神経科学力学系コンピュータ知能の3つの分野を対象としており、各分野の第一線の研究者が執筆者として参加している。2007年4月現在、記事数は87本。

データベースのダウンロード

ウィキペディアで公開されている記事を何かの目的でウィキペディア以外の場所で利用したい場合にはどのような目的であれ、GFDLの条件に則っているならいつでも全ての記事を収録した最新版をデータベースからダウンロードすることができる。より詳細な説明はWikipedia:データベースダウンロードのページにある。

パロディサイト

  • アンサイクロペディア - 2005年1月に英語版が、「wiki形式によるSPOV(風刺的な観点)を提供」するという非公式な目的のために開始された。ウィキペディアのパロディサイトである。

出典

参考資料

関連項目