ジョン・シーゲンソーラー・ウィキペディア経歴論争

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ウィキペディアにおけるジョン・シーゲンソーラー・シニアの経歴論争 (John Seigenthaler Sr. Wikipedia biography controversy) は、アメリカ合衆国ジャーナリストジョン・ローレンス・シーゲンソーラーの誤った経歴が、インターネット上の百科事典ウィキペディア」に掲載されたことをめぐる一連の論争。

シーゲンソーラーは、1960年代ロバート・ケネディ司法長官の補佐官を務め、1982年から1991年にかけては「USAトゥディ」紙論説主幹として活躍したジャーナリスト。アメリカ新聞編集者協会会長も歴任した。

2005年9月、シーゲンソーラーは、ウィキペディア英語版に投稿されていた自分の記事に、誤った経歴が記載されているのを発見した。その記事では、シーゲンソーラーがジョン・F・ケネディおよびロバート・ケネディの暗殺事件にかかわっていた可能性が示唆されており、それに加えて、シーゲンソーラーが一時期ソビエト連邦に住んでいたとの記述および、シーゲンソーラーがある広告企業の創業者である旨が記載されていた(実際に広告企業を創業したのはシーゲンソーラーの兄であり、シーゲンソーラー自身はこの会社には無関係だった)。これらの情報は誤りであったため、2005年10月、シーゲンソーラーはウィキペディアの創始者であるジミー・ウェールズに、記事の是正を要請。これを受けて、記事のうち、誤った情報が記載されていた版が削除されることになった(この削除された版は、現在では管理者にのみ閲覧可能となっている)。誤った記述は、記事が投稿された2005年5月以降、4ヶ月間にわたって放置されていた。また、ウィキペディアのいくつかのミラーサイト(これらはウィキペディアの管理下には置かれていない)では、記事の削除後数週間にわたって、引き続き誤った記事が閲覧可能の状態にあった。

2005年11月29日、「USAトゥディ」紙にシーゲンソーラーの論説が発表された。そのなかでシーゲンソーラーは、ウィキペディア上での一連の騒動の経緯を説明し、投稿されていた誤った経歴をそのまま引用した。

「ジョン・シーゲンソーラー・シニアは1960年代はじめ、ロバート・ケネディ司法長官の補佐官だった。一時期、シーゲンソーラーは、ジョンとボビーのケネディ兄弟暗殺に直接関与していたと考えられていた。これに関しては何も立証されていない。」 ―ウィキペディア英語版 "John Seigenthaler Sr.", 2005年5月26日協定世界時14時29分の版(著者:65.81.97.208)より

犯人特定[編集]

シーゲンソーラーはさらに、誤った経歴を投稿した人物を特定しその正体を暴くため、インターネットサービスプロバイダ(ベルサウス社)に協力を要請した旨を伝えている。論説はウィキペディア自体に対する辛辣な批判も含んでおり、シーゲンソーラーは「ウィキペディアは欠陥含みで無責任な調査ツールである」と述べている。

この騒動は主だったメディアでもとりあげられ、2005年12月5日には、シーゲンソーラーとジミー・ウェールズの両名がCNNに出演し、問題について論じている。また翌12月6日には、シーゲンソーラーとウェールズがNPRのラジオ番組「トーク・オブ・ザ・ネイション」に出演し、インタビューに答えた。このなかでウェールズは、ウィキペディア英語版において今後このような匿名ユーザーによる無責任な投稿を抑制するため、記事の新規作成は登録ユーザーにのみ限るよう制限を加えたと述べている。

12月9日にこの書き込みをしたとされる者が名乗り出て(自ら名乗り出たのではない。有志の手で特定された。)、ジョン・シーゲンソーラーに謝罪の手紙を書いた。書き込みが勤める会社のIPアドレスから書かれたことが判明し、書き込みをした者は辞職することになった。

外部リンク[編集]

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