町村信孝
衆議院議員 | |
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町村 信孝 | |
生年月日 | 1944年10月17日 |
出生地 | 北海道江別市 |
出身校 | 東京大学経済学部 |
学位/資格 | 経済学士 |
前職 | 国家公務員(通商産業省) |
所属 | |
世襲 | 2世 父・町村金五(衆議院議員) |
選挙区 | 比例北海道ブロック(北海道第5区) |
当選回数 | 9回 |
所属党派 | 自由民主党・町村派 |
党役職 | 税制調査小委員会長 |
部屋番号 | 衆・第一議員会館417号室 |
Website | 町村信孝ウェブサイト |
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町村 信孝(まちむら のぶたか、1944年10月17日 - 2015年6月1日)は、日本の政治家。元官僚(通商産業省出身)。衆議院議員(8期)。清和政策研究会会長。
内閣官房長官(福田康夫内閣・福田康夫改造内閣)、外務大臣(第2次小泉内閣改造内閣・第3次小泉内閣・安倍改造内閣)、文部科学大臣(第2次森改造内閣・初代)を歴任。
経歴
生い立ち
静岡県沼津市に内務官僚町村金五の次男として生まれる。北海道江別市出身。東京学芸大学附属世田谷中学校、東京都立日比谷高等学校を経て東京大学経済学部卒業。
体格は小学4年生の時点で身長1m60㎝・体重60㎏あり、相撲大会で優勝したこともあって、相撲部屋から勧誘されたことがある。 中学時代は野球部、高校・大学時代はラグビー部に籍を置き、共にキャプテンだった。高校では、全国大会の花園(当時は西宮球技場)でベスト8まで勝ち進んで北見北斗高等学校に敗れたが、その次の年度の入部。
東大在学中は東大紛争の真っ只中で、日本民主青年同盟系の東大民主化行動委員会で活動と書かれることがあるが、本人の著書「保守の論理」に記されているように、在学中一貫して民青などとは対立した立場を貫いていた。1968年11月、東大経済学部ストライキ実行委員会の一人としておよそ1ヶ月のストライキを打っている。1969年1月、秩父宮ラグビー場にて東大7学部の学生・教職員9千人が参加した“大衆団交”では議長役を務め、大学自治の議定書である「東大確認書」には経済学部代表として署名している。大学でもラグビー部に所属していた。在学中に米国ウェスリアン大学に公費留学(サンケイスカラシップ = 産経新聞社奨学金)。
1969年4月 通商産業省に入省。1969年入省同期組らで高倉健の歌である「唐獅子牡丹」に引っ掛けて「獅子の会」なる集まりを結成し、エネルギー問題などに関して血判状(連判状)を作って大臣、事務次官らを突き上げたこともあった。その後、米国ジェトロ出向経験を経て、1982年4月に通産省を退官する。
政治家として
福田赳夫の誘いで13年間勤めた通商産業省を辞め、政界入りをめざす。父・金五には大反対され、夫人には3回落選するまで付き合ってほしいと懇願する中で1983年の第37回衆議院議員総選挙に立候補、初当選を果たす。
1997年の第2次橋本改造内閣で文部大臣として初入閣。その後、小渕内閣では大臣経験者ながら高村正彦外相の下で外務政務次官となる。続く森内閣では文部大臣・科学技術庁長官を兼任、中央省庁再編により初代文部科学大臣を務めた。
小泉政権では自民党総務局長、幹事長代理を務め、2003年の北海道知事選挙では通産省の後輩高橋はるみを擁立し、北海道史上初の女性知事誕生に貢献した。(1995年同選挙では自民党・自由連合推薦、さきがけ支持候補伊東秀子を支援したが新進党推薦候補堀達也が当選している。)
2004年の第2次小泉改造内閣では外務大臣に就任した。町村の外相起用を強く働きかけたのは、安倍晋三だとされ、9月22日に安倍が小泉と会談した際に起用が決まったとされる。外相としては対中ODA廃止や尖閣諸島の灯台管理などを行い、第3次小泉内閣まで務めた。政治家の年金未納問題が注目された際には年金の未納が発覚している。また、郵政選挙では町村は再選が厳しいとの見方があったが、最終的に町村は全国4位の17万票を獲得し圧勝した。
2006年自由民主党総裁選挙では同選挙へ立候補した安倍の選対本部長代理として、安倍の総裁選出に奔走し、発足した政権では要職への就任が有力視されたが実現しなかった。その後、元首相森喜朗に代わり、清和研会長に就任した。
2007年8月27日、安倍改造内閣で外務大臣に登用。当初は、官房長官への就任が確実視されていたが、安倍と麻生太郎の最終的な話し合いで、土壇場になり与謝野馨の名が浮上・再び外相の地位につくこととなった。外相再登板後は、麻生が提起した「北方領土面積二等分論」を論外だと批判。従来の方針通り「4島一括返還論」に戻した。
安倍の退陣表明を受けて行われた2007年自由民主党総裁選挙で、立候補の意欲を示したが、同派閥の福田康夫の立候補表明を受け福田を支持、自身の立候補は見送った。
2007年9月25日、福田康夫内閣の発足に伴い内閣官房長官に就任した。自民党の派閥領袖が官房長官を務めるのは初めてのことである。なお、町村が官房長官という要職で閥務ができないため、町村派は会長職を廃止して代表世話人に町村、中川秀直、谷川秀善の3人による集団指導体制となった。福田康夫改造内閣でも内閣官房長官に留任した。
2009年2月5日、森喜朗は、内閣総理大臣麻生太郎に批判的言動を行った中川秀直の派閥内での影響力を削ぐために、町村を会長に復帰させた。町村自身、中川との関係はあまり良好ではないようで、町村派の会合などで「町村派の中には確か広島選出の議員はいらっしゃらなかった……ああ、中川先生がいらっしゃいましたか」などと皮肉とも取れる言動が見られる。
同年の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区で民主党元職の小林千代美に3万票余りの差をつけられ次点、敗北。重複立候補した比例北海道ブロックでは自民党2枠に対し、名簿順1位内の惜敗率で武部勤に次ぎ2番目となり、復活当選を果たした。(その後、小林は選対幹部の公選法違反での公訴提起と北教組からの不正な政治献金の問題で窮地に立って札幌高検は連座制適用を検討。町村は小林が代議士を辞職・失職した場合の補選出馬に意欲を示している。町村が補選出馬で失職した場合は北海道11区で敗北した比例次点の中川昭一が既に死去、北海道6区で敗北した今津寛が繰上当選)
2009年10月15日、衆議院予算委員会の自民党の筆頭理事に就任した。
発言・活動
道路特定財源問題
- 道路特定財源を一般財源化した場合の税率について「その場合は、別の理屈を立ててガソリンから税金をいただく。税率をそのままいただくのは、税の理屈から言って無理かもしれない。温暖化対策上、今の税金より高くいただくかもしれない」として増税すべきとの見解を示した。
- 「もし道路予算を一般財源化するなら、その一部を(整備新幹線に)つぎ込めないか。いろんな可能性を模索している。財務省などと真剣な話し合いをしている」と述べ、道路特定財源で北海道新幹線を建設すべきとの見解を示した。
- 「エネルギー価格(暫定税率を含む)は地球温暖化対策としての環境税でもある」と述べた。
公務員制度改革に対する姿勢
内閣府特命担当大臣(行政改革担当)渡辺喜美が進めていた公務員制度改革について、国家公務員制度改革基本法案の内容にある「内閣人事庁」の創設に「閣僚の人事権が弱まるのではないか」として反対し、国会議員と公務員の接触を制限する「政官接触制限」についても反対するなど慎重な姿勢を貫いて渡辺と対立した。
2005年の中国における反日活動
2005年の反日デモの際は、4月に訪中した際、中国側の対応を批判すると共に、中国側に迎合するかのような言動を繰り広げた加藤紘一や野田毅らに対し、「中国にゴマをする人間がいるから真の意味での日中関係がおかしくなる」と批判している。
竹島問題
米国政府機関が竹島の帰属先を再度「韓国」に戻したことについて、「米政府の1機関がやることに、あまり過度に反応することはない」との見解を示した。福田首相が抗議を行う可能性については「ない。なぜ必要なのか」と述べた。
一方、2010年2月に起きた、民主党の小林千代美衆議院議員陣営に北教組が選挙資金を違法に提供したとされる事件の際は、北教組について「日教組本部も驚くような団体だ」と指摘し、「研修資料に『竹島は韓国の領土だという、韓国の主張が正しいと教えましょう』と(書いている)。これが日本の北海道の先生だ」と述べ、竹島を韓国領だと教育する北教組の教師を批判している。
司法制度改革
2008年7月18日、政府が掲げる司法制度改革の法曹人口3000人の実現に異議を唱えた、日弁連の法曹増加の見直しを求める提言に対し、身内である弁護士の報酬の低下という業界の利益を優先させていると指摘、「日弁連の見識を疑うものであります」と批判した。
たばこ増税
たばこ1箱を1000円にするたばこ増税について、「私個人は大変面白い提案だと思っている」と述べている。
学校制度
日本の学校制度について「十歳の大学生がいてもいいし、二十歳の中学生がいてもいい。年齢で学年が変わることは行き過ぎた平等だ」と、年齢主義を批判した。
大学入学予定者の自衛隊入隊を提案
大学への九月入学を一般化すべきだとしており、高校卒業後の半年は自衛隊へ入隊させて奉仕活動するのもいい、と述べている。
コメ減反見直し発言
米の減反政策の見直しを「食糧不足や価格高騰が起きている。日本だけの問題ではなく、世界の食糧不足という文脈で考えなければならない」として突然表明し、自民党内から「何の根回しもない」と強く批判された。農林水産大臣経験者である谷津義男は「減反をやめれば農家が大赤字になる。差額補償など約8000億円の補助金が必要だが、できるわけがない」と反論した。
企業・団体献金の全面禁止について
2009年3月19日に民主党代表・小沢一郎が提議した「企業・団体からの献金全面禁止」について、同日の派閥総会にて「まさに盗っ人猛々しい話だ」「(小沢氏の)目くらまし発言に乗せられないようにしてほしい」と批判した。
国会議員の世襲制限について
菅義偉が国政選挙における世襲候補の立候補制限を唱えていることについて「こんな取るに足らないことをあたかも大ごとのように取り上げる政治家も政治家だし、マスコミもマスコミだ」「有権者の選択眼を信じない人が『世襲禁止』と言う」と批判したが、小泉純一郎が自らの次男を後継者に指名したことについては「率直に言って小泉さんらしからぬ行動だった」とコメントし、自身の2人の娘についても「継がせるつもりはない」としている。また、同時に「候補者を公募するシステムを充実させるべき」という考えも示している。
物議を醸した発言
UFOは絶対いると思っている
2007年12月18日に「地球外から飛来してきたと思われる未確認飛行物体(UFO)の存在を確認していない」とする答弁書が閣議決定された。官房長官記者会見でこのことについて質問され、公式答弁は紋切り型にしかできないとしつつも、「私は個人的にはこういうものは絶対いると思っている」「そうじゃないと、ナスカのああいうの(ナスカの地上絵)、説明できないでしょ」と答えた。
労組の人たちが仕事をさぼっている
2009年7月2日、民主党との政策討論会で、郵政民営化がサービスの低下を招いたとの指摘があることについて、「一部の悪質な労働組合の人たちが国営に戻したい一心でわざと(仕事を)さぼっていると聞いたことがある」と述べた。これに対し、民主党参議院議員の増子輝彦は、「労働組合の方々に極めて失礼な表現があった。町村氏らしからぬ発言でやめてもらいたい」と批判した。
誹謗中傷はいい加減にしろよ
2009年9月21日、札幌市内で行われた自民党総裁選の演説会終了直後、握手を求めた河野太郎に対して、握手を拒絶。河野に向って「ご苦労さま。誹謗中傷はいい加減にしろよ。ものには限度があるぞ」と語った。この一部始終は同日の札幌テレビ放送『どさんこワイド180』で映像・音声全てが放映された。
閣僚は黙っとけ
2009年11月2日の衆議院予算委員会において、傍聴席に大挙して押しかけた民主党の新人議員たちの退席を求め、これに反発した亀井静香(金融担当大臣)らに対し「閣僚は黙っとけ! おい亀井、閣僚が何だ閣僚が!」「閣僚! 黙れ! (衆院予算)委員長の指示にあなたは従わないつもりか」などと発言し、論戦の前の「場外乱闘」と報じられた。
年譜
- 1944年10月17日 - 静岡県沼津市に出生(北海道江別市出身)
- 1969年6月 - 東京大学経済学部卒業 7月 - 通商産業省入省。入省同期に、佐野忠克(経産審議官)、河野博文(資源エネルギー庁長官)、藤島安之など。
- 1974年6月 - 国土庁へ出向
- 1979年5月 - 日本貿易振興会(ニューヨークトレードセンター)に出向
- 1982年4月 - 通商産業省資源エネルギー庁石油部石油企画官を最後に同省を退職
- 1983年 - 衆議院議員選挙に立候補、初当選(旧北海道1区→現北海道5区、中選挙区時代の対立候補に佐藤静雄)
- 1989年6月 - 宇野内閣で文部政務次官(-8月 8月 - 文部政務次官(-1990年2月)
- 1990年3月 - 自由民主党文化局長
- 1997年9月 - 第二次橋本内閣 改造内閣で文部大臣に就任(-1998年7月)
- 1998年7月 - 小渕内閣で外務政務次官(-1999年10月 1999年9月から外務総括政務次官)
- 2000年3月 - 内閣総理大臣補佐官(-4月 教育改革担当)4月 - 小渕内閣 第二次改造内閣、第一次森内閣で内閣総理大臣補佐官(-7月 教育改革担当) 12月 - 第二次森内閣 改造内閣で文部大臣兼科学技術庁長官に就任(-2001年1月)
- 2001年1月 - 中央省庁再編に伴い、初代文部科学大臣(-4月) 4月 - 自由民主党幹事長代理(-2002年10月)
- 2002年10月 - 自由民主党総務局長(-2004年9月)
- 2004年9月 - 第二次小泉内閣 改造内閣で外務大臣に就任(-2005年9月)
- 2005年9月 - 第三次小泉内閣で外務大臣に就任(-10月)
- 2006年10月 - 清和政策研究会会長
- 2007年8月 - 安倍改造内閣で外務大臣に就任
- 2007年9月 - 福田康夫内閣で内閣官房長官に就任
- 2007年10月 - 中川秀直元自民党幹事長の町村派復帰に配慮し、自ら町村派会長を退き、代表世話人の職を設置(清和政策研究会も参照。)
- 2008年8月 - 福田康夫改造内閣で内閣官房長官に留任
- 2008年9月 - 事故米問題等をめぐって太田誠一農林水産大臣が辞任したため、臨時代理を兼務
- 2009年2月 - 清和政策研究会会長に復帰
- 2009年8月 - 衆議院総選挙にて民主党の元職候補小林千代美氏に敗北、比例で復活当選している。
主な所属議員連盟
- 神道政治連盟国会議員懇談会(副会長)
- 日中友好議員連盟(副会長)
- 日韓議員連盟(常任幹事)
- 北京オリンピックを支援する議員の会(副幹事長)
政治資金
- 日本歯科医師連盟から多額の献金を受け取っていた[1]。
- 札幌市からの出資を受けている北海道ガスから献金を受けていた。地方公共団体から補助金を受けている企業から政治家への献金は、政治資金規正法で制限されている[2]。
- 鋼鉄製橋梁工事をめぐる談合事件に関与した談合組織に所属する企業から献金を受けていた[3]。
- 町村が代表者を務める政治団体「信友会」の政治資金収支報告書(2007年3月19日提出分)によると、2001年7月23日に江別市内の不動産を1,000万円で取得したが、同じく「信友会」が2008年3月19日に提出した政治資金収支報告書で、その年度中に608万円で当該不動産を売却したことが記載されている[4]。
人物
- 趣味はスポーツ、音楽、バレエ、演劇鑑賞など。座右の銘は「ベストを尽くす」「誠実」。
- 新興宗教・崇教真光の信徒とされている[5]。
- 町村信孝の「信」の字には第3画目が縦棒で、第4画目に接触する手書き風の字形を用いている(ファイル:信 異体字01.png)。
家族
系譜
- 町村家
- 町村家は江戸時代(1603年~1867年)、代々越前藩の附家老府中領主本多家に仕えた武士の家系だった[6]。祖父町村金弥は奉行職町村家9代目当主・町村織之丞の長男として生まれた。金弥は札幌農学校に学び、北海道開拓事業にその生涯を捧げ、「北海道酪農の父」といわれた人物。父親は町村金五(元衆議院議員、北海道知事、参議院議員、自治大臣)、従姉の夫に原文兵衛(元参議院議長、警視総監)がいる。
┏━町村 敬貴 ┏━━━光子 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━美穂 ┃ ┣━━━━┫ 原文兵衛 ┃ ┃ ┃ ┃ 中川 雅治 町村織之丞━━━町村金弥━┫ 志津 ┗━━寿美子 ┃ ┣━━┳━町村 敬志 ┃ 町村末吉 ┣━町村 謙 ┃ ┗━町村 均 ┗━町村 金五 亀山孝夫 ┃ ┃ ┃ ┏━━━康子 ┃ ┣━町村忠良 ┃ ┣━町村信孝 ┃ ┣━━━君代 ┣━━━━┫ ┃ ┃ ┃ 山本 悟 小早川光郎 ┃ ┣━━ひろ子 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━まり子 ┃ ┃ 秋山 進 ┃ ┗━━富士江 ┏━━━━二葉 ┃ 桑田熊蔵━┫ 遠山景敏 ┗━━━千枝子 ┣━━━━━━河合良一 ┏━河合 良成 ┃ 河合藤吉━┫ 松方 正義━━━┳━松方正作(岩崎弥之助の娘婿) ┃ ┃ ┗━河合 鉄二 ┗━松方三郎━┳━松方 七郎 ┃ ┣━松方 登 ┣━━━━━━━━茂子 ┣━松方富士雄 二代目川崎八右衛門 ┃ ┃ ┗━松方 峰雄 ┣━━━━━━千代子 ┃ ┣━━┳━松方 岳史━┳━松方錬太郎 ┏━━━幸子 ┃ ┏━━━━和子 ┣━松方 岩雄 ┗━━━━理紗 ┃ 山下亀三郎━━━━━山下太郎 ┣━━━━恒子 ┗━松方 雪雄 郷 純造━╋━郷誠之助 ┃ ┣━━━━節子 ┃ ┣━━╋━━━━道子 ┣━郷力三郎 ┃ ┣━山下眞一郎━┳━山下隆一郎━┳━山下裕太郎 ┃ 北村 七郎━━━━━━━栄 ┃ ┗━山下淳二郎 ┗━山下大二郎 ┣━郷 升 ┗━山下洋二郎━━━山下 悟郎 ┃ ┣━郷 朔雄(郷誠之助の養嗣子) ┏━━━伎予 ┃ ┣━吉田兼承 ┗━岩崎豊弥(岩崎弥太郎の養子) ┃ 岡本修造 ┃ ┃ ┃ ┣━━┳━━━満喜子 ┣━━━直子 ┃ ┃ ┣━━━━╋━━━━紀子 柳沢 保申━━━━━武子 ┃ 吉田 良兼 ┣━吉田兼明 ┣━岩崎勝太郎 ┗━岩崎兼幸(岩崎勝太郎の養嗣子) 入江為守 ┗━━━━君子 ┃ ┣━━━━┳━入江為年 近衞 忠煇 ┣━━┳━入江 相政 ┗━━━令子 ┣━━━━近衞 忠大 ┃ ┃ ┃ ┏━━━━甯子 柳原 前光━━━━━信子 ┗━━━━邦子 原 昌三 ┣━寬仁親王 ┃ ┣━桂宮宜仁親王 ┣━━━━━━━百合子 ┃ 16代千宗室 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━千 明史 (chori) 高木 守庸━━━高木正善━━━高木 正得 ┣━━╋━━━━容子 ┃ ┗━高円宮憲仁親王 三笠宮崇仁親王
著書
- 町村信孝 『保守の論理 「凛として美しい日本」をつくる』 PHP研究所 2005年
参考文献
- 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 410-412、477頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 10-21頁
関連項目
脚注
- ↑ 13閣僚に日歯連マネー 小泉改造内閣 小泉首相、町村外相、北側国交相ら… しんぶん赤旗 2004年9月28日
- ↑ 企業献金やめます/札幌市も出資 北海道ガス/外相らに毎年「適切さ欠く」 しんぶん赤旗 2005年7月5日
- ↑ 正副7大臣に談合企業が献金 不当利得の一部還流 穀田議員追及 4年間で八百万円 しんぶん赤旗 2005年7月23日
- ↑ 「信友会」政治資金収支報告書 p4(2008年3月17日提出分)
- ↑ 『真光』1993年12月号 P.37
- ↑ 町村家の過去帳にある最古の戒名は「無門院大道善翁居士」で没年は元和6年(1620年)「町村家の先祖」と記されている。天保7年(1836年)の本多家の給帳によると、180人の内、席次27番目に「町村次郎兵衛」の名があり、10人扶持(石に換算すると18石に相当)の禄を受けていた。その嫡男惣助(後の織之丞)は、席次69番目、10俵で御近習を務めていた。また、天保年間(1830年代)や安政年間(1850年代)の史料によると、もっぱら御目付をつとめていたとされ、本多家においては、中級の武士として遇されていた(『町村金五伝』 424-438頁)
外部リンク
官職 | ||
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先代: | 内閣官房長官 第75代:2007年 - 2008年
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次代: |
先代: | 外務大臣 第135・136代:2004年 - 2005年
第139代:2007年 |
次代: |
先代: | 文部科学大臣 初代:2001年
|
次代: |
先代: | 文部大臣 第121代:1997年 - 1998年
第125代:2000年 - 2001年 |
次代: |
先代: | 科学技術庁長官 第64代:2000年 - 2001年
|
次代: 文部科学省へ再編
|
党職 | ||
先代: 森喜朗
集団指導体制より移行 |
清和政策研究会会長 第7代 : 2006年 - 2007年
第8代 : 2009年 - |
次代: 集団指導体制へ移行
現職 |
歴代の外務大臣 |
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外務大臣(太政官達第69号) |
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎 |
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号)) |
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -
田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衞文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豐田貞次郎 - 東郷茂德 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂德 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号)) |
吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号)) |
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平 |
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号)) |
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦 |