日本社会党

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綱領を発表する鈴木茂三郎 1945年11月2日 東京・日比谷公会堂

日本社会党(にっぽんしゃかいとう、略称:社会Social Democratic Party Japan"SDPJ")は、かつて存在した日本政党1945年、旧無産政党系の政治勢力を結集して結成されて以降約50年間活動を続けたが、1996年に後継団体たる社会民主党に改組した。

沿革と歴史

結党から片山内閣へ

戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が一同団結して結成された。前身の政党は主に、左派の労働農民党、中間派の日本労農党、右派の社会大衆党で、右派・中間派は民主社会主義的な社会民主主義観を、左派は修正マルクス主義的な社会民主主義観をもっていた。日本労農党には戦中、社会主義の実現を国家主義に求めて軍部に積極的に協力した議員が多かった。また社会大衆党も、戦時中反軍を貫いた議員が多かった一方で、その内実は極めてタカ派的なものだった。

結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称をSocial Democratic Party of Japanとすることで決着した。

後に左派が主導権を握るにつれ次第にJapan Socialist Party(JSP 訳:日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの英称を再確認するようになった。

労働農民党系、日本労農党系、社会大衆党系の3派の対立を戦前から引きずって、たびたび派閥対立を起こした。なお、日本労農党系は戦争に協力したとして、指導者の多くが公職追放され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。徳川義親侯爵など名望家を担ぐ思惑から、当初は委員長は空席とされ、初代の書記長片山哲が就任した。(後に委員長に就任)

ポツダム宣言受諾により、大日本帝國憲法の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日「社会黨 憲法改正要綱」を発表した。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎森戸辰男等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、国民の生存権を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた新憲法にかなり近い内容であった。社会党案の独自性としては、社会主義経済を明記してあるほか、国民投票による衆議院解散内閣総辞職を可能にし、直接民主制の要素を強めていること、議会を通年とすること、死刑廃止を明記したことなどが挙げられる。

新憲法下最初の総選挙である1947年第23回総選挙で比較第一党となり、その結果民主党国民協同党との三党連立内閣である片山内閣が成立したが、平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。

西尾末広内閣官房長官は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内野党となっていた。それに続く芦田内閣でも社会党は与党となり、左派の一部も入閣したが、最左派の黒田寿男ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。昭電事件で芦田や西尾副総理が逮捕されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは労働者農民党を結成。1949年1月の第24回総選挙では、48名に激減して委員長の片山も落選した。

総選挙敗北後の第4回大会で、国民政党か階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「階級的大衆政党」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、社会党再建派を組織した。

         日本社会党中央執行委員会
中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、
          片山  哲           加藤 勘十
 片山  哲    西尾 末広   森戸 辰男   浅沼稲次郎
   〃      浅沼稲次郎   鈴木茂三郎   八百板 正
   〃      鈴木茂三郎     〃       〃   
 鈴木茂三郎    浅沼稲次郎   水谷長三郎   三宅 正一 

左右の分裂と総評・社会主義協会の結成

その後、左右両派の対立が深刻化し、1950年1月16日には一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って再び左右両派が対立して1951年10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長・島上善五郎事務局長)。総評は労働組合から日本共産党の影響を排除しようとするGHQの肝いりで結成された。

しかし、国内で再軍備論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では平和四原則が決定された。第二代事務局長の高野実も反米・反政府の姿勢を強めた。1951年には山川均大内兵衛向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的・理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。

1951年、分裂直前に委員長に就任した鈴木茂三郎は「青年よ銃をとるな」と委員長就任演説で訴え、非武装中立論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な河上丈太郎の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年には、社会革新党の後身である協同党が右派に合流している。

        右派・日本社会党中央執行委員会
中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、
          浅沼稲次郎   水谷長三郎   安井 吉典
 河上丈太郎      〃       〃     三宅 正一

左派社会党は1954年に、向坂逸郎らが作成に関与し社会主義革命を明記した綱領(左社綱領)を決定した。作成の過程で清水慎三から民族独立闘争を重視した「清水私案」が提出されたが、綱領委員会で討議の結果否決された。左社綱領は、労農派マルクス主義の主張が体系的に述べられたものであったが、左右社会党が再統一を果たすと、折衷的な内容の綱領(統一社会党綱領)がつくられた。

社会党、特に左派は再軍備反対と共に、護憲を公約に掲げるようになった。1955年第27回総選挙では、左右社会党と労農、共産の4党で、改憲に必要な2/3議席獲得を阻止する1/3の議席を確保したため注目された。

日本国憲法は社会党案に近い内容で、そのため制定当初から社会党は好意的であった。しかし、左派には社会主義憲法の制定・天皇制廃止を求める意見があり、一方の右派には再軍備賛成など、いずれも改憲が必要となる意見が存在した。そのため、左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派から民社党を結党した流れは、次第に明文改憲に傾いていった。

        左派・日本社会党中央執行委員会
中央執行委員長、 執行部書記長、 政策審議会長、 国会対策委員長、
 鈴木茂三郎    野溝  勝   和田 博雄   佐々木更三
   〃      和田 博雄   横路 節雄   赤松  勇 

再統一と60年安保闘争・三池争議

左右の社会党が統一、河上丈太郎顧問の音頭で統一万歳。1955年10月14日、東京・神田の共立講堂で
統一後、握手する河上丈太郎顧問(元右派社会党委員長)と鈴木茂三郎委員長(元左派社会党委員長=右)1955年10月13日、東京・神田の共立講堂で
左派社会党の解党大会で社会党統一大会の代議員数をめぐり乱闘騒ぎ。1955年10月12日、東京・豊島公会堂で

左右両派は1955年10月13日に党大会を開いて社会党再統一を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)。1950年代の躍進によって、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大していた。同じ年には保守合同で自由民主党が結成された。日本共産党も、六全協で党の統一を回復した(55年体制成立)。

当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた。1956年第4回参議院選挙では、自民61議席に対し、社会49議席と健闘した。そのため、社会党の総選挙にかける期待は大きかった。1957年1月には労働者農民党が合流し、ようやく社会党勢力の分裂は完全に解消された。この時点で、衆議院160議席となっていた。

しかし、1958年第28回総選挙では社会166、自民287と保守の議席に迫ることができなかった。得票数は伸びたが、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民の前に伸び悩んだのである。ただし、後から見れば社会党にとっては最高記録であり、また唯一三分の一を超す議席を獲得した選挙だった。

1959年第5回参議院選挙では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親路線が敗因と批判した。さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障体制を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の太田薫岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。

これ以前の1956年、総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側に加担する動きを見せるなどした(第二組合、いわゆる御用組合)。全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。なお、民社党の離反の背後には、米国の支援もあった(左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に)。

当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙った。福岡県大牟田市三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。

構造改革論争と「道」の策定

第20回定期大会第1日、あいさつする江田三郎委員長代理。1961年3月6日東京・九段会館

民社党が分裂したものの野党第一党の地位は揺らぐことなく、保守勢力に対する革新勢力の中心として存続した。浅沼稲次郎委員長暗殺直後の1960年第29回総選挙では、145議席を獲得。民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やした。

1958年総選挙直後から、党内では党組織の改革運動が始まり、中心人物の江田三郎は、若手活動家の支持によって指導者の地位を確立した。江田は安保闘争と三池争議挫折の反省から、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現しようという構造改革論を提唱するが、江田の台頭に警戒心を抱いた佐々木更三との派閥対立を激化させる結果に終わった。また、佐々木と手を結んだ社会主義協会の発言力も上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に、指導者たちは派閥抗争に明け暮れ、社会党は専ら総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。

社会党は社会民主主義政党による社会主義インターナショナルに加盟していたが(民社党も分裂後に別個に加盟)、社民主義は資本主義体制を認めた上の「改良主義」に過ぎないと、左派を中心に非常に敵視された。左派は、現体制の改良ではなく資本主義体制そのものを打倒する革命を志向し、社民主義への転換は資本主義への敗北だと受け止めたのである。民社党の離反による左派勢力増大もあり、党内右派も積極的に社民主義を主張できなくなった。その結果、社会主義インター加盟政党でありながら、ソ連中国東欧諸国など東側陣営に親近感を示す特異な綱領をもつ政党となった。この間、社会党幹部はソ連や中国に友好訪問を繰り返す一方、アメリカについては、1957年に訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き、東側諸国に傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「ヴェトナム侵略」を支持したため、社会党はしばらくの間、会費を滞納していたという。しかし退会はしなかった。

停滞から低落へ

この間、1963年第30回総選挙では前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して社会党の党勢は停滞・微減した。高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。社会党自身も、この時期は選挙のたびに候補者を増やしていた。社会党も1964年成田三原則(議員党的体質、労組依存、日常活動不足)の指摘など、停滞克服の一定の努力はした。しかし、社会変化に適応した政策策定の不十分と内部の派閥抗争により、結果的に有効な対策を打ち出せなかった。これについて、石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘している。また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析している。これらの指摘は、都市部で社会党支持者が離れたとの分析という点で共通している。

1969年第32回総選挙では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した[1]。これについて、石川真澄は、この当時の社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争(内ゲバ)、中国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)など)のために、社会党に嫌気がさした旧来の支持層の多くが棄権し、各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。しかし、日本共産党はこの時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。また新左翼に対する若年層の支持はそれなりにあったし、中国の文化大革命の実態はこの時点ではほとんど知られておらず、ベトナム戦争はアメリカの不正義性とアジア各国の社会主義の優越性を示すものとして、社会主義への期待は一部に残っており、むしろ、多党化現象の余波を受けたというほうが正確とする意見もある。

社会党の財政は弱体で、会派所属の議員に支給される立法事務費を党財政の足しにしていた[2]。そのため、50議席減による減収によって、本部書記(職員)の退職勧誘が行われる事態になった。再就職の当てがある人材を対象としたため、優秀な職員を手放すことになったのも痛手であった。

1972年第33回総選挙では、成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田-石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。

55年体制の成立当初は、社会党は政権獲得を目指したが、地域などへの利益誘導を武器とする自民党の一党優位体制が長く続くなかで、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱し、公明党や共産党に支持基盤を奪われることとなった。中国の文化大革命の実態が毛沢東の死後に明らかにされ、カンボジアのポルポト政権による国民の大量虐殺が発覚し、新左翼内部において「内ゲバ」と呼称される数千人の死傷者を伴う暴力的抗争が続発するなかで、有権者の社会主義に対する興味関心を失わせ、これに伴い社会党は現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。社会党は「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がり始めた。

特に都市部での凋落はひどかった。東京都議会ではその傾向がひどく、1969年東京都議会議員選挙で、公明党に抜かれ第3党となり、1973年東京都議会議員選挙では共産党にも追い抜かれ、第4党に転落した。その一方、地方では自民党と社会党で議席を分け合う構図はほとんど変わらなかった。(ただし、圧倒的に自民党の議席が多く、北海道など一定の地盤のある県を除き、2:1以上に議席の格差があった)社会党は都市型政党から、次第に農村型政党に変貌していった。

革新自治体と社会主義協会派の台頭

60年代後半から70年代の社会党は日本共産党も含む全野党共闘路線をとり、自治体選挙では共産党と共闘し、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させた。社会福祉の充実などに一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判もある。このなかで、社青同内の解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」を絶対視し、ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、佐々木は中国派傾向を強めるとともに仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化した。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した。また、末端のほとんどの党員はそのような事実は知る由もなかった。一方、自民党もアメリカから援助を受けており、自民・社会両党の対立は、冷戦の代理戦争の様相を一時呈していた。

協会規制と「新宣言」

1976年第34回総選挙で初めて自民党が過半数割れ(ただし追加公認で過半数確保)すると、政権交代は現実のものとして論議に上った。しかし党の内紛は続き、江田三郎1977年党大会で協会派が代議員の多数を制し、副委員長を解任されたことで社会党に絶望したと述べて離党し、社会市民連合(後の社会民主連合)を結成した。江田離党と1977年参院選敗北が契機となり、成田委員長らは辞職し、協会規制がおこなわれ、社会主義協会の活動に一定の歯止めがかけられた。これ以降、総評の変化もあり1980年代以降の社会党は、日本共産党を除き、民社党や公明党などの中道政党と連立政権を作ろうという構想(社公民路線)をとった。しかし、支持者にも自民党政権を自明とする認識が広まっており、公明・民社は表向き社公民路線を取りつつも、自民との連立政権を狙うようになった(自公民路線)。社会党も自民党との国対政治が常態となっていた。議席数では与野党が伯仲したが、有権者の意識の上では、自民党政権はむしろ安定性を増していた。1980年のダブル選挙(第36回総選挙第12回参議院選挙)で自民党は大勝したが、1983年第37回総選挙で再び与野党の議席は伯仲した。しかし社会党の議席は微増(107から112)にとどまった。

1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領「日本社会党の新宣言」が決定された。革命を放棄し、西欧社会民主主義政党の立場を確立したのである。だが旧路線を継承するとも取れる付帯決議を妥協の産物として付加したため、明確な路線転換の意識が全党に共有されたとはいえない。

マドンナブームの盛り上がりと凋落

「新宣言」決定後も退潮はとまらず、1986年夏のダブル選挙(第38回総選挙第14回参議院選挙)は大敗(衆院で112から85)し、土井たか子が委員長に就任、議会政党としては日本初の女性党首が誕生した。土井社会党は、土井の個人人気と消費税導入やリクルート事件、農業政策に対する不満を吸収した「激サイティング!社会党」のキャッチコピーを掲げて、1989年第15回参議院選挙では46議席を獲得。自民党は36議席しか獲得できず、連合の会と共に、自民党を非改選を含めても過半数割れに追い込み、改選議席で自民党を上回った。この選挙は女性候補を積極的に擁立したため、「マドンナブーム」と名付けられた。土井は開票速報番組の中で、「山は動いた」という名言を残している。この時の女性候補者の多くが消費税撤廃を公約としたため、参議院において消費税廃止法案を提出・可決したが、衆議院において廃案になったため実現しなかった。

1990年第39回総選挙でも60年代後半並みの136議席(公認漏れなどを含めると140)を回復し前進を示した。しかし、自民党は追加公認を含めて安定多数の286議席を獲得し、底力を見せた。社会党がこの選挙で掲げていた政権交代の実現は頓挫した。この事実は、社会党の議席増の相当部分は、自民党からでなく、他の野党からのものであることを示していた。別の言い方をすれば、この時期は日本社会党が西欧諸国の社民主義政党のように保守主義政党と政権交代を繰り返すような勢力となる「保守政党と社民政党による二大政党制」へと発展できる最大の好機であった。

問題は社会党が定数512に149人しか擁立できなかったことに示される、激しい派閥抗争と裏腹な、選挙での長年の消極策が今回もあらわれたことである。それは社会党の体力が奪われていることを示していた。土井執行部は180人擁立を目標にしていたが、無所属候補や他党系無所属候補の推薦を含めても160人にとどまった。本来なら陣頭指揮をとるべき書記長の山口鶴男さえ、自分の選挙区では2人目の候補擁立を陰に陽に妨害する始末だった。さらに、資金難も候補擁立の障害となった。土井によれば、落選した場合の生活保障ができなかったことを理由に、勧誘を断られるケースが多かったという[3]。しかし、社会党内部では、政権奪取に失敗にもかかわらず議席数の回復への安堵感が強かったため、社会党は政権獲得の意志を持たない万年野党に満足する政党だとの批判を受けた。しかも、社会党の一人勝ちに不満な民社党・公明党の離反を招き、社会党右派はこれを理由に「社会党の一人勝ち」を非難さえした。

いっぽう社会党の最大の支持基盤であった総評槙枝元文議長、富塚三夫事務局長のもとで同盟、中立労連、新産別の労働4団体との「労働戦線統一」に向けて大きく舵をきり、1982年12月14日全民労協の結成から、官公労も合流して1989年11月21日、日本労働組合総連合会(連合)の結成大会が開催された。これにともない総評は1989年11月に解散した。連合の初代会長には情報通信労連委員長・山岸章が選出された。これは総評の労使協調路線への転換によって、それまで対立してきた同盟との和解が可能になったことによって実現したものであり、連合が結成された時に、当時の首相の竹下登は「連合を堂々と抱擁する」と発言している。なお、山岸章は「労働戦線統一の功績」により2000年4月に勲一等瑞宝章を受章している。

1990年に発生した湾岸危機をめぐり、日本がなすべき国際貢献に関する議論が政治上の重要問題として浮上したが、ここで社会党は本来の平和主義の立場から政府案に対する反対を唱え、民社党・公明党の納得し得る具体的な提案ができず、ますます民社党・公明党との関係冷却化を招いた。これと並行して民社党・公明党との協調を重視する連合など労組幹部などとの摩擦も強まり、土井執行部の求心力は急速に低下した。自衛隊の海外派兵に反対するだけで、それに代わる具体的な国際貢献策をアピールできなかった土井に対する有権者の失望も大きく、1991年統一地方選挙は敗北に終わり、土井たか子は責任を取って委員長を退いた。

なお、この年の東京都知事選では連合の山岸会長が公明党・民社党と共に磯村尚徳を担ぐよう社会党執行部に働きかけた。これは、山岸会長の持論である社公民路線の定着を狙ったものである。自民党の小沢一郎幹事長も磯村を自民党本部の候補として推薦した。社公民三党に小沢など自民党の一部が乗る形で実現した細川護熙内閣の構図はこのとき、既に出来ていたといえる。一方、社会党の独自性を強調する土井を中心とするグループは独自候補にこだわる一方で、なかなか候補者を決められず迷走した。土井を都知事候補に擁立し、土井人気を復活させようという動きも社会党の一部にあったが、土井が決断できず、水泡に帰した。社会党は選挙直前にようやく候補者を決定したが、供託金没収点すらクリアできない惨敗だった。

後任の委員長には、田邊誠上田哲が立候補し、全党員投票による選挙となった。有力支持労組をバックにした田邊有利との観測が強かったが、護憲平和路線の維持を訴える上田が左派主体の一般党員に支持を広げ、田邊は労組からの集団入党者の票でようやく勝利した。この選挙結果は、田邊執行部に大きな足枷となり、後の党運営を縛るものとなった。

田邊執行部とPKO法案

後任の田邊誠委員長は、自民党の金丸信に近いと評された。しかし1992年PKO法案の審議では、牛歩戦術を連発するなど、強硬な反対姿勢を取った。社会党はPKO自衛隊とは別組織にすることを条件に、PKO法案を受け入れようとした。自民・公明・民社(自公民)の三党は、一度は文民による別組織を作ることで合意しており、PKO法案はすんなり成立するかに見えた。しかし、自民党の本心はあくまでも自衛隊によるPKOであった。そのため、民社党・公明党の同意を取り付けるとたちまち別組織案を反故にした(特に民社党は、公明党を味方につけるため別組織案に合意したのであり、本心は自民党と同じであった)。このため、社会党はPKO法案そのものに反対な強硬派が主導権を握ったのである。

一方、民社党・公明党は自民党と共に内閣信任決議を可決させるなど、実質的に与党となっていた。社会党は全衆議院議員の辞職まで打ちだしたが、最終的には抵抗を諦め、PKO法案反対派・賛成派の双方に悪印象を残した。その直後、7月26日投開票の第16回参議院選挙は自民党の勝利に終わり、社会党・連合は大敗した。社会党執行部は、改選議席を確保できたことのみに着目してまずまずの結果と強弁し敗北を認めなかったが、結局、田邊執行部は退陣し、書記長の山花貞夫が後任の委員長となった。また、党議員団が自衛隊の現地宿営地を訪問・視察した際、礼儀を失した行動を取ったため、少なからず批判を受けた。

細川連立内閣の誕生から村山内閣へ

1993年第40回総選挙で70議席と大敗。また、連合は旧同盟系の有力組合が推薦で護憲派・左派を排除する「選別推薦」を行い、新党候補などに票を回した(なお、後に民主党の都議会議員となった真木茂は、選別の第一次案を自分が作ったと書いている[4])。この結果、特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、土井ブームで得た議席をすっかり失い、55年体制以来最悪の結果となった。

総選挙後に自由民主党分裂をきっかけに誕生した細川護煕内閣に、連立与党として参加した。社会党は与党第一党ではあったが、総選挙で一人負けの状態で(他党は共産党が1議席を減らした他は、全て現状維持か議席増)あった。このため、与党第一党にもかかわらず首相を輩出することができなかったが、無視できるほど力は小さくないという、与党内でも微妙な扱いを受けることになった。

この間、小選挙区制導入に反対した一部議員が離党、新党護憲リベラルを結成。細川首相退陣後、新生党・公明党との対立から連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに大きく反発した村山富市委員長(総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任したのを承け93年9月に就任)は羽田連立内閣から離脱し、羽田政権は少数与党として、2ヶ月でその幕を下ろす。

1994年6月、羽田連立与党は自由民主党の海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする連立政権樹立を決定、連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗し得ず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党、新党さきがけと連立した(自社さ政権)、村山政権が発足した。村山首相は、就任直後の国会演説で安保条約肯定、原発肯定、非武装中立の放棄など旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。1994年12月には新進党結党により、衆議院で第二党から第三党に転落した。マドンナブーム時における公約である、消費税撤廃が行われないだけではなく、逆に2%増税し、5%にすることを閣議決定したため、国民の落胆は大きかった。その影響か、1995年第17回参議院選挙では、空前の大敗北を喫した。

社会民主党への改組と分裂

1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第一回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した。小選挙区比例代表並立制のもとでは、社民党単独での衆議院議席獲得は至難であることが予想されたため、新党さきがけとの合併や、鳩山由紀夫船田元らが提唱した新党構想への合流などの議論が絶えなかった。現在の社民党は日本社会党との連続性を標榜しているが、成立当時は逆に社会党との断絶を強調していた。

新党構想は結局、鳩山由紀夫・邦夫兄弟や菅直人らが中心となり同年衆議院解散直前結成された民主党として現実のものとなった。社民党は一旦、民主党への丸ごと参加を決定したが、鳩山由紀夫の「排除の論理」に反発して、すぐに撤回。現職の幹事長であった佐藤観樹を含め約半数の党所属国会議員が「個々人の決断」のもと社民党を去り、民主党結成に参加した。幹部候補生と目された前北海道知事横路孝弘も民主党を選んだ。一方、村山ら約半数の議員は社民党に残留し、土井たか子を党首に復帰させ、第41回総選挙に臨んだ。支持労組の大半は民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党に残った。村山内閣時の路線転換に批判的な議員、党員にはよりラディカルな新社会党を結成する者もあった。

小政党への転落

総選挙の結果、社会民主党の獲得議席はわずか15議席にとどまった。55年体制下、一貫して保っていた野党第一党としての日本社会党の歴史はこの時名実共に終わった。

評価

日本社会党が担った役割に対しては、いくつかの見解がある。第一に、政府自民党の行き過ぎた右傾化を抑制し、「戦後民主主義」擁護、平和憲法維持、労働者の生活水準向上・社会福祉の進展などに大きな役割を果たし、戦後の日本が安定した社会発展をとげる基礎作りに積極的に寄与したという、肯定的なものである。また、自民党と社会党の「1.5大政党制」により、自民党・社会党両者の支持団体への利益配分という共生システムを作り、労組をはじめとする社会党支持勢力への利益を代弁したことを積極的に評価する向きもある。

また、非武装中立論を掲げる社会党の存在を理由に、自民党はアメリカの自衛力増強要求を退け、安保条約によるアメリカ軍の傘の下での軽武装路線を続けることが出来たという、抵抗政党としての役割も担ったことを積極的に評価する意見もあり、宮沢喜一など自民党関係者の中にもこのような考え方を支持する者は多い。

日本社会党の政策・路線は結党から解散に至るまで必ずしも一貫してはおらず、左右に大きく揺れ動いた。これは、西欧型の穏健な社会民主主義を掲げる右派と、社会民主主義よりもマルクス・レーニン主義に基づくソ連・中国型の社会主義国家建設に重きを置く左派が存在し、中間派も巻き込んで激しい路線対立が続いたからである。1966年から1986年までは綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)にてプロレタリア独裁を肯定してソ連型の共産主義に近い側面をもち、社会主義政党としての側面が強くなった(日本型社会民主主義)。しかし、こうした多様な勢力を議会政党としてまとめあげることで、1960年代から1970年代前半にかけて、左翼運動が国民的な広がりを見せた大衆運動の一面を持っていた時代に、都市労働者を中心とした比較的穏健な左翼シンパの国政に対する声を合法的かつ議会制民主主義の下で吸い上げるという役割を担ったことも忘れてはならない。

しかし、1955年体制の末期に、日本社会党が独自の党組織の確立を怠り、安易に労組依存を続け、単なる労組の利益の代弁者へと堕したことは、有権者が日本社会党から離れる決定的要因となった。また、「朝鮮友好親善の船」と称して北朝鮮に党としての訪問事業を行うなど北朝鮮との関係は密接であったため、このことがのちに社会民主党が批判され、党勢を衰退させた要因になっている[5]

日本共産党とは同じ左派・革新政党と見られたものの、政策的に少なからず相違(一例として部落解放同盟に対する両党の態度の相違等が挙げられる)があり、対立する時期が長かった。1970年代には社共共闘が地方で多く成立し、革新統一首長が多く誕生したが、1980年の社公合意成立以降、自社公民相乗りオール与党体制が確立した結果、一時の革新統一路線は沖縄県を除いて次々と解体していく。

1980年代から1990年代には、社会党が支持基盤とした労働組合の弱体化が進んだ。新保守主義の台頭もあり、労働組合や公務員は民営化・民間活力導入の新自由主義的改革への抵抗勢力として批判されるようになった。時期を同じくしてソ連中国などの社会主義国家が解体・変質していったことにより社会主義が魅力を失っていった中、日本社会党は時代の変化、世界情勢の変化、国民意識の変化などに対応することができず、全体的には長期低落傾向を示し衰退していった。それでも1993年第40回総選挙まで野党第一党ではあったが、社会党党首を首相とする村山内閣が政権を取ると同時に、上記の現実を踏まえて、それまでの社会党の根幹となる政治主張(自衛隊を違憲とし、日米安保条約破棄を主張する)を支持者や党員との議論もなしに一方的に180度変更したことで、最後まで残っていた支持者の離反を招き、社会党は崩壊した[6]

歴代の日本社会党中央執行委員会・執行部役員表

中央執行委員長 中央執行副委員長 執行部書記長 政策審議会長 国会対策委員長 参議院議員会長
鈴木茂三郎 浅沼稲次郎 伊藤好道 勝間田清一 金子洋文
和田博雄 河野密 岡田宗司
勝間田清一 山本幸一
浅沼稲次郎 江田三郎 成田知巳 勝間田清一
河上丈太郎 島上善五郎 千葉信
横路節雄
佐々木更三
和田博雄
成田知巳 勝間田清一 山花秀雄 羽生三七
佐々木更三 河野密
石橋政嗣
八百板正
日野吉夫

木村禧八郎 椿繁夫
勝間田清一 江田三郎
山花秀雄

山本幸一
成田知巳 三宅正一
赤松勇
江田三郎 多賀谷真稔 楯兼次郎 加瀬完
江田三郎
安井吉典
石橋政嗣 北山愛郎 柳田秀一 藤田進
飛鳥田一雄


堀昌雄 平林剛 小柳勇
江田三郎
高沢寅男
山本幸一
角田堅次郎 秋山長造
飛鳥田一雄 下平正一
北山愛郎
阿具根登
多賀谷真稔 武藤山治 田邊誠 阿具根登
田中寿美子
石橋政嗣
馬場昇 島崎譲 村山喜一 藤田進
田邊誠
小柳勇
村山喜一
平林剛 山口鶴男
石橋政嗣 堀昌雄
山本政弘
土井たか子
馬場昇
田邊誠 瀬谷英行
武藤山治
小野明

土井たか子 岡田利春
金子みつ

山口鶴男 伊藤茂 大出俊 小野明
田辺誠


赤桐操
田辺誠 角屋堅次郎
久保亘
伊藤茂
山花貞夫 早川勝 村山富市 対馬孝且
上田哲
久保田真苗
上田卓三
渋沢利久
矢田部理
山花貞夫 嶋崎譲
佐藤観樹
和田静夫
赤松広隆 日野市朗
上原康助
村山富市 大出俊
山口鶴男
井上一成
久保亘 野坂浩賢 浜本万三
千葉景子
日野市朗
関山信之 森井忠良 青木薪次
岡崎トミ子


秋葉忠利

日本社会党の政権ポスト

()内は入閣直前の党役職


党勢の推移

衆議院

選挙 定数 当選/候補者 備考
(結党時) 468 15/-- 公職追放-10
第22回総選挙 468 93/331 追加公認+3
第23回総選挙 466 143/289 追加公認+1
第24回総選挙 466 48/187
左右分裂
第25回総選挙 466 57/109 追加公認+3 右派社会党
54/96 追加公認+2 左派社会党
第26回総選挙 466 66/117 右派社会党
72/108 左派社会党
第27回総選挙 467 67/122 右派社会党
89/121 左派社会党
再統一後
第28回総選挙 467 166/246 追加公認+1
第29回総選挙 467 145/186 離党-1
第30回総選挙 467 144/198
第31回総選挙 486 140/209 追加公認+1
第32回総選挙 486 90/183
第33回総選挙 491 118/161
第34回総選挙 511 123/162 繰り上げ当選+1
第35回総選挙 511 107/157
第36回総選挙 511 107/149
第37回総選挙 511 112/144 追加公認+1
第38回総選挙 512 85/138 追加公認+1
第39回総選挙 512 136/149 追加公認+3
第40回総選挙 511 70/142 追加公認+3

参議院

選挙 定数 当選/候補者 非改選 備考
(結党時) - -/- - 参議院は存在せず
第1回通常選挙 250 47/101 - 第1回のみ全員選挙
第2回通常選挙 250 36/75 25 追加公認+1
左右分裂
第3回通常選挙 250 10/40 16 右派社会党
18/50 22 追加公認+3 左派社会党
再統一後
第4回通常選挙 250 49/85 32
第5回通常選挙 250 38/78 47 離党-1
第6回通常選挙 250 37/69 29
第7回通常選挙 250 36/66 37
第8回通常選挙 250 28/62 37
第9回通常選挙 252 39/60 27 死去-1
第10回通常選挙 252 28/57 34
第11回通常選挙 252 27/59 29
第12回通常選挙 252 22/49 25
第13回通常選挙 252 22/64 22
第14回通常選挙 252 20/58 21 追加公認+1
第15回通常選挙 252 46/55 22 追加公認+6
第16回通常選挙 252 22/43 49 追加公認+2
第17回通常選挙 252 16/40 21

(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店岩波新書ISBN 4-00-430904-2

  • 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
  • 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった沖縄選挙区(定数2)含む。
  • 第22回総選挙では、他に法定得票不足で定数を満たせなかった選挙区の再選挙で当選者1。
  • 以下、党勢の推移(社会民主党)に続く

脚注

  1. この後、東京で二桁議席を得たのは1990年第39回総選挙で12議席を得た時だけである。
  2. 現在の社会民主党も、立法事務費に加え、政党交付金に頼る部分が大きい。
  3. 土井たか子 『せいいっぱい 土井たか子半自伝』 朝日新聞社 pp84,129
  4. 20代の仕事を振り返って 「天下国家」と「都議会議員 真木茂」
  5. [1]
  6. なお、社会党の後身の社民党は、2006年社民党第10回大会において、非武装を目指すという村山内閣以前の主張に回帰した。

参考文献

社会党の文献

  • 月刊社会党編集部『日本社会党の三十年』日本社会党中央本部機関紙局(1975年11月)
  • 日本社会党結党四十周年記念出版『資料日本社会党四十年史』日本社会党中央本部(1986年7月)
  • 日本社会党五〇年史編纂委員会編『日本社会党史』社会民主党全国連合(1996年9月)

それ以外の文献

  • 上住充弘『日本社会党興亡史』自由社(1992年9月)ISBN 4915237095
  • 名越健郎『クレムリン秘密文書は語る 闇の日ソ関係史』中央公論新社(1994年10月)ISBN 4121012070
  • 原彬久『戦後史のなかの日本社会党―その理想主義とは何であったのか』中央公論新社(2000年3月)ISBN 4121015223
  • 山口二郎・石川真澄編『日本社会党-戦後革新の思想と行動』日本経済評論社(2003年10月)ISBN 4818815500
  • 岡田一郎『日本社会党-その組織と衰亡の歴史-』新時代社(2005年4月)ISBN 4787491067

関連項目

外部リンク