胡錦濤
胡錦濤 胡锦涛
Hu Jintao | |
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胡錦濤 胡錦濤(2004年)
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中華人民共和国 第6代国家主席
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任期: | 2003年3月15日 – |
副大統領: | |
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中華人民共和国 第3代国家中央軍事委員会主席
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任期: | 2005年3月13日 – |
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中華人民共和国 | |
任期: | 1998年3月15日 – 2003年3月15日 |
副大統領: | |
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20px 中国共産党 第4代中央委員会総書記
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任期: | 2002年11月15日 – |
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20px 中国共産党 第5代中央軍事委員会主席
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任期: | 2004年9月19日 – |
副大統領: | |
元首: | |
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出生: | 1942年12月21日((2024-1942)+((11-12)*100+(27-21)>=0)-1歳) |
死去: | |
政党: | 15px 中国共産党 |
配偶者: | 劉永清 |
サイン: | サイン |
テンプレート:中華圏の人物 胡 錦濤(こ きんとう、ホゥー・チンタオ、1942年12月21日 - )は、中華人民共和国の政治家。江沢民の後任として、2002年に第4代[2]中国共産党中央委員会総書記、2003年に第6代中華人民共和国主席、2004年には第5代中国共産党中央軍事委員会主席に就任。中華人民共和国の現在の最高指導者である。
胡錦濤の統治によって、中国では穏健な政治改革と、過熱する経済成長を統制する政策が推進されている[3]。
胡が国家主席へと上り詰める過程は、若く、実践的で、官僚的な共産党員の確立を示しており、過去の中国の指導者からの変化を表している。彼の人生の転換点は、中国共産党への入党、甘粛省建設委員会への異動、中国共産主義青年団への参加、チベット自治区党委員会書記としての活動、そして、江沢民のもとで国家副主席となったことである。
目次
共産党入党まで[編集]
先祖・系譜[編集]
先祖は安徽省績渓県出身・兵部尚書にまで出世した胡宗憲[1]。胡錦濤の曾祖父で胡氏44代目の胡永源は、16、7歳のころに同郷の商人に連れられて各地を転々とし、江蘇省泰州黄橋にて雑貨店を始める。貯金がたまると、同郷の者たちとの共同出資で、茶葉専門店「裕泰和」を開業する。経営はほとんど友人に任せて自分は奉公先の雑貨店で働き続けた。その後収入が増えると、新しく開いた茶葉専門店「胡永泰」を持つようになった。「裕泰和」は、同郷人が出資金を引き上げたことで胡永源の店となった[4]。胡永源の1人息子で45代目の胡樹銘は、黄橋と季家市にある2軒の店を父から受け継いだ。彼には4人の男児がいたが、長男と三男は早世し、次男の胡炳華が「胡永泰」「裕泰和」の2軒を引き継いだ。4男であり、胡錦濤の祖父でもある胡炳衡は幼少時から読書を好み、科挙の合格を目指すも挫折を繰り返し、志半ばで死去。胡炳衡には2人の息子がおり、次男胡増鈺(1917年生まれ)が、胡錦濤の父親にあたり、のちに「静之」と改名する[5]。
生い立ち[編集]
上海(中国共産党の公式発表によれば「安徽省績渓」)に生まれ、江蘇省姜堰市で育つ。曽祖父・胡永源が、商売のため故郷を離れて江蘇省に移り住んだことから、胡錦濤もこの地に移った[1]。胡錦濤の父・胡増鈺は泰州姜堰高校を卒業後、上海の小学校で教員として働く。同地で江蘇州東台出身で南通女子師範学校卒業の李文瑞と出会い、1941年に結婚、翌年の12月に胡錦濤が生まれている。胡錦濤は長男であり、その下に2人の妹(胡錦蓉、胡錦萊)がいる。胡錦蓉は江蘇省姜堰市建設局幹部を経て、現在は大手建設会社正太集団有限公司副董事(副会長)を務め、胡錦萊は泰県にて商業関係の会社に勤めている。
生活苦のため、一家は1948年に上海から泰州に戻る。胡増鈺夫妻は地元の小学校で教員をしながら、茶の販売も続けていた。7歳のときに母が死去したことで、胡は妹2人とともに泰州の祖母のもとに引き取られた。胡錦濤は物静かな子供で、よく1人で本を読んでいたという。毛沢東による中華人民共和国の建国後も、父は茶の販売による収入で生活費の不足を補ったが、経営手腕が乏しかったために店員さえも雇えず、家族はあまり裕福ではなかった。胡増鈺の身分は「小営業主」(農民や労働者よりも身分が低いが、地主や資産家のようなブルジョアよりはずっと高かったという)と決められたが、この身分が幸いして息子の胡錦濤は大学への入学および中国共産党への入党を認められた[6]。
1956年、毛沢東によって中国政府は工業と商業の国有化政策を実地し、各地の私営企業主は個人所有の商店を国や集団へ売却させられた。胡増鈺の店は泰州市日用雑貨会社に合併され、月給30元の経理係として雇われた。数年後、毛沢東は知識人や幹部に地方の農村部で肉体労働に就くよう呼びかけた。胡錦濤の2人の妹は泰県の農村部に移住し、父・胡増鈺も泰県の農村部にある日用雑貨会社に転勤した[7]。父・胡増鈺は文化大革命で告発され(同時に身分の低い血統であったこともあり)、熱心に父の評判を明らかにしようとしていた胡に大きな影響を与えた[8]。文化大革命後、父は泰県の農村にて病没した。当時甘粛省で仕事をしていた息子の胡錦涛は、泰県に戻って父の葬儀を執り行った。遺骨は祖父の胡永源と同じく、故郷の龍川に埋葬された。その位牌は、胡氏一族の廟に祀られている[7]。
小学校から高校まで[編集]
胡錦濤は、2人の妹とともに泰州市内の西倉通りにある大浦中心小学校に通った[9]。1947年9月にこの小学校に入学する。小学校時代の同級生の回想によると、家柄の良くない胡錦濤は政治活動に興味を抱き、読書に没頭していたという。授業態度はまじめで、家での予習復習も怠らなかった。成績は優秀であり、飛び級により、1953年6月に10歳6ヶ月半で小学校を卒業し、中学校は泰州第二中学校に通った[10]。
1956年9月、胡錦濤は泰州第一中学校高等部1年4組に入学する[10]。この学校の大学進学率は100%で、江蘇省でも名門の進学校である。ここの旧校舎は現在は中学部として使われ、高校部は泰州の新市街地に移った。学校の史料館員によれば、「安定書院」跡地に創立されたという[10]。高校での胡は歌やダンスに秀でていた。胡錦濤は成績優秀であり、体育以外の科目で90点以上を取った。高校3年生のときには級長に選ばれている。当時の胡について、教員は「小柄な彼はスポーツはあまり得意ではなかったが、リーダーシップがあり、文芸が得意で、よくクラブ活動に参加した。文化祭のときにはコーラスの指揮者となり、大活躍した」という[11]。級長に選ばれた3年生のときには、「政治的自覚が強く、クラスメートをよくまとめ、各種の学習および学外活動を自主的におこなった。まじめに学習し、率直な性格のもち主で、責任感が強く、何事も積極的かつ公平に進めるタイプである」と書かれている[12]。一方で、高校時代の同級生によると、当時の胡錦濤は内向的で口数が少なく、クラスでは決して目立つ存在ではなかった。小柄なため体育は苦手だったが、卓球だけは得意だった。成績は上位であったが、一番ではなかった。1959年に清華大学に入学した際には、教員や同級生からは意外に思われたという。16歳半で同大学水力学部に入学した胡錦濤は、当時ではもっとも若い新入生であった[12]。高校の数学教員・葉鳳梧によると、入学志望校の願書提出の際に、清華大学を希望するならば、日頃の成績と家庭の出身を考えて、人気はあるが審査の厳しい学部よりも志望者の少ない学部を志望したほうが受かる可能性が高い、とアドバイスを与えたという。そこで胡錦濤は、清華大学水力学部河川基幹水力発電専攻を志望した[12]。ここの卒業生は、ほとんどが地方(または辺境)のダム(水力発電所)に配属されるため、学生にはあまり人気がなかったという。
清華大学[編集]
1959年9月、清華大学水力エンジニアリング学部に入学する。胡錦濤は友人に「本当は政治家ではなくエンジニアになりたかった」と語ったことがあるという[13]。当時の胡錦濤は、水力学部では最年少であった。胡錦濤が清華大学に入学した頃の中国は大躍進政策による農業政策の失敗と自然災害に起因する飢饉に見舞われており、学生の食事は質素なものであった。主食は小麦粉とトウモロコシの蒸しパン各1個ずつ、野菜炒め、白湯一杯であった。当時の清華大学の食堂には椅子がなく、学生たちは立ち食いしていた。胡錦濤のような南方出身の学生たちは、子供の頃から米食で育ったため、小麦粉とトウモロコシには慣れていなかった。彼らにとっては白米が一番の贅沢であった[14]。
同級生の回想によると、胡錦濤は歌とダンスが上手で、キャンパスで注目される存在であったという。入学後まもなく文芸宣伝工作団に入り、部隊隊長に選ばれた[15]。
大学在学中、胡錦濤は同級生の劉永清と知り合う。理工系の大学である清華大学は女子が少なく、女子学生が少ない水力学部における彼女の存在は、男子学生にとっては憧れの的であった。学生たちの唯一の楽しみとして、週末のダンスパーティーへの参加があり、踊れる者もそうでない者も、土曜日の夜になると学生クラブに集まった。ダンスに秀でていた胡錦濤は常にパーティーの主役であり、女子学生たちからは王子様のように見られていた。胡錦濤は女子からの誘いを断らなかったが、視線は目立たないところに静かに座っている劉永清に注がれていた。いつしか2人は恋人同士となった[16]。学生時代の胡錦濤は文学と芸術、とくに映画・芝居・小説を好んだ。彼は図書館から中国やロシアの作家の小説を借りてきて読み耽った。恋人の劉永清にも小説を勧め、本を貸し借りし、互いに感想を述べあい、小説の話題を仲立ちとしてより親密になっていった[17]。
共産党入党[編集]
大学卒業後[編集]
清華大学在学中の1964年4月、中国共産党に入党。翌1965年7月に清華大学水力エンジニア学部を卒業後は、同大学の水力エンジニアリング学部政治指導員として大学に残り、仕事をしながら大学院に進学して研究を続ける[18]。学生時代は学問よりも社会活動に力を注いだために、成績は80余人中20位前後であった。水力学部の教員になるためには大学院を出なければならず、卒業生のなかには大学に残って助手になる者はいなかった。日ごろの政治態度と活動を見込まれた胡錦濤は政治指導員として大学に残ったのである。
清華大学における政治闘争[編集]
1966年4月23日、清華大学に政治部が発足し、胡錦濤ら新任の政治指導員と、各学部の共産党支部書記600名が加わった。この政治部とは、大学内に設置された中国共産党の下部組織であり、思想教育を担当する[19]。同年6月1日、『人民日報』は「いかなる悪人をも打倒せよ」という社説が掲載された。中央人民ラジオ放送局は夜のニュース番組で、北京大学の壁新聞(大学報)と人民日報の「北京大学の壁新聞を歓迎する」という社説を放送し、「北京大学党委員会が北京市党委員会と協力して北京大学の学生運動を抑圧した」と非難した。この翌日、清華大学に「あなたは誰の指揮に従うか」というビラが貼られ、清華大学の学長・蒋南翔の、政治問題を回避し、学術研究を重視する姿勢が非難された。その後もキャンパス内に「大学党委員会は黒幕だ」「大学党委員会と翔学長を守ろう」といった内容のビラが入り乱れ、文化大革命において清華大学党委員会は革命的立場なのか、それとも反革命的路線なのかといった議論が沸き起こった。これは清華大学における文化大革命の始まりであった。共産党員にして政治指導員でもある胡錦濤は、大学党委員会と学長を支持する立場に立ち、大学を糾弾する教職員・学生と対立し、「保守派」のレッテルを貼られた[20]。水力学部の学生に対して、大学党委員会は、過去において教育や研究を奨励し、大勢の優秀な卒業生を世に送り、国家建設に多大な貢献を果たし、共産党中央の方針を忠実に遂行してきたという説得を試みた[20]。6月5日、北京市党委員会の新メンバーが送り込んだ人物が、清華大学党委員会の責任者に対して「今から清華大学の全ての行政権は工作組みの指導下に置かれることを通知する。明日、工作組みのメンバーが到着次第、大学党委員会の機能を停止する」と宣告する。6月13日、前項大会が召集され、蒋南翔は解職処分となり、大学党委員会の権限は工作組に委譲されることが正式に発表された。工作組の清華大学への進駐後、かつての党委員会のメンバーと政治指導員は批判にさらされ、政治指導員と教職員を初めとする共産党員の多くが吊るし上げの対象となり、公衆の面前で引き回された。工作組は文化大革命の指導グループとともに、硬軟両様の手段を用いて各学部の党書記と政治指導員を逐一調査にかけて自己批判させた。胡錦濤も批判の対象にされることは免れなかったが、学生や教職員との関係が日ごろから良好であったために引き回しの対象にはならずに済んだ[21]。この政治闘争以後、胡錦濤は自らを深く包み、いかなる政治活動にも関わらない、政治的無関心派となった。政治指導員としての仕事も研究もできなくなった胡錦濤は、大学のキャンパス中に貼られたビラを読んで歩いて対立派の論争を聞いて回る以外にやるべきことがなくなった。
その後、清華大学の学生による工作組への非難、毛沢東の圧力による工作組の大学からの引き上げと清華大学付属中学の紅衛兵を支持する書簡により、大学で暴力的な出来事が発生する。1968年4月、北京紅衛兵主要指導者の1人が、反対派弾圧のために清華大学にて100日間にわたる武力闘争を引き起こし、学生と労働者部隊との間で戦争さながらの激しい戦いを展開して多数の死傷者を出した。同年7月25日、毛沢東は紅衛兵主要指導者5人を出頭させ、労働者たちの背後の「黒い手」が自分であることを明かし、清華大学のキャンパスの秩序はようやく回復された。
初期の政治活動[編集]
甘粛省におけるダム建設[編集]
胡錦濤の恋人である劉永清は、甘粛省にある八盤峡ダム水力発電所への配属が決まった。清華大学の卒業生は、配属決定後はただちに配属先に就くわけではなく、北京近郊の農村部へ行き、農村社会主義教育運動という約1年間の再教育プログラムに参加しなければならない。政治指導員の胡錦濤も、低学年の学生を連れて北京近郊の村へ行き、農作業を体験した[22]。1966年4月3日、再教育プログラムを終えた彼らは、一旦大学に戻って一週間の総括を行ってからそれぞれの配属先の会社に赴いた。胡錦濤の恋人である劉永清は、水力省直属の甘粛省第4ダム建設局813支局に配属され、八盤峡ダム水力発電所の建設現場で仕事を始めた[23]。1968年12月、胡錦濤は水力省に配属され、さらに甘粛省にある水力省直属の第4ダム建設局への転出が決まる。北京から列車に乗った胡錦濤は蘭州に向かう。同地に到着した胡錦濤は、劉永清と同じ第4ダム建設局に配属となり、蘭州から100kmほど離れた中華人民共和国水利部劉家峡ダム工事支局土木建築の一般の作業技師として働くことになる[24]。1969年から1974年にかけて、水利部第4工事局でも技師として働いた[25]。
1970年1月、胡錦濤は813支局長の秘書に抜擢され、仕事場も技術課から支局党委員会の事務室に移る。これは技術の仕事から政治工作担当の専門職への転身であり、政界進出への第一歩を踏み出す形となる。政治工作担当の専門職への転身は、政治上の信頼を得たことを意味し、胡錦濤は自らの出自の問題から開放された[26]。同年2月、胡錦濤は上司に結婚申込書を提出し、劉永清と結婚、夫婦となる。八盤峡ダム発電所は国の重点事業の1つとして投資も多かったため、ほかの国営企業よりも職員宿舎が多く、胡錦濤夫婦は結婚からまもなく宿舎を貰うことができた。1971年に長男の胡海峰(清華同方威視技術股份有限公司社長)、1972年に長女の胡海清(新浪前CEO夫人)を儲けている[27]。
813支局長の秘書となってからの胡錦濤は、局長以下、重役の各種挨拶文の原稿作りのほかに、支局のさまざまな年度報告書の競う作業に勤しんだ。これらの仕事は、毛沢東語録、『人民日報』の社説、政府公表の報告書から文言を適当に切り取れば簡単にできるもので、それがこの当時流行した創作法であった[28]。
1971年、813支局共産党委員会副書記に抜擢された胡錦濤は、専任で党務に当たる。第4建設局は水力省所属の企業体で、その下部企業体の813支局のトップは課長クラスに当たり、胡錦濤の肩書きは副課長であった。清華大学での政治闘争を経験した胡錦濤は党務の仕事を用心深く務めていた。
甘粛省建設委員会への異動[編集]
1974年9月15日、新華社通信が「黄河流域の青銅峡ダム発電所工事がほぼ完成した」というニュースを配信した。813支局が進めていた八盤峡ダム発電所の工事も終盤に入り、翌年には竣工すると見られていた。このころの胡錦濤は、上司たちとの人間関係も会社での評判も良好であり、このままでいけば将来の昇進が期待されていた。しかし、813支局は水力発電所所属の土木工事会社であり、各地に転勤して工事を行う必要があるため、自分の家庭生活に大きな影響を与えることになることを胡錦濤は悩んでいた。813支局は、甘粛省政府土木管理部門の建設委員会の官僚の接待に当たることがあったが、そのうち、胡錦濤は建設委員会副主任の張延青と親しくなる。ある日、胡錦濤に付き添われてダム工事を視察した張延青は、胡錦濤と昼食を取っている最中に、ダム工事が終了した後の胡錦濤の予定を聞いた。未定であることを答えると、張延青は胡錦濤に対して「建設委員会に来て自分の秘書になる気はないか」と打診した。この申し出に胡錦濤は大いに喜び、その場で即答した。人事の手続きが難しいのではないかと心配する胡錦濤に対して、張延青は、手続きのことは自分に任せるよう答えた。その後八盤峡ダムの工事現場に、人事異動の辞令が届き、胡錦濤の甘粛省建設委員会への転勤が正式に決定する[29]。こうして、胡錦濤は甘粛省建設委員会に異動し、張延青の委員会主任室専属秘書として働くことになる。この転勤が、胡錦濤の人生で最も重要な転換点と見られている。
張延青は山西省の出身で、共産党の古参幹部である。胡錦濤にとっては官途における最初の恩人であり、彼の口添えがなければ転勤はなかっただろうと見られている。それゆえ、胡錦濤は張延青に絶えず恩義を感じており、毎年正月になれば張延青に電話をかけて新年の挨拶を述べ、甘粛省に出張する者があれば栄養剤や健康食品などの土産を託して届けさせている[30]。
1974年8月、胡錦濤は八盤峡ダム発電所から間縮小建設委員会に移り、張延青の秘書として働く。仕事場から30メートルほどのところにある職員用宿舎を借り、家族4人で2DKのアパートで暮らし始める。職場では、上司に言われた仕事を黙々とこなした。報告書や挨拶文などの原稿づくりが、胡錦濤の主な仕事であった[31]。
1975年、同委員会副主任に昇進する。ちょうどその頃、失脚から返り咲いた鄧小平によって「より革命的で、より若く、より知識があり、より専門的な」次世代の指導者を育成することを目指すプログラムが実行され、それによって多くの有能な若手党員が見出された。同年、張延青は胡錦濤を半年間観察したのち、勤務態度がまじめで、上司に忠実で、同僚の評判もよい胡錦濤を、主任の単国棟に推薦し、幹部会議の討論を経て、設計管理字部長に任命した。このときの胡錦濤は33歳で、建設委員会ではもっとも若い次長となった[32]。この頃、のちに中国の最高権力者となる胡錦濤が国務院総理に指名することになる温家宝は、甘粛省地質局地質調査測量隊・思想政治課副主任を務めていた。当時の同僚によれば、胡錦濤は次長に昇進したのちも以前と変わらず仕事に精を出し、勤務時間を守り、同僚に愛想がよく、さわやかではきはきとした仕事ぶりで、中間管理職となったことを鼻にかけるような態度は少しも見せなかったという。次長に昇進した胡錦濤は、幹部チームを率いて蘭州市永登県六福郷へ赴き、農民たちに社会主義教育の宣伝活動を行った。胡錦濤らは政治思想教育のための資料を数多く用意してきたが、農民たちの関心事は、詩歌の朗読や理論よりも、少しでも多く食料を作り、腹いっぱい食べることであった。そのことを知った胡錦濤は、机上の空論の宣伝よりも、もっぱら生産力回復を第一義とする鄧小平の実務路線に従った[33]。1975年5月29日、鄧小平は毛沢東の3項目、「ソ連反対主義への修正」、「安定団結」、「経済発展」の3つを各分野の指針とする指示を出し、経済発展を軌道に乗せようとする。胡錦濤は六福郷の社会主義教育プログラムの責任者として、ソ連の侵入に備えることの重要性を説いて政治理論書の学習を指示し、一方で幹部チームを率いて農作業・かんがい用水路の整備に力を入れて農民たちを食糧不足から脱却させようとした。この教育プログラムは半年にわたって行われ、これのリーダーを務めた胡錦濤は政治活動の経験を積む形となった。プログラム終了後、胡錦濤は設計管理部の指導管理に加わり始めた[34]。
その後中国の各分野における経済活動が活発化したことで、甘粛省建設委員会も蘭州市のインフラ整備に力を入れ始める。甘粛省建設委員会は胡錦濤に対して蘭州市養鶏場、乳製品製造工場、青少年文化センターの建設工事の計画審査と基礎工事の現場総監督を任せた。胡錦濤は3つのプロジェクトの企画審査と建設用地の選定会議を開き、設計から建設用地の選定、基礎工事、建設施工の管理、完成後の検査までのすべての段階における責任者を定めて責任の所在を明確にした。各段階において工事のできばえに対する請負制を実施し、品質管理を厳格にし、建築物に欠陥を残さない措置を取った。3つの建設プロジェクトは順調に進行し、2年足らずで完成にこぎ着け、各施設とも使用開始が可能となった[35]。1980年、胡錦濤は建設委員会次長から副主任に栄転し、副局長クラスの幹部となる。清華大学時代から胡錦濤の上司であり、胡耀邦のかつての部下であり、甘粛省共産党副書記の劉冰という人物と胡錦濤は親密な間柄となった。胡錦濤は暇さえあれば劉冰を訪ね、仕事についての指示を仰いだ。
有能な若手党員の一人として、胡錦濤は甘粛省委員会第一書記である宋平の推薦により、1980年に中国共産主義青年団の甘粛省委員会書記に就任した。かつてインフラ整備の建設工事を宋平が視察した際にその案内役を務めたのが胡錦濤であり、宋平は胡錦濤に対して好印象を抱いたという[36]。
胡耀邦との出会い[編集]
1981年9月、甘粛省共産党委員会は、胡錦濤を、鄧小平の娘(鄧楠)と胡耀邦の息子・胡徳平とともに、中国共産党中央党校にて共産党の高級幹部となるための訓練を受けさせることを決定した。これは、地方の甘粛省から中央に異動していた宋平の推薦によるものであった[37]。鄧楠は胡錦濤に良い印象を持ち、そのことを父・鄧小平に報告している。また、胡耀邦の息子も胡錦濤を自宅に招待し、胡耀邦に初めて対面させている。胡耀邦は共産主義青年団出身の後輩である胡錦濤に親しみを込めて握手をしたことで、それまでの緊張がいっぺんに解けた。その日、彼ら2人は膝をまじえて天文地理、歴史文学、政治情勢、国際問題、現在の仕事に至るまで語り合った。その後も胡錦濤は胡耀邦をしばしば訪問し、2人の親交はますます深まった[38]。
1982年10月、胡錦濤は甘粛省共青団書記に就任する。そのわずか2ヵ月後の12月、共青団中央書記処書記に就任する。2年後の1984年、共青団中央書記処第一書記に昇進し、共青団の事実上のリーダーとなる。共青団中央書記時代の胡錦濤は中国共産党総書記だった胡耀邦の地方訪問のエスコートをしている。
貴州省党委員会書記[編集]
1985年、胡耀邦は胡錦濤を貴州省党委員会書記に就任させた。上海幇の構成員とは対照的に、胡錦濤はそのキャリアの多くを中国の裕福な沿岸地域でなく貧しい内陸地域で積んだ。そのため部分的には、彼は上海幇と比較して西洋的な考えになじみがないと言えよう。1980年代に北京では民主化を求める抗議活動が起こり、その結果胡耀邦が失脚したが、同じように起こった地方の学生の民主化を求める抗議活動に対して胡錦濤は慎重に対処した。
チベットでの活動[編集]
1988年6月、チベット自治区党委員会書記が重病のため辞職した。中国共産党総書記だった趙紫陽は、2つの貧しい貧困地域(甘粛省・貴州省)で働いていたことを理由に、胡錦濤をチベット自治区党委員会書記に指名した。同年12月に書記に就任したが、チベット自治区の区都ラサではデモ活動が起こっていた。1989年1月19日、ラサにて公開裁判をおこない、前年3月に起きた抗議運動に加わって逮捕された僧侶に死刑判決を含む重罪判決を言い渡した。その際、僧侶の頭を押さえるなどチベット民衆に対する見せしめとなった。その直後の1月28日、パンチェン・ラマ10世が急死したが、多くのチベット人は胡錦濤がそれにかかわったと信じている[39]。同年3月には抗議運動が大規模なデモ行進にまで発展したため、胡はラサ全市に3月8日午前零時から戒厳令を布告した。戒厳令布告は天安門事件に先立ち中華人民共和国史上初めてのことであった[40]。日本では、この時にチベット独立運動を押さえ込んだことで党指導部の信頼を勝ち得たと言われることもあり、2008年のチベット動乱の際にもメディアで批判される根拠となった。その後、1989年6月に天安門事件が勃発した際も、その民主化運動のチベットへの波及を防ぐため、ラサを戒厳令下に置いた。以降チベット自治区の最高責任者にあった4年間、「1.分離主義の弾圧、2.経済建設を推進」する政策を実行した。
しかしこの頃、胡本人は自身の将来に対し悲観的であることを友人に話している。キャリアに行き詰まり、今の地位である地方の党書記以上に出世することはないだろうと胡は思っていた[41]。彼は、チベット自治区で貴州省の時と同じように実績を残すことができず、党の高級幹部になることは難しいと考えていたため、チベットでなく北京で過ごすことが多かった[42][43]。しかし、胡はチベット自治区党委員会書記在任中も宋平と連絡を取り続けており、このことが将来に大きく影響を及ぼす。
ポスト江沢民[編集]
1992年の中国共産党第14回大会が行われる前に、鄧小平や陳雲など党長老たちは、鄧小平を中心とする「第二世代」から江沢民を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行うために、後継者を選出した。さらに鄧小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選出することを提案した[44]。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡錦濤は中国共産党中央政治局常務委員に選出された。これは中華人民共和国建国史上2番目の若さだった。同時に中国共産党中央書記処書記にも選出された。
胡は江沢民の後継者と見做されていたが、胡は自身でなく江沢民が注目されるように注意を払っていた。2000年に江沢民が提唱した3つの代表理論に対し、自らを毛沢東や鄧小平に並べるための売名行為との批判が出たが、胡はこの理論を宣伝した[45]。そのため、彼は穏やかで礼儀正く、協力関係を築くのに熟練しているというイメージを持たれた。1998年には国家副主席に就任していたが、江は胡が対外関係でより積極的な役割を担うことを期待した。1999年のコソボ紛争におけるNATO軍の空爆で中国大使館が誤爆された際には、中国政府を代表してテレビ演説を行った。胡錦濤はこの演説で「アメリカをはじめとするNATO軍は我々の大使館を攻撃し、人命を奪い建物を破壊した」[46]「アメリカの爆撃は中国の主権侵害であり、『犯罪行為』で『野蛮な行動』だ」「市民と学生のデモは人民の怒りのあらわれだ」[47]と述べた。そのうえで、「中国政府が全ての合法的なデモを支持していることを表明し、国民には、国家の根本的利益を考えて過度な反応は控えるよう呼びかけた。
2002年の中国共産党第16回党大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。しかし江は自身の派閥である上海幇から呉邦国、賈慶林、曽慶紅、黄菊、李長春を中央政治局常務委員に配置し、また自身も党中央軍事委員会主席のポストを手放さず、院政を敷くものだと思われていた。
胡錦濤は、常に自分を隠し通してきた。「これといって目立つ特徴がないのが胡錦濤の最大の特徴」なのである[48]。
総書記・国家主席[編集]
2002年11月15日、中国共産党総書記に選出された胡錦濤は、翌2003年3月15日、第10期全国人民代表大会第1回会議において国家主席に就任。胡錦濤指導部は、中国を「民主文明を持った政治大国」とするべく、漸進的な政治改革を進めている[49]。
内政[編集]
「和諧社会」[編集]
胡錦濤は、国務院総理(首相)に指名した温家宝とともに「和諧社会」というスローガンを掲げて格差の是正に努めた。1990年代以降、中国社会では改革開放政策に起因する経済的な地域格差の拡大、また貧富の差の拡大などの矛盾が表面化し始め、それが官僚の腐敗、民族対立などと相まってデモ・暴動・騒乱が増加していたためである。しかし胡錦濤が最高権力者になってからも海外でも大規模な暴動が度々報じられるようになり、特に2004年10月末に発生した四川省漢源の暴動は、建国以来最大規模のものとなった。そのため、「和諧社会」はいまだ成功しているとは言えない。ただし、農村部住民の足かせとなっていた農村戸籍の廃止に地域限定ではあるが乗り出していること、これまで保険制度のなかった農村部に保険を導入するなど、独自の政策も打ち出している。
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
上海幇との主導権争い[編集]
院政を敷いたかに見えた江沢民だったが、2004年に党中央軍事委員会主席の座も胡錦濤に譲り渡した。これにより、胡錦濤は中国人民解放軍のトップにもなり、党・政・軍の全ての権力を事実上掌握した。しかし江沢民を中心とする上海幇との権力闘争は以降も続くことになる。
その後の胡錦濤は権力基盤の強化で一定の成功を収めている。2005年8月には人民解放軍の機関紙「解放軍報」が胡錦濤を称賛する記事を連日掲載するようになった。これは胡錦濤が軍部との間に協力関係を築いたことを示している。2006年9月には上海市党委員会書記の陳良宇が汚職の疑いで解任され、上海幇が勢力を失ったとされた。
しかし、2008年3月15日の第11期全人代第1回会議にて、胡錦濤自身は再び国家主席に選出され、国家中央軍事委員会主席にも選出された[50]ものの、自身と同じ共青団の出身である李克強を国家副主席にすることができず、上海幇の推す習近平が国家副主席に就任するなど、上海幇の影響力は依然として残っている。それでも、2007年の中国共産党第17回大会で胡錦濤の勢力が躍進したため、これから胡錦濤の権力は強くなっていくという見方も出ている[51]。
マスメディア統制[編集]
伝染病のSARSへの反応や、国民の公の記念式への注視、胡耀邦の辞任など、中国政府は概してメディアの批判に敏感であるが、胡は「隠れた自由主義者」という初期の期待があったにもかかわらず、マスメディアの自由主義に対して大きく強硬路線で対応した。ただしメディアは、2008年に発生した四川大地震のような国民の関心事については報道している。また、胡はインターネットの監視と警告も行っており、江の時代よりも厳格に、敏感に、政治的検閲を行っている。
一方、2010年2月21日には人民日報が運営するミニブログ「人民微博」へ胡本人がアカウントを開設したと話題になったが、一言もメッセージを残さぬまま、翌22日には非表示となった[52][53]。またこのとき、濤哥(胡錦濤アニキ、という意味)」という愛称で呼ばれている。
道徳規範[編集]
2006年3月、中国国内における多数の社会問題への対応として、胡錦濤は、「8つの名誉と8つの恥」という題目の、中国国民に守らせる道徳規律・「社会主義栄辱観」を公開した[54]。「8つの名誉と不名誉」として知られている代わりに、良き国民が名誉と考えるものと、恥と考えるものとが要約された、8つの詩趣に富んだ政策が盛り込まれている。いよいよ脆弱になる社会構造の中で主に同世代の中国人が関係している金と権力の掌握と、改革開放後の中国がもたらした、ますます増加する道徳心の欠如を、胡錦濤のイデオロギーで解決する方法として広く知られている。これは中国共産党指導者自身のための基準から、マルクス主義者の理論に貢献するものへと変わった。
北京オリンピックと、2010年に上海で開かれる上海国際博覧会の準備で教室に張られたポスター、街の通りにある旗、そして電子工学による展示板など、普及を促進している。胡錦濤の政策は、前任者のイデオロギー、すなわち、江沢民の3つの代表、鄧小平理論、そして、時代の中心であった毛沢東思想とは異なり、社会的・経済的目標を課すことに反対して道徳規範を成文化したものへ推移している。
外交[編集]
胡は外交政策として、ベネズエラ、イラン、ロシア、カナダ、オーストラリアのようなさまざまな国と同盟を結んでおり、江のアメリカ中心の政策からの脱却に集中している[55]。
2002年4月25日の午後、マレーシアを訪問中の胡錦濤に対して香港の記者がインタビューを行い、その中で「海外のメディアは、あなたを『謎に包まれた人物だ』といっていますが、ご自身ではいかが思われますか」と尋ねた。これに対して胡錦濤は「その評価はあまり適切ではありませんね」と返答している[56]。
胡は北朝鮮の核兵器問題に積極的に従事している点で、江とは異なる。胡はまた、中国和平崛起の概念に基づき、地域の隣国を保証している。現に、2006年3月31日の橋本龍太郎らの訪中団に対しては「過去も未来も覇権主義をとるつもりはない」とし、「他国を武力で威圧する意思はない」と明言している。
彼は貧しいアフリカ民族の援助と腕の立つ労働者の引き換えとして、中国の影響力増大を集中させるアフリカ、パキスタン、ブラジルのような、資源に基礎を置く国との関係の強化を求めていた。加えて、彼の職務上の立場は、テロリズムを含めた世界的な問題においてアメリカと類似する。
中国が世界にもたらす影響は胡錦濤の在職中に増大した。
台湾[編集]
国家主席の早期に、胡は当時中華民国総統であった陳水扁による台湾独立運動に直面する。陳は九二共識の拒否を前提条件としないことには訪問はしなかった。陳水扁と民主進歩党は、中国が注意を払っている台湾問題の声明と、最終目標である台湾独立の表明を続けてきた。胡は最初に、硬軟組み合わせた対応を取った。胡は、台湾にとって重大な問題について柔軟に交渉することを表明し、他方で、依然として最終目標である中国統一についての考えを明らかにすることを前提条件とはしないとした。胡による統治は、依然として台湾政府による中国からの独立宣言の試みを中国本土側は容認しないという堅固な姿勢を取っている。
2004年に陳が再選されると、胡は方法を変えた。胡は陳の台北での行政方針への接触はせず、民進党の独立傾向や九二共識を認めないというやり方で処理した。胡は、台湾が軍事を増強し、強く孤立化する外交政策を続けていると主張した。2005年3月、全国人民大会で反分裂国家法が可決され、台湾での独立宣言に対しては、「非平和的に」対応することを決めた。胡は、民進党と対立している中国国民党との接触を増やした。中国国民党と中国共産党との関係は、北伐と日中戦争といった、両者が2度の共同戦線を張った国共内戦前まで遡る。接触の増加は、2005年4月、国民党主席(当時)の連戦と胡との歴史的な会談を含めて、2005年の泛藍連盟の政治家による中国大陸訪問で最高潮に達した[57][58] 。
2008年3月20日、台湾で国民党が勝利し、中華民国立法院でも国民党が過半数を占めた。前任の連戦と比較して影響を持つ状態、とくに台湾での国民党支持者とのつながりを胡は先行して探している[59]。中国共産党と中国国民党との一連の会合は続いた。2008年4月12日、胡はボアオ・アジア・フォーラムの開催中に国民党副主席(当時)の蕭万長と会談し、2008年5月28日には、与党となった国民党とのあいだで、国民党主席の呉伯雄と初の党首会談を行った。この会談で、胡と呉は九二共識のもとで双方とも公式会談を再開すべきであるという意見で同意した。呉は台湾独立に反対の立場を表明した。胡は台湾の世界保健機関への加盟を容認するとともに、台湾の人々の関心事への処理、防衛、尊厳、そして国際社会での台湾の立場は、中国共産党政府が決めることを表明した。
党の間の路線と同様に、海峡交流基金会と海峡両岸関係協会を経由しての半政治的な会談は、北京にて最初に行われるとともに、2008年6月に九二協識の基礎として再開が予定されていた。胡と、彼によく似た馬英九の両者は、九二協識が台湾海峡における双方の間の交渉の基礎となることで合意した。
2008年3月26日、胡はジョージ・W・ブッシュに、九二協識では双方が、「中国は1つであるが、その定義については意見を異にすることで同意した」ということを電話で伝えた[60]。海峡交流基金会と海峡両岸関係協会の会談における最初の優先事項は、三通の開通、とくに中国本土と台湾の間での直行便を出すことであった。2008年12月15日、三通の開通が実現した。台湾側は中国経済との一体化による実益を期待し、中国側は「中国統一」に向けた前進であるとしている。
日本[編集]
1990年代の江沢民政権期、中華人民共和国国内の教育は反日的な色彩を強め、インターネットが普及すると「愛国者同盟網」「中国民間保釣連合会」「反日先鋒」など反日的なナショナリスト団体の運営するウェブサイトが立ち上げられるようになった。これらのサイトは民衆の社会不満を政治運動に結びつける可能性があるため、胡錦濤が党総書記に就任すると閉鎖や活動停止の処分を受けていたが、2005年春以降次々と復活し、各種メディアでも反日的な記事や戦時中の日本軍の軍事行動についての批判的な特集が見られるようになった。
同年4月には北京で反日デモが発生し、一時政府の制御が及ばない事態となった。翌5月、日本の産経新聞や香港紙「成報」は、胡錦濤が党内の保守派に詰め寄られたという記事を掲載した。胡錦濤が影響力を持つ「中国青年報」は愛国的な報道を控えていたが、翌6月には他紙と同様の傾向を見せるようになった。中華人民共和国では、法制上あらゆるメディアが中国共産党の意向を受け入れなければならないため、「中国青年報」の変化や愛国的サイトの復活は、胡錦濤が党内の保守的なグループに一定の譲歩をしたことを示すという見方もある。
胡錦濤自身の対日姿勢は前国家主席の江沢民ほど強硬ではなく、2008年5月に来日した際には、共同文書に歴史問題を含めず、日本が戦後60年間世界の平和に一定の役割を果たしてきたことを評価した[61]。また、来日時に早稲田大学で講演を行い、日本の円借款などによる支援が中国の経済成長に貢献したことを認めた[62]。また四川大地震の日本の自衛隊派遣の際には、歴史問題は別として日本に感謝の意を表した。
早稲田大学では福原愛と卓球で勝負し、その模様はテレビのニュースでも報道された。胡錦濤は福原に対し、「あなたは私のことを知らないかもしれませんが私はあなたのことを知っています」と話しかけた[63]。
人物像[編集]
甘粛省建設委員会時代の胡錦濤の同僚たちは、彼の人柄について、
1. 礼儀正しく、先輩の意見を尊重する。
2. 記憶力抜群で、言うことは論理的で説得力がある。
3. 頭も切れるし、腕も立つ。しかも決断力がある。
4. 同僚に対していつも謙虚にふるまう。また、各部署との連絡を密にして、ものごとがスムーズに行われるようにする。
と、4つの特徴を挙げている[64]。
私生活[編集]
胡錦濤は恐妻家であり、家庭のことについては全て、妻の劉永清に任せている。私用で訪ねた友人や親戚の接待は、全て妻が行うという。毎日の食事のメニュー、洋服の色・デザイン、収入の使いみち、親戚づきあいなどの細かいこと、子供の進学問題、地方への転勤の際に単身赴任にするか家族同行にするかといったことも、全て彼女の裁量次第であるという。甘粛省時代の同僚の話によると、胡錦濤は出張に出かける前に妻から小遣いをもらい、帰宅すると明細を逐一説明していたという[65]。
雑誌評[編集]
タイム誌[編集]
アメリカのニュース雑誌『タイム』が1999年以来毎年発表しているTime 100(世界で最も影響力のある100人)にて、2004年、2005年、2007年、2008年の4回選出されている。最新版2009年の指導者・革命家部門における中国人の選出は習近平、王岐山の2名。
パレード誌[編集]
アメリカの日曜版の新聞470紙に配布されている雑誌『パレード』が発行している世界最悪の独裁者ランキングにて、胡錦濤は2004年以降選出されている。それによると、2004年には第3位、2005年には第4位、2006年には第6位、2007年には第4位、2008年には第5位、2009年には第6位に入っている[66]。主な理由はメディア統制、インターネット監視、30万人強制収用である。
年譜[編集]
- 1942年12月21日 - 中華民国(現在の中華人民共和国)の上海に生まれ、江蘇省姜堰市にて育つ(祖籍は安徽省績渓)。
- 1956年7月 - 江蘇省泰州市第二初級中学(中学校)卒。
- 1959年7月 - 泰州中学(高校)卒業。
- 1964年4月 - 中国共産党に入党。
- 1965年7月 - 清華大学水利エンジニア学部卒業。水力発電所の技師となる。
- 1983年8月 - 中華全国青年連合会主席に就任。
- 1984年11月 - 中国共産主義青年団中央書記処第一書記に就任。
- 1985年7月 - 貴州省の共産党書記に抜擢される。
- 1985年9月 - 中国共産党中央委員会の常任委員に昇進。
- 1988年12月 - チベット自治区の共産党書記に就任。
- 1989年3月7日 - ラサに戒厳令を布告する。
- 1990年10月 - チベット軍区中国共産党委員会の第一書記を兼任。
- 1992年10月 - 中国共産党中央政治局常務委員に選出される。
- 1997年9月 - 中国共産党第15回大会で政治局常務委員に再選。
- 1998年3月 - 全国人民代表大会(全人代)で国家副主席に選出。
- 1999年9月 - 軍事委員会副主席に選出。
- 2002年11月15日 - 中国共産党第16期中央委員会第1回全体会議(第16期1中全会)にて総書記に選出。
- 2003年3月 - 全人代で国家主席に選出。
- 2004年9月19日 - 中国共産党第16期中央委員会第4回全体会議(第16期4中全会)で党中央軍事委員会主席に就任。
- 2005年3月13日 - 全人代で国家中央軍事委員会主席に選出。
- 2006年4月 - アメリカ合衆国を公式訪問。
- 2007年10月22日 - 中国共産党第17期中央委員会第1回全体会議(第17期1中全会)にて、総書記再任。
- 2008年5月 - 日本を公式訪問。
- 2009年7月 - 新疆ウイグル自治区での騒乱に対応するためと称し、ラクイラサミットでの拡大会合への出席を取りやめ帰国するという異例の対応を取った。
来日歴[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 『胡錦涛と現代中国』4ページ
- ↑ 1982年の総書記制導入以降。
- ↑ "China's Leader shows his stripes.", BBC News, January 11, 2005.
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』11ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』12ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』13ページ
- ↑ 7.0 7.1 『胡錦涛と現代中国』14ページ
- ↑ Havely (19 October 2007) HavelyJoe Getting to know Hu Al Jazeera [ arch. ] 7 April 2009
- ↑ 『胡錦濤と現代中国』19ページ
- ↑ 10.0 10.1 10.2 『胡錦涛と現代中国』20ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』21 - 22ページ
- ↑ 12.0 12.1 12.2 『胡錦涛と現代中国』22ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』29ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』33 - 34ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』36ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』39ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』40ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』41ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』42ページ
- ↑ 20.0 20.1 『胡錦涛と現代中国』43ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』44ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』41ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』41ページ - 42ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』57ページ
- ↑ Nathan, Andrew J. (Biography); Gilley, Bruce (Biography) (March 2003). China's new rulers: the secret files (Article). New York: The New York Review of Books, p.79.
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』63ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』64ページ - 65ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』69ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』78 - 79ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』80ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』85ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』86ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』88ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』88 - 89ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』90 - 91ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』96ページ
- ↑ Nathan & Gilley, p.42.
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』98 - 99ページ
- ↑ "Profile: Hu Jintao", BBC News, September 16, 2004.
- ↑ Nathan & Gilley, p.42.
- ↑ Nathan & Gilley, p.81.
- ↑ "Profile: Hu Jintao", BBC News, September 16, 2004.
- ↑ Nathan & Gilley, p.81.
- ↑ Nathan & Gilley, pp.42 - 43.
- ↑ Nathan & Gilley, p. 84.
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』270ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』201ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』194ページ
- ↑ 天児慧 『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』 <中国の歴史11> 講談社、2004年、348ページ。
- ↑ "Hu Jintao reelected Chinese president", Xinhua(China Daily), March 15, 2008.
- ↑ 「上海閥のドン、江沢民氏に押し切られた胡錦濤主席」 『朝鮮日報』、2007年10月23日。
- ↑ (2010-02-23) 胡主席、幻の「つぶやき」? ツイッター中国版に登録か 朝日新聞 [ arch. ] 2010-02-23
- ↑ (2010-02-23) あまりの人気でサーバ障害、人民網が国家主席アカウントを閉鎖 サーチナ [ arch. ] 2010-02-23
- ↑ 「胡锦涛关于“八荣八耻”的论述」 『千龙网』、2006年3月20日、2008年5月16日閲覧。
- ↑ Marquand (19 April 2006) MarquandRobert China's Hu: well liked, little known The Christian Science Monitor [ arch. ] 2008-05-16
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』262ページ
- ↑ Sisci (5 April 2005) SisciFrancesco Strange cross-Taiwan Strait bedfellows Asia Times Online [ arch. ] 2008-05-15
- ↑ Zhong (29 March 2005) ZhongWu KMT makes China return in historic trip to ease tensions The Standard [ arch. ] 2008-05-16
- ↑ Sisci (28 June 2006) SisciFrancesco Hu Jintao and the new China Asia Times Online [ arch. ] 2008-05-15
- ↑ (27 March 2008) Chinese, U.S. presidents hold telephone talks on Taiwan, Tibet Xinhuanet [ arch. ] 2008-05-15
- ↑ 「日中互恵関係を推進」 『朝日新聞』、2008年5月7日。
- ↑ 「胡主席の講演」 『東京新聞』、2008年5月9日。
- ↑ () 胡錦濤国家主席が早稲田大学で愛ちゃんと卓球対決 サーチナ [ arch. ] 5月8日
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』91ページ
- ↑ 『胡錦涛と現代中国』10ページ
- ↑ http://www.parade.com/dictators/2008/
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 『胡錦涛と現代中国』 祁英力著 おうちすえたけ訳 2002年11月 勉誠出版 ISBN 4-585-05070-1
- 『滞日写録』-中国人記者が見た日本 唐暉(とうき)著 東京文献センター ISBN 978-4-925187-34-3
外部リンク[編集]
- 日本国外務省:胡錦濤国家主席略歴
- CHINA7:胡錦濤 - 中国総合情報サイト チャイナセブン (株式会社ロングエーインターナショナル)
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