福田康夫
福田 康夫 (ふくだ やすお) | |
在任期間 | 2007年9月26日 - 2008年9月24日 |
生没年月日 | 1936年7月16日((2024-1936)+((11-7)*100+(26-16)>=0)-1歳) - |
出生地 | 日本 東京府東京市 |
出身校 | 早稲田大学 第一政治経済学部卒業 |
学位・資格 | 経済学士 (早稲田大学・1959年) |
前職 | 丸善石油従業員 衆議院議員秘書 内閣総理大臣秘書官 |
世襲の有無 | 2世 父・福田赳夫 |
選挙区 | (旧群馬県第3区→) 群馬県第4区 |
当選回数 | 衆7回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
福田 康夫(ふくだ やすお、1936年(和暦??年)7月16日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。
内閣官房長官(第67~69代)、沖縄開発庁長官(第41代)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)、自由民主党総裁(第22代)、内閣総理大臣(第91代)を歴任。第67代内閣総理大臣福田赳夫の長男。
目次
概説
群馬県高崎市出身。大学卒業後、石油会社で17年余りサラリーマン生活を送っていたが、40歳で退社し、政界入りする[1]。父の秘書を14年間務めた後、1990年(和暦??年)の第39回衆議院議員総選挙において群馬県第4区から出馬し初当選を果たす。
第2次森内閣 において内閣官房長官に抜擢され、続く小泉内閣でも官房長官を務めた。自身の年金未納が発覚したことで3年半余り務めた官房長官の職を引責辞任。ポスト小泉の候補として、安倍晋三の対立候補として総裁選への立候補が注目されたが、結局出馬しなかった。2007年(和暦??年)9月、安倍晋三首相の突然の辞任劇の中、当初、後継総裁の最有力と見られた麻生太郎を抑え、自民党の大多数の派閥の支持を背景に2007年自由民主党総裁選挙に立候補、麻生を破り、第22代自由民主党総裁に選出され、第91代内閣総理大臣に就任した。
経歴
生い立ち
1936年(和暦??年)7月16日、東京府東京市世田谷区(現・東京都世田谷区)に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる[2]。戦時中、実家の群馬県群馬郡金古町(後に群馬町、現高崎市)に疎開していた[3]。金古町立金古小学校(現・高崎市立金古小学校)、大宮市立南小学校(現・さいたま市立大宮南小学校)、東京高等師範附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、渋谷区立猿楽小学校などに学ぶ。1949年(和暦??年)3月、東京第一師範学校男子部附属小学校(現・東京学芸大学附属世田谷小学校)卒業。小学生時代の福田は野球の好きなスポーツ少年で、駐箚[4]中国大使を務めた谷野作太郎とはこのときから交流があった[5]。
1952年(和暦??年)3月、麻布中学校、1955年(和暦??年)3月、麻布高等学校卒業[6]。中高時代は文学や音楽に親しみ、成績は優秀であった[3][7] 。同級生には声優の柴田秀勝や、物流大手のサンリツ会長の三浦正英などがいる[3]。
1959年(和暦??年)3月、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業。大阪に本社を置く丸善石油(現:コスモ石油)に入社し、1962年(和暦??年)3月から2年間、米国ロサンゼルス支店に赴任[6]。帰国後に石油製品の輸入課長も務め、石油の価格・量の動向の予測・判断、産地国からの石油調達の輸入業務などを行っていた[8][9][10]。このときオイルショックを経験している[11]。
1966年(和暦??年)に元衆議院議長桜内義雄の姪の嶺貴代子に、「政治家の女房にはしない」と誓い結婚[5]。
政界へ
「政治家になるつもりはない」と語っていた福田だが、父の後継者とされた次弟(横手征夫)が病気となり、母三枝が後継者に推したこともあって、政治家を志す[5][12] 。1976年11月に会社を退社し、衆議院議員秘書となり[6]、1977年12月から1年間、父・赳夫の内閣総理大臣秘書官を務める。事務担当秘書官には、保田博、棚橋祐治、小和田恆らがいた。秘書官として、日中平和友好条約へ向けた中国、アメリカとの舞台裏交渉に関与した。1990年2月に第39回衆議院議員選挙で、群馬県第4区から出馬して当選。
初当選後の取材で「二世批判はあるでしょうが、政治家の息子とはいえ私は50歳代。独立した一人の人間として見ていただきたい」と語っていたが、「おじいちゃんのあとを継いだおじいちゃんだから」「あの年寄り(父・赳夫)と一緒にしないでよ」などと漏らしてもいた[13]。以後6回当選する。50歳以上初当選組のクローニンの会に所属している。
議員としては、外務政務次官、衆議院外務委員長、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていった。
内閣官房長官
2000年10月に第2次森内閣で、女性スキャンダルが問題視され辞任した中川秀直に代わって内閣官房長官に就任する。後任人事として小泉純一郎や尾身幸次や町村信孝があげられていたが、当時森派会長だった小泉が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」[14]、と考え推薦した。閣僚経験が皆無であったにも関わらず、森内閣で官房長官に起用されたことに疑問の声も上がったが、父親の首相時代に首相秘書官を務めていた経験が生き、無難に調整役をつとめた。森内閣においては首相の失言やKSD事件、外務省機密費流用事件などの弁明に追われることも多く、「弁明長官」と呼ばれた。
その後小泉内閣では2度にわたる内閣改造でも留任。在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。官房長官の記者会見で垣間見える冷笑的態度から、ネットの匿名掲示板では「フフン」というあだ名がついた[15]。
実務能力には定評があり、官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。そのため、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。
外務省における軋轢のために小泉首相の意向によって外相を更迭された田中真紀子の後任に川口順子が就任したが、川口は民間人閣僚のため与党内に基盤を持たず、福田の外交への関与はその後も続き、官房長官を退任するまで官邸外交を取り仕切ることになった。
男女共同参画担当大臣を兼任し、「2020年までにあらゆる分野の指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という数値目標などを掲げた[11]。また、沖縄開発庁長官として沖縄科学技術大学院大学の設立構想で関係閣僚会合を開くなどして主導、女子暴行事件の容疑者引渡し交渉など米兵による事件にも対応した[16]。こうした経験から、首相就任時に沖縄に関して理解を示す期待が一部でされた[16]。ハンセン病補償法訴訟の控訴断念にも一役買い(後述)、政府の公式謝罪をした[17]。
在職中は、台湾前総統の李登輝が病気治療目的で来日を希望した際に、中国への配慮から、外務大臣河野洋平と共にビザ発給に反対したといわれる。また、北朝鮮による日本人拉致問題に関し、「終始冷淡な態度をとっていた」と家族会は語っている(#エピソードの項を参照)。
中国や韓国等の、靖国神社参拝に反対している国の意見などにも一定の配慮をすべきこと、憲法改正には周辺国の理解が必要と主張していることなどから、反米保守(ナショナリスト)グループから「親中派」、「媚中派」などと批判されることもある。特に、『文藝春秋』とその系列メディアが官房長官在任期間中ほぼ毎回福田批判記事を掲載したことに激怒し、『文藝春秋』から政府広報の広告を引き上げさせたとの報道も一部でなされた(2004年から数ヶ月間、『文藝春秋』の誌面から政府広報が一切無くなった)。
2004年4月、内閣官房長官の在任記録が1259日となり、それまで歴代1位だった保利茂の在任記録を更新し、会見で「秘密主義長官、影の外務大臣、影の防衛庁長官。いろいろ名前はありますが、まあ、しょせん影ですから」と語った[14]。
4月28日に「(国民年金保険料を払っているか否かの公表は)個人情報でそういうものを開示すべきではない」、「犯罪ですか?」云々との旨の本人発言直後に、保険料未納が発覚する。当初未納期間は、1990年2月から1992年9月の間と、1995年8月から1995年12月までの間の合計3年1ヶ月間となっていたが、辞任直前、週刊文春が1976年11月から1990年2月までの間の内の、5年8ヶ月間も同じく未納であったことを報じた。 政治家の年金未納問題 も参照
2004年5月7日 定例記者会見の席で官房長官の辞任を表明。在任日数1289日。「風のごとく来りて、風のごとく去るということだ」との言葉を残して官邸を去った[18]。
ポスト小泉
年金未納が発覚して小泉内閣の官房長官を辞任した後は、政権と距離を置き、第3次小泉改造内閣にも入閣しなかったために、小泉内閣に批判的な一部政治家やマスコミ・知識人などの自民党内外の諸勢力の間に総理総裁就任待望論があり、小泉の2006年9月の総裁任期満了を控え「ポスト小泉」有力候補(俗に言う麻垣康三)の一人に挙げられてきた。
事前の各種世論調査において次期自民党総裁・首相として、安倍晋三に次ぐ支持率を得ることが多く、安倍に次いで次期首相の座に近い立場にあると目され、安倍への対抗馬の筆頭として注目を集めていた。アジア外交などについて小泉内閣の路線を踏襲する色合いの強い安倍に対して、アジア重視の姿勢を見せるなど対立軸を提示し、政権への意欲ともとれる動きも見せていたが、2006年7月21日、総裁選への不出馬を正式に表明。引退の意向すら漏らしたとも伝えられ、出馬を期待していた勢力からは失望の声が聞かれた。これを受け「ポスト小泉」の総裁選は、安倍の大勝に終わった。
安倍内閣においての要職起用は無く、表立った活動は少なかった。2007年6月には党住宅土地調査会会長として「200年住宅ビジョン」を発表したことが話題となった。与党が大きく議席を減らした2007年7月の参院選後は、8月27日の内閣改造人事における起用が取り沙汰されたが、実現しなかった。
しかし、7月の群馬県知事選挙では、自民党候補の大沢正明の選挙対策本部長を務めて当選に導き、そのリーダーシップを発揮した[10]。 2006年自由民主党総裁選挙 も参照
ポスト安倍
2007年9月12日に安倍晋三が内閣総理大臣、自由民主党総裁の辞任を表明し、その翌13日、自由民主党総裁選挙への出馬意思があると報道され、自身も出馬の方針を示した。
15日、自由民主党総裁選挙に立候補の届出をした。対立候補として麻生太郎が立候補したが、町村派含めたほぼすべての派閥(事実上、麻生派以外の全派閥)が福田支持を決定しており、圧倒的優位が伝えられていた[19]が、実際は各派閥の所属議員に対する拘束力が弱まっており圧倒的ではなかった。また、小泉純一郎も事実上福田支持となった。
9月23日実施の自民党総裁選において330票(麻生:197票 無効票:1 計528票)を獲得し当選、第22代総裁に就任。 2007年自由民主党総裁選挙 も参照
福田内閣
2007年9月25日に開かれた内閣総理大臣指名選挙(首班指名選挙)において、与党が過半数を占める衆議院では圧倒的多数で指名されるが、逆に野党が過半数を占める参議院では、民主党の小沢一郎が指名されるという“ねじれ国会”(逆転国会)の象徴的現象が起きた。両院協議会が開催されるが議論はまとまらず、法規に則り衆議院の議決が国会の議決となり、福田が内閣総理大臣に指名された。内閣の組閣に当たり、記者会見で福田は、「一歩でも違えば、自民党が政権を失う可能性もある」と指摘した上で、「背水の陣内閣」と自身の内閣を命名した。
翌9月26日に宮中での親任式を経て正式に第91代内閣総理大臣に就任し(福田康夫内閣)日本憲政史上初の親子での総理大臣となった。就任年齢となる71歳は、奇しくも父・赳夫が首相に就任した年齢と同じ(赳夫は71歳11ヶ月と10日、康夫は71歳2ヶ月と10日)となった。
同年11月、福田と民主党代表小沢一郎との間で大連立構想が模索されたが頓挫し、一時は小沢が代表辞任を表明するなど混乱したが、その後、与野党は対決姿勢を強めることになった。第169回国会では、問責決議が1998年10月16日の額賀福志郎以来10年ぶりに参議院で可決されたが、翌日には内閣信任決議が衆議院で可決された。なお、首相への問責決議案が国会で可決されたのは、田中義一[20]、吉田茂[21]に続き3人目であり、現行憲法で参議院からは初である。
福田康夫内閣 も参照
福田改造内閣
2008年8月2日、内閣改造により福田改造内閣が発足した。それに併せて、麻生太郎を幹事長に指名するなど、自由民主党執行部の人事も刷新した。閣僚の参議院枠は参議院自民党の推薦に基づき選抜するのが慣例だが、今回の組閣では参議院会長尾辻秀久による推薦を一切無視し、福田の独断で林芳正や中山恭子らを入閣させ舛添要一を留任させた[22]。また、副大臣も党執行部の推薦に基づく選抜が慣例だが、今回は党からの推薦が差し戻され、閣僚経験者の鴨下一郎らが起用された[23]。また、内閣総理大臣補佐官は、渡海紀三朗が新たに起用されたため全員が閣僚経験者となった。
2008年9月1日、午後9時30分より緊急記者会見を開催し、その席上、「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」ことを表明した。退陣の理由として「国民生活の為に、新しい布陣で政策実現を期してもらいたい」ということを述べた[24]。
2008年9月24日、内閣総辞職。なお、国政選挙の結果を経ずに成立し、かつ在任中に国政選挙が無い内閣としては、羽田内閣以来の内閣となる。 福田康夫内閣改造内閣 も参照
内閣総理大臣退任後
内閣総理大臣退任後、インター・アクション・カウンシルのメンバーに就任し[25]、2009年の総会ではヘルムート・シュミット、ジャン・クレティエンらと世界金融危機等政治経済の国際的な諸問題について討議した[26]。また、麻生政権にて度々特派大使として各国を訪問し、日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りに理解を求めるなど、協力関係の構築を進めている[27][28][29]。2009年7月の天皇・皇后北米歴訪の際は福田が首席随員に選任され、明仁天皇、美智子皇后に随伴しカナダやアメリカ合衆国ハワイ州を訪問した[30]。2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党新人で元フジテレビ社員の三宅雪子に苦戦を強いられ一時落選の報も流れたが、結果として福田が三宅を小選挙区で破り7回目の当選を果たした。
政策
基本理念
2007年の自民党総裁選挙で、「希望と安心のくにづくり」、「改革を進め、その先にめざす社会」として次のような基本理念を示した[31][32]。なお、「自立と共生」は10年前から新生党、旧民主党の理念として使われており、民主党代表の小沢一郎は「ずっと昔から僕が使っていた言葉を何かおっしゃっているみたいに感じた」と話している[33]。
一方、福田は2007年10月21日の早稲田大学創立125周年記念式典にて、「自立と共生」は大隈重信が125年前に既に考えていたことだと発言したが、この発言に小沢への切り返しの意図があったのかは不明である。
安全保障
- 非核三原則の見直し
- 2002年5月31日、内閣官房長官在任中、日本は理屈上核兵器保持は可能だが政策判断としてやめていると従来からの政府答弁をした。その直後に政府首脳が「(将来)国民が核を持つべきだということになるかもしれない」と「非核三原則見直し」と発言したと報じられたが、野党はこれを福田の発言であるとした[34]。オフレコでの発言だったものの、非核三原則の見直しと捉えられ批判を呼んだ。同年6月10日、国会でこれらの発言等についての集中審議(議題を絞った審議)が行なわれた中で、福田は「それぞれの時代状況によって安全保障という問題は、国際情勢などを踏まえたさまざまな国民的議論があり得るということを述べたもの」、「将来、政府としての非核三原則見直しをするというような可能性を示唆したというのは自分の真意ではない」、「今後とも非核三原則を堅持していくという立場に変わりない」旨の釈明をした[35]。
- 自衛隊インド洋派遣
- 自衛隊インド洋派遣について肯定的であり、内閣官房長官在任時にテロ対策特別措置法の制定を主導し成立させた。当時の内閣官房参与だった岡本行夫は「安全で安上がり、しかも国際社会から評価された福田流外交の面目躍如」[36]と評している。2007年9月、同法の延長について「(海自の活動は)日本の国際平和協力の一つの柱だ。現行法の延長が時間的制約で難しければ、新法を視野に入れるのはやむを得ない。新法を出すなら、臨時国会だ」[37]との考えを表明していたが、最終的に第168回国会への「テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法」(いわゆる「新テロ対策特措法」、「補給支援特措法」)提出を選択し、2008年1月11日に補給支援特措法を成立させた。前年11月1日にテロ対策特別措置法が失効したため、海上自衛隊はいったんインド洋から撤退していたが、補給支援特措法成立に伴い、福田は海上自衛隊のインド洋再派遣を命じた。
- 自衛隊イラク派遣
- 自衛隊イラク派遣についても外務大臣の川口順子、防衛庁長官の石破茂ら関係閣僚とともに政策立案を主導、内閣官房長官在任時に「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(いわゆるイラク特措法)を成立させている。
- 防衛省の不祥事
守屋武昌 も参照
- 守屋武昌への接待問題や給油量隠蔽問題など防衛省の不祥事が相次いで発覚したことから、福田は内閣官房長官町村信孝に対し、内閣官房に「防衛省改革に関する有識者会議」を設置し対策を検討するよう指示した[38]。
- 2007年11月28日の自衛隊高級幹部会同では、「なれ合い、和気あいあいの雰囲気でもない」[39]と福田が判断し防衛省による栄誉礼や儀仗を拒否したうえで、綱紀粛正の徹底を訓示した[40]。
- 日米同盟の強化
- 2008年5月の演説にて、福田は日米同盟について「アジア・太平洋地域の公共財」[41]と指摘し、日本の安定維持のためだけでなく、アジア・太平洋での地域協力の基盤と位置づけた。さらに、「日米同盟の強化と、アジア外交の共鳴」[41]を提唱し、日米の同盟関係の強化を積極的に推し進めると表明した[42]。
- イランの核開発問題
- 2008年6月3日、ローマでの日本とイランとの首脳会談にて、福田は「日本とイランは石油以外の関係が進まない。障害は、核開発、ミサイルなど安全保障の問題だ」[43]と主張し、イランの大統領マフムード・アフマディーネジャードに対し核開発を中止するよう直接要請した。
- アフマディーネジャードは福田の主張に対し反論したが、その際に「核兵器は旧式で効率が悪く、保有しても実際には使えないことは、よくわかっている」[43]と述べた。この発言を聞いた福田は言葉尻を捉え「いい話をうかがった」[43]として「大統領が核兵器を中心に安全保障を考えていないことは重視したい」[43]と指摘し、さらに重ねて「濃縮を停止する英断を求めたい」[43]と要求を繰り返した。アフマディーネジャードは既存の核保有国の軍縮を持ち出して再反論したため議論が白熱し、最終的にアフマディーネジャードが「テヘランか東京で議論を続けたい」[43]と収めることになった。
- その際、福田はイランでの日本人学生誘拐事件の早期解決も同時に要請し、アフマディーネジャードから「健康に家族のもとに戻れるよう最善の努力を払う」[43]との言質を取った。イラン当局は犯人グループが被害者をパキスタン領内に連行したことまで確認済みだったが、イランは「パキスタンに借りはつくれない」との立場を取り同国に協力要請をせず、2007年10月から膠着状態となっていた[44]。しかし、福田の要請により日本との外交悪化を懸念したイラン当局は、やむを得ずパキスタンに捜査協力を要請し、パキスタン側から犯人グループ幹部が引き渡され、6月14日に日本人学生は解放された[44]。
- 北朝鮮による核開発
- 首相就任後のCNNからのインタビューにて、核開発を進める北朝鮮について「近隣に脅威を与えるようなものを持つ限りは自立していくのは難しい」[45]と指摘した。さらに、北朝鮮の将来について「今のままではいずれは消滅してしまう」[45]と厳しい評価を下し、北朝鮮の核兵器放棄が必須との考えを表明した。
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