グランツール
グランツール(英:Grand Tour、仏:Grands Tours、西:Grandes Vueltas、蘭:Grote Ronde)とはヨーロッパで開催される自転車のプロロードレースのうち、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランス、ブエルタ・ア・エスパーニャの3つのステージレースの総称である。三大ツールともいう。
目次
概要[編集]
ステージレースはこの他にも数多存在するが上記3大会については競技実施期間及び全走破距離が長く(いずれも3週間程度の期間行われる)、しかも平地・山岳・タイムトライアルというそれぞれ要求される競走能力が異なる種目で総合的な力を発揮できなければ良い成績を収められないという点において共通しており、「最大のステージレース」という意味合いから上記の通り呼ばれている。また、グランツールは完走することさえ困難であることから、総合優勝者には最上級の賞賛が贈られる。
とりわけツール・ド・フランスはグランツールの中で最も歴史があり、加えて相対的に他のグランツールと比較すると出場選手のレベルが高く「世界最大の自転車レース」と呼ばれる所以である。中にはツールを「世界三大スポーツ競技大会」と位置づける人もおり、毎年大会期間中にテレビ中継等で観戦する人は世界で10億人を超すとも言われていることから、あまりロードレースに関心のない人もツールだけは特別に興味を持っていることが伺える。しかしながら、ツールがグランツールの中で最も過酷なレースかというと必ずしもそうとはいえない。山岳コースの設定はむしろジロ・デ・イタリアのほうが厳しいと見る人もいる。
各グランツールの特徴[編集]
ツール・ド・フランス ~選手・チームの総合力が要求される~[編集]
ツール・ド・フランスにおいては、ジャック・アンクティルが確立したとされる山岳コースではなるべく消耗度が少ない走りに終始し、個人タイムトライアルで一気に勝負をつけるといった形の戦法が定番とされていた。ミゲル・インドゥラインはそうした走り方の典型であったといえる。また1989年の大会で大逆転優勝を収めたグレッグ・レモンはプロローグを除くタイムトライアルで常に勝利したことが後の勝因に繋がった。エディ・メルクスやランス・アームストロング、後にドーピング疑惑で優勝を剥奪されたフロイド・ランディスは山岳でも積極的に攻撃を仕掛けたが、タイムトライアルでもやはり圧倒的な力を示した。そう考えると、ツールではとりわけ、タイムトライアルにかかる比重が大きいといえよう。そして、タイムトライアルで得た(または得られると予想できる)差を基にして、いかにして勝利の方程式へと導けるかがツール制覇の一番の鍵となろう。この勝利への方程式を導く為に各チームが総力を結集させて闘うため、ツールでは個人のみならず、チーム力も重視される。綿密な戦略も要求され、まさに「総力戦」の形で挑まねば栄光には浴せない。
ジロ・デ・イタリア ~選手個人のパフォーマンスが最大限要求される~[編集]
ジロ・デ・イタリアは比較的山岳が得意な選手が強いといえる。これはツールよりも概ね山岳コースの設定回数が多く、また他のグランツールより山岳コースの難度が高いことにも起因しているようである。他のグランツールにおいてはポイント賞の受賞者といえばスプリンター型の選手にほぼ集約されている形となっているが、ジロの場合は相対的に見て山岳レースにおいて実績を挙げている選手が獲得するケースも少なくない。これには中間スプリントポイントが1ステージで1つしかなく、しかもポイント賞争いのポイントと関係がない(インテルジロポイントという、その地点の通過タイムの合計で争うインテルジロ賞のための地点となっている)年も多いため、実質的にゴールのポイントのみでポイント賞が争われているという点も影響しているといえる。
総合優勝を数多く経験している往年の名選手であるアルフレッド・ビンダ、ジーノ・バルタリ、ファウスト・コッピといった選手たちは、山岳コースでも部類の強さを発揮した[1]。また、コッピが1949年にツールも同年に制し、史上初のダブルツールを達成したことに起因して、同一年にジロとツールを制することが真のチャンピオンであるという見方もされるようになった。
一方、ブエルタが1995年に従来の春開催から夏場の開催へと移行した点について、次第にジロにも微妙な影響を及ぼしはじめ、ランス・アームストロングのようにジロを回避してツール一本に照準を定める形を取る選手が増加しはじめた。したがって1970年代から1990年代半ばの総合優勝者については選手の国籍が多様化していたが、1996年に優勝したパヴェル・トンコフ(ロシア)を最後にイタリア国籍選手以外の優勝者が出ていないということにも繋がっている。このあたりの傾向についても、他のグランツールとは様相を異にしている。
レースの形態については、平坦と山岳にはっきりと分けられるような形でコース設定がなされていない傾向が見られるからか最後は持久戦の様相を呈し、総合優勝争いが大混戦になるケースがよくある。よってグランツールの中では最もタフなレースと目する人もおり、またグランツールの中では選手個人の能力が最大限要求される傾向が強いレースであるといえよう。
ブエルタ・ア・エスパーニャ ~山岳の多い地形と混戦をいかに制するか~[編集]
ブエルタ・ア・エスパーニャはスペインという国の地形の関係でコース上に中級を含めて山岳が多く、スペイン領土内にアルプス山脈が存在しないため高低差こそ控えめなもののしばしば勾配の厳しい激坂が登場する。このため、ジロと同様にホセマヌエル・フエンテやルイス・エレラのような典型的なクライマーが優勝するケースもある。しかし、かつて春期に開催されていた頃は日程的な問題もあって有力なオールラウンダーやクライマーが他のグランツールに照準を合わせる傾向もあったため、スプリンター型の選手でも総合優勝を果たしているケースが少なくなかった。全区間総合トップで優勝したことがあるフレディ・マルテンスやショーン・ケリー、ルディ・アルティヒといった選手たちはスプリンター型と言われた選手である。したがってかつてはツールやジロではポイント賞、山岳賞どまりの選手たちがブエルタでは総合優勝が十分狙えるといっても過言ではなかった。しかし開催時期が1995年より現在の8~9月に移行してからはオールラウンダー型選手の優勝機会が増え、反面スプリンター型の選手が総合優勝争いをする例はなくなっている。またロベルト・エラスやカルロス・サストレといったクライマー型の選手の活躍も目立つことを考えると、現在はジロのような特徴を持つ大会であるともいえる。ジロ同様大混戦も多い。
ダブルツールについて[編集]
長らくブエルタとジロについては実施時期が接近、はたまた年によっては日程が重複するケースもあったことから、同一年度に全グランツールの出場を果たす選手はほとんどいなかった。そうした要因もあり、とりわけ歴史の長いツールとジロの2大会については今もダブルツールと呼ぶ場合がある。下記に同一年度におけるダブルツール達成者を列記してあるが、ツールとジロの組み合わせのケースが最も多い。これはツールとジロの両方を制することが真のチャンピオンであるという大きな意味合いを包含しているものと考えられる。もっとも、ダブルツールという呼称は世界的に見て以前より一般的な言い方とはされていない。
また、1995年に従来春シーズンに開催されていたブエルタが9月に開催時期を移行したことにより、現在は日程的には支障なくジロ・ツール・ブエルタの3大会に出場することが可能になったことや、UCIプロツアー(2008年のプロツアーよりグランツールは全て撤退。この話については後述)においては、ジロとブエルタは同格に扱われていた。したがってツールとブエルタ、ジロとブエルタという組み合わせはダブルツールとはいえないのかといった疑問にも繋がることから、ツールとジロだけを指す呼称として使用するのは望ましくないといえる。
UCIプロツアー離脱問題[編集]
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
2005年からはじまったUCIプロツアーはグランツールの価値を高く認識していた。ツール・ド・フランスは最上級のカテゴリーA級に位置づけ、ジロ・デ・イタリア、ブエルタ・ア・エスパーニャはカテゴリーB級に位置づけていた。また、プロツアーとしては2007年までグランツールを対象レースに組み込んでいた。
しかしプロツアー参加チームに出場を限定するとしていた国際自転車競技連合(UCI)の考え方に対し、ASO(ツールの主催者)、RCS(ジロの主催者)、ウニパブリック(ブエルタの主催者)がプロツアー制定当初より猛反発。度々これら主催者側は主催者希望チーム枠の扱いを巡ってUCIとの対立姿勢を強め、制定初年度よりプロツアー離脱をほのめかしていた。
そしてプロツアー制定2年目となる2006年のジロ・ディ・ロンバルディアのレース終了後に、本来ならばプロツアーの表彰式が行われる予定であったにもかかわらず同レースの主催者であるRCSがこれを拒否したことから、UCIと主催者グループとの間の対立が表面化した。
UCIは懐柔策として、2007年のグランツールについては主催者側が希望するチーム(いわゆる「ワイルドカード」)枠を認めることで、グランツールのプロツアー離脱を防止した。しかし同年に発生したユニベットチームを巡る問題(詳細はUCIプロツアー#グランツールとの主導権争いを参照)を発端にUCIと主催者グループの対立構図は決定的となり、ついに主催者グループ側はUCIとの事実上の決別姿勢を明らかにした。
またUCIも主催者グループの主張を認め、2008年のプロツアーより、グランツールは全て離脱することになった。この他主催者グループが運営を行っている他のステージレースやワンデーレースにおいても離脱が相次いだことから、2007年においては26の対象レースであったものが2008年は17へと大きく減少する事態(ツアー・ダウンアンダーの格上げや開催地未定の新設レース(仮称:ファイナルレース)を含めて)となった。
ジロ、ブエルタはヨーロッパツアーに「格下げ」[編集]
一方、主催者グループ側は水面下でUCIプロツアーに代わりうる新シリーズの制定に動いていたが、UCIはこれを認めなかった。UCIは、ツールについては国別対抗戦形式である北京オリンピック、世界選手権自転車競技大会とともに新設のUCIワールドツアーに組み込こむことを決定し、プロツアー参加チームにも積極的にツールへの参加を促す制度を制定した。しかしジロ、ブエルタについてはプロツアーのいわば「下部組織」という位置づけとなっている、UCIコンチネンタルサーキットの中のUCIヨーロッパツアーに組み入れられるという、事実上の「格下げ」処置を行うことになった。
コンチネンタルサーキットに組み入れられてしまうと、プロツアー参加チームの出場機会が著しく失われるばかりかレースの質そのものの低下も余儀なくされてしまう。この他UCIはツール以外のプロツアー離脱レースについては全てヨーロッパツアーへと組み入れた。UCIのこれまでの一連の動きを見る限り、明らかに主催者グループ側に対する「報復処置」を行っている。しかもUCIのこの処置については、形の上ではジロ、ブエルタが例えば同じステージレースでありながらも、ツール・ド・スイスなどのプロツアー対象レースよりも格下になるということをも意味している。
こうした一連のUCIの方策に対し、主催者グループ側は当然のことながら猛反発。またUCIも、コンチネンタルサーキットのレースは現在最高カテゴリーは「HC」となっているが、ジロ、ブエルタを含めたプロツアー離脱レースについてはHCを上回るカテゴリーの制定を検討している。
グランツールにおける主な記録[編集]
全グランツール総合優勝達成者[編集]
過去に4人の達成者がいる(達成順に列挙)。
- ジャック・アンクティル(フランス)
- ツール5回(1957, 1961, 1962, 1963, 1964)、ジロ2回(1960, 1964)、ブエルタ1回(1963)
- フェリーチェ・ジモンディ(イタリア)
- ツール1回(1965)、ジロ3回(1967, 1969, 1976)、ブエルタ1回(1968)
- エディ・メルクス(ベルギー)
- ツール5回(1969, 1970, 1971, 1972, 1974)、ジロ5回(1968, 1970, 1972, 1973, 1974)、ブエルタ1回(1973)
- ベルナール・イノー(フランス)
- ツール5回(1978, 1979, 1981, 1982, 1985)、ジロ3回(1980, 1982, 1985)、ブエルタ2回(1978, 1983)
なお、同一年における全グランツール総合優勝達成者は2007年現在、いまだ存在しない。
主要3部門独占者[編集]
グランツールでは総合優勝の他、ポイント賞、山岳賞がそれぞれ設けられている。これらを主要3部門と呼ぶ場合がある。過去2選手が同一年に開催されたレースで主要3部門第1位を達成。内、エディ・メルクスは2大会で達成している。
- エディ・メルクス(ベルギー)
- ツール1回(1969)、ジロ1回(1968)
- ローラン・ジャラベール(フランス)
- ブエルタ1回(1995)
同一年度全グランツール区間優勝達成者[編集]
過去に3人の達成者がいる。
- ミゲル・ポブレット(スペイン)
- 1回(1956)
- ピエリーノ・バフィ(イタリア)
- 1回(1958)
- アレサンドロ・ペタッキ(イタリア)
- 1回(2003)
なおグランツールの山岳賞に関連する項目は山岳賞、ポイント賞に関連する項目はポイント賞を参照のこと。
その他のグランツールに関連する記録[編集]
ダブルツール[編集]
一般的にダブルツール達成とはツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアを同一年度に総合優勝することを指す。しかしこの組み合わせ以外の「ダブルツール達成」のケースもあるため、これも併せて紹介する。
ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリア[編集]
過去7人達成
- ファウスト・コッピ(イタリア)
- 2回(1949, 1952)
- ジャック・アンクティ'(フランス)
- 1回(1964)
- エディ・メルクス(ベルギー)
- 3回(1970, 1972, 1974)
- ベルナール・イノー(フランス)
- 2回(1982, 1985)
- ステファン・ロッシュ(アイルランド)
- 1回(1987)
- ミゲル・インドゥライン(スペイン)
- 2回(1992, 1993)
- マルコ・パンターニ(イタリア)
- 1回(1998)
ツール・ド・フランスとブエルタ・ア・エスパーニャ[編集]
過去2人達成
- ジャック・アンクティル(フランス)
- 1回(1963)
- ベルナール・イノー(フランス)
- 1回(1978)
ジロ・デ・イタリアとブエルタ・ア・エスパーニャ[編集]
過去2人達成
- エディ・メルクス(ベルギー)
- 1回(1973)
- ジョバンニ・バッタリン(イタリア)
- 1回(1981)
トリプルクラウン[編集]
ツール、ジロの両レースの総合優勝に加え、世界選手権の個人ロードレース種目も併せて同一年度に制覇することを「トリプルクラウン」と呼ぶことがある。過去に2人が成し遂げている。
- エディ・メルクス(ベルギー)
- 1回(1974)
- ステファン・ロッシュ(アイルランド)
- 1回(1987)
一方、全グランツールへの同一年度出場が日程的に可能となり、UCIプロツアーにおいてブエルタがジロと同格の位置づけをされている上にレースの形態が違う世界選手権を同一視することは望ましくないという観点があり、現在ではこのような呼び方は適当ではないと考えられている向きもある。
グランツール歴代総合優勝者[編集]
脚注[編集]
- ↑ ジロに山岳賞が設けられたのは1933年だが、ツールも同年に最初に山岳賞が設けられたことからグランツールにおける最初の山岳賞制定はジロということになる。初代山岳賞受賞者はアルフレッド・ビンダであるが、同時に5度目の総合優勝を達成。過去4回の総合優勝を達成した際にも山岳コースでは圧倒的な強さを示しており、仮に1933年以前にも山岳賞があれば、ビンダが総合優勝と併せて受賞していたのはほぼ間違いないと見られる。
- ↑ 個人優勝表彰としてはカルロ・ガレッティ、ジョバンニ・ミチェレット、エベラルド・パヴェシの3人が対象。したがってカルロ・ガレッティがジロ・デ・イタリア史上初の総合3連覇を達成した形となる。
- ↑ 後日自身の口から当時禁止薬物を使用していたという告白がなされ、それに基づき国際自転車競技連合(UCI)がマイヨジョーヌの返還を求めている。
- ↑ 総合首位は当初ロベルト・エラスだったが、レース後行われたドーピング検査の結果失格となり、同2位のデニス・メンショフが繰り上げ優勝となった。
- ↑ 全レース終了後に行われたドーピング検査において、総合1位となったフロイド・ランディスの体内から多数の禁止薬物が検出された。これを受けランディスの総合優勝は保留とされ、その後公聴会などの調査が続けられた。1年以上に亘る調査の結果、2007年9月20日に「アメリカ合衆国反ドーピング機関」(USADA)が後日ランディスの総合1位記録を取り消し、失格とする告知を出したことからオスカル・ペレイロの繰り上げ優勝はこの時点で決定的となった。21日には、UCIが正式にランディスの失格とペレイロの優勝を認定し優勝が決定。そして同年10月15日に総合ディレクターのクリスティアン・プリュドムより優勝ジャージ(マイヨ・ジョーヌ)が授与された。
関連項目[編集]
ジロ・デ・イタリア |
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ブエルタ・ア・エスパーニャ |
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1935 | 36 | 41 | 42 | 45 | 46 | 47 | 48 | 50 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80 | 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89 | 90 | 91 | 92 | 93 | 94 | 95 | 96 | 97 | 98 | 99 | 2000 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 |
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