豊橋市
豊橋市 | ||
国/地方 | 日本 | |
都道府県 | 愛知県 | |
団体コード | 23201-7 | |
面積 | km² 境界未定:なし
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総人口 | - 人 ( )
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人口密度 | - 人 /km² | |
隣接自治体 | 愛知県:豊川市、新城市、田原市、 小坂井町 静岡県:浜松市、湖西市 | |
市の木 | くすのき | |
市の花 | つつじ | |
市の歌 | 豊橋市歌、躍進 豊橋音頭、ちぎり音頭 | |
豊橋市役所 | ||
市長 | ||
所在地 | 〒440-8501 愛知県 豊橋市今橋町1番地 | |
位置 | ||
テンプレート:基礎自治体位置図 | ||
特記事項: | ||
豊橋市(とよはしし)は、愛知県の南東部にある都市で、東三河地方の中心都市である。中核市に指定されている。東三河の人口の約半数を占める中核市である。1906年に市制施行。ヤマサのちくわと路面電車の街として知られる。
概要
中世から江戸時代まで市の中央域は吉田(よしだ)と呼ばれていた(吉田という地名は、当時全国各地にあったため、三州吉田と呼ばれることが多かった。また、明治維新後も同様の理由で、明治政府から全国にあって紛らわしいとのことから、改名を要求され、豊橋としている。吉良町の名鉄吉良吉田駅のほうが現存の名前としては著名。)
吉田は豊川と朝倉川の合流地点であり、渥美郡、宝飯郡、そして八名郡の境目に当たる。江戸時代には 吉田藩の城下町、吉田宿の宿場町、豊川水運で栄えた湊町であった。1869年(明治2年)6月の版籍奉還で、吉田から豊橋に改称した。
市徽章は、徳川時代末、吉田城に八代君臨した長沢・松平・大河内(ながさわ・まつだいら・おおこうち)家が用いていた馬印を横から見た形の千切(ちぎり)である。
市民は、「豊橋」を「とよはし」ではなく「とよはし」と平板に発音することが多い。
東三河の人口の過半数を占める中核市であり、国勢調査推計人口は2007年10月1日現在愛知県第3位。2007年11月1日に発表した外国人登録人口が2万人を超えた。昼夜間人口比率は99.6%と100%を切っている。
三河港と豊川用水を擁し、貿易港と農業を主軸とする。16世紀の吉田城(今橋城)建築以来、東三河の中心に台頭し、江戸時代は特に、三州吉田藩の城下町、東海道53次の吉田宿・二川宿があり、幕末には7万石と岡崎藩・西尾藩を超え、旧三河国内では最大の勢力であったもよう。
市名の由来
豊橋の名につき以下に述べる。明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩(宇和島藩の支藩)(旧愛媛県北宇和郡吉田町、現愛媛県宇和島市)に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した。その命を受け藩主は「豊橋、関屋、今橋」の三つの名を選んだ。新政府はその一番目の「豊橋」を採用して、正式に「豊橋藩」と言う藩名とすることを命じた。その後廃藩置県の後も豊橋の名が使われる。
豊橋;とよばし:濁音(吉田大橋)
徳川家康の家臣の酒井忠次による架橋
徳川氏の武将の酒井忠次が、1570年(元亀元年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に吉田大橋(土橋)を架ける土木工事を実施した。その後、池田輝政が、船町を整備し前城主・酒井忠次が吉田川に架けた土橋の吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。『三州吉田記』に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、1591年(天正19年)にこの土橋を船町へ移すと記す。江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。
この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよばし(豊橋:濁音)と名称を変更した。さらに、昭和に入ってから国道1号を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた吉田大橋(よしだおおはし)と、再び名付けた。この国道整備により、かつての東海道は愛知県道496号白鳥豊橋線として県道になり、正式にはもともと架かっていた県道の大橋(西側の橋)の名を豊橋(とよばし)とするようになった。
上記の『三州吉田記』の記述にあるように、酒井忠次の吉田川(豊川)への架橋以前に、橋は存在しておらず、鎌倉時代の史書(『東関紀行』・『海道記』・阿仏尼の『うたたねの記』および『十六夜日記』)にも、川の浅瀬を渡っていることが記述されている。
三河物語では、松平清康の吉田城攻めの際に、吉田河を大舟小舟で打越し、舟を置くならば、との記載があり、橋がないことは史実として確実である。
なお、1505年築城~1522年まで今橋城(後の吉田城)と呼ばれていたことから、今橋という橋がそれ以前に存在したする説があるが史料の提示もなく間違いである。また、今橋という城名から、当時やそれ以前に今橋という地名だったとする説があるが、『三河国聞書』には、1498年吉田川という記述があり、当地が吉田と呼ばれていたことは間違いないようである。三河国で橋といえば、八橋が上記の史書にも登場するが、この八橋も橋ではなく、湿地を渡る板のようなものだったらしく、橋の付いた名前が必ずしも、実際の河川を渡るための旅人用の橋に由来するわけではない。
異説
初代の大橋は鎌倉時代であったという説がある。貞応3年(1224年)に今橋という橋が架けられたと言う。鎌倉時代の東海道は現在と異なり、現在地(城の辺り)より北で豊川を渡っていた。今橋城築城時、豊川と朝倉川の合流地点には既に「今橋」という橋があり、今橋城はその橋に由来して付けられたと言う。しかし、城が攻められ、「今橋(いまはし)」の音が「忌まわし(いまはし)」に通じ縁起が悪いと言うことで、1522年(大永2年)に縁起の良い「吉田城」へ変更されたと言う。
とよかわ(清音)豊川・とよがわ(濁音)豊川の違い
混同して記載される資料も多いため、以下詳細に記す。
清音の豊川(とよかわ)というのは、古代律令制の三河国宝飯郡豊川郷から由来する。平城宮出土木簡に「参河国寶飯郡豊川郷」。長岡京出土木簡に、「延暦10年豊川里」。鎌倉時代になって、鎌倉街道が整備されると、豊川宿として機能した。鎌倉時代の史書では、『海道記』に豊河の宿。『東関紀行』に「豊川といふ宿」。と記載される。そして、現在の愛知県豊川市に至る。
濁音の豊川(とよがわ)は、古代律令制では飽海川(あくみがわ)と呼んだ。この飽海(あくみ)というのは、渥美郡のことで、7世紀までは、飽海(あくみ)と書いたことが835年(承和5年)の木簡(太政官符)から確認されている。その後、中世になって、室町時代から江戸時代まで吉田川と呼称したことが『三河国聞書』から確認できる。1622年(元和8年)成立の『三河物語』においても、吉田河と記載されている。1849年(嘉永2年)の『徳川実紀』においても、吉田川と記載されている。愛知県図書館所蔵の江戸後期の三河国図においても、吉田川と記載されている。
中世から江戸時代まで、豊橋は吉田(三州吉田)と呼ばれていた。明治2年6月の版籍奉還で、吉田を豊橋と改めた。明治2年9月に成立した伊那県足助庁作成の三河国全図に、豊川(とよがわ)と記載されている。
※地名の変遷と共に、川の呼称が変化していることがわかる。
※なお、古代から豊川(とよがわ)と呼ばれていたと主張する資料は、すべて明治以降のものであり、注意が必要である。(上記の史料から、律令制の大和朝廷は、飽海川。江戸幕府は、吉田川。と間違いなく呼称している。)
地理
愛知県の南東部に位置している。渥美半島の付け根部分であり、豊橋平野の上に市域が広がっており、高い山はほとんどない(主な山は北東部の石巻山(358メートル)など)。南部は高師原、天伯原と呼ばれる台地となっている。市内を、豊川、梅田川などが流れ、北東部は低い山々(弓張山系)が存在し、静岡県との境界を形成している。市西部の豊川、梅田川河口は三河湾と、市南部沿岸は太平洋と接している。
太平洋岸は表浜海岸(遠州灘)と呼ばれ、ウミガメの産卵で知られる。三河湾と接する地域は大規模な埋め立て地があり、工業地の他、神野新田など穀倉地帯となっている
中心部を東海道が横断し、吉田宿、二川宿など古くから城下町、宿場町として栄えた。現代でも東海道沿いに中心部を国道1号、JR東海の東海道新幹線、東海道本線、名古屋鉄道の名古屋本線が通っている。三河湾岸の三河港は、自動車や貨物などの輸出入の重要拠点となっている。
気候は比較的温暖であり、降雪も少ない。太平洋(遠州灘)に面しているため、風が強い傾向がある。
隣接している自治体
歴史
原始時代から弥生時代まで
縄文時代の遺跡として嵩山(すせ)の蛇穴遺跡など数件が、弥生時代の遺跡として瓜郷遺跡がある。市域に流れる川の流域には4世紀から7世紀頃の古墳(円墳、前方後円墳)も多く発見されている。なお、豊橋市牛川町で1957年と1959年に約十万年前のものとされる人骨が発見され、牛川原人(牛川人)として紹介されていたが、2001年にお茶の水女子大学の教授である松浦秀治がその骨をフッ素年代測定法で調査したところ、ナウマンゾウのすねの骨という結果が出た。そのため人骨である可能性は低いとされる。
奈良時代から鎌倉時代まで
律令制(国郡制)の下で、三河国の渥美郡、宝飯郡、八名郡に属したとされる。律令制の下で班田制が敷かれていたとされる遺跡が、嵩山や賀茂などで見つかっている。また、初期の東海道が設置され、飽海川(あくみがわ、現在の豊川)河口には渡し場が置かれた。これは飽海川の渡しと呼ばれ、後に志香須賀(しかすが)の渡しとして『枕草子』などでも詩が詠まれており、よく知られている。飽海川はその後、吉田川に改称され、明治以降に豊川に改称された。「豊川」とは、現在の豊川市にあった古代集落・宝飯郡豊川郷を指す。
室町時代から安土桃山時代まで
現在の豊橋市域内の在地有力勢力は、八名郡石巻の西郷氏(岡崎の三河守護代西郷氏と同族)のみ要出典。しかしながら、交通の要衝のこの地に目を付けた戸田全久(宗光)が二連木城(豊橋市仁連木町)を築城(1493年)、その後、西方の至近距離に、牛窪城(豊川市)の牧野古白(成時)が今橋城(豊橋市今橋町)を築城した(1505年)。
また、この当時、東三河に今川氏の影響力が及んでおり、北条早雲を総大将とする今川軍が、三河国に侵攻したが、松平長親の前に敗北している。
やがて、西三河をまとめた松平清康が東三河に侵攻、吉田城に篭る牧野信成、宇利城に篭る熊谷氏が防戦したが、他の東三河の勢力も清康に降参し、ここに初めて、松平家による三河国統一が実現される。 しかしながら、守山崩れによって松平清康が横死したため、三河国は大混乱に陥り、東から今川義元、西から織田信秀が侵攻し、三河国は近隣国の植民地化する。松平氏は、今川氏の傘下となる。
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康は岡崎城に入城し、。今川氏真を見限って独立を宣言。1565年(永禄8年)3月に吉田城が開城し、所属の今川軍と主将小原鎮実は遠江国に撤退した。家康は、吉田城に、重臣の酒井忠次を入城させ、東三河の旗頭となした。そして、翌1566年(永禄9年)5月には牛久保城(豊川市)に残存勢力を結集していた牧野氏などの土豪なども家康の降伏の勧めに応じて、三河国は家康によりほぼ統一された。
1590年(天正18年)、徳川家康が駿府から江戸に遷ると、池田輝政が吉田城主(15万2千石)となり、城の拡張や城下町の形成、吉田川(豊川)への吉田大橋(現在の豊橋)の建設(酒井忠次による土橋から木橋へ)などが行われた。
江戸時代
関ヶ原の合戦の後、江戸時代に入ると、吉田藩が設置され、3万石から8万石程度の譜代大名が治めた。吉田は城下町、湊町(吉田湊)、宿場町(吉田宿)として栄え、二川(豊橋市二川町、大岩町)も二川宿として栄えた。吉田大橋(豊橋)は東海道におけるその重要性から、江戸幕府直轄の橋として管理された。 1752年には、藩主松平伊豆守信復(のぶなお)により吉田城内に藩校時習館が置かれた。
幕末になると、1867年旧7月27日、牟呂村(豊橋市牟呂町)で伊勢神宮のお札が降ったと言われる。江戸時代、最後の藩主は、大河内長沢松平家の松平伊豆守信古(のぶひさ)である。そのため、今の市役所の徽章が大河内長沢松平家の徽章になっている。
明治から第二次大戦まで
版籍奉還直後の1869年旧暦6月、吉田は豊橋と改名された。1871年8月、廃藩置県により豊橋県となり、11月には額田県、1872年に愛知県に統合された。大区小区制が施行され、豊橋は第十五大区として管理され、愛知県の豊橋支庁が置かれた。1878年制定の郡区町村編制法により郡や町村が置かれ渥美郡豊橋町となり、1889年に郡制及び町村制を施行し、1906年には豊岡村と花田村を合併し市制を施行した。1932年に、下地町、高師村、牟呂吉田村、下川村、石巻村多米を編入した。
1888年に東海道線が開通し豊橋駅が開業した。渥美線は1924年に高師~豊島間の開業後、1925年までに三河田原まで開業した。市電(豊橋鉄道東田本線)は1925年に開業した。1931年、豊橋初の百貨店として豊橋丸物(広小路通。1950年に駅前大通に移転、1973年に西武との提携で豊橋西武となる)、豊橋市公会堂(八町通)が竣工した。
1871年、吉田城趾に名古屋鎮台が置かれた後、1885年には大日本帝国陸軍歩兵第十八連隊が置かれたほか、1908年から1925年までは高師原に帝国陸軍第15師団が置かれるなど軍都として繁栄した。また明治から昭和の初めまでは養蚕業、製糸業が非常に盛んであった。太平洋戦争の最中には、1944年12月7日の東南海地震と、1945年6月20日のB29、136機による空襲(豊橋空襲)によって、市街地の7割が焼失した。
戦後
終戦後、将来の発展を見越し市街地の大規模な区画整理が行われ、又食料対策として高師原、天伯原の開墾と神野新田等の自作農化が行われた。一方で、日本紡績(現・ユニチカ)を始めとした工場誘致活動を積極的に行い、郊外に工場が建てられていった。農工業の発展で新たな水源が求められていた中、1968年には豊川用水が完成し農業・工業の発展に特に寄与した。
1970年代から30年にも渡って、全国の都市の中で農業粗生産額第一位を続けた。1959年に完成した豊橋港(現在は三河港の一角)は、三河港の中心として発展した。1980年代以降、市街地の郊外化が進んだ。1999年、中核市に指定された。
年表(明治維新以後)
- 1869年 版籍奉還直後、吉田から豊橋と改名。
- 1878年 郡区町村編制法施行、渥美郡豊橋町となる。
- 1888年 豊橋駅開業。
- 1889年 町村制施行。
- 1895年 渥美郡豊橋町は渥美郡豊橋村を合併する。
- 1899年 動物園開園。
- 1906年 市制施行。
- 1925年 市電(豊橋鉄道東田本線)開業。
- 1932年 宝飯郡下地町、渥美郡高師村、牟呂吉田村、八名郡下川村、石巻村多米を編入。
- 1944年 東南海地震発生。
- 1945年 豊橋空襲。
- 1955年 3月1日 宝飯郡前芝村、渥美郡二川町、高豊村及び老津村ならびに八名郡石巻村を編入。
- 1955年 4月1日 八名郡双和村のうち大字賀茂の区域と渥美郡杉山村のうち大字杉山の区域を編入。
- 1959年 豊橋港完成(現在は三河港の一角)。
- 1968年 豊川用水完成。
- 1999年 中核市移行。
- 2006年 市制施行100周年。(2005年8月~2006年12月 「とよはし100祭」開催)
行政
歴代市長
- 初代(1908年~1912年) 大口喜六
- 2代(1912年~1913年) 高橋小十郎
- 3代(1913年~1914年) 柳原弁吾
- 4代(1914年~1916年) 大口喜六
- 5、6代(1917年~1923年) 細谷忠男
- 7代(1924年~1925年) 吉川一太郎
- 8代(1926年~1930年) 田部井勝蔵
- 9代(1930年~1934年) 丸茂藤平
- 10代(1934年~1938年) 神戸小三郎
- 11代(1938年~1940年) 大口喜六
- 12代(1941年~1945年) 近藤寿市郎
- 13代(1945年~1946年) 水野保
- 14代(1946年~1947年) 横田忍
- 15、16代(1947年~1952年) 大竹藤知
- 17、18代(1952年~1960年) 大野佐長
- 19~22代(1960年~1975年) 河合陸郎
- 23、24代(1975年~1983年) 青木茂
- 25~28代(1983年~1996年) 高橋アキラ
- 29~31代(1996年~) 早川勝
財政状況
2000年(資料で確認できる範囲)から2005年まで、普通交付税交付団体であった。「三位一体の改革」により交付税の削減が行われ、2006年度には交付税不交付団体になった。
政治
市政
豊橋市役所 〒440-8501 豊橋市今橋町1番地
市議会
市議会議員の定数は40人。定例議会は3月、6月、9月、12月に開催される。
県政
県政の豊橋市における拠点
- 愛知県東三河総合庁舎
- 〒440-8515 豊橋市八町通五丁目4番地
- 通称、東三事務所(とうさんじむしょ)
愛知県議会議員
豊橋市から選出される愛知県議会議員の定数は5人である。
警察
- 豊橋警察署 豊橋市八町通三丁目8番地
国政
小選挙区は愛知15区にあたる。
司法
裁判所
3つの裁判所が同じ庁舎に存在する。所在地は豊橋市大国町110番地。地方裁判所と家庭裁判所の豊橋支部の管轄範囲は、豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、田原市、宝飯郡、北設楽郡である。また簡易裁判所の管轄は豊橋市、豊川市、蒲郡市、宝飯郡である。
検察庁
検察庁はすべて豊橋市大国町111番地の「豊橋合同庁舎」の最上階である。
弁護士会
愛知県弁護士会東三河支部 (会館所在地、豊橋市大国町83番地)
刑務所
名古屋刑務所豊橋支所が今橋町に置かれている。
経済
かつては、製糸・紡績業が盛んで、戦前の製糸生産量は全国一であった。
キャベツや白菜などの野菜の生産が盛んであり、農業産出額は約500億円に上り、隣接する田原市に次いで県内第2位、全国でも5番目となる。(農林水産統計、平成17年)
市下に本社を置く企業
- フォルクスワーゲン グループ ジャパン
- 東海漬物(「きゅうりのキューちゃん」が有名。)
- サンビシ醤油、つゆ等の調味料
- 永井海苔
- サーラ・コーポレーション
- 武蔵精密工業
- 精文館書店
- 豊橋鉄道
- ヤマサちくわ
- めいほうぐるーぷ
- オーギヤグループ
- 旭精機
三遠南信
豊橋市を初めとする東三河地方は、地理的に政令市の浜松市など遠州西部や、飯田市などの伊那地域(長野県南端部)との交流関係がある。三遠南信という地域圏を自称している。
在住外国人
近くの豊田から浜松にかけての自動車産業を中心に労働力の需要が高いため、ブラジルを初めとした南米系の外国人労働者が増え、2007年5月1日現在の豊橋市における外国人登録者数は19,376人にのぼる。愛知県内では、名古屋市(約6万)に次いで外国人が多い。人口に占める外国人比率は、5%に達する。