文化大革命
文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年から1977年まで続いた、「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動。略称は文革(ぶんかく)。
目次
概要
政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動という名目で開始されたものの、実質的には大躍進政策の失政によって政権中枢から失脚していた毛沢東らが、中国共産党指導部内の実権派による修正主義の伸長に対して、自身の復権を画策して引き起こした大規模な権力闘争(内部クーデター)として展開された。
文化大革命のきっかけとなったのは毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目的として林彪に与えた指示であり、これに基づいて林彪が主導して開始されたとされている。その後、林彪と毛沢東の間に対立が生まれ、林彪による毛沢東暗殺未遂事件が発生(林彪事件)。林彪は国外逃亡を試みて事故死するが、彼の死後も「四人組」を中心として、毛沢東思想に基づく独自の社会主義国家建設を目指し、文化大革命が進められた。しかしながら、実質的には中国共産党指導部内の大規模な権力闘争であり、これが大衆を巻き込んだ大粛清へと発展していった。1976年に毛沢東が死去、その直後に四人組が失脚し、中国共産党が「四つの近代化」(のちの改革開放)路線に転換して、文革は終息した。
党の権力者や知識人だけでなく全国の人民も対象として、紅衛兵による組織的な暴力を伴う全国的な粛清運動が展開され、多数の死者を出したほか、1億人近くが何らかの被害を被り、国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらすこととなった。
犠牲者数については、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期3中全会)において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されている。しかし、文革時の死者数の公式な推計は中国当局の公式資料には存在せず、内外の研究者による調査でもおよそ数百万人から1000万人以上と諸説ある。
文化大革命においては、まず共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医師、弁護士などの知識人等が弾圧の対象となった。その後、弾圧の対象は中国共産党員にもおよび、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。
文化大革命による行方不明者を含めた犠牲者数は、推計で数百万人から1000万人以上といわれている。
背景
1966年から10年にわたって吹き荒れた中華人民共和国の政治混乱の背景には、
など、さまざまな原因が考えられる。
文革の展開
文化大革命は大きく3段階に分けられる。第1段階は1966年5月16日の「五一六通知」伝達から1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言するまで。第2段階は1973年8月の第10回党大会における林彪事件の総括まで。第3段階は毛沢東の死の直後、即ち1976年10月6日の四人組逮捕までである。
期間については、林彪・四人組ら文革派は1969年の文革呼号の成功までが文化大革命であり、その後は文革路線を維持する継続革命段階に入ったとしているが、一般には周恩来を標的として1976年まで続いた批林批孔運動の時期も含める。
発端
中華人民共和国での思想統制は1949年の建国前後にすでに始まっていたが、1960年代前半の中ソ論争により中華人民共和国国内で修正主義批判が盛んになったため、独自路線としての毛沢東思想がさらに強調されるようになっていった。
1965年11月10日、姚文元は上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。
1966年5月、北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10人を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。
1966年5月16日の「通知」(五一六通知)や同年8月の第8期11中全会での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。
林彪の煽動
第8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らにより「中央文化革命小組」が結成されて取って代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。その報告には、
党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面を暴き出すよりほかない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級を覆す政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない
—
と書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争としてとらえていたことがわかる。なお、前半部分は1965年に周恩来が政治報告で意見した内容と同一であり、当時の毛沢東の認識と一致している。
毛沢東はのちに「実権派は立ち去らねばならないと決意したのはいつか」とのアメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーの問いに対し、「1965年12月であった」と答えている。
紅衛兵の結成
毛沢東は大衆の間で絶大な支持を受け続けていたが、1950年代の人民公社政策や大躍進政策の失敗によって1960年代には指導部での実権を失っていた。文化大革命とは、毛沢東の権威を利用した林彪による権力闘争の色合いが強いが、実権派に対して毛沢東自身が仕掛けた奪権闘争という側面もある。特に江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めた「五人組」であったとする見方もある。
原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。
しかし次第に毛沢東思想を権威として暴走した彼らは、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘を繰り広げ、共産党内の文革派ですら統制不可能となり、1968年以後、青少年たちは農村から学ぶ必要があるとして大規模な徴農と地方移送が開始された(上山下郷運動、一般的には下放と呼ばれる)。
紅衛兵運動から下放収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受け、これらの青少年が国家を牽引していく年齢になった現在も、中華人民共和国に大きな悪影響を及ぼしている。
実権派打倒
「実権派(「走資派」とも呼ばれた)」と目された鄧小平や劉少奇などの同調者、彭徳懐・賀竜らの反林彪派の軍長老に対しては、紅衛兵らによって徹底的な中傷キャンペーンが行われた。
批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが日常的に行われた。実権派とされた者は三角帽子をかぶらされ町を引き回されるなどした。吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉晗、儲安平などは自ら命を断った。また、劉少奇や彭徳懐をはじめとする多くの人物が、迫害の末にまともな治療も受けられないまま「病死」していった。
革命委員会
実権派(走資派)らを打倒するために文革派(造反派)らによって全国各地に「革命委員会」が成立した。これにより地方の省、自治区、市などの地方機関や地方の党機関から革命委員会に権力が移譲されていったが、上海市や武漢市など一部の地方では実権派と文革派との間で奪権闘争と呼ばれる衝突事件も発生した。
殺戮と弾圧
文化大革命中、各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上ともいわれている。またマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
内モンゴル自治区においても権力闘争に起因し多くの幹部・一般人を弾圧、死に追いやった内モンゴル人民党事件が起こったほか、旧貴族階級などの指導階級を徹底的に殺戮した。
毛沢東の1927年に記した
革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。
—
という言葉が『毛主席語録』に掲載され、スローガンとなって、多くの人々が暴力に走った。だが、中華人民共和国政府はこの事に対する明確な説明あるいは謝罪を行っていない(1996年に中国中央電視台が文革を反省する特別番組を放送している)。
林彪事件
林彪は1966年の第8期11中全会において党内序列第2位に昇格し、単独の副主席となった。さらに1969年の第9回党大会で、毛沢東の後継者として公式に認定された。しかし、劉少奇の失脚によって空席となっていた国家主席の廃止案を毛沢東が表明すると、林はそれに同意せず、野心を疑われることになる。
1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。
1971年9月、南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判し、これを機に林彪とその一派が毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。9月13日、中国人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機でソビエト連邦へ逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、人民解放軍に地対空ミサイルで撃墜された説がある。
なお、逃亡の通報を受けた毛沢東は「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ、好きにさせれば良い」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪され、批林批孔運動が起こされる。
批林批孔運動
1973年8月から1976年まで続いた「批林批孔運動」は、林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動。中国の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」とする。こうした「儒法闘争」と呼ばれる歴史観に基づいて中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)。
この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引きずり下ろそうとする四人組側のもくろみで行われたものであり、学者も多数孔子批判を行ったが、主張の学問的価値は乏しく、日本の学界では否定的な意見が強く、同調したのはわずかな学者に止まった。武則天が善人の中に入っているのは江青が自らを武則天になぞらえ、女帝として毛沢東の後継者たらんとしていたからだといわれる。
小説家の司馬遼太郎が行った現地リポートによれば、子供に孔子のゴム人形を鉄砲で撃たせたりもしていたという。
幼少の頃に文化大革命に遭遇し、後に日本に帰化した石平は、「この結果、中国では論語の心や儒教の精神は無残に破壊され、世界で屈指の拝金主義が跋扈するようになった」と批判している。
水滸伝批判
1975年、民衆に根強い人気のあった水滸伝について、当初の首領である晁蓋を毛沢東は自らと重ね合わせ、晁盖が途中で死亡し、後を継いだ宋江が朝廷に投降したストーリーを批判した。さらに、四人組は鄧小平を宋江に比定し、「水滸伝批判」を鄧小平攻撃に用いた。
革命の輸出路線
ソ連等、国交がある国の多くとも関係が断絶し、外交使節団の交換など交流があった国はアルバニアなど数カ国に過ぎず、10年以上の実質的な鎖国状態を招いたため、中華人民共和国の文化や経済の近代化は大きく遅れることになった。
このような中で、紅衛兵が長年の盟友的存在である北朝鮮の金日成主席を「修正主義者」と批判し、中朝関係が冷え込んだことがあった。なお、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の支配下で、(時期的には中国の内政では文革の終結時期以降にも及ぶが)自国民の虐殺を行った当時のカンボジア(民主カンボジア)は、文革中から中華人民共和国の親密な友好勢力であった。
また、このような鎖国ともいえる状況下にあったために、諸外国、特に西側諸国における文革に対する報道や評価は混乱を極め、その中で朝日新聞の中国報道問題や、日本の一部の左派文化人のような誤報、誤評価も相次いだ。
日本への文革の輸出
中国共産党と日本共産党との関係にも亀裂が生じた。毛沢東は「日本共産党も修正主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文化大革命をやれ」と革命の輸出路線に基づく意見を述べた(無論「意見を述べた」だけではなく、この毛沢東の号令を合図に中国共産党と中国政府機関を動員した対日干渉が始まった。日中貿易、北京放送、「日本の真の共産主義者」への国家機関からの財政援助など)。
日本共産党は「内政干渉だ」として関係を断絶し激しい論争となった。その一方、日本共産党内でも日本共産党路線に反対し、文革を賛美し、日本での文革引き写しの暴力革命持ち込みを掲げた分派が生まれ、発覚と同時に党から除名されていった。その最初のものが、山口県委員会がほぼ丸ごと移行した左派の日本共産党である(”県委員”機関クラスの知己仲間内のことであり、同県の党組織は即座に再建されている)。
ほかにも当時の日本において毛沢東思想が新左翼の一部で流行していた。山岳ベース事件やあさま山荘事件を起こした連合赤軍も毛沢東思想に魅了されており、委員長の森恒夫は、拠点になる秘密基地を作るための関東の山岳地帯への移動を、毛沢東にならって長征と称すほどであった。
日本共産党は中国共産党側の対日内政干渉態度への自己反省がないことから関係は断絶していたが、1998年に、日本共産党と中国共産党は「誤りを誠実に認めた中国共産党側の態度」によって32年ぶりに関係を修復した。
終結
1970年代に入ると、内戦状態にともなう経済活動の停滞によって国内の疲弊はピークに達し、それに合わせるかのように騒乱は次第に沈静化して行った。
そのような中で、ソ連との関係が悪化したままの中華人民共和国と、ベトナム戦争の早期終結を目的に北ベトナムをけん制しようと目論んだアメリカが秘密裏に接近し、それを機にアメリカをはじめとする西側諸国の関係改善が進んだ。その結果、1971年には従来中華民国の中国国民党政府が保有していた国際連合における「中国の代表権」が、一部の西側諸国の支持すら受けて中華人民共和国に移り(国際連合総会決議2758)、翌1972年にはアメリカのリチャード・ニクソン大統領が訪中し毛沢東と会談を行ったほか、日本の田中角栄首相も中華人民共和国を訪問、第二次世界大戦以来の戦争状態に終止符が打たれて日本との間で国交が樹立されるなど、文革中の鎖国とも言えるような状況も次第に緩和されていった。
その後1976年には、文革派と実権派のあいだにあって両者を調停してきた周恩来、この混乱の首謀者であった毛沢東が相次いで死去、新しく首相となった華国鋒は、葉剣英、李先念、汪東興等の後押しを受け同年10月6日、四人組を逮捕した。
翌1977年7月、失脚していた鄧小平が復活し、同年8月、中国共産党は第11回大会で、四人組粉砕をもって文化大革命は勝利のうちに終結した、と宣言した(ただし、左派勢力に配慮し「第一次文化大革命」と表現し、「第二次文化大革命」が将来ありうるような表現とした)。中共中央党史研究室著『中国共産党歴史』など中国の公式刊行物は、1976年10月6日をもって文革終結としている。(一部には、終結が公式に宣言された1977年8月を文革終結とする見解もある)
1981年1月23日には、最高人民法院特別法廷(いわゆる林彪・四人組裁判)で、四人組と林彪グループに対し、執行猶予付きの死刑から懲役刑の判決が下された。
文革の評価
日本における評価
文化大革命が開始された当初は、日本には実態がほとんど伝わっていなかった。だが、1966年4月14日、全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席上で郭沫若が「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と過酷なまでの自己批判をさせられたことが報じられると、川端康成、安部公房、石川淳、三島由紀夫は、連名で抗議声明を発表した。
声明において、
と述べられ、権力の言論への介入を厳しく批判した。「われわれは、左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものである・・・学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する」
– 「参考作品1」(共同執筆)『三島由紀夫全集』35巻P635(新潮社『三島由紀夫決定版全集36巻』P477)
三島の友人の劇作家・評論家の福田恒存も『郭沫若の心中を想ふ』(文藝春秋『福田恒存全集第6巻』に所収)でその言動を「道徳的退廃」として批判したが郭自身が北京で行われた文芸会議で「安全地帯にいる者のお気楽な批判だ」と反論している。
一方、当時は海外メディアが殆ど閉め出された中、朝日新聞などのごく一部の「親中派」と呼ばれるメディアは中華人民共和国国内に残る事が出来た。朝日新聞は、当時の広岡知男社長自らが顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載したが、そこには文化大革命の悲惨な実態は全く伝えられないままであるだけでなく、むしろ礼賛する内容であった。
しかしその後文化大革命の悲惨な実態が明るみに出ると、全否定的な評価が支配的となった。それまで毛沢東や文化大革命を無条件に礼賛し、論壇や学会を主導してきた安藤彦太郎、新島淳良、菊地昌典、秋岡家栄、菅沼正久、藤村俊郎、西園寺公一らの論者に対し、その責任を問う形で批判が集中している。朝日新聞の中国報道問題に詳しい。
批判者としては、自由主義の立場に立って、反共産主義、反マルクス主義を唱えた中嶋嶺雄、西義之、辻村明らがおり、中国封じ込め政策にも支持を表明した。一方で、丸山昇、野沢豊らの日本共産党主流派に近いマルクス主義者も「礼賛派」がいかに事実をねじ曲げていたかを厳しく批判した。
評論家の大宅壮一は、幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れている様子を「ジャリタレ革命」と批判した。小説家の司馬遼太郎は当初文化大革命に肯定的であったが、中華人民共和国を訪れた際、子供に孔子に見立てた人形を破壊させる光景を目の当たりにし転向し反文化大革命、反中国共産党に転じることになる。
加々美光行は、批判者たちは自由主義と共産主義とで正反対の政治的ないし思想的立場にありながら、そこには毛沢東の政治的保身に発する権力闘争以上のものでないとして歴史的、思想的意義を認めない立場に立っている点で相似していることを指摘したうえで、「文化大革命は、実際に社会主義理念をめぐる対立に由来するものであり、それゆえ、表面的にはともかく深層においては現代中国を呪縛し続けているのであって、文化大革命が提起しながら未決着のまま残された課題は多く、今後、中国の社会主義の動向、とくに民主化をめぐってその課題は再燃するであろう」と予測している。
現在も「文化大革命は世界同時革命の一貫であった」として肯定的に評価する少数論者として、新左翼内の文化的過激派であった平岡正明がいる。また民主党の仙谷由人は与党として行った官僚の更迭や事業仕分けについて、「政治の文化大革命が始まった」などと発言し、文化大革命を肯定的な比喩として用いたととれる発言をした。
文化大革命では日中戦争で親日と見られた人物や日系中国人も多くが国外に追放もしくは処刑された。
後の中国共産党の対応
1981年6月に第11期6中全会で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議(歴史決議)」では、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」としている。
毛沢東についても、「七分功、三分過」と言う鄧小平の発言が党の見解だと受け止められている。一応教科書にも取り上げられるが、中華人民共和国は現在も実質上の言論統制下にあるため「四人組が共産党と毛沢東を利用した」という記述にとどまった。
2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があったために、中華人民共和国内では一切報道されなかった。このように「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。
2012年3月15日、重慶で文革時代を肯定する「唱紅」運動を展開していた薄熙来が失脚したが、それに先立つ3月14日、全人代閉幕後の記者会見の席上で温家宝首相は、薄を批判するために「文化大革命のような歴史的悲劇が再び起きることを危惧する」と文革を引き合いに出した。温の発言は「文革が歴史的悲劇である」ということが共通認識であるという前提でなされており、さらに「中国共産党には派閥はない。一枚板である」という原則に従えば、文革終結から36年を経た2012年の時点で「文革は歴史的悲劇」というのが中国共産党での共通認識になっていると言える。
具体的な行為
プロパガンダ
- 紅衛兵は、街路や病院などの名前を、勝手に「革命的」なものに変更して回った。例えば、ソ連大使館があった揚威路は「反修(反修正主義)路」、アメリカの資金で建設された協和医院は「反帝(反帝国主義)医院」など。標識が撤去できなかったために変名を免れた道路もある。
- 文革中の中華人民共和国の切手は「文革切手」と呼ばれ、毛沢東語録を中心とする「革命的」題材で埋め尽くされ、スポーツ関係の記念切手に肝心のスポーツ場面が全くなくプロパガンダに終始していたこともあった。元々発行数が少なかった上に当時切手収集が禁じられていたこと、ほとんどの国と国交を断っていた関係で外国への郵便も少なかったことから、現存数は少ないとされる。現在中華人民共和国では切手収集家が増加しており、この時代の切手は高値が付いている。なお、この当時発行された「全国の山河は赤一色」という切手は赤く塗られた中国の地図が図案となっていたが、台湾だけが塗り漏れにより白くなっていた。郵政当局は大慌てで回収したものの、実際に発売された切手があり、2009年にはオークションで日本円で4300万円という中国切手では破格の高値で落札された。
- 四川省にある麻婆豆腐の発祥の店として知られる「麻婆飯店」は封建的であるとして「麻辣飯店」と改名を強要された。また、北京ダックの「全聚德」も「北京烤鴨店」と改名された。
- 宋任窮の娘で北京師範大学女子附属中学在学中の宋彬彬は1966年8月18日の紅衛兵大集会で毛沢東に紅衛兵の腕章をつけたが、その際毛に「礼儀正しいだけではいけない(彬という字には礼儀正しいという意味もある)、武も必要だ」と指摘され、二日後の光明日報に「私は毛主席に赤い腕章をつけてさしあげた」(我給毛主席戴上了紅袖章)と題する署名文章を発表し、「宋要武」と改名したことを明らかにした。人民日報など他のメディアは宋の文章を次々に転載、放送し、このことは文革開始期の風潮を象徴するエピソードとして広く伝えられた。(文革終結後、宋彬彬は宋要武と改名したことは一度もなく、光明日報記者の取材は受けたが文章は自分が書いたものではないと、ドキュメント映画「八九点鐘的太陽」(Morning Sun)中のインタビューで述べている。)
個人崇拝
- 1968年10月、パキスタン外相からマンゴーを贈られた毛沢東は、北京の主要工場に1個ずつ分け与えた。その一つ北京紡績工場では、工場関係者がマンゴーを祭壇に設けて毎日一礼した。マンゴーが腐りかけると果肉をゆで、その汁を従業員全員に恭しく飲ませ、その後マンゴーのレプリカを祭壇に飾った。
- 毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。
- 紅衛兵は、毛沢東が学校の休校を命じると、自らの学校を破壊し教師たちに暴行を加えたり教科書を焼き捨てた。その後学校が再開されると、教える人や教材もない有様で、中華人民共和国の発展に大きな障害となった。
吊るし上げ
- 「批判闘争大会」と呼ばれる吊し上げは町の広場やスタジアムで大勢の群衆を集めて行われた。批判される者に対して「反革命分子」のプラカードと三角帽をつけさせ、「ジェット式」と言う椅子に立たせて上半身を折り曲げる姿勢を数時間とらせた。その間に罵詈雑言を浴びせたり、墨を頭からかけたり、頭髪を半分剃りあげるなど肉体的精神的に痛めつけた。中には長時間の暴行に及ぶこともあった。また、辱めをあたえることもあり、1967年4月、劉少奇夫人の王光美は外国訪問の際に着用した夏用の旗袍を無理やり着せられた上にピンポン玉のネックレスを首からかけさせられ、ブルジョワと非難された。
- 当時の中華人民共和国の新聞は、毛沢東語録の引用や毛沢東の写真に占領され、その新聞を焚き点けに使ったり尻に敷いたことで吊るし上げられた者が多数いた。
旧文化の破壊
- 紅衛兵らは旧思想・旧文化の破棄をスローガンとした。そのため、中国最古の仏教寺院である洛陽郊外の白馬寺の一部が破壊されたり、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれて万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたりした。
- 陶磁器や金魚、月餅など古い歴史をもつ商品の生産や販売まで「旧文化」とされ、職人や関係者は帝国主義者として吊るし上げられた。景徳鎮の窯や浙江省の養魚場は破壊され、陶磁器が割られたり金魚が殺されたりした(一方で毛沢東などの指導者層は景徳鎮産の陶磁器を愛用した)。文革の結果こうした伝統産業は壊滅的打撃を受け、その歴史は断絶。生産手段や技術もほとんど失われたが、文革後一部では日本の関連業界や生産者の支援で再興されている。
- 古くからのしきたりも廃止されたほか、麻雀や象棋、闘蟋(とうしつ)などの賭けを伴うゲームも禁止された。一方で婚前交渉で妊娠した女性が自殺に追いこまれたり、多情な女性が軽蔑・攻撃されるなど古い倫理観は残ったと、ユン・チアンは著書で指摘している。
- 博物館の館員や美術店の店員は文化財を破壊活動から守るために、文化財に毛沢東の肖像画や語録を貼り付けて回ったという。そうすることで紅衛兵も破壊活動に出られなくなったという。
文化大革命は、何故10年間も継続したか
文化大革命を学習している私に、ある日本人が質問をした。
「何故、文化大革命も10年間も続いたのでしょう。誰か止めることが出来なかったのですか?」
実は、この質問は、核心をついたものであり、私も咄嗟には答えることが出来なかった。そもそも文化大革命とは、劉少奇・鄧小平などの「実権派」と呼ばれる人々の一掃を図るために、毛沢東が1966年に発動したものであった。
当時、毛沢東は、相当に危機的な状態であった。何故ならば、人海戦術で大量製鉄をし、農村を人民公社に移行させ、食料の大増産と工業化を一気に進めてしまおうという「大躍進政策」を取っていた。
5年後に、イギリスを抜き、10年後にはアメリカを追い抜こうと当時は、意気込んでいた。
人民公社については、簡単に説明するば、農業の協業化さらには、農村の行政機関も一体化するものであった。しかし、実際は、鉄は実際に用いることが出来ない屑鉄を大量に生み出し、他方、食料については、鉄の生産にあけくれていたことと、自然災害なども加えて、なんと、2000万人の餓死者を出す悲惨な結果に終わった。
このことは、毛沢東の権威を著しく損ない、党の権限は、劉少奇・鄧小平などの毛沢東批判派にうつっていた。だから、当初、毛沢東は、実権派をつぶせばそれで良いと考るのは、当然のことと言えるだろう。
では、中国は極めて長期間、何故ありもしない敵を内部につくりあげ、闘争にあけくれたのであろうか。
その秘密は、「文化大革命」の指導理論である「革命継続論」にあると思う。この理論は、社会主義革命は、既存の王朝、ブルジュワ政府を打倒するだけでは完了しないというもので、革命を果たせば、内部の資本家に肩入れする人々を打倒しなければならないという考えであった。この革命継続論は、国民党の残党、一部の地主を粛清するために、しばしば利用されていたが、文化大革命時代には、「革命継続論」の普及活動を全世界にも展開したのであった。
毛沢東の発案であるこの思想は、右派にも左派にも簡単に利用できるもので、毛沢東を支える道具にもなるし、また逆にゆさぶる道具にもなるもので、体制側にも非体制側にも恐い思想なのだ。
さらには、当初から中国共産党に対する不平不満が往々にしてあった。例えば、現在でも中国の新聞紙上を賑わす共産党幹部の腐敗の問題が、中国人民にとっては大いになる怨嗟の的であった。
発動したのは、毛沢東であるけれども、別の側面では、中国人民の腐敗幹部に対する反旗ということもあった。この毛沢東理論と民衆の不満が混在し、誰も止められない永久革命を続けることになったというところではないだろうか。
脚注
参考文献
- 矢吹晋(著)『文化大革命』講談社(講談社現代新書、1989年10月、ISBN 4061489712)
- 厳家祺・高皋著(著)、辻康吾(訳)『文化大革命十年史 <上下>』(岩波書店、1996年12月、ISBN 4000028669・ISBN 4000028677)
- 丸山昇(著)『文化大革命に到る道――思想政策と知識人群像』(岩波書店、2001年1月、ISBN 4000246062)
- 加々美光行(著)『歴史のなかの中国文化大革命』(岩波書店(岩波現代文庫)、2001年2月、ISBN 4006000448)
- 竹内実(著)「現代中国における古典の再評価とその流れ」『中国の古典名著・総解説』(自由國民社、2001年6月、ISBN 4426602084)
- ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著『マオ――誰も知らなかった毛沢東(下)』(土屋京子訳、講談社、2005年11月、ISBN 4-06-213201-X)
- 宋永毅編 『毛沢東の文革大虐殺 封印された現代中国の闇を検証』(松田州二訳、原書房、2006年)
- 草森紳一 『中国文化大革命の大宣伝(上下)』(芸術新聞社、2009年5月)
- 中国共産党の殺人の歴史