「あさま山荘事件」の版間の差分

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2019年2月7日 (木) 00:27時点における版

浅間山荘

あさま山荘事件または浅間山荘事件(あさまさんそうじけん)は、1972年2月19日に始まる、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器保養所「浅間山荘」において連合赤軍が起こした事件である。

概要

連合赤軍

連合赤軍のメンバー5人(坂口弘坂東國男吉野雅邦加藤倫教加藤元久)が、浅間山荘の管理人の(当時31歳)を人質に10日間にわたって立てこもった。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

2月28日警察が浅間山荘に強行突入。死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出したが、人質は無事保護され、立てこもり犯5人は全員逮捕された。

突入の様子は、テレビで生中継された。その日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ関東地区調べ)に達した。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に渡って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。これは2000年代に入った現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。

なお、現場となった保養所名は「浅間山荘」が正しいが、マスコミが事件発生当時から「あさま山荘」と表記したため、事件名としては一般的に「あさま山荘事件」とされることが多い。以下の文中では保養所名については「浅間山荘」、事件名については「あさま山荘事件」と表記する。

事件の発端

当時、連合赤軍の前身である京浜安保共闘は、真岡銃砲店襲撃事件で猟銃店を襲って銃と弾薬を手に入れて逃走を続けていたため、警察はその行方を追っていた。

警察に追われていた連合赤軍のメンバーは、群馬県の山岳地帯に拠点「榛名山ベース」を構え、潜伏して逃避行を続けていたが、警察の山狩りが開始され、また、外部からの援助等も絶たれ組織の疲弊が進んでいた。1971年の年末から、山岳ベースにおいて仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ猛烈な思想点検・討論を行うようになり、その末に思想改造と革命家になるための「総括」と称しリンチ殺人事件を起こす(山岳ベース事件)などして内部崩壊がすすんでいた。

警察の山狩りによって、榛名山や迦葉山のベースを発見されたことをラジオニュースで知ると、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県を出て隣接する長野県に逃げ込むことにした。長野県ではまだ警察が動員されていないと思われていたためである。

彼らは長野県の佐久市方面に出ることを意図していたが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった(浅間山は群馬県と長野県の県境にあり、軽井沢町と佐久市はその山裾にある)。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、彼らはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なかった。立てこもり先として浅間山荘が選ばれたのは偶然であった。

2月19日の正午ごろ、連合赤軍のメンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人のさつき荘に侵入。台所などにあった食料を食べて休息していたが、捜索中の長野県警機動隊一個分隊が近づいてきたことを察知し発砲した。機動隊側もこれに応戦。発砲した後、『連合赤軍 少年A』によれば、加藤倫教が坂口國男に対し、警官を包囲しパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口國男は何も答えなかったという。15時20分ごろ、連合赤軍のメンバーは銃を乱射しながら包囲を突破し、さつき荘を脱出。さつき荘の近所にあった浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもった。当初、坂口は管理人の妻を人質として、警察に連合赤軍最高幹部の森恒夫永田洋子の釈放と、浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野はそれに反対し、この計画は断念された。車を奪って逃げることを提案したが、車のキーは出掛けている人質の夫が持っているため断念(なお連合赤軍5人の中に、車の運転ができる者はいなかった)。こうして浅間山荘での籠城(ろうじょう)が決まっていった。

当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込み声が出ないようにしたが、その後、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったため解いている。また、警察の突入に備え、山荘内に畳などを持ち込んでバリケードを築いた。

連合赤軍は山荘内の食糧を集め、犯人グループは1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日の食糧備蓄があり、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞き、兵糧攻めは無理と判断し、説得工作を開始した。

2月21日、犯人5人は盗聴や人質に身元が割れないようにコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤兄は「赤城」、加藤弟は「霧島」であった。連合赤軍はアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。途中、人質を解放する案や夜中に山荘を脱出する案も浮上したが、結局最後まで人質を取って籠城する方針は変わらなかった。

警察の対応

初期対応

全国を股にかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。

そして、連合赤軍一派と遭遇し、銃撃戦に応戦した長野県機一個分隊の至急報を受けた長野県警察本部では、全県下の警察署に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路封鎖と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残派の検索を行うため山狩りと主要幹線道路の一斉検問実施、国鉄及び私鉄各線のでの検索など、県警として考えうる限りの対応を実施した。

また、長野県軽井沢にて連合赤軍発見の急報を無線傍受していた警察庁では、直ちに後藤田正晴警察庁長官(当時)の指示により、人質の無事救出(警備の最高目的)・犯人全員の生け捕り逮捕・身代わり人質交換の拒否・火器使用は警察庁許可(「犯人に向けて発砲しない」を大前提とした)などの条件が提示され、長野県警の応援として警察庁・警視庁を中心とする指揮幕僚団の派遣を決定する。

警察庁からは、長野県警本部長・野中庸(いさお)警視監と同格の丸山昂(こう)警視監(警備局参事官)を団長として、警備実施及び広報担当幕僚長に佐々淳行警視正(警備局付兼警務局監察官)、警備局調査課の菊岡平八郎警視正(理事官・広報担当)、情報通信局東野英夫専門官(通信設備及び支援担当)、また、関東管区警察局からも樋口公安部長など数人が派遣されている。

警視庁からは、機動隊の統括指揮を行うため石川三郎警視正警視庁警備部付(警備部のTOP3の役職であり、第一次安保闘争時の警視庁第一機動隊長を務めるなど数々の修羅場をくぐった歴戦の指揮官であって、第二機動隊長の内田尚孝警視とはかつて同じ機動隊で上司と部下の関係だった)、國松孝次広報課長、梅澤参事官(健康管理本部・医学博士)など他にも多数の応援が向かった。

後日、佐々幕僚長の要請で警視庁警備部の宇田川信一警視(警備第一課主席管理官・警備実施担当)が現場情報担当幕僚として派遣される。また、宇田川警視もコンバットチームと呼ばれる警視庁警備部の現場情報班を軽井沢に招集する。

機動隊関係では、事件発生当日の警視庁の当番隊であった第九機動隊(隊長・大久保伊勢男警視)が急遽軽井沢へ緊急派遣された。しかし、東京の環境での装備しかないため、冬期の軽井沢では寒さの対策に苦慮した。そこで追加派遣に二機が選ばれ、先に現着している九機の現地での状況も考慮し、寒冷地対策を徹底して軽井沢に向かった。

第二機動隊が追加派遣された理由については諸説あるが、当番隊として先着していた第九機動隊は当時まだ新設されたばかりであり、石川と内田は元上司と部下の関係で互いに気心が知れており、しかも、警視庁予備隊時代から基幹機動隊として歴戦の隊であるため派遣要請されたのではという説もある。九機も現着した二機と一旦交代し、一度東京へ戻り寒冷地対策をして再び軽井沢に向かった。さらに警視庁からは、防弾対策・放水攻撃実施などの支援のため特科車両隊(隊長・小林茂之警視。東大安田講堂事件時は、佐々警視正や宇田川警視とともに警視庁警備部警備第一課に属しており、機動隊との連絡担当官を務めた)、人質の救助、及び現場での受傷者の救助の任務のため第七機動隊レンジャー部隊(副隊長・西田時男警部指揮)も追加派遣されている。

警察は、当初は犯人の人数もわからず、また人質の安否もわからないまま、対応にあたることになった。後藤田長官の方針としては、当地の長野県警察本部を立てて、幕僚団と応援派遣の機動隊は支援役的な立場とされていた。しかし、現地の長野県警察本部では、大学封鎖解除警備などの大規模な警備事案の警備実施経験がなく、装備・人員等も不足しており、当初から長野県警察本部での単独警備は困難であるとの見解を警察庁は有していた。だが、どうしても地元意識が強く、戦術・方針・警備実施担当機動隊の選定などで長野県警察本部と派遣幕僚団との間で軋轢が生じ、無線装置の電波系統の切り替えや山荘への偵察実施の方法など、作戦の指揮系統についても議論が紛糾した。

結果的には、長野県警察本部の鑑識課員などが幹部に報告せずに、被疑者特定のための顔写真撮影を目的とした強行偵察を行おうとした際、機動隊員2名が狙撃され、1名が重傷を負ったこと、包囲を突破した民間人が山荘に侵入しようとして犯人から拳銃で銃撃を受け(2月24日)、死亡(3月1日)したこと、さらに無線系統の不備や、強行偵察時の写真撮影の不手際など長野県警側の不備が露呈し始めたことから、作戦の指揮は警視庁側を主体に行われていった。

鎮圧作戦

包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、特型警備車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、連合赤軍メンバーの親族(坂口弘の母と吉野雅邦の母)を呼び、説得を行った。また寺岡恒一の親が説得を行っていたが、寺岡はすでに山岳ベース事件で殺害されていた。親族の説得を聞いていた機動隊員らはを流したといわれる。しかし、母親らによる説得は犯人にとっては警察が親の情を利用したとして逆効果となり逆上させてしまい、犯人は母親に対し発砲した。

長時間の検討の結果、クレーン車に吊ったモンケン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。建物の設計図などの情報が提供されて、作戦実施が決定された。警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ階段とし、3階の犯人達が人質がいる2階(実際は人質も3階にいた)へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊され崖の下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった。なお、強行突入を前に山荘内のラジオなどで情報漏洩を防止するため、報道機関と報道協定を締結している。

次に3階正面の各銃眼を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈だった。また、下からは1階を警視庁九機、人質がいると思われる2階を長野県機の特別に選抜された各決死隊の担当で、予め山荘下の入口から突入させて人質救出・犯人検索を実施という手筈だった。しかし、実際には人質は3階で犯人と共におり、また、山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされた。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃口を壁ごと破壊するに留まった。

鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車のエンジンが水をかぶったため」とされているが、これは、現場警察官の「咄嗟の言い訳」であり、「狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリー・ターミナルを蹴飛ばしたため」である。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きない。


当時の警視庁第九機動隊長であった大久保伊勢男は、鉄球作戦は失敗であったと回想している。佐々も作戦中にクレーンが故障したため十分な効果を得られなかったとしている。

この故障説については、作戦に関わった土木会社の証言から、故障ではなくて車両そのものが問題だった事が明らかになっている。このクレーン車は警察車両ではなく、米軍の払い下げ品を民間会社が使用していたものを、急遽操縦席に鉄板を取り付けるなど、防弾のための改造を施したものだった。また、モンケンにしても専用の車両ではなく、単なるクレーンのケーブルに鉄球を取り付けた代物だったため、鉄球が止まったのは故障ではなく、もともと単発の使用でありあわせのものだった事を、鉄球作戦に車両を提供した関係者が模型雑誌で明かしている。

事件の収束

2月28日午前10時に警視庁第二機動隊(以下「二機」)、同第九機動隊(以下「九機」)、同特科車両隊(以下「特車」)及び、同第七機動隊レンジャー部隊(七機レンジャー)を中心とした部隊が制圧作戦を開始。まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始。直後に2枚重ねの対弾盾を持った二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始(1階に九機、2階に長野県機動隊が突入したが犯人はいなかった)。

それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲した。突入した二機四中隊(中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部(2階級特進・警視正)、二機隊長・内田尚孝警視(2階級特進・警視長)が犯人からの狙撃を頭部に受け、数時間後に殉職。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車の故障による鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。

途中、拳銃使用許可が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった(威嚇発砲のため犯人には当たらず)。その後、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかったため、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の救出を決定した。また当初は士気に関わるとして機動隊指揮官の意思を尊重する形で、狙撃対象の区別がしやすいヘルメットの指揮官表示を取っていなかったが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。

作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。

逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の銃弾、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、M作戦(金融機関強盗)などで収奪した75万円の現金が残っていた。

この事件では、警視庁の高見繁光警部内田尚孝警視の2人、そして不用意に山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と信越放送カメラマン計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、失明など後遺症が残った者もいる。また、坂東國男が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首を吊って自殺している。遺書では人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。

事件が長期化した要因

この事件では人質の無事救出が最重要目的となった。また、仮に犯人を射殺した場合「殉教者」として神格化され、他の集団に影響を与えると考えられたため、犯人を射殺せず逮捕する方針であった(警察は1960年の安保闘争で死亡した樺美智子や1970年の上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦等の事例を想定していた)。また、1970年の瀬戸内シージャック事件において犯人を射殺した狙撃手の警官が殺人罪等で広島地検へ告発中であった(告発は正当防衛として不起訴となったが、当時は特別公務員暴行陵虐罪による付審判請求が行われ、裁判所の決定が下されていなかった)。しかし、この事件はよど号ハイジャック事件などと異なり、犯人たちは警察の要求を一切聞き入れず、かつ一切の主張や要求をしなかったので、人質女性の安否すら警察当局は把握できなかった。

そのため、警察は人質の安否確認、犯人の割り出しのために偵察を繰り返したが、山荘が切り立った崖に建てられていて、犯人に有利な構造であったこと、頻繁に犯人が発砲してくること、警官の発砲が突入直前まで全く許されなかったことなどから情報収集は進まず、事件は長期化の様相を呈した。人質は夫に安否を知らせたい旨を犯人に伝えたが、犯人は「警察は盗聴によって人質の無事を確認している」として拒否されていた(実際には警察は盗聴は行っていたが、前述の通り人質の安否は確認できていなかった)。佐々淳行は、著書の中でこの難攻不落の山荘を「昭和の千早城」と評している。

発砲に関しては、連合赤軍が10日間で104発の発砲をしているのに対し、警察側はわずか16発の威嚇射撃のみであった。この他に連合赤軍側はパイプ爆弾1発を、警察側は発煙筒12発、催涙ガス弾1489発、放水148.9トンを使用している。

事件後の情勢

あさま山荘事件での犯人逮捕で、連合赤軍は幹部全員が逮捕され、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚し、世間に衝撃を与えた。また、逃走していた連合赤軍メンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。

1972年9月5日西ドイツ(当時)でミュンヘンオリンピック事件が発生し、黒い九月により人質全員が殺害され、日本国内に衝撃を与えた。事件後、警察庁は全国の都道府県警察に通達を出し、「銃器等使用の重大突発事案」が発生した際、これを制圧できるよう特殊部隊の編成を行うこととした。

1975年、日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、立てこもり犯の一人であった坂東國男が「超法規的措置」として釈放され、日本赤軍に合流した(坂口も日本赤軍から釈放要求されていたが、拒否をしている)。

1977年9月28日、釈放された坂東が関与した日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生した際、日本政府は日本赤軍の要求を受け入れ、身代金(600万ドル)を支払い、超法規的措置により6名を釈放した。だが、直後に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件での西ドイツ政府の強行手段と対照的だったため、国内外から厳しい批判を受けることになった。この事件に対する教訓から、同年、政府は警察にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を創設した。この部隊が近年増設され、SATと呼ばれている。

裁判では坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、加藤元久(逮捕時16歳)は中等少年院送致とそれぞれ判決が確定した。なお、坂口への最高裁の判決は1993年2月19日で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。

関係者のその後

詳細ドキュメント

1日目

2月19日午後3時半ころ、「さつき山荘」から連合赤軍の5人は一団となって逃走し、そこから約500メートル離れた軽井沢町大字発地(ほっち)字牛道514-181番地の河合楽器の保養所「あさま山荘」(レイクニュータウン別荘番号728号)に玄関口から土足のまま入って、管理人夫人の牟田泰子(当時31歳)を人質にして3階の「いちょうの間」に篭城した。

この5人とは、坂口弘(当時25歳/東京水産大中退/京浜安保共闘/本籍・東京都台東区浅草)、坂東国男(当時25歳/京都大卒/赤軍派/本籍・滋賀県大津市)、吉野雅邦(当時23歳/横浜国大中退/京浜安保共闘/本籍・広島県広島市)、加藤倫教(当時19歳/東海高校卒/京浜[中京]安保共闘/本籍・愛知県刈谷市)、その弟の加藤元久(当時16歳/東山工業高校/京浜[中京]安保共闘/本籍・愛知県刈谷市)であった。

加藤倫教とその弟の加藤元久には兄の能敬がいたが、榛名山ベースでリンチによって殺害されている。また、吉野雅邦の妻の金子みちよも迦葉山ベースでリンチにより殺害されている。

坂口が「あさま山荘」を選んだのは、その山荘の玄関に車があり、人が住んでいると判断したからであった。5人は玄関から入り、すぐ脇の鍵がかかっていた管理人室をこじ開けると、中にいた泰子に銃を突きつけ「動くな、静かにしろ、逃げると撃つぞ」と脅迫した。管理人でもあり、泰子の夫でもある郁男(当時35歳)は、6人の宿泊客を案内してスケート場に出かけていた。

「いちょうの間」に入り、泰子を座らせて、後ろ手に手首、足首、ひざなどを縛って、さらに、全身をハシゴに縛りつけた。口にはハンカチを押し込み声が出ないようにした。その後、状況に応じてロープを解いたりした。

坂口、坂東、吉野の3人で、これからどうするかを話し合った結果、表にある車で逃走するという意見もあったが、山荘が崖に建てられていて守りやすいということで、立て篭もることで意思統一した。道路に面した玄関は実は3階にあり、その下に2階、1階があった。南側の玄関口や1階の非常口などをタンス、鏡台、机、ソファー、布団、畳などで、北側のバルコニーにも畳などを持ち込んでバリケードを築いた。このとき、連合赤軍が所持していた武器は、ライフル1丁、拳銃1丁、上下2連銃3丁、5連銃1丁、爆弾数個、実包約700発であった。

「さつき山荘」に残されたライフル銃が20口径であったことから、警視庁で試射した結果、至近距離では警備用の楯2枚を貫通することが判り、楯は針金で2枚、あるいは3枚重ねることになった。警察は約30センチの積雪に残された乱れた足跡を追って「さつき山荘」にいた犯人が「あさま山荘」に逃げ込んだことを知る。

午後7時ごろ、「いちょうの間」にテレビを持ち込んで見ていると、森、永田の2人や軽井沢駅で逮捕された4人の映像に続き、「あさま山荘」の遠景が映し出され、この山荘が北側から攻められないことが分かり喜んだ。まさに、天然の砦だった。「あさま山荘」は標高1169.2メートルに位置しており、また、2月ということもあって、夜間は零下15度にもなった。のちに、軽井沢町内の食堂などの協力で現地の警察へ食事が配給されたりしたが、届く頃にはカチンカチンに凍って食べられる状態になく、キッチン・カーの手配をすることになった。当時、最先端商品だった日清食品の「カップ・ヌードル」が活躍することになる。さらに、革ジャンパー防寒衣300着、電熱防寒靴300足を要請した。警察にとっては、寒さとの闘いでもあった。

県警本部は全県下の警察官に最大動員の非常召集をかけ、軽井沢署に「連合赤軍軽井沢事件警備本部」を設置。632人編成の警備部隊を編成し、388人で「あさま山荘」を包囲。警察庁でも、直ちに「連合赤軍あさま山荘警備本部」が富田警備局長を本部長として設置された。「あさま山荘」派遣幕僚団として、後藤田正晴警察庁長官の任命により、そのトップに、丸山昂(こう)警備局参事官、No.2に佐々淳行(さっさあつゆき)警備局付警務局監察官が任務にあたり、長野県警察本部長の野中庸(いさお)を補佐することになった。

他のメンバーとして、警備局調査課の菊岡平八郎理事官(広報)通信局無線通信課の東野英夫専門官(通信担当)、警視庁からは健康管理本部長の医学博士梅沢勉参事官に、中島安二医師、石川三郎警備部付警視正に、国松孝次広報課長、富田幸三広報主任(警部補)、警備部宇田川主席管理官に、9機大久保伊勢男隊長西海弘・高垣修両副隊長、佐藤益夫・宮本喜代雄警備課課長代理伊藤幸二郎調査課係長、小野弘警備課係長、福家敬総務課報道主任。さらに、後日、公安第1課の亀井警視が参加。のちに、衆議院議員になった亀井静香代議士である。

後藤田正晴警察庁長官は6項目からなる指示を出した。

(1)人質牟田泰子は必ず救出せよ。
(2)犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾を引く。国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな。
(3)身代わり人質交換の要求には応じない。特に警察官の身代わりはたとえ本人が志願しても認めない。殺されるおそれあり。
(4)銃器、特に高性能ライフルの使用は警察庁許可事項とする。
(5)報道関係と良好な関係を保つように努めよ。
(6)警察官に犠牲者を出さないよう慎重に。

銃器の使用に関して、現場指揮官の判断に委ねるという意見は却下された。

2日目

2月20日午前6時ころ、まず、警察側は説得作戦を取った。トランジスタ・メガホンを使って機動隊広報斑員が連合赤軍に向かって呼びかけた。

「山荘にいる諸君に告げる。君たちは完全に包囲されている。のがれることはできない。これ以上罪を重ねることはやめなさい。管理人の奥さんはまったく関係ない人だ。早く返しなさい。君たちの仲間はすでに逮捕された。君たちも抵抗をやめて出てきなさい。君たちの家族や友人もみんな心配している。無駄な抵抗はやめて出て来なさい」

だが、連合赤軍は発砲で応じるのみであった。1日でも長く闘い、絶対に降伏しないことを確認し合った。結局、最後、逮捕されるまで何の要求もせず、話し合いにも応じず、銃の発砲が続けられた。さらに、バリケードを強化し、南側の玄関の上や屋根裏に警察部隊を狙撃するための銃眼を幾つか作った。警察側は兵糧攻めが利くかどうか検討したが、管理人の郁男によると、「あさま山荘」には20日分ほどの食糧の備蓄があることに加え、6人の宿泊客のために食糧を買い込んであったということなので、この線での闘いは無理と判断。連合赤軍の方も、食い延ばしをすれば1ヶ月は大丈夫と判断していた。

電話線は2回線とも通じていたが、警察側がかけても誰も応答はしなかった(2度ほど相手が出ているが、すぐに切られている)。その後、電話は連日かけ続けられた。だが、後日、その呼び出し音がうるさいからと座布団をかけて音を遮断していた。

3日目

2月21日、警察は早朝から「さつき山荘」の実況見分を行い、その結果、現場から吉野雅邦の指紋を発見。「あさま山荘」にも吉野がいるものとみていた。午後2時過ぎ、人質の牟田泰子の夫の郁男が手紙と共にバナナ、リンゴ、ミカンを盛った果物籠を差し入れたいと言い出した。大久保伊勢男警視庁第9機隊長は「俺が届ける」と言って、ヘルメットを脱ぎ、拳銃帯革をはずして「牟田さん、ご主人からの差し入れの果物です。赤軍派の諸君、撃つんじゃないよ、ちゃんと受け取って泰子さんに渡しなさい」と大声を出し、山荘の玄関にその手紙入り果物を置いて引き返した。幸い、赤軍派からの発砲はなかったが、果物籠は夜になってもそのままで放置されていた。

午後3時50分ころ、警視庁からの通報で、「警備心理学研究会」の先生方を篭城事件処理のために心理学的指導を受けよ、という指令により、宮城音弥東京工業大学名誉教授、島田一男聖心女子大教授、町田欣一警視庁科学捜査研究所技官の3人が現場に到着。現場では広報車の脇で機動隊の広報主任の巡査部長がハンドマイクを持って、説得活動を続けていた。

「山荘内の諸君に告げる。君たちに人質にされている奥さんはふだんから体が弱いので、ご主人や両親、家族の人たちは大変心配している。はるばる九州からかけつけている人もいる。君たちが関係のない奥さんを苦しめることをやめて、一刻も早く家族の元へ返してやりなさい」

宮城、島田両先生の意見によると、「現状では心理学的には連合赤軍側が有利で、警察側が逆に追い詰められている。疲労を避け、交代で休息することが大切。隊員が充分、情報を知らされておらず、インフォメーション・ハングリーとなってイライラしている。情報をこまめに全隊員に伝達せよ。人間は40時間眠らないとまいってくる。明かりや音による陽動作戦で犯人たちを眠らせないようにせよ。山荘が静まり返っているのはよい兆候ではない」ということだった。この騒動の間に、西沢権一郎長野県知事から多量の煙草と飴玉の差し入れがあった。

午後5時ころ、警視庁のヘリコプターで吉野雅邦の両親と坂口弘の母親の菊枝(当時58歳)が現場にかけつけ、山荘近くの警備車から呼びかけを行う。それは20分ぐらい続けられた。

「まあちゃん、聞こえますか。牟田さんを返しなさい。これではあんたの言っていた救世主どころじゃないじゃないの。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの。こうなった以上、普通の凶悪犯と違うところを見せて頂戴。武器を捨てて出て来て。それが、本当の勇気なのよ」(吉野淑子・当時51歳) 「牟田さんの奥さん、申し訳ありません。奥さんを返してください。代わりが欲しいなら私が行きますから」(坂口菊江)

寒風吹きすさぶ零下10数度の雪地獄からマイクをしっかり握りしめて涙にむせびながら切々と訴える2人の母親の呼びかけは、機動隊と報道陣の心を打った。広報斑の機動隊員も思わずもらい泣きの涙があふれてきて記録ができなかったという。

午後7時25分ころ、立ち入り禁止区域内に侵入したスナック喫茶経営者の田中保彦(30歳)を軽犯罪法違反で逮捕した。「人質の身代わりになるために来た」と言ったこの男を午後11時20分に釈放した。

4日目

2月22日午前9時23分、吉野淑子と坂口菊江を乗せた特型警備車が山荘玄関前約10メートルまで接近し、説得を再開。

「昨日、ニクソンが中国に行ったのよ。社会は変わったのです。銃を捨てて出てきなさい。森さんたちも捕まったけど無傷だった。警察は出て来たら絶対撃たないと言ってます。早く出てきなさい。牟田さんの奥さん、元気ですか、何とお詫びしてよいか・・・」(吉野淑子)

前日の21日、ニクソン米大統領北京を訪れ毛沢東と会談し、歴史的な米中国交正常化が実現した。

「10時に電話するから奥さんの声だけでも聞かせておくれ。奥さんをベランダに出して家族の皆さんに姿を見せてあげておくれ」(坂口菊江)

「あさま山荘」を取り巻く1,100人の警察部隊や1,200人の報道陣は犯人側の応答をに耳を澄ましていたが、突然、1発の銃声が静寂を破った。吉野淑子が「お母さんを撃てますか」と言ったが、吉野はためらわずに1発発砲した。弾は2人の母親を乗せた特型警備車に命中した。

午前11時40分ころ、北側斜面の視界が開けた雪と氷のスロープを、日野市から来た島田勝之(当時29歳)という画家とSBC・信越放送桂富夫記者(当時37歳)が警戒線を突破して山荘に近づこうとしていたところを警察に取り押さえられた。その騒ぎのスキを突いて、田中保彦が北側斜面をよじ登り、山荘西側を廻って南側玄関に到達した。そして、昨日、大久保9機隊長が玄関前に置いた果物籠を取り上げ、玄関のドアを半開きにして内部に向かって呼びかけた。

「赤軍さん、赤軍さん。私も左翼です。あなた方の気持ちは解かります。中へ入れてください。私も昨日まで留置場に入っていたんです。私も警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。私は医者をやっております。新潟から来たんです」そう言ったかと思うと警察部隊の方に向かって手を振ったりウインクしたりした。

吉野が「おい、帰れ。帰らないと撃つぞ」と大声で怒鳴ったが、男は知らん振りで、また警察部隊の方に向かって手を振ったりウインクしたりした。坂口はこのとき、この男を警察だと思い、管理人室の押し入れの銃眼から田中に向けて拳銃を発射した。田中はその場に倒れたが、しばらくすると立ち上がり、手摺りにすがりながら階段を這い上ってきた。

警察が駆け寄って「おい、大丈夫か」と声をかけると「ああ痛え、俺か?俺は大丈夫だ」と呟くが、意識は朦朧としているようだった。このときは後頭部に弾が当たっていたが、弾がそれて命に別状ないと思われていた。ところが、救急車で軽井沢病院へ運ばれ、レントゲン写真を撮ったところ、38口径拳銃の弾が脳内に留まっていた。佐久病院に移送され、弾の摘出手術を受けたが、3月1日、死亡した。田中は麻薬取締法違反などで何回も警察に厄介になったことのある薬物中毒者と判明した。

果物籠はこの田中という男によって山荘内に差し入れられたが、手紙は泰子が目を通したあと、取り上げられた。しばらくして、坂口はテレビの放送で自分が撃った男は民間人であったことを知る。

昼過ぎ、軽井沢署に「救援連絡センター・モップル社」と名乗る4人が訪れ、連名の申し入れ書を野中県警本部長に提出し、面談を求めた。直接、現場の赤軍派と会って話しがしたいとのこと。

モップル社の4人・・・浅田光輝(立教大教授・反党運動家)、丸山照雄(山梨、身延山久遠寺住職・モップル赤軍派)、水戸巌(東大原子核研究所助教授・反党運動家)、木村荘(弁護士)

だが、警察はこの4人の男たちに対して、身の安全については自己責任ということを言うと、「東京の本部と相談してから返事します」と言って早々に退散したが、記者クラブで自分たちに都合のいいことばかり言って、警察批判の記者会見をやり、軽井沢町の「美登里荘」に宿泊して連合赤軍支援の宣伝活動を開始した。このとき、関係者は10人になっていた。彼らが付近住民や野次馬に配ったビラには「連合赤軍銃撃戦断固支持。山狩警官ピストルで射殺を企む。威嚇でなくて本当だ。警視庁から狙撃斑50人集めた」とあった。

野次馬の数が次第にふくれあがり、レイクニュータウン別荘地帯の入り口で、交通を遮断して上には行かせないよう規制していたが、違法駐車は3000台を超え、野次馬の数は3000人になっていた。中には天体望遠鏡を担いでいる者までいた。そして、屋台までが立ち並んだ。警備心理学研究会の提言もあったことから「擬音作戦」を立案し、石川三郎警視庁警備部付警視正の直接指導で実施することになった。

それは、催涙ガス弾の発射音、機動隊指揮官の号令、警備車のディーゼルエンジン音などを録音したテープを、防弾の特型警備車の拡声器に仕掛け、「あさま山荘」に接近して擬装攻撃の陽動作戦を行い、また、屋根に向かって投石を行い、連合赤軍の犯人たちを眠らせないようにし、できるだけ発砲させて弾薬を消耗させようという作戦であった。この作戦は最後まで続けられた。連合赤軍はすぐに、これがテープからの音であることを見破ってしまうのだが、その音によって連日、寝不足になっていた。警察側は「擬音作戦」の開始の信号を照明弾1発の打ち上げと決め、2発打ち上げは、犯人たちが人質を盾に銃を乱射しながら突撃してきたときの合図と決めていた。

午後8時過ぎから、警察側は「あさま山荘」への送電をストップした。山荘では、米国大統領ニクソンが中国訪問したというテレビニュースを見ていたときであった。テレビが見られなくなったので、携帯ラジオで警察の動きを知ることとなった。

午後11時過ぎ、山荘を明るく照らした投光器をライフルから発射された1発の弾丸が破壊した。

5日目

2月23日午前1時20分、照明弾が2発打ち上げられた。犯人たちが人質を盾に突撃してきたときの合図である。

「非常呼集だ。全員配置につけ。拳銃に弾をこめ。特型警備車以下、全車輛ライト点けろ、クセノン、ハロゲン投光機スイッチ・オン、ライフル斑、所定の位置につけ」

だが、20分経っても何も起きない。結局、現場信号係隊員のミスと判明した。「擬音作戦開始」の合図をしようとして間違って照明弾を2発打ち上げてしまったのである。

午前7時、篭城から87時間が過ぎた時点で金嬉老事件の人質監禁事件の記録を更新した。「さつき荘」に残っていた指紋を照合した結果、坂東国男であることが判明。坂東の母親の芳子(当時47歳)にも呼びかけの協力をお願いすることになった。山荘では、銃眼の数を増やしバリケードもドアを釘で打ちつけるなどして補強した。

午後1時半から夕方にかけ、樋口俊長関東管区公安部長の提案により、石のように堅い凍土をツルハシ、スコップで掘って、山荘南側の道路に土のうで高さ1.5メートル、長さ5メートルの土塁を築いた。その間、連合赤軍はしきりに、その作業中の警察に対して銃を発砲した。

午後3時から約2時間に渡り、警察側は発煙筒10発、催涙ガス弾21発を使用してできるだけ山荘に近づき、人質安否確認のため強行偵察したが、成果は得られなかった。その間にも山荘の銃眼は増えていった。連合赤軍は、接近してくる警察に対し警戒していたが、ラジオで、これが強行偵察であることを聴き、踏み込んでこないことを知った。強行偵察の目的は他に、犯人の顔写真を撮ることであったが、ピント合わせなどにとまどって、まともに顔が判る写真が1枚も撮れてないことが分かり、現場で写真を撮っていた報道カメラマンにお願いして犯人の顔が撮れている写真をこっそり分けてもらい、これを東京に送った結果、犯人の1人は坂口弘であることが判明した。これで、吉野、坂東、坂口の3人がいることが判明したが、あと1人なのか2人なのか依然として判らない状態が続いた。

隣の芳賀山荘から指向性集音マイクをつけた竿を「あさま山荘」に近づけたり、屋根に上って煙突から秘聴マイクをぶら下げたりの集音作業を毎日やっていた。だが、泰子らしき人の声は拾うことはできなかった。一度だけ、女性の声が入ったことがあった。何回も繰り返し聞くのだが、それは「ヘビ キモチワルイ」というヒステリックな女性の声だった。22日以来、送電をストップしているのでテレビやラジオからの声ではないはず。携帯ラジオの声の可能性はなくもないが・・・。

夜になって、岡山県の「士誉の会」という右翼団体がやってきた。命がけで山荘に飛び込み、日の丸を立てる、という目的であったが、粘り強い説得で、写真だけ撮ることを許可して帰ってもらった。

6日目

2月24日午前5時半ころ、泰子の夫の郁男や泰子の父親、弟による呼びかけが行われた。

「泰子、元気か、寒くないか、皆来ているから頑張るんだよ」

このとき、泰子はいたたまれない気持ちになり、そばにいた坂口に「夫を安心させたいので、ちょっとでいいから、顔を出させてください」と哀願したが、坂口は拒否した。

午前9時半ころ、坂東国男の母親の芳子の呼びかけが行われた。

「中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言っていたような時代が来たのよ。あんたたちの任務は終わったのよ。早く出てらっしゃい。あんたたちが世の中をよくしようとしてやったことはみんなが認めてますよ。警察の人もほめてますよ」

「お母さんはお前を生き甲斐にして今日まで一生懸命働いてきたのよ。人を傷つけるのは愚かなことです。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出てきてお母さんと一緒にあたたかい御飯を食べようよ。あんたたちのことはみんな認めている。・・・・・・警察にも立派な人がいます。ニ枚舌を使うことはない。警察の人が撃たないと約束したのよ。早く出てきなさい」

午後4時10分、警察は「君たちが抵抗をやめないので我々は武器を使用する」とメガホンから流し、銃眼に向け高圧放水開始。その放水した水は屋根や軒から流れ、みるみるうちに凍って氷柱になって垂れ下がる。やがて、玄関のドアのガラスが破られ、そこを狙ってガス弾が撃ち込まれた。

このとき、坂東と加藤倫教が銃眼から放水車めがけて猟銃を6発発射したが、ラジオで、これが強行偵察であることを知る。

7日目

2月25日、山荘内では、バリケードの補強をした。午後4時15分ころから45分まで、警察は土のう積み作業を行った。その間、連合赤軍は3ヶ所の銃眼から猟銃を合計16発、発砲したが、負傷者はゼロだった。

この日の夜、濃い霧が発生した。吉野はこの霧を利用して脱出することを提案した。そのためにはトンネルを掘らなくてはならなかったが、周りがタイルで固められていることが分かり断念した。

日刊紙、週刊誌、月刊誌、テレビ、ラジオなどの取材記者の数は600人を超え、カメラマンの数も約600人になっていた。軽井沢署の柔剣道場を仮設記者クラブとし、毎日、午前8時、11時、午後2時、4時、8時、11時の6回、記者会見を開いた。最後の記者会見では深夜1時に及ぶこともあった。また、記者団の要望で日本電電公社(現・NTT)にかけあって、加入電話100回線ケーブルを軽井沢署に引いてもらい、そのうち22回線を記者クラブ専用とした。

8日目

2月26日午前5時、泰子の夫の郁男に続いて、泰子の母親、弟、義母、叔母らが呼びかけを行った。

午前11時30分から午後3時過ぎまで、軽井沢町の「ますや旅館」の大広間で、長野県警本部とマスコミとの間で「Xディ取材報道協定」締結のための大会議が開かれた。日刊紙、週刊誌、月刊誌、ラジオ、テレビ合計56社が集まっていた。この日、報道ヘリコプターは16機であった。

昼ごろから、土のう積み作業を行ったが、土塁は長さ10メートルになった。

午後6時40分、警察は今までの情報を総合して、7人の中央執行委員会の1人である寺岡恒一が山荘にいるものとみて、寺岡の両親の一郎(当時60歳)と百合子(当時50歳)を現場に呼び寄せて説得が行われた。だが、寺岡恒一は同年1月15日、榛名山ベースで同志からリンチによって殺害されていた。当然、「あさま山荘」にはいるはずもなかった。

「君たちの理論は正しいかもしれないが、私たちには理解できなかった。大衆の支持も得られなかった。独走してはならない。泰子さんは君たちの姉さんに当たる。か弱い女性に危害を与えてはならない。人間愛があるなら泰子さんを返すことだ。君たちの評価はこれからの君たちの行動にかかっている」

山荘の中では、リンチによって殺害した寺岡のことを思い出し、複雑な思いでその両親の呼びかけを聞いていた。

午後7時半ころ、坂口の母親に続いて、吉野の両親による呼びかけが行われた。

「弘、その中にいるでしょうか。犠牲者を出さないうちに冷静になって、これ以上皆さんに迷惑をかけないで今すぐ出てきなさい。お願いです」

「雅邦、中にいるのか、お父さんだよ、冷静になってください。何の関係もないご婦人を早く返してあげてくれ・・・」

坂口は加藤が持ってきた泰子のバッグを受け取ると、中を確認して、泰子に渡した。泰子は中から善光寺と成田山のお守りを取り出し、ハンカチを割いてひもを作り、首にかけた。泰子は助け出されるまでそうしていた。

この日の夜、坂口、坂東、吉野の3人は話し合いを行った。警察から攻撃されても泰子を解放はしないが、中立を守らせようということになった。泰子を呼び「警察がもし、攻めてきても顔を出したり、逃げたりしないでもらいたい。警察がきても我々が守る」と彼らは言った。

泰子が「こんなことで、ここで死にたくない」と答えると、「我々はここで死んでも本望だ」と言った。さらに、泰子が「私を楯にして脱出しないでください。それからあとで裁判になったときに、私を証人に呼ばないでください」と言うと「分かった。そうする。我々は言ったことは守るから、安心して」と答えた。

9日目

2月27日午前7時ころ、寺岡の父親に続いて、吉野の母親による呼びかけが行われた。この日、ラジオで警察の動きに関するニュースがなく、坂口は警察が何か仕掛けてくるのではないかと察していた。マスコミは「報道協定」により、警察の動きが判るようなニュースは流していなかったのだ。

19人目の身代わり志願者が来訪。自宅を出るとき、裁断機で切断したという小指を差し出して「この決意を汲んで欲しい」と言ってきた。丁重にお断りして引き取ってもらった。この日も、土のう積み作業が行われ、屋根裏の銃眼から合計10発発砲したが、その都度、ガス弾が打ち込まれた。

泰子は「銃で人を撃ったり、人を殺すことはしないでください。私を楯にしてでも出ていってください」と言った。

10日目

2月28日、Xデー当日、警備部隊1,635人(うち警視庁からの応援部隊548人)、特型警備車輛9輌、高圧放水車4輌、10トン・クレーン車1輌。

午前8時、警告広報開始。「連日に渡る警告や説得にもかかわらず、君たちは何の罪もない泰子さんを監禁している。監禁時間は200時間を超えた。もう、これ以上待つことはできない。これ以上罪を重ねることなく泰子さんを解放して銃を捨てて出てきなさい。また、話し合うなら、白布を持って警察部隊の見えるところに立ちなさい・・・」

連合赤軍側は、警察が今までよりも語調が強く、具体的に、白布・・・と言ってきたことで、今日が山場になると覚悟を決めていた。坂口は昨日に引き続き、ラジオに耳を傾けていたが、それによって警察の動きを知ることはできなかった。

午前9時50分ころ、警察からの最後の通告がスピーカーから発せられた。

「山荘の犯人に告げる。君たちに反省の機会を与えようとする我々の警告にもかかわらず、君たちは何ら反省を示さない。最後の決断の機を失って一生後悔することのないよう考えなさい。今こそ君らの将来を決するときだ。まもなく泰子さんを救出するため実力を行使する」

「泰子さんを救出する」とは言っているが、この時点になっても警察は泰子の生死の確認はできないでいた。

しばらくして、バルコニーや風呂場に向かって一斉にガス弾が撃ち込まれた。山荘正面からは、幾つかある銃眼めがけて高圧放水を開始した。坂東、吉野らは、放水の合間をみては特型警備車、放水車に向かって狂ったように銃を撃ち始めた。坂口はラジオで10時から警察による救出作戦が始まったことを知る。

午前10時54分、クレーン車に吊った工事用のモンケーン(大鉄球)が白いモルタルの壁を破壊。続いて、2撃、3撃、凄い破壊音を響かせながら壁面にめり込み、破孔はどんどん大きくなっていき、そこを狙ってガス弾を撃ち込み、放水した。連合赤軍は猟銃、拳銃、手製爆弾などで抵抗するが、次々と銃眼が壊されていった。

午前11時17分、2機山野決死隊、3階南西側管理人室から山荘内に突入。

午前11時24分、9機長田幹夫中隊、1階突入、占拠。

午前11時27分ころ、吉野がクレーン車と2輌の放水車を指揮していた警視庁特科車輛隊の高見繁光警部(42歳)を散弾銃で狙撃し、弾丸が前額部に命中。高見警部は病院に運ばれたが死亡した。

警視庁第2機動隊の大津高幸巡査(当時26歳)は土のうを飛び越え、山荘内に突入しようとしたが、その瞬間、山荘正面の銃眼から散弾銃が火を噴いた。大津隊員は顔面に被弾して、真逆様に土塁の向う側に転落した。同僚2人が大楯をかざして土塁の向う側に下り、大津隊員を助け出した。大津隊員は左眼に無数の鉛の粒弾があたり、それが原因で左眼を失明する重傷を負った。

午前11時54分ころ、坂東が土塁端の大楯の隅から敵の様子を偵察していた警視庁第2機動隊長の内田尚孝警視(47歳)をライフル銃で狙撃し、弾丸が前額部に命中。内田警視は病院に運ばれたが死亡した。

突然、クレーン車のエンジンが停止した。防弾板の外に出て修理するのは自殺行為に等しく大鉄球による破壊作戦は断念する。

午後12時38分、警察庁から拳銃使用の許可が出る。だが、それは「適時適切な状況を判断し、適時適切に拳銃を使用せよ」というものだった。

午後1時、警察の攻撃が一時中断。午後2時50分、3階調理室を確保していた2機部隊に対し、鉄パイプ爆弾1発が投げ込まれ炸裂。これにより、警察は5人の重軽傷者を出してしまう。鉄パイプ爆弾は他に3個あったが、点火式だったため放水により起爆剤が湿ってしまい使用不能になっていた。

午後3時30分ころ、再び、攻撃を開始した。高圧放水による攻撃だったが、それは「いちょうの間」まで水が入り込んだ。放水が終わるとガス弾の一斉射撃が始まり、「いちょうの間」はガスが充満した。連合赤軍は耐えきれずに、北側の窓ガラスを割って、交代で外の空気を吸った。警察は、さらに「いちょうの間」と隣の談話室(食堂)の境の壁を壊し始めた。その間にもガス弾を撃ち続け、壁の穴が大きくなると、そこから放水した。その水で、「いちょうの間」は30センチ浸水した。連合赤軍の5人はライフルや拳銃で抵抗するが、壁の穴はさらに広がっていった。

午後6時20分ころになって、入り口とその壁の穴から楯を前面にかざして一斉に「いちょうの間」に飛び込んで5人を逮捕した。人質の泰子さんは5人に囲まれるようにしてベッドに横になっていた。連合赤軍が篭城してから、約219時間ぶりに無事、人質を救い出した。泰子はこのとき、体をぐったりとさせ、目は閉じたままだったが、生きていた。

報道陣は協定を守って、山側のロープの内側でカメラの放列を布いて待機していた。「人殺しッ」「お前たち、それでも人間かッ」「殴れ、殴れ」記者たちから罵声が飛び交い、本気で殴りかかったやつもいた。

結局、この「あさま山荘銃撃戦」で、警察側は、3人が死亡(うち1人は民間人)、27人が重軽傷を負った(うち9人が入院、うち1人はSBC・信越放送記者)。連合赤軍の5人はカスリ傷を負った程度であった。警察側は、この「あさま山荘銃撃戦」で、催涙ガス弾3,126発、発煙筒326発、ゴム弾96発、現示球83発、放水量15万8500リットル(2時間30分)使用したが、拳銃で発砲した弾はわずか16発であった。しかも、それは威嚇射撃であった。連合赤軍側が発砲した弾は104発であった。

「あさま山荘」事件だけに費やした予算は国費2675万6000円、県費6983万7000円、総額9659万3000円であった。なお、現場には現金(M作戦で強奪したお金など)75万1615円が遺留されていた。

同日、坂東の父親の坂東基信が滋賀県大津市の自宅で首吊り自殺した。51歳だった。

この日、各テレビ局は大幅に番組を変更し、現場中継を夕方まで流し続けた。NHKの午前9時40分から午後8時20分の連続放映(途中、5分間ニュースを3回挿入・視聴率89.7%を記録)をはじめ、民放もCM削減という異例の措置で現場の生々しい光景を放映。累積到達視聴率は98.2%に達した。

その後

1972年(昭和47年)3月7日、同年の2月16日に逮捕された奥沢修一が「これは大久保清事件よりも、もっと恐ろしいことなのです」と震えながら、12人の同志をリンチの上に殺害したことを自供した。最後に殺害された山田孝の遺体が掘り起こされたのを初めとして、3月13日までに12人全員の遺体を掘り起こした。

前年の1971年(昭和46年)の大久保清連続殺人事件で、いくつもの遺体を掘り起こさなければならなかった群馬県警は、この年、この事件によってまたしても遺体を堀り起こすことになった。群馬県警は“穴掘り県警”と揶揄される。 赤黒く膨れ上がった両頬、突き出した前歯、首にヒモ跡、男女の区別さえ分からなくなっている者、苦しんで自ら舌をかんでいる者、肋骨が6本折れている者、内臓が破裂している者など、まさに凄惨を極めていた。また、女の遺体はどれも髪の毛を刈られていた。

「恐ろしい、ああ、どうしてこんなことになっちゃたの!・・・恐ろしーいッ!」

金子みちよの母親は娘の変わり果てた姿を見たとき、そう絶叫し慟哭しながら「恐ろしい」という言葉を繰り返し叫んでいたという。

3月10日、山本保子を逮捕。3月11日、前沢虎義を逮捕。3月13日、岩田半冶を逮捕。3月14日、中村愛子を逮捕。これで、連合赤軍のメンバー29人(うち女性10人)は、リンチにより殺害された12人(うち女性4人)を除いて、全員、逮捕されたことになる。逮捕者は17人(うち女性6人)。

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逮捕日
     1972年
(昭和47年)
逮捕場所 逮捕者
(当時の年齢)
職業 旧所属
2月16日 妙義湖畔 奥沢修一(22歳) 慶応大 赤軍派
杉崎ミサ子(24歳) 横浜国大 京浜安保
2月17日 妙義山籠沢上流 森恒夫(27歳) 大阪市大 赤軍派
永田洋子(27歳) 共立薬科大卒 京浜安保
2月19日 軽井沢駅 植垣康博(23歳) 弘前大4年 赤軍派
青砥幹夫(22歳) 弘前大 赤軍派
寺林真喜江(23歳) 市邨学園短期大卒 京浜安保
伊藤和子(22歳) 日大看護学院 京浜安保
2月28日 あさま山荘 坂東国男(25歳) 京大卒 赤軍派
坂口弘(25歳) 東京水産大中退 京浜安保
吉野雅邦(23歳) 横浜国大中退 京浜安保
加藤倫教(19歳) 東海高卒 京浜(中京)安保
加藤元久(16歳) 東山工業高 京浜(中京)安保
3月10日 --- 山本保子(28歳) (殺害された山本順一の妻) 京浜(中京)安保
3月11日 --- 前沢虎義(24歳) 工員 京浜安保
3月13日 --- 岩田半治(21歳) 東京水産大 京浜安保
3月14日 --- 中村愛子(22歳) 日大看護学院 京浜安保

逮捕された坂東国男は、佐久警察署での取り調べで、40日間、ひと言も発せず、何を話しても押し黙っていたが、(2月28日に警察部隊と闘っている息子の姿をテレビで見て、それを苦に自殺した)父親の位牌を目の前で見せられると、「ありがとう」とひと言を発して静かに語り出した。

「12人に対しては間違ったことをしてしまいました。父に対しては本当に申し訳ないことをしてしまいました。心からお詫びし犠牲者の冥福を祈ります」

5月24日、長野家裁は少年の加藤元久に対し中等少年院に送致することを言い渡した。7月20日、森恒夫は東京拘置所で自己批判書を書いた。

「・・・私自身がどうして、あのときああいう風に行動したんだろう、としばしば思い返さざるを得ない様な一種の “狂気”だと思っている。・・・(中略)・・・考えてみれば、革命にとって狂気は多かれ少なかれ必要なことであり、その意味では狂気ではない。しかし、実際には、それらが革命にとって必要な精神の領域を越えて狂気として働いたのである。・・・(中略)・・・私は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思う」

「私は革命の利益から考えて、有罪であり、その罪は死刑である、ということである。私が、亡き同志、他のメンバーに対していった「革命家たるものは革命の利益に反することをした場合、自らの死をもって償わなければならない・・・」ということを文字通り守らなければならないということである」

1973年(昭和48年)1月1日、森恒夫は初公判を前に東京拘置所で首吊り自殺した。29歳だった。同志の永田洋子は、同じ東京拘置所で、この報せを聞いて、「森さんはずるい!! 卑怯だ! 自分だけ死んで」と叫んだという。

森恒夫の自殺がきっかけとなって、東京拘置所では「保安房」と呼ばれる自殺防止房が設置された。この部屋には突起物がなく、窓も開かずそのため、風通しや採光も悪い。さらに、電灯の下でテレビカメラによる24時間監視の態勢がとられている。用便中でも扉の監視孔から覗けば丸見えの状態であったが、1998年(平成10年)1月21日から各房に便器の衝立が備え付けられた。

1974年(昭和49年)10月、京浜安保共闘の理論的指導者の川島豪が横浜拘置所から出所した。

1975年(昭和50年)8月4日、坂東国男は日本赤軍によるクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件の超法規的措置により海外へ逃亡し、日本赤軍と合流した。だが、坂口弘はこれに応じなかった。坂口はリンチ殺害事件において、14人の「総括」に関係しており、高い確率で死刑が予想された。事実、のちに死刑判決を受ける。釈放の呼びかけに応じれば、生命は確保されるにもかかわらず、坂口は拒否した。クアラルンプールのゲリラからの国際電話に対して、直接、「君たちは間違っている。私は出ていかない。君たちは大衆の支持を得ることはできないであろう」とのみ答えたという。坂口はアメリカのベトナム戦争敗戦後、アメリカはアジアを軍事侵略することはなく、この時点において武装闘争は正しくないと考えたのではないかと言われている。

1979年(昭和54年)3月29日、東京地裁は、吉野雅邦に対し無期懲役、加藤倫教に対し懲役13年を言い渡したが、吉野に死刑を求刑していた検察側が控訴した。1982年(昭和57年)6月18日、東京地裁は、永田洋子と坂口弘に対し死刑、植垣康博に懲役20年を言い渡した。1983年(昭和58年)2月2日、東京高裁は、吉野雅邦に対し第1審通り検察側の控訴を棄却し、無期懲役の判決を下した。3月、千葉刑務所に入所した。

1984年(昭和59年)7月20日、永田洋子は1974年(昭和49年)ごろから体の不調を訴えていた。1983年(昭和58年)の5月にすさまじい頭痛が始まって以降、嘔吐、目の異常、失禁、失神などの悲惨な病状があった。しかし、東京拘置所は、仮病扱いか、精神的なものと単純に片付けて、せいぜい頭痛薬を出すだけだった。だが、永田の痛みや苦しみは嘘ではなく、脳腫瘍であることが判り、この日、手術を受けることになった。このとき、永田本人には脳腫瘍であることは告げず、手術も腫瘍そのものを摘出するのではなく、脳圧を下げるという対症療法としてバイパスを通すものだった。

1986年(昭和61年)9月26日、東京高裁は、永田洋子、坂口弘に対し控訴棄却。植垣康博も1審と同じく懲役20年の判決だった。

1989年(平成元年)5月28日、『朝日新聞』学芸欄の朝日歌壇に、坂口弘の作品が掲載された。このときの選者の島田修二は「東京都 坂口弘」とある作者のことを知らずに選歌されたらしい。

連休の最終の日の夕まぐれ死すと打たれし電報を受く

同年12月の最後の週、再び、坂口の作品が掲載される。選者は佐佐木幸綱で、選評で「作者は連合赤軍事件被告」と紹介した。

死刑囚と呼ばるるよりも呼び捨ての今がまだしもよろしかりけり

歌意は1989年(平成元年)12月からマスコミでの呼称法が変わり、報道各社が犯罪報道について、犯罪者や刑の確定者をそれまで呼び捨てにしていたものが、呼称付きで報道することになったが、坂口はこの屈辱感に堪えられず、呼び捨ての方がましだと詠んだのであった。

その後、何度か紙面に坂口の作品が掲載されるようになると、世間から注目されるようになり、作品は、『坂口弘 歌稿』(朝日新聞社/1993)と題して出版された。

同年12月27日、元赤軍派議長の塩見孝也が懲役18年の刑を終えて出所した。未決勾留期間も含めて19年9ヶ月に及ぶ獄中生活だった。

1990年(平成2年)4、5月ごろから、永田は前のような病状を訴えるようになり、半年に一度、MRIをとってたが、本人にその結果の説明はない。

12月9日、京浜安保共闘の理論的指導者の川島豪が胃癌で死亡した。49歳だった。

1993年(平成5年)2月19日、最高裁は、永田(当時48歳)、坂口(当時46歳)に対し、上告を棄却し、1、2審同様、死刑の判決が下った。植垣康博も1、2審同様に懲役20年だった。あさま山荘事件からすでに21年が経っており、植垣はその間に留置所や拘置所に拘束されていたため、残り5年半の懲役となった。

死刑が確定すると親族や弁護士以外の面会が難しくなるため、最高裁で判決が下る半年ほど前に、永田は関係者と獄中結婚した。永田の意思で夫が永田姓を名乗ることになったが、この夫が大のマスコミ嫌いのため、永田の近況を聞き出すことはできなかった。

1998年(平成10年)10月6日、植垣康博が甲府刑務所で5年の懲役刑を終え出所。27年ぶりの娑婆だった。その後、静岡市安東でスナック「バロン」を経営。

2000年(平成12年)6月2日、坂口は東京地裁に再審請求を行なった。申立書の中で弁護側は、警官2人と民間人1人が銃撃により死亡した「あさま山荘事件」において、(1)いずれの発砲も狙撃ではなく殺意はなかった。(2)警官1人の死因は銃撃によるものではなく搬送された病院での医療ミスだったと主張。これを裏付ける新証拠として、医師の鑑定書などを提出した。

2001年(平成13年)7月4日、永田が東京地裁に再審請求を行なった。弁護人は「殺人の共謀はなく、凍死についても予測できなかった」と傷害致死を主張、再審請求に必要な新証拠として当時の気象記録などの提出を予定している。

2002年(平成14年)2月19日、連合赤軍の5人が「あさま山荘」に人質をとって立て篭もった日から30年経ったこの日、現場近くに建てられた顕彰碑「治安の礎」前で、長野県警による慰霊祭が行われた。事件で殉職した警察官の遺族や、当時同県警本部長だった野中庸(当時80歳)ら関係者約30人が出席。黙とうの後、関一県警本部長(当時52歳)が「(殉職した)2人の尊い警察官魂を胸に刻んで治安の維持に当たりたい」と追悼の辞を述べ、出席者が次々と献花した。

2006年(平成18年)11月28日、東京地裁(高橋徹裁判長)は永田洋子と坂口弘の再審請求について、棄却する決定を出した。

2011年(平成23年)2月5日、東京拘置所で永田洋子が病死した。65歳だった。永田は脳腫瘍が悪化し、面会者が訪れても相手が判別できない状態になっていることが元赤軍メンバーら関係者による集会で明らかになっていた。

エピソード

  • 事件当時、現場は平均気温マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当も凍ってしまったため、やむなく当時販売が開始されたばかりの日清カップヌードルが隊員に配給された。手軽に調達・調理ができた上に寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、機動隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。TV中継でカップヌードルを美味しそうに食べる機動隊員達の姿が映像に映り、同商品の知名度を一挙に高めた。カップヌードルの売上は発売開始時の1971年には2億円だったのに対して、事件後の1972年には前年比33.5倍の67億円になっている。
    • 佐々淳行によれば、警視庁が補食として隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野や神奈川の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある。
  • 1972年2月28日の突入作戦時NHK・民放5社が犯人連行まで中継しているが、このうち、NHK・日本テレビTBSフジテレビの中継映像がVTRで残っている。
  • 長野放送とフジテレビが、当時はまだ白黒用だった長野放送の中継車を通じて犯人連行の様子を高感度カメラで捉えることに成功、当時、報道に力を入れていなかったフジテレビはこれを機に報道に力を入れるようになった。また、暗視カメラとして白黒カメラが見直されるなど後のテレビ報道に影響を与えた。
  • 当時の長野県警の定数2,350人中、あさま山荘事件と他メンバー潜伏の山狩りのために838人(定数の36%)を動員していた。そのため、あさま山荘事件が長期化するにつれて後方治安が心配され、交通事故の増加や窃盗犯の増加が懸念された。しかし、事件の長期化とともに犯罪発生件数や交通事故は減少傾向を示していた。これは事件の放送が異常な高視聴率を示していたことから大勢の人間がテレビを視聴していたことになり、外出を控えて自動車の絶対量が減ったり、在宅率が増えて空き巣が入る対象の空き家が減ったり、犯罪者自身もテレビの事件報道を視聴している間は犯罪を犯さなかったためとされている。
  • 近年のテレビ番組において、本事件で警察側に重機、鉄球クレーンを提供した機材会社、また実際にクレーン車を操縦した民間協力者が実名で報じられている。以前は報復を警戒して、テレビ番組では当事者が否定していた。だが、警察の努力により連合赤軍及びそのシンパが報復活動に出ることが不可能となった(要するに連合赤軍が殲滅された)ため、この状況を以って、当事者が実名で現れても報復の心配がなくなったことが証明されたといわれる。
  • 佐々淳行によると、当時テレビの前の視聴者の度肝を抜いた鉄球作戦は、実は東大安田講堂事件の時、全共闘による建物上部からの抵抗から機動隊員を守り、かつ速やかに占拠された建物への突破口・進入路を安全に確保するために、安田講堂の正面入口を建物解体用のモンケンで一気に破壊しようとした、当時警視庁警備第一課長として現場指揮担当であった佐々自身のアイディアから、後に浅間山荘で実施された経緯があるのだという。佐々淳行によれば、東大安田講堂で彼はモンケンを使用した正面突破作戦計画を、上司に作戦実施前日に意見具申していた。しかし秦野章警視総監(当時)から却下された。理由として、佐々淳行によれば、安田講堂は東京都指定の登録文化財第1号であり安田財閥の創始者・安田善次郎からの寄付でもあるとして、警察内での過激派を自負する秦野でも政治的な配慮があったのかと思われている。
  • 2002年、NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』において「あさま山荘事件 衝撃の鉄球作戦」と題されて放送された。これは1話完結ではなく前編と後編に分かれており、前編は突入までの9日間、後編は突入当日の1日を追っている。この番組は主観が警察ではなく、地元住民にある。カップヌードルのエピソードは登場しない。ただしその前に放送されたカップヌードル誕生秘話の「魔法のラーメン・82億食の奇跡」(2001年放送)で、あさま山荘のエピソードが番組の最後に紹介された。
    • 同番組では、地元住民が炊き出しを行い、機動隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員には、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという。
  • 当時、現場の隊長、副隊長は指揮を円滑に進めるためにヘルメットの意匠が少し変わっていた。その事が災いし、それさえ理解していれば容易に隊長格を特定して狙撃、指揮系統を混乱させる事が可能だった。また殺傷性を高めるために頭部を狙うだけではなく、眼部を狙っていた。この事件の後、これらの問題点からヘルメットによる識別は撤廃された。
  • 事件の最中の2月21日にニクソンアメリカ大統領が中国を訪問しており、犯人の親は説得において国際社会が変わっていることをあげた。
  • その後、浅間山荘は大半を取り壊して、建て直され、アートギャラリーとなったのち、現在は中国企業の所有となっている。事件当時、新毛沢東主義のセクトにより篭城された現場が、毛により建国された中国の企業が資本主義のルールに基づき買い取られたこととなった。
  • 事件後10年ほどは、浅間山荘は観光名所となり、観光バスのコースにもなっていた。
  • 使用された鉄球は2008年時点において、長野市内の鉄工所に残されている。
  • 事件後、マスコミの取材等は一切の断絶状態で警備は長野県警本部が厳重に行っていたはずの管理人の妻の取調べの模様が、新聞の特ダネとして次々とスクープされた。その後、管理人の妻の病室に忍び込もうとしていた新聞記者が取り押さえられ、盗聴器を所持していたことが判明したが、公にはならなかった。
  • 管理人の妻は、「赤軍派にうどんを食べさせてもらった」、「3食ちゃんと食べさせていた」という発言や、あたかも犯人達と心の交流があったかの如く報道され、広く世間の批判を受けることとなるが、実際には「一日一食、ごった煮みたいなものを食べさせられた」、「26日からはコーラ1本しかもらえなかった」、「2月29日の報道を見たらまるで私が赤軍と心のふれあいをしたみたいに書いてあって驚いた」と後に述べている。

関連作品

警察側

  • 『旭の友特集号』 「連合赤軍軽井沢事件」 持田昭編 1972年6月1日 長野県警察本部警務部教養課・発行
    • 長野県警察本部警務部教養課による事件をまとめた作品。
  • 警察庁側広報担当幕僚長であった、佐々淳行の手になるドキュメンタリーが、1996年に『連合赤軍「あさま山荘」事件』のタイトルで文藝春秋から出版された。なお、この作品は1999年に文庫化され『連合赤軍「あさま山荘」事件-実戦「危機管理」』の表題に改められた上出版されている。この作品は事件から30年目に当たる2002年に『突入せよ! あさま山荘事件』のタイトルで映画化された。対犯人だけではなく対長野県警という内部の対立を警察庁側の視点から書かれている。
  • 正論2002年4月号「あさま山荘事件、いまだ決着せず」大久保伊勢男
    • 当時の警視庁第九機動隊長を勤めた大久保伊勢男の手記「あさま山荘事件、いまだ決着せず」が所収されており、これによると「鉄球作戦は失敗ではなかったか」と、疑問を呈している。

連合赤軍側

  • 『あさま山荘1972(上)(下)』坂口弘 彩流社 1993年
  • 『続 あさま山荘』坂口弘 彩流社 1995年
    • 赤軍側実行犯のひとり坂口弘による赤軍側から見た獄中手記。
  • 『連合赤軍 少年A』加藤倫教 新潮社2003年
    • 加藤倫教による手記。著者は兄が山岳ベース事件によって殺害されており、弟と共に山荘に立てこもった。

第三者による作品

事件当事者の著書

  • 『封建社会主義と現代 塩見孝也獄中論文集』(新泉社/塩見孝也/1988)
  • 『「リハビリ」終了宣言 元赤軍派議長の獄中二十年とその後の六年半』(紫翠会出版/塩見孝也/1996)
  • 『さらば赤軍派 私の幸福論』(オークラ出版/塩見孝也/2001)
  • 『赤軍派始末記 元議長が語る40年』(彩流社/塩見孝也/2003)
  • 『監獄記 厳正独房から日本を変えようとした、獄中20年』(オークラ出版/塩見孝也/2004)
  • 『いま語っておくべきこと 対談・革命的左翼運動の総括』(新泉社/川島豪&塩見孝也/1990)
  • 『わが思想の革命 ピョンヤン18年の手記』(新泉社/田宮高麿/1988)
  • 『飛翔二十年 「よど号」でチョソンへ』(新泉社/田宮高麿/1990)
  • 『社会主義国で社会主義を考える ピョンヤン1990』(批評社/田宮高麿/1990)
  • 『祖国と民族を語る(田宮高麿ロングインタービュー)』(批評社/高沢皓司(聞き手)/1996)
  • 『日本を考える三つの視点』(ウニタ書舗/田宮高麿/1983)
  • 『銃撃戦と粛清 森恒夫自己批判全文』(新泉社/森恒夫1984)
  • 『十六の墓標 上』(彩流社/永田洋子/1982)
  • 『十六の墓標 下』(彩流社/永田洋子/1983)
  • 『続 十六の墓標』(彩流社/永田洋子/1990)
  • 『氷解』(講談社/永田洋子/1983)
  • 『愛と命の淵に』(福武書店/永田洋子&瀬戸内寂聴/1986)
  • 『私生きています』(彩流社/永田洋子/1986)
  • 『獄中からの手紙』(彩流社/永田洋子/1993)
  • 『あさま山荘1972 上』(彩流社/坂口弘/1993)
  • 『あさま山荘1972 下』(彩流社/坂口弘/1993)
  • 『続 あさま山荘』(彩流社/坂口弘/1995)
  • 『坂口弘歌稿』(朝日新聞社/坂口弘/1993)
  • 『永田洋子さんへの手紙』(彩流社/坂東国男/1984)
  • 『兵士たちの連合赤軍』(彩流社/植垣康博/1984)
  • 『連合赤軍27年目の証言』(彩流社/植垣康博/2001)
  • 『連合赤軍 少年A』(新潮社/加藤倫教/2003)
  • 『優しさをください』(彩流社/大槻節子/1986)
  • 『わが愛わが革命』(講談社/重信房子/1974)
  • 『十年目の眼差から』(話の特集/重信房子/1983)
  • 『大地に耳をつければ日本の音がする』(ウニタ書舗/重信房子/1984)
  • 『ベイルート1982年夏』(話の特集/重信房子/1984)
  • 『資料・中東レポート 1』(ウニタ書舗/重信房子/1985)
  • 『資料・中東レポート 2』(ウニタ書舗/重信房子/1986)
  • 『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』(幻冬舎/重信房子/2001)

一連の連合赤軍による事件をモデルにした作品

立松和平の小説『光の雨』が同タイトルで映画化された。『光の雨』(DVD/監督・高橋伴明/出演・大杉漣&萩原聖人&裕木奈江&高橋かおり/2002)

  • 『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文春文庫/1999)を原作として映画『突入せよ! あさま山荘事件』(DVD/監督&脚本・原田眞人/佐々淳行役・役所広司/2002)が製作された。
  • 『鬼畜大宴会』(DVD/監督・熊切和嘉/出演・三上純未子&澤田俊輔&・・・/2002)
この作品は元々は大阪芸術大学映像科の学生たちの卒業制作作品で、「ぴあフィルムフェスティバル’97」のPFFアワードで準グランプリを受賞、のちに劇場で公開された。
  • 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(DVD/監督・若松孝二/2009)
この作品は2008年のベルリン国際映画祭で国際芸術映画評論連盟賞&最優秀アジア映画祭賞、東京国際映画祭<日本映画・ある視点>作品賞を受賞した。
  • 『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(朝日新聞社/「実録・連合赤軍」編集委員会+掛川正幸/2008)
  • 『ドキュメント 連合赤軍 「あさま山荘」事件 「東大安田講堂」から「集団リンチ事件」までの1200日』(VHS/文藝春秋/解説・佐々淳行/1997)
  • 『田原総一郎の遺言 永田洋子と連合赤軍』(DVD/出演・田原総一郎&水道橋博士/2012)
これはジャーナリスト生活50年を迎えた田原総一朗が東京12ャンネル(現・テレビ東京)のディレクターだった時代に手掛けたドキュメンタリー作品。
  • 『レッド 1』(講談社/2007)
  • 『レッド 2』(講談社/2008)
  • 『レッド 3』(講談社/2009)
  • 『レッド 4』(講談社/2010)
  • 『レッド 5』(講談社/2011)がある。

参考文献

  • 『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文春文庫/佐々淳行/1999)
  • 『あさま山荘事件』(国書刊行会/白鳥忠良/1988)
  • 『あさま山荘1972 上』(彩流社/坂口弘/1993)
  • 『あさま山荘1972 下』(彩流社/坂口弘/1993)
  • 『「あさま山荘事件」の真実』(ほおずき書籍/北原薫明/1996)
  • 『浅間山荘事件の真実』(河出書房新社/久能靖/2000)
  • 『氷解 女の自立を求めて』(講談社/永田洋子/1983)
  • 『氷の城 連合赤軍事件・吉野雅邦ノート』(新潮社/大泉康雄/1998)
  • 『新左翼二十年史』(新泉社/高沢皓司・高木正幸・蔵田計成/1981)
  • 『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版/玉川しんめい/1985)
  • 『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
  • 『人間臨終図鑑 上巻』(徳間書店/山田風太郎/1986)
  • 『日本の公安警察』(講談社現代新書/青木理/2000)
  • 『57人の死刑囚』(角川書店/大塚公子/1998)
  • 『脱獄者たち 管理社会への挑戦』(青弓社/佐藤清彦/1995)
  • 『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義』(角川文庫/大塚英志/2001)
  • 『放送禁止歌』(知恵の森文庫/森達也/2003)</a>

関連項目

外部リンク