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「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。 | 「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。 | ||
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織田 信長(おだ のぶなが)は、日本の戦国時代の人物。戦争と混乱に満ちた16世紀の日本を統一へと導いた。日本の政治上・軍事上最大の天才とも言われる。
目次
- 1 概要
- 2 信長の計画
- 3 生涯
- 3.1 少年期
- 3.2 家督争いから尾張統一・上洛
- 3.3 桶狭間の戦いから清洲同盟へ
- 3.4 美濃攻略と天下布武
- 3.5 1568(永禄11)年
- 3.6 1569(永禄12)年
- 3.7 1570(元亀1)年
- 3.8 1571(元亀2)年
- 3.9 1572(元亀3)年
- 3.10 1573(元亀4、天正1)年
- 3.11 1574(天正2)年
- 3.12 1575(天正3)年
- 3.13 1576(天正4年)
- 3.14 1577(天正5)年
- 3.15 1578(天正6)年
- 3.16 1578(天正6年)
- 3.17 1579(天正7)年
- 3.18 1580(天正8)年
- 3.19 1581(天正9)年
- 3.20 1582(天正10)年
- 4 人物像
- 5 脚注
概要[編集]
平安時代、朝廷の軍事力の著しい低下によって日本全国の治安が非常に悪化したため、庶民は武装して身を守った。このために延々と内乱が続き、国は乱れに乱れていた。この戦乱を終わらせる事業の大変を行ったのが織田信長である。彼は日本全国を統治する前に死んでしまったものの、実質的には彼が戦乱を終わらせたと言える。
信長の計画[編集]
まずは地盤を固める ↓ 幕府あるいは朝廷という既存の権威を利用し、また隠れ蓑にもしつつ改革を行う ↓ 自身の権威がそれらを越え次第、自身を神格化し、名実ともに日本の頂点に立つ ↓ 余剰の軍事力は海外に向ける
生涯[編集]
少年期[編集]
天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として、那古野城[1](現在の名古屋市中区)(勝幡城説もある[2])で生誕。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。
天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという[3]。
天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぐ[4]。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年(1554年)には、村木砦の戦いで今川勢を破っている。
家督争いから尾張統一・上洛[編集]
当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは河尻秀隆とされている[5]。
さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。
桶狭間の戦いから清洲同盟へ[編集]
1560(永禄3)年5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人以上の大軍であった。兵力で劣る織田軍は苦戦を強いられた。
永禄3年(1560年)5月19日午後1時頃、信長は幸若舞『敦盛』を舞った後[6]、昆布と勝ち栗を前に置き、立ったまま湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、出陣した。
信長はまず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で2000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。総大将を失った今川軍は、当主・氏真の命で本国駿河国に退却した(桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、急激に衰退した。これを機に、信長は徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。この同盟は信長死後まで維持された。
美濃攻略と天下布武[編集]
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利(森部の戦い)。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年(1564年)には北近江国の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏とも戦っている。
永禄9年(1564年から1565年)、竹中重治と安藤守就が岐阜城を占拠後、加治田城主の佐藤忠能を味方にして中濃の諸城を手に入れ(中濃攻略戦)、さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[7]。
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており[8]、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11月9日、正親町天皇は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、[9]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった[10]。
1568(永禄11)年[編集]
上洛[編集]
中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。
武田氏との外交[編集]
美濃国において領国を接する甲斐国の武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。
足利義昭上洛の警護[編集]
永禄11年(1568年)9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[11]。
信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。
1569(永禄12)年[編集]
1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた[12]。 もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。
1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は三好三人衆に協力していた堺に2万貫の矢銭と服属を要求し、支払わせた。
伊勢侵攻[編集]
同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野家当主とした。そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、天正4年(1576年)に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。
第一次信長包囲網[編集]
信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した[13]。
1570(元亀1)年[編集]
4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。
同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。
9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ。
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した[14]。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功[15]。窮地を脱した。
1571(元亀2)年[編集]
第二次信長包囲網[編集]
信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めた(比叡山焼き討ち)。
一方この頃、甲斐国の武田信玄が信長への事前通告なしに徳川領へ侵攻[16]。
1572(元亀3)年[編集]
石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。
7月、信長は近江に出陣(虎御前山の戦い)。嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)の初陣でもあった。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継・富田長繁・毛屋猪介・戸田与次郞らが信長に寝返った。
9月、信長は足利義昭に対して17条の意見書を提出。信長と義昭の関係は決定的に悪化した。
11月、武田氏の秋山虎繁(信友)が、東美濃の岩村城を攻めたが、織田軍に敗退し、岩村城近辺の城はみな織田のものとなった。
徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退。汎秀が討死した。
1573(元亀4、天正1)年[編集]
武田軍は三河に侵攻し、2月に野田城を攻略した(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した[17]。
7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した[18]。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた[19]。
8月、信長は細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。
同月、信長は3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し、長政の母・小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した(執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である)。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退戦で林通政が討死した。
11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。
1574(天正2)年[編集]
長島一向一揆の制圧[編集]
1月、越前で地侍と本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の桂田長俊が殺された。
ほぼ同時期、武田勝頼が東美濃の明知城に侵攻。信長は迎撃に向かったが、到着前に明知城が落城。信長は撤退した。城の位置関係からして、この時は岩村城が武田方に同心していたようである。
3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された。このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した[20]。
7月、信長は数万人の大軍で伊勢の長島一向一揆を殲滅、伊勢を完全に平定した。
1575(天正3)年[編集]
3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万兵の大軍で攻撃し、三好康長を降伏させた(高屋城の戦い)。高屋城を含む河内国の城は破城となり、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立した。
長篠の戦い[編集]
1575(天正3)年4月、三河・長篠城の奥平貞昌が武田から徳川に寝返った。武田勝頼はこれを討つため、15000人の軍勢で長篠城に攻め寄せたが、織田・徳川連合軍38000人に大敗(長篠の戦い)。武田軍に圧勝する[21]。
6月27日、相国寺に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。
越前侵攻[編集]
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。
これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された[22][23]。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。
右近衛大将就任および安土城築城[編集]
11月4日、信長は権大納言に叙任される、また、11月7日にはさらに右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた(足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる)。同日、嫡子の信忠は秋田城介(鎮守府将軍になるための前官)に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。
11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直割領)を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。
1576(天正4年)[編集]
1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始する[24]。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。
第三次信長包囲網[編集]
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
信長は4月、明智光秀・荒木村重・塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した(天王寺砦の戦い)。
その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。
この頃、越後守護で関東管領の上杉輝虎(上杉謙信)と信長との関係は悪化し[25]、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。
1577(天正5)年[編集]
2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ[26]、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。
大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を討ち取った(信貴山城の戦い)。久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻[27]。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。
1578(天正6)年[編集]
1月にはさらに正二位に位を上げている。
3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。
織田方面軍団の編成[編集]
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「軍団」「方面軍」と呼称し[28]、または信長軍・信長機動隊ともいう[29]。
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた[29]。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。
上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家・佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。
- 美濃・尾張・飛騨の抑え・織田信忠・斎藤利治・姉小路頼綱
- 対武田方面・滝川一益・織田信忠軍団(天正元年結成)
- 対本願寺方面・佐久間信盛軍団(天正4年結成 - 天正8年消滅)
- 北陸方面・柴田勝家軍団(天正4年昇格)
- 近畿方面・明智光秀軍団(天正8年昇格)
- 山陰・山陽方面・羽柴秀吉軍団(天正8年昇格)
- 関東方面・滝川一益軍団(天正10年結成)
- 四国方面・織田信孝・津田信澄・丹羽長秀・蜂屋頼隆軍団(天正10年結成)
- 東海道の抑え・徳川家康(形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない)
- 伊勢・伊賀方面の抑え・織田信雄・織田信包
- (紀伊方面の抑え・織田信張)
1578(天正6年)[編集]
中国侵攻[編集]
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。
7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重にはつかなかった。
11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。
1579(天正7)年[編集]
夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。
11月、信長は織田家の京屋敷・二条新御所を、皇太子である誠仁親王に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・邦慶親王を猶子として、この邦慶親王も二条新御所に移っている[30]。
この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた(ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は松平信康#信康自刃事件についてを参照)。また伊勢国の出城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した(第一次天正伊賀の乱)。
1580(天正8)年[編集]
1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。
1581(天正9)年[編集]
鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。
京都御馬揃え~左大臣推任[編集]
天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった[31]。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。
しかし4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。
高野山包囲[編集]
高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえる(高野聖は諜報活動を行っていたともいう)と共に、河内国や大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。
5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。
3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
1582(天正10)年[編集]
武田征伐[編集]
長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。
2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃国の松尾城主・小笠原信嶺、江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。
信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した[32]。また駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。
三職推任[編集]
4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた(三職推任問題)。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。
本能寺の変[編集]
信長は四国の長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。
また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。
5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている[33]。
5月29日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃。この際に光秀は、標的が信長であることを伏せていたことが本城惣右衛門覚書から判明している。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長は、自ら弓・槍を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したという。享年49(満48歳没)。
光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからず、現在まで全く確認されていない。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。
平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。
人物像[編集]
身体的特徴[編集]
- 「中くらいの背丈、華奢な体躯、ヒゲは少なく」「彼は少しく憂鬱な面影を有し」「はなはだ声は快調」
- 「極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ」「戦術に極めて老練」
- 「名誉心に富み、正義において厳格」「自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」。一方で「いくつかの事では人情味と慈愛を示した」
「彼の睡眠時間は短く早朝に起床した」「酒を飲まず、食を節し」 「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ」 「なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった」
- 「貪欲でなく」
- 「彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった[34]」
- 「はなはだ決断を秘め」
- 「非常に性急であり」「対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い」
- 「激昂はするが、平素はそうでもなかった」彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった」「自らの見解に尊大であった」「困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵」
- 「人の扱いにはきわめて率直で」「彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず」「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」「ごく卑賎の家来とも親しく話をした」「信長はほとんど全ての人を『貴様』と呼んだ[35]」
- 神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
- 彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で
相撲 をとらせることをはなはだ好んだ。 - 「一同からきわめて畏敬されていた」「人々は彼に絶対君主に対するように服従した」「万事において人々は彼の言葉に服従した」
- 「彼は善き理性と明晰な判断力を有し」「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な
司令官 として、大いなる賢明さをもって天下 を統治した者であったことは否定し得ない[36]」
- 尾張の僧侶・天沢は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を橋本一巴、弓を市川大介、兵法を平田三位に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆松井友閑をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます[6]。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた。(信長公記・首巻)
- 天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利氏の家臣・安国寺恵瓊は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。
- 浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨を薄濃(はくだみ。漆でかためて金箔などを張る事とされる)にし、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の肴として披露した(信長公記)。これは後世、髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話になっているが、こちらは一次史料にはない(「フロイス日本史」によれば信長は酒を好まなかったという)。髑髏を薄濃にするというのは、死者への敬意を表すものであるとされる。
- 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児(津田信澄)の養育を手配している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する(比叡山焼き討ち、長島一向一揆殲滅)、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない(武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である)など、身内に手厚いともされる。
- 非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。
- 信長は自信家でありながらも世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたとされる(京都公家の日記などから)。
- 長女の徳姫を除くと生前に縁組させた冬姫らの娘達は個人的にも親交のある家臣である前田家、丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、織田家関連の女性には実名が判明している女性が多いため、当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。
- 尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。
- 『信長公記』に次の様な逸話がある。美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ヶ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年(1575年)6月、信長は上洛の途上、山中の人々を集め、木綿二十反を山中の猿に与え、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と言った。人々は感涙したという。こうした行為から、信長は自分の家臣たちには厳しいが、自分に反抗する恐れのない者、特に立場の弱い庶民たちには寛大な所があったと見ることもできる。
- 長篠の戦いの時には、身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、強右衛門の忠義心に報いるために自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられる。その墓は現在も愛知県新城市作手の甘泉寺に残っている。
- 荒木村重の説得に向かった黒田孝高(官兵衛)が帰還せず同時期に孝高の主君・小寺政職が離反したために同調して裏切ったと判断し、息子・松壽丸(後の黒田長政)の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には「官兵衛に合せる顔が無い」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が竹中重治(半兵衛)に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。
- 信長公記などのエピソードによると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。天正9年7月15日のお盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった行動をとっており「言語道断面白き有様」と記述され、相撲のエピソードなどからも祭り好きだと考えられ、自身が参加・主催することを好んだようである。
苛烈と云われる所業[編集]
- 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母の乳房を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる。
- 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判した。新井白石は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。信長と同時代の史料でも「ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『御湯殿上日記』にある程度で、それほど批判はない。また、仏を信仰することは禁止していない。
- 茶坊主に不手際があり、信長が激怒した。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「圧し切り長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという。
- 元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の鋸で首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に[38]、徳川家康も家臣の大賀弥四郎に対して行っており、江戸時代の公事方御定書には極刑の一つとして紹介されている(鋸挽き)。
- 天正2年(1574年)の長島一向一揆で、信長が長島城の一揆衆を「偽装和睦で」討った、とする書籍があるが、これは誤訳である。[39]
- 天正6年(1578年)、畿内の高野聖1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。
- 天正6年(1578年)12月13日、尼崎近くの七松で、謀反を起こした荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『信長公記』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。
- 天正10年(1582年)4月10日、信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは[40]、桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したとされる。また、侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じく殺されたという。ただし、桑実寺の長老に関する記録が本能寺の変以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。また、この逸話の原典となっている『信長公記』には、信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが、「殺した」とは書かれていない。当時、「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗(処罰)の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれているが、こちらでは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうち1人か2人は寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。[41]
- 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動についても、当時は仏教勢力自らが軍事力を持ち、敵対勢力に対して軍事行動を行っていた時代である事も考慮すべきである(例えば当の比叡山延暦寺も、本願寺を焼き討ちするなどの行動をしている)。
- 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の戦国大名の間では当たり前に行われていたもので、信長だけが取り立てて残虐非道であったわけではない。豊臣秀吉が天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した行為[42]、武田信玄・上杉謙信等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を奴隷として売却すること(ルイス・ソテロ等の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。
交友関係[編集]
- 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深かった。特に近衛前久とは最初は敵対していたにも拘らず、鷹狩りという趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。
- 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い。主に森成利(蘭丸)の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』では、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている。
南蛮への関心[編集]
- 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮胴を身に付けていた。アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、弥助と名付け側近にした。
- イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から火縄銃を用いていた。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。ローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年(天正13年)であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。
- ルイス・フロイスに南蛮の目覚まし時計を献上された際は、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。
文化への関心[編集]
- 囲碁の「名人」という言葉は信長発祥と言われている。(本因坊算砂の項を参照)
- 幸若舞『敦盛』の「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。」という一節をよく舞った[6]。一方で、猿楽(能)を嫌った要出典。
- 大の相撲好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していた。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また織田家の家来として正式に採用されることもあったという。また信長は土俵の原型を作ったともいう要出典。
- 上京した際に連歌師の里村紹巴から試され下の句を詠まれた時、即座に上の句を詠んで周囲を感嘆させた(『信長記』)。
- 茶の湯にも大きな関心を示した。これについて、堺の商人との交渉を有利にするため、茶器を家臣の恩賞として利用するためという説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている[43]ことから、純粋に好んでいたようである。
- 三好義継が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と尋ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた[44]。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったかは疑問が残る。また医学的に見れば、武士である信長は若い頃から戦場で多くの汗を流し、平時にも武術の訓練を欠かさなかったため、体力をほとんど使わない京の公家よりも多くの塩分を必要とする体質になっており、必然的に味付けの濃い料理を好む傾向が強かったとも考えられる。
- 「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」 という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく松浦静山『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である[45]。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
「怒りっぽかった」という記録ははっきり言って当てにならない。中世の記録はたいがいこうやって脚色してあるものだからである。考えてみたまえ。庶民が法を犯すたびに怒る統治者など存在するわけがない。まあ短気ではあっただろう。即断即決でなければ生きていけない世の中だったのだから。しかし判断が早いというのと、感情が動き易いということとは全く違う。
脚注[編集]
- ↑ 『国史大辞典』 織田信長の項目 吉川弘文館。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。
- ↑ 『尾州古城志』
- ↑ 「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。
- ↑ 信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。
- ↑ 信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは謡曲の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。(詳細は敦盛 (幸若舞)を参照)
- ↑ 出典:『信長公記』
- ↑ 林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁
- ↑ 前者は綸旨、後者は女房奉書によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。藤井譲治「天皇と天下人」より
- ↑ 藤井譲治「天皇と天下人」より
- ↑ ただし、六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀・六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。
- ↑ 信長公記によれば、当時、岐阜から京都までは3日はかかったという。
- ↑ 藤井譲治「天皇と天下人」より
- ↑ 林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁
- ↑ 大久保忠教の記した『三河物語』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。
- ↑ 近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2009)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007)。
- ↑ 元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007年)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など
- ↑ 室町幕府の滅亡により、室町将軍は天皇王権を擁し、京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失。信長が「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている(神田千里「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002)。
- ↑ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている(『御湯殿上日記』)。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある(神田裕理「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年)。
- ↑ これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に奥州からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。
- ↑ この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より偏諱を賜り信昌と改名している。
- ↑ このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。
- ↑ このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。
- ↑ 「安土」という地名は信長が命名したとも(「細川家記」)、元々あった地名だとも言われる。
- ↑ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
- ↑ 本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった
- ↑ 織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した(手取川の戦い)というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。
- ↑ 無論当時にはそのような名称は無かった。
- ↑ 29.0 29.1 藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁
- ↑ 「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。(藤井譲治『天皇と天下人』より)
- ↑ 「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …(中略)… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」(信長公記)
- ↑ 俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。
- ↑ この時の献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される(江後迪子『信長のおもてなし』2007)
- ↑ 完訳フロイス日本史2 34章(本来の第1部85章)
- ↑ 完訳フロイス日本史2 36章(本来の第1部87章)
- ↑ 完訳フロイス日本史3 58章(本来の第2部43章)
- ↑ 完訳フロイス日本史2 32章(本来の第1部83章)
- ↑ フロイス日本史より
- ↑ 「御侘言申し、長島明け退き候」とあるだけで、許したとは書いていない(他の箇所の「侘言」に対しては許した旨が書いてある)。またそれ以前に、降伏する場合は「(信長に対して)忠節を尽くす」と書いてあり、この「侘言」が降伏に当たるかどうかも怪しい。
- ↑ 安土城と竹生島の間は往復で約30里(約120km)の距離がある
- ↑ 「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」(『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』第32章より)
- ↑ 同年12月5日の羽柴秀吉書状
- ↑ 信長公記より。
- ↑ 『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。
- ↑ q:時鳥#川柳
- 「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」 という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく松浦静山『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である[1]。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。