「朝鮮の歴史」の版間の差分
(LTA:RXY荒らしの差し戻し。) |
|||
(2人の利用者による、間の4版が非表示) | |||
55行目: | 55行目: | ||
;[[箕子朝鮮]](きしちょうせん、? - [[紀元前194年]]):[[中国]]の[[殷]]を出自とする[[中国人]]の[[箕子]]が建国したとされる[[朝鮮]]の伝説的な古代国家。韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の[[平壌]])。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志書、『[[魏略]]』[[逸文]]などに具体的な記述がある。現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』『[[魏略]]』および『[[後漢書]]』には、[[前漢]]建国当時の朝鮮は[[箕子]]の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の[[馬韓]]の地を攻略し、そこで韓王となったという。 | ;[[箕子朝鮮]](きしちょうせん、? - [[紀元前194年]]):[[中国]]の[[殷]]を出自とする[[中国人]]の[[箕子]]が建国したとされる[[朝鮮]]の伝説的な古代国家。韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の[[平壌]])。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志書、『[[魏略]]』[[逸文]]などに具体的な記述がある。現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』『[[魏略]]』および『[[後漢書]]』には、[[前漢]]建国当時の朝鮮は[[箕子]]の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の[[馬韓]]の地を攻略し、そこで韓王となったという。 | ||
;[[辰国]] | ;[[辰国]] | ||
− | |||
== 古代の朝鮮半島 == | == 古代の朝鮮半島 == | ||
62行目: | 61行目: | ||
* [[衛氏朝鮮]](えいしちょうせん [[紀元前195年]]? - [[紀元前108年]]) | * [[衛氏朝鮮]](えいしちょうせん [[紀元前195年]]? - [[紀元前108年]]) | ||
− | : [[考古学]]的に証明できる[[朝鮮]]の最初の[[国家]]。[[中国]]の[[燕 (春秋)|燕]] | + | : [[考古学]]的に証明できる[[朝鮮]]の最初の[[国家]]。[[中国]]の[[燕 (春秋)|燕]]を出自とする[[中国人]]亡命者である[[衛満]]が[[朝鮮半島]]北部に建国した。[[衛氏朝鮮]]は三代[[衞右渠]]の時の[[紀元前108年]]に[[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]に滅ぼされた。その故地には[[楽浪郡]]、[[真番郡]]、[[臨屯郡]]、[[玄菟郡]]の[[漢四郡]]が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を[[植民地]]とした。 |
* [[原三国時代]](BC108 - 4世紀中葉) | * [[原三国時代]](BC108 - 4世紀中葉) | ||
: [[三国志 (歴史書)|三国志]][[東夷伝]]に記述された区分(3世紀ごろ)。()内は現在の行政区分に大まかに当てはめたもので、確定的なものではない。 | : [[三国志 (歴史書)|三国志]][[東夷伝]]に記述された区分(3世紀ごろ)。()内は現在の行政区分に大まかに当てはめたもので、確定的なものではない。 | ||
* [[高句麗]]([[吉林省]]・[[両江道]]・[[慈江道]]) | * [[高句麗]]([[吉林省]]・[[両江道]]・[[慈江道]]) | ||
− | :: [[ツングース系民族]] | + | :: [[ツングース系民族]]による国家。 |
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
* [[遼東郡]]東部都尉([[平安北道]]) | * [[遼東郡]]東部都尉([[平安北道]]) | ||
* [[楽浪郡]]([[平安南道]]・[[黄海北道]]) | * [[楽浪郡]]([[平安南道]]・[[黄海北道]]) | ||
102行目: | 84行目: | ||
:[[ツングース系民族]]による国家 | :[[ツングース系民族]]による国家 | ||
* [[百済]]( - [[660年]]) | * [[百済]]( - [[660年]]) | ||
− | :[[夫余|扶余]] | + | :[[夫余|扶余]]族の支配層と被支配層の韓族の国家。 |
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
:[[唐]]による[[百済]]の[[冊封]] | :[[唐]]による[[百済]]の[[冊封]] | ||
* [[新羅]] | * [[新羅]] | ||
: [[唐]]による[[新羅]]の[[冊封]] | : [[唐]]による[[新羅]]の[[冊封]] | ||
* [[伽耶|伽耶諸国]]( - [[562年]]) | * [[伽耶|伽耶諸国]]( - [[562年]]) | ||
− | : 伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、[[広開土王碑]]文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては[[任那]] | + | : 伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、[[広開土王碑]]文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては[[任那]]という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている。伽耶諸国の地域(半島南部)は史書や碑文の記録から日本([[ヤマト王権]])の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡っては異論も多く存在する。詳細は[[伽耶]]・[[任那]]を参照。 |
* [[耽羅]]([[済州島]])( - [[476年]]) | * [[耽羅]]([[済州島]])( - [[476年]]) | ||
: 耽羅は5世紀末に百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属した。 | : 耽羅は5世紀末に百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属した。 | ||
124行目: | 100行目: | ||
* [[熊津都督府]] | * [[熊津都督府]] | ||
: [[唐|唐朝]]が設置し、現在の[[忠清南道]]に相当する[[百済]]旧域の経営を目的に設置された地方機関。 | : [[唐|唐朝]]が設置し、現在の[[忠清南道]]に相当する[[百済]]旧域の経営を目的に設置された地方機関。 | ||
− | [[唐]]は[[660年]]に百済を滅ぼし、[[668年]]には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林大都督府として半島全域を藩属国から[[羈縻州]]としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から[[冊封]]を許された。 | + | [[唐]]は[[660年]]に百済を滅ぼし、[[668年]]には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林大都督府として半島全域を藩属国から[[羈縻州]]としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から[[冊封]]を許された。 |
*433年 [[羅済同盟]] | *433年 [[羅済同盟]] | ||
*612年 [[隋の高句麗遠征]] | *612年 [[隋の高句麗遠征]] | ||
133行目: | 109行目: | ||
*670年 [[唐・新羅戦争]] | *670年 [[唐・新羅戦争]] | ||
− | [[5世紀]]後半から[[6世紀]]半ばに、[[日本]]のものと同じ[[前方後円墳]]が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。[[全羅南道]]では、日本にしかない原石からつくられた[[勾玉]] | + | [[5世紀]]後半から[[6世紀]]半ばに、[[日本]]のものと同じ[[前方後円墳]]が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。[[全羅南道]]では、日本にしかない原石からつくられた[[勾玉]]をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している。 |
=== 統一新羅・渤海・後三国時代 === | === 統一新羅・渤海・後三国時代 === |
2020年1月13日 (月) 23:42時点における最新版
朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。
目次
概説[編集]
朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで東シナ海の大部分は陸地であり、日本列島と陸続きだったが海面上昇により切り離され、紀元前4000年ころまで海進は進んだ。紀元前4000年頃から南部・西部で陸での稲作が始まったとする意見もあるが、証拠となる物は見つかっていない。朝鮮半島において学術的な検証が可能となる最初の国家は箕子朝鮮、ある程度実情が分かるのは衛氏朝鮮からである。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、史記等の記述や考古調査から前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め、後に周王朝が侯国に封じたとする。衛氏朝鮮は前194年に燕出身の将軍であった衛満が箕子朝鮮の王・箕準を追い出して建国した。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間直轄支配。
- 鳥越憲三郎は、「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」と記している。
- 渡辺延志朝日新聞記者は、「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた」と説明している。
- 武光誠は、「魏志倭人伝は、朝鮮半島にあった魏の植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」と述べている(武光誠「古代史最大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『月刊現代』2008年6月号 87頁)。
- 別冊宝島は、「ソウル周辺や江原道、さらに北の北朝鮮は中国の植民地で楽浪郡といった」と記している。
- 桜井誠は「漢の武帝によって真番・臨屯・玄菟・楽浪の漢四郡が設置されるなど、中華帝国の千年属国」「中国・前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島に設置した四つの郡県(中国の行政単位)。三国時代に至るまで、代々中華帝国の支配を受けていた」「中国前漢武帝の時代に衛氏朝鮮は滅ぼされ、その地に楽浪郡をはじめ真番郡、臨屯郡、玄菟郡のいわゆる漢四郡が設置されており、侵略を跳ね返したどころか漢帝国の一地方となっていた」と説明している。
)されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。
4世紀中頃に、満州の鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の多くの部分を征服するが、4世紀末までに百済は高句麗により朝鮮半島半島北部から駆逐され、朝鮮半島北部は高句麗によって征服された。南部は倭と関係の深い百済と新羅が在り共に倭に従属していたが、新羅は7世紀中葉に入って日本が白村江の戦により大陸での影響力を完全に喪失する以前も、度々朝貢を怠るなど叛服常無かった[1]。高句麗は4世紀の広開土王の代に、仏教を篤信するとともに、南に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗を中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。百済は371年、漢山城(今のソウル松坡区)を都としていたが、高句麗の攻撃により落城し、扶余に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、大和朝廷に従属し、儒教や仏教を大和朝廷へ伝えた。南端部には倭国の影響下にあって(旧説では「支配下」にあったとする)諸小国の雑居する任那加羅があった。倭国が大陸での支配力を失うと伽耶は特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)が主導する形になったが、倭国への朝貢は途絶えることなく行われていた後に諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。
しかしながら、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』によると4代目の王が倭国北東から渡来した王であったり、『三国志東夷伝』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王を遣わしていた記述があるなど、朝鮮民族としての意識の形成がいつ頃から生じたものか不明瞭である。新羅の後に興った高麗が高句麗継承を主張し、『三国史記』や『三国遺事』を編纂したことからすると、朝鮮民族としての民族意識の萌芽は高麗の時期に形成された可能性が高い。
7世紀に新羅は唐が高句麗、百済を相次いで滅ぼす戦いに参戦した。その後、新羅は唐を突如裏切って唐の行政府に駐留する部隊を殲滅する反乱を起こすと、朝鮮半島の大部分を統一した。しかし唐・新羅戦争に敗北して、自らを大唐国新羅郡と名乗った。高句麗の故地にはツングース系の韃靼族とされる大祚栄が渤海を建国したが渤海を朝鮮の歴史で扱うか否かについては議論がある(東北工程参照)。10世紀に新羅は統一を失い、地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして南北にわたる初の統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。
高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親明を掲げる女真族ともいわれる李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入り差別と抑圧を受けた。
朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蒋英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀、簡儀自)の製作、時間を表す仰釜日晷、自擊漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。
16世紀に豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てた清の侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。一方でハングルが専ら大衆の娯楽や通信に使われたように、この時代は官僚を輩出するエリート階層である両班を中心に中国文化の影響は依然として深く、特に王朝の国教というべき地位にあった儒教の影響は社会の末端に至るまで広く浸透していた。ハングルが漢字との混交文によって初めて公的の書き文字に採用されるのは、日清戦争が日本の勝利に終わったことで李氏朝鮮が清の冊封体制および羈縻支配から離脱した1894年である。
1776年22代王で正祖が即位する。正祖は即位初期には洪国栄などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若鏞や朴斎家、洪大容、柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派や実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。
19世紀末から欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、1910年に全土が日本に併合された。1919年に三・一独立運動が起きている。1920年に抗日パルチザンは尼港事件や間島事件により日本領事館を焼き討ちにしている。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立している。
また李氏朝鮮末期から日本統治期や朝鮮戦争を挟んで軍政期にかけて、様々な理由で清、ロシア(後にソ連)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。
先史時代・古朝鮮時代[編集]
先史時代[編集]
考古学的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。
- 旧石器時代ko:한국의 구석기 시대 も参照
- 新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器) BC4000年(もしくは5000年) - BC1000年
- 無文土器時代(BC1000年頃 - BC100年)
古朝鮮時代[編集]
考古学的考証のない事項はここに記す。
黒い山葡萄原人
- 平壌の大同江流域で誕生したとされる原人。この原人が朝鮮人の祖先であり、朝鮮人は人類発祥の時から朝鮮半島に代々暮らしてきたとされる。(朝鮮中央放送の科学番組による主張だが根拠は示されていない。そもそも、これが事実なら朝鮮人は新人ではないと言うことになる)}}
- 檀君朝鮮(檀君神話)
- 檀君は神話上の人物。『三国遺事』に、『魏書』からの引用(ただし、現存する『魏書』にはそのような記述は存在しない)として、中国の堯帝時代に白頭山に降臨した天神の子・桓雄と熊女の間に生まれた檀君が平壌城で建国したと記されている。大韓民国(韓国)では檀君即位の年をB.C.2333年とし、それから年を数える「檀君紀元」(檀紀)という紀元も存在する。近年朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、コンクリート製の檀君陵を復元しているが、その考古学的根拠は全くない。韓国人の宗教上の崇拝対象である。
- 箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年)
- 中国の殷を出自とする中国人の箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の平壌)。『三国志』魏志書、『魏略』逸文などに具体的な記述がある。現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。『三国志』『魏略』および『後漢書』には、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略し、そこで韓王となったという。
- 辰国
古代の朝鮮半島[編集]
衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代[編集]
朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた。戦国時代、燕は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた。秦代は遼東郡の保護下にあった。秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、衛氏朝鮮が成立した。
- 考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家。中国の燕を出自とする中国人亡命者である衛満が朝鮮半島北部に建国した。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時の紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされた。その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を植民地とした。
- 原三国時代(BC108 - 4世紀中葉)
- ツングース系民族による国家。
- 遼東郡東部都尉(平安北道)
- 楽浪郡(平安南道・黄海北道)
- 帯方郡(黄海南道。ただし、京畿道まで含むとする説もある。)
- 北沃沮(咸鏡北道)
- 東沃沮(咸鏡南道)
- 濊(ワイ)(江原道)
- 馬韓(京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。)
- 辰韓(慶尚北道・慶尚南道)
- 秦からの移民とする説もある。古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という『三国志』魏書辰韓伝「辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している)」によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という。また、『北史』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている)」との記述がある。水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている(『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁)。そのため、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は、公式研究書で新羅に対して、「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している。辰韓十二国があり、その中の斯蘆国が発展して、国家の態をなしたものが新羅と見られている。
三国時代[編集]
南部の三韓は、馬韓諸国のなかの伯済が百済に、辰韓諸国の斯盧が新羅となり、弁韓諸国は統一した政権を形作ることなく伽耶諸国となった。
- 高句麗( - 668年)
- ツングース系民族による国家
- 伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、広開土王碑文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては任那という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている。伽耶諸国の地域(半島南部)は史書や碑文の記録から日本(ヤマト王権)の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡っては異論も多く存在する。詳細は伽耶・任那を参照。
- 耽羅は5世紀末に百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属した。
- 于山国は6世紀初めに新羅に服属した。
唐は660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林大都督府として半島全域を藩属国から羈縻州としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から冊封を許された。
5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している。
統一新羅・渤海・後三国時代[編集]
- 初めての統一政権。唐・新羅戦争に敗れて大唐国新羅郡と名乗る。
- 新羅の王子が後高句麗を立てる。
- 後百済は農民出身の甄萱が立てる。
中世の朝鮮半島[編集]
- 高麗
- 918年 後高句麗の豪族の王建が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国する。
- 933年 後唐の冊封を受ける。
- 935年 新羅の敬順王、高麗に国を譲渡し、ここに新羅滅亡す。
- 936年 後百済を滅ぼし朝鮮半島統一。
- 976年 田柴科制の創設。
- 1010年 契丹の侵入を撃退。
- 1018年 契丹の再侵入。姜邯賛の活躍により契丹軍を殲滅(亀州大捷)。
- 1033年 高麗の長城の建設開始。
- 1095年 李資義の乱。
- 1126年 李資謙の乱(ko:이자겸)。 金に服属。
- 1135年 妙清の乱(ko:묘청)。
- 1170年 庚寅の乱。以後武人政権が続く。
- 1196年 崔忠献によるクーデター。崔氏政権の始まり。
- 1232年 モンゴル帝国の侵略始まる(→モンゴルの高麗侵攻)。
- 1259年 高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、モンゴル帝国(元)の属国化。
- 1260年 忠烈王は、大ハーンに即位したフビライの娘婿となる。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル貴族や時には皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。高麗王の母は、みなモンゴル人となり、4代の高麗王は元皇帝の娘婿となる。
- 1270年-1273年 武人派の軍隊三別抄の反乱。
- 1274年・1281年 忠烈王の要請に応えた元の協力を得ての2度の日本侵攻(元寇)への出兵により甚大な被害を受ける[2][3]。
- 1289年 元の征東行省が常設され、元朝の領土化。
- 1350年 この頃より倭寇に悩まされるようになる(「前期倭寇」~15世紀前半)。
- 1351年 恭愍王即位(~1374年)。
- 1354年 共愍王による反元運動が始まる。
- 1356年 元軍が高麗から撤退(双城総管府を回復)。
- 1365年 辛盹による改革政治(~71)。
- 1374年 恭愍王が暗殺される。禑王が即位(~88)。
- 1388年 親明派の武将李成桂(女真族ともいわれる[4])がクーデターを起こし実権者になる(威化島回軍)。
- 1391年 科田法の制定。
- 1392年 鄭夢周が暗殺される。
- 高麗時代前時期にかけて朝鮮に異民族が帰化した数字は23万8000人余りに達する[5]。帰化した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて官僚にたくさん進出した。帰化した渤海人は契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、江南地方出身帰化人である[5]。帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい[5]。京仁教育大学校の朴チョルヒ教授は、韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述され、これら帰化人の存在と文化的影響に対し教科書は沈黙していると批判している[5]。
- 征東等処行中書省(征東行省)
- 東寧府
- 双城総管府
近世の朝鮮半島[編集]
- 朝鮮国時代(朝鮮王朝・李氏朝鮮)
- 1392年 李成桂(女真族ともいわれる[4])が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位。明より権知高麗国事として認められる。
- 1393年 李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる。明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の2案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ。
- 1398年 第一次王子の乱。
- 1400年 第二次王子の乱。
- 1404年 室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。
- 1418年 太宗が譲位して、世宗が即位(~1450)。
- 1419年 倭寇征伐を理由として対馬に遠征する(応永の外寇)。
- 1420年 集賢殿設置。
- 1432年 四郡六鎮設置。
- 1443年 訓民正音の制定(1446年公布)。
- 1453年 癸酉靖難。首陽大君(のちの第7代国王・世祖)による政権奪取。
- 1456年 丙子冕獄(死六臣が処刑される)。
- 1466年 職田法の制定。
- 1467年 李施愛の乱。
- 1468年 世祖が崩御し睿宗即位(1469年に崩御)。南怡の謀叛事件が起こる。
- 1474年 成宗の治世に『経国大典』頒布(1485年に施行)。
- 1498年 士林派に対する弾圧が始まる(戊午士禍)。
- 1504年 甲子士禍が起こる。
- 1506年 燕山君がクーデターにより失脚し、中宗が即位(中宗反正)。
- 1510年 在朝日本人の貿易活動等を統制したため、3港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる(三浦の乱)。
- 1519年 己卯士禍が起こる(趙光祖の改革政治が挫折)。
- 1545年 仁宗崩御(在位1544年-1545年)。明宗即位。乙巳士禍が起こる。
- 1555年 備辺司設置。
- 1559年-1562年 林巨正の乱(ko:임꺽정)。
- 1567年 宣祖即位。勲旧派の終焉。以後、士林派同士の対立が続く。
- 1575年 東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)。陶山書院建立。
- 1589年 鄭汝立の乱(ko:정여립)。
- 1592年-1598年 文禄・慶長の役。朝鮮では壬辰倭乱と呼ぶ。
- 1607年 朝鮮より回答兼刷還使が来日(→朝鮮通信使を参照のこと)。
- 1608年 京幾道で大同法を実施。以後、約100年をかけて全国に拡大。
- 1609年 李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される。
- 1613年 七庶の獄。
- 1615年 申景禧の獄。
- 1616年 光海君の明・金中立外交。
- 1619年 サルフの戦い。
- 1623年 仁祖反正で光海君廃位。
- 1624年 李适の乱(ko:이괄의 난)。
- 1627年 丁卯胡乱。
- 1636年 清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)。朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城。
- 1637年 仁祖降伏(三田渡の降伏)。明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)。
- 1654年、1658年 羅禅征伐(ko:나선정벌)。
- 1660年 己亥礼訟。
- 1674年 粛宗即位(在~1720年)甲寅礼訟により、南人が政権を握る。
- 1680年 庚申換局。
- 1683年 西人が老論と少論に分裂。
- 1689年 己巳換局。
- 1694年 粛宗の治世に甲戌の獄起こる。
- 1701年 巫蠱の獄(張禧嬪が賜死)。
- 1712年 白頭山に定界碑を建立。
- 1716年 丙申処分。
- 1721年-1722年 景宗の治世に、壬寅の獄起こる(辛壬士禍、ko:신임옥사)。
- 1724年 英祖即位(在~1776)。
- 1728年 李麟佐の乱(ko:이인좌의 난)。
- 1750年 均役法を実施。
- 1762年 英祖の治世に荘献世子事件起こる。老論に対立していた荘献世子が政界の陰謀(デマ)により、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する。
- 1776年 正祖即位(~1800)。奎章閣設置。
- 1784年 李承薫が天主教の書籍を持ち込む。
- 1791年 辛亥邪獄。
- 1796年 正祖による水原華城(世界遺産)建設。朝鮮後半の全盛期。
- 1801年 辛酉邪獄(カトリック弾圧)。
- 1804年 純祖の治世、安東金氏による権勢政治( - 1863年)。士林派の終焉。
- 1811年 洪景来の乱(地方差別に反発した一揆、ko:홍경래의 난)。
- 1862年 壬戌民乱
- 1863年 哲宗崩御。高宗即位。大院君政権の成立。
- 1866年 ジェネラル・シャーマン号事件。キリスト教徒の弾圧(丙寅教獄)。フランスは抗議のため、軍艦・兵士を派遣し、江華島の一部を占拠(丙寅洋擾)。
- 1868年 オッペルト事件。
- 1873年 大院君追放、閔妃を中心にした閔氏政権の成立。
- 1875年 江華島事件。日本の軍艦に向けて朝鮮が突然発砲して、応酬合戦となった事件。
- 1876年 明治新政府と日朝修好条規を結ぶ。
- 1882年 米朝修好通商条約。壬午軍乱(壬午事変)起こる。中朝商民水陸貿易章程を結ぶ。
- 1884年 甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事大派の勝利となる。
- 1885年 巨文島事件。露朝密約事件(第一次)。
- 1886年 露朝密約事件(第二次)。
- 1888年 露朝陸路通商条約。
- 1894年 甲午農民戦争(東学党の乱)。大院君派と閔妃派の対立が深まる。日清戦争で陸上戦闘の主戦場となる。甲午改革(~1896年)。
- 1895年 下関条約成立。朝鮮が独立国であることを確認。朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される。親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が禹範善により殺害される(乙未事変)。三浦梧楼の指揮によって殺害されたとする説もある。
- 1896年 露館播遷(~1897年2月20日)。
近代[編集]
- 大韓帝国 1897年-1910年(日本の保護国の時期 1905年-1910年)
- 1897年 日清戦争(1894年-1895年)の清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改める。
- 1904年8月23日 第一次日韓協約を結ぶ。
- 1905年7月 高宗のロシア帝国への密使が発覚する。
- 1905年7月29日 桂・タフト協定。韓国には日本が、フィリピンにはアメリカ合衆国が影響力を持つと、相互に認め合う。
- 1905年11月17日 第二次日韓協約を結ぶ。外交権を失い、日本の保護国となる。
- 1906年 韓国統監府設置。
- 1907年 国債報償運動。ハーグ密使事件。高宗が退位し純宗が即位。第三次日韓協約。内政権が日本の管轄下に入る。韓国軍の解散が定められる。
- 1909年 韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺される。朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)。
- 日本統治時代
- 1910年 日韓併合条約を結び、日本に併合される(韓国併合)。京城に朝鮮総督府が設置される。
- 1919年 三・一独立運動。
- 1920年 朝鮮を日本の食料供給地とする産米増殖計画が始まる。
- 1920年 シベリア東部のニコラエフスクで共産革命が激化し、朝鮮パルチザンが赤軍と協力して日本軍を全滅させる尼港事件が起こる。
- 1920年 梨本宮方子女王が李王家に嫁ぐ。
- 1920年 満州東部の間島で独立軍 (朝鮮)の抗日武装闘争が激化し、間島事件、青山里戦闘が起こるが、翌年自由市惨変で壊滅。
- 1929年 光州学生事件。
- 1931年 朝鮮排華事件。朝鮮から中華街がなくなる。
- 1933年 朝鮮語学会がハングル綴字法統一案を発表する。
- 1934年 朝鮮農地令施行。
- 1937年 白白教事件。
- 1937年10月2日 皇国臣民ノ誓詞が発布される。
- 1938年 国家総動員法施行。
- 1940年 2月から8月にかけて創氏改名が行われる。
- 1941年12月8日 日本がイギリスやアメリカ合衆国に宣戦布告。(太平洋戦争(大東亜戦争)勃発)
- 1942年 朝鮮語学会事件。
- 1944年 朝鮮徴兵令施行。
- 1945年8月8日 ソビエト連邦が日本に宣戦布告。ソビエト連邦軍が朝鮮半島東北部に侵攻。
- 1945年8月14日 北緯38度線で朝鮮を分割し、日本軍を分割武装解除することを内容とする「一般命令第一号」を、トルーマン米大統領がソビエト連邦に通告。ソビエト連邦も命令内容に同意した。
- 大韓民国臨時政府
現代[編集]
連合軍軍政期[編集]
連合軍軍政期には「北朝鮮」およびに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。
- 連合軍軍政期
- 1945年8月15日 第二次世界大戦で大日本帝国敗北。朝鮮半島での日本の統治終了、連合国軍の管轄になる(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)。
- 1945年9月6日 南側で呂運亨らによって結成された「朝鮮建国準備委員会」、「朝鮮人民共和国」樹立を宣言。
- 1945年9月8日 ホッジ中将の米第24軍団第一陣、仁川に上陸。9日、朝鮮総督府が降伏文書に調印。
- 1945年9月11日 アメリカが在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を宣布。
- 1945年10月 アメリカが「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の承認を拒否する。
- 1945年10月 北朝鮮共産党臨時人民委員会樹立。
- 1945年12月 モスクワ三国外相会議。朝鮮半島の英米ソ中の4か国による最長5年間の信託統治の必要性決定。
- 1946年2月3日 通化事件で共産党による圧政に蜂起した日本人数千人が朝鮮人民義勇軍と東北民主連軍に虐殺される。
- 1946年10月1日 大邱10月事件で230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起。
- 1947年2月 北朝鮮人民委員会樹立。
- 1948年4月3日、済州島四・三事件が起こり、多数の済州島民が虐殺されるとともに日本に密入国する。
- 1948年10月19日、麗水・順天事件が起こり、多数の市民が虐殺されるとともに日本に密入国する。
- 1948年 米ソ両国が、南北にそれぞれ自国の傀儡政権を立てる(8月15日に南側で「大韓民国」(以下、韓国)、9月9日に北側で「朝鮮民主主義人民共和国」(以下、北朝鮮)が樹立宣言。
朝鮮戦争[編集]
- 朝鮮戦争(韓国では「韓国戦争」「韓国動乱」「六二五事変」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる内戦。)
大韓民国(韓国)[編集]
- 第一共和国
- 第二共和国
- 国家再建最高会議(軍政)、第三共和国、第四共和国
- 朴正煕政権…第五代 - 九代大統領(1963年 - 1979年)
- 1961年 クーデターにより政権を奪取。
- 1963年 大統領の座に就く(第三共和国)。
- 1965年 日韓基本条約を締結する。
- 1965年 ベトナム戦争にアメリカ合衆国の承諾を得て参戦。
- 1965年 人民革命党事件(第一次)が発生。
- 1968年1月21日 青瓦台襲撃未遂事件。
- 1968年2月12日 フォンニィ・フォンニャットの虐殺。
- 1971年8月23日 実尾島事件。
- 1971年12月6日 国家非常事態を宣布[7]。
- 1972年7月4日 北朝鮮と同時に南北共同声明(七・四共同声明)を発表。
- 1972年10月17日 維新体制を構築(第四共和国)。
- 1974年8月15日 在日韓国人に大統領夫人が殺害される(文世光事件)。
- 1974年 民青学連事件が発生。
- 1979年 側近のKCIA長官に暗殺される(朴正煕暗殺事件)。
- 崔圭夏政権…第十代大統領(1979年 - 1980年)
- 朴正煕政権…第五代 - 九代大統領(1963年 - 1979年)
- 第五共和国
- 第六共和国
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)[編集]
- 金日成体制(1945年 - 1994年)
- 1949年 南北朝鮮の主要政党団体の集結により、「祖国統一民主主義戦線」が結成される。
- 1949年6月 朝鮮労働党成立。金日成が中央委員長に就任。
- 朝鮮戦争後、金日成が朴憲永などを粛清。
- 1956年4月 朝鮮労働党第3回大会開催。
- 1956年8月29日 ソ連派のパク・チャンオク、延安派のチェ・ジャンイクなどが金日成に粛清される。
- 1958年8月 社会主義制度が確立される。
- 1961年9月 朝鮮労働党第4回大会開催。
- 1968年1月23日 プエブロ号事件。
- 1970年11月 朝鮮労働党第5回大会開催。
- 1971年7月31日 加賀市沖不審船事件。
- 1972年7月4日 大韓民国と同時に南北共同声明(七・四共同声明)を発表。
- 1972年 金日成の反勢力粛清が完了し、朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が制定される。
- 1973年 金日成の後継者問題が浮上。金正日が政治の表舞台に出始める。
- 1973年 渡辺秀子さん2児拉致事件。
- 1977年 横田めぐみさん拉致事件。
- 1977年 「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」における国家の公式理念が、マルクス・レーニン主義から主体思想に変更される。
- 1978年 田口八重子さん拉致事件。
- 1980年 松木薫さん拉致事件。
- 1980年10月 朝鮮労働党第6回大会開催。
- 1983年 有本恵子さん拉致事件。
- 1985年4月25日 日向灘不審船事件。
- 1987年1月 第3次7ヵ年計画(事実上最後の経済開発計画)の遂行に着手。(1993年に未完遂で終わる。)
- 1989年7月 平壌で第13回世界青年学生祭典が開催される。
- 1991年9月17日 国際連合加盟(大韓民国と同時加盟)
- 1994年7月8日 金日成死去。
- 金正日体制(1997年 - 2011年)
- 1998年 弾道ミサイルテポドン1号発射。
- 1999年3月23日 能登半島沖不審船事件。日本国海上警備行動発令。
- 2000年 韓国の金大中大統領との初めての南北首脳会談を実施。6.15南北共同宣言を発表。
- 2001年12月21日 九州南西海域工作船事件。日本国海上保安庁と交戦。
- 2002年 日朝首脳会談、日朝平壌宣言。日本人拉致の事実を認めて拉致被害者5名を日本に帰国させる。
- 2002年5月8日 日本総領事館脱北者駆け込み事件
- 2002年9月4日 日本海中部海域不審船事件。
- 2004年 日本人拉致被害者の遺骨を返還。日本側が遺骨の正式調査を行い、他人の遺骨だと発表するが、北朝鮮側はこれに反発。
- 2004年12月9日 日本からの人道支援の残りの15万5,000トンが停止される。
- 2005年2月11日 核兵器製造・保有を公式に認める。
- 2006年7月5日 日本海に向けて弾道ミサイルを7発発射。7発とも日本海に着弾。
- 2006年7月15日 国際連合安全保障理事会が決議第1695号を採択。
- 2006年10月9日 核実験実施を発表。
- 2006年10月15日 国際連合安全保障理事会が決議第1718号を採択。
- 2011年12月17日 金正日死去。
- 金正恩体制
※並列して存在する国は、数字リストをつけた。
脚注[編集]
- ↑ 『日本書紀』、『宋書』夷蛮列伝、蕭繹『職貢図』
- ↑ 『高麗史』一百四 列伝 巻十七 金方慶伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。..(中略)..用本國船様督造。」
- ↑ 『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」
- ↑ 4.0 4.1
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 初等教科書、高麗の時「23万帰化」言及もしない『京郷新聞』2007年8月21日
- ↑ 今日の歴史(1月7日) 聯合ニュース 2009/01/07
- ↑ 今日の歴史(12月6日) 聨合ニュース 2008/12/06
関連項目[編集]
- 百済考古遺跡
- 迎恩門
- 事大主義
- 駐日アメリカ合衆国大使館 - 2006年に駐日アメリカ合衆国大使館から接続されたIPユーザーがウィキペディアの朝鮮の歴史の朝鮮近代史の項目を削除し、「朝鮮に歴史なし 昔から中国、日本、偏狭蛮族の属国」との書き込みを行った[1][2]。(WikiScanner#話題となった主な編集の項目を参照)
- 朝鮮教育史
- 朝鮮の歴史観
- 日朝関係史・一進会・日鮮同祖論・韓日合邦を要求する声明書