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芦田 均
(あしだ ひとし)
Hitoshi Ashida.jpg


47
日本の旗 日本日本国 内閣総理大臣
在任期間 1948年3月10日
 - 1948年10月15日

生没年月日 1887年(明治20年)11月15日

 - 1959年昭和34年6月20日

出生地 京都府福知山市
出身校 東京帝国大学法学部卒業
学位・資格 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
法学博士
前職 衆議院議員
外務大臣
民主党総裁
世襲の有無 2世
父・芦田鹿之助
選挙区
当選回数 衆11回
党派 民主党
花押
テンプレート

芦田 均(あしだ ひとし、1887年(明治20年)11月15日 - 1959年(昭和34年)6月20日)は日本外交官政治家、第47代内閣総理大臣従二位勲一等旭日桐花大綬章

概観[編集]

第47代首相となった芦田は、敗戦直後の日本政治の中心人物の1人だった。鳩山一郎を中心とする日本自由党の結成において、芦田は指導的役割を果たした。幣原内閣に入閣しながら、総選挙後の“居座り”に対して厳しく対応し、単独閣僚を辞任して内閣をして内閣総辞職に至らしめた。

第1次吉田内閣時代に、衆院憲法改正特別委員長として大いに活躍したことは特筆に価するものだった。1947年には自由党を離党して民主党を創設し自ら総裁に就任した。片山内閣成立にあたっては、これに反対する幣原喜重郎らを抑えて、日本社会党・民主党・国民協同党による3党連立内閣を実現させ、副総理格の外務大臣として入閣。さらに社会党の内紛によって片山内閣が崩壊した後は、禅譲の形で首相に就任した。芦田内閣は昭和電工疑獄事件(昭電事件)により、わずか7か月余りの短命内閣に終わり、晩年は不遇だったが、敗戦直後の活躍には目を瞠るものがあった。

生涯[編集]

前半生[編集]

芦田は1959年6月20日、芝・白金の自宅において死去した。現職の衆議院議員だった。4日後の6月24日、衆議院本会議で追悼演説が行われた。演説したのは1947年から1948年の社会・民主・国民協同3党連立内閣のパートナー・片山哲元首相だった。芦田と片山は大学時代の同級生でもあった。芦田の人生が見事に整理されているので、少し長くなるが片山の追悼演説を引用する。

外交官時代の芦田均

「芦田君は、京都福知山市中六人部の旧家の出でありました。明治20年11月、元本院議員芦田鹿之助氏の次男として生まれ、長じて第一高等学校を経て東京大学法学部に学ばれました。親子2代本院議員として活躍されたのであります。……君は、学生時代から秀才の誉れ高く、在学中、すでに外交官および領事官試験に合格せられた……。明治45年、卒業とともに露国在勤の外交官補として赴任せられ……その後大使館三等書記官、外務書記官兼参事官、大使館一等書記官として欧州各国に歴任せられた……。昭和7年、ベルギー在勤の大使館参事官を最後として退官し、当時横暴をきわめておりました軍部外交と戦わんがために、直ちに立憲政友会に入党し、同年2月の第18回衆議院議員総選挙に京都府第二区から立って、みごと当選の栄冠を得られた……」

政界入り後の芦田の政治活動について片山は高く評価している。第一に、外交問題について軍部の圧力に屈しがちな政府の外交方針に鋭く迫ったこと、第二に、1936年、美濃部達吉排斥運動が起きたとき、美濃部を擁護するため率先して奔走したこと、第三に、1940(昭和15)年、大政翼賛会運動が起こったときには、議会政治を否定するものとして敢然としてこれに反対し、翼賛議員同盟の結成に参加せず、尾崎行雄、鳩山一郎、川崎克らと「同交会」を組織し、翌1941年の翼賛選挙には非推薦で出馬し当選した。また、斎藤隆夫反軍演説の際、除名に反対票を投じた。敗戦とともに、筋金入りのリベラリスト・議会政治家である芦田が活躍できる時代が始まった。前述した敗戦直後の芦田の大活躍は、芦田時代の到来を意味した。しかし、芦田には不運がつきまとっていた。

現実主義者芦田の政治姿勢[編集]

芦田内閣の認証式。

1948(昭和23)年2月の片山内閣崩壊とともに芦田の出番がきたが、芦田の行く手に立ち塞がったのは吉田茂だった。片山内閣崩壊後の内閣のあり方について、片山は「崩壊の原因は社会党の党内事情によるものであって連立政権の政策そのものが行き詰まったわけではない」との立場から、芦田への政権移譲は当然だと主張した。GHQ民政局も片山を支持し、社会・民主・国協の中道連立政権の存続を望んでいた。だが、吉田自由党は片山から芦田への移行は「政権のたらい回し」であるとして芦田の登場を厳しく批判した。新聞各紙もこれに同調し、国民世論も芦田の登場に疑問を持った。芦田政権はスタート時に大きくつまずいたのである。

2月21日の首班指名選挙は、衆院は芦田216、吉田180の僅差だった。参院では芦田102、吉田104で逆転された。衆参両院の議決が異なったため両院協議会が開かれたが、不調に終わり、やむなく衆議院の優位性の憲法規定により芦田内閣は発足した。だが、対する吉田民主自由党は、芦田内閣に反対する幣原派を糾合して社会党を上回る第1党に成長した。芦田は内閣を組織するに至ったが、当時の政府の課題-食糧問題の解決、インフレーションの克服、生産の増強、失業の解決など-はいずれも占領政策の枠内でしか動けないことを十分に知っていた。芦田は当時こう書いている。「私の見る所によれば、占領軍治下における政府としては、誰が政局を担当しても、連合国の占領政策の線に沿って政治を行う以外に道はない」。芦田内閣は弱体であったが、この政権下で多くの重要法案が制定されたことは記憶にとどめるべきだろう。中小企業庁設置法、石炭庁設置法、国家行政組織法建設省設置法、海上保安庁法、水産庁設置法、教育委員会法、日本学術会議法、地方財政法検察審査会法、軽犯罪法警察官職務執行法経済調査庁法などである。

また前任の片山が、社会党委員長・クリスチャンでありながら昭和天皇の護持に心を砕いたのに対し、芦田は憲法に記載されている通り、天皇を元首としてではなくあくまで象徴として扱うことを心がけた。首相就任当時、芦田は、これ以降閣僚の上奏を取り止める旨を奏上した。芦田自身も外相時代、天皇に上奏をほとんど行わなかったため、侍従長にしつこく呼び出された。

芦田内閣の崩壊[編集]

しかし芦田内閣は西尾献金問題と昭和電工疑獄事件(昭電事件)で惨憺たる結末を迎える。西尾献金問題とは、西尾末広社会党書記長が土建業者から50万円を受領した事件である。西尾は政令違反と偽証罪に問われたが、結果は無罪だった。昭電事件は、復興融資など、昭和電工が利便を得るために日野原節三社長によって行われた、政官財工作に伴う贈収賄事件であった。この事件で、栗栖赳夫経済安定本部総務長官と西尾末広前副総理が逮捕され(来栖有罪、西尾一審有罪・二審無罪)、芦田内閣は瓦解した。その上、芦田自身が内閣総辞職後に逮捕され起訴された。しかし判決は無罪だった。昭電事件で事情聴取された者は約2000人、逮捕者64人(うち現職国会議員10人)。裁判の結果は有罪2名のみだった。昭電事件について『自由民主党史』は次のように記述している。

「こうした(昭電事件追及の)司法の動きの背景には、この頃の米国の対日政策の‘改革から復興へ‘という漸次的転換に伴って、それまでGHQ内で圧倒的な力を持っていた民政局に対抗して、G2(参謀第2部)を中心とする反民政局勢力が無視しえない発言力を持つようになったという状況の変化があった。すなわち、芦田連立政権の倒壊は、民政局とG2の権力争いによりGHQが全体として‘指導力‘を弱体化させてきたことを物語っている」

占領軍内部の勢力争いに日本の政治が翻弄されたのである。民政局は社会・民主中道政権を好み、バックアップした。しかし、GHQ内の反民政局派であるG2の力が強まり、民政局派対G2派の権力争いが激化し、昭電事件がこの抗争に利用されたのである。民政局と関係の良かった芦田はこの抗争の犠牲になった。芦田内閣崩壊後の山崎首班工作事件(狙いは吉田首班阻止)は民政局側の最後の反撃だったが、これは成功しなかった。国が占領下に置かれていたがゆえの政局混乱であった。

また、西尾献金問題が派生して政党創設問題が浮上して、芦田自身も証人喚問をされた。占領期以降の晩年は、歴史書を書き残す事に重点を置いた。『芦田日記』は占領期の歴史を当事者の立場で書く為の備忘録であったが、1959年に『第二次世界大戦外交史』を病床で口述筆記により完成させて亡くなった。

年譜[編集]

親族関係[編集]

芦田均はよく「私は丹波の百姓の生まれで…」といって吉田茂の貴族趣味に対抗していたが、芦田家は農家といっても豪農であり、父・鹿之助も衆議院議員を務めた政治家でもあった。均は寿美夫人との間に2男2女をもうけたが、長女・美世は日本鉱業(現・ジャパンエナジー)の社長を務めた下河辺建二の次男・三史に、次女・ルリは大蔵官僚遠藤胖に嫁いだ。長男・治太郎は9歳で早世、次男・富は海上自衛隊に入った。

芦田の娘婿・下河辺三史の兄にあたる孫一(建二の長男)は下河辺牧場の創業者であり、下河辺孫一の次女・牧子はドイツ文学者小沢俊夫に嫁いだ。ミュージシャン小沢健二は俊夫・牧子夫妻の次男である。

また、下河辺三史・美世夫妻の長男・元春は国際政治学者進藤榮一とともに『芦田均日記』(全7巻 岩波書店)の編纂にあたったことでしられており、下河辺元春の弟・晴三(三史・美世夫妻の三男)は音楽プロデューサーとして有名。元春・晴三兄弟はいうまでもなく芦田均の孫である。

著書[編集]

  • 『革命前夜のロシア』(1950年 文芸春秋新社)
    • 新版『革命前後のロシア』(1958年 自由アジア社)
  • 『最近世界外交史』(全3巻 復刻1965年 時事通信社) 戦前に明治図書
  • 『第二次世界大戦前史』(1959年 時事通信社)
  • 『第二次世界大戦外交史』(1960年 時事通信社、復刊.1975年)
    • ※戦前には著作が『バルカン』(岩波新書)ほか約十数冊出された。
  • 『芦田均日記』1~7巻、進藤栄一・下河辺元春編、岩波書店、1986~1992年

関連項目[編集]

  • 芦田内閣
  • 長谷川才次 
  • イスタンブール 外交官として滞在
  • 日本国憲法第9条:第2項「前項の目的を達成するため―」のくだりを付けのちの論争の原因を作った(芦田条項)。芦田は後に息子と兵学校で同期だった信太正道(最後の特攻隊員、「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」代表)に会った際、「軍隊のない国家は国家ではない、交戦権否定など言語道断。いずれ改憲しなくては」と語ったという[1]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]


官職
先代:
日本の旗 日本 内閣総理大臣
第47代:1948年
次代:
先代:
日本の旗 日本 国務大臣副総理
1947年 - 1948年
次代:
先代:
日本の旗 日本 外務大臣
第76・77代:1947年 - 1948年
次代:
先代:
日本の旗 日本 厚生大臣
第14代:1945年 - 1946年
次代:
党職
先代:
結成
民主党総裁
初代 : 1947年 - 1948年
次代:
先代:
日本自由党政務調査会長
第4代 : 1946年 - 1947年
次代:
先代:
結成
日本民主党最高委員
初代 : 1954年 - 1955年
次代:
解散
Flag of Japan.svg          歴代内閣総理大臣          Go-shichi no kiri crest 2.svg
第46代
片山哲
47
1948年
第48代
吉田茂
第代
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第代
第代
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第代
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第代
第代
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第代
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第代
第代
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第代
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第代
第代
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伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衞
寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一
濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
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林銑十郎
近衞文麿
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幣原喜重郎
吉田茂
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鳩山一郎
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大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -

田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衞文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豐田貞次郎 - 東郷茂德 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂德 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂

外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号))
吉田茂
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号))
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号))
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦