中山勝正

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中山 勝正(なかやま かつまさ、1937年10月25日 - 1985年1月26日)は、日本ヤクザ暴力団・四代目山口組若頭豪友会初代会長、元中井組若頭。高知県香美郡物部村(後の香美市)出身。


来歴[編集]

昭和12年(1937年)10月25日、高知県香美郡物部村(後の香美市)で生まれた。

その後、中井組中井啓一組長から盃をもらい、若衆となった。このころ、「自動車愛好会」(後の豪友会の前身)を結成した。白タクを資金源とした。

昭和32年(1957年)、中井啓一が高知市議会議員に当選した。中井組若頭大黒麗夫、高知市松淵町の寺田組寺田貢組長が選挙参謀を務めた。

昭和36年(1961年)1月、中井啓一の二期目の市議会議員選挙で、前回中井の選挙参謀だった寺田貢が立候補した。中井も寺田も落選した。大黒麗夫は、落選の責任を取って、中井組若頭を辞任した。その後、中山勝正が、寺田組の賭場に殴り込んだ。豪友会組員1人が、寺田組組員に射殺された。

同年8月、「自動車愛好会」を「豪友会」に改称した。

同年10月、中井啓一は、中山勝正を中井組若頭に任命した。

昭和47年(1972年)、三代目山口組田岡一雄組長から盃をもらい、山口組直参になった。

昭和52年(1977年)12月、田岡一雄は、加茂田組加茂田重政組長(後の一和会副会長兼理事長)、細田組細田利明組長、正路組正路正雄組長、中山勝正を若頭補佐に据えた。

昭和53年(1978年)11月14日、東京白山山口組若頭山本健一山健組組長)のマンションを訪問した。、尼崎市真鍋組真鍋展朗組長、角定一家木村茂夫総長がいた。細田利明と宅見組宅見勝組長が、山本健一のマンションを訪ね、山本健一に、田岡一雄からの「若頭代行を新設し、山本健一を療養させたい」という伝言を伝えた。山本健一は、若頭代行新設案への返事を保留した。

同日、大阪高等裁判所は山本健一の保釈取り消しを決定した。同日、山本健一は、東京・白山のマンションで、大阪府警の捜査員に「住居制限違反」で拘束され、収監された。

同年、二代目森川組(組長は矢嶋長次)組員が、侠道会森田幸吉会長のところで世話になっていた男(侠道会と盃の関係はなかった)から銃撃された。豪友会などの四国の山口組系組員が今治市に集結し、侠道会と睨み合った。中山勝正が、矢嶋長次と森田幸吉の間に入り、両者は和解した。

昭和56年(1981年)5月、菅谷組菅谷政雄組長が府中刑務所から出所した。菅谷政雄は、すぐに心臓病で神戸市の病院に入院した。菅谷組舎弟頭浅野二郎や菅谷組生島組生島久治組長(通称はサージ)が、山口組若頭補佐・竹中正久竹中組組長。後の四代目山口組組長)、加茂田重政、中山勝正と会い、「菅谷政雄を説得して、引退させる」と伝えた。

同年6月12日、神戸市の料亭で、田岡一雄は、竹中正久、加茂田重政とともに菅谷政雄と会った。田岡一雄は、菅谷政雄自身の口から、菅谷政雄が堅気になった旨を聞き、菅谷政雄からの詫びを受け入れた。山口組が、解散後の菅谷組を吸収することになった。

同年7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。享年68。

同年10月、兵庫県警は「山口組解体作戦本部」を設置した。

同年10月25日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、田岡一雄の未亡人・田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会稲川聖城会長だった。服役中の山本健一が、副葬儀委員長だった。

山口組の運営は、山本健一の出所まで、山広組山本広組長(後の一和会会長)、小田秀組小田秀臣組長、中西組中西一男組長(後の四代目山口組組長代行)、竹中正久、益田組益田芳夫組長(後の益田佳於)、加茂田重政、中山勝正、溝橋組溝橋正夫組長と、田岡文子で行なわれることになった。

同年12月、大阪府警は「山口組集中取締対策本部」を設置した。

昭和57年(1982年)2月4日、大阪府大阪市生野区巽南の今里胃腸病院で、山本健一は、肝硬変腎不全を併発して死去した。これを切っ掛けに山口組四代目跡目問題が浮上した。中山勝正は、竹中正久を山口組四代目に推すグループに属した。
詳細は 山口組四代目跡目問題 を参照

同年4月27日、山本健一の山口組組葬が、田岡邸の隣で行なわれた。施主は田岡文子、葬儀執行委員長は山口組筆頭若頭補佐・山本広、葬儀執行副委員長は、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝橋正夫だった。葬儀出席者は900人だった。

同年5月、山健組健竜会渡辺芳則会長(後の五代目山口組組長)が、山健組を継承し、山口組直参となった。

この後、田岡文子は、山本広に山口組若頭就任を要請したが、山本広は断り、組長代行就任を希望した。小田秀臣は中山勝正を山口組四代目に推したが、中山勝正が断ったため、山本広を推すことにした。

同年6月5日、山本広は、組長代行に就任した。

その後、田岡文子は、竹中正久に若頭就任を要請した。竹中正久は断り、竹中正久は中山勝正を若頭に推薦した。他の直系組長が、中山勝正の若頭就任に反対したため、中山勝正の若頭就任は見送られた。再び、田岡文子が、竹中正久に若頭就任を要請し、竹中正久から承諾を取り付けた。しかし、溝橋正夫が「組長代行だけを置き、若頭は決める必要はない」と主張したため、竹中正久は若頭就任を止め、幹部会への出席を拒否した。

同年6月14日、山本広は電話で、竹中正久に若頭就任を説得したが、竹中正久は拒否した。山本広は、田岡文子に相談した。田岡文子は、竹中正久に電話をし、田岡邸で話し合いことを決めた。竹中正久は、細田利明とともに田岡邸に赴き、田岡文子と話し合った。

同日、兵庫県警は、田岡文子を「三代目姐」と認定した。

同年6月15日午前3時、竹中正久は若頭就任を再度承諾した。

同日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝橋正夫が主席し、竹中正久の若頭就任が了承された。

昭和59年(1984年)1月10日、田岡文子が神戸市熊内町のマンションで、階段から落ち、左足を骨折し。関西労災病院に入院した。

同年6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。

同日、大阪市東区の松美会(会長は松本勝美)事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木組佐々木道雄組長、溝橋正夫、北山組北山悟組長、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。

同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。

同年6月8日、兵庫県警姫路警察署は、竹中事務所への家宅捜索を行なった。容疑は、昭和57年(1982年)7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、昭和57年(1982年)8月に竹中組組員がサイコロ賭博に加わったというものだった。

同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田重政は、副会長兼理事長に就任した。

同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。

同年6月23日、竹中正久は、若頭に中山勝正、舎弟頭に中西一男、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本才三を据えた。竹中正久は、渡辺芳則、宅見組宅見勝組長、嘉陽組嘉陽宗輝組長、一心会桂木正夫会長、角定一家木村茂夫総長を若頭補佐に据えた。竹中正久は、竹中正久の弟・竹中武を竹中組組長に、竹中正久の弟・竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。

同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家大野鶴吉総長、今西組辻野嘉兵衛組長、松浦組松浦繁明組長、大日本平和会平田勝市会長、森会平井龍夫会長、草野一家草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長。

昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。
詳細は 山一抗争 を参照

昭和60年(1985年)1月26日午後9時過ぎ、竹中正久と中山勝正と山口組南組南力組長は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、二代目山広組若頭・後藤栄治に指揮された二代目山広組組員・田辺豊記、同組組員・長尾直美、同組組員・立花和夫に銃撃された。南力はほぼ即死。中山勝正も4時間後に死亡した。竹中正久は銃弾3発を受けたが、自力で自分の車に乗り込み、運転手は南組事務所に向かいながら、無線で救急車の手配を急がせた。南組事務所から、大阪警察病院に搬送された。


中山勝正関連の書籍[編集]

中山勝正関連の映画・オリジナルビデオ[編集]

参考文献[編集]


先代:
豪友会会長
初代: 1962-1985
次代:
岡崎文夫