岡崎勝男

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岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年7月10日1965年10月10日)は、昭和期の政治家、外交官。元内閣官房長官外務大臣第二次世界大戦後、吉田茂によって推進された対米協調外交において重要な役割を担った人物。

来歴・人物

外交官として

神奈川県横浜市生まれ。厚木中学(現・神奈川県立厚木高等学校)、第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学経済学部を卒業、外務省に入省する。パリ在勤中の1924年パリオリンピックに中距離走選手として出場の経験を持つ(5000m:途中棄権、10000m:棄権)。カルカッタ総領事、外務省調査官、情報局情報官を経て外務省調査局長となる(1945年6月)。終戦後の8月19日、連合軍と降伏手続きの打ち合わせのため、河辺虎四郎参謀次長の随員としてマニラに飛ぶ。その後終戦連絡中央事務局長官として、重光葵外相とともに9月2日の戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印式に参加した。

「直接軍政」から「間接統治」へ

ミズーリ号艦上での式典が終わって数時間後の午後4時過ぎ、終戦連絡委員会の鈴木九萬公使はGHQのマーシャル参謀次長より、翌9月3日に告示する予定の「3布告」について告げられた。その内容は(1)一切の政府の権能を連合国最高司令官(SCAP)の権力の下に置き、英語を公用語とすること、(2)SCAP命令への違反者は「占領軍裁判官」が処刑する権利を持つこと、(3)占領軍の発行するB軍票を通貨として認めることの各布告から成っていた。完全な直接軍政である。

知らせを受けた外務省はすぐに岡崎を横浜に派遣し、2日深夜マーシャルに面会の上3布告の公布差し止めを要請、同意取り付けに成功した。翌日には重光外相とマッカーサーの会見により、間接統治の方向で妥結をみた。なぜGHQ側が簡単に布告案を撤回したかについては良くわかっていない。日本側の出方を探るためではなかったかと言われている。

政界へ

1945年10月幣原内閣が発足し、吉田茂が外相になると大幅な人事異動を行った。これを機に岡崎は辞表を提出するが、その身の処し方が吉田の印象に残ったとみえ、直接電話で呼び戻され、しばらく吉田のアシスタントのような仕事をしていた。翌1946年第1次吉田内閣の発足とともに正式に外務省に復帰し、総務局長、事務次官を務める。なお事務次官時代に杉原千畝に退職勧奨を行っている。1949年第24回衆議院議員総選挙に、民主自由党から旧神奈川3区にて立候補し当選する。以後当選3回。

対米協調路線の構築

衆院外務委員長を経て、1950年第3次吉田内閣第1次改造内閣で内閣官房長官として入閣する。1952年には国務大臣として、米国ラスク国務次官補と交渉の上、駐留軍への施設提供・費用分担を取り決めた日米地位協定を締結した。また。同年より外務大臣となり、1954年には日米相互防衛援助協定(MSA協定)を締結した。

外務大臣時代の1953年に、中国残留日本人孤児の日本への引き揚げに関する民間交渉で中国に渡ろうとした高良とみ参議院議員に対し、共産国家への敵視政策から旅券を発行しようとせず、日本国内で大きな問題になった(その後日本の世論に押されて、発行に迫られた)。

これらのように、吉田対米協調路線の忠実な代弁者として、重要な協定の締結にあたってきたが、あまりに熱心過ぎたためか、1954年4月には日米協会でのスピーチで「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」と述べ、第五福竜丸被爆の悲劇の直後であったために国民の憤激を買った。吉田退陣後は1955年1958年と続けて落選し、政界を引退する。その後はアラビア石油相談役、国連大使1961年 - 1963年)などを務めた。

1999年に中公文庫で『戦後二十年の遍歴』<シリーズ戦後史の証言占領と講和6>が刊行された。元版は私家版、シリーズは全8巻。

関連項目


先代:
増田甲子七
内閣官房長官
1950-1951
次代:
保利茂
先代:
吉田茂(兼任)
外務大臣
第80-82代:1952-1954
次代:
重光葵
歴代の外務大臣
外務大臣(太政官達第69号)
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号))
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外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号))
吉田茂
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外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号))
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦