藤原秀郷

提供: Yourpedia
2008年12月4日 (木) 17:56時点における野田憲太郎は松葉裕子のマンコを舐めるのが大好きなバター犬 (トーク | 投稿記録)による版 (新しいページ: ''''藤原 秀郷'''(ふじわら の ひでさと、生没年不詳)は、平安時代前期~中期の武家武将。 == 概要 == 藤原北家の[[...')

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと、生没年不詳)は、平安時代前期~中期の武家武将

概要[編集]

藤原北家魚名の後裔と伝えられ、下野大掾藤原村雄の子。生母は下野掾鹿島某の女とする。俵藤太(田原藤太とも。読みは「たわらのとうだ」「たわらのとうた」)の名字で知られる。官位従四位下、下野武蔵鎮守府将軍室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により、従四位下に昇り下野、武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏平氏と並ぶ武門の棟梁として、多くの家系を輩出した。死後、贈位を受け、贈正二位

経歴[編集]

出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、「実際には下野国史生郷の土豪鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある[1](あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。

俵藤太(田原藤太)という名乗りの初出は『今昔物語集』(巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」)であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。田原藤太の由来説には、相模国淘綾郡田原を名字の地としていたことによるとする説、幼時に京都近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説などがある。

秀郷は下野国(現在の栃木県)の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(18?)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない[2]。更にそのわずか2年後の929年には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。

天慶2年(939年平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、平貞盛と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している[3]。この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。

百足退治伝説[編集]

ファイル:Yoshitoshi Fujiwara no Hidesato.jpg
龍宮城で百足を射る藤原秀郷、明治時代浮世絵師・月岡芳年による版画

近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。

娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、三上山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。

最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、将門を討ち取ることができたという。

秀郷の本拠地である下野国には、日光山赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城明神を猿丸太夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。

また類似した説話が宇都宮下野国)にも現存する。即ち俵藤太が悪鬼・百目鬼を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。

「三上山を7巻き半と聞けばすごいが、実は8巻き(鉢巻)にちょっと足りない」という洒落がある。これは古典落語「矢橋船」などで用いられている。

一族[編集]

秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。

また、京都でも武門の名家として重んじられた結果、子孫は以下のような広範囲に分布した。

藤原秀郷を祭る神社[編集]

脚注[編集]

  1. 豊田武『苗字の歴史』中公新書(1971年発行)、武光誠『名字と日本人』文春新書(1998年発行)など。
  2. 延長5年(927年)に下野国押領使に任じられたとする意見[1]もあるが2年後に追討官符を出されていることから疑問視する意見[2]もある。
  3. 青木和夫 『古代豪族』 講談社(初版小学館)、2007年(初版1974年)、ISBN 4061598112 では、天慶3年正月14日ユリウス暦940年2月24日)に朝廷が将門対策として平公雅ら8人を東国の掾に任命した際に、その一人として叙任されたとする。下向井龍彦 『武士の成長と院政』 講談社、2001年、ISBN 4062689073 では天慶3年(940年)、将門が「新皇」を名乗ったことが京都に伝わったときとの説であり、青木説とほぼ同時期となっている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]