東京都立日比谷高等学校
東京都立日比谷高等学校 | |
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東京都立日比谷高等学校通用門 | |
過去の名称 | 東京府第一中學 東京府中學 東京府尋常中學校 東京府中學校 東京府第一中學校 東京府立第一中學校 東京都立第一中學校 東京都立第一新制高等学校 |
国公私立の別 | 公立学校(都立) |
設置者 | 東京都 |
学区 | |
併合学校 | |
理念 | |
校訓 | |
設立年月日 | 1878年9月26日 |
創立記念日 | 9月26日 |
創立者 | |
閉校年月日 | |
共学・別学 | 男女共学 |
高大一貫教育 | |
中高大一貫教育 | |
中高一貫教育 | |
小中高一貫教育 | |
幼小中高一貫教育 | |
分校 | |
課程 | 全日制課程 |
二部以上の授業 | |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科(8学級) |
学科内専門コース | |
専攻科 | |
別科 | |
学期 | 2学期制 |
高校コード | 13234K |
中学校コード | |
所在地 | 〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-1 |
外部リンク | 公式サイト |
公式サイト | |
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東京都立日比谷高等学校(とうきょうとりつひびやこうとうがっこう)は、全日制普通科の都立高等学校。所在地は東京都千代田区永田町二丁目。
目次
概観[編集]
府立一中を前身とする都立進学校。1878年、現在の文京区本郷に東京府第一中學として開校。戦前は東京府の筆頭中学としてのみならず、いわゆる「府立一中」として全国的に知られていた。「日比谷」の名は、戦後の改称時に当時の菊池龍道校長(第13代・後 駒場東邦中・高 創設者、初代校長)が、1899年~1929年まで校地のあった旧麹町区西日比谷1番地(現千代田区霞が関一丁目1番)に因んで命名した。戦前から戦後にかけては「一中 - 一高 - 帝大」あるいは「番町 - 麹町 - 日比谷 - 東大」などと盛んに喧伝され、第一高等學校、東京大学へ全国最多の卒業生を送り出すトップ進学校の地位を維持、「天下の一中」「天下の日比谷」の矜持を永らく保持してきた。1967年に導入された学校群制度等の影響により、進学実績は少なからず低迷することとなったが、ここ数年は上昇機運にある。現在は文部科学省からスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受けている。)」。東京都立西高等学校・東京都立国立高等学校とともに「都立御三家」と呼ばれている。
教育方針[編集]
- 個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間を育成する
沿革[編集]
略歴[編集]
1878年に東京府第一中學(東京府第一番中學)は、文京区本郷元町の旧・玉藻小學校にて開校した(のち、すぐに官立東京英語學校の空校舎に移る)。創立当初から明治半ばまでは東京府學務課の方針もあって、高等普通教育を教授する機関として独自の正則教育を標榜していたため、中産階級の育成を目的としたと思われる「中人」または「実業人」などと具体的な教育像が定まらないながらも、上級学校への進学面に重きをおいてはいなかった[1]。草創期に、上位学校への進学を目的とした変則科ではなく正則科に入学した夏目漱石がその後二松學舎や成立學舎に移っていったのは、混沌とした学制混乱期と官公立の宿命としての当時の一中の教育のありかたの一例として見ることができる [2] [3]。 その後は、設立以来の東大の要請もあり次第に一高、東大への一貫ルートとしての色合いが濃くなっていった。以後も東京府中學と大學予備門、東大との教員の交流は独特なものがあり、一中→一高→東大とされた所以でもある [4][1]。当初、政府や東京府は従来の寺子屋教育の踏襲や雑多な教科目、その学科偏頗をして各種学校を正規の学校と見做さず、その中で中学校に準じるものの殆どが英語や漢文、数学を主とする進学予備校であった[5][1] 。1890年に勝浦鞆雄校長(第9代・前 東京府尋常師範(現 東京学芸大学)幹事)が就任して後は、生活指導と進学指導が活発化。それまで私立校(今で云う塾・予備校)の後塵を拝していた進学実績は伸びることとなり、明治半ばから後半にかけて[6]、一躍一高合格者数で首位に踊りだした。既にその名は全国に知れ渡っていたが、この頃から一高 - 帝大への一貫ルートとして名実共に世間に認知され、人口に膾炙した。ただ、一高を目指す風潮が強い余り、旧制高校への現役合格者数全体でみた場合、特に昭和の時代に入ってから四中等に及ばないことなどもみられるなど、伝統的にガツガツした面とは無縁である一方で、このように一高への執着が強かったことも権威主義的である一面としてみられた。
1909年に川田正澂(第10代・前 仙台一中校長)が校長に就任すると、後の時代にかけて連綿と続くリベラルと譬えられる校風が花開き、政治・経済方面は言うに及ばず文学・芸術方面に至るまで各界に異色な人材を輩出してゆく基盤が形成されていった[7]。もっとも世間の詰込学校、或いは規則学校という風評どおり官僚的な、厳格な校風で成績にも煩く、この頃(大正9年)、卒業生の為に補習科が設けられもした。1940年より学区制が施行され、その年のみ、筆記なしの口頭試問と内申点のみの入試が導入された[8]。1945年3月の入試は受験者数が定員に満たず、全員合格した。戦後の学制改革を経て、都立一高、さらに現在の日比谷高校に改称した(1950年より男女共学となる)。旧制中学の前半に当たる部分(2年・3年次)を新制新星中学校(のちの青山中)として本校内に設置、その過度期の3年間、日比谷高校の入学試験は実施されなかった。その後は、近隣の麹町中学校・一橋中学校等に日比谷志願の越境通学者が全国から押し寄せ、受験過熱化と共に東大ひいては権勢への登竜門として位置づけられることになる。
1965年に入ると、戦後民主主義の時代風潮や学園紛争の影響下 [9]進学指導を中止する「小尾通達」が申渡され、補習科の廃止や進学指導を中止する動きが広まり教育内容面で大きな変化が起こった。1967年には従来の学区合同選抜制度を廃止して学校群制度を導入(1982年からはグループ合同選抜制度に)、三田・九段と3校群を形成した。そのため受験者が限られたこともあり志願者層が変化(都立諸校の平準化と国私立難関校への流出)、東大合格者数トップの座を失い、同じ都立校である西・戸山などと比較しても急速に東大合格者数上位校からその名が消えた[10]。その後は具体的な進学実績向上策が打ち出せず、1990年代後半以降まで難関国立大学合格実績は低迷が続いた(但し東大合格者は新学制のはじまる1950年以降から毎年輩出している)[11]。
2001年度一般入試より国語・数学・英語の3教科に於いて公立高校としては全国初の自校作成問題が導入された。以前の共通問題は本校の場合満点に近い点数を取る受験生が続出し、適切な合否判定が困難な状況であったと推測され、そうした問題点の解消という面からも校内外で一定の評価がされている。問題の難易は、中~上位私立高校入試程度である。また、中学校の成績評価が相対評価から絶対評価に移行した事から内申書での適切な評価が困難となった為、一般入試では学力検査と内申書の総合点が高い順に男女とも各々上位9割を決定し、残り1割は内申書を無視して学力検査の合計点が高い順に合格者を決定する特別枠が設けられた。同年秋には東京都より進学指導重点校の指定を受け、2003年には都立高校の学区制が撤廃された。その結果、2005年は東大合格者数が14名、早慶への現役合格者数(延べ)が都立高校では最多となるなど着実に実績を挙げ、2007年は東大合格者数が前年を16名上回る28名(現役19名)に達した。2008年は東大合格者数13名(現役4名)であった。
年表[編集]
- 1878年 - 東京府第一中学として本郷元町(現 東京歯科大病院)にて創立。すぐに神田一ツ橋(現 学士会館)に移転。
- 1881年 - 第二中学と合併し、東京府中学校となる。
- 1887年 - 東京府尋常中学校と改称。築地(現 東劇)に移転。
- 1899年 - 東京府中学校と改称、日比谷(現 検察庁付近)に移転。
- 1900年 - 東京府第一中学校に改称(二中、三中、四中が設立の動きへ)。
- 1901年 - 東京府立第一中学校に改称。
- 1929年 - 日比谷から現在の永田町(旧 村井吉兵衛邸宅)に移転。府立高校と同居。
- 1943年 - 都制施行により東京都立第一中学校と改称。
- 1948年 - 学制改革により東京都立第一新制高等学校と改称。
- 1950年 - 東京都立日比谷高等学校と改称。男女共学へ移行。
- 2001年 - 東京都より進学重点指導校に指定。
- 2007年 - スーパーサイエンスハイスクールに指定(指定期間は5年間)
基礎データ[編集]
所在地[編集]
アクセス[編集]
象徴[編集]
校風[編集]
- 「自主・自律の精神」という校風である。
この校風制定には川田正澂(第10代・前 仙台一中校長)が大きく関わっており、イートンハーレーの校風をモデルとしている。
制服[編集]
旧制時代の制服は何度かの変遷が見られたが、最も長期間着られたのは府立一中時代のものであり、前をかぎホックでとめる濃紺の詰襟型上着(現在の両国高校で着用されている制服と同種)に、学年(ローマ数字)・組(甲・乙・丙…をアルファベットに変えたもの)を示す文字バッジと、精勤と認められた生徒はそれを顕彰する精勤章(蜂巣状のバッジ)等を装着していた。
新制高校に移行する際、戦後の物資欠乏による服装混乱期を通して黒(紺)の一般型学生服のボタンを校章入り金燻ボタン5個につけ替えただけの標準服が新たに導入された。それと同時に、徽章として七宝製の正章(現役生は赤地、補習科<後に廃止>生は青地)と、銀色にメッキした略章が作られ、襟にはこの校章バッジのみ装着されることとなった。
現行の標準服は、全国的に多くの伝統校で自由服化が進んだ中、1967年度に、生徒総会、服装問題検討特別委員会など、「着用義務がある」ものとして最終見直しが行われた。このように生徒の総意を反映した検討を経て決定された標準服である歴史的経緯から、今日に至るまで、標準服は生徒の間で愛着をもって主体的に着られている。要出典
男子は、服装のきまりに「標準的な学生服(黒又は紺)」とあり、ホックどめタイプ、金燻ボタンタイプのいずれも可。共学化と共に導入された女子の標準服は、現在では、紺色のテーラーカラーシングル(三ツ釦)及び共布の紺のスカート(前後二本ずつの箱ひだ)である。また、男女ともに、夏季は上着無し、ズボンまたはスカートの服地色はグレイでもよい、とされている。
授業[編集]
伝統的に「100分授業」が知られており、かつては全国各校が取り入れた。現在では、45分枠を2枠連続させた90分授業の形式をとっている。また、戦後の「授業参加」に端を発する「発表授業」(生徒自身がテーマを分担し、自ら授業を行う)も社会科学・自然科学系科目を中心に続いている。
1年次には「数学演習」、2年次には「第二外国語」等の自由選択科目がある。授業では少人数授業や習熟度別授業が行われている。
諸活動[編集]
文化祭、校内誌、学生歌、各種団体等の愛称としてよく用いられる「星陵」は、隣地の日枝神社も含めた周辺一帯の高台が古くから「星野山」、「星ヶ岡」(または星ヶ丘)と呼ばれたことにちなんだもの。学生生活は各種の委員会・部活動が中心となっており、各部とも全国や関東大会出場、都大会上位進出等の経験を誇り、また図書委員会の雑誌『リブラリア』は創刊から50年が経ち、生徒発行のものとしては長い歴史を誇っている。
委員会活動[編集]
- 生徒会役員会 - 2006年度新設(1960年代の学園紛争により一度廃止されたため、長い間存在していなかった)。
- 図書委員会 - 定期的に機関紙「リブラリア」を発行。
- 雑誌委員会 - 「いてふ台」を発行。
- 新聞委員会 - 「日比谷高新聞」を発行。
- 放送委員会 - 星陵祭のCM放映や体育祭の音響面も担当。
- 保健委員会
- 学級委員会 - 近年は機能していない。但し学級委員はクラス毎に選出されており、生徒会の再発足に伴い制度上は復活している。
- 美化委員会
- 体育大会実行委員会 - 体育委員から有志が集まって構成される。
- 合唱祭企画委員会 - 執行部は音楽部を中心に構成され、前年度から準備を始める。
- 星陵祭企画委員会 - 委員の中から更に有志を募って構成された「チーフ会」が、執行部として星陵祭(文化祭)を運営している。
部活動[編集]
- 陸上競技部 - 大正時代の黄金期は OB に日本記録保持者も数人輩出、近年でも静岡国際優勝者 (OB) や関東大会出場者も見かける。
- 弓道部 - 個人戦で関東大会など上位大会出場者も見かける。部員は運動部最多。
- 剣道部 - 2005年度には関東大会出場者を出した。
- 柔道部
- 硬式野球部 - 1946年に都準優勝など。宇野光雄ら六大学野球の選手がコーチに来た伝統もあり、六大学野球で活躍する OB も見かける。
- 軟式野球部 - 硬式から望月秀一(元警察庁官房管理官)らが創部[12]。同好会的。
- サッカー部 -
- ラグビー部 - 1960年に全国ベスト8、当時全国指折りの東京で昭和50年代まで関東大会最多出場校であった。
- 硬式テニス部 - かつて久邇邦久が入学、柔剣道共々川田校長推奨スポーツであった[13]。
- ソフトテニス部
- 水泳部 - 近年、全国大会に出場するなど実力を上げている。
- 男子バスケットボール部 -
- 女子バスケットボール部
- 男子バレーボール部
- 女子バレーボール部
- 卓球部
- バドミントン部
- ダンス部
- 音楽部合唱班 - 最近は部員も増え、総員40人を越えた。2006年度Nコン都東地区予選において久しぶりの出場ながら銅賞、2007年度は予選銀賞受賞。
- 音楽部オーケストラ班 - 最大規模の部。演奏会など校外での活動も盛ん。2006年より連続で全国高等学校選抜オーケストラフェスタ出場。
- 邦楽部 - 近年まで安藤政輝が教えに来ていた。
- 軽音楽部
- 生活科学部
- 茶道部
- フラワーデコレーション部
- 美術研究部 - 美術部の都大会 中央展で入選し全国大会に出場した部員もいる。
- 棋道部 - 全国大会個人の部5位入賞。
- 演劇部 -
- 生物研究会 - 以下、理系クラブの一角。機関紙「FieldNote」発行
- 化学探究部 - 通称「バケタン『化探』」。機関紙「化樂多」発行
- 天文部 - プラネタリウム等の展示を行う。下校時間が5時のため、普段は天体観測が出来ない。機関紙「シグナス」発行。
- 雑草研究部
- 漫画文芸研究同好会
- パソコン同好会
- 物理・地学研究同好会 - 2006年度新設。
学校行事[編集]
体育祭・合唱祭・星陵祭の三つを合わせて「三大行事」とされている。他に、英語スピーチコンテストや夏山キャンプ、部活動合宿、OB・OG等を招いての社会人講演会(1年次)・卒業生講演会(2年次)、英語劇鑑賞教室、スキー教室、柔剣道大会(1年次)、修学旅行(2年次)、球技大会など多彩である。
- 体育大会
- 毎年5月中旬に実施される。事前練習はほとんど無くいわゆる「ぶっつけ本番」であるが、実行委員の指揮の下毎年トラブルもなく進行しており、各出身中学で会長や委員長レベルの役職を経験した生徒たちの能力の高さがうかがえる。赤・黄・青・白の「色団」に分かれ、クラスごとに所属する色団に応じたTシャツ「クラスTシャツ」を作って着るのが伝統となっている。非公開。
- 合唱祭
- 毎年6月中旬に実施され、近年では日比谷公会堂を使用している。毎年3年生はレベルの高い演奏をすることで知られている。旗照夫が審査委員長を務めている。非公開。
- 勝山臨海合宿
- 千葉県安房郡鋸南町勝山で夏期に行われ、古式泳法の一つである神伝流も指導され、男子生徒は白い六尺褌を締めて泳ぐことが知られている(女子は一般的なスクール水着)[1]。参加は自由であり、初心者でも基本から学ぶことができる。
- 星陵祭
- 毎年9月下旬に実施される文化祭。全クラスが約50分の劇を教室で発表しており、他の都立高校の文化祭とは一線を画す試みが成されている。来校者の投票で最も得票数が多かったクラスには「星陵大賞」が贈られる。唯一外部にも公開。
学校施設[編集]
グラウンドに隣接する星陵会館(後援団体である「財団法人星陵会」が運営)は内外の各種催し物等に使用され、外部利用では土地柄から官公界の催事が多い。また1963年以来、全国高体連事務局も会館内に置かれ、会長は通常日比谷高校長が兼ねることになっている。1994年に、その建築物としての歴史的意義を惜しまれつつも老朽化のために取り壊された「講堂」は再建の声も根強く、入学式・卒業式ですら外部施設を使わざるを得ない状況も鑑み、体育館の改修とも並行して検討俎上にあるが、現状では成案には至っていない。
進学指導[編集]
2001年度入試において、公立高校としては初めての自校作成問題を導入。同年秋に東京都の進学指導重点校に指定された。勉学面では卒業生をチューターとした補習や各大学に合わせた講座の開講、予習・先取り学習の方法、実力テスト・模試などによる定点観測などを実施している。
進学指導重点校として、その他の公立・私学諸校に比べ予算・人員面で恵まれた立場にあるが、その利点を単純にかつての近代化の時代における東大を頂点とするエリート量産システムの一貫として位置づけることだけでは使命は全うされない。昨今の時代の先を読みにくい状況や、「ゆとり教育」問題にも端的に見られるような文部科学省の行政方針、また東大など既存の最高学府ですら入試・学内改革が進んでいる状況も考えると、日比谷の進学指導は大変難しい舵取りを余儀なくされているともいえる。
進学実績[編集]
東大合格者数の大きな増減が目立つが、その他主要大学合格者数を見ていくと21世紀に入るまでは年毎の増減は別としてそれ程の起伏の変動は目立たなかったと云える。とはいうものの、時代時代での数字の後退は否めなかった。21世紀以降は各大学合格者数とも持ち直しつつ、慶大など一部大学では全高校中ベスト10内外にランクインするなど、全般的に上昇傾向が見えている。[11]
高校関係者と組織[編集]
関連団体[編集]
- 如蘭会 - 同窓会の名称。
- 星陵会 - 後援会の名称。
高校関係者一覧[編集]
- 東京都立日比谷高等学校人物一覧を参照。
関連学校[編集]
補充学校、分校、本校校舎内で開校など、本校に縁のある学校として、都立戸山高校、都立両国高校、都立大附属高校、東京都立大学、都立豊多摩高校、都立大森高校、港区立青山中学校(新制新星中学校として本校に置かれる)等がある。他に、1937年4月に併設された東京府立第一中學校養正夜間中學校は、戦後も定時制課程としてしばらく東大合格者等も多く輩出してきたが、2005年4月に都立六本木高校として統合された。
関連書籍[編集]
- 『東京府立第一中学校』 須藤直勝 近代文藝社 - 大正12年卒の著者が桜田門時代の追憶と共に母校を振り返り、その筆は現代のエリート育成の在りようにまで及ぶ。
- 『東京府立中学』 岡田孝一 同成社 - 両国高校などに勤務してきた著者による、府立中学の黎明・発展の歴史。
- 『東京府立第一中学校創立五十年史』 東京府立第一中学校編
- 『尋中一中日比谷高校八十年の回想』 如蘭会編
- 『日比谷高校百年史』 上中下 全3巻 同史刊行委員会編 - 上の八十年史と併せて読むと各各の寄稿文の時代背景やらが見えてくるようで面白い。五十年史と併せ3冊とも都立中央図書館に所蔵する。
- 『日比谷高校創立百周年記念レコード』 東芝EMI - 日比谷の歴史や歌、各界OBのインタビューや一中生と梁田貞の校歌独唱など。都立中央図書館に所蔵する。ナレーター千田是也・檜よしえ。
- 『日比谷高校闘争と一教員・生徒の歩み』 大河原礼三 現代書館
- 『赤頭巾ちゃん気をつけて』 庄司薫 中公文庫 - 学園紛争や東大の入試中止などを時代背景とした、一日比谷高校生(映画版薫役:岡田裕介)の青春物語。映画化(東宝)・VD・DVD。
- 『白鳥の歌なんか聞こえない』 庄司薫 中公文庫 - 『赤』に続く元日比谷高校生(映画版薫役:岡田裕介)の青春物語。映画化(東宝)。
- 『青葉繁れる』 井上ひさし 文春文庫 - 仙台一高の劣等生集団と、日比谷高校から転校してきた俊介(映画版俊介役:草刈正雄)らのほろ苦くも爽やかな青春物語。映画化(東宝)。
- 『男たちへ』 塩野七生 文藝春秋 - 著書の中で、在籍当時を振り返る。
- 『母のキャラメル』 ベストエッセイ集 文藝春秋 - 同書所収エッセイ「日比谷高校の江藤淳」 斎藤明 。
- 『愉快に日比谷高校』 久野猛 日本加除出版 - 1993~1998年当時の元学校長による著作。河出書房新社77年文藝賞受賞。
- 『都立高校のすべてがわかる本』 山崎謙 山下出版 - 都立各校の歴史が事細かに綴られている。
- 『むかし〈都立高校〉があった』 奥武則 平凡社 - 筆者は新宿高校出身。丸山眞男や庄司薫を参照しながら「都立のエリート文化」がかつて「確かに」あったこと、またそれを破壊した学校群制度やそれに関わった人たちを批判的に検証してゆく。
- 『父・山本五十六』 山本義正 恒文社 - 府立一中受験のため、一家で青山に引越し青南小に転校してきたこと、父との早慶戦観戦の思い出など。
- 『もう、きみには頼まない―石坂泰三の世界』 城山三郎 文春文庫 - 尋中時代の交流関係(石坂泰三)が描かれている。
- 『小説 東大法学部』 大下英治 広済堂文庫 - 星陵祭実行委など、日比谷時代の交流関係(加藤紘一)が描かれている。
- 『白昼の死角』 角川映画 - 高木彬光原作映画。学士金融・光クラブ事件で戦後のアプレを象徴する山崎晃嗣がモデルの隅田(岸田森)が、鶴岡(夏八木勲)の追憶シーンでは一中の野球投手としてイメージされている。
- 『スクール・ウォーズ 落ちこぼれ軍団の奇跡』 馬場信浩 光文社文庫 - TVドラマ『スクール☆ウォーズ』の原作。花園(当時は西宮)出場時の日比谷高校の前後半でフォワードとバックスを入れ替える戦法が山口良治の脳裏に浮かぶ。
- 『麻布中学と江原素六』 川又一英 新潮新書 - 麻布学園とリベラルな校風で共通する点に着目して、21世紀に入ってなお実質的なライバルに相応しい学校を府立一中・日比谷高校とみている。
- 『同級生交歓』 文春新書 - 『文藝春秋』誌上の同級生交歓シリーズの新書化。谷崎、吉井、辰野、服部(セイコー2代目社長)らが学校玄関前に勢揃いしているシーンなど。
- 『丸山眞男回顧談』(上) 松沢弘陽・植手通有 岩波書店 - インタビュー形式の丸山眞男の回顧談。「府立一中のころ」の章で、遅刻坂で毎回遅刻したこと、不良・正統派・反正統派といった生徒の区分けなど。他に当時は七年制高等学校の方が難関であったが、一中に進んだワケなど。
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 主な参考文献は、『明治前期中学校形成史 府県別編I』 神辺靖光 梓出版社
- ↑ 『今の東京府立第一中学―其の頃一ッ橋に在った―に入ったのであるが、この中学というのは、今の完備した中学などとは全然異っていて、その制度も正則と変則との二つに分れていたのである。正則というのは日本語ばかりで、普通学の総てを教授されたものであるが、その代り英語は更にやらなかった。変則の方はこれと異って、ただ英語のみを教えるというに止っていた。それで、私は、(中略)、此の正則の方であったから、英語は些しも習わなかったのである。英語を修めていぬから、当時の予備門に入ることがむずかしい。』 夏目漱石 『私の経過した学生時代』 「夏目漱石全集10」 筑摩書房
- ↑ 当初の大學予備門諸規則では、母体となった旧・官立東京英語学校生徒に配慮して入学要件を13歳以上としたため、一時期、中学卒業要件は未規定だった。その為、500人内外の生徒数を擁したマンモス校であったが、卒業年を待たずに大学予備門、第一高等中学校に進む者、また、上級学校進学に特化した市井の各種受験校に通う者も多かった。
- ↑ 学制公布以前、明治政府は小学→中学→大学の規則を公示した。そのモデルとして1870年、東京府中學が元・昌平學校(前昌平黌、のち東大)を仮校舎として設置。すぐに旧岸和田藩邸(現在の日比谷高校の場所)にて開校した。翌年、文部省設置と共に引きとられた。1872年に学制が制定されると、政府の試作により東京に第一大学区第一番中學(南校)、第二番中學(官立東京開成學校)が設けられた。これらは1877年に東京大學となり、また、官立東京開成學校に最大の入学者数を送り出していた官立東京英語學校は官立東京開成學校予科と共に同じく1877年に東京大學予備門(のちの一高)として発展的統合。それまで中学の役割を担っていた官立東京英語學校の跡地の空校舎(旧高田藩邸、神田一ツ橋、現・学士会館)に、東京大學初代総理(現 総長)加藤弘之が文部省普通學務局長(のち初代文部次官)辻新次と共に、大學予備門に接続する前課程としての東京府中學設立の要請をした。結局、跡地には脚気病院が入ることとなり、東京府第一中學は文京区本郷元町の旧・玉藻小學校(現在の水道橋 東京歯科大病院付近)にて開校した。また此処において小学→中学→高校→大学の進学階梯及び、国家存立の革新的な教育手段が完成をみた。
- ↑ それまで東京には漢学塾や洋学校も含めた各種学校が日本全国の30%にあたる565校もあり、当時の各種学校には、進学(受験)予備校としては、慶應義塾内に設けられた三田英学校(錦城中学)、英吉利法律学校(中央大学)と同所同年月日に設けられた東京英語学校(日本中学)、廃校同様のところ1878年以降高橋是清らが進学予備校として復興させた共立学校(開成中学)、夏目漱石も受験英語を学んだ成立学舎、明治半ば以降一中と一高合格者数を競った獨逸学協会学校(獨協中学)などがあり、漢学塾としては二松学舎、宗教系としては青山学院、軍関係としては陸軍有斐学校の他、明治初期までは攻玉塾(攻玉社)が知られ、その後成城学校や海軍予備校(海城)などが設けられた。その他に慶應義塾などがあった。
- ↑ 記録上、明治後半から末期にかけて、つまり明治40年からという見方もある。
- ↑ 官僚や学者などにならず、漱石や谷崎潤一郎などに代表される文学や芸術方面に傾倒・耽溺していった、今で云うフリーターに近い生活を送っていた一群を総じて俗に「一中くずれ」とも称し、戦前は肩身の狭い思いをしていたこともあったが、戦後に価値観が一変してからは如蘭大会に名士として積極的に招かれていた。
- ↑ たとえば、『尋中一中日比谷高校八十年の回想』をみても、過去には内申点・面接のみで入学してきた1945年(昭和20年)卒業生の存在が、騒動の末に時の西村房太郎校長辞任を生んだことに対する当該卒業生の率直な心情の吐露も見受けられる。さらに学校群など一連の制度改定以降、その他都立主要校と比較して、東大合格者数をより大きく減らしてきたのも、この学校の成立ち・経緯から見てそれも致し方ないが、内外の趨勢・期待・批評に学校全体の士気(モラール)が過敏に一喜一憂してしまう学校気質が見せる脆弱性に起因することも林望その他一般的にも指摘されている。
- ↑ たとえば、本校教諭であった大河原礼三の『日比谷高校闘争と一教員・生徒の歩み』をみても、明治から高度成長期にかけては、国家有為のパワーエリート育成の象徴として機能していたが、戦後民主主義華やかなりし時代は、学校群制度制定とともに「一中 - 一高 - 帝大」の一翼としての“保守反動”や“学歴貴族”の象徴から、学校民主化の対象、さらに象徴として位置づけようとの当時の一部の世情があったことも窺い知ることができる。
- ↑ 但し、1968年度の東大入試における合格者数トップの座は灘高校であり、学校群制度の卒業生が出る以前にトップの座は失っていた。
- ↑ 11.0 11.1 ※参考
- 東大合格者数(1950年~2007年)
- ↑ 『尋中一中日比谷高校八十年の回想』 如蘭会編 より。
- ↑ 『東京府立第一中学校』 須藤直勝 近代文藝社 より。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 東京都立日比谷高等学校
- 日比谷高等学校非公式ウェブサイト 星陵総合博物館
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