誠友会

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三代目誠友会(せいゆうかい)は、札幌市中央区に本拠を置く日本暴力団で、指定暴力団・六代目山口組の2次団体。


歴史 

前身は長岡宗一(通称:ジャッキー)・石間春夫(通称:北海のライオン。後の誠友会初代会長、五代目山口組舎弟)・谷内二三男(後の北海道誠友会初代会長)が結成した北海道同志会

昭和32年(1957年)2月14日、長岡宗一は、会津家小高一家小高龍湖組長の一家名乗りを許されて、神農様(親分)となった。このころ、長岡宗一は200人近い若衆を抱えていた。

昭和33年(1958年)7月、長岡宗一の実子分・田村武志は、知人から頼まれて、夕張市の愚連隊・川森の関係者に追い込みをかけ、20万円の借金を取り立てた。数日後、川森は、田村武志に「川森の関係者は田村の知人から借金はしていない。20万円を返金して欲しい」と要求した。田村武志は、川森の返金要求を拒否した。川森は、長沼町の愚連隊・石間春夫に、田村武志に対する返金要求を依頼した。田村武志と石間春夫は、夕張の積立の廃屋で、決闘を行った。田村武志は舎弟1人を連れて、決闘の場に乗り込んだ。これを契機に、田村武志と石間春夫は兄弟分となった。

昭和36年(1961年)12月、三代目山口組柳川組柳川次郎組長(本名は梁元錫)は、北海道札幌市で力道山一行のプロレス興行を行った。このとき、長岡宗一は、柳川次郎と柳川組若頭谷川康太郎(本名は康東華。後の二代目柳川組組長、三代目山口組若中)と知り合った[1]。このころ、長岡宗一は400人の若衆を抱えた。

このころから、小高龍湖に、長岡宗一の兄弟分から長岡への讒言が相次いだ。例えば、小高龍湖に、『長岡宗一の新築の家の神棚の鳥居には「長岡」と書かれてある。本来ならば「小高」と書くべきだ」と云った話がもたらされた[2]。小高龍湖は、長岡宗一に対して「新車に乗れて、新しい家も建つのだから、子分からの上納金でとても儲かっているのだろう」と云った。この小高龍湖の発言を切っ掛けに、長岡宗一と小高龍湖は反目しあうようになった。

昭和37年(1962年)5月、長岡宗一は小高竜湖に逆破門状を送った。長岡宗一は、舎弟や若衆が先に小高龍湖を襲撃することは、認めなかった。小高龍湖は、直ちに長岡宗一を破門し、小高龍湖と会津家宗家五代目・坂田浩一郎の連名の破門状を全国に送付した 。長岡宗一は「長友会」を結成した。長岡宗一が砂川市の愚連隊・谷内二三男を説得し、田村武志が長沼町の愚連隊・石間春夫を説得して、長岡宗一・石間春夫・谷内二三男の3人は、千歳市の長岡の舎弟が経営する料理屋の2階で、五分の兄弟を交わした。さらに、3人は「長友会」と谷内二三男の愚連隊、石間春夫の愚連隊を統合して、「北海道同志会」を結成した。初代会長には、長岡宗一が就いた。

間もなく、会津家小高一家は、長岡宗一に対して、札幌市南五条西4丁目の喫茶店「赤ランプ」の用心棒役の返還を求めてきた。「赤ランプ」の用心棒は、もともと会津家小高一家が請け負っていたが、逆破門状を送る前には長岡宗一が引き受けていた。長友会30人が、「赤ランプ」に乗り込み、店内で暴れて、店を破損させた。

その後、会津家小高一家・伊山憲(長岡宗一の弟分)が、夜に伊山の弟分で長友会幹部・村尾辰夫の家を訪ねた。伊山憲と村尾辰夫は喧嘩になり、伊山憲が懐から西洋剃刀を取り出して、振り回した。長友会会員・鈴木秋雄が、伊山憲から剃刀を奪い取り、伊山の顔を切りつけ、全治2週間の傷を負わせた。鈴木秋雄は、傷害罪で、札幌中央署に逮捕された。1ヵ月後、田村武志がよその一家の親分から仲裁話を持ちかけられ、この親分と和解案を交渉していた。交渉の最中に、伊山が、5人の若衆を連れて、長岡宗一の自宅を襲撃した。伊山は散弾銃で、長岡宗一邸の窓ガラスを割った。長岡宗一は自宅2階で電話中だった。長岡宗一の若衆3人が、日本刀や槍を手にして、表に飛び出した。伊山たちは、長岡宗一の若衆3人に散弾銃を発砲し、1人の足を撃ち、1人の腹部を撃って重傷を負わせた。伊山たちは逃走した。長友会と会津家小高一家の和解話は消し飛んだ。

同年、越路家宗家二代目・本郷清によって、北海道のテキヤ博徒組織からなる親睦団体「北海道同行会」が結成された。

昭和37年(1963年)10月、柳川組若頭・谷川康太郎は、日本プロレスの札幌興行で、力道山の用心棒として札幌市に入った。同月、長岡宗一の自宅の神棚の前で、長岡宗一と谷川康太郎とは、長友会の舎弟や若衆を見届け人として、五分の兄弟分となった。翌日、石間春夫が長岡宗一の自宅を訪ねてきた。谷川康太郎はまだ、長岡宗一の自宅に滞在中だった。長岡宗一は、石間春夫に、谷川康太郎を紹介し、長岡と谷川が五分の兄弟分になったことを報告した。長岡宗一は、石間春夫に「石間春夫も谷川康太郎と五分の兄弟分にならないか」と持ちかけた。石間春夫は返事を保留した。間もなく、石間春夫は警察に逮捕された。それから、長岡宗一は、谷川康太郎から、柳川次郎を紹介された。谷川康太郎は、長岡宗一に、柳川次郎の舎弟となることを打診してきた。長岡宗一は、石間春夫と谷内二三男と一緒に柳川次郎の舎弟になることを望み、根回しに動いた。長岡宗一は、札幌市の拘置所にいた石間春夫を訪ね、長岡と一緒に、柳川次郎の舎弟になるように説得した。石間春夫は、長岡宗一に、谷川康太郎と気が合わないことと柳川次郎の舎弟になる気はないことを告げた。その後も、長岡宗一は、何度か拘置所を訪ね、熱心に石間春夫を説得した。石間春夫は、自分なりに柳川次郎や柳川組を調べた上で、結論を出すことに決めた。石間春夫は、昭和33年(1958年)2月10日に起こった柳川一派と鬼頭組との乱闘事件や明友会事件を知り、柳川次郎の舎弟になることを決めた。石間春夫は、保釈で拘置所を出ると、長岡宗一に、柳川次郎の舎弟になることを告げた。

同年暮れ、長岡宗一と石間春夫と谷内二三男は、柳川次郎の舎弟となった。北海道同志会は、柳川組北海道支部の看板を掲げた。支部長には長岡宗一が就いた。長岡宗一の自宅兼事務所が、柳川組北海道支部の事務所となった。

柳川次郎は、昭和34年(1959年)に起こした債権取立てに絡んだ恐喝容疑の裁判で、懲役1年が確定し、昭和38年(1963年)3月1日から、大阪刑務所に服役した。三代目山口組若頭・地道行雄が三代目山口組若中清水光重(後の三代目山口組若頭補佐)を柳川組の目付役とした。

昭和38年(1963年)3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海錦政会、東京・松葉会の5団体をを広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。

同年6月中旬、長岡宗一は、長岡の若衆に案内された知り合いの会社社長の訪問を受けた。知り合いの会社社長は、長岡宗一に、会社が経営危機に陥っていることを話し、150万円で覚醒剤を仕入れてくれるように懇願した。長岡宗一は、会社社長の頼みを受けることにした。長岡宗一は、大阪日比野兼治(通称:ホラ兼)に連絡し、会社社長と長岡の若衆2人を連れて、大阪に入った。日比野兼治は150万円分の覚醒剤を用意していた。長岡宗一たちは、覚醒剤を千雀飴の缶に入れて、北海道に帰った。長岡宗一は覚醒剤を、長岡の若衆に預けた。その覚醒剤の一部を盗んだ長岡宗一の若衆がいて、密告により、その若衆が逮捕された。同年秋、逮捕された長岡宗一の若衆の自供ににより、長岡宗一は、覚醒剤取締法違反札幌北警察署に逮捕され、罰金50万円・懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けた。長岡宗一は釧路刑務所に服役した。

同年7月、柳川組北海道支部・長友会苫小牧支部長・橋川国郎は、幹部・阿島邦春と幹部・奥山雄高を連れて、苫小牧市のテキヤの親分の自宅に殴り込みをかけ、テキヤの親分の若衆を日本刀で刺し、重傷を負わせた。

同年8月、谷川康太郎は、数人の幹部や若衆を連れて、洞爺湖に遊びに来た。洞爺湖では、毎年8月1日から3日間、湖水祭りが行われていた。谷川康太郎は、数人の幹部や若衆を連れて、湖水祭りに繰り出した。柳川組幹部が露店でトウモロコシを買おうとしたとき、露天商とどのトウモロコシにするかで揉めた。柳川組幹部や若衆らは、露店の屋台をひっくり返した。湖水祭りに来ていたテキヤ衆は、地元の世話人を中心に結束して、谷川康太郎が宿泊していた洞爺湖畔のホテルに押しかけた。谷川康太郎についていた長岡宗一の若衆2人が、ホテルを出て、地元の世話人に、ホテルの中で谷川康太郎と話し合うように勧めた。地元の世話人1人がホテルに入り、長岡宗一の若衆2人に案内されて、谷川康太郎の宿泊している部屋に入室した。谷川康太郎は、地元の世話人の脇腹に拳銃を突きつけ、両手を挙げさせて、ホテルの窓際まで移動させた。テキヤ衆は、谷川康太郎に拳銃を突きつけられた地元の世話人を目撃し、地元の世話人が人質に取られたことを悟り、その場を解散した。テキヤ衆が解散すると、谷川康太郎は地元の世話人に詫びを入れ、解放した。

その後、谷川康太郎は、長岡宗一に無断で、会津家小高一家の外田友彦と五分の兄弟盃を交わした。外田友彦は、長岡宗一が会津家小高一家にいた頃は、長岡宗一の格下だった。長岡宗一は、妻の将子に、谷川康太郎と話がしたい旨を伝えた。谷川康太郎は、長岡将子からの電話連絡を受けると、その日のうちに飛行機で大阪から札幌に行った。翌日、谷川康太郎は、釧路刑務所所長から特別面会の許可をもらい、長岡宗一と面会した。谷川康太郎は、長岡宗一を説得した。

柳川次郎は、昭和32年(1957年)4月大阪駅で起こしたプー屋恐喝事件、昭和33年(1958年)2月10日に起こした鬼頭組との乱闘事件、他2件の併合審理事件を上告していたが、昭和39年(1964年)1月16日に棄却されることが確実となり、懲役7年の刑が決定的となった。上告棄却2日前の1月14日、柳川次郎は獄中で引退声明を出し、それを引き換えに仮出所を許された。

昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。

同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。

同年3月5日、柳川次郎は大阪市北区中之島の回生病院に入院した。柳川次郎は長期の服役が確実だったため、組の跡目を決めることにした。柳川次郎は、跡目に、谷川康太郎を考えた。この案に、柳川組幹部・野沢義太郎、柳川組幹部・加藤武義(本名は蘇武源)、柳川組幹部・金田三俊らが難色を示した。地道行雄は柳川組二代目に清水光重を推薦した。このため、柳川組幹部一同は、谷川康太郎を柳川組二代目に推挙することでまとまった。初代柳川組組長・柳川次郎の舎弟、若中をそのまま二代目組長・谷川康太郎が引き継ぐこととなった[3]

同年3月8日、谷川康太郎の柳川組二代目襲名の盃事が、兵庫県有馬温泉中の坊の「グランドホテル」で行われ、柳川次郎は後見人となった。

同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会川崎日本義人党、東京・北星会だった。

同年7月10日、福岡市旧柳町の料亭「新三浦」で、山口組若頭・地道行雄と谷川康太郎の兄弟盃が行われた。谷川康太郎は、地道行雄の舎弟となった。同年7月25日、山口組本家で、谷川康太郎は、三代目山口組・田岡一雄組長から、若中の盃を受けた。これで、二代目柳川組は山口組直参となった。同年7月26日、谷川康太郎の二代目襲名披露式が、兵庫県有馬温泉のホテル池の坊「満月城」で執り行われた。長岡宗一は、柳川次郎の舎弟から、五分の兄弟分だった谷川康太郎の舎弟に直った。谷川康太郎二代目襲名披露前に、回状が全国に送付された。谷川康太郎の友人代表地方欄のトップには、会津家小高一家の外田友彦ら25人の兄弟分の名前が書かれてあり、長岡宗一・石間春夫・谷内二三男の名前は舎弟50人中の最後に書かれてあった。

その後、谷川康太郎は、長岡宗一が谷川の舎弟になることを拒んでいるとの話を伝え聞き、特別面会の許可を取って、釧路刑務所で長岡宗一と面会した。谷川康太郎は、長岡宗一の主張を認めた。

昭和40年(1965年)11月、長岡宗一は、釧路刑務所を出所した。長岡宗一を、妻の将子や谷川康太郎、二代目柳川組組員、長岡の若衆たちなどが出迎えた。3日後、長岡宗一の放免祝いが、定山渓温泉のホテルを借り切って行われた。長岡宗一は、放免祝いの席で、隠退を宣言した。石間春夫が、柳川組北海道支部支部長に就いた。長岡宗一は、ヤクザから引退した後、ボクシングジムを経営した。

同年12月9日、谷川康太郎は、昭和37年1月坂本組組長刺殺事件での凶器準備集合罪、他2件の併合審理で、懲役2年8ヶ月の一審判決を、大阪地裁で受けた。谷川康太郎は即日控訴して保釈となった。谷川康太郎は、布施市(現:東大阪市)大平寺の牧野病院に入院した。

昭和41年(1966年)1月、谷川康太郎は、大阪市福島区上福島南3丁目の大阪厚生年金病院に移った。同年9月21日、大阪高裁は、谷川康太郎の控訴を棄却した。同年9月26日、谷川康太郎は最高裁に上告した。

昭和42年(1967年)、石間春夫は、懲役3年6ヶ月の判決を受けて、宮城刑務所に服役した。

同年7月20日午後5時から、大阪市北区梅ヶ枝町の中華料理店「東仙閣」で、谷川康太郎の送別の宴が催された(最高裁が上告を棄却する可能性は極めて高く、谷川が実刑判決を受けて、服役するのは確実だった)。餞別金として集まった金の内、400万円を柳川次郎の留守宅に贈り、残りを柳川組組員の保釈金として積み立てた。

同年8月、柳川組は、20都道府県、73団体、1690人に達した。

同年10月12日から、柳川組に対する警察の集中取締りが始まった。半年間でも、柳川組だけで逮捕者164人を出した。

同年12月12日、最高裁は谷川康太郎の上告を棄却した。同年12月19日、谷川は結核既住症悪化の診断書を大阪地裁に提出したが、大阪地裁はこれを認めなかった。同年12月28日、谷川康太郎が収監された。谷川康太郎は大阪刑務所に服役した。

ついに柳川次郎は収監中の名古屋刑務所で柳川組解散を決意した。昭和44年(1969年)4月1日、大阪府警は「レストラン・サンマテオ」の経営内容を理由に、柳川次郎を名古屋刑務所から大阪の田辺警察署に移送した。ここで、田辺警察署は、柳川次郎の口から柳川組解散を引き出した。

同年4月8日、柳川次郎は、二代目柳川組・谷川康太郎組長を大阪刑務所で説得し(谷川康太郎は大阪刑務所に収監されていた)、解散の同意を取り付けた。谷川康太郎が署名した「解散声明書」及び、柳川次郎が署名した「解散同意書」の日付は、昭和44年4月9日となっている。谷内二三男は、谷川康太郎から、「本日をもって、柳川組を解散する」と書かれた書状を受け取った[4]。谷内二三男は、石間春夫に相談することなく、山口組を離れて独立する道を選んだ。谷内二三男は、北海道ヤクザ社会と和解するために、奔走した。谷内二三男は、源清田一家萩原敬士の舎弟となった。谷内二三男は、旧柳川組北海道支部を北海道のヤクザ社会で認知されるように、萩原敬士や源清田長江四代目・塚本修翠、本郷清らに働きかけた。萩原敬士、塚本修翠、本郷清が動き、最終的には小高龍湖に一任され、取りまとめてもらうことになった。

田岡一雄は、本家に無断で柳川組を解散させたと云う理由で、直ぐに柳川次郎と谷川康太郎を絶縁とした。

同年9月、柳川組幹部・野沢儀太郎、柳川組幹部・金田三俊、柳川組幹部・藤原定太郎、柳川組幹部・石田章六(後の六代目山口組顧問)は、田岡一雄から盃を受け、三代目山口組若中に直った。


昭和45年(1960年)、旧柳川組北海道支部は「北海道誠友会」と改称し、再出発した。北海道誠友会は、「今後、山口組とは縁を持たない」と云う条件で、北海道のヤクザ社会から認知された。谷内二三男が、北海道誠友会会長に就いた。田村武志は、北海道誠友会副会長となった。服役中の石間春夫は、相談役となった。北海道北海道誠友会の名付け親は、小高龍湖だった。代紋は、小高一家にあやかって、昇り龍と降り龍をあしらった円形となった。

同年、札幌市の茨戸公園ハワイランドで、北海道誠友会の発会式が行われた。小高龍湖、源清田新谷本家二代目・新谷通朗、塚本修翠らが祝辞を述べた。

同年6月、石間春夫は、宮城刑務所からの出所前日に、石間の妻と側近幹部・矢野武と面会した。このとき、石間春夫は、矢野武から、柳川組が既に解散していることを、知らされた。翌日、石間春夫は午前6時出所予定のところ、午前3時に変更されて、宮城刑務所から出所した。矢野武らが、出迎えた。石間春夫らは、約20台の車に分乗し、カーフェリーで函館市に入り、湯の川温泉に一泊した。ここで、石間春夫は、小高龍湖の肝煎りで北海道誠友会が結成されたことや会長に谷内二三男が就任したこと、自分が相談役になっていることを知らされた。

石間春夫は、すぐに北海道誠友会からの脱会を決めた。石間春夫は、旧柳川組北海道支部の古参幹部や自分の若衆らをまとめて、「北誠会」を結成した。北海道のヤクザ社会は、北誠会を認知しなかった。また、石間春夫は山口組から復帰の誘いを受けたが、これを断った。

その後、北誠会で、幹部の破門騒動が起こった。田村武志は、「谷内二三男が、石間春夫に、『田村武志が画策して破門騒動が起こった』と話している」と云う話を聞いた。田村武志は、谷内二三男と話合いを持とうとした。谷内二三男は、約束の場所に現れなかった。田村武志は、谷内二三男を強制引退させようとしたが、他の親分衆のとりなしで、止めさせられた。それから、谷内二三男は、病気で引退した。田村武志は、二代目北海道誠友会会長に就いた。まもなく、北誠会と北海道誠友会は合併し、誠友会が結成された。誠友会総長には、石間春夫が就いた。田村武志は、誠友会副総長となった。

誠友会は、北海道唯一の壊滅指定団体として、北海道警察からマークされた。

昭和53年(1978年)1月、石間春夫は覚醒剤取締法違反容疑で逮捕された。

昭和54年(1979年)2月、石間春夫は、肝硬変が悪化したため、保釈金5000万円を支払い保釈となり、札幌市の病院に長期入院した。

昭和55年(1980年)4月21日、北見市奥州金子一家小林四代目・花田章は、奥州金子一家四代目の座を同門の者に譲って、三代目山口組若頭補佐・加茂田重政の舎弟となった。花田章は、札幌市内に、加茂田組北海道支部・花田組の事務所を開くことになった。加茂田組北海道支部の事務所開きは、同年5月21日に行われることが決まった。同年5月10日、北海道同行会の臨時執行部会が、札幌市の源清田新谷本家二代目・新谷通朗の自宅で開かれた。本郷清や鍛冶屋宗家二代目・阿波喜作、札幌市内の病院に入院中だった石間春夫らが出席した。石間春夫は「山口組を北海道には入れない」と主張した。北海道同行会は、加茂田組の北海道入りを阻止することを決定した。同年5月18日、北海道同行会は、加茂田組組員が加茂田組北海道支部の事務所開きに出席することを、察知した。同日、北海道同行会は、32団体の組員約800人を千歳空港に動員した。石間春夫は、誠友会200人を動員した。同年5月20日、北海道警察は警官800人を千歳空港に配置し、厳戒態勢を敷いた。北海道警察には、兵庫県警から、加茂田組若頭・飯田時麿が加茂田組組員200人を連れて、大阪空港全日空771便で、千歳空港に向かったとの情報が伝えられていた。同日、800人の北海道同行会のメンバーは、警官隊によって、千歳空港内の駐車場に閉じ込められた。同日午前9時55分、飯田時麿ら加茂田組組員200人が千歳空港に到着した。警官隊は、加茂田組組員を囲んで、一般客と分離し、第5ゲート裏の中庭に移動させ、ボディチェックを行った。北海道警察捜査4課長が、飯田時麿に、このまま大阪に帰るように説得した。飯田時麿は、捜査4課長の説得に応じなかった。加茂田組組員は、4台のバスに分乗し、宿泊予定先だった後志支庁虻田郡留寿都村のリゾートホテル「大和ルスツスキー場・高原ホテル」に向かった。北海道同行会は、加茂田組の跡を追おうとしたが、パトカーに阻止された。北海道同行会800人は、翌日早朝に「高原ホテル」前に集合することを決めて、千歳空港から引き揚げ、札幌市内に入った。同年5月21日早朝、「高原ホテル」前に、北海道同行会加盟組織の組員が集結した。同日午前8時ごろには、「高原ホテル」前に集まった北海道同行会の人数は約800人、「高原ホテル」を取り囲む北海道同行会の車の数は約100台となった。北海道警察は、警官500人と機動隊200人と装甲車13台を、「高原ホテル」に動員した。また、北海道警察は、飯田時麿に対して、加茂田組北海道支部の事務所開きを中止を要請し、北海道同行会に対して、解散を要請した。同日午前10時前、「高原ホテル」から500メートル離れた北海道警察の検問所で、加茂田組北海道支部花田組組員が機動隊の職務質問を受けた。このとき、高原ホテルにいた加茂田組組員が、ホテルから出ようとした。北海道同行会は、加茂田組組員に対して、投石を開始した。加茂田組組員は、「高原ホテル」にあった灰皿や盆を投げ返した。機動隊が両者の間に割り込み、加茂田組組員を「高原ホテル」内に押し込んだ。北海道警察は、飯田時麿に「札幌市内に入れば、検挙も辞さない。即時大阪に帰るように」と警告した。同日午後、飯田時麿は北海道警察の要請を受け入れ、加茂田組北海道支部の事務所開きへの出席を断念した。北海道警察の警備課長は、北海道同行会に、飯田時麿が加茂田組北海道支部の事務所開きへの出席を断念したことを伝え、解散を要請した。北海道同行会は、「加茂田組が帰阪するのを確認してから、解散する」と返答した。加茂田組は、バスに分乗して、千歳空港に向かった。北海道同行会は、加茂田組のバスを追跡した。同日午後6時、飯田時麿ら加茂田組組員は、札幌発大阪行き全日空780便に乗って、帰阪した。直ちに、北海道同行会は、解散した。

その後、花田章は、札幌市の誠友会本部や北海道同行会加盟組織系列の事務所がいくつか入ったマンション内に、事務所を開設した。誠友会組員は、花田組事務所前に座り込みを行ったり、花田組への出前を追い返したりした。

それから、石間春夫は、北海道同行会の総会で、「北海道同行会を、親睦機関ではなく、代紋も統一した連合会組織にするべきだ」と主張した。石間春夫の主張に対して、鍛冶屋宗家、越路家連合、三心会佐々木宗家、伸明会佐藤睦会関東小松家奥州金子一家が反対した。石間春夫は、北海道内のヤクザ組織の一本化を断念した。

昭和56年(1981年)7月23日、田岡一雄が死亡した。享年68。

同年8月、石間春夫は、一審判決で懲役6年の判決を受け、病院から拘置所に移った。石間春夫は直ちに控訴した。石間春夫は、二審判決で懲役3年6ヶ月の判決を受け、札幌刑務所の病舎に収監された。

昭和59年(1984年)6月5日、山口組若頭竹中正久が、山口組直系組長会で、山口組四代目組長就任の挨拶をした。同日、山広組山本広組長、加茂田組・加茂田重政組長、佐々木組佐々木道雄組長らが、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の四代目就任に反対した。同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田組北海道支部・花田組も、一和会に移った。花田章は、加茂田組舎弟頭補佐となっていた。

同年、石間春夫は、札幌刑務所の病舎で、山口組一会・野沢儀太郎会長と面会した。この面会で、野沢儀太郎は、最後まで、石間春夫に山口組参加を促すことはなかった。

同年秋、山口組若頭補佐・渡辺芳則(後の五代目山口組組長)と山口組若頭補佐・桂木正夫が、札幌刑務所の病舎にいた石間春夫の面会に訪れた。渡辺芳則は、石間春夫に、年明けに竹中正久と山口組若頭・中山勝正が面会に来ることを告げた。

昭和60年(1985年)1月、石間春夫は、札幌刑務所の病舎で、誠友会幹部と面会した。誠友会幹部は、石間春夫に「竹中正久と中山勝正が沖縄県旭琉会からの招待を受けたため、沖縄に行ってから、北海道に来ることになった。時期は1月下旬になる」と伝えた。

同年1月16日、竹中正久は、中山勝正らを連れて、大阪国際空港から午前8時45分発日航911便に乗り、沖縄に向かった。三代目旭琉会・翁長良宏会長、旭琉会の15の一家の総長と幹部クラスの合計約60人が、那覇空港で、竹中正久、中山勝正ら山口組最高幹部を出迎えた。同日、竹中正久、中山勝正ら山口組最高幹部は、旭琉会の案内で、沖縄を観光した。同年1月17日、竹中正久、中山勝正ら山口組最高幹部は、琉球カントリークラブで、旭琉会とゴルフを行い、夜にはクラブ「銀馬車」を借り切って、全員で宴会となった。

同年1月26日午後9時過ぎ、竹中正久と中山勝正と山口組南組南力組長(山口組若中。ボディガード役)は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、二代目山広組若頭・後藤栄治に指揮された二代目山広組組員・田辺豊記、二代目山広組組員・長尾直美、二代目山広組組員・立花和夫に銃撃された。南力はほぼ即死。中山勝正も4時間後に死亡した。竹中正久は銃弾3発を受けたが、自力で自分の車に乗り込み、運転手は南組事務所に向かいながら、無線で救急車の手配を急がせた。竹中正久は、大阪警察病院に搬送された。同年1月27日午後11時25分、竹中正久は死亡した。

石間春夫は、竹中正久の暗殺を知ると、山口組に参画することを決断した。

同年2月5日、神戸市中央区多聞通りの山口組本部事務所で、山口組定例幹部会が開催された。この定例幹部会において、渡辺芳則が若頭補佐から若頭に昇格した。

同年4月5日午後3時、山口組本部事務所で、山口組定例会が開催された。兵庫県警は正午すぎから、山口組本部事務所周辺に約100人の捜査員を配置した。集まった報道陣は約80人だった。この山口組定例会において、山口組本部長・岸本才三が、直系組長85人(代理出席は18人)に対して、誠友会の舎弟待遇での山口組参画を発表した。

同年4月19日、石間春夫は、札幌拘置所病院棟で、山口組組長代行・中西一男、若頭補佐・岸本才三、若頭補佐・桂木正夫ら5人と面会した。石間春夫は、覚醒剤取締法違反などで未決勾留中だった。

同年5月、北海道小暮一家五代目・水野四郎が、稲川会横須賀一家石井隆匡総長(後の稲川会二代目会長)の若衆となり、稲川会専務理事となった。

当時、田村武志は横浜刑務所に服役中で、誠友会は、川岸朝明会長と小仲賢亮若頭の体制だった。川岸朝明は、石間春夫の意向を受けて、北海道同行会に脱会を申し出ていた。北海道同行会の会規「内地の広域組織は同行会には入れない」に違反したためであった。北海道同行会は、返事を保留した。

同年6月13日、北海道同行会の臨時総会が持たれた。誠友会を除く全加盟組織の役員が出席した。ここで、誠友会の除名問題が議論された。同年6月14日、北海道同行会の臨時総会が、誠友会を加えた全役員で議論された。結論は出なかった。その後、誠友会は、北海道同行会に残ることになった。

同年7月、誠友会は正式に四代目山口組舎弟となった。誠友会の系列組織の事務所は、山菱の代紋を掲げた。

昭和61年(1986年)2月22日、北海道内のテキヤ組織が、札幌パークホテルで、テキヤ組織を糾合して「北海道神農同志会」を結成する話合いがもたれた。しかし、結成には至らなかった。

昭和63年(1988年)5月、丁字家蜂谷連合会が消滅した。

同年11月17日、午前8時40分、室蘭市の病院に入院中だった、飯島安達連合睦会笹谷和夫(通称:笹谷の和)本部長が、点滴中に、飯島一門の幹部に、銃弾2発を、左頬と喉に受けて、射殺された。

同年11月21日、笹谷和夫を射殺した飯島一門の幹部が、室蘭警察署に逮捕された。

同年夏、石間春夫は、宮城刑務所に服役中に、言語障害になった。

平成元年(1989年)1月21日午前0時40分、石間春夫は、満期釈放で、宮城刑務所から出所した。宮城刑務所前で、石間春夫の妻、誠友会総長代行・田村武志、誠友会若頭・小仲賢亮が、石間春夫を出迎えた。石間春夫らは、仙台市内のホテルに入った。同日、石間春夫らは、仙台空港から、午前8時20分発札幌行きの飛行機で、千歳空港に行った。誠友会幹部2人が、石間春夫たちを出迎えた。石間春夫たちは、札幌市の誠友会本部事務所に入った。同日午後2時から、誠友会本部事務所で、石間春夫の放免祝いが催された。放免祝いには、渡辺芳則、4人の山口組直系組長、直系20団体ほどの幹部クラスが駆けつけた。同日午後5時、石間春夫の放免祝いが終わり、渡辺芳則ら山口組幹部一行は、千歳空港から帰った。

同年1月22日から、石間春夫は毎朝10時に、誠友会本部事務所に顔を出した。

同年1月30日、定山渓温泉で、誠友会の新年会が催された。この会で、誠友会の新執行部が発表された。新年会で、石間春夫は、飯島系で、かつて笹谷和夫を親として、分家を名乗っていた男に盃を与え、誠友会の筆頭若頭補佐に抜擢した。男は、笹谷和夫が射殺された際に、犯人だと疑われていた。

数日後、室蘭市内で、誠友会会員と飯島安達連合睦会会員とが銃撃戦を行った。

同年7月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、渡辺芳則が五代目山口組を継承することが、決まった。同日、神戸市灘区の山口組本家2階の80畳敷きの大広間で、渡辺芳則の山口組五代目襲名相続式典が行われた。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長、後見人は稲川会稲川聖城総裁、取持人は稲川会・石井隆匡会長、奔走人は稲川会・稲川裕紘理事長(後の三代目稲川会会長)だった。

石間春夫は五代目山口組舎弟に直った。その後、誠友会は、札幌市を中心に、室蘭市函館市、苫小牧市、静内町(後の新ひだか町)、帯広市稚内市などに拠点を置き、組員は1000人近くになった。

同年9月末、誠友会と稲川会系組織との間で、銃弾の撃ち合いが行われた。

同年暮れ、石間春夫は、右翼団体維新天誅会」からお歳暮を受け取った。お歳暮ののしには、「共政会」と書かれてあった。石間春夫は、維新天誅会が共政会傘下だと知り、北海道では他のヤクザ系右翼団体の活動を認めないと告げた。

平成2年(1990年)1月4日、石間春夫は、新年初めて、誠友会本部事務所に顔を出した。当日は雪だった。同日午後4時、石間春夫は、吹雪の中、ボディガード役の組員を車に乗せずに、メルセデス・ベンツの後部座席に乗り込み、運転手と2人で自宅へ向かった。石間春夫の乗るメルセデス・ベンツは、北海道神宮近くで赤信号のため、停車した。石間春夫は、2人組の維新天誅会会員に、射殺された。

 註 

  1. 飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0では、長岡宗一と柳川次郎谷川康太郎が知り合った時期を、「昭和36年(1961年)12月」としているが、山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2では、「昭和37年(1963年)10月、長岡宗一の舎弟・日比野兼治(通称:ホラ兼)が、谷川康太郎を、長岡宗一の自宅に案内し、長岡宗一に引き合わせた。日比野兼治は山代温泉でストリップ劇場を経営しており、山代温泉で谷川康太郎と知り合った」としている
  2. 長岡宗一の新築の家の神棚の鴨居には「札幌神社」と書かれていた
  3. 通常だと、組長が引退した場合、その舎弟もみんな引退する。若中は舎弟となり、新組長の直属だった若中は、そのまま組の若中となる
  4. 石間春夫は宮城刑務所に服役中だったため、谷内二三男が支部長を代行していた


 参考文献 


エピソード 


歴代会長

最高幹部

  • 会長・船木 一治
  • 若頭・渡部 隆(渡部会々長)
  • 本部長・高橋 哲雄(山闘連合総長/初代高橋組々長)
  • 舎弟頭・田村 一夫(二代目田村組々長)

主な出身者

去った人々