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2009年11月15日 (日) 12:45時点における最新版
鈴木 善幸 (すずき ぜんこう) | |
在任期間 | 1980年7月17日 - 1982年11月27日 |
生没年月日 | 1911年1月11日 - 2004年7月19日((2004-1911)+((7-1)*100+(19-11)>=0)-1歳没) |
出生地 | 岩手県 下閉伊郡山田町 |
出身校 | 農林省水産講習所 |
学位・資格 | 正二位 大勲位菊花大綬章 |
前職 | 岩手県漁業組合連合会 職員 |
世襲の有無 | |
選挙区 | 岩手県第1区 |
当選回数 | 衆16回 |
党派 | (日本社会党→) (社会革新党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
花押 | |
鈴木 善幸(すずき ぜんこう、1911年(明治44年)1月11日 - 2004年(平成16年)7月19日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
郵政大臣、内閣官房長官、厚生大臣、農林大臣、自由民主党総裁(第10代)、内閣総理大臣(第70代)を歴任した。明治生まれとしては最後の内閣総理大臣である。
前半生[編集]
岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。水産学校を経て水産講習所(後の東京水産大学・現東京海洋大学)に入学、学生時代の弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったこともあり、就職時には思想傾向を理由に不採用になったこともある(まっとうな主張であるが、当時は共産主義思想と見なされていた)。
大日本水産会、全国漁業組合連合会、県漁業組合連合会などに勤務したのち、1947年(昭和22年)に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。後、社会革新党を経て吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。池田勇人の宏池会に所属し長く党務を中心に活動した後、第1次池田内閣では郵政大臣に就任。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。 一方では当初の計画では仙台駅までの予定であった東北新幹線を構想を発表する直前の段階で自らの選挙区である盛岡駅まで延伸させるよう強い圧力をかけたとされるなど利益誘導にあざとい一面もあった。
大平の急死[編集]
1980年(昭和55年)5月、自民党が過半数を占める衆議院で、社会党提出の大平正芳内閣不信任案採決に、三木派、福田派などの反主流派自民党議員が多数欠席し、不信任案が可決された。大平首相はこれに対抗して衆議院を解散(ハプニング解散)することとし、参議院選挙の日程を繰り上げて、初の衆参同日選挙を行うことにした。だが、大平は選挙戦突入の初日に心臓発作で倒れ、選挙戦中盤に死亡する展開となった。選挙結果は、首相の憤死への同情から、衆参両院における自民の圧勝となる。この結果は予想されたものではなく、解散時における世論調査では、大平内閣の支持率21%に対して不支持率は41%だった。国民は自民の内紛に嫌気がさして、野党支持が自民党支持を上回っていた。このような状況での内閣不信任案可決と解散とに財界は困惑し、経団連の土光敏夫会長は、記者会見で「1番悪いケースになった。……不満を禁じえない。この際、自民党がもっと結束してことに当たってほしかった」と述べた。自民党は、この同日選挙に向かって、財界に50億円の政治資金拠出を要請、財界側は自民党の分裂回避を条件として応ずることとなった。これを契機に、反主流派の新党論も消滅し、同時に主流派の側も、不信任案審議時の欠席者の責任を不問にした。
大平が死去したとき、伊東正義官房長官が内閣法の規定により首相臨時代理を、西村英一自民党副総裁が総裁臨時代行を務めたが、選挙は主流派を代表する形で、総務会長の鈴木善幸が財界との交渉も含め取り仕切った。鈴木は総理を目指すのではなく、大平を総理にすることに努力してきた人間であった。選挙が圧勝で終わったとき、不信任の可決から始まった騒動だけに反主流派に首相候補を立てる元気はなかった。一時、伊東官房長官や西村副総裁を次期首相とする構想も出され、大平の盟友であった田中角栄は大平派もう一人の後継候補であった宮澤喜一にも声を掛けて出馬を促したが、結果として財界交渉を行っていた鈴木が大平政権を継承する形で総理・総裁の座に就任することになった。また、初めて社会党に在籍経験がある自民党総裁が誕生したことになった。
鈴木は、大平の初盆の日に、自民党両院議員総会で総裁に選出されたとき、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」と、異例の挨拶を行った。なお、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている[1]。
首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた。
鈴木政権[編集]
自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、鈴木は「和の政治」をスローガンに掲げた。与党自民党は参議院の全国区選挙を拘束名簿式比例代表制に改めた。また、財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため「増税なき財政再建」を掲げ第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ、行政管理庁長官に中曾根康弘を充てるなど、後の中曾根行革への道筋をつけることになった。また現職の内閣総理大臣として初めて北方領土と、復帰後の沖縄を視察した。
その一方で、元々社会党から政界入りしたこともあって外交面ではハト派色が強く、1981年5月のレーガン大統領との会談後記者会見で日米安保条約を軍事同盟ではないと発言し、「軍事同盟の意味合いが含まれているのは当然だ」と反発する伊東正義外務大臣の辞任に発展した。政策思想的な要因のみならず、首相就任以来、度々発言を修正することがあるなど発言に隙があることもこの問題の一因である。一部マスコミからは直角内閣、暗愚の総理と揶揄されていた。
これらの経緯により対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていた。ところが1982年10月に至って突然総裁選不出馬を表明。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことなどが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない。
後継の中曽根内閣では、日米軍事同盟路線を強調し対米関係修復に努める一方で、鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承された。
その後[編集]
内閣退陣後も当面宏池会の会長を務めたが、中曽根おろしを目論んだ二階堂擁立構想が頓挫し、影響力が低下。会長職を宮澤喜一に禅譲する。1990年(平成2年)、政界引退。2004年(平成16年)7月19日、肺炎のため93歳で死去。 死後、正二位 大勲位菊花大綬章。三女は麻生太郎に嫁いだ。息子は衆議院議員の鈴木俊一。
略歴[編集]
- 1911年 岩手県山田町に父・鈴木善五郎、母・ひさの長男として生まれる
- 1935年 農林省水産講習所(現・東京海洋大学)卒業、大日本水産会、全国漁業組合連合会、県漁業組合連合会などに勤務
- 1947年 日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選
- 1948年 社会党を離党、社会革新党結成に参加、秋に民主自由党(のちの自由党)に入党
- 1960年 池田勇人内閣の郵政大臣で初入閣
- 1964年 内閣官房長官就任
- 1965年 厚生大臣就任
- 1972年 自民党総務会長就任
- 1976年 農林大臣就任
- 1980年 自民党総裁・内閣総理大臣就任
- 1981年 放送大学学園法公布・施行 放送大学学園創立
- 1982年 内閣総理大臣辞任
- 1990年 政界引退(通算当選16回)
- 2000年 宏池会分裂(加藤の乱)、宮澤喜一とともに反加藤派を支持
- 2004年 7月19日午後9時15分死去、(2004-1911)+((7-1)*100+(19-11)>=0)-1歳没
栄典[編集]
- 平成16年7月19日:大勲位菊花大綬章
脚注[編集]
- ↑ 升味準之輔著『日本政治史4』
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第70代:1980年 - 1982年
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次代: |
先代: | 農林大臣 第48代:1976年 - 1977年
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次代: |
先代: | 厚生大臣 第47代:1965年 - 1966年
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次代: |
先代: | 内閣官房長官 第26代:1964年
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次代: |
先代: | 郵政大臣 第15代:1960年
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次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第10代 : 1980年 - 1982年
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次代: |
先代: | 自由民主党総務会長 第15代:1968年 - 1971年
第17代:1972年 - 1974年 第23代:1979年 - 1980年 |
次代: |
先代: | 宏池会会長 第4代:1980年 - 1986年
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次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第69代 大平正芳 |
第70代 1980年 - 1982年 |
第71代 中曽根康弘 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
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第代 [[]] |
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第代 [[]] | |||
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三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
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