「イスラエルの歴史」の版間の差分
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2018年12月17日 (月) 15:02時点における最新版
本記事では中世から近代までのイスラエルの地における、主にユダヤ教徒の歴史年表を示す。古代イスラエルの歴史は「古代イスラエル」を参照。
古代[編集]
悲劇的敗北と離散の後[編集]
- 135年 - ローマが反乱を鎮圧し、イスラエルの地を「パレスチナ」と改称、エルサレムをアエリア・カピトリーナと改称
- 2世紀頃 - ゴラン高原のメイローンにユダヤ人が住みはじめる
- シモン・ベン・ラキシュ (3世紀)
- 6世紀 - マダバの教会から発見されたモザイク・「マダバ地図」(ローマ時代のエルサレム市街を描いた現存する世界最古の地図)
- 900年頃 - イスラエルの地において、母音符号完成
- 11世紀~20世紀 - ガザのユダヤ教徒社会が繁栄
- 1099年 - ユダヤ教徒、エルサレムの防衛に、アラブ人と共に参加
- 1100年 - ユダヤ教徒、十字軍の進攻に対しハイファの防衛に参加
- 1191年 - ユダヤ教徒、十字軍によって追放される
- 1204年 - マイモニデス逝去。ティベリアに埋葬(一時イスラエルの地に居住したとも言われる)
- 1211年 - 数名のラビがフランス・イギリスからエルサレムに帰還
- 1267年 - ラムバン(ナフマニデス)がエルサレムに定住し、シナゴーグを建設
- 以降500年間ユダヤ教徒の学問の中心地として栄える(1194-1270) - ラビ・哲学者・聖書注解・カバラ研究
- 1291年 - マムルーク朝が十字軍を倒しイスラエルの地を支配
- 13世紀 - エルサレムのユダヤ教徒地区に、トーラー学者・学生が住みはじめる
近世[編集]
- ヨセフ・カロ Joseph ben Ephraim Qaro(Caro, Karo) (1488-1575) - 哲学者・タルムード学者
- 1492年 - スペインからイスラエルの地に帰還
- 1495年 - リトアニアからイスラエルの地に帰還
- 1497年 - ポルトガル、シチリア、サルデーニャからイスラエルの地に帰還
- 1502年 - ロドス島からイスラエルの地に帰還
- イツハク・ルリア Yitzchaq Luria (?-1572)
- 1516年 - オスマン帝国がシリア・イスラエル地方を征服
- モーセ・コルドベロ Moses ben Jacob Cordovero (1522-1570)
- 1541年 - ナポリからイスラエルの地に帰還
- 1563年 - サフェドにヘブライ語印刷所が設置される
- 1564年 - 「シュルハン・アルーフ」出版
- 16世紀 - エルサレムに「四つのシナゴーグ」設立
- (1643-1680) ガザのナタン Nathan of Gazza
- 1665年 - シャブタイ・ツヴィ、メシアを名乗る
- 1700年 - イェフダー・ハシッドら、エルサレムにフルヴァ・シナゴーグ設立(1720年破壊)
- 1777年 - ロシアの300人のハシディズムのユダヤ人がイスラエルの地に帰還
近代以降[編集]
シオニズム運動が盛んになったとされる近代・現代史年表を示す。
- 1798年-1878年 - セルビアのセファルディム系ラビ・イェフダー・アルカライ、聖地での贖罪の前提としての帰還を唱える
- 1799年 - ナポレオン、西アジア・北アフリカのユダヤ教徒全員に、エルサレム奪還を奨励する宣言を発布。エルサレムのユダヤ教徒、トルコ軍に参加しナポレオンの攻撃から守る。
- 1808年 - ヴィルナのガオンの16人の弟子がサフェドに農業定住地を創設
- 1827年-1828年 - モーゼス・モンテフィオーレ(Moses Montefiore)、聖地を旅行、エルサレムに巡礼し、エジプトのスルタン・ムハンマド・アリー・パシャと交友関係を結ぶ。
- 1840年 - モンテフィオーレ、ムハンマド・アリーとの関係を利用して、「儀式にキリスト教徒の血を使った」という、デマで訴えられて拘束されていたダマスカスのユダヤ教徒数名を解放、身の安全を保障させる
- 1856年 - ルートヴィヒ・フォン・フランクル、聖地巡礼。エルサレム・ユダヤ人学校(Lämel Schule)設立 / フランクルがライプツィヒで「エルサレムへ( Nach Jerusalem)」を出版。
- 1860年 - エルサレム城璧外に、ミシュケノット・シャアナニームが建設される
- 1862年 - ツヴィ・カリシャーの「シオンを求めて」、モーゼス・ヘスの「ローマとエルサレム」が出版される。
- 1868年 - バハーウッラー、アッコ(アクレ)に流される
- 1872年 - ハインリヒ・グレーツが聖地を巡礼
- 1881年 - エリエゼル・ベン・イェフダー、イスラエルの地に帰還、ヘブライ語復興・普及運動開始
- 1882年 - 第一次アリーヤー - ロシア・東ヨーロッパからの大規模な帰還
- 1887年 - ロスチャイルド家、イスラエルの地の農業コロニーを買収
- 1890年 - フランスの聖書学者・司祭マリー・ラグランジュ Albert-Marie-Joseph(Henri) Lagrange、エルサレムの聖ステファノ・ドミニコ会修道院の敷地に聖書学院(Ecole Pratique d'Etudes Bibliques)を創設
- 1896年 - ロスチャイルド家の援助のもとユダヤ人開拓村誕生
- 1897年 - 第1回シオニスト会議。世界シオニスト機構が設置される。ハティクバがシオニズム讃歌となる
- 1898年 - テオドール・ヘルツル、聖地巡礼
20世紀前半[編集]
- 1900年代 - ハシディズムの一派サトマール派運動がおこる(シオニズムに反対する、というのはデマ)
- 1901年 - 第5回シオニスト会議:シオニズムとは国家か、文化か、宗教復興優先か、鋭い対立ののち、ヘブライ大学の創設を可決
- 1902年 - ヘブライ語を話す家庭はわずかに10軒
- 1904年 - 1914年 - 第二次アリーヤー(ロシア・ポーランドからの大規模な帰還)
- 1909年 - 最初のキブツ・デガニアが建設される。シュムエル・アグノン帰還。ルーマニアからの移民がテルアビブ建設
- 1912年 - ヘンリエッタ・ソールド Henretta Szold、アメリカにハダサー Hadassah 設立
- 1915年 フサイン=マクマホン協定
- 1917年11月2日 - バルフォア宣言
- 1917年12月 - 英国軍、オスマン軍を破りエルサレム入城
- 1918年 - ハイム・ワイツマンとアミール・ファイサル・フサイニーの会談
- 1919年 - 1923年 - 第3次アリーヤー:主としてロシアからの大規模な帰還
- 1920年2月8日 - ウィンストン・チャーチル、"Illustrated Sunday Herald"紙でユダヤ人国家支持を表明
- ヒスタドルート(ユダヤ労働総同盟)、ハガナーが創設される
- アラブ人過激派、反シオニズム暴動開始
- ワド・レウミ(民族評議会)を設置し、ユダヤ人共同体の自治運営を行う
- 農村・テル・ハイの虐殺;ヨセフ・トルンペルドール死亡
- ユダヤ人シオニストであるサー・ハーバート・サミュエル Herbert Samuel が委任統治領の高等弁務官に任命
- アラビア語・ヘブライ語・英語を公用語に制定
- 1921年 - 最初のモシャブ、ナハラルが建設される
- 1922年 - イギリス委任統治領パレスチナ成立。イギリス、国際連盟によりパレスチナの委任統治権を認められ、パレスチナへのユダヤ人移民と開拓の助成の責任を課せられる。*::イギリス、委任統治領を分割し、ヨルダン川以東に「トランスヨルダン」を設立
- ユダヤ機関が創設される(委任統治政府への窓口)
- アハド・ハアム帰還
- ユリウス・グットマン Julius Guttmann(ラビ・宗教哲学史家)「ユダヤ教史との関連でのパレスチナの再建」
- 1923年 - イギリス、ゴラン高原をシリアのフランス委任統治領として割譲。ゲルショム・ショーレム帰還
- 1924年 - ユダヤ学研究所設立(ゲルショム・ショーレムら)
- 1924年 - 1932年 - 第4次アリーヤー:主としてポーランドからの大規模な帰還
- 1925年 - ユダヤ・アラブ・ワーキンググループ「平和の契約 brīth šālôm」設立(ゲルショム・ショーレム、ユダ・マグネス、フーゴ・ベルクマン、エルンスト・ジーモン、ダヴィド・ベングリオンら参与)
- 4月1日 - ヘブライ大学開校式
- ヨーゼフ・クラウスナー帰還
- 1929年 - ユダヤ教の聖地ツファットで、アラブ人の襲撃により133名のユダヤ教徒が虐殺される。
- ヘブロン事件:ユダヤ教の聖地ヘブロンで60名のユダヤ教徒が虐殺され、3000年の歴史を持つヘブロンのユダヤ人コミュニティーが滅亡
- 1931年 - 第17回シオニスト会議:ダヴィド・ベングリオン、二つ以上の民族が、どちらが支配権を得るのでもない二民族共存国家構想を支持
- 1933年 - ファイサル・フサイニー逝去
- ハダサー、パレスチナで活動開始
- 1933年 - 1939年 - 第5次アリーヤー:主としてドイツからの大規模な帰還
- 1934年 - ダニエル・カーネマン生まれる
- 1938年 - マルティーン・ブーバー帰還
- 1939年 - ソ連政府により、第二次世界大戦のユダヤ人難民のユダヤ自治区への流入が禁止される
- マックス・ブロート帰還
- マルティン・ブーバー、「アラブ・ユダヤ和解協力連盟」設立(のちに「イフード運動」が分立)
- 4月 - マルティン・ブーバーとユダ・マグネス、雑誌「ハオール」にて連名でガンジーの論文に抗議
- イギリス、マクドナルド白書を出し、ユダヤ人帰還を制限させる
- 1941年 - エツェルから分離し、地下抵抗組織「レヒ」誕生。ハガナーの突撃隊「パルマッハ」が創設される
- 1944年 - イフード、雑誌発行開始。イギリス軍内にユダヤ旅団編成。
- 1946年 - パレスチナにはアラブ人が130万人、ユダヤ人が70万人住んでいた
- 「アラブ・ユダヤ民族国家(cf.イフード運動)」建国を提唱していたパレスチナ人のシオニズム支持団体「新しいパレスチナ」代表、ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニーが身内から暗殺される
- 5月25日 - トランスヨルダン、独立宣言
- アラブ連盟結成
- 7月7日 - エルサレムで、キング・デイヴィド・ホテル爆破事件(英国へのテロ)
- 1947年
20世紀後半(イスラエル独立以降)[編集]
- 3月4日 - アタロトで、アラブ人が16人のユダヤ人を待ち伏せ攻撃し、虐殺
- 4月8日 - デイル・ヤシーン村にて、ユダヤ人テロ組織によるアラブ人村民の大量虐殺事件発生(デイル・ヤシーン事件)。アラブ人のイスラエル領からの大量脱出始まる。
- 4月13日 - シェイフヤラ・ハダサー医療従事者虐殺事件(en):デイル・ヤシーン事件の報復と称するアラブ人テロリストによる護送車襲撃事件。ハダサーの医師・看護婦・ヘブライ大学教授・職員70人以上が虐殺される。
- 5月12日 - クファール・エツィオンで、アラブ軍が100人のユダヤ人を虐殺(15人は降伏後に処刑)
- 5月14日 - イスラエル国として独立宣言
- 5月15日 - アラブ5カ国の正規軍、イスラエルに侵攻
- 9月 - テロ組織シュテルンのテロリスト、国連調停官ベルナドッテ伯を暗殺
- アヴィグドル・ダガン帰還
- 6月 - トランスヨルダン、ヨルダン・ハーシム王国に改名。
- イスラエルで第一回総選挙
- イスラエル、国連に59番目の加盟者として加盟
- エフライム・キション帰還
- 1951年 - モシェ・カツァブ帰還
- 1952年 - ダニエル・バレンボイム帰還
- 1967年6月5日-6月10日 - 第三次中東戦争(六日間戦争)。エジプトのナセル大統領による紅海のティラン海峡を封鎖が引き金となり、イスラエルが「先制攻撃」を実施。エジプトのシナイ半島を、同戦争に参戦したシリアのゴラン高原を占領下におき、エジプトの統治下にあったガザ地区、ヨルダンの統治下にあった東エルサレム・ヨルダン川西岸地区を主権下におく(エルサレム再統一)。六日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わる。国境線が画定するまで、停戦ラインを維持することを発表
- 1968年-1970年 - 消耗戦争。スエズ運河を挟んだエジプトとの砲撃戦が2年間継続、同運河の運行に支障をきたす。70年に停戦となる
- 1969年 - ミッシャ・マイスキーの姉がイスラエルに亡命し、マイスキーの一家はソビエト当局の監視下に置かれ、のち投獄される
- 1972年5月30日 - テルアビブ空港事件;「パレスチナ解放運動」に共鳴した(「新左翼武装組織」)日本赤軍のメンバー三人が、テルアビブのロッド空港において、AK47自動小銃・手榴弾で一般旅行者らの無差別虐殺をはかり、100人あまりが死傷(殺害は24人)。
- 9月5日 - ミュンヘンオリンピック事件; ミュンヘンオリンピック開催中、パレスチナ・テロリストが選手村のイスラエル選手宿舎を襲撃。レスリング・コーチとウエイトリフティングの選手を殺害、9人を人質にする。救出作戦は失敗し、パレスチナ人は選手9人全員を殺害、銃撃戦の末ゲリラ5人・警官1人が死亡
- 1973年 - 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、十月戦争)。エジプトのサダト大統領がシナイ半島奪還を目的としてユダヤ教の祝日「大贖罪の日(ヨム・キプール)」にイスラエル軍に攻撃を開始。地対空ミサイルと対戦車ミサイルにより陸・空軍に甚大な損害を蒙り、イスラエル軍の不敗神話が崩壊する。その後アリエル・シャロン将軍が現役復帰、スエズ渡河作戦を実行。形勢は逆転し、17日で停戦に至る
- その後、アラブの圧力により、国連はPLOを「準政府組織」として認定
- ゴラン高原の停戦監視として国際連合兵力引き離し監視隊(the United Nations Disengagement Observer Force, UNDOF)設立。
- 11月10日 - 国連に、アラブ側が、「シオニズムは人種差別主義である」という趣旨の反シオニズム・デマを国連決議案として提出
- 1976年 - エンテベ人質救出作戦(オペレーション・ヨナタン)。一部のパレスチナ過激派がエールフランス機をハイジャック、ユダヤ人またはイスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸。同国のイディ・アミン大統領の庇護のもと膠着状態が続くが、イスラエルのラビン首相は特殊部隊を派遣し、人質奪回とハイジャッカーの全員射殺に成功。
- 1977年 - 第9回イスラエル国会選挙で、野党であり続けた右派政党のリクードが初めて勝利し、左派政党の労働党は初めて選挙で敗北して下野した。
- 1977年 - サダト大統領のエルサレム訪問。これまで仇敵であったエジプトのサダト大統領がエルサレム訪問を宣言し、クネセット(イスラエル国会議事堂)で演説を行う。二年後の平和条約締結の第一歩となる
- リクード政権が成立。30年あまりの労働党政権が終わる
- 1978年 - ピース・ナウが結成された。
- 1978年 - キャンプ・テービッド合意成立。
- 1979年 - イスラエル・エジプト平和条約締結。イスラエルが占領していたシナイ半島の返還に合意し、米国のカーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デーヴィッドにてエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が調印。イスラエルにとって初のアラブの隣国との平和条約となる
- エジプト、ガザ地区の領有権を放棄
- ピアニスト・ウラディーミル・フェルツマン、イスラエルへの移住を希望し、ソ連政府から演奏家としての自由を奪われる(→コスモポリタニズム批判)
- 1980年 - 西岸・ガザ地区の、アラブ人の住まない土地への入植地 Israeli settlement 建設が本格化する。
- 1981年 - イラクの原子炉爆撃。
- アメリカ合衆国と戦略協力の覚書を交換する
- 1982年 - ピース・ナウの活動家でありヘブライ大学の大学院生であったエミール・グルンツヴァイグが、ピース・ナウを嫌悪する右派のユダヤ系イスラエル人に殺害された。
- 1982年 - イスラエル、シナイ半島からの撤退を完了
- 1982年 - レバノン侵攻(ガリラヤ平和作戦、第一次レバノン戦争)。
- 1984年 - 挙国一致内閣が成立する
- 1986年2月 - ナタン・シャランスキー帰還
- 1987年12月 - ガザ、西岸でインティファーダ(パレスチナの反イスラエル暴動作戦)開始
- 1988年 - 人工衛星・オフェク1号に打ち上げ成功
- 7月 インティファーダによって体制に危険が及ぶことを恐れたヨルダンのフセイン国王、ヨルダン川西岸の切り離しを宣言
- 1989年 - イスラエル、四項目和平を提案する
湾岸戦争以降[編集]
- 1991年 - 第1次インティファーダが下火となる
- 1993年(9月13日調印) - イスラエルとPLO、パレスチナ人の暫定自治の原則宣言に調印(オスロ協定*)成立。PLOによるヨルダン川西岸及びガザ地区のパレスチナ人居住地の自治が始まる。基本原則宣言(DOP)ではA地区、B地区、C地区に分割、C地区のアラブ人の住まないとされた土地に入植地を建設
- パレスチナ自治区拡大。1999年まで、5つの平和条約が結ばれ、そのたびに自治区が拡大されてきた。
- 1997年1月17日 - ヘブロン・プロトコル、自治拡大
- 1998年10月23日 - ワイリバー覚書、自治拡大
- 1998年 ゴラン高原の入植地拡張計画を発表
- 1999年 - 労働党のエフード・バラク、首相就任
- 9月、11月 シャルム・エルシェイク会議により自治区拡大
シャルム・エルシェイク会議では、この月から最終地位交渉に入り、一年以内で包括的協定が結ばれるという見通しが立っていた。
- 9月、11月 シャルム・エルシェイク会議により自治区拡大
- 2000年
- 2001年 - リクード党のアリエル・シャロン、首相就任
- 2002年 ダニエル・カーネマン、ノーベル経済学賞を受賞
- 2003年 -
- 2004年
- アーロン・チカノーバー、アブラム・ハーシュコ Avram Hershko、ノーベル賞受賞
- PLO議長ヤーセル・アラファート、フランスで死去。後任にマフムード・アッバース就任
- 2005年 - アッバースPLO議長、パレスティナ自治政府議長に就任
- 10月 イスラエル・アウマン(ロバート・オーマン)がノーベル経済学賞受賞
- 2006年
- 1月4日 新党カディーマを結党したシャロン首相が脳出血を起こし入院。エフード・オルメルト Ehud Olmert 副首相が首相代行
- 7月 ヒズボラがイスラエル軍兵士2人を拉致、報復としてヒズボラ拠点であるレバノン南部への空爆と地上軍侵攻を開始し、第二次レバノン戦争が勃発。両軍およびイスラエル民間人やレバノン民間人を含め多数の死傷者を出す。8月14日、国連安保理決議に基づき停戦が発効される。
- 2007年
- 9月 5~6日に掛け、秘密裏にシリアを空襲。イスラエルは箝口令を敷いていたが、19日夜、ネタニヤフ元首相は「私は最初からこの件に関与していたし、支持した」と発言し、空襲を行ったことを認めた。
- 2008年
- 12月27日 イスラエル軍がガザ地区で、イスラム原理主義組織ハマースの治安施設などを標的とした大規模な空爆を実施。空爆で195人が死亡、300人が負傷したとしている。報復としてハマースはガザ地区に隣接したイスラエル南部にロケット弾を撃ち込み、イスラエル人1人が死亡した(ガザ紛争 (2008年-2009年))
- 2009年
- 1月3日 地上侵攻を開始(ガザ紛争 (2008年-2009年))