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2020年1月13日 (月) 14:16時点における版
南満州鉄道 South Manchuria Railways
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種類 | 特殊会社 |
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市場情報 | |
略称 | |
本社所在地 | テンプレート:JPN1889 (租借地) 関東州大連市東公園町30 |
電話番号 | |
設立 | 1906年 |
業種 | 陸運業 |
事業内容 | 旅客鉄道事業、貨物鉄道事業 |
代表者 | |
資本金 | 2億円(設立時)→14億円(1940年) |
売上高 | |
総資産 | |
従業員数 | |
決算期 | |
主要株主 | 大日本帝国政府(50%) |
主要子会社 | 華北交通、大連都市交通、満州航空、昭和製鋼所 |
関係する人物 | 後藤新平、中村是公、山崎元幹、十河信二、島安次郎 |
外部リンク | |
特記事項:満州国成立以降は新京特別市に設置された本部が事実上の本社 |
南満州鉄道株式会社(南満洲鉄道株式会社、みなみまんしゅうてつどう、通称 満鉄、英称: South Manchuria Railways Co.)は、日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで満州(中国東北部)に存在した日本の特殊会社である。
鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となった。本社は関東州大連市であるが、のちに満州国が成立すると満州国首都の新京特別市に本部が置かれ、そちらが事実上の本社となった。また東京市麻布区麻布狸穴町[1]に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。
目次
設立経緯
南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が1906年に設立した半官半民の特殊会社である。
日露戦争(1904年-1905年)の勝利により、ポーツマス条約の結果ロシア帝国から譲渡された東清鉄道の南満州支線・長春 - 大連間の鉄道施設・付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設された軽便鉄道の安奉線(安東(現・丹東) - 奉天(現・瀋陽)間)とその付属地の経営が当初の設置目的であった。当初はアメリカの実業家のエドワード・ヘンリー・ハリマンが資本参入し、桂・ハリマン協定により日米共同経営が予定されていたが、外務大臣の小村寿太郎から反対し、日本単独資本となった。
初代総裁には台湾総督府民政長官として植民地行政に実績を挙げていた後藤新平が就任した。後藤は満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉により満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することを時の首相、西園寺公望に飲ませている。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することも認めさせた。
活動概要
午前八時主義
後藤は「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代の腹心で40歳そこそこの中村是公を副総裁に抜擢し、中村とともに30代、40代の若い優秀な人材を理事はじめ要職にスカウトした。三井物産の門司支店長から抜擢された犬塚信太郎に至ってはまだ32歳であったが人物・識見を買われ理事となった。
多様な事業展開
満鉄は単なる鉄道会社ではない。日露戦争中に児玉源太郎が後藤新平の影響を受けて献策した「満州経営梗概」には「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」とあり、それを具現したのが満鉄なのである。
満洲を中心とした鉄道経営のみに留まらず、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、農林牧畜、ホテル(ヤマトホテル)などの多様な事業を行なった。後藤の発案で設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクとして知られた。
後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円を調達し、これらの事業を進めた。
鉄道付属地行政
南満州鉄道附属地 も参照 また、ロシア帝国から引き継いだ鉄道付属地での独占的行政権を与えられており、地方部のもとで大規模な近代的都市計画(大連、奉天、長春のちの新京など。)を進めた。上下水道や電力、ガスの供給、さらには港湾、学校、病院、図書館などのインフラストラクチャーの整備を進め、満洲経営の中心となった。
標準軌への改軌
レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1067mm)の狭軌に改築していた。これを、政府の命令書により中国や朝鮮などに合わせて4フィート8.5インチ(1435mm)の国際標準軌間に改築しなければならなかった。1908年には大連 - 長春の本線の改築が終わった。不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることになり、周水子駅で異例の機関車の送別会が行なわれた。また、日露戦争中に軽便鉄道として敷設された安奉線も標準軌に改築された。
政党の介入と社員の抵抗
1912年12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭される。立憲政友会出身の内務大臣・原敬の差し金であった。総裁に政友会系鉄道官僚・野村龍太郎、そして副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が送り込まれた。これ以来、満鉄幹部のポストは政党の利権の対象となり、社員と激しく対立することもしばしば生じた。伊藤大八はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、創立以来の理事であった犬塚信太郎が強硬に抵抗した。その結果、犬塚と野村、伊藤はいずれも株主総会で更迭された。
1918年原敬内閣が成立すると、原は1919年4月、理事長・国沢新兵衛を更迭し、社長に再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚・中西清一を抜擢した。
中西は塔連炭坑と内田汽船を異常に高い値段で買収した。塔連炭坑は政友会の幹部・森恪が経営していた。内田汽船も政友会系の人物が経営していた。炭坑や汽船を満鉄に売りつけた代金は政友会の選挙資金に充てられた(満鉄疑獄事件)。野党・憲政会はこの問題を帝国議会で追及し、中西を背任罪で告訴した。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがいた。興業部庶務課長であった山田潤二は野村社長と中西副社長に直言し、容れられないと職を辞し、検事に決定的証拠を提出した。中西は逮捕・起訴されるが、控訴審で無罪となる。
こうした度重なる政党の介入に対し、社員は団結し、1927年、社員会を結成する。
張作霖爆殺事件と満洲事変
張作霖爆殺事件 を参照 昭和に入ると、満鉄は相次いで関東軍の陰謀の舞台となる。
1928年6月4日、満鉄の車両が奉天付近で爆破され、乗っていた奉天派軍閥の領袖、張作霖が死亡した。これが張作霖爆殺事件であり、中国人の犯行に見せかけた関東軍の陰謀であった。結果は失敗に終わり、首謀者・河本大作陸軍大佐は予備役に編入される。(後に河本は満鉄の理事になる。)
1931年9月、満鉄の柳条湖付近の線路の爆破事件(柳条湖事件)は、満州事変の発端となった。関東軍高級参謀・板垣征四郎、同参謀・石原莞爾らの陰謀であったが、当時満洲を支配していた張学良と戦闘状態に入り、圧倒的な軍事的勝利により、満洲全土を関東軍の支配下に置くことに成功した。
当時、総裁内田康哉以下の満鉄首脳は事変の不拡大を望んでいたが、理事の中でただ一人事変拡大派であった十河信二の周旋で内田が関東軍司令官・本庄繁と面談すると、急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することになる。この満洲事変、および満州国の成立によって満鉄の性格は大きく変わることを余儀なくされる。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入ることとなった。
北満鉄道買収と営業キロ数の伸び
鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連・旅順間の満鉄本線と安奉線のほかに、満洲国が1935年にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・東清鉄道)をはじめとする満州国有鉄道(国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年、奉天に鉄道総局を設置、さらに1942年に本社を大連から満洲国の首都新京に移転している。
特急「あじあ」
1934年11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「あじあ」が設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8km/hをはるかに上回った。流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシナ型」がこれを牽引した。1935年には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。
鉄道付属地の返還
しかし、満洲全土が日本の勢力下に入ると、鉄道付属地は必要なくなり、1937年に満洲国に返還された。これに伴い、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満州国へ移籍した。
満鉄改組
満洲事変以来、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移る。また満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった。こうした勢力は、満州国の経済における満鉄の独占的地位をよしとしなかった。1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満州重工業開発(満業)に譲渡し、鉄道と炭鉱部門および調査部門に特化することになった。
こうしたなか、総裁松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門を強化するが、1942年、1943年の二度に亙る「満鉄調査部事件」(満鉄調査部の研究者が左翼的であるとして大量に検挙された)により、調査部門も活力を失った。
子会社の東亜勧業は満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なった。代替地を用意せず、只同然の補償金で先住中国人を強制的に立ち退かせた。
消滅とその後
この辺りの事情は山崎元幹の項も参照
満洲近代化においての満鉄の影響は大きかったが、1945年の日本の降伏の直前に満洲に侵攻したソビエト連邦軍に接収され、その施設は同年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管される。一方、GHQによりポツダム宣言受諾にともなう閉鎖機関令が公布され、満鉄は同年9月30日に遡って閉鎖されたものとされた。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたので、清算は1957年までかかった。
満鉄は消滅したものの、現地の鉄道輸送の人員や技術者は不足しており、旧満鉄社員の多くは中華民国政府の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた。これを留用という。留用は1948年まで続いた。彼らの留用による成果として、宝鷄 - 蘭州間の天蘭線開通が挙げられる。また、大村卓一は満鉄総裁を務めた罪で、中国共産党軍に逮捕され、獄死している。
満鉄が満洲に残した各種インフラは、日本が撤退し、その後勃発した国共内戦の結果として中華民国から中華人民共和国へ政体が変わった後も、東北部を経営する際にも大きく役立っており、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、付近で発見された大慶油田と共に、国内が不安定であった中華人民共和国の経済を支え続けた。
長春(旧・新京)や大連、瀋陽(旧称・奉天)といった主要都市では現在でも日本統治時代の建築物を多数目にすることが出来る。満鉄関連の建物も現在でも多くが修復されながら現在も使われており、たとえば満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しており、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などに名前を変えて営業を続けている。
なお、元満鉄に関係のある者を中心とし、満洲に関係のある帰還者、未帰還者およびその家族等の援護厚生を図ることを目的として、財団法人満鉄会が1954年11月25日に設立された。旧満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生などを行っている。
満鉄各線で活躍した車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働しているが、老朽化などの理由で、徐々に廃車、静態保存などが進んでいる。
資本金
関連企業・団体
経営路線
1945年8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)[2]
凡例 : [貨] 貨物線
社線
路線名 | 区間 | キロ程 | 旧路線名・備考 |
---|---|---|---|
連京線 | 大連 - 新京 | 701.4 | 本線 (開業 - 1921年7月20日) 満洲本線 ( - 1925年3月31日) 連長線 ( - 1932年10月31日) |
大連埠頭 - 沙河口 [貨] | 6.9 | 通称「埠頭線」 | |
大連 - 吾妻 [貨] | 2.9 | 通称「吾妻線」 | |
安奉線 | 安東 - 蘇家屯 | 260.2 | |
入船線 [貨] | 沙河口 - 入船埠頭 | 5.8 | |
旅順線 | 周水子 - 旅順 | 50.8 | |
柳樹屯線 | 大房身 - 柳樹屯 | 5.8 | 休止線 |
甘井子線 [貨] | 南関嶺 - 大連甘井子埠頭 | 11.9 | |
金城線 | 金州 - 城子疃 | 102.1 | |
営口線 | 大石橋 - 営口 | 22.4 | |
煙台炭礦線 | 煙台 - 煙台炭礦 | 15.6 | 非営業線 |
撫順線 | 蘇家屯 - 撫順 | 52.9 | |
渾楡連絡線 [貨] | 渾河 - 楡樹台 | 4.1 |
北鮮線
路線名 | 区間 | キロ程 | 旧路線名・備考 |
---|---|---|---|
北鮮西部線 | 上三峰 - 南陽 | 36.0 | 図們線(朝鮮総督府鉄道) |
北鮮東部線 | 図們 - 雄基 | 147.3 | 図們線(朝鮮総督府鉄道) |
雄羅線 | 雄基 - 羅津埠頭 | 18.2 | |
南羅津線 [貨] | 羅津 - 南羅津 | 3.0 |
国線
満州国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日~)
路線名 | 区間 | キロ程 | 旧路線名・備考 |
---|---|---|---|
奉山線 | 奉天 - 山海関 | 419.6 | 奉山鉄路 |
奉裕連絡線 [貨] | 奉天 - 裕国 | 17.5 | |
于洪連絡線 [貨] | 于洪信号所 - 大成信号所 | 4.6 | |
皇姑屯連絡線 [貨] | 皇姑屯 - 北奉天 | 2.8 | |
高新線 | 高台山 - 新立屯 | 60.6 | |
大鄭線 | 大虎山 - 鄭家屯 | 366.2 | 奉山鉄路(大虎山-通遼) 四洮鉄路(通遼-鄭家屯) |
新義線 | 新立屯 - 義県 | 131.5 | |
河北線 | 溝帮子 - 河北 | 91.1 | 奉山鉄路 |
錦古線 | 錦県 - 古北口 | 542.3 | 奉山鉄路(錦県-口北営子) |
北票線 | 金嶺寺 - 北票 | 17.9 | 奉山鉄路 |
葉峰線 | 葉柏寿 - 赤峰 | 146.9 | |
壺蘆島線 | 錦西 - 壺蘆島埠頭 | 12.1 | 奉山鉄路 |
奉吉線 | 奉天 - 吉林 | 447.4 | 瀋海鉄路(奉天-朝陽鎮) 吉海鉄路(朝陽鎮-吉林) |
瀋陽連絡線 [貨] | 奉天 - 瀋陽 | 10.7 | |
将軍堡連絡線 [貨] | 撫順 - 将軍堡信号所 | 3.6 | |
撫順城連絡線 [貨] | 撫順 - 撫順城 | 4.5 | |
梅輯線 | 梅河口 - 満浦 | 255.5 | |
新通化線 | 通化 - 新通化 | 4.2 | |
大栗子線 | 鴨園 - 大栗子 | 112.3 | |
平梅線 | 四平 - 蓮河 | 149.2 | 瀋海鉄路(西安-蓮河) |
京図線 | 新京 - 図們 | 528.0 | 吉長吉敦鉄路(新京-敦化) 敦図鉄路(敦化-哈爾巴嶺) |
龍豊線 | 龍潭山 - 大豊満 | 22.4 | |
金珠線 | 江北 - 金珠 | 18.8 | 吉林鉄道(新吉林-金珠) |
小新連絡線 [貨] | 小姑家 - 新站 | 9.1 | |
朝開線 | 朝陽川 - 上三峰 | 60.6 | |
和龍線 | 龍井 - 和龍 | 61.1 | |
合水連絡線 [貨] | 萱穂信号所 - 合水信号所 | ― | |
図佳線 | 図們 - 佳木斯 | 580.2 | |
佳木斯埠頭線 [貨] | 佳木斯 - 佳木斯埠頭 | 3.6 | |
興寧線 | 新興 - 城子溝 | 216.1 | |
汪清連絡線 [貨] | 汪清 - 小汪清 | 9.0 | |
虎林線 | 林口 - 虎頭 | 335.7 | |
恒山線 | 雞寧 - 恒山 | 12.4 | |
拉浜線 | 三棵樹 - 拉法 | 265.5 | |
煤窰線 | 舒蘭 - 煤窰 | 30.4 | 吉林鉄道 |
京浜線 | 新京 - 哈爾浜 | 242.0 | 北満鉄路 |
浜洲線 | 哈爾浜 - 満洲里 | 934.8 | 北満鉄路 |
浜綏線 | 哈爾浜 - 綏芬河 | 546.4 | 北満鉄路 |
開道廻線 | 亜布洛尼 - 横道河子 | 59.2 | |
香坊連絡線 [貨] | 香坊 - 東門信号所 | 5.1 | |
東門連絡線 | 東門信号所 - 新香坊 | 6.2 | |
城雞線 | 下城子 - 西雞家 | 103.4 | 穆稜鉄路(下城子-梨樹鎮) |
綏寧線 | 河西 - 東寧 | 91.1 | |
浜江線 | 哈爾浜 - 三棵樹 | 8.8 | 北満鉄路(哈爾浜-浜江) |
三棵樹埠頭線 [貨] | 浜江 - 三棵樹 | 4.0 | |
哈爾浜埠頭線 | 哈爾浜 - 哈爾浜埠頭 | 2.9 | 北満鉄路(哈爾浜-八区) |
江南連絡線 [貨] | 太平橋 - 江南信号所 | 2.2 | |
浜北線 | 三棵樹 - 北安 | 326.1 | 呼海鉄路(新松浦-海倫) 海克鉄路(海倫-北安) |
綏佳線 | 綏化 - 佳木斯 | 381.8 | |
鶴岡線 | 蓮江口 - 鶴岡 | 54.3 | |
蓮江口埠頭線 [貨] | 蓮江口 - 蓮江口埠頭 | 3.5 | |
北黒線 | 北安 - 黒河 | 302.9 | |
黒河埠頭線 [貨] | 黒河 - 黒河埠頭 | 4.2 | |
斉北線 | 斉斉哈爾 - 北安 | 231.5 | 斉克鉄路(斉斉哈爾-泰安) 泰克鉄路(泰安-克山) 海克鉄路(克山-北安) |
寧霍線 | 寧年 - 霍龍門 | 284.0 | 斉克鉄路(寧年-拉哈) |
平斉線 | 四平 - 斉斉哈爾 | 571.4 | 四洮鉄路(四平-洮南) 洮昮鉄路(洮南-三間房) 斉克鉄路(三間房-斉斉哈爾) |
京白線 | 新京 - 白城子 | 332.6 | |
白杜線 | 白城子 - 杜魯爾 | 376.5 | 洮索鉄路(白城子-寗家仮站) |
楡樹線 | 楡樹屯 - 昮昮渓 | 6.4 | 斉克鉄路 |
渓堿線 | 宮原 - 田師付 | 86.0 |
新線
安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - 鳳灌線 - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止)
社内専用線
湯旺森林線
廃止線
- 社線
- 霊山線[貨] 首山 - 霊山操車場(1941年6月1日廃止)
- 西寛城子線 孟家屯 - 寛城子(1909年2月3日廃止)
- 国線
- 馬船口線 (松浦 - 馬船口、旧呼海鉄路、1936年7月1日廃止)
- 奶子山線[貨] (蛟河 - 奶子山、旧吉長吉敦鉄路、1936年9月1日廃止)
- 松浦線(新松浦 - 松浦、旧呼海鉄路、1938年6月1日廃止)
- 道裡線[貨] (哈爾浜 - 道裡、旧北満鉄路、1941年12月1日廃止)
- 新線
- 東当線(1944年4月1日廃止)
満鉄を走った主な列車
- 特急「あじあ」 大連 - 新京 - 哈爾濱
- 急行「はと」 大連 - 新京
- 急行「ひかり」 釜山 - 新京
- 急行「のぞみ」 釜山 - 新京
- 急行「大陸」 釜山 - 奉天 - 北京
- 急行「興亜」 釜山 - 奉天 - 北京
- 急行「あさひ」 羅津 - 新京
満鉄の車両
南満州鉄道の車両 を参照
歴代総裁
- 代 名前 在職期間 (職名) 出身母体
- 後藤新平 1906年11月13日-1908年7月14日(総裁)医師・官僚
- 中村是公 1908年12月19日-1913年12月18日(総裁)官僚
- 野村龍太郎 1913年12月19日-1914年7月15日(総裁)技術者・官僚
- 中村雄次郎 1914年7月15日-1917年7月31日(総裁)軍人
- 国沢新兵衛 1917年7月31日-1919年4月12日(理事長)技術者・官僚
- 野村龍太郎 1919年4月12日-1921年5月31日(社長)技術者・官僚
- 早川千吉郎 1921年5月31日-1922年10月14日(社長)実業家
- 川村竹治 1922年10月24日-1924年6月22日(社長)官僚
- 安広伴一郎 1924年6月22日-1927年7月19日(社長)官僚
- 山本条太郎 1927年7月19日-1929年8月14日(社長、1929年6月21日-総裁)実業家・政治家
- 仙石貢 1929年8月14日-1931年6月13日(総裁)技術者・官僚
- 内田康哉 1931年6月13日-1932年7月6日(総裁)外交官・政治家
- 林博太郎 1932年7月26日-1935年8月2日(総裁)学者
- 松岡洋右 1935年8月2日-1939年3月24日(総裁)外交官・政治家
- 大村卓一 1939年3月24日-1943年7月14日(総裁)技術者・官僚
- 小日山直登 1943年7月14日-1945年4月11日(総裁)満鉄生え抜き
- 山崎元幹 1945年5月5日-1945年9月30日(総裁)満鉄生え抜き
主な出身者
- 足立篤郎(元農林大臣、科学技術庁長官)
- 出光計助(元出光興産社長、元石油連盟会長)
- 稲嶺一郎(元自由民主党参議院議員、琉球石油(現・りゅうせき)設立者)
- 岩永裕吉(元同盟通信社社長)
- 宇田耕一(元経済企画庁長官、科学技術庁長官)
- 岸一郎(元大阪タイガース監督)
- 具島兼三郎(国際政治学者、元長崎大学学長)
- 佐々木義武(元科学技術庁長官、通商産業大臣)
- 東海林太郎(歌手)
- 田中龍夫(元文部大臣、通商産業大臣)
- 永末英一(元民社党委員長)
- 中西功(元日本共産党参議院議員)
- 浜崎真二(元阪急ブレーブス・国鉄スワローズ監督)
- 毛利松平(元環境庁長官)
- 安井武雄(建築家。満鉄で大連税関長官舎を1911年に設計)
- 安井謙(元参議院議長)
- 和田耕作(元民社党衆議院議員)
- 布村一男(民族学者、元熊本女子大学教授)
- 松木侠(大同学院院長、鶴岡市市長)
- 義永秀親(元鹿児島県大島郡瀬戸内町町長)
関連項目
- 満州事変
- 溥儀
- 満州善後条約
- 日本の改軌論争
- 満鉄調査部事件
- 尾崎秀実(嘱託職員)
- 松岡満寿男(満鉄会理事長)
- 朝鮮総督府鉄道
- シベリア鉄道
- 大東亜縦貫鉄道
- 日本国有鉄道
- 弾丸列車
- 新幹線
- 南洋興発
- 東洋拓殖
- 新疆生産建設兵団
脚注
- ↑ 現在の麻布台2丁目1番2号、跡地には東京アメリカンクラブが造られた(2007年閉鎖)。
- ↑ 満鉄会編 『南満洲鉄道株式会社第四次十年史』(満鉄全線全駅一覧)
参考文献
- 原田勝正 『満鉄』 岩波新書
- 原田勝正 『増補 満鉄』 日本経済評論社
- 天野博之 『満鉄を知るための十二章』 吉川弘文館
- 加藤聖文 『満鉄全史』 講談社選書メチエ
- 草柳大蔵 『実録満鉄調査部』 朝日新聞社、のち朝日文庫上下
- 小林英夫編 『近代日本と満鉄』 吉川弘文館
- 小林英夫 『満鉄調査部』 平凡社新書
- 小林英夫 『満鉄調査部の軌跡』 藤原書店
- 『満鉄とは何だったのか』 「別冊環12」 藤原書店
- 復刻版 『忘れえぬ満鉄』 世界文化社
- 西澤泰彦 『図説・満鉄』 <とんぼの本>河出書房新社
- 歴史群像シリーズ編 『満洲帝国』 学研
- 松岡洋右『満鉄を語る』 慧文社 復刊
- 菊池寛 『満鉄外史』 原書房 復刊
- 『南満洲鉄道株式会社十年史』
- 『南満洲鉄道株式会社第二次十年史』
- 『南満洲鉄道株式会社第三次十年史』
- 満鉄会編 『南満洲鉄道株式会社第四次十年史』 以上龍渓書舎
- 満鉄会編 『満鉄四十年史』 吉川弘文館