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(自社さ政権時代)
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== 歴史 ==
 
== 歴史 ==
 
=== 自社さ政権時代 ===
 
=== 自社さ政権時代 ===
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[[1996年]]1月日本社会党第64回大会での名称変更決定を受け、同年3月第一回大会を開き成立する。初代党首は[[村山富市]]、幹事長は[[佐藤観樹]]。[[村山内閣]]総辞職により成立した[[第1次橋本内閣]]に参加し、[[自社さ政権]]の枠組みを引き続き維持した。成立時はさらに新党を作るための過渡的政党との位置づけだった。佐藤観樹ら[[社会党右派|右派]]系および一部左派の議員多数は同年成立の[[民主党 (日本 1996-1998)|旧民主党]]に参加したが、総選挙を控えた同年9月民主党は左派系長老議員の参加を拒否した。そのため社民党で選挙を戦うことになり、党首も[[土井たか子]]に代わる。旧支持基盤の労働組合の大半が旧民主党支持に転じたため、土井党首は[[辻元清美]]ら[[市民運動]]出身者を積極的に立候補者に起用したが、10月の[[第41回衆議院議員総選挙]]では15議席しか獲得できながった。彼女らは「土井チルドレン」と呼ばれた。
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総選挙後は、閣外協力として引き続き連立政権に参加したが、[[1998年]]5月に連立政権から離脱した。
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党名変更と自社さ連立政権に批判的な左派勢力は、1996年1月に離党し[[新社会党]]を結党している。新社会党に参加した議員・党員の中には、除名処分となった者もいる。
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=== 連立政権離脱から2003年総選挙敗北まで ===
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政権離脱後の[[1999年東京都知事選挙]]で旧社会党時代から唯一の都知事選における自主投票。[[2000年]][[第42回衆議院議員総選挙]]では4議席増の19議席を確保。しかし、[[2001年]][[第19回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]では得票・議席とも大幅に減らした。結果的に、同年の第7回党大会で自社さ連立政権以来の旧幹部が退き、幹事長に[[福島瑞穂]]、政審会長に辻元清美など市民派が重要ポストに就いた。これ以後、[[自由民主党 (日本)|自民党]]に対する対決姿勢が強まった。
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[[2001年]]10月、不審船対策として、停船命令に従わない不審船への船体射撃を認める[[海上保安庁法]]改正案が自民党から共産党まで圧倒的多数の賛成で成立する中で、社民党だけが反対投票を行った。この法案に賛成した[[山本正和]]は社民党を除名され、[[無所属の会]]へ移籍した。
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[[2002年]]3月に市民派の代表・[[辻元清美]]が秘書給与問題で議員辞職する。この事件や[[日本人拉致問題]]の対応で、離党・除名者([[田嶋陽子]]、[[大渕絹子]]、[[大脇雅子]]ら)が出た。
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その後、社民党は公式HPで拉致事件を批判する声明を出し、[[朝鮮労働党]]との関係を凍結する。しかし、この対応は既に遅きに失し、[[2003年]]の[[第43回衆議院議員総選挙]]では6議席と惨敗し、党首の土井も小選挙区で落選、比例で復活した。市民運動出身の議員はほとんどが落選した。
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[[2002年]]4月に国連の「テロ資金供与防止条約」を批准するための関連新法が国会で可決、成立した。テロ資金の授受で仮名口座などが受け皿になることが多いため、金融機関に対し口座開設や200万円以上の現金取引を行う際、顧客の身元確認(本人確認)を義務付ける法案であるが、自民党から共産党まで圧倒的多数の賛成で成立する中で、社民党だけが反対投票を行った。この法律については、[[日本弁護士連合会]]からも法案に反対する意見書が出ていた。
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=== 福島瑞穂党首就任 ===
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総選挙後、土井たか子は党首を引責辞任し、[[11月15日]]に[[福島瑞穂]]が後任に選ばれた。護憲、九条遵守の立場を維持するとともに、幹事長には自治労出身の[[又市征治]]が就任し、労組、エコロジー派、消費者運動、市民派([[NPO]])等の吸収を目指して、新しい[[グローバリゼーション]]の状況に対抗可能な[[社会民主主義]]の模索を開始している。
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[[2004年]][[第20回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]では、前党首の土井が「[[選挙違反]]をやっていいとは言わないが、すれすれのところまで、本気になって頑張ろう」と声明を発した。 厳しい選挙戦の結果、福島をはじめ2議席を確保するに止まったが、複数議席獲得により解体・[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]への合流などの事態はまぬがれた。
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[[2005年]]、政党交付金の激減による財政難から党職員の[[整理解雇]]を職員団体に通告した。党は直近の選挙で[[リストラ]]反対と[[ワークシェアリング]]による雇用確保を主張しており、党職員からは「『雇用を守る』という党の労働政策と矛盾している」と反発の声が挙がっていたが、当時幹事長の又市征治は「[[人件費]]を切り詰めざるを得ない」として、同年[[2月17日]]、33名の本部職員のうち、55歳以上の高齢者、兼職、職務怠慢のいずれかを理由に9名に指名解雇をした。被解雇者中3名は[[労働組合]]を結成し、解雇無効の訴訟を起こしたが、2007年4月11日の一審判決、同年9月13日の二審判決、2008年2月1日の最高裁判決は、ともに党が勝訴した。もう一人の訴訟者に対する同年8月30日の一審判決も党が勝訴したが、08年1月東京高裁で金銭和解が成立した。
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2005年[[8月8日]]、[[郵政解散|衆議院が解散]]されると、翌[[8月9日|9日]]、副党首の[[横光克彦]]が離党。[[8月17日]]、元政策審議会長の[[濱田健一]]が離党表明。いずれも民主党に鞍替えし、横光は[[大分県第3区|大分3区]]、濱田は[[鹿児島県第4区|鹿児島4区]]から民主党の公認を受けた。横光は当選(比例区での復活)、濱田は落選した。一方、社民党は執行猶予中であったが、[[辻元清美]]を復党させ[[大阪府第10区|大阪10区]]で公認、[[比例近畿ブロック]]において、名簿順位1位で[[重複立候補]]した。辻元は、同区では落選したものの、比例近畿ブロックで復活当選したが、比例近畿ブロック単独立候補であった元党首の[[土井たか子]]は落選(社民党の比例代表近畿ブロック当選者は1人で、土井は5位。ただし、2位から4位の候補者が供託金没収で復活当選ができないため、辻元が当選していれば当選していた。)した。議席数は公示前の5議席から7議席に回復した。
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[[2006年]][[2月11日]]、12日の第10回党大会で、自衛隊が「現状、明らかに違憲状態」であり、「縮小を図り」、「[[非武装中立|非武装]]の日本を目指す」との内容を含んだ「社会民主党宣言」が採択され、旧社会党時代の[[1994年]]に村山首相が打ち出した自衛隊合憲・容認路線は修正され、基本政策はほぼ村山内閣以前に戻った(ただし、福島は2010年3月1日の衆議院予算委員会において、自衛隊の憲法上の位置づけについて「(党として合憲か違憲か)結論を出していない」としており、同月12日の参議院予算委員会では、自民党の[[佐藤正久]]の「(自衛隊を)合憲と認めるか」との質問に対して、「閣僚としての発言は差し控えさせていただく」として回答を拒んだが、最終的に「社民党の方針は変わらない。内閣の一員としては内閣の方針に従う。自衛隊は違憲ではない」と答弁した。同時に、[[1993年]]に[[政治改革四法|政治改革関連4法案]]に反対し処分された17名のうち[[離党]]した者を除く9名の処分を取り消したほか、元党首の[[村山富市]]、土井両氏の「名誉党首」就任も決定された。一方、新社会党及び「[[9条ネット]]」については、又市は「『戻ってらっしゃい』と言っている。『村山政権のときに安保・自衛隊を認めた』と、馬鹿みたいな話をまだしている。」と批判した。
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[[2007年]][[4月20日]]、国の海洋政策を一元化するための[[海洋基本法]]と、ガス田掘削施設などの周辺への船舶進入を規制する[[海洋構築物安全水域設定法]]が、[[自由民主党|自民]]・[[公明党|公明]]・[[民主党 (日本 1998-)|民主]]・[[日本共産党|共産]]・[[国民新党|国民新]]各党の賛成により可決成立したが、社民党のみ反対した。福島は「この法律は領土問題や資源問題について近隣諸国との関係に影響を与えるものである。拙速に行うと、交渉に悪い影響を与えることになる。」とコメントした。
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=== 2007年参院選での野党勝利から2009年衆議院解散まで ===
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[[第21回参議院議員通常選挙|2007年参議院選挙]]では、「[[憲法9条]]と年金があぶない! 今回は社民党へ」をキャッチコピーに、憲法と年金問題を中心に主張し、近年各政党が力を入れる政党[[コマーシャルメッセージ|CM]]ではアニメを採用するユニークなCMを福島などが強調した。結果は幹事長の又市を含め2議席確保の参議院計5議席にとどまる。
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またこの選挙で民主党系会派と社民党の議席の合計が過半数に達し、野党は参議院における安定多数を確保し勝利した。
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2007年[[12月22日]]、本部にて第11回党大会を開催し、立候補者1名のみの無投票で福島の党首当選(3期目)を正式に決定した。福島は講演で「次回の衆議院選挙で2桁(10人以上)の当選を目指す」とした。この党大会では[[1998年]](自民党当時総裁の橋本龍太郎)以来久々に、他党幹部として民主党代表代行の[[菅直人]]や国民新党副代表の[[自見庄三郎]]らが来賓出席した。また、党役員人事では副党首に幹事長の[[又市征治]]、幹事長に国会対策委員長の[[重野安正]]、副幹事長に東京都連副会長だった[[保坂展人]]が就くことになった。また、参院選比例区候補だった[[上原公子]]は、社民党を労組依存体質から脱却し、[[市民運動]]や[[NPO]]の連合体を目指す党改革案を提出し話題となった。
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一方、地方でも議席は減少傾向であるが、旧社会党組織が比較的強く残る地方では、民主党より議席数が多い地域もある(特に[[大分県議会|大分県]])。[[東北地方]]と[[九州|九州地方]]、そして[[沖縄県]]は旧社会党が強かった地域であり、現在も強い組織が残っている。
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2007年より[[YouTube]]へ党の宣伝やニュースの動画をアップしている(外部リンク参照)。これは各党に見られるものである。[[2008年]]初頭に投稿された『【SDP】:党員募集!』では、[[大阪府]][[高槻市]][[市議会議員]]の川口洋一と[[福岡県]][[田川市]]市議会議員の[[佐々木充|佐々木まこと]]が出演し、党員になることを訴えた。この動画の中で川口は今までの社民党が閉ざされた政党であったことを逆説的に「皆さん、社民党は開かれた政党に生まれ変わりつつあります」と主張した。
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2001年以来失って回復できていない[[東京都議会]]の議席を獲得するため、[[2009年東京都議会議員選挙]]では2人の候補を擁立し、福島党首が応援演説で「時代はだんだん社民党、時代はどんどん社民党」なるキャッチフレーズを掲げて支持を訴えたが、議席回復は果たせなかった。ただし、昭島選挙区の社民党や民主党など共産党を除く野党推薦する元[[東京・生活者ネットワーク|生活者ネットワーク]]の星裕子は当選した(当選後は生活者ネットの会派に所属)。
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また、社民党から唯一、参院選全国比例で組織内候補を立てていた[[日本私鉄労働組合総連合会]](私鉄総連)が、[[渕上貞雄]]の引退に伴い、次から民主党から組織内候補を立てることを決定した。
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=== 政権交代、三党連立政権参加へ ===

2011年5月5日 (木) 17:36時点における版

社会民主党(しゃかいみんしゅとう)は、日本政党。略称は社民党社民

概要

1996年日本社会党が改称して発足。議会勢力としては、中道左派(旧社会党内の護憲派ないし市民改革派)を継承している。はじめ社会党末期の路線を継承して「社民・リベラル」を掲げたが、野党化以降は北欧型社会民主主義やフランス社会党のモデルに近い「社会民主主義」路線を押し出し、2006年決定の綱領「社会民主党宣言」では、プロレタリア独裁と同時に自由主義(リベラル)の字句も完全に消え、アメリカ型の民主党路線とも一線を画している。

アメリカ民主党では、ビル・クリントンの「第三の道」以降、自由主義(リベラリズム)から共同体主義(コミュニタリアニズム)ヘ接近するグループが形成され、社会民主主義との境界が曖昧に使用されてきているという経緯がある。また欧州の社会民主主義政党は、特に「第三の道」以降、福祉や雇用の機会均等、中立政策を最優先する社会民主主義から自由主義競争を大幅に受け入れ、集団安全保障を肯定する立場に転じ、アメリカ民主党のリベラル中道や社会自由主義ともいわれる立場に近い政策が採られるようになった。

機関紙は『社会新報』(週刊)、『社会民主』(月刊)。

現在の党首である福島瑞穂は、2003年以来の4回の党首選挙で全て無投票で当選している。また福島は、2011年現在の日本の政党で唯一の女性党首である。

国際組織の社会主義インターナショナルに加盟しており、党首の福島が副議長を務めている。

旧民社国政権与党3党での取り決めで社民党所属の国会議員の海外公務のファーストクラス利用を禁止していたが、連立離脱後の現在は不明。

国会内の勢力は民主党自民党公明党みんなの党共産党に次ぐ第6党で、衆議院議員6名・参議院議員4名である。

政策

平和福祉、環境保護、脱原子力、格差是正、雇用安定が党の主張の中心である。

観光産業の不振で米海兵隊誘致に非常に熱心なテニアン島においては、地元政府である北マリアナ連邦上院と下院が普天間基地の移設先はテニアン島が「最適地」であるとの決議を全会一致でを採択するなど、受け入れに賛成している。なお、北マリアナ連邦は既に事実上財政が破綻している。
  • 日米安全保障条約は、最終的に「平和友好条約」へと転換させ、在日米軍基地の整理・縮小・撤去を進める(2006年社民党宣言)。
  • アメリカ軍基地への立ち入り権を新たに明記し、緊急の場合は通報のみで立ち入れるようにするなど、日米地位協定の改正を提起する。
  • 日本国憲法を堅持し、平和憲法の理念の実現を呼びかけ、平和外交による紛争対処を唱える。
  • 自衛隊を「違憲」とし、改変・解消をして非武装中立の日本を目指す(社民党宣言)。しかし、自社さ連立政権においては村山首相が所信表明演説において合憲と明言しており、民社国連立政権においても、福島党首自ら自衛隊は合憲と認めた。
  • 都市を無防備にして、それを宣言することで他国からの攻撃を避けることを地方公共団体(地方自治体)のレベルで決めようという日本独特の無防備地域宣言運動に唯一賛成している政党である。
  • 平和主義の理念に基づく平和政策を率先して立案し、外交政策に反映させる。特に、武器貿易条約の早期締結、クラスター爆弾の全面禁止、対人地雷禁止条約の強化、劣化ウラン弾の使用禁止などで日本がリーダーシップを発揮する。
  • 核燃料サイクル計画を「非現実的で高コスト」「核拡散上の問題も多い」として批判。原子力発電については、危険性の高い炉や老朽化した原子炉を順次廃炉にし、最終的には風力発電によって置き換えることを主張している。
  • 福祉社会を目標とし、雇用の安定・創出と社会保障充実を柱にした経済対策を行う。
  • 女性の権利向上を志向する(社民党は他党と比較して土井たか子党首が積極的に女性候補を増加させるクォータ制を導入した結果女性議員の比率が高い。2000年第42回衆議院議員総選挙後から2003年第43回衆議院議員総選挙まで女性議員の比率が男女同数で女性議員が半数を占めた。(衆議院議員が男性9人で女性が10人で女性議員数の方が多くて、参議院議員が2001年までは男性が7人で女性が6人で2001年第19回参議院議員通常選挙以降は男性が4人で女性が3人で、女性議員の比率が50%)であった。当時は田嶋陽子を参議院比例区に公認するなどフェミニズム政党と呼ばれたが、現在は少数政党化が進み女性議員の比率が減少して、最重要政策が女性政策から平和や労働政策となっている。党首も2代続けて女性である)。
  • 院内交渉団体制度の撤廃。
  • 救急患者のたらい回しをなくすため「周産期医療ネットワーク」と「救急搬送受け入れ体制」を早急に整備し、周産期医療の後方支援体制を確立する。
  • 労働者の権利を守るため、客観的・合理的な理由がなく「就職内定の取り消し」をされた場合は、「就職内定の取り消し」を無効とし、悪質な「就職内定の取り消し」を行った企業は、企業名を公表する。

収入源

平成22年度に交付される政党交付金は約8億6000万円。

平成21年度の政治資金収支報告書によれば、党費による収入は約2億円。なお、平成21年度の党費納入者の数は21359人である。

歴史

自社さ政権時代

1996年1月日本社会党第64回大会での名称変更決定を受け、同年3月第一回大会を開き成立する。初代党首は村山富市、幹事長は佐藤観樹村山内閣総辞職により成立した第1次橋本内閣に参加し、自社さ政権の枠組みを引き続き維持した。成立時はさらに新党を作るための過渡的政党との位置づけだった。佐藤観樹ら右派系および一部左派の議員多数は同年成立の旧民主党に参加したが、総選挙を控えた同年9月民主党は左派系長老議員の参加を拒否した。そのため社民党で選挙を戦うことになり、党首も土井たか子に代わる。旧支持基盤の労働組合の大半が旧民主党支持に転じたため、土井党首は辻元清美市民運動出身者を積極的に立候補者に起用したが、10月の第41回衆議院議員総選挙では15議席しか獲得できながった。彼女らは「土井チルドレン」と呼ばれた。

総選挙後は、閣外協力として引き続き連立政権に参加したが、1998年5月に連立政権から離脱した。

党名変更と自社さ連立政権に批判的な左派勢力は、1996年1月に離党し新社会党を結党している。新社会党に参加した議員・党員の中には、除名処分となった者もいる。

連立政権離脱から2003年総選挙敗北まで

政権離脱後の1999年東京都知事選挙で旧社会党時代から唯一の都知事選における自主投票。2000年第42回衆議院議員総選挙では4議席増の19議席を確保。しかし、2001年参議院選挙では得票・議席とも大幅に減らした。結果的に、同年の第7回党大会で自社さ連立政権以来の旧幹部が退き、幹事長に福島瑞穂、政審会長に辻元清美など市民派が重要ポストに就いた。これ以後、自民党に対する対決姿勢が強まった。

2001年10月、不審船対策として、停船命令に従わない不審船への船体射撃を認める海上保安庁法改正案が自民党から共産党まで圧倒的多数の賛成で成立する中で、社民党だけが反対投票を行った。この法案に賛成した山本正和は社民党を除名され、無所属の会へ移籍した。

2002年3月に市民派の代表・辻元清美が秘書給与問題で議員辞職する。この事件や日本人拉致問題の対応で、離党・除名者(田嶋陽子大渕絹子大脇雅子ら)が出た。

その後、社民党は公式HPで拉致事件を批判する声明を出し、朝鮮労働党との関係を凍結する。しかし、この対応は既に遅きに失し、2003年第43回衆議院議員総選挙では6議席と惨敗し、党首の土井も小選挙区で落選、比例で復活した。市民運動出身の議員はほとんどが落選した。

2002年4月に国連の「テロ資金供与防止条約」を批准するための関連新法が国会で可決、成立した。テロ資金の授受で仮名口座などが受け皿になることが多いため、金融機関に対し口座開設や200万円以上の現金取引を行う際、顧客の身元確認(本人確認)を義務付ける法案であるが、自民党から共産党まで圧倒的多数の賛成で成立する中で、社民党だけが反対投票を行った。この法律については、日本弁護士連合会からも法案に反対する意見書が出ていた。

福島瑞穂党首就任

総選挙後、土井たか子は党首を引責辞任し、11月15日福島瑞穂が後任に選ばれた。護憲、九条遵守の立場を維持するとともに、幹事長には自治労出身の又市征治が就任し、労組、エコロジー派、消費者運動、市民派(NPO)等の吸収を目指して、新しいグローバリゼーションの状況に対抗可能な社会民主主義の模索を開始している。

2004年参議院選挙では、前党首の土井が「選挙違反をやっていいとは言わないが、すれすれのところまで、本気になって頑張ろう」と声明を発した。 厳しい選挙戦の結果、福島をはじめ2議席を確保するに止まったが、複数議席獲得により解体・民主党への合流などの事態はまぬがれた。

2005年、政党交付金の激減による財政難から党職員の整理解雇を職員団体に通告した。党は直近の選挙でリストラ反対とワークシェアリングによる雇用確保を主張しており、党職員からは「『雇用を守る』という党の労働政策と矛盾している」と反発の声が挙がっていたが、当時幹事長の又市征治は「人件費を切り詰めざるを得ない」として、同年2月17日、33名の本部職員のうち、55歳以上の高齢者、兼職、職務怠慢のいずれかを理由に9名に指名解雇をした。被解雇者中3名は労働組合を結成し、解雇無効の訴訟を起こしたが、2007年4月11日の一審判決、同年9月13日の二審判決、2008年2月1日の最高裁判決は、ともに党が勝訴した。もう一人の訴訟者に対する同年8月30日の一審判決も党が勝訴したが、08年1月東京高裁で金銭和解が成立した。

2005年8月8日衆議院が解散されると、翌9日、副党首の横光克彦が離党。8月17日、元政策審議会長の濱田健一が離党表明。いずれも民主党に鞍替えし、横光は大分3区、濱田は鹿児島4区から民主党の公認を受けた。横光は当選(比例区での復活)、濱田は落選した。一方、社民党は執行猶予中であったが、辻元清美を復党させ大阪10区で公認、比例近畿ブロックにおいて、名簿順位1位で重複立候補した。辻元は、同区では落選したものの、比例近畿ブロックで復活当選したが、比例近畿ブロック単独立候補であった元党首の土井たか子は落選(社民党の比例代表近畿ブロック当選者は1人で、土井は5位。ただし、2位から4位の候補者が供託金没収で復活当選ができないため、辻元が当選していれば当選していた。)した。議席数は公示前の5議席から7議席に回復した。

2006年2月11日、12日の第10回党大会で、自衛隊が「現状、明らかに違憲状態」であり、「縮小を図り」、「非武装の日本を目指す」との内容を含んだ「社会民主党宣言」が採択され、旧社会党時代の1994年に村山首相が打ち出した自衛隊合憲・容認路線は修正され、基本政策はほぼ村山内閣以前に戻った(ただし、福島は2010年3月1日の衆議院予算委員会において、自衛隊の憲法上の位置づけについて「(党として合憲か違憲か)結論を出していない」としており、同月12日の参議院予算委員会では、自民党の佐藤正久の「(自衛隊を)合憲と認めるか」との質問に対して、「閣僚としての発言は差し控えさせていただく」として回答を拒んだが、最終的に「社民党の方針は変わらない。内閣の一員としては内閣の方針に従う。自衛隊は違憲ではない」と答弁した。同時に、1993年政治改革関連4法案に反対し処分された17名のうち離党した者を除く9名の処分を取り消したほか、元党首の村山富市、土井両氏の「名誉党首」就任も決定された。一方、新社会党及び「9条ネット」については、又市は「『戻ってらっしゃい』と言っている。『村山政権のときに安保・自衛隊を認めた』と、馬鹿みたいな話をまだしている。」と批判した。

2007年4月20日、国の海洋政策を一元化するための海洋基本法と、ガス田掘削施設などの周辺への船舶進入を規制する海洋構築物安全水域設定法が、自民公明民主共産国民新各党の賛成により可決成立したが、社民党のみ反対した。福島は「この法律は領土問題や資源問題について近隣諸国との関係に影響を与えるものである。拙速に行うと、交渉に悪い影響を与えることになる。」とコメントした。

2007年参院選での野党勝利から2009年衆議院解散まで

2007年参議院選挙では、「憲法9条と年金があぶない! 今回は社民党へ」をキャッチコピーに、憲法と年金問題を中心に主張し、近年各政党が力を入れる政党CMではアニメを採用するユニークなCMを福島などが強調した。結果は幹事長の又市を含め2議席確保の参議院計5議席にとどまる。

またこの選挙で民主党系会派と社民党の議席の合計が過半数に達し、野党は参議院における安定多数を確保し勝利した。

2007年12月22日、本部にて第11回党大会を開催し、立候補者1名のみの無投票で福島の党首当選(3期目)を正式に決定した。福島は講演で「次回の衆議院選挙で2桁(10人以上)の当選を目指す」とした。この党大会では1998年(自民党当時総裁の橋本龍太郎)以来久々に、他党幹部として民主党代表代行の菅直人や国民新党副代表の自見庄三郎らが来賓出席した。また、党役員人事では副党首に幹事長の又市征治、幹事長に国会対策委員長の重野安正、副幹事長に東京都連副会長だった保坂展人が就くことになった。また、参院選比例区候補だった上原公子は、社民党を労組依存体質から脱却し、市民運動NPOの連合体を目指す党改革案を提出し話題となった。

一方、地方でも議席は減少傾向であるが、旧社会党組織が比較的強く残る地方では、民主党より議席数が多い地域もある(特に大分県)。東北地方九州地方、そして沖縄県は旧社会党が強かった地域であり、現在も強い組織が残っている。

2007年よりYouTubeへ党の宣伝やニュースの動画をアップしている(外部リンク参照)。これは各党に見られるものである。2008年初頭に投稿された『【SDP】:党員募集!』では、大阪府高槻市市議会議員の川口洋一と福岡県田川市市議会議員の佐々木まことが出演し、党員になることを訴えた。この動画の中で川口は今までの社民党が閉ざされた政党であったことを逆説的に「皆さん、社民党は開かれた政党に生まれ変わりつつあります」と主張した。

2001年以来失って回復できていない東京都議会の議席を獲得するため、2009年東京都議会議員選挙では2人の候補を擁立し、福島党首が応援演説で「時代はだんだん社民党、時代はどんどん社民党」なるキャッチフレーズを掲げて支持を訴えたが、議席回復は果たせなかった。ただし、昭島選挙区の社民党や民主党など共産党を除く野党推薦する元生活者ネットワークの星裕子は当選した(当選後は生活者ネットの会派に所属)。

また、社民党から唯一、参院選全国比例で組織内候補を立てていた日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)が、渕上貞雄の引退に伴い、次から民主党から組織内候補を立てることを決定した。

政権交代、三党連立政権参加へ