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2024年3月23日 (土) 11:03時点における最新版
河井継之助 | |
---|---|
時代 | 江戸時代末期 |
生誕 | 文政10年1月1日(1827年1月27日) |
死没 | 慶応4年8月16日(1868年10月1日) |
改名 | |
別名 | 秋義(諱)、蒼龍窟(雅号) |
神号 | |
諡号 | |
戒名 | |
霊名 | |
墓所 | 新潟県長岡市栄涼寺 |
官位 | |
幕府 | |
主君 | 牧野忠雅→牧野忠恭→牧野忠訓 |
藩 | |
氏族 | |
父母 | 父:河井秋紀、母:貞 |
兄弟 | |
妻 | 梛野嘉兵衛の妹・すが |
子 |
河井 継之助(かわい つぐのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣である。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」とも読まれる[1]。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。
目次
河井家の概要[編集]
河井家の先祖は、もともと近江国膳所藩本多氏の家臣である。藩主の娘が初代長岡藩主・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。はじめに兄・河井清左衛門の家系は、その総領の義左衛門が近習・目付と班を進め大組入りした。戊辰戦争で銃卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。
弟の忠右衛門は、はじめ祐筆役となり、その後郡奉行となった。この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年(1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。その後、勘定頭、新潟奉行を歴任し者頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。継之助の父で郡奉行や新潟奉行などを歴任した4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされ120石となったと『河井継之助傳』にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。
以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年(1865年)に郡奉行に抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる[2][3]。
生涯1 修養・遊学の時期(1827~1862)[編集]
誕生~青年期[編集]
文政10年(1827年)、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12、3歳の頃、それぞれに師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に終えないと厄介払いされるほどであった。その後、藩校の崇徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松陰の影響で陽明学に傾倒していった。天保13年(1842年)に元服、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は、元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、継之助は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。17歳のとき、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。そして、嘉永3年(1850年)に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。継之助は青年時代から主に日本・中国(宋・明時代)の儒学者・哲学者の語録や明・清時代の奏議書の類の本をよく写本した。また、読書法についても後に鵜殿団次郎とそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。さらにこの時期には小山良運(160石、藩医、長男は明治期の画家・小山正太郎)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、三間市之進(350石、のち奉行役加判)、三島億二郎(37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行ほか諸奉行兼帯)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、河井を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。
初めての江戸遊学と藩政への登場[編集]
嘉永5年(1852年)の秋頃、継之助は江戸に遊学する。江戸にはすでに三島や小林虎三郎らが佐久間象山の許に遊学に来ていた。継之助はまず、三島を仲介に古賀謹一郎(茶渓)の紹介で斎藤拙堂の門をくぐった。また、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。継之助は遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと自適の日々を送った。当時、大坂の適塾にいた小山は小林の手紙でそんな3人の様子を知り、たいへん羨ましいと長岡の知人への手紙の中で述べている。翌嘉永6年(1853年)、継之助は斎藤の許を去り、古賀の久敬舎に入門し、寄宿する。斎藤の塾を去ったのは、そこには自分を高める会心の書がなかったためと言われる。一方、象山の塾には依然通い続け、砲術の教えを受けていた。ただし継之助は象山の人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。そのため継之助は門人たちからは「偏狭・固陋」な人物と思われた。同年、ペリーが来航すると、当時老中であった藩主忠雅は三島に黒船の偵察に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めた。それを受け、継之助、三島、小林らはそれぞれ建言書を提出する。ともに藩政改革を記した内容だったようだが、三島と小林はその内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。反対に継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命され、帰藩を命じられた。そのため、『李忠定公集』全巻を写し終え題字を認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡へ戻った。藩政の刷新を企図し帰藩した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老など藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。その後、とくに何もないままの日々を過ごす。安政2年(1855年)、忠雅の世子・忠恭のお国入りにあたり、継之助は経史の講義を行うよう命じられる。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたため、藩庁からお叱りを受ける。この間、射撃の練習に打ち込んでその腕を上げる一方、三島とともに東北へ遊歴した。安政5年(1858年)、家督をついで外様吟味役になると、さっそく宮路村での争いを解決へと導いた。
備中松山・長崎への遊歴[編集]
安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度に出ていた継之助も山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀や長崎も訪れ、知見を広める。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。
生涯2 藩政の主導者へ(1862~1867)[編集]
京都詰・江戸詰に任命[編集]
文久2年(1862年)、藩主の牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。継之助は藩主忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。だが9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、結局この責任をとるかたちで公用人を辞し、帰藩した。
郡奉行就任と藩政改革の開始[編集]
しかしその後、慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。
越後長岡藩慶応改革[編集]
藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知すると云う門閥の平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を藩主の信任の下で継之助は断行した。詳細は越後長岡藩の慶応改革を参照のこと。
生涯3 明治維新への対応(1867~1868)[編集]
戊辰戦争の開始[編集]
慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古を発し、幕府などを廃止する。一方長岡藩では、藩主・忠恭は隠居し牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。翌慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にスネル兄弟などからガトリング砲やフランス製の2000挺の最新式銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。
一藩武装中立[編集]
新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥出身の家老首座連綿・稲垣平助、長岡藩で藩主・牧野氏の先祖と兄弟分の契りを結んでいたとされる重臣・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。こうした中で継之助は、まず自説を曲げずに継之助にことごとく刃向かう反河井派の急先鋒・安田鉚蔵を藩命として永蟄居となした。そして、恭順派の拠点となっていた長岡藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて武装中立を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした[4]。
小千谷談判の決裂[編集]
5月2日(6月21日)、河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村精一郎と会談した。河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、成り行きで新政府軍の軍監になった岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。継之助は長州の山縣狂介か薩摩の黒田了介を交渉相手に望んでいたが、若輩である岩村が出てきたことが計算外だった。継之助の交渉相手としては岩村の器は小さすぎた。一方新政府軍にとっても、岩村が継之助を捕縛せずにそのまま帰してしまったのが大失敗だった。これにより長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する[5]。
北越戦争の開戦[編集]
長岡藩は7万4千石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、家老首座連綿の稲垣平助茂光は交戦状態となる直前に出奔。家老次座連綿の山本帯刀や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法御三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍に恭順を主張するも藩命に従った。上級家臣団のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。但し先法御三家は筋目(家柄)により継之助の命令・支配を受ける謂われはなかったので、藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる。継之助の長岡慶応改革によっても、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、河井の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた[6]。その後6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であった。ところがその奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。
河井の最期[編集]
継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時すでに継之助の傷は手遅れな状態にあった。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。塩沢村では不安定な状態が続いた。15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥った。そして、再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、破傷風[7]により死去した。享年42。
継之助の葬式は会津城下にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。戦後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄涼寺に再び埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として継之助を恨む者たちによって、何度も倒された。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、政府より死一等を免じる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(河井の養女の夫)に新知100石を与えて河井の家族を扶養させた。だが、明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのであった。
略年譜[編集]
- 1827年:誕生。
- 1842年:元服。
- 1843年:生贄の鶏を裂いて王陽明を祀り、輔国を誓う。
- 1852年:最初の江戸遊学。斎藤拙堂、古賀謹一郎(茶渓)、佐久間象山らの門をくぐる。
- 1853年:ペリー来航。藩主忠雅に建言書提出。御目付格評定方随役に任命され帰藩。2ヶ月で辞職。
- 1857年:家督を相続。外様吟味役に任命。
- 1858年:江戸へ再度遊学のため長岡を発つ。
- 1859年:古賀の久敬舎に再入学。西国へ遊学、備中松山藩の山田方谷に入門。その間、長崎にも遊歴。
- 1860年:江戸へ戻る。横浜でファブルブランドやエドワード・スネルらと懇意になる。
- 1863年:1月、京都詰となる。藩主忠恭の所司代辞任を要請。9月、公用人として江戸詰。忠恭の老中辞任を要請。叶わず辞職、帰藩。
- 1865年:外様吟味役再任。3ヶ月後、郡奉行に就任。藩政改革を開始。
- 1866年:町奉行を兼帯。
- 1867年:3月、評定役・寄会組になる。4月、奉行格加判。小諸騒動を解決。但し翌年11月に再燃。10月、年寄役(中老)。大政奉還を受け、12月に藩主忠訓と共に上洛、朝廷に建言書提出。
- 1868年:4月に家老。閏4月に家老上席、軍事総督に任命。5月、小千谷談判決裂。新政府軍と抗戦開始。8月、戦闘中の傷がもとで死去。享年42。
人物像[編集]
さほど背は高くなかったが鳶色の鋭い目を持ち、声がよかったという。徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質をすばやく見抜く才にすぐれ、士農工商制の崩壊、薩長政権の樹立を早くから予見していた。藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったがすでに若いころから藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。
遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。また、『塵壷』という名前で知られる旅日記を残した。
明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。非戦を唱えていたが薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」と開戦を支持している。
なお継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか、「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。しかしこれらの逸話は一切史実に残っていない為、信憑性の低い作り話であるという説が有力である。
河井継之助に関する主な史料[編集]
河井継之助の行動や人となりを知りうる史料に関しては、下記以外にも刊本・未刊本を問わずあるが、それらは基本的に戊辰戦争前後の長岡藩の動向について記されたものであるので、ここではあえて外した。
『河井継之助伝』[編集]
今泉鐸次郎著。初版は明治43年(1910年)、博文館。昭和6年(1931年)に目黒書店から増補改版。昭和55年(1980年)および平成8年(1996年)には象山社から増補版の再版が刊行。
- 継之助に関して編まれた唯一の刊本史料(伝記)であり、現在ある関連書籍はすべてこれを底本にして書かれている。
- 先祖は牧野家の家臣で自身は新聞記者・郷土史家であった今泉が、各地より蒐集した史料、関係者からインタビューした情報を基礎に構成。具体的には継之助の史料(書簡など)やそれ以外の者の関係史料からの引用と継之助の家族や関係者、またその関係者の子女などからの証言の2つから成り立っている。すなわち、史料学的に見れば『河井継之助伝』は2次史料・2級史料に分類される。
- 引用史料の中には「追考昔誌」「思出草」など、その原本や写本が現存しているものもある。しかしその一方で、所在やいかなる史料なのかが今のところ不明なものも存在する(たとえば「○○の手記」「三間正弘自叙伝」といったもの。これらについては、著者が便宜的につけた表題であり、史料名そのものではない)。また、戊辰戦争前後の事について書かれた現存の引用史料は残されたメモや当時の史料、記憶をたよりに後年編まれたものや回想録である。ゆえに、これら『河井継之助伝』中の引用史料の扱いについても内容をそのまま鵜呑みにはせず、他史料で裏付けをとる必要もある。
- 小諸騒動にあっては、維新後の混乱期にごく短期間だけ小諸藩上席家老となった牧野隼之進成聖の嫡子・成功からの聞き取りに依拠したと部分が多いものと推察され、これと不仲(或いは反対派)であった牧野隼之進成聖の本家となる牧野八郎左衛門成道、及び真木要人則道、太田宇忠太一道、前藩主夫人の楠子などの評価を低く(或いは悪役に近く)書いている恨みがあると指摘する文献(牧野家臣団・加藤誠一著など)もある(参考となるページ・牧野康那)。また小諸藩重臣の知行、家禄の引用が極めてアバウトであるとも指摘されている。
- 小諸騒動はアカデミックな場で僅かに扱われているが、小諸騒動の継之助の調停については小諸藩文書等の小諸側の文書・史料からは継之助の具体的な事績・活躍がほとんど伝わらない。
- 関係者の証言に関しても、当時の様相を垣間見れる上で貴重な手がかりである。しかし、かなり年月を経たあとのものでもあり、そこには証言者本人の主観的判断や感情、記憶の入れ違いも存在しうる。ゆえに、史料学的見地からもこれらの証言を扱う際にも慎重さを要する。
- 本文中で引用されている継之助の書簡についても、原本はごく一部を除けば現存していない。
- しかしながら現在、継之助や幕末期長岡藩に関する1次史料(とくに藩政史料)がほぼ皆無の状況である以上、『河井継之助伝』は継之助の人物像や幕末期の長岡藩の様相を知る上で数少ない好史料であることは否定し得ない。
『塵壺』[編集]
継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年6月7日(1859年7月6日)から同年12月22日(1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、長岡市立中央図書館から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。また、安藤英男 校注『塵壷:河井継之助日記』<東洋文庫257>(平凡社、昭和49年(1974年))にて活字化もされている。
- 江戸~備中松山~長崎~備中松山における道中の出来事を記録したもので、両親への道中報告のためのメモ的なものである。そのため、特筆すべきことのないようなときは日付と天気しか記していない日もある。
- 数日分を後でまとめて記すこともあったため、記憶により記述の細かさにばらつきがあったり別記を意図して内容を省略したりもしている。ゆえにいわゆる日記としての全般的な詳述さには欠けている面もある。
- 西国遊歴は、これ以降の河井の政治的行動を深く規定したという点で継之助の生涯において大きな位置を占める出来事であり、本史料は遊歴の内容や継之助の個性を知る上で貴重な史料といえる。
- 備中松山から江戸までの帰路については『塵壺』には記されていなかったため、その日程や内容についてはしばらくの間不明であった。しかしその後、その帰路の事を記した両親宛の書簡が発見されたため(『長岡市史』資料編3に所収)、江戸までの道中の日程や大まかな様子が判明した。なお、京都~備中松山間において行きが山陽を通ったのに対し、帰りは山陰を通って帰った事がこの書簡で初めて分かった。
※この他で継之助に直接関わる史料としては、史談会 編『史談会速記録』全44巻(原書房)に収められている三間正弘や大野右仲らの証言記録がある(記載巻数等は同書総索引を参照)。
継之助を扱った作品[編集]
書籍[編集]
継之助を扱った主な著書を挙げた。幕末期の長岡藩関係の著書やビジネス系雑誌の記事などは含まない。また同一の著者に継之助について書かれた複数の著書がある場合には、代表的な一冊のみを挙げた。
- 『北越戊辰戦争と河井継之助』(井上一次 著、イデア書院、1928年)
- 『河井継之助』(「人物研究叢刊第17」、神村実 著、金鶏学院、1933年)
- 『英雄と学問 河井継之助とその学風』(「師友選書第12」、安岡正篤 述、明徳出版社、1957年)
- 『峠』(司馬遼太郎 著、新潮社、1968年)
- 『河井継之助のすべて』(安藤英男 編、新人物往来社、1981年)
- 『河井継之助余聞』(緑川玄三 著、野島出版、1984年)
- 『河井継之助写真集』(安藤英男 著、横村克宏 写真、新人物往来社、1986年)
- 『愛憎 河井継之助』(中島欣也 著、恒文社、1986年)
- 『河井継之助の生涯』(安藤英男 著、新人物往来社、1987年)
- 『武士(おとこ)の紋章』(池波正太郎 著、新人物往来社、1990年)
- 『良知の人河井継之助 義に生き義に死なん』(石原和昌 著、日本経済評論社、1993年)
- 『日本を創った先覚者たち ― 井伊直弼・小栗忠順・河井継之助』(新井喜美夫 著、総合法令、1994年)
- 『小説河井継之助 武装中立の夢は永遠に』(童門冬二 著、東洋経済新報社、1994年)
- 『北越の竜河井継之助』(岳真也 著、角川書店、1995年)
- 『河井継之助 薩長に挑んだ男』(『歴史読本』第40巻第7号「シリーズ人物検証 7」、新人物往来社、1995年)
- 『北越蒼龍伝 ― 河井継之助の生涯』(菅蒼一郎 著、日本図書刊行会、1997年)
- 『小説 幕末輸送隊始末 ― 悲憤の英将 河井継之助』(竹田十岐生 著、新風舎、1997年)
- 『河井継之助』(星亮一 著、成美文庫、1997年)
- 『歴史現場からわかる河井継之助の真実』(外川淳 著、東洋経済新報社、1998年)
- 『河井継之助 立身は孝の終りと申し候』(稲川明雄 著、恒文社、1999年)
- 『河井継之助 信念を貫いた幕末の俊英』(芝豪 著、PHP文庫・PHP研究所、1999年)
- 『河井継之助 吏に生きた男』(安藤哲也 著、新潟日報事業社、2000年)
- 『河井継之助と明治維新』(太田修 著、新潟日報事業社、2003年)
- 『怨念の系譜 河井継之助、山本五十六、そして田中角栄』(早坂茂三 著、集英社、2003年)
- 『龍虎会談 戊辰、長岡戦争の反省を語る』(山崎宗彌 著、2004年)
論文[編集]
継之助について考察した主な論文を挙げた。幕末期の長岡藩関係の論文などは含まない。
- 『幕末期における政治主体と政治意識 ― 河井継之助の政治思想について」(安藤哲也、1976年)
- 『河井継之助生誕の地を求めて ― 越後長岡藩における河井家の位置」(小川和也、『歴史読本』48巻1号、2003年)
- 『鈴木無隠の「河井継之助言行録」について』(吉田公平、『東洋大学中国哲学文学科紀要』14号、2006年
- 『長岡郷土史』所収の該当論文(長岡郷土史研究会 編、第1~44号、1960~2007年)
ドラマ[編集]
過去に河井継之助を描いたテレビドラマがいくつか制作されている。
- 『花神』
- 昭和52年(1977年)1月2日~12月25日放送のNHK大河ドラマ。司馬遼太郎の『花神』(主人公:大村益次郎)、『世に棲む日日』(主人公:吉田松陰と高杉晋作)、『十一番目の志士』(主人公:高杉晋作と架空の人物・天堂晋助)、『峠』(主人公:河井継之助)の4作を原作とするが、ドラマの主役は大村。継之助は準主役級で、後半の多くの話に登場する。演じる高橋英樹は、司馬原作の大河では昭和48年(1973年)の『国盗り物語』に続いての主要配役で[8]、その人気と相まって「河井継之助」の名が全国のお茶の間に浸透することにつながった。
- 『最後のサムライ河井継之助』
- 平成11年(1999年)12月30日放送のテレビ朝日制作による2時間の年末スペシャル。「島田紳助の2000年に喝っ! スペシャル 幕末を駆け抜けた驚異のオレ流サラリーマン」という副題がついており、なんらかの原作のドラマ化というよりも、むしろ人物系教養バラエティー番組の延長上に位置する作品。継之助は阿部寛が演じた。
- 平成17年(2005年)12月27日放送の松竹・日本テレビ制作による2時間半の年末大型時代劇。原作については特に触れられていないが、大筋で『峠』のストーリーを踏襲している。継之助は中村勘三郎が30歳のときから演じたがっていた思い入れの強い役柄で、18代目中村勘三郎襲名を記念して制作された念願の作品。
注釈[編集]
- ↑ 『国史大辞典』等では「つぐのすけ」で記載されており、この読み方に親しんでいる者も多くいるが、河井家の遺族や地元・長岡では「つぎのすけ」で統一されている。
- ↑ なお、河井家を「奉行格」の家柄であると説明するものがあるが、これは誤りである。まず第1に、越後長岡藩には制度的に「奉行格」という家格は存在しなかった。そして第2に、町奉行などのような奉行を歴史学上は地方(ぢがた)の奉行職と呼ぶこともある。越後長岡藩では、郡奉行や町奉行の上位に位置する役職として「奉行職(御奉行)」が存在し、藩政全般に重きをなし、時として加判の列(最広義の老職)にもなった。継之助の祖父、曾祖父、高祖父が町奉行・郡奉行という役職に就任していたため、「奉行格」という家柄を勝手に誰かが創作もしくは誤認したのではないかと推察される。継之助は中老となる前、公用人・郡奉行・町奉行兼帯となった後に「奉行職(御奉行格加判)」に就任している。この「奉行職」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。したがって、河井家を奉行級の家柄であったとするのも誤りである。
- ↑ このほか藩主牧野氏が室町・戦国期に三河国宝飯郡の牛久保城主であった時代から仕えた古参の出自を誇る河井家がある。この河井家は乱心して、元禄10年(1697年)自殺した。家名断絶となったが、古参・譜代の家柄であったため特にお家再興を許されているが継之助の河井家とはまったく異なる家系である(河井喜兵衛家、75石)。継之助の河井一族と混同されることが多いので注意を要する。
- ↑ 安田鉚蔵を安井鉚蔵、槙内蔵介を植内蔵介と誤記または誤植をして出版された書籍があり、これより孫引きをしたと推察される書籍・文献がかなり存在し、この誤りを踏襲している。長岡藩士に植姓・安井姓の士分は存在しない。
- ↑ 小千谷談判は江戸城を無血開城に導いた幕臣の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛との駿府城会談と対比されることが多い。ただし、北越戦争における無様な結果について山縣は誰かしらに責任をなすりつける必要があったのは事実である。
- ↑ この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生する。5月20日(7月9日)に発生した吉田村・太田村(現在の燕市)を始め、巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して6月26日(8月14日)までに全て鎮圧した。この鎮圧のために長岡藩は一時兵力の多くを割くこととなり、新政府軍との戦いにも支障を来たした上、多くの領民が処罰され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。
- ↑ その他にも鉛毒、ガス壊疽などを死因とする説もある。
- ↑ 『国盗り物語』は前半が平幹二朗演じる斎藤道三、後半が高橋英樹演じる織田信長の主役リレー。『花神』は中村梅之助演じる大村が主役で、これに吉田(篠田三郎)、高杉(中村雅俊)、楠本イネ(浅丘ルリ子)、継之助(高橋英樹)などが準主役で絡む。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 河井継之助記念館(新潟県長岡市、2006年12月27日開館)
- 河井継之助記念館(河井の終焉の地・福島県只見町)
- 長岡市郷土史料館
- 長岡市立中央図書館
- 長岡市立互尊文庫内文書資料室
- 蒼龍窟が行く(河井継之助を扱っているサイト)
- 河井継之助紀行
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