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同年5月28日に執り行われた通夜では愛弟子だった桜田淳子、松田聖子、酒井法子が参列した。5月29日の本葬ではサンミュージックグループ各社所属タレントや芸能関係者が参列する中、相澤の一番弟子とも言うべき存在だった西郷輝彦、サンミュージック第1号タレントの森田健作、バンドマン時代から相澤と親交が深かった[[堀威夫]](ホリプロ創業者)が弔辞を読み、相澤を偲んだ。
 
同年5月28日に執り行われた通夜では愛弟子だった桜田淳子、松田聖子、酒井法子が参列した。5月29日の本葬ではサンミュージックグループ各社所属タレントや芸能関係者が参列する中、相澤の一番弟子とも言うべき存在だった西郷輝彦、サンミュージック第1号タレントの森田健作、バンドマン時代から相澤と親交が深かった[[堀威夫]](ホリプロ創業者)が弔辞を読み、相澤を偲んだ。
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== “裏切り”相次いでも……サンミュージック故・相澤秀禎会長のアイドルたちへの思い ==
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「僕は生涯現役マネジャーだよ」と言っていたサンミュージックプロダクションの相澤秀禎会長が5月23日、すい臓がんのために他界。享年83歳だった。
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相澤会長は人柄もよく温厚で、業界関係者からは“相さん”と呼ばれて愛されたが、その寛容な人柄が仇になったのか、自ら育てた女性タレントに裏切られることが多かった。
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相澤会長は、俳優で現・[[千葉県知事]]の[[森田健作]]を第1号タレントして、サンミュージックを設立。その後、[[桜田淳子]]をはじめ、[[松田聖子]]、[[早見優]]、故・[[岡田有希子]]、それに[[酒井法子]]といった女性アイドルを育て上げて、一時、“女性アイドルの宝庫”といわれる時代があった。
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相澤会長は、そんなタレントたちをデビュー前から自宅に下宿させ、家族同然に育てるというのが方針だった。しかし、親の心子知らずで、彼女たちに裏切られることが多かった。
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[[1986年]]には、スターの座をつかんだ岡田有希子が、事務所のビルの屋上から飛び降り自殺。3年後には、松田聖子に早朝、自宅に呼び出されて、一方的に独立を宣言されたという。聖子の男性スキャンダルを体を張ってガードしてきた相澤会長にとって、これほど屈辱的なことはなかっただろう。
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その後、桜田淳子が、[[統一教会]]の“合同結婚式”に事務所の反対を押し切って出席。マスコミからバッシングを浴びたこともあり、相澤会長は断腸の思いで、桜田を追放した。
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相次ぐ裏切りに嫌気が差したのか、その後、女性アイドルのマネジメントを手掛けることがなくなった相澤会長。代わって、息子の相澤正久社長はお笑いのマネジメントに積極的に取り組んで、芸人を次々に売り出した。相澤会長が筆者に「うちはお笑いばかりで、サンミュージックではなく、サンバラエティになった」と、うれしそうに語っていた。
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2009年には本社を、故・岡田さんの自殺現場として有名になった四谷4丁目のビルから四谷3丁目のビルに移転。直後に、[[酒井法子]]が[[覚せい剤取締法]]違反で逮捕された。
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実は逮捕される約7カ月前、相澤会長に、酒井がクスリをやっているという、ある人物から聞いた情報を伝えた。会長は酒井を呼び出して問いただしたが、彼女は頑強に否定したという。ところが、情報は当たっていたのだ。
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酒井に裏切られた相澤会長は、今年に入って、久しぶりに手がける女性アイドルグループ「さんみゅ~」を売り出すのを楽しみにしていた。その思いもかなわぬまま、他界。さぞ、無念だっただろう。
  
 
== 著書 ==
 
== 著書 ==

2013年12月29日 (日) 12:22時点における最新版

相澤秀禎の告別式

相澤 秀禎(あいざわ ひでよし、1930年1月20日 - 2013年5月23日)は、日本実業家芸能プロモーターサンミュージックプロダクションの創業者で初代社長。本名は相澤芳郎(與四郎とも記されている)。自伝によれば姓名判断で上記の通称に改めたという。

経歴・人物[編集]

相澤秀禎の告別式にて鳥居みゆき
相澤秀禎の告別式にて小野真弓

神奈川県横須賀市出身。実家は金物商。中学生の時に第二次世界大戦終戦を迎え、横須賀に進駐軍が駐留した際にカントリー・ミュージックに触れるようになる。またアメリカ海軍軍艦のエンジン洗浄のアルバイトなどもしていた。

法政大学在学中にバンド・ウエストキャラバンを結成。プロのスティール・ギター奏者として自ら演奏活動を行う傍ら歌手のマネジメントにも携わり、佐々木功佐川満男の発掘を行う。1961年、「龍美プロ」を立ち上げて日本クラウンより西郷輝彦をデビューさせた。

1968年鈴木栄治をスカウトし、森田健作としてデビューさせるにあたり龍美プロをサンミュージックプロダクションと改称し設立。その後、森田を始め、野村将希桜田淳子松田聖子香坂みゆき早見優岡田有希子酒井法子安達祐実といったタレントをスカウト・育成し、デビューさせ、桜田・松田・早見・岡田・酒井の存在で“女性アイドルと言えばサンミュージック”という評価を確立させている。また1973年には、以前からマネージメントしたいとラブコールを送っていた都はるみの移籍も実現させている。

2004年12月、創業以来36年間務めてきた社長の座を長男の相澤正久に譲り、自らは会長に就任。自身のブログでは生涯マネージャーを標榜し、その生前には全国の事務所オーディションに自ら足を運んで有望な若者を発掘することに意欲を燃やし続けていた。

かつての商売敵であり、ピンクレディー育ての親として知られる貫泰夫・T&Cミュージック社長も自らのブログのなかで「相澤さんの所ほどアットホームな事務所はないだろう」と述べているように女性タレントの面倒見のよさで知られ、松田・岡田・酒井をデビュー当時に自宅に引き取り公私にわたり面倒を見た。また1970年代当時渡辺プロダクションが年功序列の給与制を敷き吉本興業等が完全歩合制を敷く中で、基本給にプラスして歩合給も支給していた。

稲増龍夫著「アイドル工学。」のインタビューの中で「ただテレビに出たいだけというような志の低い子は採用しない」と述べるなどタレント育成に厳しい一面も見せていた。

2009年9月、酒井法子が覚せい剤取締法違反(所持)の罪で起訴された件を受け、管理責任を取って会長を辞任、代表権のない相談役に退くも2010年10月には会長に復帰している。

2013年5月23日の22時27分に、膵臓癌のため入院先の東京都内の病院で死去。晩年は脾臓と肝臓に腫瘍が見つかり、通院を繰り返していた。戒名は「幸響院讃譽秀偉浄楽清居士」。

同年5月28日に執り行われた通夜では愛弟子だった桜田淳子、松田聖子、酒井法子が参列した。5月29日の本葬ではサンミュージックグループ各社所属タレントや芸能関係者が参列する中、相澤の一番弟子とも言うべき存在だった西郷輝彦、サンミュージック第1号タレントの森田健作、バンドマン時代から相澤と親交が深かった堀威夫(ホリプロ創業者)が弔辞を読み、相澤を偲んだ。

“裏切り”相次いでも……サンミュージック故・相澤秀禎会長のアイドルたちへの思い[編集]

「僕は生涯現役マネジャーだよ」と言っていたサンミュージックプロダクションの相澤秀禎会長が5月23日、すい臓がんのために他界。享年83歳だった。

相澤会長は人柄もよく温厚で、業界関係者からは“相さん”と呼ばれて愛されたが、その寛容な人柄が仇になったのか、自ら育てた女性タレントに裏切られることが多かった。

相澤会長は、俳優で現・千葉県知事森田健作を第1号タレントして、サンミュージックを設立。その後、桜田淳子をはじめ、松田聖子早見優、故・岡田有希子、それに酒井法子といった女性アイドルを育て上げて、一時、“女性アイドルの宝庫”といわれる時代があった。

相澤会長は、そんなタレントたちをデビュー前から自宅に下宿させ、家族同然に育てるというのが方針だった。しかし、親の心子知らずで、彼女たちに裏切られることが多かった。

1986年には、スターの座をつかんだ岡田有希子が、事務所のビルの屋上から飛び降り自殺。3年後には、松田聖子に早朝、自宅に呼び出されて、一方的に独立を宣言されたという。聖子の男性スキャンダルを体を張ってガードしてきた相澤会長にとって、これほど屈辱的なことはなかっただろう。

その後、桜田淳子が、統一教会の“合同結婚式”に事務所の反対を押し切って出席。マスコミからバッシングを浴びたこともあり、相澤会長は断腸の思いで、桜田を追放した。

相次ぐ裏切りに嫌気が差したのか、その後、女性アイドルのマネジメントを手掛けることがなくなった相澤会長。代わって、息子の相澤正久社長はお笑いのマネジメントに積極的に取り組んで、芸人を次々に売り出した。相澤会長が筆者に「うちはお笑いばかりで、サンミュージックではなく、サンバラエティになった」と、うれしそうに語っていた。

2009年には本社を、故・岡田さんの自殺現場として有名になった四谷4丁目のビルから四谷3丁目のビルに移転。直後に、酒井法子覚せい剤取締法違反で逮捕された。

実は逮捕される約7カ月前、相澤会長に、酒井がクスリをやっているという、ある人物から聞いた情報を伝えた。会長は酒井を呼び出して問いただしたが、彼女は頑強に否定したという。ところが、情報は当たっていたのだ。

酒井に裏切られた相澤会長は、今年に入って、久しぶりに手がける女性アイドルグループ「さんみゅ~」を売り出すのを楽しみにしていた。その思いもかなわぬまま、他界。さぞ、無念だっただろう。

著書[編集]

相澤秀禎の告別式
  • 松田聖子のバランスシート(1983年、光文社

外部リンク[編集]

サンミュージック5.jpg サンミュージック6.jpg サンミュージック7.jpg