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森田 必勝(もりた まさかつ、1945年昭和20年)7月25日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は日本政治活動家で、楯の会のメンバー。

生涯[編集]

1945年(昭和20年)7月25日、三重県四日市市大治田町905番地に、父・森田和吉(四日市市の国民学校・内部小学校校長)と母・たまの間に次男として生まれる。上に兄が1人(治)と姉が3人(富士子、高根、妙子)いた。1948年(昭和23年)、必勝3歳のときに相次いで両親を病気で亡くす。以後、兄・治は行商のかたわら学業に励み、市内南中学校の英語教師となり家計を支える。そして姉・高根が(富士子は他家に嫁いでいたため)必勝の母親代わりとなる(のちに必勝が小学校5年のとき高根は他家に嫁ぐ)。

1958年(昭和33年)、必勝はカトリック系の男子校海星中学校に入学。まだこの当時、森田必勝には右翼的政治思想はなく、中学3年の1960年(昭和35年)10月12日の日記には、「今日、僕が政治家で一番好きであったところの社会党浅沼委員長が、17歳の山口二矢という暴漢に刺殺された。本当に可哀想だ」[1]と記している。しかし、同年12月2日の日記には、「学校から帰る途中、川を直しているのを見ていたら、某市会議員が、事情もろくたま知らないくせに、人夫の人にたてついてけったのでしゃくにさわった。ぼくもあと10年たったら四日市市議になり四日市の発展と国民生活の向上、すみよい町にするために立候補しようと思う」[1]と記されており、すでに憂国的な義憤、郷土愛や政治的な志があった。

1961年(昭和36年)、付属の海星高校へ進み柔道部に所属。同年5月3日の日記には、「おれの心は傷ついた野獣」、1962年(昭和37年)1月29日の日記には、「人生のはかなさ、うつりかわりというものをつくづく感じる。(中略)おれの心を本当に判ってくれるのが、この世の中に何人いるだろうか? 一人もいないのでは、ないだろうか」[1]などと綴る。高校2年になると、生徒会長に立候補し当選する。この頃、校風のカトリックの影響からか、1962年(昭和37年)5月11日の日記には、「母へ。 僕の母、白い手、黒い髪、白い大きな目、いつも天のどこかで僕を見守り、愛撫してくれる。お母さん、僕、今日学校で寝た。かんにんだよ。でもどこかでお母さんの声が、必勝、あと十分だからがんばりなさい、と聞こえてきたよ。(中略)そうか、お母さんのいる天国へ僕も行こうか。お父さんも待っていてくれると思うけど、きっと仲が良いんでしょうね。僕も今、そんな友達を求めているんだけどなかなか現われない。僕は自分なりに夢をもっているつもりだけれど実際、自分でも何になるか判りません。でも悪い人間にはならないつもりです」[1]と記されている。 他にも、「おれはこれくらいのことでへこたれはしないが、やはり母がいないのが寂しい」[1]という記載もある。また結婚願望も強く、初恋の女の子についても綴られている。

高校2年の夏休みの1962年(昭和37年)7月25日から、友人3人と北海道まで徒歩とヒッチハイクの野宿の旅を決行する。家が近所の友人、南中学2年生の上田茂(姉の牧子が森田の初恋の子)は静岡で、もう1人の友人は東京で脱落したが、森田は1人で北海道まで行った。この旅行後の9月2日の日記には、「浮ついたことは極度に避け、立派な人間になりたい。おれには日本、いや世界を背負うという義務がある。それにはしっかり落ち着いて勉強し、どんな苦境にも負けないファイトと、強い精神を学ぼう」[1]と記されている。また、この頃、建設相河野一郎にあこがれて政治家を志していた森田は、高校3年の1963年(昭和38年)7月23日、河野宛に手紙を出す(返事はなかった)。さらに同年11月に平塚の河野事務所や河野の弟・河野謙三を訪問するが、無精ひげやボサボサ髪を注意され、四日市へ帰宅する。1964年(昭和39年)、森田は早稲田大学政治経済学部を受験したが不合格となり、2年間の浪人期間を過ごす。この頃の日記には、「最近の国際情勢を見ていると、頭がおかしくなりはしないかと心配だ。まず第一に頭にくるのは、中国核実験、しないでもいいものをしやがって全く頭へ来る。バカにつける薬は無しってところだ」[1]と記されている。

1966年(昭和41年)、早稲田大学教育学部の受験に合格し、空手部に入部。クラスで年長者の森田はクラス委員に選出される。この頃、学内の左翼に対する憎しみが芽生え、日記には、「共闘会議は何の権利があってバリケードを築けるのだろう?ヤツラの方法が僭越に思えてならない」[1]と記している。鈴木邦男によれば、森田は高校時代までは左翼的思想を持っており、早稲田大学入学後、全共闘に参加しようと考えたものの、学内で我が物顔に振舞う左翼よりも、右翼の方が在野精神があると見て右翼活動に参加したという[2]

やがて森田は、革マル反日共系)、民青日共系)ら左翼が壟断するクラス委員総会で、民族派右翼青年の斉藤英俊と出会う。1966年(昭和41年)5月の日記には、「きのうクラス委員会で、早稲田精神丸出しの勇敢な先輩と知り合った。総会で、革マルの一方的な議事進行と、独善的な議事内容に怒って革マルのヤツらに単身、喰ってかかっていた。(中略) 左翼に対決して学園正常化のために奮闘しているグループがあることを初めて知る。それでこそワセダ精神だ!」[1]と記されている。森田は斉藤に誘われ、同年11月14日、「左翼に牛耳られた早稲田の正常化を目指す」と標榜する民族派学生組織「早稲田学生連盟」(のちの日本学生同盟)の結成に参加した。日学同には全国39大学72サークルも集結し、持丸博も参加していた。

一方、1967年(昭和42年)1月5日、東京都豊島区にある育誠社という出版社から月刊誌「論争ジャーナル(編集長は中辻和彦、副編集長は万代潔)が発刊された。中辻と万代は3日に1度の割で作家三島由紀夫を訪問していた。日学同の持丸博も三島を訪問し、日本学生新聞に寄稿を依頼する。三島は同年4月12日から5月27日まで単身で自衛隊体験入隊し、民兵組織祖国防衛隊」構想を固めていく。

1967年(昭和42年)4月、森田は斉藤と、防衛問題を研究する早大国防部結成し、日学同運動に挺身する。この頃の日記には、「日文研でも早稲田祭で『紀元節考』の展示をやったが、ぼくらも少しは民族の正気回復のために役立ったのだろう。しばし『古事記』や『日本書紀』の由来や日本人の祖先について討論。先輩達の博識におどろいた。考えてみれば、ぼくらの高校の歴史教科書は、民族のロマンなんかぜんぜん教えてくれなかった。日教組が悪いことにして先輩達に質問集中」[1]と記している。 また、この頃、三島由紀夫が祖国防衛隊構想を練っていることは、日学同メンバーに伝わってきていた。森田の感想は、「世界的に著名な作家が私兵軍団を作るなんてヘミングウェイみたいだね」というものだった[3]

1967年(昭和42年)6月19日、銀座の喫茶店「ビクトリア」で行われた三島由紀夫と早大国防部代表との会見で、森田は初めて三島と顔を会わせる。これ以前に森田ら代表は三島に、「自分たちも自衛隊体験入隊したい」との希望を伝えていた。「論争ジャーナル」のメンバーも体験入隊への随行を希望したと言われ、三島、日学同、「論争ジャーナル」の三者関係が徐々にできあがる。しかしその後、三島の「祖国防衛隊」構想を巡って、これに賛成する「論争ジャーナル」と、反対の立場を取る日学同との間に亀裂が生じ始める(のち、祖国防衛隊へ移籍し、学生長となった持丸博は日学同を除籍となる)。

1967年(昭和42年)7月2日から1週間、森田は三島と共に自衛隊北恵庭駐屯地で体験入隊し、戦車に試乗する。森田は、そのときのことを綴った「早大国防部活動日誌」で、「それにしても自衛官の中で、大型免許をとるためだとか、転職が有利だとか言っている連中のサラリーマン化現象は何とかならないのか」と述べ、「(自衛隊員が)憲法について多くを語りたがらない」ことと、「クーデターを起こす意志を明らかにした隊員が居ないのは残念だった」ことを挙げた。また森田は体験入隊以前から、徳富蘇峰の歌の一節「俺の恋人、誰かと思う、神のつくりた日本国」を愛吟するようになる。一方、同年12月、三島は陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝と知り合い、祖国防衛隊構想に弾みがついていく。

1968年(昭和43年)3月、持丸博を新たに副委員長とした「論争ジャーナル」が三島と1ヶ月間、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地へ自衛隊体験入隊し、そこに森田も随行参加する。春休み帰省中にスキーで右足を骨折し、治療中にもかかわらず訓練に参加し頑張る森田に、三島は感心し注目する。体験入隊終了後、一行は三島邸で慰労会の夕食に招かれる。その後、森田は三島への礼状に、「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と記す。

1968年(昭和43年)4月、森田は早大国防部部長に選出される。同年5月3日から5日に八王子の大学セミナーハウスで行われた日本学生同盟の理論合宿(学生文化フォーラム)の自己紹介で森田は、「ぼくは、国のために死にたいと思います」と言い、一同の度肝を抜く。同年6月15日、全日本学生国防会議を結成、初代議長に就任。その大会で三島が万歳三唱する。同年11月、日学同中央執行委員を兼任する。同年12月、全国大会で大会実行委員長を務め、北方領土返還運動などに尽力する。一方この頃、三島の祖国防衛隊構想に、民間企業団体(経団連)の支援協力が得られないこととなり、同年10月5日、祖国防衛隊の名称が「楯の会」(万葉集防人歌「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾れは」より由来)となる。初代学生長は持丸博であった。虎ノ門教育会館で行われた三島と中核会員40名の「楯の会」の正式結成記者会見発表に、森田も居並んでいた。同年10月21日、三島と森田ら楯の会会員と、山本舜勝陸上自衛隊調査学校の学生らは、国際反戦デーの左翼デモ新宿騒乱)の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織リーダーが誰かなどを調査する。また、これからの左翼デモにおける自衛隊治安出動の可能性と、その援護、魁となる斬り込み隊要員・楯の会の今後の行動計画、憲法改正・自衛隊国軍化計画を練る。この頃、森田は山本に、「誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか」と訊ねる[4]

1969年(昭和44年)2月1日、「論争ジャーナル」側と「日学同」側との架け橋役であった森田はしだいに「論争ジャーナル」側に完全に傾き、小川正洋明治学院大学法学部在学)ら5名と共に日学同を正式に脱退する。脱退メンバーは十二社にあるアパートで共同生活をしていたため「十二社グループ」と呼ばれた。テロルも辞さない集団である。同年2月19日、山本舜勝の指導の下、板橋区松月院で合宿し、楯の会の特別訓練が23日まで行われた。同年4月、「楯の会」会員でもあった森田は、十二社のメンバーと政治結社「祖国防衛隊」(三島の祖国防衛隊と同名)を結成し、隊長となる(副隊長は小川正洋)。同年5月頃から、三島の指示により楯の会の7、8名が居合を習い始め、9名に日本刀が渡され、森田もその決死隊メンバーの中に居た。同年6月下旬、山本舜勝と5名の自衛官と、三島らが山の上ホテルで会食。皇居死守の具体的なクーデター計画などについて話し合い、三島は山本に、「すでに決死隊を作っている」と決断を迫るが、山本は、「まず白兵戦の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と反対する。自衛官らは三島に賛同していたが、山本の賛同が得られずに終わる[4]。また、この頃、楯の会主要古参メンバーの中辻和彦万代潔らと三島との間に、「論争ジャーナル」の資金源(中辻らが田中清玄に資金を求めていたこと)をめぐって齟齬が生じ始め、同年10月3日に中辻、万代ら数名が楯の会を正式退会する。さらに、同年10月12日、持丸博(楯の会・初代学生長)も、三島の「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」という提案を断り、楯の会を退会する。これに伴い、森田が楯の会の学生長となり、「論争ジャーナル」編集部内にあった楯の会事務所も森田宅に移転した。同年10月21日、三島と森田ら楯の会会員は、再び国際反戦デーの左翼デモの状況を確認するが、左翼は警察に簡単に鎮圧され、もはや自衛隊治安出動に乗じた憲法改正、自衛隊国軍化への道がないことを認識する。

1969年(昭和44年)10月31日、三島宅で行われた楯の会班長会議で、森田は、「楯の会と自衛隊で国会を包囲し憲法改正を発議させたらどうか」と提案するが、武器の問題などで実行困難と三島は返答する。同年11月3日、午後3時から、国立劇場屋上で、楯の会結成一周年パレードを行う。同年11月16日、新左翼による佐藤首相訪米阻止闘争が行われるが、再び警察に簡単に鎮圧され自衛隊治安出動は絶望的となる。さらに、三島と楯の会・決死隊メンバーと、山本舜勝ら自衛官とのクーデター計画も、山本が二の足を踏み実行不可能となってくる。同年12月22日、三島と森田ら楯の会は、陸上自衛隊習志野駐屯地で、落下傘降下の予備訓練を行う。昭和45年(1970年)1月末、三島宅での会食後、「(クーデターを)やりますか!」という三島の問いに対し、山本舜勝は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答する[4]

1970年(昭和45年)3月頃から、森田と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。同年5月中旬、三島宅に森田、小賀正義神奈川大学工学部在学)、小川正洋が集まる。楯の会と自衛隊がともに武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴える方法を討議する。同年6月2日、三島、森田ら楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、リフレッシャーコースの体験入隊を、4日までする。同年6月13日、森田は、三島、小賀、小川とホテルオークラ821号室に集合。具体的な決起の計画(自衛隊の弾薬庫を爆破すると脅すか、あるいは三十二連隊長を拘束するか、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させ、国会占拠・憲法改正を議決させる計画など)を討議する。楯の会2周年記念パレードに東部方面総監を招き、その際に総監を拘束する案なども提案される。同年6月21日、三島と森田ら4名は、山の上ホテル206号室に集合。拘束相手を三十二連隊長に決定する。同年7月5日、三島と森田ら4名は、山の上ホテル207号室に集合。決行日を11月の楯の会例会日にすることに決め、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの訓練中に、三島が小賀の運転する車に日本刀を積んで三十二連隊長室に赴き連隊長を監禁することを決定する。小賀は三島から渡された20万円で中古の41年型白塗りコロナを購入する。同年7月下旬、三島と森田ら4名は、決起を共に行う楯の会メンバーを誰にするか相談する。この頃、四日市市に帰省した森田は、旧知の上田茂に、「三島を一人で死なせるわけにはいかん」などと言ったという[5]。同年8月下旬、三島と森田ら4名は、古賀浩靖神奈川大学法学部既卒)を仲間に加えることを決定する。

1970年(昭和45年)10月2日、三島、森田、小賀、小川、古賀は銀座の中華第一楼に集合。11月の楯の会例会を午前11時に開始し、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの通常訓練開始後、三十二連隊長を拘束することを決定し、確認する。また、自分達の決起の行動を捻じ曲げないで、そのまま報道してもらうための信頼できる新聞記者2名を呼んでおくことも決める。同年11月3日、六本木サウナ・ミスティーに三島と森田ら5名が集合。檄文と要求書の原案検討する。三島は、全員自決するという計画を止めさせ、小賀、小川、古賀らに拘束した連隊長を護衛し、連隊長が事件の責任をとって自殺しないよう無事に釈放する任務と、逮捕後の法廷で楯の会の精神を明らかにするという任務を指示する。森田は、「俺たちは、生きても死んでも一緒じゃないか。又、あの世で会えるんだ」と言う。三島は前日に森田にも、「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」と説得していた。しかし森田は、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません。先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と押し切った。そう古賀に語った。同年11月10日、森田はメンバー3名と、菊地勝夫一等陸尉との面会を口実に、市ヶ谷駐屯地に入り、三十二連隊隊舎前を下見する。

1970年(昭和45年)11月21日、森田の調査で、決行当日の11月25日に三十二連隊長が不在であることが判明する。三島と森田ら5名は、中華第一楼に集合。協議の末、拘束相手を、東部方面総監に変更することに決定する。三島は益田兼利東部方面総監に電話を入れ、11月25日午前11時に面会約束をとりつける。森田らメンバー4名は、ロープ、バリケード構築の際に使う針金、ペンチ、垂れ幕用の布などを購入する。同年11月23日、三島と森田ら5名はパレスホテル519号室において、決起の最終準備(垂れ幕、檄文辞世の句など)と、予行演習を行う。翌11月24日、三島と森田ら5名はパレスホテルで再度の予行演習をする。午後2時頃、三島は、記者の徳岡孝夫伊達宗克に翌日呼び出しの取りつけの電話と、午後3時頃、新潮社の編集者・小島喜久江に明朝10時半に『天人五衰』の原稿を取りに来るように電話を入れる。午後6時頃、三島と森田ら5名は、新橋の料亭・末げんで別れの会食をする。午後8時頃、小賀の運転する車で帰宅。三島は、「総監は立派な人だから申し訳ないが目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言う。森田は西新宿の下宿に帰宅後、同居していた楯の会会員の田中健一に、翌日、市ヶ谷会館で渡すべき封書を託す。小川と古賀は、小賀の戸塚の下宿に帰宅。

翌日の1970年(昭和45年)11月25日朝、三島は午前10時頃、徳岡孝夫と伊達宗克に電話を入れ、具体的な呼び出し地などを指定する。そして、午前10時13分頃、森田、小川、古賀が同乗し、小賀の運転するコロナが三島宅に到着。三島を乗せて新宿区市ヶ谷自衛隊駐屯地(通称・市ヶ谷駐屯地)へ向かった。そして、午前10時58分頃、三島と森田ら5名は、東部方面総監部の玄関前に到着。二階に通され、総監室を訪問する。名目は「優秀な隊員の表彰紹介」であった。その後、三島と森田ら5名は益田東部方面総監を人質にとり、森田らが檄文を撒き、集合した自衛隊員を見下ろす形でバルコニー上から三島が演説。決起を迫るが果たせず、総監室で三島は切腹する(三島事件)。森田が介錯したものの果たせず、剣道居合の経験者であった古賀が介錯する。そして、三島に続いて森田が切腹。同じく古賀が介錯した。

1970年(昭和45年)11月25日の白昼、午後0時15分頃、森田は「楯の会」隊長・三島由紀夫とともに割腹自決した。享年25。森田の辞世の句は、「今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは」。森田必勝は自分の名を、「まさかつ」でなく、「ひっしょう」と呼ぶことを好んだという。

事件翌日の1970年(昭和45年)11月26日、慶応義塾大学病院で首と胴体をきれいに縫合された遺体はに納められ、森田必勝の遺体は兄・治に引き渡され、渋谷区代々木火葬場荼毘に付された。同日の午後6時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で通夜が営まれた。森田必勝の戒名は「慈昭院真徹必勝居士」。三重県四日市市の実家での通夜は、翌日の11月27日、葬儀は11月28日に、カトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会で営まれ、納骨された。

1971年(昭和46年)1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰」が松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に建立され、除幕式が行なわれた。

自決30年後の2000年(平成12年)、出身地三重県四日市銅像が建てられた。

毎年11月25日に行なわれている追悼会「憂国忌」のほか、11月24日には「野分祭」という森田必勝の辞世の句にちなんで名づけられた追悼会も、一水会主催により毎年行なわれている[6]

人物[編集]

  • 林房雄は、「森田青年は実に明るい笑顔を持った、礼儀正しい好青年で、寡黙ではあったが、内に秘めた何物かが、澄んだ彼の瞳から輝き出ていた。初対面の時、彼と何を話したのかは覚えてないが彼の無邪気で、しかも落着いた物腰、時折り真白い歯をみせて人なつっこく笑った顔のすがすがしさが印象に残っている」、「君の童顔と微笑と澄んだ瞳を、すでに老齢の私も決して忘れない」と語った[7]
  • 三島由紀夫が20代前半の頃、かつての担当編集者であった木村徳三は、三島自決後、森田必勝の写真を見たときに、三島の小説『禁色』の主人公、南悠一のモデルとなった実在の男性(ゲイバー「ブランスウィック」に勤務していたボーイ。若き日の三島が惹かれていたという)の面影と森田が酷似していて驚いたという[8]
  • 昭和44年(1969年)に自衛隊富士学校を取材したヘンリー・スコット=ストークスに、「なぜ楯の会に入ったのか」と問われた森田は、「三島に随いていこうと思った。三島は天皇とつながっているから」と答えたという[9]
  • 三島と森田に空手を教えていた中山正敏は、「森田さんはよく紺ガスリの着物に黒の剣道袴、人生劇場に出てくる早大生よろしく稽古に通って来た」、「空手の練習を通じて感じられるのは、天衣無縫の開けっぴろげで底ぬけに明るく、朴トツで少し野暮天だが、特有の人なつこさでいつも笑顔をたやさず、なかなかの社交家でもあった。ちょっぴり無口で孤独でさびしがりやであるが、活発で行動的で烈々たる闘志の持ち主であった。また温和な風貌だが男らしくて意志も強かった。が何より非常に誠実な人柄であり、気力、精神力抜群の誇り高い日本男児であった」 と語り、また森田の介錯について「有名な首斬り浅右衛門のプロの腕をもってしても一太刀で快心に斬れたのは十人中、二、三人と聞いているし、その日は全身の力がなえて何も出来ずウツウツとして酒をあふるばかりであったとのことである。それが目の前で 三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか」と語った[10]
  • 十二社グループで楯の会の隊員でもあった野田隆史鶴見友昭によると、昭和45年(1970年)10月頃、森田が「ここまできて三島がなにもやらなかったら、おれが三島を殺る」と言っていたという[5]
  • 三島のかつての担当編集者で、森田と面識があった堤堯によると、「僕は絶対に三島先生を逃しません」と言ったという[5]
  • コカ・コーラが大好物で、ビン入りをラッパ飲みするのが常であったという要出典
  • 古賀浩靖は事件前の11月19日に森田から、「俺の介錯をしてくれるのは最大の友情だよ」[11]と言われたという。また、小賀正義は11月22日に森田から、「もし(自分が)先生の介錯ができなければ頼む」[11]と言われたという。
  • 小川正洋は、「自分自身に非常にきびしい人でした。赤ん坊から年寄りまでだれとでも仲よくなる人、包容力のある親分肌の人でした」[11]と、森田について述べている。
  • 平成24年(2012年)6月公開の映画「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」(監督・若松孝二)では、森田必勝の役を満島真之介が演じた。
  • 実兄の森田治は英語教諭で、後に三重県県議会議員を務めた。

参考文献[編集]

  • 森田必勝『森田必勝遺稿集 わが思想と行動』(日新報道、1971年)(新装版で再版、2002年)
  • 中村彰彦『烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語』(文藝春秋、 2000年)(文春文庫、2003年)
  • 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
  • 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)
  • 山本舜勝『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
  • 佐藤秀明、山中剛史、井上隆史編『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)

関連事項[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 森田必勝『森田必勝遺稿集 わが思想と行動』(日新報道、1971年)(新装版で再版、2002年)
  2. 鈴木邦男『失敗の愛国心』(理論社、2008年)
  3. 宮崎正弘『三島由紀夫「以後」』(並木書房、1999年)
  4. 4.0 4.1 4.2 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
  5. 5.0 5.1 5.2 中村彰彦『烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語』(文藝春秋、 2000年)(文春文庫、2003年)
  6. 一水会公式サイト
  7. 林房雄『森田必勝君の追想』
  8. 木村徳三『文芸編集者の戦中戦後』(大空社、1995年)(底本『文芸編集者 その跫音』(TBSブリタニカ刊、1982年)
  9. ヘンリー・スコット=ストークス『三島由紀夫 生と死』徳岡孝夫訳(清流出版)
  10. 中山正敏『憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ』
  11. 11.0 11.1 11.2 伊達宗克編『裁判記録「三島由紀夫事件」』(講談社、1972年)