「東京都立日比谷高等学校」の版間の差分
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: 毎年6月中旬に実施され、近年では[[日比谷公会堂]]を使用している。毎年3年生はレベルの高い演奏をすることで知られている。[[旗照夫]]が審査委員長を務めている。非公開。 | : 毎年6月中旬に実施され、近年では[[日比谷公会堂]]を使用している。毎年3年生はレベルの高い演奏をすることで知られている。[[旗照夫]]が審査委員長を務めている。非公開。 | ||
; 勝山臨海合宿 | ; 勝山臨海合宿 | ||
− | : 千葉県安房郡[[鋸南町]]勝山で夏期に行われ、[[日本泳法|古式泳法]]の一つである神伝流も指導され、男子生徒は白い[[六尺褌]] | + | : 千葉県安房郡[[鋸南町]]勝山で夏期に行われ、[[日本泳法|古式泳法]]の一つである神伝流も指導され、男子生徒は白い[[六尺褌]]を締めて泳ぐことが知られている(女子は一般的な[[スクール水着]])[http://jp.youtube.com/watch?v=XO3ulP7mA6Q]。参加は自由であり、初心者でも基本から学ぶことができる。 |
; 星陵祭 | ; 星陵祭 | ||
: 毎年9月下旬に実施される文化祭。全クラスが約50分の劇を教室で発表しており、他の都立高校の文化祭とは一線を画す試みが成されている。来校者の投票で最も得票数が多かったクラスには「星陵大賞」が贈られる。唯一外部にも公開。 | : 毎年9月下旬に実施される文化祭。全クラスが約50分の劇を教室で発表しており、他の都立高校の文化祭とは一線を画す試みが成されている。来校者の投票で最も得票数が多かったクラスには「星陵大賞」が贈られる。唯一外部にも公開。 |
2008年12月26日 (金) 09:44時点における版
東京都立日比谷高等学校 | |||
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東京都立日比谷高等学校通用門 | |||
過去の名称 | 東京府第一中學 東京府中學 東京府尋常中學校 東京府中學校 東京府第一中學校 東京府立第一中學校 東京都立第一中學校 東京都立第一新制高等学校 | ||
国公私立の別 | 公立学校(都立) | ||
設置者 | 東京都 | ||
学区 | |||
併合学校 | |||
理念 | |||
校訓 | |||
設立年月日 | 1878年9月26日 | ||
創立記念日 | 9月26日 | ||
創立者 | |||
閉校年月日 | |||
共学・別学 | 男女共学 | ||
高大一貫教育 | |||
中高大一貫教育 | |||
中高一貫教育 | |||
小中高一貫教育 | |||
幼小中高一貫教育 | |||
分校 | |||
課程 | 全日制課程 | ||
二部以上の授業 | |||
単位制・学年制 | 学年制 | ||
設置学科 | 普通科(8学級) | ||
学科内専門コース | |||
専攻科 | |||
別科 | |||
学期 | 2学期制 | ||
高校コード | 13234K | ||
中学校コード | |||
所在地 | 〒100-0014 | ||
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外部リンク | 公式サイト</td></tr> | ||
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公式サイト | </td></tr> | ||
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</table> 東京都立日比谷高等学校(とうきょうとりつひびやこうとうがっこう)は、全日制普通科の都立高等学校。所在地は東京都千代田区永田町二丁目。 目次概観府立一中を前身とする都立進学校。1878年、現在の文京区本郷に東京府第一中學として開校。戦前は東京府の筆頭中学としてのみならず、いわゆる「府立一中」として全国的に知られていた。「日比谷」の名は、戦後の改称時に当時の菊池龍道校長(第13代・後 駒場東邦中・高 創設者、初代校長)が、1899年~1929年まで校地のあった旧麹町区西日比谷1番地(現千代田区霞が関一丁目1番)に因んで命名した。戦前から戦後にかけては「一中 - 一高 - 帝大」あるいは「番町 - 麹町 - 日比谷 - 東大」などと盛んに喧伝され、第一高等學校、東京大学へ全国最多の卒業生を送り出すトップ進学校の地位を維持、「天下の一中」「天下の日比谷」の矜持を永らく保持してきた。1967年に導入された学校群制度等の影響により、進学実績は少なからず低迷することとなったが、ここ数年は上昇機運にある。現在は文部科学省からスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受けている。)」。東京都立西高等学校・東京都立国立高等学校とともに「都立御三家」と呼ばれている。 教育方針
沿革略歴1878年に東京府第一中學(東京府第一番中學)は、文京区本郷元町の旧・玉藻小學校にて開校した(のち、すぐに官立東京英語學校の空校舎に移る)。創立当初から明治半ばまでは東京府學務課の方針もあって、高等普通教育を教授する機関として独自の正則教育を標榜していたため、中産階級の育成を目的としたと思われる「中人」または「実業人」などと具体的な教育像が定まらないながらも、上級学校への進学面に重きをおいてはいなかった[1]。草創期に、上位学校への進学を目的とした変則科ではなく正則科に入学した夏目漱石がその後二松學舎や成立學舎に移っていったのは、混沌とした学制混乱期と官公立の宿命としての当時の一中の教育のありかたの一例として見ることができる [2] [3]。 その後は、設立以来の東大の要請もあり次第に一高、東大への一貫ルートとしての色合いが濃くなっていった。以後も東京府中學と大學予備門、東大との教員の交流は独特なものがあり、一中→一高→東大とされた所以でもある [4][1]。当初、政府や東京府は従来の寺子屋教育の踏襲や雑多な教科目、その学科偏頗をして各種学校を正規の学校と見做さず、その中で中学校に準じるものの殆どが英語や漢文、数学を主とする進学予備校であった[5][1] 。1890年に勝浦鞆雄校長(第9代・前 東京府尋常師範(現 東京学芸大学)幹事)が就任して後は、生活指導と進学指導が活発化。それまで私立校(今で云う塾・予備校)の後塵を拝していた進学実績は伸びることとなり、明治半ばから後半にかけて[6]、一躍一高合格者数で首位に踊りだした。既にその名は全国に知れ渡っていたが、この頃から一高 - 帝大への一貫ルートとして名実共に世間に認知され、人口に膾炙した。ただ、一高を目指す風潮が強い余り、旧制高校への現役合格者数全体でみた場合、特に昭和の時代に入ってから四中等に及ばないことなどもみられるなど、伝統的にガツガツした面とは無縁である一方で、このように一高への執着が強かったことも権威主義的である一面としてみられた。 1909年に川田正澂(第10代・前 仙台一中校長)が校長に就任すると、後の時代にかけて連綿と続くリベラルと譬えられる校風が花開き、政治・経済方面は言うに及ばず文学・芸術方面に至るまで各界に異色な人材を輩出してゆく基盤が形成されていった[7]。もっとも世間の詰込学校、或いは規則学校という風評どおり官僚的な、厳格な校風で成績にも煩く、この頃(大正9年)、卒業生の為に補習科が設けられもした。1940年より学区制が施行され、その年のみ、筆記なしの口頭試問と内申点のみの入試が導入された[8]。1945年3月の入試は受験者数が定員に満たず、全員合格した。戦後の学制改革を経て、都立一高、さらに現在の日比谷高校に改称した(1950年より男女共学となる)。旧制中学の前半に当たる部分(2年・3年次)を新制新星中学校(のちの青山中)として本校内に設置、その過度期の3年間、日比谷高校の入学試験は実施されなかった。その後は、近隣の麹町中学校・一橋中学校等に日比谷志願の越境通学者が全国から押し寄せ、受験過熱化と共に東大ひいては権勢への登竜門として位置づけられることになる。 1965年に入ると、戦後民主主義の時代風潮や学園紛争の影響下 [9]進学指導を中止する「小尾通達」が申渡され、補習科の廃止や進学指導を中止する動きが広まり教育内容面で大きな変化が起こった。1967年には従来の学区合同選抜制度を廃止して学校群制度を導入(1982年からはグループ合同選抜制度に)、三田・九段と3校群を形成した。そのため受験者が限られたこともあり志願者層が変化(都立諸校の平準化と国私立難関校への流出)、東大合格者数トップの座を失い、同じ都立校である西・戸山などと比較しても急速に東大合格者数上位校からその名が消えた[10]。その後は具体的な進学実績向上策が打ち出せず、1990年代後半以降まで難関国立大学合格実績は低迷が続いた(但し東大合格者は新学制のはじまる1950年以降から毎年輩出している)[11]。 2001年度一般入試より国語・数学・英語の3教科に於いて公立高校としては全国初の自校作成問題が導入された。以前の共通問題は本校の場合満点に近い点数を取る受験生が続出し、適切な合否判定が困難な状況であったと推測され、そうした問題点の解消という面からも校内外で一定の評価がされている。問題の難易は、中~上位私立高校入試程度である。また、中学校の成績評価が相対評価から絶対評価に移行した事から内申書での適切な評価が困難となった為、一般入試では学力検査と内申書の総合点が高い順に男女とも各々上位9割を決定し、残り1割は内申書を無視して学力検査の合計点が高い順に合格者を決定する特別枠が設けられた。同年秋には東京都より進学指導重点校の指定を受け、2003年には都立高校の学区制が撤廃された。その結果、2005年は東大合格者数が14名、早慶への現役合格者数(延べ)が都立高校では最多となるなど着実に実績を挙げ、2007年は東大合格者数が前年を16名上回る28名(現役19名)に達した。2008年は東大合格者数13名(現役4名)であった。 年表
基礎データ所在地アクセス象徴校風
この校風制定には川田正澂(第10代・前 仙台一中校長)が大きく関わっており、イートンハーレーの校風をモデルとしている。 制服旧制時代の制服は何度かの変遷が見られたが、最も長期間着られたのは府立一中時代のものであり、前をかぎホックでとめる濃紺の詰襟型上着(現在の両国高校で着用されている制服と同種)に、学年(ローマ数字)・組(甲・乙・丙…をアルファベットに変えたもの)を示す文字バッジと、精勤と認められた生徒はそれを顕彰する精勤章(蜂巣状のバッジ)等を装着していた。 新制高校に移行する際、戦後の物資欠乏による服装混乱期を通して黒(紺)の一般型学生服のボタンを校章入り金燻ボタン5個につけ替えただけの標準服が新たに導入された。それと同時に、徽章として七宝製の正章(現役生は赤地、補習科<後に廃止>生は青地)と、銀色にメッキした略章が作られ、襟にはこの校章バッジのみ装着されることとなった。 現行の標準服は、全国的に多くの伝統校で自由服化が進んだ中、1967年度に、生徒総会、服装問題検討特別委員会など、「着用義務がある」ものとして最終見直しが行われた。このように生徒の総意を反映した検討を経て決定された標準服である歴史的経緯から、今日に至るまで、標準服は生徒の間で愛着をもって主体的に着られている。要出典 男子は、服装のきまりに「標準的な学生服(黒又は紺)」とあり、ホックどめタイプ、金燻ボタンタイプのいずれも可。共学化と共に導入された女子の標準服は、現在では、紺色のテーラーカラーシングル(三ツ釦)及び共布の紺のスカート(前後二本ずつの箱ひだ)である。また、男女ともに、夏季は上着無し、ズボンまたはスカートの服地色はグレイでもよい、とされている。 授業伝統的に「100分授業」が知られており、かつては全国各校が取り入れた。現在では、45分枠を2枠連続させた90分授業の形式をとっている。また、戦後の「授業参加」に端を発する「発表授業」(生徒自身がテーマを分担し、自ら授業を行う)も社会科学・自然科学系科目を中心に続いている。 1年次には「数学演習」、2年次には「第二外国語」等の自由選択科目がある。授業では少人数授業や習熟度別授業が行われている。 諸活動文化祭、校内誌、学生歌、各種団体等の愛称としてよく用いられる「星陵」は、隣地の日枝神社も含めた周辺一帯の高台が古くから「星野山」、「星ヶ岡」(または星ヶ丘)と呼ばれたことにちなんだもの。学生生活は各種の委員会・部活動が中心となっており、各部とも全国や関東大会出場、都大会上位進出等の経験を誇り、また図書委員会の雑誌『リブラリア』は創刊から50年が経ち、生徒発行のものとしては長い歴史を誇っている。 委員会活動
部活動
学校行事体育祭・合唱祭・星陵祭の三つを合わせて「三大行事」とされている。他に、英語スピーチコンテストや夏山キャンプ、部活動合宿、OB・OG等を招いての社会人講演会(1年次)・卒業生講演会(2年次)、英語劇鑑賞教室、スキー教室、柔剣道大会(1年次)、修学旅行(2年次)、球技大会など多彩である。
学校施設グラウンドに隣接する星陵会館(後援団体である「財団法人星陵会」が運営)は内外の各種催し物等に使用され、外部利用では土地柄から官公界の催事が多い。また1963年以来、全国高体連事務局も会館内に置かれ、会長は通常日比谷高校長が兼ねることになっている。1994年に、その建築物としての歴史的意義を惜しまれつつも老朽化のために取り壊された「講堂」は再建の声も根強く、入学式・卒業式ですら外部施設を使わざるを得ない状況も鑑み、体育館の改修とも並行して検討俎上にあるが、現状では成案には至っていない。 進学指導2001年度入試において、公立高校としては初めての自校作成問題を導入。同年秋に東京都の進学指導重点校に指定された。勉学面では卒業生をチューターとした補習や各大学に合わせた講座の開講、予習・先取り学習の方法、実力テスト・模試などによる定点観測などを実施している。 進学指導重点校として、その他の公立・私学諸校に比べ予算・人員面で恵まれた立場にあるが、その利点を単純にかつての近代化の時代における東大を頂点とするエリート量産システムの一貫として位置づけることだけでは使命は全うされない。昨今の時代の先を読みにくい状況や、「ゆとり教育」問題にも端的に見られるような文部科学省の行政方針、また東大など既存の最高学府ですら入試・学内改革が進んでいる状況も考えると、日比谷の進学指導は大変難しい舵取りを余儀なくされているともいえる。 進学実績東大合格者数の大きな増減が目立つが、その他主要大学合格者数を見ていくと21世紀に入るまでは年毎の増減は別としてそれ程の起伏の変動は目立たなかったと云える。とはいうものの、時代時代での数字の後退は否めなかった。21世紀以降は各大学合格者数とも持ち直しつつ、慶大など一部大学では全高校中ベスト10内外にランクインするなど、全般的に上昇傾向が見えている。[11] 高校関係者と組織関連団体
高校関係者一覧
関連学校補充学校、分校、本校校舎内で開校など、本校に縁のある学校として、都立戸山高校、都立両国高校、都立大附属高校、東京都立大学、都立豊多摩高校、都立大森高校、港区立青山中学校(新制新星中学校として本校に置かれる)等がある。他に、1937年4月に併設された東京府立第一中學校養正夜間中學校は、戦後も定時制課程としてしばらく東大合格者等も多く輩出してきたが、2005年4月に都立六本木高校として統合された。 関連書籍
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関連項目外部リンク
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