「日航ジャンボ機墜落事故」の版間の差分
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羽田を飛び立ち、南下した機体は、[[東京湾]]上空で西に進路を変え、[[相模湾]]上空を飛行。しかし、悪夢の始まりはここからだった。離陸から12分後の午後6時24分、相模湾([[伊豆半島]]の東の沖合)を飛行中の機体(高度は24,000フィートほど)に異変が生じた。突如、機体後方部から爆発音が響き渡り、[[垂直尾翼]]の大半が破壊された。また、同時に補助動力装置も失われた。これにより、油圧による操縦は一切不可能となり、機体は操縦不能状態に陥った。機長は「スコーク77」という緊急信号を発表。 | 羽田を飛び立ち、南下した機体は、[[東京湾]]上空で西に進路を変え、[[相模湾]]上空を飛行。しかし、悪夢の始まりはここからだった。離陸から12分後の午後6時24分、相模湾([[伊豆半島]]の東の沖合)を飛行中の機体(高度は24,000フィートほど)に異変が生じた。突如、機体後方部から爆発音が響き渡り、[[垂直尾翼]]の大半が破壊された。また、同時に補助動力装置も失われた。これにより、油圧による操縦は一切不可能となり、機体は操縦不能状態に陥った。機長は「スコーク77」という緊急信号を発表。 |
2019年8月23日 (金) 16:49時点における版
日本航空123便墜落事故(にほんこうくうひゃくにじゅうさんびんついらくじこ)とは、1985年(昭和60年)8月12日に、日本で発生した航空機事故である。
死者の数は520人で、日本国内で発生した航空機の事故史上最悪の惨事であり、世界的に見ても、テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故に次いで、2番目に犠牲者が多い航空機事故だった(ただし、単独機による事故としては、世界で最も死者が多い航空機事故であった。)。
なお、この事故は「日航機墜落事故」「日航ジャンボ機墜落事故」などともいう。
事故の概要等
- 事故発生日:1985年8月12日
- 墜落時刻:午後6時56分
- 墜落地点:群馬県多野郡上野村・高天原山(御巣鷹の尾根ともいう)
- 死者数:520人
- 生存者数:4人
- 事故原因:ボーイングによる圧力隔壁の修理の誤り
事故機について
- 機種:ボーイング747-SR-46
- レジナンバー(機体番号):JA8119(1974年に製造された)
- 便名:日本航空123便(JAL123便・JL123)
- 機長:高濱雅己
- 副操縦士:佐々木祐
- 航空機関士:福田博
- 出発予定時刻:午後6時0分
- 到着予定時刻:午後6時56分
- 離陸時刻:午後6時12分
- 乗客人数:509人
- 乗員人数:15人
事故の経過
1985年8月12日、午後6時12分、東京発大阪行きの日本航空123便は、予定の午後6時の12分遅れで、東京・羽田空港(東京国際空港)を離陸した。機種はボーイング747型機で、「ジャンボジェット」の愛称で親しまれていた。123便の目的地は大阪・伊丹空港(大阪国際空港)である。夏休み中であり、かつ、お盆の帰省ラッシュ時と重なっていたことから、機内はほとんど満席であり、乗員・乗客の総数は524人。その中には、歌手や元プロ野球選手などの著名人のほか、数名の外国人もいた。
羽田を飛び立ち、南下した機体は、東京湾上空で西に進路を変え、相模湾上空を飛行。しかし、悪夢の始まりはここからだった。離陸から12分後の午後6時24分、相模湾(伊豆半島の東の沖合)を飛行中の機体(高度は24,000フィートほど)に異変が生じた。突如、機体後方部から爆発音が響き渡り、垂直尾翼の大半が破壊された。また、同時に補助動力装置も失われた。これにより、油圧による操縦は一切不可能となり、機体は操縦不能状態に陥った。機長は「スコーク77」という緊急信号を発表。
機内では一斉に酸素マスクが落下し、不時着に備えて、救命胴衣の着用などについても、乗務員から指示があった。
操縦系統を失った123便は、ダッチロール(機体が左右に激しく動きながら飛行すること)・フゴイド(機体が上下に激しく動きながら飛行すること)を繰り返しながら飛行を続けた。伊豆半島・駿河湾上空を抜けた後は、静岡県焼津市付近から陸地の上空に入る。右手に富士山を眺めながら機体は進む。山梨県大月市付近の上空で、一度大きく旋回した。
その後、東京多摩地方の西で北寄りに進路を変え、30分以上も迷走飛行を続けた機体は遂に、長野県と埼玉県との県境付近である、群馬県多野郡上野村の高天原山に墜落した(午後6時56分)。
事故の原因
123便が操縦不能となった最大の要因は、相模湾上空で機体後部が爆発し、垂直尾翼等を失ったことである。垂直尾翼は、飛行機が安全に飛行するためには必要不可欠なもの。
123便の場合は、機内での気圧を良好に維持する為の圧力隔壁が損傷したことから、その衝撃で垂直尾翼・補助動力装置が吹き飛んだ。
圧力隔壁が損傷した理由については、7年前の1978年に遡る。JA8119(墜落時123便として使用された機体)は、日本航空115便(東京・羽田空港 発 大阪・伊丹空港 行き で123便と同じフライト)として運航され、伊丹空港に着陸しようとした際に、誤って機体の尾部を滑走路に接触させてしまうという、いわゆる「しりもち事故」を起こした。この時、機体を製造した、アメリカ・ボーイングは、JA8119の修理を行ったものの、その修理に欠陥があったことが判明。圧力隔壁に金属疲労が生じてしまったのである。 そして最終的に、(偶然123便として運航中に)圧力隔壁は機内からの圧力に耐え切れず、破壊されてしまったものと考えられる。
また、圧力隔壁が破壊されたということは、破壊部分から機内の空気が抜け出し、急激に気圧が低下する現象、いわゆる 急減圧 が発生したのではないかという推測もあったが、一部ではそれを否定しており(急減圧はなかったとする論)、詳細は不明な点もある。