「日本国の天皇」の版間の差分
藤原朝臣二川藤太郎光綱 (トーク | 投稿記録) (「日本帝國皇帝」) |
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− | + | ::'''日本帝國皇帝'''(ニホン・テイコク・コウテイ)。 | |
− | + | :「[[日本帝國]]の象徴」。「[[日本帝國]]の支配者」。「[[日本帝國]]の指導者」。 | |
+ | :「[[日本帝國]]皇帝」の「父系男系の親族」は、「[[日本帝國皇族]]」。 | ||
+ | :「[[日本帝國]]皇帝」の「父系男系([[日本帝國皇族]])」の「男子」が、「皇位繼承権所持者」。 | ||
+ | ==日本帝國皇帝== | ||
日本帝國皇帝の厳密な確定が要請されたのは、[[明治]]時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、{{和暦|1889}}には、その根本規範として[[大日本帝国憲法]]が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。 | 日本帝國皇帝の厳密な確定が要請されたのは、[[明治]]時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、{{和暦|1889}}には、その根本規範として[[大日本帝国憲法]]が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。 | ||
日本帝國皇帝の確定にあたっては、[[江戸時代]]に[[水戸藩]]で編纂された『[[大日本史]]』、およびその編纂過程で発展した[[水戸学]]、[[尊王論]]の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいて在るべき歴代天皇の姿が論じられ、史実としての正確性はともかく、歴代天皇は確定された。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更された点は次の通り。 | 日本帝國皇帝の確定にあたっては、[[江戸時代]]に[[水戸藩]]で編纂された『[[大日本史]]』、およびその編纂過程で発展した[[水戸学]]、[[尊王論]]の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいて在るべき歴代天皇の姿が論じられ、史実としての正確性はともかく、歴代天皇は確定された。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更された点は次の通り。 | ||
− | * 明治時代以前は、[[神功皇后]]を第15代の帝と数えていたが、日本帝國皇帝から外した。『大日本史』が採った立場に基づくものである。 | + | *明治時代以前は、[[神功皇后]]を第15代の帝と数えていたが、日本帝國皇帝から外した。『大日本史』が採った立場に基づくものである。 |
− | * 初代・神武天皇から第62代・[[村上天皇]]までは、崩御後の漢風[[諡號]]として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代・[[冷泉天皇]]から第118代・[[後桃園天皇]]までは、「○○院」(例では、「冷泉院」)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、[[安德天皇]]と[[後醍醐天皇]] | + | *初代・神武天皇から第62代・[[村上天皇]]までは、崩御後の漢風[[諡號]]として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代・[[冷泉天皇]]から第118代・[[後桃園天皇]]までは、「○○院」(例では、「冷泉院」)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、[[安德天皇]]と[[後醍醐天皇]]を除く)。この「天皇」号が復活するのは第120代・[[光格天皇]]のときからである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された<ref>なお、第112代「後西院」を「[[後西天皇]]」と改めた点に関しては異論が出されている。すなわち、「西院」は地名であって、院号ではないことから、機械的に「院」を省くのは誤りではないかとする。現在も[[京都市]][[中京区]]に西院という地名が残る。第53代・[[淳和天皇]]が譲位後にこの地に住んだため、同天皇の異称が「西院」とされ、「後西院」はその加後号である。</ref>。 |
− | * [[壬申の乱]]で敗れた大友皇子は、日本帝國皇帝として数えられていなかったが、『[[大日本史]]』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたとされて、明治三年に「[[大友天皇]]」の諡号を追贈した。現在では即位説が有力。即位の是非をめぐる議論については、[[大友皇子即位説]]を参照されたし。 | + | *[[壬申の乱]]で敗れた大友皇子は、日本帝國皇帝として数えられていなかったが、『[[大日本史]]』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたとされて、明治三年に「[[大友天皇]]」の諡号を追贈した。現在では即位説が有力。即位の是非をめぐる議論については、[[大友皇子即位説]]を参照されたし。 |
− | * 第47代「淡路廃帝」に対しては、明治三年に「[[淳仁天皇]]」の諡号を追贈した。 | + | *第47代「淡路廃帝」に対しては、明治三年に「[[淳仁天皇]]」の諡号を追贈した。 |
− | * [[承久の乱]]に敗れた「九條廃帝」は日本帝國皇帝に数えていなかったが、明治三年に「[[ | + | *[[承久の乱]]に敗れた「九條廃帝」は日本帝國皇帝に数えていなかったが、明治三年に「[[九條天皇]]」の諡号を追贈した。 |
− | * {{和暦|1911}}には[[明治天皇]]の裁定に依り、[[逆賊吉野朝]]の2代2人([[後村上天皇]]、[[後亀山天皇]])を「逆賊吉野朝天皇」と認定した上で、従来の「第96代・[[光厳天皇]]」から「第100代・[[後円融天皇]]」までの5代5人を「正統[[平安朝]]」として認定した。 | + | *{{和暦|1911}}には[[明治天皇]]の裁定に依り、[[逆賊吉野朝]]の2代2人([[後村上天皇]]、[[後亀山天皇]])を「逆賊吉野朝天皇」と認定した上で、従来の「第96代・[[光厳天皇]]」から「第100代・[[後円融天皇]]」までの5代5人を「正統[[平安朝]]」として認定した。 |
− | ** 南朝の義良親王は天皇とされていなかったが、「[[後村上天皇]]」とした。 | + | **南朝の義良親王は天皇とされていなかったが、「[[後村上天皇]]」とした。 |
− | ** 南朝の熙成親王は天皇とされていなかったが、「[[後亀山天皇]]」とした<ref>なお、後亀山天皇の場合には室町幕府の強い意向などもあり、{{和暦|1394}}に「太上天皇」の尊号が贈られていたが、平安朝ではあくまでも正式な天皇ではなく、「逆賊吉野朝・後亀山天皇」として扱われていた。</ref>。 | + | **南朝の熙成親王は天皇とされていなかったが、「[[後亀山天皇]]」とした<ref>なお、後亀山天皇の場合には室町幕府の強い意向などもあり、{{和暦|1394}}に「太上天皇」の尊号が贈られていたが、平安朝ではあくまでも正式な天皇ではなく、「逆賊吉野朝・後亀山天皇」として扱われていた。</ref>。 |
− | * {{和暦|1926t}}には[[大正天皇]](実質は[[摂政]]の[[皇太子]]・裕仁親王(後の[[昭和天皇]]))の裁定で、「逆賊吉野朝の寛成親王」を「[[長慶天皇]]」とした。この寛成親王については、「逆賊吉野朝」を「逆賊と認定」した後も即位の是非について意見が分かれていたが、[[高野山]] | + | *{{和暦|1926t}}には[[大正天皇]](実質は[[摂政]]の[[皇太子]]・裕仁親王(後の[[昭和天皇]]))の裁定で、「逆賊吉野朝の寛成親王」を「[[長慶天皇]]」とした。この寛成親王については、「逆賊吉野朝」を「逆賊と認定」した後も即位の是非について意見が分かれていたが、[[高野山]]に納められた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名が有る事などの史料に由って、その即位が確認されたとされ、逆賊吉野朝天皇と認定したものである。 |
− | == 日本帝國皇帝の歴代一覧表 == | + | ==日本帝國皇帝の歴代一覧表== |
;凡例 | ;凡例 | ||
− | * この表は、大正時代に「日本帝國皇帝」として確定され、現在広く知られている「日本帝國皇帝の一覧」である。[[宮内庁]]のサイトに掲載される天皇一覧と同一である。 | + | *この表は、大正時代に「日本帝國皇帝」として確定され、現在広く知られている「日本帝國皇帝の一覧」である。[[宮内庁]]のサイトに掲載される天皇一覧と同一である。 |
− | * [[太陽暦]]が施行された「明治六年(1873年)1月1日」以前の日付については、各時代に用いられた[[太陰暦]]の日付である。 | + | *[[太陽暦]]が施行された「明治六年(1873年)1月1日」以前の日付については、各時代に用いられた[[太陰暦]]の日付である。 |
− | * [[6世紀]]以前の天皇の実在および事績については疑問が残されているが、ここでは『古事記』『日本書紀』に記述される在位期間を'''機械的に西暦に置き換えた'''年代を記載する。特に'''その前半部については史実とはいえない'''。 | + | *[[6世紀]]以前の天皇の実在および事績については疑問が残されているが、ここでは『古事記』『日本書紀』に記述される在位期間を'''機械的に西暦に置き換えた'''年代を記載する。特に'''その前半部については史実とはいえない'''。 |
− | * 在位の欄には、第50代・[[桓武天皇]]以前の天皇については[[即位]]の日付(天皇となった後、即位式が挙行された日)を示し、即位に先立って[[践祚]]した第51代・[[平城天皇]]以降の天皇については践祚の日付(天皇となった日)を示す。 | + | *在位の欄には、第50代・[[桓武天皇]]以前の天皇については[[即位]]の日付(天皇となった後、即位式が挙行された日)を示し、即位に先立って[[践祚]]した第51代・[[平城天皇]]以降の天皇については践祚の日付(天皇となった日)を示す。 |
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;" | {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" | ||
!代||天皇名<br/>[[諡|漢風諡号]]<br/>・追号||諡号・追号<br/>の読み||諡号・追号<br/>の別||諡号・追号の由来||在位期間||備考 | !代||天皇名<br/>[[諡|漢風諡号]]<br/>・追号||諡号・追号<br/>の読み||諡号・追号<br/>の別||諡号・追号の由来||在位期間||備考 | ||
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|84||[[順德天皇]]||じゅんとく||諡号|| ||[[1210年]][[11月25日 (旧暦)|11月25日]]<br/> - [[1221年]][[4月20日 (旧暦)|4月20日]]||佐渡院を改む。 | |84||[[順德天皇]]||じゅんとく||諡号|| ||[[1210年]][[11月25日 (旧暦)|11月25日]]<br/> - [[1221年]][[4月20日 (旧暦)|4月20日]]||佐渡院を改む。 | ||
|- | |- | ||
− | |85||[[ | + | |85||[[九條天皇]]||くじょう||諡号||明治3年追贈||[[1221年]][[4月20日 (旧暦)|4月20日]]<br/> - [[1221年]][[7月9日 (旧暦)|7月9日]]||九條廢帝、後廢帝を改む。<br/>在位期間最短(78日間)。 |
|- | |- | ||
|86||[[後堀河天皇]]||ごほりかわ||追号||加後号||[[1221年]][[7月9日 (旧暦)|7月9日]]<br/> - [[1232年]][[10月4日 (旧暦)|10月4日]]|| | |86||[[後堀河天皇]]||ごほりかわ||追号||加後号||[[1221年]][[7月9日 (旧暦)|7月9日]]<br/> - [[1232年]][[10月4日 (旧暦)|10月4日]]|| | ||
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|} | |} | ||
− | == | + | ==日本帝國皇帝の記録== |
− | === | + | ===在位長期間の日本帝國皇帝=== |
− | * ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。 | + | *ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。 |
− | # [[昭和天皇]] | + | #[[昭和天皇]](第125代): 22660日(62年) |
− | # [[明治天皇]] | + | #[[明治天皇]](第123代): 16604日(45年6ヶ月) |
− | # [[光格天皇]] | + | #[[光格天皇]](第120代): 13641日(37年4ヶ月) |
− | # [[後土御門天皇]] | + | #[[後土御門天皇]](第104代): 13211日(36年2ヶ月) |
− | # [[後花園天皇]] | + | #[[後花園天皇]](第103代): 13133日(35年11ヶ月) |
− | === | + | ===在位短期間の日本帝國皇帝=== |
− | # [[ | + | #[[九條天皇]](第85代): 78日(2ヶ月) |
− | # [[ | + | #[[大友天皇]](第39代): 226日(7ヶ月) |
− | # [[用明天皇]](第31代): 596日(1年7ヶ月) | + | #[[用明天皇]](第31代): 596日(1年7ヶ月) |
− | # [[光厳天皇 | + | #[[光厳天皇]](第96代): 625日(1年8ヶ月) |
− | # [[花山天皇]](第65代): 677日(1年10ヶ月) | + | #[[花山天皇]](第65代): 677日(1年10ヶ月) |
− | === | + | ===高齢即位の日本帝國皇帝=== |
− | * ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。 | + | *ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。 |
− | # [[光仁天皇]](第49代): 62歳 | + | #[[光仁天皇]](第49代): 62歳 |
− | # [[ | + | #[[平成天皇]](第126代): 55歳 |
− | # [[光孝天皇]](第58代): 55歳 | + | #[[光孝天皇]](第58代): 55歳 |
− | === | + | ===年少即位の日本帝國皇帝=== |
− | * | + | *即位時の年齢。括弧内は数歳。 |
− | # [[ | + | #[[六條天皇]](第79代): 7ヶ月(2歳) |
− | # [[ | + | #[[安德天皇]](第81代): 1歳4ヶ月(3歳) |
− | # [[ | + | #[[四條天皇]](第87代): 1歳7ヶ月(2歳) |
− | # [[土御門天皇]](第83代): 2歳1ヶ月(4歳) | + | #[[土御門天皇]](第83代): 2歳1ヶ月(4歳) |
− | # [[ | + | #[[九條天皇]](第85代): 2歳6ヶ月(4歳) |
− | === | + | ===長寿の日本帝國皇帝=== |
− | * | + | *崩御時の年齢。括弧内は数歳。ただし、推古天皇(第33代)以降に限る。 |
− | # [[昭和天皇]] | + | 2009年現在の[[平成天皇陛下樣]]も、1933年出生で76歳であり、長寿の天皇である。 |
− | # [[後水尾天皇]] | + | #[[昭和天皇]](第125代): 87歳8ヶ月 |
− | # [[陽成天皇]](第57代): 80歳9ヶ月(82歳) | + | #[[後水尾天皇]](第109代): 84歳2ヶ月(85歳) |
− | # [[霊元天皇 | + | #[[陽成天皇]](第57代): 80歳9ヶ月(82歳) |
+ | #[[霊元天皇]](第113代): 78歳2ヶ月(79歳) | ||
<!--# [[後亀山天皇]](第99代): 76歳10ヶ月?(78歳?) - 年齢に諸説があるため参考記録。--> | <!--# [[後亀山天皇]](第99代): 76歳10ヶ月?(78歳?) - 年齢に諸説があるため参考記録。--> | ||
− | # [[白河天皇]](第72代): 76歳(77歳) | + | #[[白河天皇]](第72代): 76歳(77歳) |
− | === | + | ===短命の日本帝國皇帝=== |
− | * | + | *崩御時の年齢。括弧内は数歳。 |
− | # [[ | + | #[[安德天皇]](第81代): 6歳4ヶ月(8歳) |
− | # [[ | + | #[[四條天皇]](第87代): 10歳10ヶ月(12歳) |
− | # [[ | + | #[[六條天皇]](第79代): 11歳7ヶ月(13歳) |
− | # [[ | + | #[[九條天皇]](第85代): 15歳7ヶ月(17歳) |
− | # [[近衛天皇 | + | #[[近衛天皇]](第76代): 16歳2ヶ月(17歳) |
− | == | + | ==日本帝國皇帝の関連人物一覧== |
− | === 追尊天皇の一覧 === | + | ===追尊天皇の一覧=== |
薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。 | 薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。 | ||
− | * 岡宮天皇 - [[草壁皇子]]。40代天武天皇の皇太子で、42代文武天皇・44代元正天皇の父。即位前に病没し、「岡宮御宇天皇(おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「長岡天皇」とも。 | + | *岡宮天皇 - [[草壁皇子]]。40代天武天皇の皇太子で、42代文武天皇・44代元正天皇の父。即位前に病没し、「岡宮御宇天皇(おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「長岡天皇」とも。 |
− | * 崇道尽敬皇帝 - [[舎人親王]]。47代淳仁天皇の父。子の即位により「崇道尽敬皇帝」を追尊。単に「尽敬天皇」とも。 | + | *崇道尽敬皇帝 - [[舎人親王]]。47代淳仁天皇の父。子の即位により「崇道尽敬皇帝」を追尊。単に「尽敬天皇」とも。 |
− | * 春日宮天皇 - [[施基皇子]]。49代光仁天皇の父。子の即位により「春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「田原天皇」とも。 | + | *春日宮天皇 - [[施基皇子]]。49代光仁天皇の父。子の即位により「春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「田原天皇」とも。 |
− | * 崇道天皇 - [[早良親王]]。50代桓武天皇の弟で廃太子([[785年]]没)。[[800年]]、「崇道天皇」の尊号を受ける。 | + | *崇道天皇 - [[早良親王]]。50代桓武天皇の弟で廃太子([[785年]]没)。[[800年]]、「崇道天皇」の尊号を受ける。 |
− | * 陽光院太上天皇 - [[誠仁親王]] | + | *陽光院太上天皇 - [[誠仁親王]]。107代正親町天皇の東宮。即位前に死去。太上天皇、院号「陽光院」を追尊。「陽光天皇」とも。 |
− | * 慶光天皇 - [[閑院宮典仁親王]] | + | *慶光天皇 - [[閑院宮典仁親王]]。120代光格天皇の父。[[1884年]]、贈太上天皇、諡号「慶光天皇」を追尊。→[[尊号一件]] |
− | === | + | ===皇位に就か無かった太上天皇の一覧=== |
− | * 後高倉院 - [[守貞親王]]。86代[[後堀河天皇]]の父。皇位を経ずして[[法皇 | + | *後高倉院 - [[守貞親王]]。86代[[後堀河天皇]]の父。皇位を経ずして[[法皇]]となり[[院政]]を執る。[[皇統譜]]では「後高倉天皇」。 |
− | * 後崇光院 - [[伏見宮貞成親王]] | + | *後崇光院 - [[伏見宮貞成親王]]。103代[[後花園天皇]]の父。生前に太上天皇尊号宣下、院号「後崇光院」。皇統譜では「後崇光天皇」。 |
− | === 一説に天皇とされる者の一覧 === | + | ===一説に天皇とされる者の一覧=== |
* [[ヤマトタケル|日本武尊]] - 14代[[仲哀天皇]]の父。『[[風土記]]』において「倭武天皇」と記す例がある。 | * [[ヤマトタケル|日本武尊]] - 14代[[仲哀天皇]]の父。『[[風土記]]』において「倭武天皇」と記す例がある。 | ||
− | * [[神功皇后]] - 14代仲哀天皇の后で15代[[応神天皇]]の母。[[江戸時代]]までは歴代天皇の一人(15代)に数えられた。 | + | *[[神功皇后]] - 14代仲哀天皇の后で15代[[応神天皇]]の母。[[江戸時代]]までは歴代天皇の一人(15代)に数えられた。 |
− | * [[菟道稚郎子]] - 15代[[応神天皇]]皇太子。『[[播磨国風土記]]』に「宇治天皇」とある。 | + | *[[菟道稚郎子]] - 15代[[応神天皇]]皇太子。『[[播磨国風土記]]』に「宇治天皇」とある。 |
− | * [[市辺押磐皇子]] - 17代[[履中天皇]]皇子。23代[[顕宗天皇]]の父。『播磨国風土記』に「市辺天皇」とある。 | + | *[[市辺押磐皇子]] - 17代[[履中天皇]]皇子。23代[[顕宗天皇]]の父。『播磨国風土記』に「市辺天皇」とある。 |
− | * [[飯豊青皇女]] - 履中天皇の娘(異説あり)。22代[[清寧天皇]]の死後、23代顕宗天皇・24代[[仁賢天皇]]が皇位を譲り合っている間、天皇としての政務を行っていた。『[[扶桑略記]]』などに「飯豊天皇」とある。 | + | *[[飯豊青皇女]] - 履中天皇の娘(異説あり)。22代[[清寧天皇]]の死後、23代顕宗天皇・24代[[仁賢天皇]]が皇位を譲り合っている間、天皇としての政務を行っていた。『[[扶桑略記]]』などに「飯豊天皇」とある。 |
− | === | + | ===天皇に準ずる立場に有った者の一覧=== |
− | * [[蘇我馬子]]・[[蘇我蝦夷]]・[[蘇我入鹿]] - 大臣。邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、子は[[親王]]に準じた扱いを受けた。 | + | *[[蘇我馬子]]・[[蘇我蝦夷]]・[[蘇我入鹿]] - 大臣。邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、子は[[親王]]に準じた扱いを受けた。 |
− | * [[聖徳太子]] - 『日本書紀』では「豊聡耳法大王」、「法主王」と記す例がある。『[[隋書]]』に記述された俀王[[多利思比孤]]は聖徳太子を指すとする説もある。 | + | *[[聖徳太子]] - 『日本書紀』では「豊聡耳法大王」、「法主王」と記す例がある。『[[隋書]]』に記述された俀王[[多利思比孤]]は聖徳太子を指すとする説もある。 |
− | * [[間人皇女]] - 34代[[舒明天皇]]の皇女、36代[[孝徳天皇]]の[[皇后]]。37代[[皇極天皇|斉明天皇]]の死後、38代[[天智天皇]]即位までの間即位していたとする説がある。『[[万葉集]]』の「中皇命(なかつすめらみこと)」は間人皇女のこととされる。 | + | *[[間人皇女]] - 34代[[舒明天皇]]の皇女、36代[[孝徳天皇]]の[[皇后]]。37代[[皇極天皇|斉明天皇]]の死後、38代[[天智天皇]]即位までの間即位していたとする説がある。『[[万葉集]]』の「中皇命(なかつすめらみこと)」は間人皇女のこととされる。 |
− | * [[敦明親王]](小一条院) - 67代[[三条天皇]]皇子。[[1016年]]、[[東宮]]。[[1017年|翌年]]東宮を退くも、院号宣下を受け[[太上天皇]]に准ずる。 | + | *[[敦明親王]](小一条院) - 67代[[三条天皇]]皇子。[[1016年]]、[[東宮]]。[[1017年|翌年]]東宮を退くも、院号宣下を受け[[太上天皇]]に准ずる。 |
− | === | + | ===天皇に准ずる立場を称した者・天皇に擁立された者の一覧=== |
− | * [[塩焼王]] - [[天武天皇]]の孫で、[[新田部親王]]の子。[[天平宝字]]8年([[764年]] | + | *[[塩焼王]] - [[天武天皇]]の孫で、[[新田部親王]]の子。[[天平宝字]]8年([[764年]])の[[藤原仲麻呂の乱]]で、[[藤原仲麻呂]]から「今帝」として擁立される。しかし、朝廷軍の前に藤原仲麻呂軍は敗北、逃走中に捕縛され斬殺される。 |
− | * [[平将門]] - [[桓武天皇]]5世孫。[[940年]] | + | *[[平将門]] - [[桓武天皇]]5世孫。[[940年]]に、関東に独立勢力を築き上げ、八幡神の託宣により「新皇」に即位するも同年敗死。 |
− | * [[恒良親王]] - | + | *[[恒良親王]] - 後醍醐天皇の皇子。後醍醐が吉野へ逃れる際に一時的に皇位を譲られるが、[[南朝 (日本)|南朝]]の成立により無意味となる。 |
− | * [[懐良親王]] - 後醍醐天皇の皇子。南朝方の征西将軍として九州に勢力を張り、[[明]]から[[倭寇]]の取り締まりを求められ「[[日本国王]]」の冊封を受ける。 | + | *[[懐良親王]] - 後醍醐天皇の皇子。南朝方の征西将軍として九州に勢力を張り、[[明]]から[[倭寇]]の取り締まりを求められ「[[日本国王]]」の冊封を受ける。 |
− | * [[足利義満]] - [[室町幕府]] | + | *[[足利義満]] - [[室町幕府]]第三代[[征夷大将軍]]。[[准三宮]](上皇に準じた待遇)を受ける。以降の将軍も含め、[[明]]より「日本国王」の冊封を受ける。没後、太上天皇の宣下を受けるが[[室町幕府]]はこれを辞退する。院号「鹿苑院」。 |
− | + | ||
− | ==== 逆賊吉野朝 ==== | + | ====逆賊吉野朝==== |
− | + | 「[[室町時代]]」に、「[[日本帝國皇族]]」の「[[大覚寺統]]」の「[[後醍醐天皇]]」が、「建國した朝廷」。 | |
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− | ==== | + | =====逆賊吉野朝歴代逆賊皇族===== |
− | * [[ | + | *逆賊吉野朝第初代目・ |
+ | 逆賊皇族・尊治親王([[後醍醐天皇]]) - 在位1318~1339 | ||
+ | *逆賊吉野朝第二代目・ | ||
+ | 逆賊皇族・義良親王([[後村上天皇]]) - 在位1339~1368 | ||
+ | *逆賊吉野朝第三代目・ | ||
+ | 逆賊皇族・寛成親王([[長慶天皇]]) - 在位1368~1383 | ||
+ | *逆賊吉野朝第四代目・ | ||
+ | 逆賊皇族・熙成親王([[後亀山天皇]]) - 在位1383~1392 | ||
+ | *逆賊吉野朝第五代目・ | ||
+ | 逆賊皇族・[[小倉宮恒敦親王]] - 在位1410~1422 後亀山天皇の子 | ||
+ | *逆賊吉野朝第六代目・ | ||
+ | 逆賊皇族・[[小倉宮聖承親王]] - 在位1422~1443 小倉宮恒敦親王の子 | ||
+ | *逆賊吉野朝第七代目・ | ||
+ | 逆賊皇族・[[金蔵主尊義王]]([[中興天皇]]) - 在位1443~1443 後亀山天皇の弟(護聖院宮)の孫? もしくは後亀山天皇の子である小倉宮良泰親王の子? 禁闕の変で死去。 | ||
+ | *逆賊吉野朝第八代目・ | ||
+ | 逆賊皇族・[[自天皇尊秀王]]([[自天皇]]) - 在位1443~1457 金蔵主の子 、長禄の変で死去。 | ||
+ | *逆賊吉野朝第九代目・ | ||
+ | 逆賊皇族・[[南天皇尊雅王]]([[南天皇]]) - 在位1457~1459 以後“西陣南帝”を除いて後南朝は史書より姿を消す。 | ||
− | === 天皇だと自称した人物の一覧 === | + | ====奥羽列藩同盟東武皇帝==== |
+ | *[[北白川宮能久親王]] - 日光[[輪王寺]][[門跡]]時代の[[1868年]]、[[奥羽列藩同盟]]に依り「東武皇帝」に推戴されたとの説がある。アメリカ公使が本国に報告しているほか、当時の新聞に同様の記事がある<ref>ニューヨーク・タイムズ 1968年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある</ref>。 | ||
+ | |||
+ | ===天皇だと自称した人物の一覧=== | ||
この節の参考文献は、下記の通り<ref>『天皇家歴史大辞典』(別冊[[歴史読本]]、[[新人物往来社]]、2000年)211頁以下、[[保阪正康]]『天皇が十九人いた』([[角川文庫]]、2001年)14頁以下。</ref>。 | この節の参考文献は、下記の通り<ref>『天皇家歴史大辞典』(別冊[[歴史読本]]、[[新人物往来社]]、2000年)211頁以下、[[保阪正康]]『天皇が十九人いた』([[角川文庫]]、2001年)14頁以下。</ref>。 | ||
− | * [[伊藤天皇]] - 伊藤清作、[[ | + | *[[伊藤天皇]] - 伊藤清作、[[逆賊吉野朝]]潜伏の地、[[奈良縣吉野郡川上村]]出身。[[京都市]]で木材会社を経営。[[尚尊王]]の末裔を主張。 |
− | * [[上村天皇]] - 上村某。[[福岡県]] | + | *[[上村天皇]] - 上村某。[[福岡県]]で、後村上天皇の末裔を主張。 |
− | * [[葛尾天皇]] - 松本忠致、[[福島県]][[双葉郡]][[葛尾村]] | + | *[[葛尾天皇]] - 松本忠致、[[福島県]][[双葉郡]][[葛尾村]]で、長慶天皇の直系子孫を主張。この地には、[[西陣南帝]]が[[応仁の乱]]後に潜伏していたとし、後南朝の[[伝承]]が多く残されている。 |
− | * [[工藤天皇]] - 工藤智久、[[1973年]]に「智宮久仁親王」を自称し、明治天皇の曾孫を主張した。祖父が明治天皇の[[1878年]]の[[上田市]]行幸時の落胤であると称しマスコミの好餌となった。 | + | *[[工藤天皇]] - 工藤智久、[[1973年]]に「智宮久仁親王」を自称し、明治天皇の曾孫を主張した。祖父が明治天皇の[[1878年]]の[[上田市]]行幸時の落胤であると称しマスコミの好餌となった。 |
− | * [[熊沢天皇]] - 現在までに4人が熊沢天皇を称した。 | + | *[[熊沢天皇]] - 現在までに4人が熊沢天皇を称した。 |
− | ** [[熊沢寛道]] - | + | **[[熊沢寛道]] - 後亀山天皇第19世の子孫、南朝第118代天皇を称し、諱を尊熟と自称する。後に法皇を自称。 |
− | ** 熊沢乃武夫、熊沢信彦 - [[愛知県]][[津島市]]で、熊沢寛道の家を分家と見なし、熊沢家本家を主張。 | + | **熊沢乃武夫、熊沢信彦 - [[愛知県]][[津島市]]で、熊沢寛道の家を分家と見なし、熊沢家本家を主張。 |
− | ** 熊沢照元 - [[東京都]]で、熊沢寛道の養父の弟の曾孫に当たり、「熊沢寛道は養子である」として熊沢家本家を主張。 | + | **熊沢照元 - [[東京都]]で、熊沢寛道の養父の弟の曾孫に当たり、「熊沢寛道は養子である」として熊沢家本家を主張。 |
− | ** 熊沢里吉 - 1940年代後半に、[[長崎県]][[北松浦郡]]で[[石炭]]の闇商売を摘発された際、熊沢家本家を主張。 | + | **熊沢里吉 - 1940年代後半に、[[長崎県]][[北松浦郡]]で[[石炭]]の闇商売を摘発された際、熊沢家本家を主張。 |
− | ** 熊沢俊孝 - 愛知県[[一宮市]]で、熊沢家本家を主張。この後、間もなく逝去。 | + | **熊沢俊孝 - 愛知県[[一宮市]]で、熊沢家本家を主張。この後、間もなく逝去。 |
− | * [[池端天皇]] - 熊沢常光(常春)。[[護良親王]]の子の[[治広王]]の末裔と称し、元尾張藩藩士の家柄で、瀬部熊沢家の当主という。名古屋市にて、熊沢家本家を主張するが、まもなく没した。 | + | *[[池端天皇]] - 熊沢常光(常春)。[[護良親王]]の子の[[治広王]]の末裔と称し、元尾張藩藩士の家柄で、瀬部熊沢家の当主という。名古屋市にて、熊沢家本家を主張するが、まもなく没した。 |
− | * [[国憲天皇]] - [[熊本県]]の農民。襤褸を身に纏い、常に手に数珠を弄っていたという。 | + | *[[国憲天皇]] - [[熊本県]]の農民。襤褸を身に纏い、常に手に数珠を弄っていたという。 |
− | * [[酒本天皇]] - 酒本正道。[[岡山県]] | + | *[[酒本天皇]] - 酒本正道。[[岡山県]]で、後亀山天皇の後裔を主張。 |
− | * [[佐渡天皇]] - [[新潟県]][[佐渡島]]の人か。順徳天皇の末裔を主張。 | + | *[[佐渡天皇]] - [[新潟県]][[佐渡島]]の人か。順徳天皇の末裔を主張。 |
− | * [[佐藤天皇]] - 佐藤英壱郎。[[1948年]]頃[[岡山県]][[和気郡]]で、88代高倉天皇の第一皇子の直系を主張。元[[憲兵]]で、剣道五段、柔道五段、弓道二段、空手初段だったらしい。 | + | *[[佐藤天皇]] - 佐藤英壱郎。[[1948年]]頃[[岡山県]][[和気郡]]で、88代高倉天皇の第一皇子の直系を主張。元[[憲兵]]で、剣道五段、柔道五段、弓道二段、空手初段だったらしい。 |
− | * [[璽光尊]] - 戦後新たに天皇を名乗った人。元号を霊寿と改め、天皇や皇族、そして[[ダグラス・マッカーサー]]に自らの皇居参内を命じ、やがて金沢に[[遷都]]し、私造[[紙幣]]をも発行した新興[[宗教]]の教祖。 | + | *[[璽光尊]] - 戦後新たに天皇を名乗った人。元号を霊寿と改め、天皇や皇族、そして[[ダグラス・マッカーサー]]に自らの皇居参内を命じ、やがて金沢に[[遷都]]し、私造[[紙幣]]をも発行した新興[[宗教]]の教祖。 |
− | * [[外村天皇]] - 外村光陽。[[ブローカー]] | + | *[[外村天皇]] - 外村光陽。[[ブローカー]]。1946年名古屋市の繁華街で、後醍醐天皇の末流を主張し、名古屋行幸に来た[[昭和天皇]]を偽物と断じたが、郡衆に袋叩きに遭った。[[衆議院議員総選挙]]に立候補もしている。 |
− | * [[竹村天皇]] - 竹村稔。[[静岡県]][[浜松市]]で、農業を営む。大覚寺統の末裔を戦前から主張。1930年代後半に、元[[宮内大臣]][[一木喜徳郎]]を始め[[内大臣]]等に「我こそ天皇である」と手紙を出し続けた所、一木に「いい加減にしろ」と一喝されたという。 | + | *[[竹村天皇]] - 竹村稔。[[静岡県]][[浜松市]]で、農業を営む。大覚寺統の末裔を戦前から主張。1930年代後半に、元[[宮内大臣]][[一木喜徳郎]]を始め[[内大臣]]等に「我こそ天皇である」と手紙を出し続けた所、一木に「いい加減にしろ」と一喝されたという。 |
− | * [[田宮天皇]] - 田宮仙海。京都市で、96代後醍醐天皇の末流を主張。 | + | *[[田宮天皇]] - 田宮仙海。京都市で、96代後醍醐天皇の末流を主張。 |
− | * [[長田天皇]] - 長田某。愛知県で、98代長慶天皇の子孫を主張。自分が、南朝35代目の天皇と名乗った。 | + | *[[長田天皇]] - 長田某。愛知県で、98代長慶天皇の子孫を主張。自分が、南朝35代目の天皇と名乗った。 |
− | * [[ | + | *[[長浜天皇]] - 現在までに2人が長浜天皇を称した。 |
− | ** [[長浜豊彦]] - [[鹿児島県]][[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]で81代安徳天皇の末裔を主張。 | + | **[[長浜豊彦]] - [[鹿児島県]][[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]で81代安徳天皇の末裔を主張。 |
− | ** 長浜政風 - 長浜家本家を主張。長浜豊彦の縁者という。[[雲陰法皇顕彰会]]の主催者。 | + | **[[長浜政風]] - 長浜家本家を主張。長浜豊彦の縁者という。[[雲陰法皇顕彰会]]の主催者。 |
− | * [[法の天皇]] - 熊本県の人。81代安徳天皇の末裔を主張。印半纏の襟に「法天皇」と染め抜いたものをいつも着ていたという。 | + | *[[法の天皇]] - 熊本県の人。81代安徳天皇の末裔を主張。印半纏の襟に「法天皇」と染め抜いたものをいつも着ていたという。 |
− | * 三浦天皇 - [[三浦芳聖]]。愛知県[[豊川市]] | + | *三浦天皇 - [[三浦芳聖]]。愛知県[[豊川市]]で、[[長慶天皇]]の末裔で[[後醍醐天皇]]の皇子・[[尊良親王]]の生まれ変わりだと主張。「神風串呂」なる[[神道霊学]]を立ち上げ、「天皇は狸に祟られている」と吹聴した。 |
− | * [[安川天皇]] - 安川守(仮名という)。京都市で、112代霊元天皇の末裔を主張。 | + | *[[安川天皇]] - 安川守(仮名という)。京都市で、112代霊元天皇の末裔を主張。 |
− | * [[横倉天皇]] - 1940年代後半に[[ | + | *[[横倉天皇]] - 1940年代後半に[[土佐県]][[吾川郡]]で81代安徳天皇の末裔を主張。 |
− | == 脚注 == | + | ==脚注== |
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− | == 外部リンク == | + | ==外部リンク== |
− | * [http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/index.html | + | *[http://homepage1.nifty.com/kitabatake/tennouichiran.html 日本帝國皇帝歴代名簿] |
+ | *[http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/index.html 日本帝國皇帝歴代陵墓] - 日本帝國皇帝陵墓に関する情報の一覧 | ||
+ | *[http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/history/koushitsu/DaisuHikaku.htm 日本帝國皇帝歴代数對照表名簿]…明治以前と現在の「日本帝國皇帝」の異同が対照できる一覧表名簿 | ||
==関係事項== | ==関係事項== | ||
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*[[竹田宮]] | *[[竹田宮]] | ||
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2013年3月12日 (火) 15:24時点における最新版
- 日本帝國皇帝(ニホン・テイコク・コウテイ)。
- 「日本帝國の象徴」。「日本帝國の支配者」。「日本帝國の指導者」。
- 「日本帝國皇帝」の「父系男系の親族」は、「日本帝國皇族」。
- 「日本帝國皇帝」の「父系男系(日本帝國皇族)」の「男子」が、「皇位繼承権所持者」。
日本帝國皇帝[編集]
日本帝國皇帝の厳密な確定が要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、1889年(和暦??年)には、その根本規範として大日本帝国憲法が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。
日本帝國皇帝の確定にあたっては、江戸時代に水戸藩で編纂された『大日本史』、およびその編纂過程で発展した水戸学、尊王論の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいて在るべき歴代天皇の姿が論じられ、史実としての正確性はともかく、歴代天皇は確定された。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更された点は次の通り。
- 明治時代以前は、神功皇后を第15代の帝と数えていたが、日本帝國皇帝から外した。『大日本史』が採った立場に基づくものである。
- 初代・神武天皇から第62代・村上天皇までは、崩御後の漢風諡號として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代・冷泉天皇から第118代・後桃園天皇までは、「○○院」(例では、「冷泉院」)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、安德天皇と後醍醐天皇を除く)。この「天皇」号が復活するのは第120代・光格天皇のときからである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された[1]。
- 壬申の乱で敗れた大友皇子は、日本帝國皇帝として数えられていなかったが、『大日本史』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたとされて、明治三年に「大友天皇」の諡号を追贈した。現在では即位説が有力。即位の是非をめぐる議論については、大友皇子即位説を参照されたし。
- 第47代「淡路廃帝」に対しては、明治三年に「淳仁天皇」の諡号を追贈した。
- 承久の乱に敗れた「九條廃帝」は日本帝國皇帝に数えていなかったが、明治三年に「九條天皇」の諡号を追贈した。
- 1911年(和暦??年)には明治天皇の裁定に依り、逆賊吉野朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を「逆賊吉野朝天皇」と認定した上で、従来の「第96代・光厳天皇」から「第100代・後円融天皇」までの5代5人を「正統平安朝」として認定した。
- 1926t年(和暦??年)には大正天皇(実質は摂政の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇))の裁定で、「逆賊吉野朝の寛成親王」を「長慶天皇」とした。この寛成親王については、「逆賊吉野朝」を「逆賊と認定」した後も即位の是非について意見が分かれていたが、高野山に納められた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名が有る事などの史料に由って、その即位が確認されたとされ、逆賊吉野朝天皇と認定したものである。
日本帝國皇帝の歴代一覧表[編集]
- 凡例
- この表は、大正時代に「日本帝國皇帝」として確定され、現在広く知られている「日本帝國皇帝の一覧」である。宮内庁のサイトに掲載される天皇一覧と同一である。
- 太陽暦が施行された「明治六年(1873年)1月1日」以前の日付については、各時代に用いられた太陰暦の日付である。
- 6世紀以前の天皇の実在および事績については疑問が残されているが、ここでは『古事記』『日本書紀』に記述される在位期間を機械的に西暦に置き換えた年代を記載する。特にその前半部については史実とはいえない。
- 在位の欄には、第50代・桓武天皇以前の天皇については即位の日付(天皇となった後、即位式が挙行された日)を示し、即位に先立って践祚した第51代・平城天皇以降の天皇については践祚の日付(天皇となった日)を示す。
代 | 天皇名 漢風諡号 ・追号 |
諡号・追号 の読み |
諡号・追号 の別 |
諡号・追号の由来 | 在位期間 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 神武天皇 | じんむ | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前660年1月1日 - 紀元前585年3月11日 |
崇神天皇がモデルになった説もある。 |
2 | 綏靖天皇 | すいぜい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前581年1月8日 - 紀元前549年5月10日 |
欠史八代の一。 |
3 | 安寧天皇 | あんねい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前549年7月3日 - 紀元前511年12月6日 |
欠史八代の一。 |
4 | 懿德天皇 | いとく | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前510年2月4日 - 紀元前477年9月8日 |
欠史八代の一。 |
5 | 孝昭天皇 | こうしょう | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前475年1月9日 - 紀元前393年8月5日 |
欠史八代の一。 |
6 | 孝安天皇 | こうあん | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前392年1月7日 - 紀元前291年1月9日 |
欠史八代の一。 |
7 | 孝霊天皇 | こうれい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前290年1月12日 - 紀元前215年2月8日 |
欠史八代の一。 |
8 | 孝元天皇 | こうげん | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前214年1月14日 - 紀元前158年9月2日 |
欠史八代の一。 |
9 | 開化天皇 | かいか | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前158年11月12日 - 紀元前98年4月9日 |
欠史八代の一。 |
10 | 崇神天皇 | すじん | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前97年1月13日 - 紀元前30年12月5日 |
|
11 | 垂仁天皇 | すいにん | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 紀元前29年1月2日 - 70年7月14日 |
|
12 | 景行天皇 | けいこう | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 71年7月11日 - 130年11月7日 |
|
13 | 成務天皇 | せいむ | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 131年1月5日 - 190年6月11日 |
|
14 | 仲哀天皇 | ちゅうあい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 192年1月11日 - 200年2月6日 |
|
15 | 應神天皇 | おうじん | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 270年1月1日 - 310年2月15日 |
|
16 | 仁德天皇 | にんとく | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 313年1月3日 - 399年1月16日 |
|
17 | 履中天皇 | りちゅう | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 400年2月1日 - 405年3月15日 |
|
18 | 反正天皇 | はんぜい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 406年1月2日 - 410年1月23日 |
|
19 | 允恭天皇 | いんぎょう | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 412年12月 - 453年1月14日 |
|
20 | 安康天皇 | あんこう | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 453年12月14日 - 456年8月9日 |
|
21 | 雄略天皇 | ゆうりゃく | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 456年11月13日 - 479年8月7日 |
稲荷山古墳出土の鉄剣銘に記されている「獲加多支鹵大王」と同一人物? |
22 | 清寧天皇 | せいねい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 480年1月15日 - 484年1月16日 |
|
23 | 顯宗天皇 | けんぞう | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 485年1月1日 - 487年4月25日 |
|
24 | 仁賢天皇 | にんけん | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 488年1月5日 - 498年8月8日 |
|
25 | 武烈天皇 | ぶれつ | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 498年12月 - 506年12月8日 |
|
26 | 継体天皇 (繼體天皇) |
けいたい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 507年2月4日 - 531年2月7日 |
継体天皇以後の系図はほぼ正確とされている。 |
27 | 安閑天皇 | あんかん | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 531年2月7日 - 535年12月17日 |
|
28 | 宣化天皇 | せんか | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 535年12月 - 539年2月10日 |
|
29 | 欽明天皇 | きんめい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 539年12月5日 - 571年4月 |
|
30 | 敏達天皇 | びだつ | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 572年4月3日 - 585年8月15日 |
|
31 | 用明天皇 | ようめい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 585年9月5日 - 587年4月9日 |
|
32 | 崇峻天皇 | すしゅん | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 587年8月2日 - 592年11月3日 |
|
33 | 推古天皇 | すいこ | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 592年12月8日 - 628年3月7日 |
女帝。初の女帝である。 推古天皇から在位の年月が正確になると考えられている。 この天皇から日本は完全に歴史時代に入る。 |
34 | 舒明天皇 | じょめい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 629年1月4日 - 641年10月9日 |
|
35 | 皇極天皇 | こうぎょく | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 642年1月15日 - 645年6月14日 |
女帝。 |
36 | 孝德天皇 | こうとく | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 645年6月14日 - 654年10月10日 |
|
37 | 齊明天皇 | さいめい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 655年1月3日 - 661年7月24日 |
皇極天皇重祚。女帝。 |
38 | 天智天皇 | てんじ | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 661年7月24日 - 671年12月3日 |
中大兄皇子として有名。 |
39 | 大友天皇 | おおとも | 諡号 | 明治3年追贈 | 671年12月5日 - 672年7月23日 |
通称、大友帝。 |
40 | 天武天皇 | てんむ | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 673年2月27日 - 686年9月9日 |
|
41 | 持統天皇 | じとう | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 686年9月9日 - 697年8月1日 |
女帝。 |
42 | 文武天皇 | もんむ | 諡号 | 697年8月1日 - 707年6月15日 |
||
43 | 元明天皇 | げんめい | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 707年7月17日 - 715年9月2日 |
女帝。 |
44 | 元正天皇 | げんしょう | 諡号 | 淡海三船による一括撰進 | 715年9月2日 - 724年2月4日 |
女帝。 |
45 | 聖武天皇 | しょうむ | (生前の尊称) | 724年2月4日 - 749年7月2日 |
||
46 | 孝謙天皇 | こうけん | (生前の尊称) | 749年7月2日 - 758年8月1日 |
女帝。 | |
47 | 淳仁天皇 | じゅんにん | 諡号 | 明治3年追贈 | 758年8月1日 - 764年10月9日 |
淡路廢帝を改む。 |
48 | 稱德天皇 | しょうとく | (生前の尊称) | 764年10月9日 - 770年8月4日 |
孝謙天皇重祚。女帝。 | |
49 | 光仁天皇 | こうにん | 諡号 | 770年10月1日 - 781年4月3日 |
継体天皇(第26代)以降では、 歴代最高齢即位(62年)。 | |
50 | 桓武天皇 | かんむ | 諡号 | 781年4月3日 - 806年3月17日 |
異称、柏原天皇。 | |
51 | 平城天皇 | へいぜい | 追号 | 在所(地名) | 806年3月17日 - 809年4月1日 |
異称、奈良天皇。 |
52 | 嵯峨天皇 | さが | 追号 | 譲位後の在所 | 809年4月1日 - 823年4月16日 |
|
53 | 淳和天皇 | じゅんな | 追号 | 譲位後の在所 | 823年4月16日 - 833年2月28日 |
異称、西院の帝。 |
54 | 仁明天皇 | にんみょう | 諡号 | 833年2月28日 - 850年3月21日 |
異称、深草天皇。 | |
55 | 文德天皇 | もんとく | 諡号 | 850年3月21日 - 858年8月27日 |
異称、田邑の帝。 | |
56 | 清和天皇 | せいわ | 追号 | 譲位後の在所 | 858年11月7日 - 876年11月29日 |
異称、水尾天皇。 |
57 | 陽成天皇 | ようぜい | 追号 | 譲位後の在所 | 876年11月29日 - 884年2月4日 |
|
58 | 光孝天皇 | こうこう | 諡号 | 884年2月5日 - 887年8月26日 |
異称、小松天皇。 | |
59 | 宇多天皇 | うだ | 追号 | 譲位後の在所 | 887年8月26日 - 897年7月3日 |
臣籍降下するも、後に皇族に復帰し即位。 |
60 | 醍醐天皇 | だいご | 追号 | 山陵 | 897年7月3日 - 930年9月22日 |
出生時は臣籍、後に皇族に復帰し即位。 |
61 | 朱雀天皇 | すざく | 追号 | 譲位後の在所 | 930年9月22日 - 946年4月20日 |
|
62 | 村上天皇 | むらかみ | 追号 | 山陵 | 946年4月20日 - 967年5月25日 |
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63 | 冷泉天皇 | れいぜい | 追号 | 譲位後の在所 | 967年5月25日 - 969年8月13日 |
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64 | 圓融天皇 | えんゆう | 追号 | 在所(寺名・庵号) | 969年8月13日 - 984年8月27日 |
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65 | 花山天皇 | かざん | 追号 | 在所(寺名・庵号) | 984年8月27日 - 986年6月23日 |
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66 | 一條天皇 | いちじょう | 追号 | 在位中の皇居の宮名 | 986年6月23日 - 1011年6月13日 |
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67 | 三條天皇 | さんじょう | 追号 | 譲位後の在所 | 1011年6月13日 - 1016年1月29日 |
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68 | 後一條天皇 | ごいちじょう | 追号 | 加後号 | 1016年1月29日 - 1036年4月17日 |
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69 | 後朱雀天皇 | ごすざく | 追号 | 加後号 | 1036年4月17日 - 1045年1月16日 |
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70 | 後冷泉天皇 | ごれいぜい | 追号 | 加後号 | 1045年1月16日 - 1068年4月19日 |
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71 | 後三條天皇 | ごさんじょう | 追号 | 加後号 | 1068年4月19日 - 1072年12月8日 |
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72 | 白河天皇 | しらかわ | 追号(遺諡) | 譲位後の在所 | 1072年12月8日 - 1086年11月26日 |
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73 | 堀河天皇 | ほりかわ | 追号 | 在位中の皇居の宮名 | 1086年11月26日 - 1107年7月19日 |
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74 | 鳥羽天皇 | とば | 追号 | 譲位後の在所 | 1107年7月19日 - 1123年1月28日 |
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75 | 崇德天皇 | すとく | 諡号 | 1123年1月28日 - 1141年12月7日 |
讃岐院を改む。 | |
76 | 近衛天皇 | このえ | 追号 | 在位中の皇居の宮名 | 1141年12月7日 - 1155年7月23日 |
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77 | 後白河天皇 | ごしらかわ | 追号 | 加後号 | 1155年7月24日 - 1158年8月11日 |
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78 | 二條天皇 | にじょう | 追号 | 在位中の皇居の宮名 | 1158年8月11日 - 1165年6月25日 |
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79 | 六條天皇 | ろくじょう | 追号 | 譲位後の在所 | 1165年6月25日 - 1168年2月19日 |
歴代最年少即位(生後7ヶ月)。 歴代最年少譲位、歴代最年少上皇(2歳)。 |
80 | 高倉天皇 | たかくら | 追号 | 譲位後の在所 | 1168年2月19日 - 1180年2月21日 |
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81 | 安德天皇 | あんとく | 諡号 | 1180年2月21日 - 1185年3月24日 |
後鳥羽天皇と在位一部重複。 歴代最年少崩御(8歳)。 | |
82 | 後鳥羽天皇 | ごとば | 追号 | 加後号 | 1183年8月20日 - 1198年1月11日 |
隠岐院、さらに顕德院を改む。 安德天皇と在位一部重複。 |
83 | 土御門天皇 | つちみかど | 追号 | 譲位後の在所 | 1198年1月11日 - 1210年11月25日 |
異称、土佐院、阿波院。 |
84 | 順德天皇 | じゅんとく | 諡号 | 1210年11月25日 - 1221年4月20日 |
佐渡院を改む。 | |
85 | 九條天皇 | くじょう | 諡号 | 明治3年追贈 | 1221年4月20日 - 1221年7月9日 |
九條廢帝、後廢帝を改む。 在位期間最短(78日間)。 |
86 | 後堀河天皇 | ごほりかわ | 追号 | 加後号 | 1221年7月9日 - 1232年10月4日 |
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87 | 四條天皇 | しじょう | 追号 | 在所(葬家の邸宅を 在所に擬す) |
1232年10月4日 - 1242年1月9日 |
|
88 | 後嵯峨天皇 | ごさが | 追号(遺諡) | 加後号 | 1242年1月20日 - 1246年1月29日 |
|
89 | 後深草天皇 | ごふかくさ | 追号(遺諡) | 加後号 | 1246年1月29日 - 1259年11月26日 |
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90 | 亀山天皇 | かめやま | 追号(遺諡) | 譲位後の在所 | 1259年11月26日 - 1274年1月26日 |
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91 | 後宇多天皇 | ごうだ | 追号(遺諡) | 加後号 | 1274年1月26日 - 1287年10月21日 |
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92 | 伏見天皇 | ふしみ | 追号 | 譲位後の在所 | 1287年10月21日 - 1298年7月22日 |
|
93 | 後伏見天皇 | ごふしみ | 追号(遺諡) | 加後号 | 1298年7月22日 - 1301年1月22日 |
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94 | 後二條天皇 | ごにじょう | 追号 | 加後号 | 1301年1月22日 - 1308年8月25日 |
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95 | 花園天皇 | はなぞの | 追号(遺諡) | 譲位後の在所 | 1308年8月26日 - 1318年2月26日 |
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96 | 光嚴天皇 | こうごん | 追号(遺諡) | 在所(寺名・庵号) | 1331年9月20日 - 1333年5月25日 |
|
97 | 光明天皇 | こうみょう | 追号(遺諡) | 在所(寺名・庵号) | 1336年8月15日 - 1348年10月27日 |
|
98 | 崇光天皇 | すこう | 追号(遺諡) | 1348年10月27日 - 1351年11月7日 |
||
99 | 後光嚴天皇 | ごこうごん | 追号(遺諡) | 加後号 | 1352年8月17日 - 1371年3月23日 |
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100 | 後圓融天皇 | ごえんゆう | 追号(遺諡) | 加後号 | 1371年3月23日 - 1382年4月11日 |
|
101 | 後小松天皇 | ごこまつ | 追号(遺諡) | 加後号 | 1382年4月11日 - 1412年8月29日 |
|
102 | 稱光天皇 | しょうこう | 追号 | 2つの漢風諡号を 合わせて追号とした号 (稱德+光仁) |
1412年8月29日 - 1428年7月20日 |
|
103 | 後花園天皇 | ごはなぞの | 追号 | 加後号 | 1428年7月28日 - 1464年7月19日 |
異称、後文德院。 |
104 | 後土御門天皇 | ごつちみかど | 追号 | 加後号 | 1464年7月19日 - 1500年9月28日 |
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105 | 後柏原天皇 | ごかしわばら | 追号 | 加後号 | 1500年10月25日 - 1526年4月7日 |
|
106 | 後奈良天皇 | ごなら | 追号 | 加後号 | 1526年4月29日 - 1557年9月5日 |
|
107 | 正親町天皇 | おおぎまち | 追号 | 在所(二條殿)の面する町名 | 1557年10月27日 - 1586年11月7日 |
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108 | 後陽成天皇 | ごようぜい | 追号 | 加後号 | 1586年11月7日 - 1611年3月27日 |
|
109 | 後水尾天皇 | ごみずのお | 追号(遺諡) | 加後号 | 1611年3月27日 - 1629年11月8日 |
|
110 | 明正天皇 | めいしょう | 追号 | 2つの漢風諡号を 合わせて追号とした号 (元明+元正) |
1629年11月8日 - 1643年10月3日 |
女帝。 |
111 | 後光明天皇 | ごこうみょう | 追号 | 加後号 | 1643年10月3日 - 1654年9月20日 |
|
112 | 後西院天皇 | ごさいいん | 追号 | 加後号 | 1654年11月28日 - 1663年1月26日 |
|
113 | 霊元天皇 | れいげん | 追号(遺諡) | 2つの漢風諡号を 合わせて追号とした号 (孝靈+孝元) |
1663年1月26日 - 1687年3月21日 |
|
114 | 東山天皇 | ひがしやま | 追号 | 山陵 | 1687年3月21日 - 1709年6月21日 |
|
115 | 中御門天皇 | なかみかど | 追号 | 在所に近い宮門 | 1709年6月21日 - 1735年3月21日 |
|
116 | 櫻町天皇 | さくらまち | 追号 | 譲位後の在所 | 1735年3月21日 - 1747年5月2日 |
|
117 | 桃園天皇 | ももぞの | 追号 | 1747年5月2日 - 1762年7月12日 |
||
118 | 後櫻町天皇 | ごさくらまち | 追号 | 加後号 | 1762年7月27日 - 1770年11月24日 |
女帝。2010年現在、最後の女帝である。 |
119 | 後桃園天皇 | ごももぞの | 追号 | 加後号 | 1770年11月24日 - 1779年11月9日 |
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120 | 光格天皇 | こうかく | 諡号 | 1779年11月25日 - 1817年3月22日 |
||
121 | 仁孝天皇 | にんこう | 諡号 | 1817年3月22日 - 1846年2月6日 |
||
122 | 孝明天皇 | こうめい | 諡号 | 1846年2月13日 - 1866年12月25日 |
||
123 | 明治天皇 | めいじ | 追号 | 一世一元の制による | 1867年1月9日 - 1912年7月30日 0:43 |
|
124 | 大正天皇 | たいしょう | 追号 | 一世一元の制による | 1912年7月30日 - 1926年12月25日 1:25 |
|
125 | 昭和天皇 | しょうわ | 追号 | 一世一元の制による | 1926年12月25日 - 1989年1月7日 6:33 |
履中天皇(第17代)以降では、 在位期間最長(62年2週間)。 |
126 | 平成天皇 | へいせい | 1989年1月7日 - | 関東の地で即位した初の天皇。 |
日本帝國皇帝の記録[編集]
在位長期間の日本帝國皇帝[編集]
- ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。
- 昭和天皇(第125代): 22660日(62年)
- 明治天皇(第123代): 16604日(45年6ヶ月)
- 光格天皇(第120代): 13641日(37年4ヶ月)
- 後土御門天皇(第104代): 13211日(36年2ヶ月)
- 後花園天皇(第103代): 13133日(35年11ヶ月)
在位短期間の日本帝國皇帝[編集]
- 九條天皇(第85代): 78日(2ヶ月)
- 大友天皇(第39代): 226日(7ヶ月)
- 用明天皇(第31代): 596日(1年7ヶ月)
- 光厳天皇(第96代): 625日(1年8ヶ月)
- 花山天皇(第65代): 677日(1年10ヶ月)
高齢即位の日本帝國皇帝[編集]
- ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。
年少即位の日本帝國皇帝[編集]
- 即位時の年齢。括弧内は数歳。
- 六條天皇(第79代): 7ヶ月(2歳)
- 安德天皇(第81代): 1歳4ヶ月(3歳)
- 四條天皇(第87代): 1歳7ヶ月(2歳)
- 土御門天皇(第83代): 2歳1ヶ月(4歳)
- 九條天皇(第85代): 2歳6ヶ月(4歳)
長寿の日本帝國皇帝[編集]
- 崩御時の年齢。括弧内は数歳。ただし、推古天皇(第33代)以降に限る。
2009年現在の平成天皇陛下樣も、1933年出生で76歳であり、長寿の天皇である。
- 昭和天皇(第125代): 87歳8ヶ月
- 後水尾天皇(第109代): 84歳2ヶ月(85歳)
- 陽成天皇(第57代): 80歳9ヶ月(82歳)
- 霊元天皇(第113代): 78歳2ヶ月(79歳)
- 白河天皇(第72代): 76歳(77歳)
短命の日本帝國皇帝[編集]
- 崩御時の年齢。括弧内は数歳。
- 安德天皇(第81代): 6歳4ヶ月(8歳)
- 四條天皇(第87代): 10歳10ヶ月(12歳)
- 六條天皇(第79代): 11歳7ヶ月(13歳)
- 九條天皇(第85代): 15歳7ヶ月(17歳)
- 近衛天皇(第76代): 16歳2ヶ月(17歳)
日本帝國皇帝の関連人物一覧[編集]
追尊天皇の一覧[編集]
薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。
- 岡宮天皇 - 草壁皇子。40代天武天皇の皇太子で、42代文武天皇・44代元正天皇の父。即位前に病没し、「岡宮御宇天皇(おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「長岡天皇」とも。
- 崇道尽敬皇帝 - 舎人親王。47代淳仁天皇の父。子の即位により「崇道尽敬皇帝」を追尊。単に「尽敬天皇」とも。
- 春日宮天皇 - 施基皇子。49代光仁天皇の父。子の即位により「春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「田原天皇」とも。
- 崇道天皇 - 早良親王。50代桓武天皇の弟で廃太子(785年没)。800年、「崇道天皇」の尊号を受ける。
- 陽光院太上天皇 - 誠仁親王。107代正親町天皇の東宮。即位前に死去。太上天皇、院号「陽光院」を追尊。「陽光天皇」とも。
- 慶光天皇 - 閑院宮典仁親王。120代光格天皇の父。1884年、贈太上天皇、諡号「慶光天皇」を追尊。→尊号一件
皇位に就か無かった太上天皇の一覧[編集]
- 後高倉院 - 守貞親王。86代後堀河天皇の父。皇位を経ずして法皇となり院政を執る。皇統譜では「後高倉天皇」。
- 後崇光院 - 伏見宮貞成親王。103代後花園天皇の父。生前に太上天皇尊号宣下、院号「後崇光院」。皇統譜では「後崇光天皇」。
一説に天皇とされる者の一覧[編集]
- 日本武尊 - 14代仲哀天皇の父。『風土記』において「倭武天皇」と記す例がある。
- 神功皇后 - 14代仲哀天皇の后で15代応神天皇の母。江戸時代までは歴代天皇の一人(15代)に数えられた。
- 菟道稚郎子 - 15代応神天皇皇太子。『播磨国風土記』に「宇治天皇」とある。
- 市辺押磐皇子 - 17代履中天皇皇子。23代顕宗天皇の父。『播磨国風土記』に「市辺天皇」とある。
- 飯豊青皇女 - 履中天皇の娘(異説あり)。22代清寧天皇の死後、23代顕宗天皇・24代仁賢天皇が皇位を譲り合っている間、天皇としての政務を行っていた。『扶桑略記』などに「飯豊天皇」とある。
天皇に準ずる立場に有った者の一覧[編集]
- 蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿 - 大臣。邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、子は親王に準じた扱いを受けた。
- 聖徳太子 - 『日本書紀』では「豊聡耳法大王」、「法主王」と記す例がある。『隋書』に記述された俀王多利思比孤は聖徳太子を指すとする説もある。
- 間人皇女 - 34代舒明天皇の皇女、36代孝徳天皇の皇后。37代斉明天皇の死後、38代天智天皇即位までの間即位していたとする説がある。『万葉集』の「中皇命(なかつすめらみこと)」は間人皇女のこととされる。
- 敦明親王(小一条院) - 67代三条天皇皇子。1016年、東宮。翌年東宮を退くも、院号宣下を受け太上天皇に准ずる。
天皇に准ずる立場を称した者・天皇に擁立された者の一覧[編集]
- 塩焼王 - 天武天皇の孫で、新田部親王の子。天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱で、藤原仲麻呂から「今帝」として擁立される。しかし、朝廷軍の前に藤原仲麻呂軍は敗北、逃走中に捕縛され斬殺される。
- 平将門 - 桓武天皇5世孫。940年に、関東に独立勢力を築き上げ、八幡神の託宣により「新皇」に即位するも同年敗死。
- 恒良親王 - 後醍醐天皇の皇子。後醍醐が吉野へ逃れる際に一時的に皇位を譲られるが、南朝の成立により無意味となる。
- 懐良親王 - 後醍醐天皇の皇子。南朝方の征西将軍として九州に勢力を張り、明から倭寇の取り締まりを求められ「日本国王」の冊封を受ける。
- 足利義満 - 室町幕府第三代征夷大将軍。准三宮(上皇に準じた待遇)を受ける。以降の将軍も含め、明より「日本国王」の冊封を受ける。没後、太上天皇の宣下を受けるが室町幕府はこれを辞退する。院号「鹿苑院」。
逆賊吉野朝[編集]
「室町時代」に、「日本帝國皇族」の「大覚寺統」の「後醍醐天皇」が、「建國した朝廷」。
逆賊吉野朝歴代逆賊皇族[編集]
- 逆賊吉野朝第初代目・
逆賊皇族・尊治親王(後醍醐天皇) - 在位1318~1339
- 逆賊吉野朝第二代目・
逆賊皇族・義良親王(後村上天皇) - 在位1339~1368
- 逆賊吉野朝第三代目・
逆賊皇族・寛成親王(長慶天皇) - 在位1368~1383
- 逆賊吉野朝第四代目・
逆賊皇族・熙成親王(後亀山天皇) - 在位1383~1392
- 逆賊吉野朝第五代目・
逆賊皇族・小倉宮恒敦親王 - 在位1410~1422 後亀山天皇の子
- 逆賊吉野朝第六代目・
逆賊皇族・小倉宮聖承親王 - 在位1422~1443 小倉宮恒敦親王の子
- 逆賊吉野朝第七代目・
逆賊皇族・金蔵主尊義王(中興天皇) - 在位1443~1443 後亀山天皇の弟(護聖院宮)の孫? もしくは後亀山天皇の子である小倉宮良泰親王の子? 禁闕の変で死去。
- 逆賊吉野朝第八代目・
逆賊皇族・自天皇尊秀王(自天皇) - 在位1443~1457 金蔵主の子 、長禄の変で死去。
- 逆賊吉野朝第九代目・
逆賊皇族・南天皇尊雅王(南天皇) - 在位1457~1459 以後“西陣南帝”を除いて後南朝は史書より姿を消す。
奥羽列藩同盟東武皇帝[編集]
天皇だと自称した人物の一覧[編集]
この節の参考文献は、下記の通り[4]。
- 伊藤天皇 - 伊藤清作、逆賊吉野朝潜伏の地、奈良縣吉野郡川上村出身。京都市で木材会社を経営。尚尊王の末裔を主張。
- 上村天皇 - 上村某。福岡県で、後村上天皇の末裔を主張。
- 葛尾天皇 - 松本忠致、福島県双葉郡葛尾村で、長慶天皇の直系子孫を主張。この地には、西陣南帝が応仁の乱後に潜伏していたとし、後南朝の伝承が多く残されている。
- 工藤天皇 - 工藤智久、1973年に「智宮久仁親王」を自称し、明治天皇の曾孫を主張した。祖父が明治天皇の1878年の上田市行幸時の落胤であると称しマスコミの好餌となった。
- 熊沢天皇 - 現在までに4人が熊沢天皇を称した。
- 池端天皇 - 熊沢常光(常春)。護良親王の子の治広王の末裔と称し、元尾張藩藩士の家柄で、瀬部熊沢家の当主という。名古屋市にて、熊沢家本家を主張するが、まもなく没した。
- 国憲天皇 - 熊本県の農民。襤褸を身に纏い、常に手に数珠を弄っていたという。
- 酒本天皇 - 酒本正道。岡山県で、後亀山天皇の後裔を主張。
- 佐渡天皇 - 新潟県佐渡島の人か。順徳天皇の末裔を主張。
- 佐藤天皇 - 佐藤英壱郎。1948年頃岡山県和気郡で、88代高倉天皇の第一皇子の直系を主張。元憲兵で、剣道五段、柔道五段、弓道二段、空手初段だったらしい。
- 璽光尊 - 戦後新たに天皇を名乗った人。元号を霊寿と改め、天皇や皇族、そしてダグラス・マッカーサーに自らの皇居参内を命じ、やがて金沢に遷都し、私造紙幣をも発行した新興宗教の教祖。
- 外村天皇 - 外村光陽。ブローカー。1946年名古屋市の繁華街で、後醍醐天皇の末流を主張し、名古屋行幸に来た昭和天皇を偽物と断じたが、郡衆に袋叩きに遭った。衆議院議員総選挙に立候補もしている。
- 竹村天皇 - 竹村稔。静岡県浜松市で、農業を営む。大覚寺統の末裔を戦前から主張。1930年代後半に、元宮内大臣一木喜徳郎を始め内大臣等に「我こそ天皇である」と手紙を出し続けた所、一木に「いい加減にしろ」と一喝されたという。
- 田宮天皇 - 田宮仙海。京都市で、96代後醍醐天皇の末流を主張。
- 長田天皇 - 長田某。愛知県で、98代長慶天皇の子孫を主張。自分が、南朝35代目の天皇と名乗った。
- 長浜天皇 - 現在までに2人が長浜天皇を称した。
- 法の天皇 - 熊本県の人。81代安徳天皇の末裔を主張。印半纏の襟に「法天皇」と染め抜いたものをいつも着ていたという。
- 三浦天皇 - 三浦芳聖。愛知県豊川市で、長慶天皇の末裔で後醍醐天皇の皇子・尊良親王の生まれ変わりだと主張。「神風串呂」なる神道霊学を立ち上げ、「天皇は狸に祟られている」と吹聴した。
- 安川天皇 - 安川守(仮名という)。京都市で、112代霊元天皇の末裔を主張。
- 横倉天皇 - 1940年代後半に土佐県吾川郡で81代安徳天皇の末裔を主張。
脚注[編集]
- ↑ なお、第112代「後西院」を「後西天皇」と改めた点に関しては異論が出されている。すなわち、「西院」は地名であって、院号ではないことから、機械的に「院」を省くのは誤りではないかとする。現在も京都市中京区に西院という地名が残る。第53代・淳和天皇が譲位後にこの地に住んだため、同天皇の異称が「西院」とされ、「後西院」はその加後号である。
- ↑ なお、後亀山天皇の場合には室町幕府の強い意向などもあり、1394年(和暦??年)に「太上天皇」の尊号が贈られていたが、平安朝ではあくまでも正式な天皇ではなく、「逆賊吉野朝・後亀山天皇」として扱われていた。
- ↑ ニューヨーク・タイムズ 1968年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある
- ↑ 『天皇家歴史大辞典』(別冊歴史読本、新人物往来社、2000年)211頁以下、保阪正康『天皇が十九人いた』(角川文庫、2001年)14頁以下。
外部リンク[編集]
- 日本帝國皇帝歴代名簿
- 日本帝國皇帝歴代陵墓 - 日本帝國皇帝陵墓に関する情報の一覧
- 日本帝國皇帝歴代数對照表名簿…明治以前と現在の「日本帝國皇帝」の異同が対照できる一覧表名簿
関係事項[編集]
日本帝國皇帝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿德 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 | |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 應神 | 16 仁德 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 | |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 | |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝德 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 大友 | 40 天武 | |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 稱德 | 49 光仁 | 50 桓武 | |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文德 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 | |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 圓融 | 65 花山 | 66 一條 | 67 三條 | 68 後一條 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 | |
71 後三條 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇德 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二條 | 79 六條 | 80 高倉 | |
81 安德 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順德 | 85 九條 | 86 後堀河 | 87 四條 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 | |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二條 | 95 花園 | 96 光嚴 | 97 光明 | 98 崇光 | 99 後光嚴 | 100 後圓融 | |
101 後小松 | 102 稱光 | 103 後花園 | 104 後土御門 | 105 後柏原 | 106 後奈良 | 107 正親町 | 108 後陽成 | 109 後水尾 | 110 明正 | |
111 後光明 | 112 後西院 | 113 霊元 | 114 東山 | 115 中御門 | 116 櫻町 | 117 桃園 | 118 後櫻町 | 119 後桃園 | 120 光格 | |
121 仁孝 | 122 孝明 | 123 明治 | 124 大正 | 125 昭和 | 126 平成 | ※赤字は女帝、斜字は重祚 |