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[[1964年]](昭和39年)には敷地内に東京タワー放送センター(現・[[東京タワースタジオ]])を建設、同年開局した[[日本科学技術振興財団]]テレビ事業本部(東京12チャンネル)に賃貸した。この建物は、事業を承継した[[テレビ東京]]が[[1985年]](昭和60年)まで本社として使用していた。[[テレビ東京天王洲スタジオ]]完成後の[[2000年]]([[平成]]12年)より日本電波塔による自主運営を開始。[[2005年]](平成17年)7月には子会社「東京タワー芝公園スタジオ」(現・東京タワースタジオ)を設立、業務を移管した。 | [[1964年]](昭和39年)には敷地内に東京タワー放送センター(現・[[東京タワースタジオ]])を建設、同年開局した[[日本科学技術振興財団]]テレビ事業本部(東京12チャンネル)に賃貸した。この建物は、事業を承継した[[テレビ東京]]が[[1985年]](昭和60年)まで本社として使用していた。[[テレビ東京天王洲スタジオ]]完成後の[[2000年]]([[平成]]12年)より日本電波塔による自主運営を開始。[[2005年]](平成17年)7月には子会社「東京タワー芝公園スタジオ」(現・東京タワースタジオ)を設立、業務を移管した。 |
2015年10月10日 (土) 19:46時点における版
東京タワー(とうきょうタワー、Tokyo Tower)は東京都港区芝公園4丁目にある集約電波塔である。1958年(昭和33年)10月14日竣工、同年12月23日に完工式が開かれた。東京のシンボル・観光名所として知られる。正式名称は日本電波塔(にっぽんでんぱとう)。
目次
概要
高さは333mと広報されており(より正確には332.6m、海抜351m)、塔脚の間隔は88.0m[1]。総工費約30億円、1年半(1,974,015時間/543日間)と延べ219,335人の人員を要して完成した。地上125m(海抜約150m)と223.55m(海抜約250m)に展望台を有したトラス構造の電波塔である[2]。
昼間障害標識として、頂点より黄赤色(インターナショナルオレンジ)と白色を交互に配した塗装となっている。地上アナログ・デジタルテレビジョン放送(VHF・UHF)およびFM放送のアンテナとして放送電波を送出、また東日本旅客鉄道(JR東日本)の防護無線用アンテナとして緊急信号を発信する他、東京都環境局の各種測定器なども設置されている。
長らく高さが日本一であったというイメージが強いが、実際に日本一高かったのは1968年(昭和43年)6月26日に小笠原諸島が日本に返還され南鳥島ロランタワーと硫黄島ロランタワーに抜かれるまでの約9年半と、対馬(長崎県)のオメガタワーが解体されてから東京スカイツリーに抜かれるまでの約11年間である。ただし、自立式鉄塔としては東京スカイツリーに抜かれるまでの約51年半は高さが日本一であった。現在は日本で2番目に高い建造物である。
運営会社
タワーの建て主であり管理、運営をしているのは民間会社である日本電波塔株式会社である。
1957年(昭和32年)5月、「大阪の新聞王」と呼ばれ当時は産業経済新聞社、関西テレビ放送、大阪放送(ラジオ大阪)各社の社長を務めていた前田久吉により設立。久吉はタワーの完成とほぼ同時の1958年(昭和33年)、産経新聞社を国策パルプ工業(現・日本製紙)社長水野成夫に譲渡してその経営から手を引いたが、東京タワーとラジオ大阪の経営には引き続き携わった。この結果、日本電波塔は当時の産経新聞グループはもちろん、その後のフジサンケイグループからも完全に切り離されて前田家主導の同族企業となった。なおラジオ大阪も2005年(平成17年)にフジサンケイグループ入りするまで、前田家主導で独自の経営をしていた。
1964年(昭和39年)には敷地内に東京タワー放送センター(現・東京タワースタジオ)を建設、同年開局した日本科学技術振興財団テレビ事業本部(東京12チャンネル)に賃貸した。この建物は、事業を承継したテレビ東京が1985年(昭和60年)まで本社として使用していた。テレビ東京天王洲スタジオ完成後の2000年(平成12年)より日本電波塔による自主運営を開始。2005年(平成17年)7月には子会社「東京タワー芝公園スタジオ」(現・東京タワースタジオ)を設立、業務を移管した。
2005年(平成17年)には、会長兼社長で久吉の子息である前田富夫が死去。富夫の弟でマザー牧場社長だった前田伸が社長に就任した。
日本電波塔は、エフエム東京(TOKYO FM)の大株主(東海大学に次ぐ第2位。伸は2007年(平成19年)より社外取締役)でもある。Kiss-FM KOBE破綻による新会社・兵庫エフエム放送にTOKYO FMとともに19.2%を出資。また富夫の長男である前田一が社長を務めていたエフエム大阪の株式20%も2010年(平成22年)10月1日現在、日本電波塔名義となっている。
歴史
この項目は予定される事象を扱っています。予想の記載や性急な編集をせず事実を確認し正確な記述を心がけて下さい。この内容は不特定多数のボランティアにより自由に編集されていることを踏まえ、自身の安全利害に関わる情報は自己責任でご判断ください。 |
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 1月10日 - NHK教育テレビジョンがVHF1chで放送開始(同年4月にNHK総合テレビジョンと入れ替わる)。
- 2月1日 - 日本教育テレビ(NET、現在のテレビ朝日)がVHF10chで本放送開始。
- 3月1日 - フジテレビジョンがVHF8chで本放送開始。
- 9月20日 - 南極観測隊カラフト犬(タロとジロ)の記念像の除幕式を挙行[3]。
- 1960年(昭和35年)
- 1962年(昭和37年)
- 3月29日 - 昭和天皇・皇后夫妻が東京タワーを見学される。天皇が訪れたのは、1958年の竣工以来はじめて。
- 1963年(昭和38年) - 返還前の東京都小笠原村南鳥島に、高さ411.48mの南鳥島旧ロランタワーが竣工する。
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)12月24日 - イルミネーションが連夜の点灯となる。
- 1966年(昭和41年)1月2日 - 来塔者数が3000万人となる。
- 1967年(昭和42年)7月28日 - 特別展望台オープン。
- 1968年(昭和43年)6月26日 - 小笠原諸島が返還され南鳥島と硫黄島のロランタワー(411.48m)が日本一高い建造物となり、東京タワーは日本で3番目に高い建造物となる。
- 1970年(昭和45年)
- 1971年(昭和46年)8月18日 - 来塔者数が5000万人となる。該当者は都内の23歳の男子学生で自分が5000万人目になれないかと思って来塔し、記念品として冷蔵庫・カラーテレビ・ギフト旅行券・オートバイなどの記念品を贈られた。
- 1973年(昭和48年)
- 1975年(昭和50年) - 長崎県上県郡上対馬町大増(現・対馬市上対馬町大増)に高さ454.830mのオメガタワーができ、日本で4番目に高い建造物となる。
- 1977年(昭和52年)
- 1978年(昭和53年)4月28日 - 東京タワー水族館オープン(世界初の観賞魚水族館)。
- 1984年(昭和59年)11月1日 - 放送大学学園(放送大学)が大学開学に向けてテレビ放送をUHF16chで、同時期にFMラジオ放送を77.1MHzで試験放送開始(翌1985年(昭和60年)4月1日に本放送開始)。
- 1986年(昭和61年)
- 航空法改正により黄赤色と白色の塗り分けを11等分から7等分へ変更し、黄赤色の赤みを強くした。
- 南鳥島旧ロランタワーが解体され、日本で3番目に高い建造物に返り咲く。
- 1988年(昭和63年)
- 1989年(昭和64年/平成元年)
- 1991年(平成3年)
- 3月3日 - 「平成3年3月3日」で3が重なることを記念して記念展望券の発売、バッジや絵はがきのプレゼント、エッフェル塔へ招待するクイズなど数々のイベントが行われる。
- 1994年(平成6年)
- 4月 - 「東京タワートリックアートギャラリー」がタワービル4階に登場する。
- 10月 - 硫黄島ロランタワーが運用停止、解体され日本で2番目に高い建造物に返り咲く。
- 1995年(平成7年)
- 1月 - 来塔者数が1億2000万人となり、日本の総人口に相当する人数が来塔したことを記念してキャンペーンを行う。
- 11月1日 - 東京メトロポリタンテレビジョン(東京MXテレビ)が東京都初の都域民間放送テレビ局としてUHF14chで本放送開始。
- 1996年(平成8年)
- 12月 - 大展望台外壁を黄赤色から白色へ変更。
- 4月1日 - エフエムインターウェーブ(InterFM)が76.1MHzで本放送開始。
- 1998年(平成10年)
- オメガ塔(対馬オメガ局)が解体され、日本一高い建造物に返り咲く。
- 12月23日 - ノッポン誕生。
- 2002年(平成14年)
- 3月19日 - 特別展望台・大展望台をリニューアルオープン。営業時間を年間を通して22時までに延長。
- 2003年(平成15年)
- 10月10日 - デジタルラジオ推進協会が地上デジタル音声放送の実用化試験放送をVHF7chの帯域で放送開始。
- 12月1日 - 放送大学以外のテレビ局が地上デジタルテレビ放送をUHF帯域で開始。
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)
- 2月1日 - 一部を除くアナログ送信アンテナの撤去を開始。また、前の地震で曲がった先端部の交換ならびに耐震補強も同時に行う。工事終了は2014年(平成26年)12月を予定している[10]。特別展望台行きエレベーターの改修工事に伴い、同月29日まで特別展望台の営業を休止[11]。
- 4月頃 - 震災にて曲がったスーパーターンスタイルアンテナ支柱の切断作業開始予定[12]。
- 4月22日 - この日を以ってJ-WAVEとNHK東京FMのFMラジオ放送の送信を終了。翌日にそれぞれ送信所が東京スカイツリーに移転。移転後もNHK東京FMは予備送信所として存続。
- 10月1日 - TOKYO MXの地上デジタルテレビ放送の物理チャンネル切り替えのため、東京スカイツリーとのサイマル放送を開始予定[13]。
- 2013年(平成25年)
構想
東京タワーの建設前、放送事業者は個々に高さ153 - 177mの電波塔を建設して自局の塔から放送を行っていた。しかしこの高さだと放送電波は半径70km程度しか届かず、100km[14]離れた銚子や水戸では満足に電波を受信することができなかった。また受信アンテナには指向性があるため、チャンネルを変える毎にアンテナの向きを各電波塔の方向に変えなければいけないという不便が生じた。
さらに鉄塔の乱立は都市景観においても好ましい状況ではなく、当時郵政省の電波管理局長であった浜田成徳を初めとする関係者の中で電波塔を一本化する総合電波塔を求める機運が高まっているところ放送事業の将来性に着目した前田久吉と鹿内信隆[15]の各々によって計画され、まもなく両者の計画は一元化された。
他の計画案もあったが高さ300mを超える案は東京タワーのみで、次に高いものは200m級であり放送事業者の既存の限られた土地を利用するため展望台のないスリムなものであった。浜田はエッフェル塔を超える世界最大の塔を造り、そこに展望台を設けて集客すれば建設費は10年で元が取れると考えていた。
建設場所
建設地は安定した電波を供給するために巨大な電波塔の建設が可能な広さと強固な地盤を有していること、魅力ある展望台のために工場などの煙が景観を妨げないことなど厳しい条件が求められた。
当初は上野公園付近への建設も検討されたが海抜18mの高台にある港区芝公園地区は基礎を打ち込むための東京礫層地盤もより浅いところにあり、国の中枢機関や各放送事業者との距離が近いなど報道と観光の両面に恵まれた立地であった。
増上寺の境内は25区画に分割された公園に指定されており日本電波塔株式会社は「紅葉山」と呼ばれる、以前紅葉館という高級料亭のあった区画を購入した。土地の買収は増上寺の檀家総代に前田が日本工業新聞の社長時代から親交があった池貝庄太郎がおり、増上寺との間を取り持って用地買収を成功させるよう働きかけた。また芝公園4丁目地区の周辺一帯は建物倒壊危険度、火災危険度、避難危険度を示す地域の危険度特性評価(東京都 2002年(平成14年)実施)において「相対的に危険度の低い町」を示すAAAの評価を得ており、防災面でも電波塔の立地に適していることが後に判明した。
タワーより西側の住民は飛行機の衝突、交通渋滞、ゴミの増加、環境が悪くなり子どもに悪影響があるのではないかとタワー建築に反対の姿勢であった。東側は、当時の国鉄浜松町駅からタワーへ向かう客により潤される事を期待した。
設計
この塔の建設に先立ち「日本電波塔株式会社」が設立され、建築設計の構造学を専門とする学者の内藤多仲と日建設計株式会社が共同で塔の設計を行った。内藤は当時話題を提供していたドイツのシュツットガルトテレビ塔(216.6m)を参考に鉄筋コンクリートの塔を想定した検討を行うが、特に基礎に関して敷地の関係などかなりの困難が伴うとの判断から鉄塔で計算を進める方針となった[16]。
前田久吉は「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。千三百余年も前に既に高さ五十七メートル余もある立派な塔(五重塔)が日本人の手でできたのである。ましてや科学技術が進展した今なら必ずできる」と高さの意義を強く主張し、設計の条件としてアンテナを含めた塔の高さが380メートル。高所に展望台を設置する。塔の下に5階建ての科学館をつくる事を挙げた。本来東京全域に電波を送るには380mの高さが必要とされていたが風の影響でアンテナが揺れ画像が乱れる可能性があったため、影響を受けず且つ関東地方全部を守備範囲に出来るぎりぎりの寸法として全高333mと偶然「3」が続く語呂合わせのような高さになった。この高さはフランス・パリのエッフェル塔の312m(2000年(平成12年)現在は324m[17])より21m高く、当時の自立式鉄塔としては世界最高だった。
当初は最上部で風速90m、下部で風速60mの強風と大地震(同タワーの耐震設計で考慮された水平震度は0.99Gで関東大震災時に小田原付近で推定された加速度の約2倍に相当)に遭遇しても安全な様に、軽量化に有利な電気溶接ではなく、重量がかさむが当時では確実な技術としてリベットによる接合での構造設計がなされた。風力係数は当時の建設省建築研究所の亀井勇教授に依頼し、風洞実験を行った。地震力はまだ静的解析の時代であり、鉄塔では風圧力の方が支配的であったこともあり建築基準法の地震力算定法通りk=0.16+h/400を水平震度として適用した。解析、計算は全て手計算でトラスの解法として一般的であったクレモナ図解法とカスティリアーノの定理が使用された。
構造計算書の最終チェックは自身の設計事務所の田中彌壽雄、日建設計の鏡才吉とともに熱海にある早稲田大学の保養所「双柿舎」に3日間缶詰状態で行われた。設計を終えた内藤は「どうかね、こんなに素晴らしい眺めはない」と言った[18]。後に立体骨組モデル応力解析ソフトウェア“FRAN”で耐力を検証しているが、かなりの精度で一致していた[19]。また加藤勉(東京大学名誉教授・(財)溶接研究所理事長)による「東京タワーの構造安全性について」(2007年(平成19年))によって、東京タワーの構造の信頼性は高いという第三者評価を受けている[20]。当時の建築基準法では建築物の高さは最大100尺(約31m)以下と決められていたが、タワーは工作物と見なされ建築が可能となった。当初、地上約66m付近にビアレストランを設置する計画だったが結局、実現される事はなかった。これは、レストランにすると建築基準法に引っかかったためと考えられている。
建設後、電波塔集約で不満をもつ読売グループ(読売新聞、日本テレビなど)などから「エッフェル塔の猿まね」とあらぬ批判をされたが、内藤は「ある人はエッフェル塔そっくりだという。これは人が人に似ているというようなもので、一理ある見方ともいえよう。私としては端然とした姿である。この塔が好ましいと思っている」と答えている。構造美については「タワーの美しさについて別に作為はしませんでした。無駄のない安定したものを追求していった結果できたものです。いわば数字のつくった美しさとでも言えましょう」と答え、批判に対して反論するような不毛な議論は一切しなかった。
建設
1957年(昭和32年)5月から6月末までの約45日間でボーリング調査を行った時点で設計は未完成であったが、短期間に完成させなければならないため6月29日に増上寺の墓地を一部取り壊して既に設計の決まっていた基礎部の工事が開始された。7月15日に最終的な設計図が完成し、9月21日には鉄骨の組み立てが始まった。
施工は竹中工務店。塔体加工は新三菱重工(現・三菱重工業)、松尾橋梁。鉄塔建築は宮地建設工業が請け負った。現場指揮官は直前にNHK松山放送局電波塔を担当していた同社の竹山正明(当時31歳)[21]。現場でのヘルメットの色は白:監督管理関係、黄:竹中工務店の社員、緑:鉄塔建方関係、灰:設備関係で色分けされた。
基礎は海抜0mの砂利層まで掘り下げてコンクリートを打ち込み直径が2m、長さ15mで底の直径が3.5mのコンクリート製の円柱を1脚に8本打った(後のデジタルアンテナ増設時に2本ずつ増設)。塔脚にはカールソン型応力計を埋めておき、脚を支えるための支柱をオイルジャッキで持ち上げて脚の傾きを調節する際など、各塔脚に加わる重量の計測に利用している。タワーは脚を広げた形をしているため重みで脚が外へ広がろうとする力が加わるが、直径5㎝の鋼棒20本を各脚に地中で対角線上に結んで防いでいる[22]。
高さ40mのアーチライン最上部までは長さ63mのガイデリックを使用し、次に80mまで組み立てるためガイデリックを地上53mのマンモス梁までせり上げ鉄骨を組み立てていった。80mからの組み立てはエレクターを用いて、鉄骨はエレベーターシャフト内を持ち上げていった[23]。
塔脚4本が地上40mでアーチ形に組まれたのは1957年(昭和32年)12月だがアーチ中央部が加工の段階で設計より15mm沈んでおり、梁の結合ができずに1週間原因究明に時間を費やした。しかしこの問題は、鉄骨に開けられていたリベットを差し込む穴を15mmずらすことで解決した。
高所までの移動は、80mの足場まで4分で昇る2m四方のゴンドラ3台で対処した。
高さ141.1m(H.14)地点まではリベットで組み立て、それ以上は防さびのため部材に亜鉛メッキを行ったことでボルト接合になっている。ボルトは締めた後に溶接して固めるが夏場の鉄塔は40 - 50度まで上昇し、とび職達を苦しめた。リベットは168,000本、本締めボルトは亜鉛メッキ部材の現地接合に45,000本使用している[24]。
アンテナの設置は当初、名古屋テレビ塔や東京スカイツリーのように塔体内を吊り上げる予定であったがアンテナ工事は台風の多い9月に開始されたため工事が遅れてしまいアンテナを上げる前にエレベータ設置工事を始めないと工期に間に合わなくなってしまった。そのためにアンテナは塔本体の上に30mの仮設鉄塔を組んで仮設鉄塔の一面を開けておき、8つに分かれたアンテナ部材(最大14トン)を下の部材から順に塔の外側から吊り上げていった。塔体内では吊り上げた部材に順次ボルト接合を施して組み立てていき1958年(昭和33年)10月14日15時47分、アンテナが塔頂部に据え付けられた。
現場鳶職人は初期に20人。仕事が増えるにつれ常時60人、タワー上部では6 - 7人で組み立てを行っていた。若頭は当時25歳の桐生五郎[25]。桐生はタワー完成翌日に、建設中に見合いをした女性と結婚式を挙げた[21]。建設には渡り職人も参加している。当時の鳶の平均日給は500円、タワーでは750円だった。高さを増す毎に強風に苦しめられたが、納期があるために風速15m/sまでは作業を実施した。しかし建設中の1958年(昭和33年)6月30日午前10時[21]に、昇っていた鳶職1人が強風に煽られて高さ61mから転落死し、麓にある増上寺で葬儀を行っている。
着工から1年3か月後(543日間)の1958年(昭和33年)12月23日に延人員219,335人にて完成し、鉄塔本体の最上部に建設に携わった96人の技術屋たちの名前が刻まれた金属製の銘板[26]が据えられた[27]。総工費は当時の金額で30億円であった。
合計約4,000トン[24]の鋼材(鉄塔本体:SS41(旧JIS。現JISではSS400。降伏強度は240N(ニュートン)/mm2[28])、アンテナ支持台:SHT52相当品[24] 降伏強度 325N/mm2[29])が使用されたが、その中でも特別展望台から上の部分に使用されている鉄材の原料には朝鮮戦争後にスクラップされたアメリカ軍の戦車が使われている。これは当時の日本では良質の鋼材に恵まれず、またアメリカにとっても旧式戦車を売却して新型戦車を製造した方がメリットが高かったためである[30]。
地上0メートル地点
タワーの高さは標高18.000mを地盤面(G.L・Ground Line)としているため、東京湾中等潮位(T.P・TOKYO Peil)からの値を使用している[2]。タワーは丘陵地に建っており、正面は1階が出入り口で駐車場出入り口は2階に位置している。そのため地上333mと言われてもどの部分を基準としているのかがわかりにくく、タワーを訪れても基準となる目印は特に見あたらない。一方、タワーの立面図[31]を見ると地盤面はフットタウン1階の床と同一に見える。
名称
「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた審査会で決定した。事前に名称を公募し、最終的には86,269通の応募が寄せられた。一番多かった名称は「昭和塔」で、続いて「日本塔」「平和塔」だった。他には当時アメリカとソ連が人工衛星の打ち上げ競争をしていたことから「宇宙塔」、皇太子明仁親王(今上天皇)の成婚(1959年(昭和34年))が近いということで「プリンス塔」という応募名称もあった。しかし名称の査会に参加した徳川夢声が「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果10月9日に「東京タワー」に決定した。「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26%)であり、抽選で神奈川県の小学校5年生の女生徒に賞金10万円が贈られた。
電波塔集約
東京タワーの完成に先行して開局していたNHK総合テレビジョン・日本テレビ放送網(NTV、以下「日本テレビ」と表記)・ラジオ東京(KRT、1960年(昭和35年)、東京放送(TBS)に改称。現在のTBSテレビ)は、それぞれ自局の敷地に電波鉄塔を建設してテレビ放送を行っていた。
- NHK東京総合テレビジョン:千代田区紀尾井町(高さ177メートル。NHK千代田放送所。1982年(昭和57年)廃止・1991年(平成3年)撤去。跡地はNHK千代田放送会館)
- 日本テレビ:千代田区二番町(高さ153メートル。麹町送信所。1980年(昭和55年)撤去。跡地は麹町分室南本館)
- ラジオ東京:港区赤坂(高さ174メートル。赤坂テレビ鉄塔。1995年(平成7年)撤去。跡地は赤坂サカスのサカス広場)
そのため、当初は1959年(昭和34年)に新たに開局したNHK教育テレビジョン(1月開局。当時1ch)・日本教育テレビ(NET、現在のテレビ朝日。2月開局)・フジテレビジョン(CX、3月開局。以下「フジテレビ」と表記)が利用していた(NHKは同年4月に総合と教育を交換)。翌1960年(昭和35年)に赤坂のラジオ東京(1月)と紀尾井町からの送信に変わっていたNHK教育テレビ(5月)も合流した。
当初はNHKと民放6局のアンテナを東京タワーに一本化するはずだったが、調整の段階で日本テレビが「採算が合わない」「アンテナの配分が不満だ」という理由で不参加になった。しかし、実際は(テレビ業界の覇権を競う産経新聞創設者の)前田久吉と(読売新聞中興の祖であり、日本テレビ創設者でもある)正力松太郎の対立といわれる。東京タワーの完成後も日本テレビは麹町の自社敷地内のアンテナから電波を発信し続けていたが、他局に比べて放送エリアが劣るのは否めなかった。そこで同局は自社の所有地である新宿(現在の東京地下鉄副都心線・都営地下鉄大江戸線東新宿駅付近。新宿六丁目の日本テレビゴルフガーデン跡地)に東京タワーの2倍もの高さを持つ電波塔「正力タワー」の建設を計画して1968年(昭和43年)5月10日に発表。ボーリング調査や東京都に建築申請書を提出している。さらにNHKも「NHKが民放に恒久施設を借りた例がない。そんなことをしては聴視者に責任がもてない」と1969年(昭和44年)7月2日、渋谷のNHK放送センター敷地内に高さ600mの電波塔を建てる計画を発表する。これを受けて放送事業の監督官庁であった当時の郵政省は、利害関係者である日本電波塔(東京タワー)を交えて話し合うことを指示するが、日本テレビは「あくまでも実行する」と発表[32]。しかし正力没後の翌1970年(昭和45年)に、メインアンテナを麹町の本社から東京タワーへ移転することになった[33]。その際、TBSが自社の予備スペースを日本テレビに譲ることでメインアンテナのスペースを確保している[34]。これにより全放送局が東京タワーに集約された。
塗装
建設時の塗装は地上からH.14(地上141.1m)までは鋼材を工場にてサンドブラストしてから下塗りまで塗装し、現地搬入時に2回目の下塗りをした。接合部のリベット頭・部材エッジ部は予め下塗り塗装による増し塗りが行われ中塗り、上塗りにはフタル酸樹脂系塗料を用いて6行程行われた。H.14からH.27(地上252.65m)までは工場にて鋼材を酸洗いしてから溶融亜鉛メッキを施し現地搬入、建方、本締めボルト接合後にジンククロメート系さび止めペイントを塗装した。中塗り、上塗りは鉄鋼材と同様である[24]。また建築当時はインターナショナルオレンジがさび止めの鉛丹と間違えられ、完成した後も最終的にはどのような色になるのかまだペインティングの途中だと思っている人がいた。
東京湾からの潮風による腐食の防止とインターナショナルオレンジの白化現象が目立ち美観を保つ上でほぼ5年に1度の周期で約1年かけて外観塗装を補修しており、1回目(1965年(昭和40年))は磯部塗装が担当し2回目(1970年(昭和45年))以降は平岩塗装が一貫して請け負っている。平岩塗装の平岩高夫会長は前田久吉から会うたびに「鉄はサビさせてはあかんからな。大事に守ってくれ」と言われている[35]。
鉄塔本体の塗装工区は大展望台を境に2つに分け上部は秋に、下部は翌年の春に施工している。作業時間は日の出から営業を開始する9時までに限定されていたが現在は7時を過ぎると通勤者が増えるため、午前2時から7時までの5時間で作業を行う。
最上部のアンテナを除くH.27の塔体の上から順に木製の丸太で足場を組み、まずケレン落としと呼ばれる下作業をして下塗り、中塗り、上塗りと3工程が行われるがこれは全てハケを使い人の手によって塗られる。上部のアンテナは電波を送信するため足場を組むわけにはいかず、放送電波が停止した時間に職人がアンテナをよじ上って作業をした。総塗装面積94,000m2に使うペンキの量は34,000リットルとなり、延べ約4,200人が作業に当たる。使用する塗料は一斗缶に置き換えて縦に積み重ねると、東京タワーの2倍の高さになる[36]。金属ではなく木製の丸太を使用するのは近隣への防音対策と電波への影響を避けるためであり、丸太の総数は1万本以上となる。以前にグラスファイバーのパイプを使用しようとしたことがあったがジョイント部分のクランプの使い勝手が悪く、木製の丸太に落ち着いている。また塗装期間中のライトアップは右写真のようにタワーに影ができる。
塗装工事の最終日には、タワーのマークと職人一人ひとりの名前が刻まれた五百円玉大の記念メダルが職人に手渡された。
全面塗替は第1回が1965年(昭和40年)、第2回が1970年(昭和45年)、第3回が1976年(昭和51年)、第4回が1980年(昭和55年)、第5回が1986年(昭和61年)、第6回が1991年(平成3年)、第7回が1996年(平成8年)、第8回が2001年(平成13年)、第9回が2007年(平成19年)に行われているが、その都度塗り足しをしているため、9回の作業で完成時より約1mm塗装が厚くなっている[37]。
航空法によりストロボのような白色航空障害灯を常時点滅させれば現在のペイントを変更することは可能だが周囲には住宅や高速道路があり、住民への迷惑、運転者への安全を考えるとペインティングの変更は考えにくい。2008年(平成20年)現在は7等分の塗り分けだが、建設当時から1986年(昭和61年)までは11等分に塗り分けていた。また大展望台の外壁は現在は白色だが、1996年(平成8年)まではインターナショナルオレンジだった。
なお塗装作業の一部にビートたけしの父である北野菊次郎が携わっていた。
航空障害灯
1958年(昭和33年)3月、国際航空運送協会の太平洋・アジア地区技術会議にて離陸直後にエンジンが一つ故障した場合、コースがずれて塔にぶつかる恐れがあるため高さを70メートル低くするか航空障害灯などの設備を完全にするようにと要求があった。この時代に航空障害灯を設置する規則はなかった。
航空障害灯は空の明るさが500ルクス以下になると自動で点滅するようになっており、日中でも急に曇ったり濃霧になった場合には点滅する。障害灯は21灯あり上から塔頂部、アンテナゲイン部、塔本体最上部(H.27/252.65m)、H.22/216m、H.17/171.7m、大展望台上部(H.13/130m)、H.7/88mに見ることができる。最上部の500W電球の交換は年に1回。NHKのSTアンテナを点検する際に、古河電気工業の社員が行っている。アンテナは精密機械であり保守点検をとび職に任せられないため、アンテナ部門の社員が登っている。登る時間帯は日中では強力な電波が出ており高周波焼けをしてしまう点と地平線の彼方まで見えてしまい恐怖心から動けなくなってしまう社員がいることから、放送が終了する深夜に登っている。作業は5 - 6人のチームで行う。上がるのに1時間ほどかかり、交換作業は30分。恐怖で降りられなくなった場合はすぐ真下に別の社員がついて、一緒に一段ずつ降りる。
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最上部の航空障害灯と避雷針
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デジタルアンテナ上部
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H.7(地上88m)南側の航空障害灯
避雷針
東京タワーの避雷針は塔頂部に設置されており、1本の長さは160cm。タワーには2002年(平成14年)時点で、年平均13回の落雷がある[38]。以前は避雷針を有している構造物の45度の範囲は落雷被害が低減する保護範囲があると言われていたが2003年(平成15年)に改訂されて、高さ20メートルをこえる建物に旧JIS規格で設置された避雷針では建物側面への落雷を防ぎきれず雷害につながる可能性があるとされた[39]。落雷時に展望台室内にいても気づかないことの方が多く[38]事故も報告されていないため金網で囲まれている外階段や施設屋内は落雷に対して安全性が高いと言えるが、雷は必ず避雷針に落ちる訳ではなくタワーの側面などに落ちることもあり得るため施設屋外にいる場合には速やかに避難する方がよい。
地上デジタル放送
地上デジタル放送開始
地上デジタル放送用の送信アンテナをどこに設置するかについては多摩地区、上野地区、秋葉原地区などから誘致提案が出された。しかしサービスエリアや航空路との関係などの面でいずれも決定的ではなく、2003年(平成15年)12月1日からの関東地区での地上デジタル放送開始に対応する仮の措置として従来アナログテレビ放送を行って来た東京タワーの施設を拡張する形で設置されることになった。このため大展望台の直下、135 - 145mの高さに送信設備室を増築し特別展望台の上の塔体最上部に直径13m、高さ11mの筒型のアンテナを設置した。
地上デジタル放送完全移行
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2012年(平成24年)現在、東京タワーでは地上デジタル放送波の送信を行っているがこれは暫定的な措置であり2011年(平成23年)7月24日の地上デジタル放送全面移行後、今後さらに高層ビルが建設されることも踏まえ東京タワーの高さでは受信電波障害の問題を解決できず(2009年(平成21年)の時点では)首都圏域すべて(アナログテレビの放送区域)をカバーし切れないと言われていた(首都圏において放送受信障害がどの程度出るかについては、電波を管轄する総務省でも正確には把握できていない模様)。
この問題は2000年代初頭から既に想定されていたが2003年(平成15年)12月1日の地上デジタル放送開始には間に合わなかった。しかしその頃から東京タワーに代わる新しい電波塔の建設が検討され始め、同年12月17日に東京タワーの電波障害を解消するためにNHKと民放キー局で構成する「在京6社新タワー推進プロジェクト」が発足。候補地については東京23区および近隣の数都市が名乗りを挙げて協議を重ねた結果、2006年(平成18年)に新塔の建設予定地が墨田区押上にある東武鉄道の貨物操車場跡地に決まりここに新塔「東京スカイツリー」(以前は仮に「第2東京タワー」や「新東京タワー」「すみだタワー」などと呼んでいた)を建設することとなった。2008年(平成20年)7月14日に着工し地上デジタル放送への全面移行後の2012年(平成24年)2月29日に完成、同年5月22日に開業した。高さは634mで電波塔としては世界一を更新し地上350m地点に展望デッキ(第1展望台・フロア340-350)、450m地点に展望回廊(第2展望台・フロア445-450・最高地点451.2m)を設置[41]する。建設費400億円。総事業費は約650億円[42]。本放送は2013年(平成25年)1月を予定している。
一方、東京タワーを管理する日本電波塔は2007年(平成19年)9月21日、放送局各局のデジタルテレビ完全移行後に塔頂部にある現在のアナログテレビ用スーパーターンスタイルアンテナを撤去し、その場所へデジタルテレビ用アンテナを設置することでアンテナ位置を80 - 100m上方に移動する方針を主軸とした東京スカイツリーへの対抗案(東京タワーイノベーション計画)を打ち出し各テレビ局に打診した。80m改修案の場合、タワーの高さは変わらず費用は約40億円で済むと言われ、各局の放送設備もそのまま流用できるなど東京スカイツリーの建設に比べると圧倒的にコストを低く抑えられた。なお材質に軽量の炭素繊維などを用いた場合、大掛かりな補強工事の費用は必要なく改装費用はさらに減額することが可能であった[43][20]。
テレビ局が現・東京タワーから放送施設の殆どを撤去した場合、FMラジオ波など東京スカイツリーに移行しなくても電波を送信できるものについては引き続き東京タワーから送信を続ける方針であり、一部放送施設はこれからも恒久的に存続する。また放送大学はテレビ放送も東京スカイツリーに移設せず、引き続き東京タワーから送信を行う。しかし、NHKと民放キー局送信所がスカイツリーに移転することで放送施設としての主な役目は終わる。京都タワーのように下層部分にホテル施設を新設するなどの案もあがったが観光施設として残す場合には老朽化や耐震問題を考慮し、補強や構成材の交換なども継続していかなければならないため日本電波塔は「放送局の電波料収入が途絶えた場合、観光収入だけでは経営は難しく取り壊しもあり得る」と発言した。
しかし2010年(平成22年)9月27日、日本電波塔はNHKおよび民放テレビキー局5社との間でテレビ送信(NHKはFMも含む)の東京スカイツリーへの移行後、災害時などで東京スカイツリーから電波が送れない場合の予備電波塔として東京タワーを利用する契約を結んだ[44]。
観光施設としての東京タワー
この塔の売り上げは観光による収入が5割を超えている。東京近辺を目的地とする修学旅行などにおける定番の行き先として定着している。開業翌年の1959年(昭和34)年に当時上野動物園が持つ年間入場者記録360万人を大幅に抜き、来塔者513万人(1 - 12月)を記録[20]。一時落ち込みはあったが、現在は年間300万人が来塔している。
タワーは地方や海外からの観光客が多く利用し、地元の東京都民は「東京タワーはおのぼりさんが行くところ」と登ったことがないという人もいる。そのため日本電波塔株式会社では社員の意識改革を行い若手デザイナーを起用し、イルミネーションなどを企画して来塔者数を増やした[45]。
- 2008年(平成20年)12月23日の開業50周年に併せ、以下の事業を行った。
- 2007年(平成19年)12月から2008年(平成20年)8月にかけて、フットタウンと大展望台を結ぶエレベーターを順次改修した。3基それぞれにテーマがあり最初に行った3号機は「光のルービック・キューブ」、2号機は「UNIVERSE」、1号機は「UFO」というテーマとなっており天井には移動時に色が変わる仕組みが施されている。また運行速度を少し速め、所要時間を1分から45秒に短縮した。
- フットタウン1階にあり、来塔者の休憩所や食事スペースとして使用していたタワーホールを「東京タワーホール」に改称すると共に全スペースを多目的ホールに改装した。
- 2008年(平成20年)8月5日よりフットタウン3階の一部を改装して「タワーギャラリー3・3・3」としてオープンし、展示スペース・ショップ・カフェの3施設を併設した。
展望台
- 大展望台(Main Observatory)
- 大展望台は地上120mより上に2階構造で位置しており[46]、フットタウン1階からの昇りエレベーターは大展望台2階に到着して客を降ろす。帰る際は大展望台1階から下りエレベータに乗り込むことになる。53メートルと88メートルに避難歩廊があり、エレベータが停止した場合には低速運転で歩廊まで移動し避難することができる。フットタウンと大展望台を結ぶ階段(590段)は土曜・休日・祝日に一般開放されており段の途中に段数の表記の他、一休みの看板も設置している。途中で階段は無理だと諦めてもエレベータに乗り込むことはできず、階段昇り口付近には「体調の悪い方は階段のご利用をご遠慮ください」と注意書きがある。階段を昇り切ると、シリアルナンバー入りのノッポン公認昇り階段認定証が手渡される。下り階段は平日も解放されている。なお大展望台と特別展望台を結ぶ階段は非常用であり、一般客は利用できない。以前は展望台に有料の望遠鏡が設置されていたが現在は撤去され、双眼鏡の貸し出しを始めた。また以前はガラス窓の下に小さな穴があり、そこから紙飛行機を飛ばす客もいたが現在その穴は存在しない。その他、大展望台は2002年(平成14年)4月のリニューアルまで眺望地点の看板の下部に広告を入れていた。大展望台までの車いす利用は可能であり、AEDは大展望台1階に設置されている。展望台レイアウトの点字表記の他、眺望の点字表記もある。
- ルックダウンウィンドウ(1階)
- 160cm×60cmの強化ガラスでできている真下が見える床。タワー正面側に2箇所ある。以前からある50cm四方のものは、浜松町駅側(東側)と赤羽橋駅側(南側)に存在する。イルミネーションの電球を交換する作業員はここを歩き、高所での作業ができるか確認を行うことがある。
- Club333 特設ステージ(1階)
- カフェ ラ・トゥール(CAFE la TOUR)(1階)
- 展望カフェで、展望台の床より60cm高い床となっている。展望台では火が扱えないため、食品は電気で温めている。コーヒー、ミルク、ビール、ケーキ、ブリオッシュ、タワーの焼き印が入ったどら焼きなどが販売されている。
- グッズショップ(2階)
- レンタルスコープ(2階)
- タワー大神宮(2階)
- 特別展望台(Special Observatory)
- 特別展望台は地上223.55mに位置しており[47]、当初設置されていた作業台がそのまま残されたものである。開業から10年間程、放送設備や機材の倉庫として使われ、オープンは1967年(昭和42年)7月になってからである。特別展望台からは都心を始め都内の街並みを一望でき、天候が良ければ神奈川・埼玉・千葉の各県の街並みや富士山などの山々も見ることができるが、天候その他の理由により営業を中止することがある。入場料は大展望台の入場料に加算して支払う必要がある。入場チケットには番号が振られており、大展望台2階の天井に備え付けられている液晶ディスプレイに「リザーブチケット番号 0333 までの方ご案内中です。これからチケットを購入すると35分」などと表示され入場制限を行っている。エレベーターは三菱製のエレペット人荷用11人乗りの1基のみで、途中「ガタン」というロープの振れ止めの音がする旨がアナウンスされる。音がするのは白く塗装されているH.18付近。特別展望台のトイレは洋式で男性用、女性用が用意されている。公衆電話はあるが売店、自動販売機はない。ゴミ入れはあるが穴が缶くらいの大きさのため、基本的にゴミは持ち帰りである。大展望台2階からは「風と光のプロローグ」というテーマで装飾された階段とエスカレーターを使って特別展望台行きエレベーターホールまで行くため、車いすは利用できない。また、AEDは設置されていない。
営業時間と入場料については東京タワー TOKYO TOWER 料金表-営業時間を参照のこと。ただし大晦日の大展望台の営業時間は2時(券売終了は1時15分)まで延長され、元日は6時より営業となる。特別展望台は大晦日は通常通りの営業で、元日は朝4時頃から入場整理券が配布され、入場制限が行われる。また展望台で結婚式を行いたいという問い合わせがあるが、展望台で結婚式はできない。展望台は全面禁煙である。
フットタウン
タワーの下にある5階建ての観光・娯楽施設で、以前は「タワービル」と呼び科学館でもあった。タワーのおもりとして設計されている。過去にはTEPCOタワーランドやフジテレビタワープラザといった東京電力やフジテレビのショールームも入居していた。
- 屋上
- 大展望台への直通階段やチケット売り場が設けられている。晴天時には大展望台から降りてきたエレベータは屋上で客を降ろす。
- 屋上遊園地
- ガラスの広場 - 屋外イベント広場
- 以前はマンモス望遠鏡が存在した。
- 5階 - テレビ・ラジオの送信所。部外者は立ち入り禁止。
- 4階
- ノッポンスクエア
- ゲームコーナー
- テレビ元気ですか - 実際に放送しているテレビの画質がどう乱れるかを実験する装置が設置されている。
- 3階
- 蝋人形館 - 日本で最初に開設されたアジア最大の常設蝋人形館。後に日本マクドナルドを創業する藤田田が、アメリカで蝋人形館のノウハウを持っていたインターナショナルレジャーコーポレーションと手を組んで実現。蝋人形発祥の地であるイギリス・ロンドンの工房から直輸入された。2001年(平成13年)にリニューアル。キリスト、ザ・ビートルズ、毛利衛、向井千秋などを展示。一部撮影不可。
- SPACE WAX(スペース ワックス)- 立体映像
- ギネスワールドレコードミュージアムTOKYO
- とうけいプラザ、感どうする経済館
- TOWER GALLERY 333
- 展示スペース
- 直営売店(タワーショップ)
- マザー牧場カフェ
- 懐かしの東京タワー
- 以前は実際に塔の上部で使われているアンテナが展示[48]されていたり、トリックアートギャラリー[49]があった。
- 2階
- 駐車場直通の出入り口と、マクドナルド側に西出入口がある。
- 各種土産物屋
- 飲食店
- 似顔絵コーナー - 以前は大展望台にあったが、フットタウンに移動している。
- 1階
- 正面入り口があり、チケット売り場は外にある。
- 2009年(平成21年)までタワー大食堂(タワーレストラン)があった。
ライトアップ
イルミネーションは1958年(昭和33年)12月21日に実験的に灯され、開業から20日間毎晩点灯された。その後は日曜、祝日の前夜に点灯し1964年(昭和39年)の東京オリンピック中は連夜点灯。これが好評であったために1965年(昭和40年)のクリスマスイブから連夜の点灯となった。電球は鉄塔の四隅に5m間隔で250灯配置していたが随時増えてゆき、1976年(昭和51年)には696灯(塔体384灯、アンテナ88灯、特別展望台96灯、大展望台128灯)となった。電球が切れた場合はその都度交換しに行くのは手間がかかるため、ある程度切れたら交換していたが所々光が途切れている部分は目立ち、ある芸能人から「地方から東京に帰ってきてタワーを見ると、電球が切れていて気になる」と指摘を受けている[50]。
- ランドマークライト
- タワーに直接光を当てることで塔体を浮かび上がらせる方式を採用したライトアップで、1989年(昭和64年)元旦より実施している。時間は日没から深夜0時までの間。開業30周年記念により照明デザイナーの石井幹子に依頼し、昼よりも夜の方がキレイだと言われるライティングを目指してデザインされた。また余計な重量をかけず、エッフェル塔の半分の電気容量を目標とした。照明はデジタルアンテナ部分12灯、特別展望台上部16灯、特別展望台から大展望台まで40灯、大展望台下部16灯、大展望台からタワービル屋上まで84灯、塔脚部12灯の計180灯で構成[51]され以前は1日あたりの電気料金は2万4000 - 2万5000円程であった。季節に合わせてライトの色も変化させており春・秋・冬(10月2日の夜 - )は暖光色の高圧ナトリウムランプのライトアップ、夏(2010年(平成22年)は7月17日 - [52])は涼しげな白色のメタルハライドランプの照明になる。また、イベントなどで違う色にライトアップする場合もある。照明の電球交換は当時・幸陽電気が担当していたが1998年(平成10年)に解散。その後カサキ電気工事を立ち上げ、関電工の請負としてメンテナンスをしている。電球交換は8時半から始め16時半に終了し、切れているところはないか確認してから解散となる。取り替えた電球は次のシーズンに使っている。
- ダイヤモンドヴェール
- 2008年(平成20年)12月1日より実施している新たなライトアップで、50周年プロジェクトの一貫。ランドマークライト同様石井幹子によるデザイン。17段ある光の階層それぞれが7色に発色することができるLEDを使用し、各色にはメッセージが込められている。20時 - 22時までの2時間限定のライトアップであり、ライトアップスケジュールはホームページにて確認できる。日没からはランドマークライトが点灯して20時に消灯。ゆっくりダイヤモンドヴェールがライトアップされて22時に消灯。再度ランドマークライトが点灯される。このライトアップをテーマにしたラジオ番組がエフエム東京で制作・放送されている(「東京タワー・プレゼンツ・ダイヤモンドヴェール」)。
電気料金は2008年(平成20年)12月時点では投光器の精度がアップしたことと中間部照明器具に消費電力の少ないLEDを使用していることにより、約1万8520円と約25%の省電力となっている[53]。
過去に「乳がん撲滅キャンペーン(ピンクリボンデー)」で桃色、映画『マトリックス・リローデッド』のプロモーションやアイルランドと日本の外交関係50周年の記念として緑色、地上デジタル放送のプロモーションや世界糖尿病デーで青色のライトアップになったこともある。
2000年(平成12年)から年末年始(クリスマス終了から1月中旬まで)に大展望台の窓ガラスの外側に西暦の数字を装飾している。時間は16:30 - 翌朝8:00まで。ただし、大晦日は西暦表示の切り替え作業のため、0:00から朝8:00までの点灯となる。
2005年(平成17年)12月の地上デジタル放送のプロモーションで「地デジ」の文字や、2016年の東京オリンピック招致でオリンピックの色を使った「Tokyo」「2016」の文字を装飾していた時期があった。クリスマスには大展望台にピンクのハートが点灯される。
2007年(平成19年)の第58回NHK紅白歌合戦では総合優勝を決めるにあたり従来のそれぞれの審査カテゴリー別の得票最多チームをボールで数える「玉入れ方式」を行わず、東京タワーのライトアップに拠って最終成績を決めるという試みを行った。
2008年(平成20年)クリスマスの期間中(2010年(平成22年)は12月1日 - 26日)、毎日19時半に一旦ランドマークライトアップが消灯し大展望台にピンクのハートマークや大展望台から地上へ繋がるフラッシュライトがクリスマスソングに合わせて光のショー「東京タワークリスマス・ライトダウンストーリー」を展開する。
2009年(平成21年)にはワールド・ベースボール・クラシックで侍JAPANが連覇を決めた時、並びにサッカー日本代表がFIFAワールドカップ南アフリカ大会出場を決定した時に祝賀のライトアップを行った。
2011年(平成23年)には石井の提案により東日本大震災によって落ち込んだ日本を応援するべく、大展望台に8,400個のLEDで「GANBARO NIPPON」の文字装飾を4月11日から16日まで行った[54]。電力は太陽光発電でまかなわれ、その後ハートマークの装飾も実施した。また、6月20日には世界難民デーにあわせ国際連合カラーにライトアップされた。
ライトダウン
設備の点検・工事などの夜間作業が行われる場合を除きライトアップの照明は0時に消灯されていたが「東京タワーのライトアップが消える瞬間を一緒に見つめたカップルは永遠の幸せを手に入れる」との噂が広まり、0時前になるとライトダウンの瞬間を見ようとする多くのカップルが集まるようになった[55]。これは漫画『部長島耕作』で恋人の誕生日にケーキに立てるろうそくの数を1本少なく間違えた主人公・島耕作がタワーの灯を巨大なろうそくに見立てて0時の消灯と同時に吹き消して見せるシーンがあり、これが伝説の由来となっている可能性が高い[56]。
ライトダウンは施設管理部電気課の職員がスイッチを操作するがアンテナの設備点検や工事があるために0時以降もライトダウンしないと「なぜ今日は消えないのか」と毎回問い合わせがあるため、現在は0時に消灯して再度0時半頃に点灯することになっている。スイッチは回転式で、大展望台の上と下を別々に操作することができる。ランドマークライトからダイアモンドヴェールに切り替わる際にもライトダウンを見ることができる。
また2011年(平成23年)3月12日以降、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)のため自主的なライトダウン[57]を同年5月10日まで終日行った[58]。5月11日から13日の3日間は白色のダイヤモンドヴェール(追悼の光)を実施し、その後は自然エネルギーを取り入れるなどさらなる省エネに勤めライトアップを再開している。
写真撮影
東京都心部にある観光地であり、地上300mを超える光の塔となるタワーには写真撮影をする人が跡を絶たない。人とタワーを一緒に撮影する場合、敷地内ではタワーが近すぎ、また巨大であるために身をかがめて撮影する人々が見受けられる。子供を撮影するに至っては寝転がって撮影する人もいる。そのために東京タワーには正面入り口左側に記念撮影用の立て看板が設置されている。この写真は順光となる2階出入り口側の2号塔脚付近で撮影されており、団体客の集合写真も2階出入り口付近で撮影される。
正面入り口側からの日中の撮影では、逆光で顔が黒くつぶれるためにフラッシュが必要となる。ただしその場合、タワーは暗く写るので注意が必要だが最近のカメラは自動で逆光補正を行う機種もあるためHDRやオートで撮影するのも手である。
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身をかがめて撮影をする人々
放送施設としての東京タワー
放送区域
発信される電波は関東エリアの半径100km圏を範疇とする。
- テレビ・FMとも基本的には関東平野一帯。それ以外の地域は近隣中継局やケーブルテレビなどで受信する。TOKYO MXは受信できる範囲が限られる。
- そのほかは受信感度が劣るものの、山梨県・長野県・新潟県・宮城県・福島県・静岡県中東部のそれぞれ一部地域でも受信ができる。
- 災害などによって東京スカイツリーから放送電波を送信できない場合に備えて東京タワーを災害時の予備の電波塔をとしてバックアップする契約が2010年(平成22年)9月27日に日本電波塔株式会社とNHKや在京キー局5社との間で結ばれた[59]。なお、NHKは地上デジタルテレビのほかFM放送も含まれている。
施設
建設当初からのアナログテレビ放送送信所(送信機室)はタワービルの5階にある。ただし5階は各放送局の送信設備などが置かれた機械室となっているため関係者以外は立入禁止であり、保安上や安全上(感電事故等防止)の面からも一般人の見学はできない。なお、2008年(平成20年)9月にフジテレビONE(当時・フジテレビ739)で放送された『ばら・す』ではフジテレビのアナログテレビ送信設備の一部が放送されたほか、2011年(平成23年)3月にNHK総合・NHK BS2で放送された『ブラタモリ』(第2シリーズ)ではNHK教育テレビのアナログテレビ送信設備の一部が放送されている。また、2011年(平成23年)7月25日未明にテレビ朝日で放送された『ANN NEWS&SPORTS』や同日朝にNHK総合で放送された『NHKニュースおはよう日本』でも技術職員によるアナログ放送の完全停波作業のニュースが伝えられた際、それぞれのアナログテレビ送信設備の一部が放送されている(NHKは総合テレビの設備)。
地上デジタル放送用送信機
送信機は2層を使って設置されており上階にNHKのテレビジョン放送2波分、放送大学と地上デジタル音声放送の実用化試験放送用、下階に民放テレビジョン放送5局分、それぞれの送信機を設置。なおTOKYO MXは単独設置(アナログ送信機と共用)である。送信機は共通仕様に基づき設計された固体化水冷式で最大出力10kWが得られる。
地上デジタル放送送信設備室はフットタウンと大展望台を結ぶ階段からでないと入ることができない。
地上デジタル放送用アンテナ
特別展望台とアナログ放送用アンテナ部分の中間、高さ260 - 280mのところに直径13m・高さ12mの円筒形のアンテナを設置した。これは「3素子型2L双ループアンテナ5段15面4系統」といわれるもので、ループ型アンテナを構成するエレメントを10段30面に配置している。そして赤に塗装された上5段分から3波、白に塗られた下5段分から4波が送信される。
地上デジタル音声放送用のアンテナは特別展望台の直下、高さ約245mのところにプレートパラボラアンテナが設置されている(2011年(平成23年)3月31日の全局廃局に伴い、同年6月にアンテナ撤去)。これらの設備追加により塔は420tも重量が増加したとの案内が行われていた。2001年(平成13年)、タワーへのアンテナおよび送信機室の設置に伴って構造安全性が再検討され2003年(平成15年)から2005年(平成17年)春にかけて塔の構造材に鋼板による補強[60]と塔脚一本につきコンクリート杭(アースドリル工法・直径3m、深さ約18.5mの基礎杭)が2本ずつ増設[61]された。
2003年(平成15年)の運用開始当初はアナログテレビの混信を避けるため出力の抑制・指向性が掛けられていたが、アナアナ変換による対策がこの地域で完了した2005年(平成17年)までに無指向性・所定の出力となった。
地上アナログ放送用アンテナ
アナログ放送のアンテナは塔頂部からNHK総合と教育(STアンテナ6段にて二重給電)、テレビ朝日、フジテレビ、TBSと日本テレビ(併設)、テレビ東京と放送大学(併設。ただし、放送大学のUHF送信アンテナはスキュー配列[62])(以上広域放送、NHK教育のみ全国放送)の順で塔頂部からH.27(地上27番目の鉄骨の水平材、桁)までのゲイン塔に設置されている。ただし、TOKYO MXは開設が放送大学より後なのと県域放送(東京都のみでの放送)のため一段低い場所にある。保守、管理をしているのは電気興業。設計は同社の鈴田豊次(当時25歳)ら新米ばかりの若いチームだった。アンテナは送信波長の関係から太くできないため、直径17センチメートルのステンレス丸棒を溶接したものを使用している。ここから送信された電波は160km離れた栃木県那須湯本まで届いた[63]。
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スーパーターンスタイル(ST)アンテナ6段(古河電気工業納入)と、下部に2ダイポール(2D)アンテナ
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真下より撮影
右下はデジタル放送用アンテナの一部
FM放送用アンテナ
これらの放送局のアンテナは特別展望台の直下からNHK-FM・TOKYO FM・J-WAVE(1つのアンテナを共用)、放送大学、InterFMの順に設置されている。NHK-FMとJ-WAVEについては東京スカイツリーに送信設備を移転したため、NHK-FMでは引き続き予備送信所として残るが、J-WAVEでは使用されていない。ただし、InterFMでは開局時期が遅いこともあり地上150mの大展望台の直上という低い位置、ラジオNIKKEIの中継アンテナと同じ場所にある。また、以前は大展望台の直下にAMラジオのニッポン放送の中継アンテナがあった。
テレビ中継回線設備
一般視聴者向けの放送アンテナ以外に、テレビ局は素材を遠方の取材先から演奏所に送るためのマイクロ波による中継システムを持つ。この塔には送られて来たマイクロ波を受信するアンテナがFM用送信アンテナ群の直下から大展望台にかけて設置され、遠隔操作で取材地方向に向けることができる。また、タワー自体による死角ができるので対向する2個所1組で運用。これらのアンテナで受信した電波は、映像専用回線を通じて各放送局の演奏所に送られる。
また共同取材で素材を融通し合う場合があるが、ここで各局に分配できるようになっている(いわゆる「タワー分岐」と呼ばれる作業)。ただしハイビジョン映像に関しては株式会社ネクシオンの提供する映像伝送サービスをキー局が共同利用して素材交換を行うため、タワー分岐は利用されない。
なお、光ファイバーによる大容量の伝送回線網が日本全国をカバーしたため放送局相互用マイクロ波回線(NTT中継回線)は廃止された。
送信周波数・出力
デジタルテレビジョン放送
リモコンキーID | 放送局名 | コールサイン | 物理チャンネル | 空中線電力 | ERP | 放送対象地域 | 放送区域 内世帯数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | NHK東京総合 | JOAK-DTV | 27ch | 10kW | 48kW | 南関東 | 約1400万世帯 |
2 | NHK東京Eテレ | JOAB-DTV | 26ch | 全国放送 | |||
4 | NTV日本テレビ | JOAX-DTV | 25ch | 49kW[64] | 関東広域圏 | ||
5 | EXテレビ朝日 | JOEX-DTV | 24ch | 48kW | |||
6 | TBSテレビ | JORX-DTV | 22ch | ||||
7 | TXテレビ東京 | JOTX-DTV | 23ch | ||||
8 | CXフジテレビ | JOCX-DTV | 21ch | ||||
9 | TOKYO MX | JOMX-DTV | 20ch | 3kW | 5kW | 東京都 | 約690万世帯 |
12 | 放送大学 | JOUD-DTV | 28ch | 5kW | 19kW | 関東広域圏 | 1319万6862世帯 |
|
FMラジオ放送送信設備
周波数 (MHz) |
放送局名 | コールサイン | 空中線電力 | ERP | 放送対象地域 | 放送区域 内世帯数 |
運用開始日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
76.1 | InterFM | JODW-FM | 10kW | 11.5kW | 南関東の一部[65] | 不明 | 1996年(平成8年)4月1日 |
77.1 | 放送大学 | JOUD-FM | 38kW | 関東広域圏 | 1984年(昭和59年)11月1日 | ||
80.0 | TOKYO FM | JOAU-FM | 44kW | 東京都 | 1970年(昭和45年)4月26日 | ||
|
廃止された放送局
アナログテレビジョン放送
廃止日:2011年(平成23年)7月25日0時(放送法による一斉免許失効のため)
チャンネル | 放送局名 | コールサイン | 空中線電力 (映像/音声) |
ERP (映像/音声) |
放送対象地域 | 放送区域 内世帯数 |
運用開始日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | NHK東京総合 | JOAK-TV | 50kW/12.5kW | 240kW/60kW | 関東広域圏 | 不明 | 1959年(昭和34年)4月6日 |
3 | NHK東京Eテレ | JOAB-TV | 270kW/69kW | 全国放送 | 1959年(昭和34年)1月10日 | ||
4 | NTV日本テレビ | JOAX-TV | 370kW/94kW | 関東広域圏 | 1970年(昭和45年)11月10日 | ||
6 | TBSテレビ | JOKR-TV→ JORX-TV |
380kW/95kW | 1960年(昭和35年)1月17日 | |||
8 | CXフジテレビ | JOCX-TV | 370kW/92kW | 1959年(昭和34年)3月1日 | |||
10 | EXテレビ朝日 | JOEX-TV | 370kW/91kW | 1959年(昭和34年)2月1日 | |||
12 | TXテレビ東京 | JOTX-TV | 370kW/93kW | 1964年(昭和39年)4月12日 | |||
14 | TOKYO MX | JOMX-TV | 10kW/2.5kW | 17kW/4.2kW | 東京都 | 1995年(平成7年)11月1日 | |
16 | 放送大学 | JOUD-TV | 50kW/12.5kW | 330kW/81kW | 関東広域圏 | 1984年(昭和59年)11月1日 | |
|
地上デジタルラジオ放送実用化試験
運用期間:2003年(平成15年)10月10日〜2011年(平成23年)3月31日
周波数 (MHz) |
免許人 | コールサイン | 空中線電力 | ERP | 放送対象地域 | 放送区域 内世帯数 |
---|---|---|---|---|---|---|
190.214286[66] | 社団法人 デジタルラジオ推進協会 |
JOAZ-FM | 2.4kW | 3kW | 南関東の一部 | 約490万世帯 |
FMラジオ放送送信設備
廃止日:2012年(平成24年)4月23日(東京スカイツリーへの移転のため。正確には22日の放送終了時。ただし、NHK-FMはメンテナンスによる代替送信を含め東京スカイツリーからの送信ができない場合に備えた予備送信所として存続され、下記と同じ送信出力とERPで送信される)
周波数 (MHz) |
放送局名 | コールサイン | 空中線電力 | ERP | 放送対象地域 | 放送区域 内世帯数 |
運用開始日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
81.3 | J-WAVE | JOAV-FM | 10kW | 44kW | 東京都 | 不明 | 1988年(昭和63年)10月1日 |
82.5 | NHK東京FM | JOAK-FM | 1969年(昭和44年)3月1日 | ||||
比較
- 千住火力発電所(お化け煙突) - 1926年(大正15年)・83.82m
- 名古屋テレビ塔 - 1954年(昭和29年)・180m
- 通天閣 - 1956年(昭和31年)・100m
- 別府タワー - 1957年(昭和32年)・100m
- さっぽろテレビ塔 - 1957年(昭和32年)・147.2m
- 東京タワー - 1958年(昭和33年)・332.6m
- 霞が関ビルディング - 1968年(昭和43年)・147m
- 横浜ランドマークタワー - 1993年(平成5年)・296.33m
- 明石海峡大橋 - 1998年(平成10年)・298.3m
- 東京スカイツリー - 2012年(平成24年)・634m
エピソード
- 地上306メートル地点に在る支柱内から野球のボールが発見された。この支柱は54年ぶりに開かれたものであり、54年前に作業員が記念に入れた物とも、近くで遊んでいた子供が誤って入れてしまった物とも考えられている[68]。
- この塔は増上寺の墓地を一部取り壊して建設したため、墓を移させられた霊が腹を立て関係者を祟っているという噂が立った。要出典
ギャラリー
東京タワー周辺
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地デジアンテナ増設前の東京タワー
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六本木ヒルズ森タワーからの眺望
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港区芝公園周辺・空撮
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東京タワーと東京スカイツリー
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大展望台への上り階段(2010年(平成22年)撮影)
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大展望台2階(2010年(平成22年)撮影)
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特別展望台へのエレベーター(2010年(平成22年)撮影)
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特別展望台(2010年(平成22年)撮影)
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特別展望台の室内(2011年(平成23年)撮影)
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特別展望台を掃除する作業員の服装
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東京タワー水族館入口
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東京タワー正面の柵
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1号塔脚
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1号塔脚
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春の東京タワーと増上寺(2011年(平成23年)撮影)
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増上寺境内より
夜景・ライトアップ
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世界貿易センタービル展望室より
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赤羽橋方向からの東京タワー
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冬のライトアップ(2010年(平成22年)10月)
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夕方の東京タワー
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50th Anniversary(2008年(平成20年))
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50th Anniversary(2008年(平成20年))
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雨の日の赤羽橋駅付近より(2010年(平成22年)5月)
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雨の日に真下より(2010年(平成22年)5月)
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乳がん撲滅キャンペーン期間限定(ピンクリボンデー)のライトアップ
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世界糖尿病デーのダイヤモンドヴェール
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クリスマスのライトアップ(2010年(平成22年)12月)
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東北地方太平洋沖地震にて電力不足となったため、節電に協力する東京タワー
昭和の東京タワー
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タワービル入り口(1988年(昭和63年))
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東京タワー大気汚染立体測定室にあった風速表示(1988年(昭和63年))
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塔脚に設置されていた照明(1988年(昭和63年))
「東京タワー」の名称を使用した企業
1963年(昭和38年)4月15日に東京タワーを使用した社名として「東京タワー観光バス」が設立された。同社は1969年(昭和44年)10月2日に国際興業に買収され、1972年(昭和47年)4月1日に合併された。
- 関連会社
- 株式会社東京タワースタジオ
- 株式会社東京タワーパーキングセンター
東京タワーを扱った作品
東京タワーはその時代や東京という地理的背景を説明する為のシンボルとして、建設以来実に様々な小説や映像作品の中に登場している。本項では、数多の作品の中からその一部を紹介する。
テレビドラマ・映画・小説
- Tokyo Tower - 江國香織の小説およびそれを原作にした映画。
- 東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜 - リリー・フランキーの小説およびそれを原作にしたテレビドラマ・映画。
- ALWAYS 三丁目の夕日 - 建設中の姿で劇中に登場。徐々に高くなっていく様子が正確に描かれている。製作は電波塔集約で難色を示した日本テレビ。
- ALWAYS 続・三丁目の夕日 - 前作で完成した状態で登場。また、茶川竜之介の書いた小説では怪獣(ゴジラ)に壊されている。
- ALWAYS 三丁目の夕日'64 - 前々作で完成した状態で登場。3D版ではオープニングで俯瞰映像が飛び出て表現されている。
- 東京トンガリキッズ - 1987年(昭和62年)の中森明夫の小説。
- 東京画 - 1985年(昭和60年)のドイツ映画。
- 微熱少年 - 松本隆の小説、それを原作にした映画。ザ・ビートルズのチケットを得るために東京タワーを登れるところまで登って、鉄骨にリボンを結ぶ競争をする。
- マンモスタワー - 1958年(昭和33年)のKRテレビ(現在のTBSテレビ)放送のテレビドラマ。新興メディア、テレビの象徴として描かれる。そびえ立つ東京タワーの下、映画会社の重役達はテレビの将来性を黙殺する。
- たそがれの東京タワー - 1959年(昭和34年)の大映制作映画。完成したばかりの東京タワー、大展望台などが幾度も登場する。
- 東京タワー・ラヴストーリー - 2004年(平成16年)の落語協会が主催する第1回「新作台本大賞」で大賞に選ばれた落語作品。柳家喬太郎が演じる。
- 特命戦隊ゴーバスターズ THE MOVIE 東京エネタワーを守れ! - 劇中で「東京エネタワー」として登場。撮影に全面協力しており、ノッポンも特別出演している。
お菓子な刑事。(2011年。)模型が登場した。現場にあった
漫画・アニメ・特撮
- こちら葛飾区亀有公園前派出所 - 単行本136巻および「こち亀千両箱」に収録されている「ぼくたちの東京タワーの巻」がある。
- 魔法騎士レイアース - 主役の3人の少女が物語冒頭で出会う場所として設定されている。第二章では再び3人が集まる場所として登場する。また『X』や『カードキャプターさくら』など他のCLAMP作品および原作アニメ作品にも重要な舞台として登場する。
- 仮面ライダーカブト - 東京タワーが都会性の象徴がごとく用いられており、全話に登場する。日本電波塔の事務所内部をロケに使用したエピソードもある。
- クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲 - 作中に登場する「20世紀博」のタワーは東京タワーをモデルとしている。終盤ではタワーの階段を駆け上がるシーンもある。
- 東京マーブルチョコレート - 東京タワー(赤)と東京スカイツリー(青)が登場する。
- 代紋TAKE2 - テロリストによって倒壊させられ、ソ連大使館(当時)にも被害を与える。なおテロリストの一人が後述する「ゴジラの映画で倒されるのを見た」という誤認をしている。
- メーターの東京レース - 公道レースのゴールとして登場。タワー内部は螺旋状の道路になっている。
- カーズ2 - 東京見物の最初のシーンに少し登場。上記のとは違い、アンテナ部分がプラグになっている。
- 嘘喰い - 東京タワーを模したと思われる「帝国タワー」で斑目貘がギャンブルを行う。蝋人形館も登場する。
- 東京マグニチュード8.0 - 東京湾北部を震源とする大地震によって損傷、基礎部分がむき出しになる。翌日に損傷を受けていた基礎のコンクリート柱が破壊され倒壊した。その後、復旧工事の際に残骸の撤去作業が行われている。
- 名探偵コナン 漆黒の追跡者 - 劇中で「東都タワー」として登場。終盤では黒の組織に追われるコナンが階段で大展望台からタワーを登るシーンもある。
- ぼくの地球を守って - 作品中の重要ポイントとして扱われている。
ドラえもん。飛行機戦争の話でジャイアンが休憩しようとしたら落としてしまい降りられなくなってしまった
バラエティー
学校革命。2015年10月4日の建物クイズで加工された写真が登場した。
怪獣もの
怪獣と東京タワーは縁が深い。現実感と怪獣の巨大さ、破壊力を誇示する効果があるからだと思われる。最初に東京を襲った大怪獣はゴジラであり、実際には東京タワーを破壊していない(第1作の公開は1954年(昭和29年)であり、竣工すらしていない)[69]。しかしその後東京タワーを倒す怪獣が数多くなり、特にテレビで怪獣ものが流れるようになってからは頻繁に倒されるようになった。
なお日本の怪獣映画のスターであり、最初の怪獣映画でもある初代ゴジラが東京タワーを倒したとの印象が広く浸透している。たとえば、下記の小松左京の小説にも「型通りに」東京タワーを壊したと書かれてある。同様の例として、清原なつのの少女漫画作品である『ゴジラサンド日和』ではリバイバルのゴジラを見に行ったかつてのカップルを描写したシーンでゴジラが「うりゃっ」というかけ声とともに東京タワーを叩き折っているシーンが出てくる。これらは少なくとも「怪獣は東京タワーを破壊するもの」とのイメージが実在したことを示すものである。
- モスラ - モスラ幼虫が成虫になるため繭を作った。怪獣によって東京タワーが破壊された最初の例。ただ、東京タワーが破壊された直接の原因を「モスラを狙った自衛隊の砲撃」と解釈する向きもある。劇中場面で見る限り確かにタワー自体の倒れる方向が若干不自然だが、種々の書籍資料では「モスラの重量に耐えきれず倒壊」または「モスラが破壊した」ということになっている。
- キングコングの逆襲 - 日米合作による怪獣映画。キングコングとメカニコングが互いに東京タワーに登りながら闘った。この闘いにより展望台の一部と頂上部のアンテナの一部が破壊された。
- 大怪獣ガメラ - 東京を蹂躙するガメラが根元から破壊した。なお、このシーンは続編『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』にも登場する。
- ガメラ 大怪獣空中決戦 - 怪獣ギャオスを狙って発射された自衛隊の81式短距離地対空誘導弾が誤爆して破壊され、そこにギャオスが巣を作る。このシーンを平成の怪獣映画中でもっとも美しいシーンであるとゆうきまさみは取り上げている。なおこのシリーズにおいては東京タワーは再建されず、次作『ガメラ2 レギオン襲来』では折れたままの姿が1シーンのみ描かれる。
- ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS - ゴジラシリーズの中で唯一ゴジラによって東京タワーが破壊された作品。モスラを狙って発射されたゴジラの熱線が回避され、その後ろにあったタワーを直撃した。
- ウルトラQ - 円谷プロダクション。1966年(昭和41年)製作の空想特撮シリーズ第1弾。第19話「2020年の挑戦」において巨大化した誘拐怪人ケムール人に神田博士の発明した「Kミニオード」から発せられる「Xチャンネル光波」を東京タワーより照射して倒した。これは東京タワーによって怪獣が倒された唯一の例といわれる。また、第16話の「ガラモンの逆襲」ではガラモンに倒されている。なお、東京タワーは他のウルトラシリーズ作品でも多く登場している。
- 地球になった男 - 小松左京の短編小説。どんなものにも変身できる能力を持った男が、気晴らしにゴジラに変身して破壊した。
その他にも『三大怪獣 地球最大の決戦』『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』『ゴジラ FINAL WARS』など多くの怪獣映画で東京タワーが登場し、かつ破壊されている。 ゲームではゴジラVS. でモスラ倒した後に下のルート選ぶと東京タワーになる。尚上は国会である
音楽
- 末永華子『LaLa空中散歩』 - 東京タワー公式キャンペーンソング・CMソング(アルバム「東京タワー」収録)
- なぎら健壱『東京タワー』
- 角松敏生『Tokyo Tower』
- 井上昌己『星空からのエレベーター』(アルバム「matiere」収録)
- 松任谷由実『手のひらの東京タワー』(アルバム「昨晩お会いしましょう」収録)
- 小松未歩『東京日和』(アルバム「小松未歩 7 〜prime number〜」収録)
- CHAGE『トウキョータワー』
- 遠藤賢司『哀愁の東京タワー』(アルバム「東京ワッショイ」「宇宙防衛軍」収録)
- ルドイア☆星惑三第『東京タワーとあなたと火星』(火星るる)
- 爆風スランプ『おしゃれな東京タワー』(アルバム「しあわせ」収録)
- 美空ひばり『東京タワー』
- 池田聡『東京タワーを消せるなら』
- アグネス・チャン『東京タワーを鉛筆にして』
- 寒空はだか『東京タワーの歌』
- THE BOOM『東京タワー』
- カズン『午前0時の東京タワー』(アルバム「ふたりのSomeday」収録)
- 渡辺美里『BIG WAVE やってきた』(アルバム「BIG WAVE」収録)、『東京生活』(アルバム「Spirits」収録)
- ロス・インディオス&シルヴィア『別れても好きな人』
- 佐藤聖子『東京タワー』
- 門あさ美『東京タワー・シック』
- 拝郷メイコ『東京タワー』(アルバム「HELLO TREE」収録)
- 木下詩野『タワーの灯りで眠らせて』
- TOWER OF LOVE - 1991年(平成3年)に東京タワー竣工33年目を記念したイメージアルバム。BGV(バックグランドビデオ)。参加アーティストはCindy、松下誠、渡辺直樹、米川英之 他
- Salyu『Tower』
- フラワーカンパニーズ『東京タワー』(アルバム「東京タワー」)収録。
関連商品
東京タワーは開業当初から観光施設としての性質を持ちミニチュア(タワー模型)やプラモデル、ペナント、絵葉書などのおみやげ品が用意されていたが近年上記の『Tokyo Tower』や『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』、『ALWAYS 三丁目の夕日』などで別の意味で注目されるようになり一般の店舗での関連商品が登場した。
- 重厚長大・昭和のビッグプロジェクトシリーズ 偉大なる建設 東京タワーの建設記録(DVD) - 2007年(平成19年)7月25日 ジェネオン エンタテインメントから発売された竹中工務店の記録映像。基礎を作り上げてゆくところから観ることができる。33分。オールカラー。
- 東京タワー2007 - 2007年(平成19年)6月に発売されたセガトイズの東京タワー1/500模型で高さ66.6cm、LEDによりライトアップを再現する機構を持つが航空障害灯やエレベータの明かりは再現されていない。定価1万3330円。同年11月には限定クリスタルバージョンを発売。設計は同社社員の加藤武彦。実物は想像以上にとがった形のため、地上からタワーを見上げる場合の見え方とはズレがあり、すそを広げた形に設計し直している。製品をタワー建設に携わった鳶職人の桐生五郎に見せたところ、目を細めて「姿の美しいものは良いものだ」とため息を漏らした[70]。
- 東京タワー物語 - 2008年(平成20年)4月にタカラトミーから発売された1/2000のクローズドボックスフィギュアで、1958年(昭和33年)建設時など様々な東京タワーの形態を再現。レアアイテムにはLED内蔵の発光機構を備えたものもある。
交通アクセス
鉄道
- 赤羽橋駅(都営地下鉄大江戸線)から徒歩5分
- 御成門駅(都営地下鉄三田線)から徒歩6分
- 神谷町駅(東京地下鉄日比谷線)から徒歩7分
- 大門駅(都営地下鉄浅草線・大江戸線)から徒歩10分
- 浜松町駅(東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線・京浜東北線、東京モノレール羽田空港線)から徒歩15分
路線バス
- 東京タワー(東京タワー敷地内、徒歩0分)
- 東京タワー(道路沿い、徒歩1分)
- 東京タワー入口(桜田通り、徒歩3分)
- 東麻布一丁目(東京タワー下)、東京タワー入口
車
- 東京タワーパーキングセンター(50台、最初の60分580円、以後30分200円)
- ほか近辺駐車場に計100台以上駐車可
歴代イメージガール
- 2003年度(初代)、鮎河ナオミ
- 2004年度、杉浦美帆
- 2005、2006年度、小林さくら
- 2007年度、遥香
- 2008年度、折井あゆみ(元AKB48)
- 2009、2010年度、梅田彩佳(AKB48)
- 2011年度、小林香菜(AKB48)
- 2012年度(初代)、吉松育美
- 2012年度より「東京タワーアンバサダー」と変更。
脚注
- ↑ 塔脚の中心を基準とした場合の長さ。
- ↑ 2.0 2.1 竹中工務店東京支店 池田末造東京タワーの施工について 建築雑誌 74(869) 13-18 1959年(昭和32年)4月20日
- ↑ 財団法人日本動物愛護協会は「二度とこのような事件が起きて欲しくない」という思いから「動物愛護」のシンボルとして、当時開業したばかりで話題の場所だった東京タワーに記念像を造った。
- ↑ タワーでの結婚式はこの一度きりであり、その後、他にも申し入れがあったがタワーでの結婚式サービスは行われていない
- ↑ 弧を描くように「TOKYO TOWER」の文字が配置しており、東京タワーがある小高い丘(芝公園)や地球をイメージしている。中央のTだけオレンジ色で大きく、東京タワーを思わすデザイン。文字の上に並んだ緑色の丸は、地球環境への貢献や自然との共存をイメージしている。デザインは尾村匡昭、竹鶴孝太郎。当日は来塔者のうち先着1000人に、新ロゴをデザインしたクリアフォルダがプレゼントされた。
- ↑ 東京タワー来塔者1億6千万人達成 - 産経ニュース(2009年(平成21年)11月1日閲覧)
- ↑ (2011-03-12) 東京タワー アンテナ傾く 東京新聞 2011-03-12 [ arch. ] 2011-03-12
- ↑ 東京タワーは19日から営業再開 日経ウーマンオンライン 2011年(平成23年)3月18日
- ↑ 2012年(平成24年)2月2日にNHKで放送された『ブラタモリ』第2シリーズ「東京タワー・芝」(本放送:2011年(平成23年)3月10日)の再放送では、本放送翌日に発生した「東日本大震災」で折れ曲がったアンテナの先端部が番組冒頭に流された。
- ↑ (2012-02-02) 東京タワー、アナログ放送アンテナの撤去始まる 日本経済新聞 2012-02-02 [ arch. ] 2012-02-02
- ↑ 東京タワー 特別展望台(250m)営業一時休止のご案内
- ↑ 読売新聞:東京タワー縮みます 2012/1/30
- ↑ 13.0 13.1 TOKYO MX * 「東京スカイツリーから電波発射」
- ↑ 渋谷のNHK放送センターから銚子市役所まで102km 水戸市役所まで104km
- ↑ ニッポン放送の事実上の創業者。後のニッポン放送、フジテレビジョン、産業経済新聞社の社長、フジサンケイグループ初代議長。ただし、この当時は前田が経営していた産経新聞との関わりはなかった。
- ↑ 建築雑誌Vol.105、No.1305 1990年(平成2年)10月号
- ↑ "Données techniques" Tour_Eiffel Wikipedia
- ↑ テレビ東京系列『美の巨人たち』 2010年(平成22年)8月7日放送 「日本の建築スペシャル・東京タワー」
- ↑ 小林紳也・建築雑誌 121(1546)、29、2006-04-20・社団法人日本建築学会
- ↑ 20.0 20.1 20.2 東京タワー未来構想 - 日本電波塔株式会社 東京タワー未来懇談会 平成19年12月PDF
- ↑ 21.0 21.1 21.2 プロジェクトX東京タワー・恋人たちの戦い~世界一のテレビ塔建設、333mの難工事
- ↑ *東京タワーの秘密*東京タワーQ&A*自然災害編
- ↑ 重厚長大・昭和のビッグプロジェクトシリーズ 偉大なる建設 東京タワーの建設記録 ASIN:B000QTCYZO
- ↑ 24.0 24.1 24.2 24.3 大澤悟 日本建築学会退会学術講演 鋼構造物の維持管理・東京タワー 2002年(平成14年)8月
- ↑ 鳶職の頭であった桐生五郎は2012年(平成24年)に死去。
- ↑ TBSの情報番組『そこが知りたい』でTBSの男性アナウンサーが8ミリビデオカメラと共に棟体最上部に向かうが、強烈な電波によってビデオカメラが停止。再度8ミリフィルムカメラを持って上り銘板の撮影を行ったものが放送された。
- ↑ 戦後復興シンボル、天高く YOMIURI ONLINE 2008年(平成20年)1月1日
- ↑ ほぼ日刊イトイ新聞 東京スカイツリーうんちく50 2010-11-30-TUE
- ↑ テレビ塔:コラム(バックナンバー):日本建築構造技術者協会
- ↑ 『東京今昔探偵』(中公新書ラクレ ISBN4-12-150012-1)「東京タワー~米軍戦車をつぶして鉄骨に」の項や『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』でもとり上げられた。
- ↑ 早稲田大学理工学部建築学科・田中弥寿雄 Tanaka Yasuo こぼればなし:東京タワーの基礎(<特集>関東の土質と基礎)[in Japanese] Soil mechanics and foundation engineering 40(3) 86 1992年(平成4年)3月25日
- ↑ 人間環境デザイン研究所 幻のタワー計画
- ↑ 麹町の自社敷地内の送信所そのものは東京タワーに移設したあとも予備送信所として新宿センタービルに移転するまで試験電波発射を中心に運用を続けた。
- ↑ 『TBS 50年史』にも記載されている。
- ↑ 読売新聞 ②「潮風から鉄塔守る」使命感
- ↑ 東京タワー 東京タワーの秘密(東京タワーQ&A)塗装編
- ↑ 日本建築仕上学会2001年大会学術講演会 東京タワーにおける塗装の維持保全 その2 経年変化状況 写真4
- ↑ 38.0 38.1 テレビ東京 ニュースアイ 2002.5.17
- ↑ 雷の知識(雷対策・落雷対策)あおば屋
- ↑ 東京アンテナ工事株式会社
- ↑ 東京スカイツリー®の施設名称・展示演出を決定しました!
- ↑ 日本経済新聞 2012年5月22日
- ↑ 東京タワーが“地デジ続投”をTV各局に求める - AV Watch 2007年9月21日
- ↑ スカイツリー開業後の東京タワー…結んだ契約は
- ↑ SEVENTH SENSE ~日本電波塔株式会社(東京タワー)営業部長 前田久徳×陣内貴美子~
- ↑ 公式HPでは大展望台1階が145m、2階が150mとしているが海抜表記である。
- ↑ 公式HPでは特別展望台は250mとしているが海抜表記である。
- ↑ 東京タワー 日本電波塔
- ↑ 2011年(平成23年)10月8日~2012年(平成24年)5月31日まで「◆不思議アート展 ~トリックアーティストコレクション~◆」として再登場。
- ↑ 東京電波塔研究会・東京タワー99の謎-知らなかった意外な事実!・二見書房(2006年(平成18年)7月) ISBN:978-4576061177
- ↑ 東京タワーの秘密
- ↑ 東京タワーライトアップ
- ↑ 省エネ対策もバッチリ! 東京タワー開業50周年「ダイヤモンドヴェール」開始 日経トレンディネット
- ↑ 47NEWS 東京タワーに「がんばろう」太陽光発電でメッセージ
- ↑ 東京タワー ライトダウン伝説
- ↑ 読売新聞 プロポーズから新生活まで 愛を見守り続け
- ↑ 東京タワーのライトアップ中止…哀悼の意と電力節減 スポーツニッポン 2011年(平成23年)3月12日閲覧。
- ↑ 東京タワー*TOKYO TOWER*ダイヤモンドヴェール 2011/5
- ↑ スカイツリー開業後の東京タワー…結んだ契約は 読売新聞 2010年(平成22年)9月28日 13S版10面
- ↑ 竹中工務店・半世紀にわたる維持保全
- ↑ 竹中eレポート2006
- ↑ 放送大学はUHFのため1波長が鉄塔幅よりも小さくなってしまい、VHF同様に4面にアンテナを設置しても指向性を円形にすることが難しいのと既にテレビ東京のアンテナが設置していたためにスキュー配列となった。
- ↑ 2008年(平成20年)2月2日放送 テレビ朝日『報道ステーション』「東京タワーを愛した男たち電波塔50年物語」
- ↑ 無線局免許状情報総務省 電波利用ホームページ
- ↑ 東京特別区・さいたま市・千葉市・横浜市・川崎市・成田国際空港
- ↑ VHFテレビ7chに相当する周波数帯。
- ↑ JFL系のCROSS FMとNHK福岡FMは福岡タワーから送信し都市圏に中継局が無いが、TOKYO FM系のFM福岡は内陸部の鴻巣山の送信所を維持し糸島市と宗像市に中継局を設置。
- ↑ 東京タワー頂上から軟球見つかった!…建設時以来、54年ぶりに支柱開けたら スポーツ報知 2012年8月1日閲覧。
- ↑ 実況アナウンサー(橘正晃)がいるテレビ塔を襲う場面はある。
- ↑ いつも我が家の一部 YOMIURI ONLINE 2008年1月8日
関連項目
- 東京都の観光地
- 芝公園
- 内藤多仲 - 東京タワーの構造設計を指揮した建築構造学者。
- ノッポン - 東京タワーのキャラクター。
- CLAMP - 漫画家。自作品に東京タワーがよく出て来る。
- マザー牧場 - 日本電波塔グループの観光牧場。
- 名古屋テレビ塔
- さっぽろテレビ塔
- 宇都宮タワー - 東京タワーの中継局。
- 塔の一覧
- スズキ・GSX400インパルス - 2代目はその外観から東京タワーとのあだ名で呼ばれている(実際に東京タワーがモチーフのひとつとなっている)。
- 東京スカイツリー(新東京タワー)
- 正力タワー - 1968年(昭和43年)に日本テレビが計画した高さ550mの電波塔。同年に起工したが完成はされなかった。
- NHKタワー - 1969年(昭和44年)に日本放送協会が計画した高さ600mの電波塔。計画のみで建設されなかった。
- 東京無線協同組合 - 東京都23区・武蔵野市・三鷹市を営業区域とするタクシー会社。行灯の形は本タワーをモデルにしている。
外部リンク
- 東京タワー公式サイト
- Wikimapia航空写真
- 東京タワー夜景写真
- 毎日新聞・50枚の写真で振り返る東京タワーの50年