フランス

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フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランスは、西ヨーロッパ西部に位置する共和制国家。北東にベルギールクセンブルク、東にドイツスイス、南東にイタリアモナコ、南西にアンドラスペインと国境を接し、西は大西洋に、南は地中海に面する。また、北海ドーバー海峡を隔てて北西にイギリスが存在する。海外領土でもサン・マルタン島オランダと陸上国境を接し、南米植民地仏領ギアナでは西にスリナム、南にブラジルと陸上国境を接する。首都はパリ欧州連合加盟国。国連安保理常任理事国

国名[編集]

正式名称は、République françaiseフランス語: レピュブリク・フランセーズ)。通称、France 。 略称、RF

公式の英語表記は、French Republic (フレンチ・リパブリク)。通称、France (フランス)。

日本語の表記は、フランス共和国。通称、フランス。また、漢字による当て字で、仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西などと表記することもあり、)と略されることが多い。ちなみに、中国では簡体字法兰西繁体字法蘭西と表記し、と略される。また日本でも一部の有識者は仏の字を忌避して法国と書くことがある。

国名のFranceは、11世紀の『ローランの歌』においてまでは遡って存在が資料的に確認できるが、そこで意味されているFranceはフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国le Royaume de Franceに、Franceという名前が用いられているが、これは後代がそのように名付けているのであってその時代にFranceという国名の存在を認定できるわけではない。また中世のフランス王はREX FRANCUS と署名している。Franceは中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(ルイ1世ルイ16世を参照)。作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク、中フランク、東フランクに三分割され、中フランクは消滅し東フランクは神聖ローマ皇帝を称したためフランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになったと説明している[1]ドイツ語では直訳すればフランク王国となるFrankreich(フランクライヒ)を未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するためにドイツ語でフランク王国はFrankenreichである。ギリシャ語では古代のこの地域の名称であったガリアΓαλλία)が使われている。

地理[編集]

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フランスの地形図

フランスの国土は西ヨーロッパに位置する本土のほか、地中海に浮かぶコルシカ島南米フランス領ギアナカリブ海マルティニークグアドループインド洋レユニオンといった4海外県、さらにはニューカレドニアフランス領ポリネシアなどオセアニアの属領をも含む。その面積は西ヨーロッパ最大であり、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。本土の形状はだいたい六角形の形を成しており、これはフランスの公用語であるフランス語にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone"が「フランス本土」を意味する。

フランスの地形のおもな特色は、東から南にかけて山地や山脈という自然の国境がある他は、ところどころに高原や丘陵がみられるものの、国土の大半は概して緩やかな丘陵地や平野で可住地に恵まれていることにある。北部、西部に広がる、フランスでも最も広い領域を占める比較的平らな地域は、東ヨーロッパから続くヨーロッパ中央平原の西端部にあたる。緩やかな起伏の平野で、高所でも標高200m程度の土地が広がっており、温暖な気候と併せて西欧最大の農業国フランスの基礎となっている。東部ドイツ国境にはヴォージュ山脈スイス国境にはジュラ山脈が延びる。ヴォージュ山脈はライン川の西岸に沿って流れ、ライン川がフランスとドイツとの国境となっている。南東部は中央高地が広がり、北から南へ流れ下るローヌ川を越えると、アルプス山脈につながっていく。南部イタリアとの国境を成すアルプスの山々は、多くが標高4000m以上で、その最高峰がモンブランである。アルプス越えには古代ローマの時代からいくつかの道があるが、なかでも有名なのがサンベルナール峠である。南西部のスペイン国境にはピレネー山脈が延びる。峠がほとんど無いピレネー山脈は、フランスとスペインとの交易を困難なものにした。サントラル高地の最高峰はドール山 (1,866m)。ピレネー山脈の最高峰アネト山 (3,404m) はスペイン側にそびえる。フランス全土の最高峰はイタリア国境に位置するモンブラン (4,810m)。

主な河川は北から反時計回りに、セーヌ川 (776km)、ロワール川 (1012km)、ガロンヌ川 (647km)、ローヌ川 (812km)。

気候[編集]

フランスの気候は大陸性、海洋性、地中海性の気候区に分割される。海洋性気候は国土の西部で見られる。気温の年較差、日較差とも小さい。気候は冷涼であるが、寒くなることはない。国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の大陸性気候東ヨーロッパ、つまりポーランドルーマニアが西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。地中海性気候は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうち最も大きい。降水量は年間を通じて少ない。

歴史[編集]

詳細は フランスの歴史 を参照

ローマの支配から王政時代[編集]

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『ユリウス・カエサルの足元に武器を放るヴェルサンジェトリクス』

現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的な統一は存在しなかった。紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバル南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。

その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍カエサル紀元前58年にゴール北部に侵攻した。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍をを破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールは幾つかの属州に分割され、ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。360年にゴール北部の都市ルテティアパリと改名された。5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。

476年西ローマ帝国が滅びるとゲルマン人の一部族であるフランク族クローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝の後はピピン1世カロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝トゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュの下でヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。

シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂し、ほぼ現在のフランス、イタリアドイツの基礎となった。また、この時期に現代に続くフランス語古フランス語)の形成が始まった。987年に西フランク王国が断絶するとパリ伯ユーグ・カペーフランス王に選出され、カペー朝の下でフランス王国が成立した。

彼の子孫のカペー朝、その後のヴァロワ朝ブルボン朝は戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。1209年アルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現在の南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[2]黒死病の大流行が起こる直前の1337年からフランスはイングランドとの百年戦争を戦っている[3]。フランスは幾度か大敗を喫して危機に陥ったが、ジャンヌ・ダルクの活躍などもあって最終的にはイングランド勢力を大陸から駆逐でき、またこの戦争を通じて王権が強化された。16世紀には新教・旧教の対立から大規模な内戦ユグノー戦争が起こっている。

王朝は17世紀ルイ14世の時期に最盛期を迎えている。この時期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治、経済、文化に絶大な影響力を持っていた。フランス語は外交の舞台での共通語となっていた。18世紀にはフランスの知識人の中から多くの啓蒙思想が生まれ、科学的な大発見がなされている。加えてフランスはアメリカアフリカアジアに広大な海外領土を獲得していた。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷使したサトウキビコーヒープランテーションが築かれ、1804年のハイチ革命によってハイチが独立するまで莫大な歳入をフランスにもたらした。

王政から共和政へ[編集]

1789年フランス革命が起きて王政は倒され、1793年ルイ16世マリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となっている[4] 。政治的混乱ののちに、1799年ナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握り、第1統領となり、やがて皇帝に即位して第一帝政1804年-1814年)を開いた。ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパの大部分を制覇し、彼の一族が新たにつくられた国々の王位に就いた。この戦争で数百万人が犠牲となっている[5]

1815年にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた後、フランスは王政復古したが、王の権力は憲法に制約されていた。1830年7月革命によって立憲君主制による7月王政が立てられた。この王政は1848年に終わり、第二共和政に移行するが、1852年にルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が第二帝政を開く。ナオレオン3世はボナパルティズム的手法で国内を固め、インドシナ半島メキシコなどに積極的に出兵したが、1870年普仏戦争に敗れたナポレオン3世は退位し、第三共和政に代わった。

フランスは17世紀以降、1960年代まで広大な海外植民地を有しており、その植民地帝国大英帝国に次ぐ規模だった。1919年から1939年の最大時にはフランスは12,347,000㎢(フランス本国を含む)の領土に広がり、世界の陸地の8.6%を占めていた。

フランスは第一次世界大戦第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており,[6] 、この時は領土の一部だけが占領されたのにもかかわらず、第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。戦間期には人民戦線政府によって様々な改革が試行された。第二次世界大戦ではドイツ電撃戦に敗れて、フランス本国は北部のドイツ占領地と南部の傀儡国家ヴィシー政権に分断されたが、シャルル・ド・ゴール率いる自由フランス連合国についたため、辛うじてフランスは戦勝国の一員となった。

第二次世界大戦後に第四共和政が成立し、経済は再建されたものの列強国としての国際的地位は崩れかけていた。フランスは植民地体制を守ろうとしたが、脱植民地化時代の潮流には逆らえず、すぐに苦境に陥ることになる。フランス領インドシナの支配を回復しようとして、抵抗するベトミンとの間で第一次インドシナ戦争が勃発し、1954年ディエンビエンフーの戦いでベトミンに大敗を喫してインドシナから撤退している。そのわずか数ヶ月後には、今度はより厳しいアルジェリア戦争に突入する羽目になる。

アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還[7] を巡って国論は割れ、内戦になりかけていた。このため、弱体で不安定な第四共和政は強力な大統領権限を含んだ第五共和政へ移行する。この権限を持ってシャルル・ド・ゴールは国内の統一を維持し、戦争終結へ踏み出した。1962年に和平交渉が妥結してアルジェリアは独立した。アルジェリアに先駆けて1956年にはモロッコチュニジアが独立を達成していたが、インドシナマグリブのみならず、ブラックアフリカの植民地においても独立運動は進んだ。1958年のギニア独立を嚆矢として、アフリカの年こと1960年にほぼすべてのアフリカ植民地が独立した。

1973年石油危機以降、フランスは深刻な経済危機と低成長を経験しており、政権の交代が繰り返された。その為、1986年-1988年1993年-1995年1997年2002年にはコアビタシオン(所属党派の異なる大統領と首相になってしまう、保革共存政権)が起こっている。

1950年代からのドイツとの和解と協力によって、両国はヨーロッパ経済共同体(EEC)や1999年1月のユーロ導入を含む欧州統合に中心的役割を果たして来た。フランスはヨーロッパ連合の主導国の一つであり、ヨーロッパの政治的統合を強く支持しているが2005年欧州憲法批准は国民投票で拒否されてしまった。2008年2月にこれを継承するリスボン条約が議会の承認を得ている。

政治[編集]

詳細は フランス第五共和政 を参照

現在のフランスは、直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)に首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられ、立法府である議会より行政権の方が強い体制が敷かれている。このため、先進国の中でも日本などと並んで官僚機構が強いと言われることが多い。

また、大統領が任命する首相は、大統領にも議会にも責任を負っており、共に行政権を持つ(半大統領制)。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態をコアビタシオンと呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが両者が対立し政権が不安定になることもある。

議会は二院制を採用し、上院に当たる元老院と、下院にあたるフランス国民議会がある。元老院は間接選挙で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙で選出され、投票に際して小選挙区制と二回投票制度が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。

主要政党としては、国民運動連合(保守・右派)、フランス民主連合(中道・若干右寄り)、社会党(中道左派・社会民主主義)、フランス共産党(左派)がある。また、以下は議席を持たないが、国民戦線(極右・移民排斥)、革命的共産主義者同盟(極左・トロツキスト政党)、労働者の闘争(極左・トロツキスト政党)も存在する。

2007年5月6日CEST)に行われた大統領選挙ではニコラ・サルコジが当選し、同16日に第6代大統領に就任した。

地方行政区分[編集]

詳細は フランスの地方行政区画 を参照

フランスは26の地域圏に分かれる。フランス本土(メトロポリタン・フランス)の位置するヨーロッパの領土は22の地域圏(レジオン région)に区分され、その下に100の(デパルトマン département)が存在する(各レジオンが2~8のデパルトマンに区分されている)。地域圏はメトロポリタン・フランスに21、コルシカに1つに分かれる。さらに海外のアメリカ大陸インド洋などには、4つの海外県と、複数の海外領土がある。各県はさらにコミューンに分かれる。2009年3月29日、アフリカ東部沖のコモロ諸島にあるマヨット(人口約20万人)を特別自治体から海外県への地位変更の是非を問う選挙が行われ、賛成95.2%で海外県となることが決まった。フランスの県としては101番目、海外県としては5番目である。

主要都市[編集]

を参照 表は市内の人口順ではなく、都市圏の人口順に並べている。フランスの人口は、パリへの一極集中が目立ち、同市に次ぐ都市は規模が小さい。つまり、ジップの法則からのずれが目立つ分布となっている。

都市 行政区分 人口 都市圏人口
1 パリ イル=ド=フランス 2,181,371 11,819,000
2 リヨン ローヌ=アルプ 472,305 1,790,000
3 マルセイユ プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール 839,043 1,516,340
4 リール ノール=パ・ド・カレー 226,014 1,143,125
5 トゥールーズ ミディ=ピレネー 437,715 964,797
6 ニース プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール 347,060 933,080
7 ボルドー アキテーヌ 232,260 925,253
8 ナント ペイ・ド・ラ・ロワール 282,853 711,120
9 ストラスブール アルザス 272,975 612,104
10 トゥーロン プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール 167,816 564,823
2006年国勢調査

国際関係[編集]

アンシャンレジーム期からイスラム圏のオスマン帝国と同盟を結ぶなど独自外交を貫き、第五共和制成立後も冷戦構造の中でフランスの影響力を保つためにOTANの軍事機構からの脱退や、1973年から始まったフランス・アフリカ首脳会議の開催などアフリカ諸国との友好関係の強化が行われ、ヨーロッパにおいても西ドイツ(当時)と共に欧州統合の旗手となった。冷戦終結後は欧州統合を深化し、欧州連合の主要国として存在感を高めている。また、アメリカ合衆国による2003年のイラク戦争には終始反対した。フランスが自国の勢力圏と見なす旧植民地のアフリカ諸国との関係においては、暴動や内戦の際に親仏政権の維持のための軍事介入が行われることなどもあり、現在もセネガルジブチにはフランス軍の軍事基地がある他、1994年のルワンダ虐殺や、2002年に始まったコートジボワール内戦にも介入している。1970年代以降の軍事介入の件数は30件以上にも及んだ[8]。こうしたフランスの姿勢を新植民地主義であると批判する声もある。

21世紀に入り、日米を除くG7各国や欧州連合加盟各国が北朝鮮と国交を結んでいる中、2007年1月現在もフランスは国交を締結していない。

イギリスとの関係[編集]

フランスとイギリスは歴史上錯綜した関係を持ってきた。イングランドは、ノルマン・コンクエストを通じてフランス語を母語とし、フランス王国の公爵を兼ねる王に統治されることとなった。こうして、中世のイングランド王は同時にフランス王国の大貴族であり、その立場においてはフランス王の臣下であるという関係が長く続いた。なおかつアンジュー帝国とも呼ばれたプランタジネット朝のイングランド王は、王権の確立が遅れていたカペー朝のフランス王をしのぐ巨大な所領をフランス王国内に所持し、フランス王の勢力を圧倒した。またイングランド王家とフランス王家の姻戚関係もまた深かった。

こうした経緯から、中世のイングランド王家とフランス王家は、フランス王国における覇権をめぐって幾度となく抗争を繰り返すこととなった。ジャンヌ・ダルクが活躍したことで有名な百年戦争は特に長引いた抗争であり、イングランド王家が最終的にフランス王国内の基盤を喪失するにまで至った。この長期の戦争を通じてフランス人とイギリス人の間に、後の国民国家の創生につながる近代的な国民意識の母体となるものが胚胎したともいわれる。

こうした歴史的経緯から、フランス人とイギリス人の間には根深い対抗意識が根付くこととなった。英単語でフランスを意味する「フレンチ」がつく単語はあまり良くない意味であることが多く、フランス語でイギリスを意味する「アングレーズ」がつく料理は簡単かまずいかのどちらかであるといわれている。またアメリカ英語では「フレンチフライズ」というフライドポテトのことを、イギリス英語では「チップス」という。

ちなみに、英語での生きている牛 (cow) もしくはいきている豚 (pig) と死んだあとの食肉としての牛 (beef) と豚 (pork) の呼び方が異なる理由は、ノルマン・コンクエストによってイギリスを支配したノルマン系のイングランド貴族の母語がフランス語であり、被支配者であるアングロ・サクソン系の農民の育てた家畜は生きている間はアングロ・サクソン系の語彙で呼ばれ、肉となって調理され、貴族の食卓に上るとフランス語系の語彙で呼ばれるようになったのが由来である。即ち、ビーフとポークは本来フランス語である(ただし英語とフランス語のビーフ・ポークの綴りは異なる。

日本との関係[編集]

日仏関係 も参照

歴史[編集]

1858年10月9日に、フランスから日本に外交使節団長として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵によって、日本と最初の修好通商条約が当時の日本の幕府があった江戸で調印された。

その後、第一次世界大戦においては連合国として戦い、1919年パリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど人権意識が高かった。その後の第二次世界大戦においては、フランスが早期に親独のヴィシー政府となり、フランスがアジアに持っていた植民地である仏領インドシナもヴィシー政権の影響下に置かれ、連合国軍の侵攻によるマダガスカルの戦いでは日本の救援を受けたことなどから、同じく植民地をアジアに抱えていたことで日本軍との戦闘を行ったイギリスオランダとは異なり、戦後も日本との敵対感情は殆ど無いままであった。ただし、パリ解放後の大戦末期にインドシナで明号作戦により、日本軍とフランス軍は衝突した。なお、第二次世界大戦中の1940年、大日本帝国政府は皇紀2600年奉祝曲の作曲を、ヴィシー政権下のフランス政府を通してイベールに依頼し、イベールは「祝典序曲」を日本に捧げた。エールフランスは1952年11月に日本へ就航した。

現在も官民を問わず活発な往来が行われている他、経済的にも文化的にも深くかつ幅広い交流が行われているなど親密な友好関係にあり、首都のパリと日本の首都の東京都は姉妹友好都市関係にある。

フランスにおける日本[編集]

ヨーロッパ諸国の中でも、フランスは日本への文化的関心が高い方といわれている。フランスの辞書には「サムライ」や「カラオケ」などの日本語が載っており、中には布団を使い、食べ物では納豆蕎麦を食べる日本通のフランス人も見かけられる。パリスーパーマーケットではカマボコも販売されている。

近年では、現地のテレビ局により流される子供用アニメの多くが日本製であることから、若者の中では特にマンガアニメが流行しており、アニソンを歌い、マンガとアニメキャラクターのコスプレ大会が行われるなど、日本のマンガとアニメに対するファンも少なくない。日本発のサブカルチャーの祭典であるJapan Expoでは、2008年度は3日間で8万人の動員を記録している。

なおフランスは日本を凌ぐほど柔道が普及しており、その競技人口は56万人を数え(日本は21万人)、世界最大規模である。その実力もかなりのものである。また、宗教では日本のが建てられ、日本で修行をして勉強したフランス人の僧侶がいる。

有名なフランス人の親日家としては、フランス第五共和政の第5代大統領ジャック・シラクがあげられる。シラクは親日家であることを公言しており、公私あわせて40回以上もの来日経験を誇る。

日本におけるフランス[編集]

日本では、フランスはファッションや美術、料理など、文化的に高い評価を受ける国として有名であり、毎年多数の日本人観光客が高級ブランドや美術館巡り、グルメツアーなどを目的にフランスを訪れている。また、音楽、美術、料理を学ぶためにフランスに渡る日本人も多く、在仏日本人は3万5千人に及ぶ[9]。特に首都パリは文化、流行の発信地、『芸術の都』『花の都』としてのイメージが日本人の間に過剰に強く、イメージと現実とのギャップによる『パリ症候群』という適応障害にかかる日本人もいる。

経済面では、1992年から2000年にかけフランス側が対日輸出促進キャンペーンとして「ル・ジャポン・セ・ポシーブル」を展開したものの、2000年代の現在まで貿易額は漸増傾向を示すに留まり、2004年時点で貿易額は相互に60億ドル台から80億ドル台で推移している[10][11]。日本から見た場合、対仏輸出の構成比は1.5%(各国中15位)であり、一方でフランスからの輸入も1.8%(同13位)と貿易における重要度、依存度は他の先進国中進国と比較してさほど高くない[12]。これをフランスから見た場合、対日輸出が輸出全体に占める割合は1.6%であり、これはドイツ(14.5%)、スペイン(10.2%)、イタリア(9.2%)、イギリス(8.8%)、ベルギー(7.6%)といったEU諸国、アメリカ合衆国(7.2%)、中華人民共和国(1.7%)に次ぐものとなっている[13]

しかし、直接投資においては、1999年のルノーによる日産自動車の買収に伴い、日産の最高経営責任者となったカルロス・ゴーンは一般の日本人にも知名度があり、これにプジョーを加えフランス車も、ドイツ車などと並んで日本では人気のある海外車種の一つである。他方、日本側もトヨタ自動車がほぼ同時期に北部ノール県ヴァランシエンヌに工場を建設しているほか、NTNなど自動車部品メーカーの工場進出も行われており、近年では1990年代後半にかけて自動車業界を中心に相互に大きな投資が行われている。

他にも、1910年明治43年)には徳川好敏がフランスの飛行機の操縦技術を学び、フランスのある飛行機を持ち帰り、初飛行した。徳川は、日本人としてはじめてのパイロットである。1918年大正8年)1月の第一次世界大戦中にフォールフランス陸軍砲兵大佐を団長にした、63名のフランス航空教育団を日本に派遣した。日本での初飛行や航空教育は、所沢陸軍飛行場(現航空公園)で行われた。また、日本海軍は当初フランスの海軍軍人を顧問としていたことから、フランス海軍の影響が強いと言われる。

軍事[編集]

詳細は フランス軍 を参照

フランスの国防政策は1959年シャルル・ド・ゴール政権が制定した「国防組織法」によって運営されている。大統領が最高司令官であり、その指導のもとに内閣委員会が国防政策、将官の任免、総動員令や戒厳令の宣布などの意思決定機関として機能する。核兵器を有しており、海軍の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦により運用される。フランス革命からの徴兵制を廃止して志願制を採用した。

フランス軍陸軍空軍海軍及び憲兵からなり、2002年の総兵力は44万人うち、陸軍17万人、空軍7万人、海軍5.6万人、憲兵9.8万人、その他機関4万人であった。

国外駐在兵力は約3万人で、うち太平洋地区の海外県(植民地)に約2万人、アフリカに6,500人、国際連合など国際組織の指揮下に9千人がいる。

現在もフランス外人部隊8個連隊を保有する。南仏オーバニュに司令部を置き、南仏各地も駐屯、コルシカポリネシアにも一部が駐屯する。2002年12月から西アフリカコートジボワールに外人部隊2,500人が派遣され、戦闘状態にある。

陸軍[編集]

陸軍は地上作戦司令部、補給司令部、9個作戦旅団、2個補給旅団からなる。主要装備は戦車834輌、装甲車4,950輌、各種火砲802門、ヘリコプター498機である。

海軍[編集]

海軍は戦略作戦司令部と海上、対潜掃海潜水艦などの専門作戦司令部からなる。主要装備は弾道ミサイル搭載原子力潜水艦4隻、攻撃型原子力潜水艦6隻、原子力空母1隻、ヘリ空母1隻、ミサイル駆逐艦3隻、駆逐艦9隻、フリゲート20隻などである。

空軍[編集]

空軍は6個攻撃戦闘機中隊、7個戦闘機中隊、2個偵察中隊、14個輸送機中隊、5個ヘリコプター中隊、2個電子戦中隊からなり、主要装備は作戦機433機、早期警戒管制機4機、偵察機4機、空中給油機45機、輸送機131機などである。

憲兵[編集]

憲兵は以前は国防省に属していたが、現在は軍籍は国防省に残置した上で内務省に属し、警察業務を担当する。

経済[編集]

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パリラ・デファンスはフランス経済の中心地である。

フランスはGDPではアメリカ日本中華人民共和国ドイツイギリスに続く世界第6位(2007年現在)の経済大国である。また観光客入国数では世界一、農産物輸出額では世界第2位を占める。農業は生産額世界第6位と依然としてフランスにおける重要な産業であり、EU諸国中最大の規模を誇っている。

第二次世界大戦後はモネ・プランとして知られる戦後の復興計画によって、鉄道や航空、銀行、炭田の国有化がなされ、自動車・電子・航空機産業についても国が主要株主となり、政府は石油と天然ガスにも投資した。1981年ミッテラン大統領の社会党政権時代には産業国有化がさらに進められ、フランスでは政府が経済全体で果たす役割は大きい。1986年に保守派シラクが首相になって国家の役割が縮小されたものの、アメリカ合衆国イギリスなどと比べても金融・保険・電力・運輸・国防産業などの分野で依然として政府は大きな影響力を有し、国家資本主義の色彩が濃い。

1990年代後半は、ヨーロッパ通貨統合に参加するために強硬な財政赤字削減策が実施されたが、国民の強い反発を招き、消費拡大による景気刺激策に方針が転換された。しかし、2000年を境にGDP実質経済成長率は大きく低下して、財政赤字は2002年以降、連続して対GDP比3%以内というEUの財政協定の基準を大きく超えていた。1990年代の大きな問題だった12%をこえる失業率も、90年代末から改善されて2001年には8%台になったが、その後は再び悪化して2005年初めには10%を突破した。しかし、05年以降、世界経済の好調に助けられる形で経済は持ち直し、財政赤字は3%を切り、失業率も8%台にまで改善された。

2008年度版フォーチュン・グローバル500によると、総収入を指標とした全世界の企業ランキングリストのうち上位100位に含まれるフランス企業は、国際石油資本トタル(本社パリ、8位)、保険のアクサ(パリ、15位)、金融のBNPパリバ(パリ、21位)、金融のクレディ・アグリコル(パリ、23位)、小売のカルフールルヴァロワ・ペレ、33位)、金融のソシエテ・ジェネラル(パリ、43位)、自動車メーカーのプジョー(パリ、66位)、電力会社のフランス電力公社(パリ、68位)、電気通信事業者のフランステレコム(パリ、84位)、水道や電力、ガス事業などを行うスエズ(パリ、97位)が並ぶ。

2009年3月、「経済危機のつけを労働者に回すな」をスローガンに、1月の前回100万~250万人を上回り、全国で300万人が統一行動を行った。サルコジ政権は、昨年12月260億ユーロ規模の経済活性化対策を発表した。さらに所得税減税など14億ユーロ規模の低所得者向け支援策を提案し、その後26億ユーロ規模に増額した。

EUの中心メンバー[編集]

ファイル:European flag in the wind.jpg
フランスは欧州連合(EU)加盟国であり、その単一市場の構成国である。

ヨーロッパ連合(英語表記ではEU、但しフランス語表記での略称はUE-Union européenne-フランス語:ユニオン ウロペンヌ となることに注意しなければならない。本項目では特に断りがない限りEUと表記する)の歴史的創立メンバーの1国であり、特に隣国ドイツとの経済的・社会的統合を推進している。フランスの金融政策はフランクフルトヨーロッパ中央銀行で決定され、ナポレオン1世の時代以来使用されていたフランスの通貨フランは、1999年ヨーロッパ通貨統合への参加によって、2002年始めに完全にユーロに切り替わった。

農業[編集]

国土の36%が農地で、農業従事者は労働力の約3%。1955~2000年で農家の数は3分の1に減少し、相対的に1農家当たりの農地面積、経営規模が拡大した。EU最大の農業国である。穀物、根菜、畜産などすべての農業部門において世界の上位10位の生産高を誇る。穀物としては、小麦大麦トウモロコシ、根菜としてはばれいしょテンサイ、畜産ではブタ鶏卵牛乳の生産が際立つ。このほか、亜麻なたねの生産高も多い。テンサイの生産高は世界一である。

鉱業[編集]

第二次世界大戦後までは、ルール地方の鉄と石炭が鉱業の大半を占めていた。21世紀初頭においては、既に鉄鉱石の採掘は行われておらず、金属鉱物資源は鉱業の対象となっていない。最も規模が大きい鉱物資源は世界シェア8位 (3.3%) の塩(700万トン、2002年時点)である。

有機鉱物資源では、石炭、石油、天然ガスとも産出するが、いずれもエネルギー需要の数%を満たす水準である。例えば石油の自給率は1.6%にとどまる。金属資源では、銀、金、その他の地下資源ではカリ塩、硫黄を採掘している。

工業[編集]


フランスの工業は食品工業、製材、製紙、運輸、機械、電気機械、金属、石油化学工業、自動車産業が中心である。世界一の生産高を誇るワイン、世界第2のチーズのほか、バター、肉も五本の指に入り、製糖業も盛ん。製材、製紙はいずれもヨーロッパ随一である。石油化学工業は燃料製造、プラスチック、合成ゴム、タイヤと全部門にわたる。特に合成ゴムとタイヤ製造が著しい。

自動車製造業は世界4位の規模である。自動車の生産は古くから行われており、常に生産台数が世界で5番目に入る自動車大国でもある。主なメーカーとして現在日本の日産自動車を傘下に収めるルノーや、PSA・プジョーシトロエンなどがある。造船業も盛んである。

フランスのいわゆる「フラッグ・キャリア」はエールフランスEADSエアバスマトラなどの企業が代表するように航空宇宙産業も発達しており、ヨーロッパではロシアを除けば、フランスだけが宇宙船発射能力を持つ。

エネルギーでは原子力発電への依存率が世界で最も高い。電力のおよそ78%が原子力発電でまかなわれているのに対し、火力発電は約11%、水力発電は約10%にすぎない。発電用原子炉の数はアメリカ合衆国に次ぐ59基。2001年時点の総発電量5,627億kW時のうち、74.8%(4,211億kW時)を原子力が占める。原子力による発電量自体もアメリカ合衆国の7,688億kW時に次いで2位である。フランスの発電は原子力以下、水力14.7%、火力10.4%、地熱0.1%が続く。総発電量では世界第8位を占める。主な原子力発電所は、グラブリン原子力発電所(5,706千kW、ノール県)、パリュエル原子力発電所(5,528千kW、セーヌ=マリティーム県)、カットノン原子力発電所(5,448千kW、モゼル県)。2001年現在で発電規模世界第4位、5位、6位を占める。

貿易[編集]

フランスは伝統的に西ヨーロッパにおける最も重要な農業国である。さらに、第二次世界大戦後に工業関連企業を国有化することによって合理化が進み、EC域内の工業国としてもドイツに次いで重要な位置を占めるようになった。2003年における全工業製品の輸出額はドイツの約40%であった[14]。フランス工業(EC域内工業)の特徴は域内分業である。各産業は国内市場よりもEC域内市場を対象としており、フランスにおいても2004年における貿易依存度は輸出20.7%、輸入21.6%まで高まっている。2003年における輸出額は3660億ドル、輸入額は3696億ドルである。

輸出を金額ベースで見ると、工業製品が大半を占める。品目別では、自動車14.3%、電気機械11.2%、機械類10.4%、航空機5.4%、医薬品5.0%である。工業製品が80.4%、食料品が11.2%という比率になっている。主な輸出国は金額が多い順に、ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、ベルギーであった。

フランスは2004年時点の小麦の世界貿易(輸出)において、第4位(12.5%、1,489万トン)を占めていた。さらにとうもろこしの世界貿易では第3位(7.4%、616万トン)、砂糖では第4位(5.2%、234万トン)、チーズでは第2位(14.3%、58.3万トン)を占めている。しかしながら、農産物は工業製品に比べて単価が安いことから輸出全体に占める比率は高くない。同じことが工業製品である鉄鋼の貿易にも当てはまる。フランスは2005年の世界貿易(輸出)において、第4位(1,800万トン)を占めているが、フランスの総輸出額に占める割合は5%未満である。一方、単価の高い自動車は2004年における輸出シェアが世界第2位(426.9万台)であることを反映し、もっとも重要な輸出品目となっている。

輸入は工業製品が77.4%、原材料と燃料が13.8%、食料品が8.4%という構成である。輸出入とも工業製品が約8割を占める。品目別では、電気機械13.1%、自動車11.0%、機械類10.0%、原油5.1%、衣類4.1%。主な輸入国は金額順に、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーであった。

1986年時点の貿易は、輸出1,191億ドル、輸入1,279億ドルであった。輸出に占める工業製品の比率は77.2%、食糧品は15.4%であることから、次第に輸出品に占める工業製品の割合が拡大して来たことが分かる。輸入品についてはこの傾向がより顕著である。

高失業率[編集]

近年は慢性的な高失業率に悩まされており、特に西アフリカ中東北アフリカなどの元植民地からの移民とその子孫の失業率が高いため、不満が鬱積したこれらの失業者による暴動が度々起きている。とりわけ2005年10月27日に発生した移民の死傷事件は、これをきっかけに、パリを始めとしたフランス全土、さらに隣国のドイツやベルギーにも暴動が広がっている。→2005年パリ郊外暴動事件を参照。

就業者を上げるために、2006年3月に26歳以下の若者を2年以内の雇用なら理由なく解雇出来るという、青年雇用対策「初期雇用契約」(CPE)を制定したが、逆に「安易な首切りを横行させる」と若者を怒らせる結果となり、フランス国内の大学でのCPE反対の抗議活動が激化、若者が暴徒化し警官隊と衝突する事態に陥った。CPE反対に際しては労働団体も同調しており、抗議行動への参加や、3月28日には全国でTGVをはじめとする鉄道やバスなど公共交通機関の運休のほか、郵便局や公立学校などの公的機関、銀行や電力会社など幅広い業種でゼネラルストライキが行われ、交通機関などでマヒ状態に陥った。ドビルパン首相は撤回に応じないと表明したが、4月10日になり、シラク大統領がCPEの撤回を表明した。

国民[編集]

ファイル:Point a Pitre.jpg
グアドループの市場。フランスの海外県や海外領土には多数の有色人種系の市民が存在する。

欧州最大の多民族国家であるフランスでは、本土ではケルト人ラテン人ゲルマン系のフランク人などの混成民族であるフランス人が大半を占める。また、本土でもブルターニュではケルト系のブルトン人スペインとの国境付近にはバスク人アルザスではドイツ系のアルザス人などの少数民族が存在する。また、コルシカ島イタリア人に近い民族コルシカ人が中心である。一方、西インド諸島ポリネシアの海外県や海外領土では非白人の市民が多い。

伝統的にフランスはスペインポルトガル東欧諸国などから多くの移民・政治的難民を受け入れており、低賃金労働に従事する労働者もいた一方、フランスに移住した有数な才能の手で文化や科学を発達させてきた。近年では、アフリカ(主に1960年代までフランスの植民地であった地域)・中近東からの移民が多い。彼らの中から政界・経済界や文化界、俳優ミュージシャンスポーツ選手など大衆文化の世界で活躍する人材が多く出ているが、フランスの黒人社会はアメリカの黒人社会よりも社会進出は遅れており、ほとんどは「バンリュー」と呼ばれるスラム化した大都市郊外の団地に住んでおり、失業や犯罪率などが問題になっており、パリ暴動のような移民との摩擦が起きる事もある。

なおフランスは早くから少子化対策に取り組み、GDPのおよそ2.8%にも相当する巨費を投じ国を挙げて出産・育児を支援する制度を様々に取り入れてきた。代表的なものとしては世帯員(特に子供)が多い家庭ほど住民税所得税などが低くなる『N分N乗税制』や、公共交通機関の世帯単位での割引制度、20歳までの育児手当などがある。この結果、1995年に1.65人まで低下したフランスの出生率は2000年1.89人に、2006年には2.005人にまで回復した。現在先進国で出生率が2人を超えている国は他にアメリカ合衆国ニュージーランドぐらいであり、フランスはヨーロッパ一の多産国となった[15]

ただ一方で子供を4人以上産めば事実上各種手当だけで生活する事が可能となり、結果として低所得者が多いアフリカ系の移民やイスラム系の外国人労働者を激増させているのではないかとの指摘もある。これに対してINSEE(フランス国立統計経済研究所)は「移民の出生率は平均より0.4%ほど高いが、全体に占める割合が大きくないので大勢にそれほど大きな影響を与えているわけではない」と説明している[16]

言語[編集]

現行の憲法第二条によると、1992年からフランス語はフランスの唯一の公用語である。このことにより、フランスは西ヨーロッパ(ただし極小国を除く)において公認された公用語が一つしかない唯一の国家となっている。ただし、フランス本土と海外領土を併せるとオック語などの幾つものロマンス語系の地域言語が存在するほか、ブルターニュではケルト系のブルトン語(ブレイス語)、アルザスではドイツ語の一方言であるアルザス語、コルシカではコルシカ語、海外県や海外領土ではクレオール諸語など77の地域語が各地で話されている。近年まで、フランス政府と国家の教育システムはこれらの言語の使用を留めてきたが、現在は様々な度合いで幾つかの学校では教えられている。その他にも移民によってポルトガル語イタリア語マグレブ・アラビア語ベルベル諸語が話されている。

フランス語はフランスのみならず、旧植民地諸国をはじめとした多くの国で広く使用されている言語であり、フランス語圏はフランコフォニーと呼ばれる。

フランスは点字が生まれた国でもある。

宗教[編集]

宗教面では、国民の約7割がカトリックといわれている。カトリックの歴史も古くフランス国家はカトリック教会の長姉とも言われている。代表的な教会はノートルダム大聖堂サン=ドニ大聖堂などが挙げられる。パリ外国宣教会はその宣教会。フランス革命以降、公共の場における政教分離が徹底され、宗教色が排除されている。

近年旧植民地からの移民の増加によりムスリム人口が増加し、知事も生まれた。フランスではフランス革命以来の伝統で政教分離ライシテ)には徹底しており、2004年には公教育の場でムスリムの女子学生のスカーフをはじめとしてユダヤ教のキッパなど宗教的シンボルを禁止する法案が成立し、主にフランス国外のムスリムからは反発されている。

セクト(カルト)教団対策[編集]

フランスでは政府としてカルト教団に対処している。非宗教性と中立性を謳ったライシテの概念、欧州人権条約等に配慮して実施されている。MIVILUDESという組織を中心に各省庁が連携して犯罪対策とその予防、洗脳対策などを基準にセクト(カルト)団体に対処している。セクトとされる基準は犯罪性と被害者の存在と人権侵害である。セクトの選別基準に教義や宗派は関係しないし憲法等に織り込まれたライシテの概念からそのようなことはできない。2005年時点に置いてはセクト特有の犯罪を取り締まるための法律をより一般的な刑法へと発展させようとする方向も見せている。

フランス政府は地道な実績を積み上げている。特に悪質な団体を取り締まるために反セクト法(アブピカール法、セクト弾圧法、カルト防止法等数多くの俗称で呼ばれた、正確な日本語訳は「人権及び基本的自由を侵害するセクト的運動の防止及び取り締まりを強化する2001年6月12日の法律第2001-504号」である)を制定し、被害者救済を確立するために判例を積み重ね、犯罪の未然防止や活動内容の監視の為に各県に専門部署を設置したり、子どもへの教育と称して洗脳や酷い教育が行われていないか監視するための部門を設置するなど多岐にわたる。裁判や法律の制定を通じて、セクト被害やその救済という概念を刑法に作り上げようとしている。

フランスのセクト対策に関しては疑問の声も多い。人種差別や宗教差別、人権無視に報道の自由の侵害など、少数派に対し不寛容な「人権の祖国」フランス政府の実態に対する疑問も提起されている。ただし疑問の声を提起する論者は、新聞記事の存在を無視する傾向が強い。新聞記事とこれらの疑問の声の間には内容に大きな乖離があり、信頼性については疑問符が付く。フランスのセクト対策は日本の大手新聞でも紹介されている。

フランス政府のセクト選別基準はライシテを回避するため、犯罪性や人権侵害が基準になっている。このカルト対策を宗教弾圧だとする意見もあるが、宗教に干渉しているのでなく、政府は犯罪を取り締まっているのである。しかしフランス政府は単純な取り締まりだけを考えているわけでもない。報告書に見られるように、セクトは大衆の需要を満たし大衆の望むものを提供しているからこそ繁栄しているのであり、単純に弾圧できるものではない。またある団体の行動や習慣を異常と見るか、多文化と見るかも非常に難しい問題であると記述されている。多文化と異常行動の線引き、この難しい問題に対しフランス政府は西欧的人権や被害者の存在に根拠を置くことでバランスを取っている。

フランス国内でも、セクト対策は宗教弾圧になりうる危険性があり、ライシテの根幹にもかかわる問題の為に、多数の議論を巻き起こし、この過程で「進化するライシテ」「新しいライシテ」等の概念が示された。

フランス政府のセクト対策に係わる日本語訳資料については、s:フランス政府セクト対策一覧(WikiSource)参照。

教育[編集]

詳細は フランスの教育 を参照

6歳から16歳までの10年間が無償の初等教育と前期中等教育期間となり、6歳から11歳までがエコール・プリメール(小学校)、11歳から16歳までがコレージュ(中学校)となる。その後3年間のリセ(高等学校)による後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。2003年の推計によると、15歳上の国民の識字率は99%である[17]

高等教育機関には一般の総合大学単科大学の他にグランゼコールと呼ばれるエリート学校があり、代表的な高等教育機関としてはパリ大学(1211年)、モンペリエ大学(1289年)、ストラスブール大学(1631年)、リヨン大学(1809年)、エコール・ノルマルエコール・ポリテクニークパリ国立高等鉱業学校エコール・サントラルなどが挙げられる。

フランスでは、コミュニケーションを重視した国語教育が、小学校での最重要の教育目標になっている。また、一部のエリート大学やグランゼコールを除き、リセ卒業時に行われるバカロレアに合格すれば任意の大学に入学できる代わり、進級認定は厳格である。

文化[編集]

詳細は フランスの文化 を参照
ファイル:Tour eiffel at sunrise from the trocadero.jpg
エッフェル塔パリ、およびフランスのシンボルで、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造された。

文豪スタンダールオノレ・ド・バルザックヴィクトル・ユーゴーをはじめ中世より文学が発達しており、音楽も盛んである。絵画やファッションの分野では数世紀の間欧州世界をリードする地位にあると言われ、近年においてもファッションにおいてはイタリアと並び世界をリードする地位にある。また、長年芸術面で欧州世界をリードする地位にあることから、パリを中心に多くの諸外国の芸術家やクリエイターを引きつけている。

特徴的な社会風土としてよく挙げられる点は、強烈な中央集権社会、エリート主義社会、および役人社会官僚主義)であることなどである。世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造自体を指して、しばしば批判的な意味を含めたうえで『官僚天国』『役人王国』などと形容されることがある。

食文化[編集]

詳細は フランス料理 を参照

食文化の面では、豊かな農産物と王制時代の宮廷文化を背景にしたフランス料理が有名であり、上流階級のフランス料理の他にも地方毎に様々な特色を持つ郷土料理が存在している。蕎麦のクレープや、ケーキなどの菓子文化も発達した。バケットやバタール、クロワッサンなどのフランス発祥のパンも、日本ではフランスパンと呼ばれて親しまれている。チーズワインの生産国としても名高く、AOC法によって厳格に品質管理されたフランスワインは広く国内外に親しまれている。カフェ文化が育ったのもフランスであり、17世紀後半に生まれたフランスのカフェ文化は、現在まで広く世界中に根付いている。

文学[編集]

詳細は フランス文学 を参照

フランス・ルネサンスの文学 も参照

中世においては騎士道を歌い上げる叙事詩が文学の主流を担い、11世紀に『ローランの歌』が成立した。

ルネサンス期にはフランソワ・ラブレーが活躍し、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を著した。その後の絶対主義時代からフランス革命期にかけてマルキ・ド・サドなどが活躍した。

19世紀には『赤と黒』のスタンダールオノレ・ド・バルザックヴィクトル・ユーゴー、『三銃士』のアレクサンドル・デュマ・ペールなどが活躍した。『八十日間世界一周』、『海底二万里』で知られるジュール・ヴェルヌサイエンス・フィクションの先駆者となった。

第一次世界大戦後の戦間期には、『帰郷ノート』などで知られるマルティニーク出身のエメ・セゼールは、セネガル出身のレオポール・セダール・サンゴールらと共に、科学的人種主義によって不当な扱いを受けていたアフリカ系黒人の文化の再評価を図るネグリチュード運動を担った。

哲学[編集]

フランス現代思想 も参照

中世において神学者のピエール・アベラール唯名論を唱え、スコラ学の基礎を築いた。後にスコラ学はシチリア王国出身のトマス・アクィナスの『神学大全』によって大成された。一方正統カトリック信仰とは異なる立場で南フランスでは一時グノーシス主義の影響を受けたカタリ派が勢力を伸ばしたが、アルビジョワ十字軍によるフランス王権の拡張やカトリックによる弾圧によってカタリ派は15世紀までに滅んだ。

ルネサンス期にはミシェル・ド・モンテーニュが活躍し、『エセー』を著してその中でアメリカ大陸アフリカの住民を擁護した。しかし、モンテーニュの非西欧世界への視線は非西欧を「文明」として捉えることはせず、後のルソーに先んじて「高貴な野蛮人」として扱うものに留まった。

宗教改革や対抗宗教改革後の17世紀にはジャンセニスムガリカニスムが隆盛を迎え、ブレーズ・パスカルジャック=ベニーニュ・ボシュエらが活躍し、それぞれの立場からカトリック信仰を擁護した。また、『方法序説』を著したルネ・デカルトによって近代哲学が成立した。

18世紀には信仰よりも理性を重視する啓蒙思想が発達し、ジャン=ジャック・ルソーシャルル・ド・モンテスキューヴォルテールフランソワ・ケネーらが活躍した。これらの思想家は儒教の影響などもあって、それまでのキリスト教会が担っていた神聖な権威よりも理性を重視する合理主義的な考察を進め、君主による絶対主義を否定するアメリカ独立革命フランス革命の理論的支柱となった。しかし、同時に啓蒙主義によってもたらされた合理主義は植民地サン=ドマングや、18世紀末から19世紀末にかけて啓蒙思想を理論的支柱として独立したアメリカ合衆国ラテンアメリカ諸国において、理性を持たない「半人間」という扱いをうけた黒人アメリカ先住民インディアンインディオ)を、「より理性的な」白人が合理的に奴隷化し、収奪することを合法化する思想ともなった[18]

フランス革命中に活躍した平等主義者フランソワ・ノエル・バブーフは、その思想の先見性から共産主義の先駆者と位置づけられた。『人権宣言』の説く「人間」に、女性が含まれないことを指摘したオランプ・ド・グージュフェミニズムの先駆者となった。

啓蒙主義を理論的支柱としたフランス革命が一段落した19世紀前半にはアンリ・ド・サン=シモンシャルル・フーリエによって社会主義思想が唱えられた。彼等の思想は後にカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスによって空想的社会主義と呼ばれた。同じ頃オーギュスト・コント実証主義を唱え、実証主義は19世紀後半のラテンアメリカ諸国の政治や文化(1889年のブラジルの共和制革命など)に大きな影響を与えたが、資本主義経済の確立を唱えた実証主義は、ラテンアメリカにおいて、社会進化論などと共に国家が資本主義的な利用を図るために「野蛮」なインディオの共有地や解体し、半奴隷労働を強制することを理論的に支えた。19世紀半ばにピエール・ジョゼフ・プルードン無政府主義(アナルキスム)を体系化し、無政府主義はミハイル・バクーニンによってマルクスとエンゲルスの史的唯物論科学的社会主義)に対抗する社会主義思想となった。帝国主義の時代において、このような19世紀までの社会主義思想も含めた多くの社会思想は、マルクス主義者のポール・ルイ(ポール・レヴィ)や、哲学者のフェリシヤン・シャレのような数少ない例外を除いて植民地主義は「野蛮」な非西欧の「文明化」に奉仕するものだとして、真剣に植民地支配やその結果である収奪、暴力を批判する思想とはならなかった[19]

第一次世界大戦後の戦間期にはアンリ・ベルクソンジョルジュ・ソレルらが活躍した。一方、植民地からはマルティニーク出身のエメ・セゼールやセネガル出身のレオポール・セダール・サンゴールが科学的人種主義によって不当に評価を低く見られていた黒人とアフリカ文明を再評価する、ネグリチュード運動が提唱された。

第二次世界大戦後には実存主義哲学が隆盛を迎え、ジャン=ポール・サルトルやマルティニーク出身のフランツ・ファノンは反帝国主義の立場からアルジェリア戦争に反対すると共に、アルゼンチンの革命思想家チェ・ゲバラゲバラ主義毛沢東毛沢東主義と共に植民地第三世界におけるマルクス主義による革命闘争の理論的支柱となった。実存主義者のシモーヌ・ド・ボーヴォワールはフェミニズム運動を牽引した。1950年代から1960年代のフランスでは、知識人を中心に毛沢東主義が流行した。

実存主義の後には、1960年代からスイスの言語学フェルディナン・ド・ソシュールや、人類学レヴィ・ストロースヘーゲル学者アレクサンドル・コジェーヴによって構造主義が隆盛を迎え、ルイ・アルチュセールミシェル・フーコージャック・デリダジル・ドゥルーズエマニュエル・レヴィナスなどが活躍した。オーストリアフロイトが大成した精神分析学は、20世紀後半にパリ・フロイト派を立ち上げたジャック・ラカンによって新たな段階に至った。構造主義の後にはポスト構造主義が隆盛を迎えたが、1994年のソーカル事件により、構造主義やポスト構造主義の「知の欺瞞」が暴露され、衒学的な姿勢は厳しく批判された。ただし、このような限界がありながらも、未だにフランス初のポストモダニスムアラン・バディウのようなフランス人のみならず、アメリカ合衆国ガヤトリ・チャクラヴォーティ・スピヴァク(デリダ派)やジュディス・バトラー(フーコー派)スロヴェニアスラヴォイ・ジジェク(ラカン派)らに批判的に継承され、発展を続けているのも事実である。

脱植民地化時代のマルティニークにおいてはセゼールやファノンの後継者であるエドゥアール・グリッサンの全世界論や、パトリック・シャモワゾーラファエル・コンフィアンらのクレオール主義が唱えられた。

1990年代には、かつてチェ・ゲバラと共にボリビアでの革命運動に参加したレジス・ドブレによってメディオロジーが唱えられるなど、ポストモダニスム以外の哲学のあり方も変化している。

美術[編集]

詳細は フランス美術 を参照

20世紀美術 も参照

フランスは芸術の国として広くその名を知られており、国内、海外を問わず多くの芸術家がフランスで創作活動を行った。ファン・ゴッホパブロ・ピカソル・コルビュジエなどはフランスで創作活動を行った芸術家達の内の極一部である。

18世紀末から19世紀初めにかけては新古典主義により古代ギリシア古代ローマの文化の復興運動が進められ、フランス革命を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドなどが活躍した。

19世紀前半にはロマン主義写実主義が隆盛を迎え、ウジェーヌ・ドラクロワギュスターヴ・クールベらが活躍した。

19世紀後半には印象派象徴派ポスト印象派ジャポニスムが隆盛を迎え、エドゥアール・マネクロード・モネポール・セザンヌポール・ゴーギャンらが活躍した。

20世紀初頭にはフォーヴィスム(野獣派)、キュビスムアール・ヌーヴォーアール・デコが隆盛を迎え、ジョルジュ・ブラックアンリ・マティスらが活躍した。

1918年に第一次世界大戦が集結し、それまで世界の中心的地位を占めていたヨーロッパが衰退すると、戦間期にはシュルレアリスムなどそれまでの西欧の美術様式に逆らった美術運動が発展した。

第二次世界大戦後に冷戦構造の中でアメリカ合衆国が西側世界の中心となると、フランスの文化的な地位は相対的に低下したが、終戦直後から1950年代にかけてアンフォルメルや、1960年代に全盛を迎えたヌーヴォー・レアリスムなどでフランスの芸術運動はアメリカ合衆国と激しく主導権を争った。

音楽[編集]

詳細は フランス音楽 を参照

ポピュラー音楽においては20世紀初頭から1950年代にかけてミュゼットや、いわゆるシャンソンとして知られる音楽が流行し、エディット・ピアフイヴ・モンタンシャルル・アズナヴールなどが活躍した。また、戦前はアルゼンチンタンゴが流行し、アルゼンチンでは「パリのカナロ」などの名曲が作られた。

1960年代から1970年代にはアメリカ合衆国やイギリスロックの影響を受け、ミッシェル・ポルナレフシルヴィ・バルタンフランス・ギャルなどが活躍した。

1980年代以降はフランスの旧植民地から、出稼ぎにやってきた人々や活動の拠点を母国からフランスに移した音楽家も活躍し始め、セネガルユッスー・ンドゥールマリ共和国サリフ・ケイタ、アルジェリア系のラシッド・タハのような音楽家が活動している。

映画[編集]

詳細は フランス映画 を参照

ヌーヴェルヴァーグ も参照

フランスにおける芸術の中でも近年とりわけ重要視される文化は映画である。フランスで映画は、第七芸術と呼ばれるほど、深く尊敬を集め親しみある存在である。毎年5月には南仏の都市カンヌにおいてカンヌ映画祭が開催され、世界中から優れた映画関係者が集まり華やかで盛大な催しが行なわれる。

ファッション[編集]

ファッションの大衆化が進んだ19世紀以降、特に20世紀に入ってからはフランスのファッションブランドが世界を席巻しており、ユベール・ド・ジバンシィイヴ・サンローランクリスチャン・ディオール、ガブリエル(ココ)・シャネルなどのファッションデザイナーによるオートクチュールプレタポルテの他、これらのファッションブランドが展開する香水やバッグなどが人気を博している。他にも、ルイ・ヴィトンエルメスなどの旅行用品や馬具のブランドが衣類や靴、バッグ、小物、香水などのラインを出し世界中で人気を博している。

また、パリコレクションが世界中のファッション雑誌やバイヤーからの注目を集めていることから、フランス以外の諸外国のファッションデザイナーの多くがコレクションへの参加を行っており、日本からもコム・デ・ギャルソン川久保玲)やケンゾー1999年まで高田賢三)、Yohji Yamamoto(山本耀司)などの多数のファッションブランドが毎年参加しているなど隆盛を極めている。

これらのファッションにおけるフランスの隆盛は、フランス文化を諸外国に広めるだけでなく、外貨獲得にも大きく貢献していることから、現在では業界そのものが政府による大きなバックアップを受けている。

世界遺産[編集]

フランス国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が26件、自然遺産が1件存在する。さらにスペインにまたがって1件の複合遺産が登録されている。詳細はフランスの世界遺産を参照。

祝祭日[編集]

日付 日本語表記 フランス語表記 備考
1月1日 元日 Jour de l'An
3月 - 4月 復活祭日曜日 Pâques 移動祝日
3月 - 4月 復活祭翌日の月曜日 Lundi de Pâques 移動祝日
5月1日 メーデー Fête du Travail
5月8日 第二次世界大戦戦勝記念日 Le 8 mai
4月 - 6月 キリスト昇天祭 Ascension 移動祝日
5月 - 6月中の日曜日 聖霊降臨祭 Pentecôte 移動祝日
5月 - 6月 聖霊降臨祭の翌日の月曜日 Lundi de Pentecôte 移動祝日
7月14日 革命記念日 Fête Nationale
8月15日 聖母被昇天祭 Assomption
11月1日 諸聖人の日 Toussaint
11月11日 第一次世界大戦休戦記念日 Fête de l'Armistice
12月25日 クリスマス Noël

スポーツ[編集]

詳細は フランスのスポーツ を参照

フランスの3大競技はサッカー自転車ラグビーである。他にもモータースポーツ、及び下記のスポーツが盛んである。

テニス
ローラン・ギャロスが代表するテニスも盛んで、世界的に著名な選手や監督、指導者も多い。四大大会の一つである全仏オープンはグランドスラム唯一のクレーコートとして有名。現在はジル・シモンリシャール・ガスケガエル・モンフィスジョー・ウィルフリード・ツォンガファブリス・サントロセバスチャン・グロージャン等数多くのトップ選手のいる強豪国でもある。
ゴルフ
ゴルフ場は多いのにゴルフは競技人口が少なく、当のフランス人たちも不思議な現象と捉えている。
柔道
Judo と綴られる柔道は、競技人口が日本を上回るといわれる程の人気がある。
競馬
ロンシャン競馬場凱旋門賞コースでは世界最高峰の競走として知られる。また、繋駕速歩競走が盛んであり、平地競走障害競走よりも人気があるといわれている。ヴァンセンヌ競馬場で行われるアメリカ賞は世界最高峰の競走で知られる。(詳細についてはフランスの競馬を参照)

他にはペタンクが年中よく親しまれており、アルプス地方ではスキーなどのウィンタースポーツが伝統的に盛んである。

サッカー[編集]

フランスで人気のスポーツの1つとして、サッカーが挙げられる。フランスはこれまでに、FIFAワールドカップ2大会とUEFA欧州選手権(通称EURO)2大会の開催国になった。1984年欧州選手権で優勝したフランス代表の流麗なサッカーは「シャンパン・フットボール」と形容された。2回目の自国開催となった1998年ワールドカップでは大会初優勝を遂げ、直後の2000年欧州選手権でも優勝した。メンバーの多くを移民の末裔や海外県出身者が占める代表チームは、国民統合の象徴的な存在にもなった。

国内の1部リーグにはリーグ・アンがある。バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞したフランス人選手には、レイモン・コパミシェル・プラティニジャン=ピエール・パパンジネディーヌ・ジダンなどが挙げられる。

また、FIFA初代会長のロベール・ゲラン、ワールドカップ創設の功労者ジュール・リメ、欧州選手権の提唱者アンリ・ドロネーHenri Delaunay)、ヨーロピアンカップの提唱者ガブリエル・アノGabriel Hanot)、UEFAの会長となったプラティニなど、国際サッカーの発展において重要な役割を果たしたフランス人は数多い。その後、サッカー人口が増加した。

バスケットボール[編集]

フランスのバスケットボール選手を参照

近年数多くのNBA選手を輩出しており、中でもNBA史上初の外国人選手のファイナルMVP受賞者となったトニー・パーカーが有名。U-18代表など下のカテゴリーの世界選手権でも銅メダルを獲得するなど、躍進目覚しい。

国内にはLNBと呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。代表はこれまでにオリンピック出場6回、世界選手権出場5回を誇る。2000年シドニーオリンピックでは銀メダル獲得。決勝戦でドリームチームⅣと呼ばれたアメリカを後一歩の所まで追い詰め、それまでの「アメリカ圧勝」の図式を崩した。この苦戦を機に、「ドリームチーム」という名前は使用されなくなった。

バスケットボール欧州選手権(通称『ユーロバスケット』)では、2005年に銅メダル獲得。代表チームの課題は、NBA選手が多い為、オフシーズンの代表招集に主力が全員揃わない傾向にある。代表チームのニックネームは「Les Bleus」。

サイクルロードレース[編集]

ファイル:TourDeFrance 2005 07 09.jpg
毎年7月に3週間以上かけて行われるツール・ド・フランス

フランスの自転車選手を参照

世界最大で三大ツールの一つであるツール・ド・フランスが行われ、人気のスポーツである。ツール・ド・フランスの歴史は古く、1903年に第1回大会が行われて以来、二度の大戦によって1915年から1918年及び、1940年から1946年の中断があるものの、2008年で95回を数える。しかし、近年ではフランス出身の選手はあまり活躍しておらず1985年ベルナール・イノーを最後に総合優勝者は出ていない。その他フランスで行われる主な大会としては、パリ~ニースパリ〜ルーベドーフィネ・リベレツール・ド・フランスGP西フランス・プルエーパリ~ツールがある。

ラグビー[編集]

フランスにおいてラグビーは富裕層と南部を中心に人気を誇っている。国内ではサッカーと人気を二分するスポーツであり、欧州においてもイギリスに次ぐ強豪国である。フランス代表は流麗で華やかなラグビーを展開することから、「シャンパン・ラグビー」などと呼ばれている。2007年にはワールドカップ(W杯)を自国開催したが、準決勝で敗れ、初優勝はならなかった。フランス政府は全国9カ所に、少年層から青年層までの有望選手が勉強しながら育成できる施設をつくっている。

モータースポーツ[編集]

ルノープジョーといった最古の量販車メーカーを抱えることもあって、自動車が実用化されだした20世紀初頭から早くもフランス国内では自動車レースが盛んに行われるようになり、1906年には世界初のグランプリレース、フランスグランプリを開催している。他にも、1923年に初開催されたル・マン24時間レース、近年はフランス国内がコースに含まれなくなったが1979年初開催のパリ・ダカール・ラリーでも知られる。自動車会社としては、ルノー(ルノーF1)がF1、プジョーが主にラリーで活躍しているほか、マトラリジェといった比較的小規模なメーカーもF1やル・マンで存在感を示している。多くのドライバーもモータースポーツ黎明期より数多く輩出しており、そのため優れた結果を残したドライバーも数多い。

クリケット[編集]

フランスにおいてクリケットはマイナー競技といわれているが、自国開催のパリオリンピック (1900年)においてクリケット競技が唯一行われており、イギリス代表と対戦している。

脚註[編集]

  1. 佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』(2009年、講談社、講談社現代新書)
  2. Massacre of the Pure. Time. April 28, 1961.
  3. Don O'Reilly. "Hundred Years' War: Joan of Arc and the Siege of Orléans". TheHistoryNet.com.
  4. Vive la Contre-Revolution!. The New York Times. July 9, 1989.
  5. Napoleon and German identity. Magazine article by Tim Blanning; History Today, Vol. 48, April 1998.
  6. France's oldest WWI veteran dies. BBC News. January 20, 2008.
  7. In France, a War of Memories Over Memories of War. The New York Times. March 4, 2009.
  8. 山田文比古『フランスの外交力』集英社(集英社新書) 2005 pp.129-130
  9. フランス - 概況 - JETRO
  10. 最近のフランス情勢及び日仏関係 - 外務省
  11. フランス - 概況 - JETRO
  12. http://www.jetro.go.jp/jpn/stats/trade/excel/rank2004.xls 2004年日本の貿易相手国TOP50] - JETRO
  13. フランス;貿易統計 輸出(国・地域別) - JETRO
  14. 統計値は、United Nations Statistical Yearbook 2004、「世界国勢図会 2005/06」、矢野恒太記念会、ISBN 4-87549-435-1 による。
  15. Insee Premiere n°1118 - Bilan demographique 2006 : un excedent naturel record(フランス語)
  16. フランスの05年出生数、3年連続増加・出生率1.94に - NIKKEI NET、2006年1月19日
  17. https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/fr.html 2009年3月30日閲覧
  18. エドゥアルド・ガレアーノ収奪された大地 ラテンアメリカ五百年地』大久保 光夫訳 新評論 1971,1986 pp.102-104
  19. 平野千果子『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』人文書院 2002/02 0pp.65-pp.81,pp.236-pp251

参考文献[編集]

  • 福井憲彦(編)『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社 2001/08 (ISBN 4-634-41420-1
  • 平野千果子『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』人文書院 2002/02 (ISBN 4-209-51049-5 C3022)
  • 梅本洋一 /木下長宏 /大里俊晴 (編)『現代フランスを知るための36章』明石書店 2000 (ISBN 4-7503-1281-9
  • 安達功 『知っていそうで知らないフランス 愛すべきトンデモ民主主義国』平凡社(平凡社新書) 2001 (ISBN 4-582-85114-2
  • 篠沢秀夫『フランス三昧』中央公論社(中公新書) 2002 (ISBN 4-12-101624-6
  • ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フランス フランスは「住めば都」か』鳥取絹子訳 集英社 (集英社新書) 2003 (ISBN 4-08-720189-9
  • 小田中直樹 『フランス7つの謎』文藝春秋(文春新書) 2005 (ISBN 4-16-660427-9
  • 山田文比古『フランスの外交力』集英社(集英社新書) 2005 (ISBN 4-08-720310-7 C0231)
  • 柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店(岩波新書) 2006 (ISBN 4-004-31016-4
  • 紅山雪夫『フランスものしり紀行』 新潮社(新潮文庫) 2008 (ISBN 4-10-104327-2
  • 小倉孝誠 『パリとセーヌ川 橋と水辺の物語』中央公論社(中公新書) 2008 (ISBN 4-12-101947-4
  • ピエール・ガクソット『フランス人の歴史』 全3巻 (みすず書房)
  • アンドレ・モロワ『フランス史』上・下 (新潮文庫)
  • アンドレ・モロワ『フランス革命』読売新聞社 1950

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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