高山登久太郎
高山 登久太郎(たかやま とくたろう、 1928年 - 2003年6月15日[1])は、日本のヤクザ。指定暴力団・四代目会津小鉄会長、二代目中川組組長。本名は姜 外秀(カン ウェス、강 외수)。若い頃は、今里のタッカン、タッカンと呼ばれた。
来歴[編集]
昭和3年(1928年)、大阪府大阪市東成区今里で生まれた。両親は韓国人だった。
昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が勃発した。戦時中、高山登久太郎は、徴用に借り出され、軍需工場で働いた。
昭和20年(1945年)8月15日、玉音放送がラジオ放送された。高山登久太郎一家は、祖国・韓国に帰るため、大阪から北九州市門司に移った。
その後、高山登久太郎の叔父が事故死した。高山登久太郎は、叔父の遺骨を、大阪府大阪市天王寺の一心寺に届けるために、大阪に戻った。高山登久太郎は、一心寺で叔父の納骨を済ますと、大阪市東成区今里に行った。今里の闇市で、旧友と再会し、門司へは帰らず、今里に留まることを決めた。
それから、高山登久太郎の父親が、今里の高山登久太郎を訪ねてきた。高山登久太郎は、今里の映画館前で、父親と出会ったが、「映画館の中で友人と待ち合わせをしている」と嘘をつき、映画館に入ってから、通用口を通って、その場を去った。高山登久太郎は、韓国に帰ることよりも、日本に留まることを選んだ。
その後、高山登久太郎は、今里で、今里の闇市のヤクザ・中尾健太郎(通称はチビケン)と知り合った。高山登久太郎は、中尾健太郎の下で愚連隊を組織し、中尾健太郎の闇市の縄張りを守り、拡張させた。
それから、高山登久太郎は、闇市での度重なる喧嘩で、警察に逮捕され、懲役6年の実刑判決を受けた。
昭和21年(1946年)、高山登久太郎は、北海道の帯広刑務所に収監された。高山登久太郎は、刑務所で、独居房を好んだ。刑期中、高山登久太郎への面会者は、1人もいなかった。
昭和24年(1949年)冬、高山登久太郎は、刑期が4年足らずに短縮されて、帯広刑務所を出所した。出所時に、外国人登録証を手渡された。高山登久太郎は、大阪の今里に移った。中尾健太郎の自宅は空き家になっており、中尾健太郎の消息は不明だった。
昭和25年(1950年)、高山登久太郎は、遠い親戚を頼って、滋賀県大津市に移った。
その後、高山登久太郎は、進駐軍から手に入れた洋煙草を闇に流すブローカーや遊郭周辺でのポン引きなどの仕事をした。
同年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。
同年8月8日、在日本大韓民国民団(略称は民団)は、641人の志願兵を集め、在日韓僑自願軍を結成した[2]。
同年、高山登久太郎は、配下20人以上を抱える愚連隊の首領となっていた。
このころ、高山登久太郎は、中川組・中川芳太郎組長と知り合った。
昭和26年(1951年)、2月、在日韓僑自願軍が出征した。
同年、高山登久太郎は、中川芳太郎から盃をもらい、中川芳太郎の若衆となった。同時に、愚連隊の配下を集めて、高山組を結成した。
それから、1年足らずで、高山登久太郎は、中川組若頭となった。
その後、中川芳太郎は、滋賀県県庁や大津市役所から、開設して間もない大津競輪場の警備を依頼され、快諾した(中川芳太郎は、旧制第三高等学校の出身だったため、滋賀県県庁や大津市市役所の幹部職員に同級生がいた)。
昭和28年(1953年)7月、高山登久太郎は、同胞の仲間6人と、民団大津支部で、志願兵に応募した。高山登久太郎には、親の承諾書がなかったため、民団大津支部からの許可が、でなかった。2日後、民団大津支部は、高山登久太郎の志願を認めた。高山登久太郎は、手続きを済ませてから、大津駅に行き、鉄道で東京都の民団東京本部に向かった。
同年7月27日、朝鮮戦争は停戦となった。
同日、高山登久太郎は、民団東京本部に着き、そこで、朝鮮戦争の停戦を知った。在日韓僑自願軍の派遣見送りが決定していた。高山登久太郎は、大津市に戻った。
その後、高山登久太郎は、万和建設株式会社を設立した。高山組組員を社員とし、組員に給料を出した[3]。
昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。昭和61年(1986年)7月、三代目会津小鉄会・図越利一会長から、会津小鉄会会長を継承し、四代目会津小鉄会を発足させた。
平成4年(1992年)4月、京都府で、五代目山口組(組長は渡辺芳則)中野会(組長は中野太郎)関係の不動産業者が、会津小鉄系組員に刺殺された。
同年7月27日、京都府公安委員会は、会津小鉄を指定暴力団に指定した[4]。
平成5年(1993年)6月、山口組と会津小鉄の最高幹部が食事会を開催し、親戚縁組を行った
平成5年10月、会津小鉄組員が、京都市の山口組系事務所を銃撃した。
平成5年10月、山口組系組員が、滋賀県大津市の会津小鉄系組事務所の駐車場で、会津小鉄系組員を射殺した。
平成7年(1995年)6月、山口組と会津小鉄の間で、26時間以内に14件の発砲事件が起った。すぐに、山口組と会津小鉄は、手打ちをした。
平成7年7月、中野太郎の自宅に、銃弾が撃ちこまれた。
同年8月24日夜、京都市東山区祇園の繁華街で、山口組藤和会山下組(組長は山下薫)組員と会津小鉄系山浩組組員が口論となった。山下組組員が、山浩組・山本浩令組長を狙撃。同組長は重傷を負う。その後、山口組関係者宅に銃弾が撃ちこまれた。
同年8月25日午前4時10分、山口組藤和会山下組組員2人が、京都市左京区の山浩組事務所近くで、私服で警戒中だった京都府警・巡査部長を、会津小鉄系組員と勘違いして射殺した[5]。
平成8年(1996年)2月18日、山口組総本部で、山口組若頭補佐・桑田兼吉と共政会・沖本勲会長と会津小鉄若頭・図越利次(後の五代目会津小鉄会会長。三代目会津小鉄・図越利一会長の長男)の五分の兄弟盃が、執り行なわれた。
同年4月、宇治市のパチンコ店で、会津小鉄系組員が刺殺された。
同年7月10日、中野会会長襲撃事件が勃発した。同日、四代目会津小鉄若頭・図越利次(後の五代目会津小鉄会会長。三代目会津小鉄・図越利一会長の長男)ら会津小鉄最高幹部が、山口組総本部を訪れ、会津小鉄系組員が、山口組若頭補佐・中野太郎を襲撃したことを詫びた。山口組若頭・宅見勝は、図越利次らの謝罪を受け入れ、中野太郎と協議することなく、和解した。
平成15年(2003年)6月15日、高山登久太郎は死去した[1]。
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 出典は、旧宮崎学のHP『キツネ目事件調書』
- ↑ 出典は、『在日韓国人歴史資料館~100年の歴史を後世~』のHPの「在日100年年表」の「解放後(1945~)」
- ↑ 普通、暴力団では組員に給料は出ない。組員は、組に上納金を支払うだけである。上納金を支払うことにより、組員は組の代紋を使って、シノギを行うことができるようになる。シノギを見つけるのも、組員自身が自分の力で行わなければならない。組員同士が仲間になって、1つのシノギを組織的に行うことも多い。
- ↑ 出典は、『松江八束建設業暴力追放対策協議会』のHPの「指定暴力団」
- ↑ 京都府警巡査部長の遺族は、五代目山口組・渡辺芳則組長の「使用者責任」の認定を求めて、損害賠償請求訴訟を起こした。
平成16年(2004年)11月、渡辺芳則は使用者責任を認定した最高裁判決を受けた。
これは、初めて、最高裁判所が、暴力団組長に対して使用者責任を認める決定だった。
渡辺芳則は、この判決を受けると、長期静養を宣言して組の運営を執行部に委譲した
高山登久太郎関連の書籍[編集]
- 宮崎学『突破者異聞 鉄(kurogane)―極道・高山登久太郎の軌跡』徳間書店、2002年、ISBN 4198613885
- 宮崎学、山田一成、宮田やすひろ『-鉄 KUROGANE- 激闘ヤクザ伝 四代目会津小鉄 高山登久太郎』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6683
高山登久太郎関連の映画・オリジナルビデオ[編集]
- 辻裕之監督『極道・高山登久太郎の軌跡 KUROGANE』(2004年、GPミュージアムソフト)、高山登久太郎役は、小沢仁志
参考文献[編集]
- 『松江八束建設業暴力追放対策協議会』のHPの「暴力団ミニ講座39)五代目会津小鉄会」
- 宮崎学、山田一成、宮田やすひろ『-鉄 KUROGANE- 激闘ヤクザ伝 四代目会津小鉄 高山登久太郎』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6683
- 溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4
- 実話時代編集部『山口組若頭』洋泉社、2007年、ISBN 978-4-86248-108-5
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