道上洋三
どうじょう ようぞう | |
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道上 洋三 | |
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プロフィール | |
本名 | |
愛称 | |
出身地 | 山口県熊毛郡平生町 |
国籍 | |
生年月日 | 1943年3月10日((2024-1943)+((11-3)*100+(25-10)>=0)-1歳) |
没年月日 | |
血液型 | B型 |
最終学歴 | 日本大学法学部 |
勤務局 | 朝日放送 |
所属事務所 | |
部署 | 常勤顧問兼エグゼクティブ・アナウンサー |
職歴 | 取締役(2003年-2007年) |
活動期間 | 1965年- |
ジャンル | ラジオパーソナリティ |
配偶者 | 熊谷瞭子(ナレーター) |
家族 | どうじょう拓人(長男・俳優) |
公式サイト | アナウンサープロフィール 道上洋三 |
出演/担当番組・活動 | |
現在 | 『おはようパーソナリティ道上洋三です』 |
過去 | 『ABCヤングリクエスト』、『歴史街道~ロマンへの扉』、『Club JONR』 |
その他 | |
備考: | |
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道上 洋三(どうじょう ようぞう、1943年3月10日 - )は、朝日放送のエグゼクティブ・アナウンサー。同社常勤顧問でもある。過去には同社取締役も務めた。
目次
来歴・人物[編集]
山口県熊毛郡平生町出身で血液型はB型。5歳までは広島県甲奴郡上下町の母方の祖父母宅で育つ[1][2]。6歳から18歳までが平生町育ち[1]。山口県立熊毛南高等学校を経て日本大学法学部を卒業した。俳優の原田大二郎は、中学校・高校の2年後輩に当たる。
高校時代は一時期野球部にいたが「弱すぎる」という理由で退部。[3]陸上部に転籍してからは「山口に道上あり」と言われるほど好成績を収めた。日大進学後は陸上競技のハードルで東京オリンピックを目指していたが1年生の時に腰を痛めたため断念。[4]「選手としてはオリンピックに参加できなかったけど、報道する人間として参加できないものか」との思いから、スポーツアナウンサーを志すようになった。[5]
朝日放送入社後[編集]
1965年にアナウンサーとして朝日放送(ABC)に入社した。同期入社のアナウンサーに長らくスポーツ実況などで活躍した因田宏紀や辻豊人などがいる。
入社してすぐに先輩の今井音也(後の桂音也)が作った落語研究会に強引に入会させられた。新入社員なので共通語の講義を受ける一方で、落語研究会の一員として桂枝雀に上方落語の稽古もつけてもらっていた。そのためしゃべり方が混乱してしまい、共通語の講師にも枝雀にも「訛がとれていない」と指摘されていた。落語研究会の発表会では「煮売り屋」を演じた。
また、入社2年目の1966年には自身の希望でビートルズの初来日公演(日本武道館)の模様を取材した。この取材について道上は「日本のディスクジョッキーで東京公演を実際に武道館で鑑賞したのは自分だけ」と語っている。[6]
ラジオ番組での活動[編集]
1966年4月1日から放送を開始した深夜番組『ABCヤングリクエスト(ヤンリク)』で初代のパーソナリティを担当。後の1974年4月には、当時、ABCテレビのキー局であったTBSへ出向となり、全国ネットのテレビの朝番組の司会に抜擢されて担当し(後述)若年層を中心に人気を博した。ちなみに『ヤンリク』にはTBSへ出向する1974年3月まで8年にわたって出演していた。[7]
1975年4月、ABCテレビのキー局がTBSからNETテレビ(現・テレビ朝日)に変更されネットチェンジされた事により、出向先のTBSからABCに復帰となり、『歌謡曲ぶっつけ本番』などに出演。1977年3月からはABCラジオ『おはようパーソナリティ中村鋭一です』の後継番組『おはようパーソナリティ道上洋三です(おはパソ)』で、30年以上にわたってパーソナリティを務めている(後述)。
また、2009年10月から2011年10月1日までは、土曜深夜(日曜未明)の『Club JONR』で久しぶりに深夜放送へ出演。『ヤンリク』のパーソナリティを経験した(元)アナウンサーの1人として、ナビゲーターやをパーソナリティを担当していた。2011年11月8日放送の特別番組『パーソナリティ秋の交流戦セカンドステージ 角からすみまで道上洋三です』では、ABCラジオの番組初出演の角淳一(毎日放送出身のフリーアナウンサー)と共演している。
スポーツアナウンサー時代[編集]
『ヤンリク』でパーソナリティを務めていた時期には、スポーツアナウンサーとして、ABCラジオのプロ野球・全国高等学校野球選手権中継で実況を担当したこともある。プロ野球中継では、大阪球場(南海ホークス)や藤井寺球場(近鉄バファローズ)などで行われたパ・リーグの試合の裏実況[8]が中心で、阪神甲子園球場での阪神タイガース主催試合を実況する機会はほとんどなかった。[9]
スポーツ実況からは既に退いているが、『おはパソ』の「スポーツの話題」で『ABCフレッシュアップベースボール』の実況音源を再生する際には、実況を担当した後輩アナウンサーの口調を大袈裟に誇張して真似ることが多い。2010年6月29日には、『おはパソ』での収録企画ながら、甲子園球場でのナイトゲーム・阪神タイガース対中日ドラゴンズ戦で久々に野球の試合を実況。[10]翌日の同番組内「スポーツの話題」で、収録音源の一部が実際に放送された。
テレビ番組での活動[編集]
道上は、『ヤンリク』での人気を受けて、『ヤング720』(当時ABCが属していたTBS系列の早朝生放送番組、全国ネット)土曜日の司会に抜擢。[11]全国に顔と名前を知られるようになった。
1971年3月に『ヤング720』が終了する際には、後継番組『モーニングジャンボ』への出演を打診されたが固辞、[12]その後、1974年4月から1年間、ABCからTBSへの出向扱いで『モーニングジャンボ奥さま8時半です』に出演した。
ABCへの復帰後に『おはパソ』を始めてからは、『歴史街道』などでナレーションを担当。1980年代に放送された『それゆけ!タイガース』や、阪神のセントラル・リーグ優勝記念特別番組などにも登場した。ただし、『おはパソ』が月~金曜日の生放送であることなどから、スタジオレギュラーとして番組に出演する機会は少ない。
取締役に就任後[編集]
2003年に朝日放送取締役に就任した。ABCの現役アナウンサーが取締役を兼任したのは道上が初めてである。[13]しかし、「アナウンサー業務と取締役との兼業が成り立たなくなった」ことを理由に、2007年6月27日付で取締役を退任。常勤顧問兼エクゼクティブ・アナウンサーに就任した。[14]
「おはようパーソナリティ道上洋三です」[編集]
『おはパソ』では、プロ野球シーズン中の生放送において、前日に阪神タイガースが勝利を収めると阪神タイガースの歌(いわゆる「六甲おろし」)をフルコーラスで歌うことで有名。また、番組の企画でホノルルマラソンの完走(後述)や水泳の長距離完泳を果たしたほか、和太鼓やマスターズ陸上の予選会(短距離走)などにも挑戦した。
- 道上が披露する「六甲おろし」には、メロディーの一部(「輝く 我が名ぞ 阪神タイガース」の太字部分)に誤りがある。その点について、キダ・タローは、「彼のせいで誤ったメロディーが広まった」と語っている。しかし実際には、歌詞の音符に忠実に歌っていることから、このキダの主張は当てはまらない。
当番組は、前身の中村鋭一時代に続いて、現在でも関西地区のラジオで高い聴取率を記録。[15]道上も、番組の人気とともに、アナウンサーやラジオパーソナリティの域を超えた活動を展開している。
- 朝日放送主催のイベントをはじめ、関西地区で開かれる各種シンポジウムやコンサートにも、司会・パネリスト・ゲストとして頻繁に登場している。
- 当番組を聴いたことがきっかけで、道上を目標に放送業界を志した結果、同業者(アナウンサーやラジオパーソナリティなど)として活躍する人物が(関西地区を中心に)少なからずいる。[16]
しかし、2006年7月に、右目奥に良性の髄膜腫が見付かったことを公表。視覚・嗅覚の神経を塞いで生活に支障を来すほどになっていたため、髄膜腫の摘出手術を受けることを決めた。このため、7日の放送中に、17日から番組を(当初の予定で)約3ヶ月間休むことを明らかにした。夏休みなど以外で長期間番組を休むのは、放送開始以来初めてであった。幸いにも、手術は無事に成功。術後の回復も順調であったため、約2ヶ月後の同年9月25日の放送から番組に復帰した。
ちなみに、道上が『おはパソ』を担当するようになったきっかけは、前任者の中村が第11回参議院議員通常選挙への出馬を表明したことによる。[17]当時30代半ばだった道上は、「中村さんの番組は完成され尽くしている。私ごときが後任とはおこがましい」として出演を固辞していたが、結局は「お前以外に考えられない」という局側の強い要請で『おはパソ』を引き継ぐことになった。そのため、担当開始から3年間は、常に「辞めたい」「しんどい」「もうええわ」という思いを抱きながら放送していたという。[18]しかし、レギュラーゲストである高石ともやの勧めで、1981年12月に130名のリスナーとホノルルマラソンへ出場。フルマラソン初挑戦ながら、6時間39分49秒で完走した。この完走を境に、「自分のカラーで番組を続けていけるのではないか」との勇気を持てるようになった道上は、現在でもホノルルマラソンを「『おはパソ』の原点」と称している。[19]
2011年10月6日には、ABCテレビの『ビーバップ!ハイヒール』にゲスト講師として出演。「ラジオじゃできない『ラジオのないしょ話』」というテーマで、当番組にまつわるエピソードを自身の証言や再現VTRで紹介した。そのエピソードによれば、『おはパソ』への出演を続けることにマンネリズムを感じていた道上は、1995年3月を目処にラジオパーソナリティからの引退を検討。阪神・淡路大震災(同年1月17日)の発生直後には同番組の生放送で被災地からの情報を伝えたものの、それから被災地の取材・被災者とのやり取りを重ねるにつれて、ラジオパーソナリティとしての無力さを痛感したという。
道上に引退を翻意させたのは、ある『おはパソ』リスナーの言葉だった。震災直後に別の番組の取材で淡路島を訪れた後輩アナウンサー・岡元昇(『ビーバップ!ハイヒール』にもデータマンとして出演)は、震災による自宅の倒壊で生き埋めになった老婆が、ラジオから流れ続ける音声をきっかけに間一髪で救出されたことを知る。島内に身寄りのいない彼女は、『おはパソ』の熱心なリスナーであったことから、岡元の取材に対して「遠くの親戚より近くのラジオ」という言葉を残した。その様子を岡元から聞いた道上は、ラジオパーソナリティを続けることを決意。「あの老婆の言葉が、ラジオパーソナリティとしての転機になった」と、『ビーバップ!ハイヒール』で述懐している。
人物・エピソード[編集]
長年兵庫県伊丹市に在住。『おはパソ』の出演で朝日放送に出社する前には、自宅近くの昆陽池公園を散歩することが、長年の習慣になっていた。同番組のオープニングなどで散歩の模様をよく話していたこともあって、2008年には、伊丹市役所から伊丹市をPRする「伊丹大使」の委嘱を受けている[20]。
阪神タイガースファン[編集]
阪神タイガースの熱烈なファンとして有名。藤村富美男の予告ホームランを見たことをきっかけに、ファンになったという[21]。同球団の本拠地・阪神甲子園球場内にある甲子園歴史館では、2010年3月の開館時から、ファン代表の立場で顧問を務めている。また、朝日放送のアナウンサー・解説者・番組出演者や著名人で結成した応援団「チーム 虎バン主義。」の顧問でもある。
サッカー[編集]
以前は、サッカーを嫌悪するあまり、放送上での行きすぎた言動が関係者やリスナーの批判を招いたこともあった。『おはパソ』では過去に、以下の言動で物議を醸した。
- サッカー日本代表の高原直泰がエコノミー症候群になった際に、「そのまま死ねば話題になったのに」と発言。後に番組内で謝罪した。
- 大黒将志への中傷とも取れる発言をめぐって、ラジオを聴いていた大黒選手の両親から直々に抗議された。
- ABCテレビでサッカー日本代表戦(テレビ朝日系列全国中継)を放送した翌朝、関西ローカルで同時間帯にあった阪神戦を中継しなかったことに対して、苦言を呈した。
現在は上記のような言動は激減。『おはパソ』でも、浦和レッズやガンバ大阪がAFCアジアチャンピオンズリーグを制覇した時など、(野球のオフシーズンや阪神タイガースの移動日を中心に)サッカー日本代表の話題を取り上げるようになっている。
- 道上は、以前ほどサッカーに嫌悪感を示さなくなった理由として、「サッカーをしている甥から、カカーの高速ドリブルや、クリスチャーノ・ロナウドの無回転フリーキックの魅力などを教えてもらったから」と言っている。
家族・交友関係[編集]
妻でナレーターの熊谷暸子とは、『ABCヤングリクエスト』時代のパーソナリティとアシスタントという間柄。長男の一人息子は、俳優でスーパー・エキセントリック・シアターに所属するどうじょう拓人である。
原田大二郎(前述)とは、中学校・高校の在学当時から交流がある。今でも、折に触れて『おはパソ』のゲストに迎えるほど親しい。また、永六輔や高石ともやとも、長年にわたって交流を続けている。
- 現在でも、永が『おはパソ』にゲストで出演したり、永が自分のラジオ番組(TBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』)に道上を招いたりすることがある。
- 高石は、レギュラーゲストのような扱いで『おはパソ』に出演。数多くのマラソン大会に参加してきた経験から、道上にホノルルマラソンへの挑戦を勧めた(前述)。2007年に同番組で放送30周年記念のCDを制作した際には、自作の曲「もう一歩」を提供したほか、30周年記念公開生放送(同年3月21日)「1万人の六甲おろし」にもゲストで参加している。
- 道上が夏期休暇に入っていた2012年8月の第3週には、原田が5日間にわたって『おはパソ』のパーソナリティを代演した。原田がラジオのパーソナリティを務めたのは、この時が初めてである。
その他[編集]
- 山口県内で過ごした少年時代には、「遊食屋むさしの」(同県柳井市)の肉うどんを愛好していた。『おはパソ』が放送35周年を迎えた2012年には、その味をキンレイの製麺・製造技術によって再現した「道上洋三 こだわりの肉うどん」を、サークルKサンクスが地域・期間限定商品として12月に発売した。ただし、地元の山口県は販売エリアから外れている。
- ファックス送受信機を「ファックス」ではなく「ファクシミリ」と呼ぶなど、話し方の特徴として、略語の使用を避ける傾向がある[22]。また、 『おはパソ』の「今朝の朝刊」コーナーなどでは、「…ですよ。…ですけど(…の部分は同じことを言っている)」という話し方が多々聞かれる。
担当番組[編集]
現在[編集]
- ラジオ
- おはようパーソナリティ道上洋三です(パーソナリティ、1977年3月~)
過去[編集]
ラジオ[編集]
- ABCヤングリクエスト(初代パーソナリティ、1966年4月 - 1974年3月)
- 空からコンニチワ
- ABCディスカバー・サタデー~フレンドリー大丸~(1972年)
- 明日は日曜道上です(土曜7:15 - 11:00)
- 歌謡曲ぶっつけ本番
- ポップ対歌謡曲金曜日(番組後期に歌謡曲チームでレギュラー出演)
- ラジオドラマ 昔むかしのあるところ(2007年4月 - )
- Club JONR(ナビゲーター、2009年10月 - 2011年9月)
- 放送週によってはパーソナリティーも担当
- パーソナリティ秋の交流戦セカンドステージ 角からすみまで道上洋三です(2011年11月8日、前述)
- 角淳一に加えて、放送時点での『おはパソ』アシスタント・久野愛とも共演。
テレビ[編集]
- 以上TBSとネットを組んでいた時代に出演。
- それゆけ!タイガース(深夜に放送された阪神戦のビデオナイター)
- 晴れ時々たかじん(月曜日にレギュラー出演)
- 歴史街道~ロマンへの扉
- ス・テ・キの扉(2007年10月 - 2008年9月)
- 初恋net.com〜忘れられない恋のうた〜(ABCテレビ制作の土曜ナイトドラマ)
- 「episode.3 陽に向かう 後編」(2007年12月22日放送)に時計店の店主役でテレビドラマ初出演
- 週末の探検家〜夢羅針盤〜(2代目ナレーション、土曜9:55 - 10:25)
- ビーバップ!ハイヒール(前述、2011年10月6日放送)
映画[編集]
- ミスター・ルーキー(2002年公開)
- 観客として登場し、八木裕に「八木男になれ〜」とコール。
著書[編集]
- 『おはようパーソナリティ 道上洋三のないしょ話』(2011年4月20日初版刊行、朝日新聞出版、ISBN 978-4022508560)
- 自身初の著書にして、同番組の放送開始34年目で初めて出された番組本。リスナーからの手紙やゲストの話などから選んだ珠玉のエピソードを収めている。
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 (2012年8月26日) 【家族を語る】道上洋三さん(1)帰ってこない母 瀬戸内の海と山に育てられた 産経新聞 [ arch. ]
- ↑ 『おはようパーソナリティ 道上洋三のないしょ話』朝日新聞出版、147-151頁。
- ↑ 2009年の全国高校野球選手権大会(山口県大会)期間中には、同高の野球部が創部以来の快進撃を続けたことから準々決勝で敗退するまで『おはパソ』で連日戦績を紹介していた。
- ↑ 『おはパソ』での発言より。
- ↑ 軍司貞則『ラジオパーソナリティ~22人のカリスマ~』(扶桑社刊、1998年5月初版発売)に所収のインタビューより。就職活動では、朝日放送への入社が内定するまでに、新聞社や放送局を6社受験したという。
- ↑ 2009年9月9日放送の『おはパソ』でビートルズのデジタル・リマスター版アルバム世界同時発売の話題を取り上げた時の発言より。もっとも、当時の道上はビートルズにあまり興味を持っていなかったという。
- ↑ 2009年10月31日放送の『Club JONR』での発言より。出向直前まで木曜日を担当していたが、後輩アナウンサー(当時)・成宮恒雄がパーソナリティを引き継いだ。
- ↑ ラジオでは流れない放送素材用の実況。または、放送予定試合の雨天中止時に中継する予備カードでの実況。またはRKBラジオ・KBCラジオ向けの在阪球団対西鉄ライオンズのビジターゲームの実況裏送り。
- ↑ ただし裏送りでは、阪神の消化試合(広島東洋カープ戦)を、広島のラジオ局(RCCラジオ)向けに実況したことがある(『おはパソ』での発言より)。
- ↑ 道上は、当日の『ABCフレッシュアップベースボール』にスペシャルゲストとして出演。ただし、放送上の実況は、後輩の現役スポーツアナウンサー・伊藤史隆が担当した。なお、『おはパソ』向けの録音実況には、秋吉英美(同番組アシスタント)と有田修三(朝日放送野球解説者)が登場。3人が交互に実況するという趣向になっていた。なお、この内容は聴取率調査キャンペーンに伴う自社ローカル放送であり、対戦相手の地元・CBCラジオ『CBCドラゴンズナイター』にはABCが別制作した中継を裏送りされた。
- ↑ ABCでは当時、TBS系列の準キー局として、同番組の土曜日のみ制作を担当していた。
- ↑ その結果、当時の先輩アナウンサーで、上司でもあった玉井孝がTBSへ出向。1975年のネットチェンジ直前まで、鈴木治彦とともに『モーニングジャンボ』の司会を務めた。
- ↑ 道上以外にANN・テレビ朝日系列の放送局でアナウンサー出身(兼任も含む)で取締役となった人物に、テレビ朝日の元アナウンサー・堀越むつ子(現在も取締役)がいる。
- ↑ 朝日放送のもう1人の常任顧問は、『必殺シリーズ』や『お荷物小荷物』などの人気ドラマを手掛けた山内久司(元専務兼プロデューサー)である。
- ↑ たとえば、ビデオリサーチによる2008年12月の関西圏ラジオ番組聴取率調査では、FM局を含む全ラジオ局・全番組の中で聴取率1位を獲得した。(2009年1月17日に毎日放送(MBS)ラジオで放送された『それゆけ!メッセンジャー』内での発表による)
- ↑ 朝日放送のライバル局に当たるMBSの上泉雄一アナウンサーや、現在MBSラジオで子守康範 朝からてんコモリ!のパーソナリティを務める子守康範(元MBSアナウンサー)などは、出演番組でそのことを公言している。
- ↑ 中村は、出馬表明を機にABCを退社。新自由クラブの公認を受けて大阪選挙区から立候補したが落選した。
- ↑ 前述『ラジオパーソナリティ~22人のカリスマ~』に所収のインタビューより。特に、日曜日の夜には、出社拒否を考えるほどのうつ状態に陥っていたとされる。
- ↑ 前述『ラジオパーソナリティ~22人のカリスマ~』でのインタビューより。『おはパソ』で「道上洋三はホノルルマラソンを何時間何分で走れるか」という予想クイズを出したところ、リスナーから1万5000通以上の応募があったという。ちなみに、道上が同マラソンを完走した瞬間の放送は、『おはパソ』初の海外中継でもあった。
- ↑ 伊丹市ウェブサイト「伊丹大使について」
- ↑ (2012年8月12日) 【家族を語る】道上洋三さん(2)遊び友達と実況 「4番藤村、大きいぞ、ホームランだ!!」 産経新聞 [ arch. ]
- ↑ 『おはパソ』において、道場はこの話し方を、アシスタントに対しても徹底させている。