安土桃山時代
安土桃山時代(あづちももやまじだい、1568年~1598年または1600年)とは、織田信長と豊臣秀吉が天下人として日本の統治権を握っていた時代を指す、日本の歴史の時代区分の一つ。織豊時代(しょくほうじだい)や安土大坂時代(あづちおおさかじだい)とも言う。また、安土桃山時代の元号の大部分が天正だったので、天正時代(てんしょうじだい)と呼ぶこともある。
目次
概要[編集]
織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城(後世桃山と呼ばれた丘陵地にあった)に因んで、このように呼ばれている。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代という。
安土桃山時代の始期と終期については複数の説がある。始期は、通説は織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った1568年、また一説には義昭が京都から放逐された1573年など。
終期は、豊臣秀吉が死去した1598年、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して天下人としての地位を固めた1600年、家康が征夷大将軍に任じて江戸幕府を開いた1603年とする説もある。
戦国大名の中で織田信長が強大になり、後継者の豊臣秀吉が1590年に日本を統一した。秀吉は、全国で検地と刀狩りを実施させ、全日本規模での課税台帳の整備により国民経済の実態を把握し、農民・商人(一般庶民)の武装を禁じて非合法武装決起を未然に防ぐ治安対策を徹底した。
秀吉は明の征服を目論んで文禄・慶長の役を起こしたが、補給路(兵站)が不十分な上、明や朝鮮連合側の抵抗に遭遇し撤退した。秀吉の死後、権力を巡って有力大名同士の衝突を生じさせる結果となったが、1600年の関ヶ原の戦いに勝った徳川家康が政権を得た。
豊臣政権の組織[編集]
中央は、織田信長や豊臣秀吉個人による独裁の色が強い。その下位の組織や地方の組織については、研究の進んでいる豊臣政権について主に述べる(織田政権に言及しない理由は、織田政権の組織については史料が少なく、各研究者による類推が多いこと、また異論が多く統一見解を得ていないことなどのためである)。
豊臣政権では、国政の執行官僚としての奉行は当初から存在したらしい。豊臣秀吉が1598年に死去すると、幼君の秀頼補佐のために五大老・三中老が置かれ、行政、司法、財政、土木、宗教の担当官として五奉行を設置した。
地方においては、朱印状を発行して大名の統治権を改めて認めるという大名知行制を敷いた。室町時代の守護大名は国ごとあるいは郡ごとの一円支配だったのに対し、秀吉は太閤蔵入地を設定して大名の支配を郷村単位の支配としたことに意義がある。各大名は近くにあった太閤蔵入地の米などの納入の義務があった。また、中央政権は太閤蔵入地を通じてその地の財政・内政に関与することができるなど、豊臣政権は地方に発言力があった。大名配置についても、大坂の周辺に譜代の大名を置き、徳川家康を関東に移すなど外様は辺境に置かれた。そして石田三成など政務を執る奉行衆は20万石前後とし、外様には政権参与を原則的に許してないなど、政務者と軍事力の分離が図られた。
豊臣政権の財政基盤は、以下の三つである。第一に、上記に掲げた太閤蔵入地約200万石、第二に、直轄領とした金山・銀山(佐渡相川金山、石見大森銀山、但馬生野銀山)から上がる金銀の収益(金銀の収益を背景に、平安時代に発行された皇朝十二銭以来となる国内発行の貨幣(天正大判・天正通宝)を発行)、第三に、商業が発達した都市(大坂、堺、京都、伏見、長崎)を直轄地とすることから上がる収益であった。
年表[編集]
- 織田信長、足利義昭を奉じ、上洛(1568)
- 室町幕府滅亡(1573)
- 長篠の戦い(1575)
- 織田信長、安土城を築く(1576)
- 織田信長、顕如を降伏させ、一向一揆との対決を終わらせる(石山合戦(1570~1580))
- 本能寺の変(1582)→山崎の戦:明智光秀の謀反も俗に言う三日天下で終わる。
- 清洲会議(1582)→賤ヶ岳の戦い(1583):織田信長の後継争いで、筆頭家老であった柴田勝家と羽柴秀吉が反目。羽柴秀吉が勝ち、敗れた柴田勝家が自殺。
- 羽柴秀吉、石山本願寺跡地に大坂城築城(1583)
- 小牧・長久手の戦い(1584):羽柴秀吉対織田信雄、徳川家康との戦い→和睦
- 羽柴秀吉、関白就任し、藤原氏を称する(1585)、同年四国平定
- 羽柴秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を賜る(1586)
- 九州平定(1587)→九州平定後、博多で伴天連追放令発布
- 小田原の後北条氏が豊臣秀吉に降伏、天下統一(1590)
- 朝鮮出兵(1592~1598)
- 豊臣秀吉、死去(1598)
- 関ヶ原の戦い(1600)
- 徳川家康、征夷大将軍に就任(1603)
文化[編集]
安土桃山時代には、都市部において豪商と呼ばれる新興商人が成長し、その富を背景にした豪華で大掛かりな文化傾向が見られる。また信長の政策により、仏教勢力の力が中央では弱まり、仏教主義的な作品が減り、代わりに人間中心、現世的な作風が見受けられる。
茶の湯が流行し、唐物の名物茶道具が珍重された一方で、それへの反抗としてのわび茶も発達した。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど政治にも影響した。
特筆すべき点としては、1549年のフランシスコ・ザビエル来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられる。まだ小規模ではあったが、日本が初めて西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要である。
絵画[編集]
障壁画[編集]
- 濃絵(金箔地に青・緑を彩色。豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図)代表的なものとして狩野永徳の「唐獅子図屏風」がある。
- 水墨画
- 風俗画
主な絵師と代表作[編集]
工芸[編集]
陶器[編集]
活字印刷[編集]
芸能[編集]
茶道[編集]
詳細は、日本の茶道を参照。
- わび茶
- 大名茶
踊り[編集]
語り物[編集]
建築[編集]
城郭[編集]
- 天守閣のある平城:犬山城(愛知県)、安土城(滋賀県、本能寺の変で焼却)、松本城(長野県)、大坂城(大阪府)、姫路城(兵庫県)など
- 聚楽第:後陽成天皇行幸時に建設、豊臣秀次失脚時に破棄。聚楽第の遺構として伝えられるものに大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣
茶室[編集]
- 妙喜庵待庵
南蛮文化[編集]
関連項目[編集]
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