サイレンススズカ

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第118回天皇賞本馬場入場時
(1998年11月1日、東京競馬場にて撮影)

サイレンススズカSilence Suzuka、香港表記:無聲鈴鹿)は日本競走馬。おもな勝ち鞍は1998年宝塚記念。同年6連勝で臨んだ天皇賞(秋)において故障を発生し、予後不良と診断され安楽死処分された。大逃げというレーススタイルで注目された馬である。

(以下、馬齢は現役当時の数え年表記とする。)

出自[編集]

両親はともにアメリカ合衆国から日本に輸入されている。父サンデーサイレンス日本リーディングサイアーを12年連続で獲得している大種牡馬で、サイレンススズカは3年目の産駒にあたる。母ワキアも競走引退後まもなく輸入され、サイレンススズカは2番仔であった。

1993年の種付けシーズンに、当初生産者は母ワキアにバイアモンを二度種付けしたが、二回とも受胎しなかった。そこで同年春のクラシック戦線で産駒が大活躍し、生産者が種付けの権利を持っていた社台スタリオンステーション繋養のトニービンを配合しようとしたが、ワキアが発情した日のトニービンの予定は既に埋まっていた。繁殖牝馬の発情の機会は、一度逃すと次がいつになるかわからない。そこで、当時まだ産駒がデビューしておらず種牡馬としての実力は未知数であったが、社台側が代わりにと推薦したサンデーサイレンスを種付けした。

牧場時代のあだ名は母の名から「ワキちゃん」。育成中は小柄でおとなしく牝馬のような馬体だったが、放牧地ではとにかく速く走っていたという。また、雪の季節になると、育成スタッフの言うことを聞かない馬をわざと雪の積もった深みに入れ、身動きを取れなくすることで反抗する気持ちを萎えさせる方法を取っていたが、サイレンススズカの場合は深みに入れられてもそれをものともせず進む力があったため、効果がなかったという。

競走馬時代[編集]

4歳(1997年)[編集]

5月生まれとサラブレッドとしては遅い時期に生まれたということもあって、育成牧場では成長に合わせてじっくりと鍛えられ、3歳の冬になって栗東の橋田満厩舎に入厩した。調教では、後にオープンクラスの特別競走を勝つ5歳準オープンクラスのアドマイヤラピスに併せ馬で先着し、坂路では破格の一番時計を出すなど、いずれもこの時期のレース未出走馬らしからぬパフォーマンスを見せ、すぐに関係者内で広く知られる存在となる。

デビューは1997年2月1日。2着のパルスビート(後に重賞2着3回)に7馬身差をつけての圧勝であった。調教師の橋田には、新馬戦ではなく、すでに一勝を上げている馬によって行われる500万下条件の特別競走にいきなり出走させる考えもあったといい、陣営の自信のほどが窺われる。毎年クラシック路線の中心となるサンデーサイレンス産駒の有力馬がこの年は不在だったこと、そして、この勝利のインパクトの大きさから「遅れてきたサンデーサイレンスの大物」、「ダービーはこの馬」とまで評価された。このレースでプレミアートに騎乗していた武豊は「皐月賞もダービーも全部持っていかれる。痛い馬を逃した」と後悔した、と述べている。

その勢いを駆って皐月賞への出走権を獲得すべく、2戦目にもかかわらず弥生賞に出走した。しかし、レースではゲートをくぐってしまい外枠発走となった上、約10馬身の出遅れをしてしまう。並の馬であれば詰めるのも困難なほどの差を先行馬群につけられたが、先行する馬群に追いつくと4コーナーでは3番手に進出し、あわや勝ち負けになるかという競馬を見せるも、最後は力尽きてランニングゲイルの8着に敗れた。また、ゲートの再試験と20日間の出走停止処分が下された。

その後出走停止処分のため予定を変更して自己条件の500万下に出走し1.1秒差の圧勝を飾り、東京優駿のトライアル競走である青葉賞への出走を目指す。しかし調教中のアクシデントによって予定を変更し、一週間後のトライアル競走であるプリンシパルステークスに出走した。このレースでは東京優駿を見据えて抑え気味の競馬を行い、勝利して東京優駿への優先出走権を確保した。しかし東京優駿では抑えて走ることに執着したことが裏目に出たのか終始折り合いを欠き、直線で進路が狭くなったことも響き、サニーブライアンの9着に敗れた。このレースの反省から、陣営は抑える競馬を捨てて逃げに活路を見出すことになった。

秋初戦は神戸新聞杯に出走。快調に逃げをうち、直線半ばまで後続に大きな差がついていた。鞍上の上村洋行は勝利を確信し、追うのをやめてしまった。しかし、外からマチカネフクキタル(この年の菊花賞馬)が追い込んできて、ゴール前で交わされ、2着に敗れてしまう。勝てたレースを自らの手で潰したことで、デビューから主戦騎手を務めてきた上村は降板させられてしまう。

次走は距離適性や気性の問題などから、菊花賞ではなく天皇賞(秋)を選択し、鞍上はベテランの河内洋に変更された。1000m通過が58秒5というハイペースの大逃げで見せ場を作ったが、結局、勝ち馬エアグルーヴからは1秒離され6着に敗退した。しかし、ハイペースで逃げたにもかかわらず、3着のジェニュインからは僅か0.1秒差しかなかったこと、後の大逃げスタイルの原型を確立させたこと等、意味を持つレースであった。

次走は京阪杯に向かう予定であったが、香港国際カップに選出されたため、急遽予定を変更しマイルチャンピオンシップへ向かった。しかし、調整不足や中2週というハードなローテーションが影響したのかパドックでイレ込んでしまった。さらにレースでは鞍ズレのアクシデントで折り合いを欠いたうえ、同じ逃げ馬のキョウエイマーチと競り合う展開になる。その結果、1000mが56秒台という驚異的なハイペースとなり、直線では馬群に沈み、タイキシャトルの15着に敗れた。

香港国際カップでは、「依頼が来るのを待つのが騎手」というスタイルを崩して、新馬戦以来気になっていた本馬の騎乗を自ら申し出た武豊を鞍上に迎えた。レースでは1600m通過タイムが同日の香港マイルの勝ち時計を上回るペースで逃げ、ゴール前まで粘り、勝ち馬から僅差の5着。健闘したが、出走までの経緯がドタバタしていたことに加えて、マイルチャンピオンシップから中2週という過酷なローテーションであったため、体調不良を起こしていた。

4歳時は、重賞の掲示板に1度載っただけの成績であった。しかし、境勝太郎調教師は雑誌で「来年はGIを勝てる馬だ」と発言。また調教師の橋田も同世代の馬よりも成長が遅れており、その分これから成長が見込めると本馬の将来を期待していた。この1年目に培った「大逃げ」というレーススタイルと、香港から始まった武とのコンビが、翌年の連勝に繋がる。

5歳(1998年)[編集]

宝塚記念まで[編集]

年明け初戦、東京競馬場でのオープン特別バレンタインステークスを4馬身差の圧勝。関西を拠点とする武が、オープン特別の騎乗のために東上するのは異例のことであった。その後中山記念を1 3/4馬身差で勝利し、重賞初制覇を果たすと、小倉大賞典小倉競馬場の改修に伴う中京競馬場での時期を遅らせた代替開催)も3馬身差で完勝し、重賞を連勝。

続く金鯱賞では、重賞3勝を含む4連勝中の菊花賞馬マチカネフクキタル、重賞2勝を含む5連勝中で後に香港国際カップを制するミッドナイトベット、重賞1勝を含む4連勝中のタイキエルドラドが出走するという非常にハイレベルなレースであったにも拘らず、重賞競走では非常に珍しい大差勝ち(11馬身差 タイム差1.8秒)のレコードタイムでの圧勝。この時中京競馬場では、あまりの大差に4コーナーを回った時点で既に拍手と喝采が贈られ直線では大勢の観客から笑いがこぼれると言う珍事が起こった。ラジオたんぱのレース中継では、4コーナーを回る時に「さあ、拍手に送られて〜」と実況されている。武はゴール50m手前から小さくガッツポーズしている。

レースの内容も、最初の2戦こそただがむしゃらに走ってその能力差だけで勝っている状態だったものの、その後は息を入れることを覚えたためか二の脚を使えるようになるなど内容もよくなっており、後に「逃げて差す」と言われたスタイルも完成した。調教師の橋田もこの姿を「今なら安心して見ていられるよ」と語っていた。また、この時期から最大の目標を天皇賞(秋)に見据え始めた。

夏場に向けて中3週(月1度)間隔でレースに使ってきたため疲労がたまっていたこともあり、当初は金鯱賞の後に放牧へと出される予定ではあったが、ファンの期待に応えるため、体調もよく、「今の出来なら」ということで春競馬の総決算となる宝塚記念への出走を決める。だが当初は回避予定であったことと、主戦の武には既に年末の有馬記念までエアグルーヴへの騎乗の先約があったことから、サイレンススズカと同じ馬主・厩舎で、出走予定のゴーイングスズカの主戦騎手であった南井克巳へと乗り替わった。

ファン投票6位で選出され、この時点ではGI未勝利ながら、メジロブライトエアグルーヴらを抑え1番人気に支持された。レース本番は南井が初騎乗であるということと距離を考えて金鯱賞に比べ抑えぎみの競馬でレースを進め、最後の直線に入っても相手をぎりぎりまで引きつけたためステイゴールドに3/4馬身まで迫られたものの、ゴール前で鞭を入れるとすかさず加速して逃げ切り、初のGI制覇となった。競馬ファンの中には「グリーンベルト」の恩恵を受けていることや南井がそれを活かした騎乗をしていること、あるいはレース内容に納得のいかない人も多かったが、晴れてGIホースとなった。

毎日王冠[編集]

目標である天皇賞(秋)へのステップとして選んだ秋初戦の第49回毎日王冠NHKマイルカップ優勝馬エルコンドルパサー朝日杯3歳ステークス優勝馬グラスワンダーという、2頭の無敗の外国産4歳馬が出走するというハイレベルなメンバー構成となった。当初は毎日王冠への出走は、調整不足や直前に脚をぶつけていたこと、一時的に帯同馬がおらずパニックになったり、見合わせることも検討されていた。しかし、ここで回避して天皇賞(秋)で勝ったとしても、「エルコンドルパサーやグラスワンダーに負けると分かっていて尻尾を巻いて逃げた(当時天皇賞に外国産馬は出走できなかった)」と後々いわれてしまうことを考えて出走した経緯がある。

サイレンススズカは連勝中の勝ちっぷりや、直前の坂路調教でテレビ解説者が「速すぎる」と言うほどの時計を出していたことなどから単勝1.4倍1番人気に支持され、2番人気にグラスワンダー、3番人気にエルコンドルパサーが続いた。

59キロの斤量と府中の長い直線が心配されたがレースではそれを感じさせず、ここでも1000m通過が57秒7のハイペースで逃げながら後半にさらに後続を突き放す内容で、最後はペースを流し目にしながらも勝ち時計1分44秒9とコースレコードに肉薄するタイムで快勝。辛うじて2馬身半差の2着まで差を詰めたエルコンドルパサーに対し「この馬にこれだけついてこれたんだから強いですよ」と語り、鞍上蛯名正義に「影さえも踏めなかった」と言わしめ、3着のサンライズフラッグに至っては2着からさらに5馬身差の逃げ切り勝ちであった。
一方のグラスワンダーは故障明け久々のレースで、更に出遅れたにもかかわらず第4コーナーでしかけて強引に勝ちにいった騎乗に耐え切れず失速、5着に終わった。なお、この時レースを実況していたフジテレビアナウンサーの青嶋達也はその逃げっぷりに「グランプリ・ホースの貫禄!どこまで行っても逃げてやる!!」と実況している。

ハイペースで先行しながら、上がり3ハロン (600m) のラップタイムが出走馬中で最速だったエルコンドルパサーから0.1秒遅いだけであり、逃げ馬の常識を覆すレース結果となった。レース後、武は「1000mを56秒台で通過しても平気な馬ですから、今日は比較的ゆったり行けましたね。直線で確認のために一応後続を見ましたが、全然交わされる気はしませんでした」と語った。この勝利で中距離においては名実共に当時の最強馬となったといっても過言ではなく、宝塚記念で実力に疑問を投げかけていたファンや「勝って来たのは相手が弱かったから」という意見を一蹴するほどの内容であった。

このレースは「3強対決」として大いに盛り上がり、GII競走にもかかわらず、東京競馬場には当日、13万人という大観衆がこのレースを見ようと詰め掛けた。またレース終了後には通常GI勝利の際に行われるウイニングランが行われた。このレースは出走馬のレベルや内容から、21世紀を迎えた現在でも名レースの一つに数えられている。

他馬より成長が遅かった同馬であるが、この時期にはようやく馬体が完成し筋力がついたことで、春から比べて十分に仕上げても馬体重が16kg増えた。これでこの年に入って6連勝で、最大の目標である天皇賞(秋)に王手をかける形となった。

天皇賞(秋)[編集]

最大の目標であった第118回天皇賞(秋)であったが、特殊なコース形態である東京2000mのコースで行われるため、一般に特に逃げ馬には外枠不利とされており、また同じ逃げ馬サイレントハンターが出走登録したこともあって同馬にとっては枠順が唯一の課題となっていた。抽選の結果は絶好の最内1番枠からの発走となった。『平成10年11月1日東京11レース1枠1番1番人気』の“1並び”であった。

顔ぶれは、前年の優勝馬であり宝塚記念で下したエアグルーヴがエリザベス女王杯に回り、毎日王冠で下したエルコンドルパサー・グラスワンダーは外国産馬のため当時の天皇賞への出走資格はなく、強力なライバルは不在であった。さらに得意の左回り、サイレンススズカの適性距離とされていた2000mということで、単勝1.2倍の圧倒的1番人気に支持された。また、このレース後には距離への挑戦も含めてジャパンカップへ参戦し、翌年はアメリカへ遠征するプランが発表された。

レース前、多くのTVや競馬紙も上記の有利な条件も踏まえて、サイレンススズカが負ける要素を探したものの、アクシデントがない限りサイレンススズカは負けないという意見が大勢を占めた。さらに武はレース前に「オーバーペースにならないように?」との問いに対し「いや、(普通の馬にとっての)オーバーペースで逃げますよ」と堂々と宣言していた。

このような経緯を経て、デビュー以来最高といっていい状態で出走した(武、担当厩務員が口をそろえて「あの時(最後のレースとなった天皇賞(秋))が一番具合がよかった」と語っている)サイレンススズカは抜群のスタートで快調に飛ばし、2ハロン目から急に加速して後続を突き放すと、前走を上回る1000m57秒4の超ハイペースで大逃げをうった。競りかける馬はサイレントハンターも含めて1頭もおらず3コーナー手前では2番手に10馬身、さらにそこから3番手までが5馬身と後続を大きく引き離し、テレビの中継カメラは目いっぱい引かなければすべての出走馬を映し切れないほどであり、ターフビジョンやスタンドの屋根までも画面に入り込むほどズームアウトされている。この時点で二番手サイレントハンターとは約2秒差、最後方ローゼンカバリーとは6秒ほどの差となっていた(『サイレンススズカ スピードの向こう側へ』より)。

しかし、3コーナーの辺りを過ぎたところで突然の失速。左前脚手根骨粉砕骨折発症により、競走を中止。画面には故障した左前脚が映し出されていた。結局予後不良と診断され安楽死の処置がとられた。これをフジテレビのスーパー競馬で実況を担当した塩原恒夫はこの事態に際し、咄嗟にサイレンススズカの父の名にかけた「沈黙の日曜日」という言葉を発している。1着のオフサイドトラップがゴールした後も競馬場は異様な雰囲気に包まれていた。この様子をスーパー競馬のスタジオで見ていた司会の斎藤陽子も、ショックで放送中に涙ぐみ言葉を詰まらせる状態であった。

皮肉なことに、オフサイドトラップは本来母ワキアに種付けられるはずだったトニービン産駒だった。勝ったオフサイドトラップの時計(1分59秒3)に関して後に武豊は、「サイレンスがそんなに早くバテる訳ない。やっぱり千切っていた。」というコメントを残した。また、そのときスーパー競馬で解説をしていた大川慶次郎も無事に走り切れていたならば8、9馬身は前で走っていたと解説し、同時に「これだから競馬には絶対がない」と語った。

競走成績[編集]

年月日 競馬場 競走名


オッズ
(人気)
着順 騎手 斤量 距離(馬場) タイム(上り3F タイム
勝ち馬/(2着馬)
1997. 2. 1 京都 4歳新馬 11 1 1 1.3 (1人) 1着 上村洋行 55 芝1600m(良) 1.35.2 (35.5) -1.1 (パルスビート)
3. 2 中山 弥生賞 GII 14 5 8 3.5 (2人) 8着 上村洋行 55 芝2000m(良) 2.03.7 (36.9) 1.5 ランニングゲイル
4. 5 阪神 4歳500万下 12 5 5 1.2 (1人) 1着 上村洋行 55 芝2000m(重) 2.03.0 (37.1) -1.1 (ロングミゲル)
5. 10 東京 プリンシパルS OP 16 6 11 2.3 (2人) 1着 上村洋行 56 芝2200m(良) 2.13.4 (34.7) 0.0 マチカネフクキタル
6. 1 東京 東京優駿 GI 17 4 8 8.6 (4人) 9着 上村洋行 57 芝2400m(良) 2.27.0 (35.8) 1.1 サニーブライアン
9. 15 阪神 神戸新聞杯 GII 11 7 8 2.1 (1人) 2着 上村洋行 56 芝2000m(良) 2.00.2 (36.5) 0.2 マチカネフクキタル
10. 26 東京 天皇賞(秋) GI 16 5 9 17.6 (4人) 6着 河内洋 56 芝2000m(良) 2.00.0 (37.0) 1.0 エアグルーヴ
11. 16 京都 マイルCS GI 18 5 10 19.1 (6人) 15着 河内洋 55 芝1600m(良) 1.36.2 (39.4) 2.9 タイキシャトル
12. 14 沙田 香港国際C GII 14 1 (8人) 5着 武豊 56.5 芝1800m(良) 1.47.5 (不明) 0.3 Val's Prince
1998. 2. 14 東京 バレンタインS OP 12 8 12 1.5 (1人) 1着 武豊 55 芝1800m(良) 1.46.3 (36.0) -0.7 (ホーセズネック)
3. 15 中山 中山記念 GII 9 8 9 1.4 (1人) 1着 武豊 56 芝1800m(良) 1.48.6 (38.9) -0.3 ローゼンカバリー
4. 18 中京 小倉大賞典 GIII 16 7 14 1.2 (1人) 1着 武豊 57.5 芝1800m(良) R1.46.5 (36.4) -0.5 (ツルマルガイセン)
5. 30 中京 金鯱賞 GII 9 5 5 2.0 (1人) 1着 武豊 58 芝2000m(良) R1.57.8 (36.3) -1.8 ミッドナイトベット
7. 12 阪神 宝塚記念 GI 13 8 13 2.8 (1人) 1着 南井克巳 58 芝2200m(良) 2.11.9 (36.3) -0.1 ステイゴールド
10. 11 東京 毎日王冠 GII 9 2 2 1.4 (1人) 1着 武豊 59 芝1800m(良) 1.44.9 (35.1) -0.4 エルコンドルパサー
11. 1 東京 天皇賞(秋) GI 12 1 1 1.2 (1人) 武豊 58 芝2000m(良) 競走中止 オフサイドトラップ

※タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

死後[編集]

1998年11月2日の新聞

粉砕骨折の詳しい原因はわかっておらず、武は「原因は分からないのではなく、ない」とレース後マスコミに対してコメントした。泣きながらワインをあおり泥酔する等、レース後の武の落胆ぶりは相当なもので、同レースに出ていた福永祐一も「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。

よく言われた意見は、皮肉にもサイレンススズカのあまりのスピードに骨が金属疲労のような症状を引き起こし、レース中に限界を迎えて骨折したというものであるが、これはやや短絡的であるとされている。これは、短距離競走では条件戦でもサイレンススズカと同様のスピードでレースが展開し、その上でほとんど全ての馬が引退まで無事に走りきっているという点が無視されているからである。そのため、サイレンススズカはマイラーやスプリンターと同等のスピードで、距離の長い中距離路線を戦い続けた結果、こうした悲劇につながったのではないかとする意見もある。

その後、サイレンススズカはこの年のJRA賞特別賞を受賞している。

サイレンススズカの死後、エルコンドルパサーやグラスワンダーの活躍によりサイレンススズカの評価はさらに上がることになった。エルコンドルパサーは、同馬も参戦予定であったこの年のジャパンカップで完勝し、翌1999年はフランスのG1、G2で1勝ずつをあげ、なおかつ凱旋門賞ではモンジューの半馬身差2着に入る成績をあげた。エルコンドルパサーに日本国内で土をつけたのはサイレンススズカだけである。グラスワンダーも年末の有馬記念を制し、翌年も宝塚記念と有馬記念を制している。ちなみに、グラスワンダーが勝った1999年の宝塚記念において実況の杉本清が「私の夢は勿論、サイレンススズカです」と語り、同馬が骨折していなければまた走ってほしかった、という言葉を残している。

サイレンススズカの墓は生まれ故郷である北海道・平取町の稲原牧場に建てられている。追悼歌「天馬のように星野豊:作詞/作曲 因幡晃:歌)」も作られた。

評価[編集]

競馬ファンによる評価[編集]

競馬ファンに与えた鮮烈な印象、その強烈なレース内容から、2000年に行われたアンケート「20世紀の名馬大投票」において4位にランクインした。

関係者による評価[編集]

主戦騎手の武豊はディープインパクトに乗った後の2007年にも、「理想のサラブレッド」「ディープが最も勝ちにくいタイプの馬」とコメントしている。武はNumber誌上で、5歳時はハイペースで逃げつつゴールまでなかなかペースが落ちないというパフォーマンスを見せていたことから、「一番勝ちやすい馬だった気がします。」とコメントしている。「もし豊さんの身体がもう一つあり、武豊&ディープインパクトと対戦できるとしたら、これまで数多く乗ってきた優駿の中で、打倒ディープとしてどの騎乗馬を選びますか?」という質問に対して、武はサイレンススズカを選択した。

武はサイレンススズカに対して「本当にこんな馬がいるんだ」という馬に初めて出会ったとインタビューで語っている。「この馬ならG1馬相手にものすごい勝ち方ができると思っていたのに、その夢が一瞬にして消えてしまった」と答えている。また、Number誌上では「あんなことになっていなかったらなぁ、って今(2007年現在)でも不意に思い出すときがあります。天皇賞は間違いなく勝っていただろうとか、その後のジャパンカップとか、ブリーダーズカップにも行っていたかとか。もし(サイレンススズカが)いたら、きっと凄い仔を出していただろうな、って」と述べている。

武以外の関係者の評価も高い。調教師の橋田は5歳時のサイレンススズカは展開や枠順や天候に関係のない馬で負ける気がしなかったと語っている。宝塚記念で騎乗した南井は自身が主戦騎手をつとめた三冠馬のナリタブライアンを引き合いに「この馬の能力はナリタブライアンに匹敵する。」と語っている。サイレンススズカを生産した稲原牧場の牧場長稲原美彦はとあるインタビューで「またこの牧場からサイレンススズカのような馬を?」と聞かれた際に「あれほどのスピードを持った馬をもう一度生産するのは難しい」と答えている。

毎日王冠でのレースぶりに対する評価[編集]

毎日王冠についての評価としては、「一戦一戦が勝負だったサイレンススズカと違い、エルコンドルパサーとグラスワンダーはともに休み明けであり、あのレースだけで3強の間の力関係を結論付けるのは憚られる」という専門家もいる。一方で、このレースは休み明けかつ一番重い斤量を背負っていたサイレンススズカにとっても、決して万全の体調による出走ではなかった。

また、左回りに強かった同馬には、たとえエルコンドルパサーとグラスワンダーが万全の状態で挑んだとしても、あの時点では勝つことはできなかっただろうという意見もある。古馬と4歳馬の差もあるので、毎日王冠やジャパンカップなどこの時期の4歳馬と古馬の混合戦では古馬が勝つ時も多い。なお、評論家の大川慶次郎は、青嶋達也の「古馬と4歳馬の差が出たのかと?」という質問に対して、「いや、サイレンススズカとエルコンドルパサーの差でしょうね」と語り、「サイレンススズカは並の馬じゃない」と語っている。

毎日王冠については、下した相手よりも、そのレース内容に高い評価を与えている専門家や競馬関係者も多い。59キロという斤量を背負って1000m通過57秒7というのは、並の馬なら玉砕覚悟の逃げ馬しか出さない様なラップであり、直線の長い府中ならばなおさらである。だが、その様なペースで先行しながら、最後の直線で一番手ごたえが良く、脚を余して勝ってしまうという、常識では考えられないレース運びをしている。実際、当時の国際クラシフィケーション会議から日本のGIIとしては異例の122ポンドというGIレースをも凌ぐ高いレイティングが与えられている。

海外遠征への期待[編集]

アメリカ遠征に関しては、すべての競馬場が同馬の得意な左回りで、加えて芝は日本に近い高速馬場、しかも芝路線のレベルは日本と比べればそれほど高いとは言えず、同馬の得意な中距離路線のGIレースが多く施行されていた。栗東の伊藤雄二調教師は「アメリカでも勝てるんじゃないか?最も理想に近い競走馬」という言葉を残している。

種牡馬としての可能性[編集]

5歳時のレースで示した驚異的なパフォーマンスによって、サンデーサイレンスの後継種牡馬候補として期待を集めることになった。また、個体の能力の魅力に加え、サンデーサイレンス直仔の上にノーザンダンサーが入っていないというその血統は、ノーザンダンサー系の血で飽和状態にあった当時の[1]日本のサラブレッド牝馬の交配相手として優れた条件の一つであり、これに父馬としての能力の遺伝という両面で期待を集めていた。そのため、本馬の事故死に対する生産界のショック・落胆には大きなものがあった。

サイレンススズカの死後にも、

  • 「サンデーサイレンスの最良の仔であり最高の後継種牡馬になり得た」(社台ファーム吉田照哉
  • 「文句なしに競走馬として最高の1頭であり種牡馬としても最高の資質があった」(ラフィアン岡田繁幸

など、競馬・馬産関係者に限っても本馬を高評価するコメントは枚挙に暇が無い。父母ともにアメリカで競走生活を送っていたことや、本馬のレースぶりについてもハイペースでレースを進めるアメリカダート競馬の一流馬との共通点があり、アメリカから種牡馬として購入のオファーもあった。

現代の競馬において重要度が増している中距離戦線での優れたパフォーマンス(レコード勝ち、圧勝)、馬体の美しさも高い評価を受ける要因であった。府中の2000mでナリタブライアンやディープインパクトらを相手にしても、この条件であれば圧勝可能という推測もある。また、新聞記者の野元賢一が、「優秀ではあるがどこか父の縮小再生産のような馬が多いサンデーサイレンス産駒の中で、例外はサイレンススズカとアグネスタキオンである」と評している様に、数多のサンデーサイレンス産駒の中においても際立って高い能力を持っていると目されていたことも、種牡馬としての期待を高めさせる要因となっていた。が、様々な期待や評価があったものの事故死により子孫を残せず、サイレンススズカの種牡馬能力については全て推測の域を出ないままとなった。

死亡時に全兄弟はおらず、母のワキアが既に1996年に死亡していたため、生産でサイレンスズズカ同様の配合を再現するのは不可能であった。サイレンススズカの事実上の代替馬として期待を集めたのは半弟ラスカルスズカであったが、種牡馬入りしたものの重賞勝ち馬を出せないまま2010年に種牡馬登録を抹消されている。サイレンススズカの事故死の翌年に、姉のワキアオブスズカにサンデーサイレンスが交配され生まれたスズカドリームが2003年のクラシック戦線に顔を出し、サイレンススズカの甥として期待を集めたものの、2005年に調教中の事故で死亡している。

特徴[編集]

脚質[編集]

最大の特徴は他馬の追随を許さない大逃げと、最後まで衰えない末脚にある。5歳の時にようやく息を入れることを覚え、そのころあたりから大逃げをしながら最後をまとめられるようになった。武豊によると、一般的な、スタートから意識して後続と大きな差を開ける大逃げと異なり、他の馬との絶対的なスピードの差から大逃げの形になっているだけだという。つまりこの馬にとってのマイペース=普通の馬のハイペースなのである。そのため同馬は、レース後半も後続馬よりいい脚を使うこともまれではなかった。ハイペースで逃げ、4コーナーで一回息を入れなおして再び加速して後続馬を引き離すという、いわゆる二の脚を使うことから、武はサイレンススズカのことを逃げて差す馬と発言していた。

スピード[編集]

サイレンススズカのスピードはスプリントやマイルの一流馬のスピードと比べて特別優れているわけではないが、スプリント・マイル戦のスピードで中距離も走れることが最大の強みである。岡部幸雄は、古馬になってからのサイレンススズカを負かすために、鈴をつけに行く(=逃げ馬のさらに前を行って、ペースを狂わせること)作戦をとることについて聞かれた際、「そのためにはGIを勝てるスプリンターが必要で、そんな馬をそれだけのために中距離戦に出して惨敗させることはできないから、現実的には不可能」というコメントをしている。以上のことから、短距離馬のようなスピードと中距離馬としても十分なスタミナは、ミドルディスタンスでこそフルに活かされると言える。主戦騎手の武は「サイレンススズカはマイルでは絶対的なスピードの差を見せつける事は難しく、中距離以上で持続したスピードを発揮してはじめて能力が際立つ」と語っている。ただし、毎日王冠でマイル戦と比較しても優秀な時計を記録している。なお、武はスピードを活かすために、空気抵抗のより少ない流線型の“サイレンススズカ専用ゴーグル”を使用していた。

適性距離[編集]

適性距離は1800mから2200mまでという見方があるが、4歳時の2200mのレースではバテずに走りきることが出来ており、息を入れながら走ることを覚えた5歳時には、実際に夏の暑い時期のG1である2200mの宝塚記念も勝っているため、得意の左回りでさらに距離も長く相手も強くなる2400mのジャパンカップへの挑戦を予定していた。距離についての議論はさまざまであるが、武は仮に天皇賞(春)でも道中3秒差をつける逃げを展開できれば勝てるはず、というコメントを残している。

瞬発力[編集]

当初陣営は瞬発力を活かそうとして、抑えて走らせようとしていた。本格化した後は、最後の直線で相手との距離を確かめて後続の馬をひきつけ、騎手のゴーサインに素早く反応して後続馬を引き離すレースもしている。最終コーナー辺りで息をいれて相手をひきつけ、瞬発力を生かして加速することで、着差をつけてレースに勝利していた。同じ優れた先行力で押し切るタイプでも、瞬発力がないがスピードと持続力のすぐれた先行馬などにみられる、緩みないペースで引っ張り先行して押し切るタイプの馬との最大の違いはこの点である。

現在と芝の重さの違いもあるので、現在の上がり3ハロンの平均値と単純に比べることはできないものの、サイレンススズカは3コーナーから4コーナーにかけて息を入れる(=ペースを落としラストスパートに備える)ことや、瞬発力を活かしてレース後半は後続馬に合わせた展開になることもあり、実際の上がり3ハロンは実際はそれほど速いわけではない。毎日王冠で上がり3ハロンが2番目に速かったのは、東京競馬場の直線が長く上がり3ハロンのうちコーナーの占める割合が少ないためと、スパートのタイミングによるものである。

左回りでの競馬と「旋回癖」[編集]

古馬となってからは宝塚記念を制し、左回りの東京、中京での両競馬場でも実績を残した。武は、サイレンススズカのことをレフティーなので左回りの方がいいと語っている。

左回りに関して、当歳のころから「旋回癖」と呼ばれる馬房で長時間左回りにクルクル回り続ける癖がエピソードとして語られている。狹い馬房の中をあまりにも速いスピードで旋回するので、見ている側が「事故が起こるのでは」と心配するほどだったが、結局最後まで何も起きなかった。止めさせようと担当厩務員が馬房に入ると途端に中止するので、自己抑制ができないほどの興奮といった原因によるものではなかったようであるが、この癖が治ることもなかった。この癖を矯正することでレースで我慢することを覚えさせられるのではないかと、馬房に畳を吊すことが試みられたが、体の柔らかいサイレンススズカは狭いスペースでも以前と同様にくるくると回り続けた。そこでさらにタイヤなど吊す物の数を増やして旋回をやめさせたところ、膨大なストレスを溜め込んでその後のレースに大きな影響を与えてしまったため、4歳の冬には元に戻された。

管理する厩舎のスタッフにとっては、旋回そのもので事故が起こるおそれがないとはいえ、蹄鉄が余りに早く摩耗するため、を削るにも少しでも薄くすると致命的な負傷に繋がりかねず、神経をすり減らす毎日だったという。

血統[編集]

血統背景[編集]

サンデーサイレンスについては同馬の項を参照のこと。

母ワキアは、1000mを57秒台で逃げた快速スプリンターであったが、その父Miswakiはスピードに優れたMr.Prospector系の中では、珍しく産駒の距離適性に幅のある種牡馬であった。また母母Rascal Rascalは、Silver Hawk との間に英ダービー馬Benny the Dipを輩出している。

ワキアの産駒は全て中央競馬で複数の勝利を上げ、唯一残した牝馬のワキアオブスズカも重賞馬スズカドリームを出すなど優秀な繁殖成績をあげた。

血統表[編集]

サイレンススズカ血統サンデーサイレンス系 (ヘイルトゥリーズン系) /(Turn To4×5=9.38%)

*サンデーサイレンス
Sunday Silence 1990
青鹿毛 アメリカ
Halo 1969
黒鹿毛 アメリカ
Hail to Reason Turn To
Nothirdchance
Cosmah Cosmic Bomb
Almahmoud
Wishing Well 1975
鹿毛 アメリカ
Understanding Promised Land
Pretty Ways
Mountain Flower Montparnasse
Edelweiss

*ワキア
Wakia 1987
鹿毛 アメリカ
Miswaki 1978
栗毛 アメリカ
Mr.Prospector Raise a Native
Gold Digger
Hopespringseternal Buckpasser
Rose Bower
Rascal Rascal 1981
黒鹿毛 アメリカ
Ack Ack Battle Joined
Fast Turn
Savage Bunny Never Bend
Tudor Jet F-No.9-a

兄弟

近親

  • Benny the Dip(叔父)- 英ダービー優勝。父Silver Hawk
  • クリプティックラスカル(叔父) - フォアラナーステークスなど米GIII3勝。父Cryptoclearance。日本で種牡馬として供用された。
  • スズカドリーム (甥)- 中央競馬2勝。京成杯優勝・毎日杯3着。調教中に故障発生安楽死。父サンデーサイレンス。

脚注[編集]

  1. 1998年時点で見れば、繁殖馬についていえばサンデーサイレンスの血はほぼ直仔世代に限られ、当時の最大勢力の血筋はノーザンダンサーであった。サンデーサイレンス孫世代の種牡馬・繁殖牝馬が爆発的に広まり、同時期のブライアンズタイムの成功もあいまってヘイルトゥリーズン系の血が一気に飽和状態になっていったのは後年のことである。

外部リンク[編集]

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