和田心臓移植事件
和田心臓移植事件(わだしんぞういしょくじけん)とは日本初の心臓移植手術をめぐる事件。
目次
概要[編集]
1968年8月8日に和田寿郎を主宰とする札幌医科大学胸部外科チームは、日本初、世界で30例目となる心臓移植手術を実施した。ドナーは21歳の溺水事故を起こした男子大学生。レシピエントは18歳の男子高校生。和田によれば、多弁障害を抱え人工弁置換術では根治できないとされる患者であった。
手術は約3時間半をかけて明け方、終了した。レシピエントは意識障害がなかなか回復しなかったが、やがて意識回復。8月29日には屋上で10分間の散歩をし、その回復振りをマスコミに披露した。その後、一般病棟に移ったが、9月に入ると徐々に食欲不振に陥る。検査の結果、輸血後の血清肝炎と診断された。術後においても発症が現れていたという、意識混濁の症状も進みはじめたレシピエントは、10月に入って一旦、小康状態を発表されるが、手術後83日目の10月29日に食後に痰を詰まらせ長時間にわたる蘇生術の甲斐もなく呼吸不全で死亡したと医師団により発表された。
心臓移植後の経過[編集]
レシピエントの死後、それまでくすぶっていた疑惑が一気に噴出した。それは胸部外科が発表したすべての事実を否定するほど多岐にわたるものであった。
同大第二内科から人工弁置換術のため転科してきたことを隠蔽し、さらに、多弁障害ではなく、僧帽弁だけの障害で、二次的に三尖弁の障害はあるが、これらは第二内科が依頼した弁置換術で治癒の可能性があったため、このレシピエントがそもそも心臓移植適応ではなかった可能性も発覚した。
転科前の第二内科による診断内容と、胸部外科による診断内容は、ほぼ同時期に診断がおこなわれたにもかかわらず相当の隔たりがあったことも疑惑に拍車をかけた。
ドナーが小樽市内の病院から札幌医科大学へ搬送された直後、麻酔科の助手から筋弛緩剤を借りて注射し、それに抗議した麻酔医を蘇生の現場から追い出した。さらに、この麻酔医は、移植後の拒絶反応をやわらげるため、ステロイドホルモン製剤の「ソル・コーテフ」(一般名コハク酸ヒドロコルチゾンナトリウム)を10筒も(通常は1、2筒)大量投与したことも目撃している。この一連の証言から、胸部外科医師団が溺水患者に対してかならずしも適切な処置をほどこしていたわけではないことがあきらかになった。
移植のためのドナーには必須(不可逆的な脳死を脳波平坦という事実で証明する必要)と当時でも認識されていた脳波をそもそも取っていなかったり、ドナーの検視時に心臓提供者だという事実を警察に伝えていなかったりしたために、詳細な検査を監察医から受けることなく火葬に付され、死の真相解明は不可能となった。数時間後に和田みずから、警察に連絡を取り、事情を説明したが、時間が経過していたため病理解剖はできなかった。
一方、レシピエントの死後、彼の元の心臓が3ヶ月以上にもわたって行方不明になり、病理解剖学者の手元に渡ったときには、検索前にもかかわらず、何者かが心臓中央部から切断しており、さらには4つの弁もばらばらに摘出されて、心臓移植適応かどうかで問題になっていた大動脈弁が心臓の切り口に合わない(他人のものの可能性がある)など不可思議な事実が次々とあきらかになった。
1968年12月、和田心臓移植は大阪の漢方医らによってついに刑事告発される。1970年夏に捜査が終了し、告発された殺人罪、業務上過失致死罪、死体損壊罪のすべてで嫌疑不十分で不起訴となった。札幌地検はこの捜査のために、3人の日本を代表する医学者達に、各一人ずつ1つの項目について鑑定書作成を依頼したが、それらは終始曖昧で決断を下しかねているような論調で、すべての鑑定人に対する再聴取が必要なほどであった。
また、1973年3月23日、当時の心臓移植手術の妥当性に関して日本弁護士連合会の警告を受けている。
なお、和田寿朗本人はこの疑惑について、門脇という医師の行為について証言を残している。門脇医師がこの心臓手術に参加していたことは確かだが、彼はその後胃癌を発症し、これが原因で心臓手術の5ヶ月後に亡くなっていたため本人への確認は不可能であり、死人に口無しであった。
当時、札幌医科大学整形外科講師の地位にあった作家の渡辺淳一は、この心臓移植を題材に地の利をいかして関係者からくわしく話を聞き、『小説心臓移植(のちに「白い宴」と改題)』を発表した。綿密な調査で知られる吉村昭も心臓移植を追った小説『神々の沈黙』の中でこの手術に関して触れており、後に、その取材ノートともいえる『消えた鼓動』を発表した。
和田心臓移植からふたたび日本で心臓移植が開始されるのは31年後の1999年2月28日におこなわれた大阪大学チームによる心臓移植であった。和田の、免疫学を無視したと取られてもやむをえない、強引な心臓移植手術の強行が日本の心臓移植、ひいては臓器移植の遅滞を招いたとの批判もある。臓器移植という特殊な医療は、社会風土、倫理、人生観、宗教、博愛精神、などさまざまな要素から成り立っており、この心臓移植一件で、臓器移植の遅滞を招いたと結論付けるのは議論の余地があるが、少なからず影響を与えたと考えるのは無理からぬことでもある。
昭和43年 (1968年)8月8日[編集]
北海道立札幌医科大学・第二外科・和田寿郎教授によって、日本で初、世界で第30例目の心臓移植手術が行われた。
午後2時半[編集]
札幌医科大学・第二外科の和田寿郎教授(当時46歳)と約20名の医師団は、記者会見を開き、日本初の心臓移植手術を実施したことを発表した。会見では、このようなことが報告された。
- 心臓移植を受けたのは、心臓弁膜症と診断された宮崎信夫さん(当時18歳)
- 心臓を提供したのは、手術前日に海水浴中に溺れた山口義政さん(当時21歳)
- 手術開始は、8日午前2時。 終了は、約3時間後の午前5時
- 術後の経過は良好
『心臓移植、ついに踏み切る。涙ぐむ家族、提供者に、ただただ感謝』- 朝日新聞
『 それはまぎれもなく日本医学の黎明を告げた一瞬だった』- 読売新聞
新聞には、和田教授と医師団を讃える見出しが躍り、日本中が、この快挙に沸き立った。一躍有名人になった和田教授は、「現代医学の驚異」と評され、昼夜を問わずマスコミの取材が殺到した。日本中が和田教授の偉業を讃え、宮崎さんの手術の成功を祝福した。
和田教授は、宮崎さんがビスケットを食べているところをガラス越しに撮影した写真や、宮崎さんが「全国の皆さん、ありがとう。信夫はこれからも頑張ります」と、お礼のメッセージを吹き込んだカセットテープなどを記者会見で披露した。
83日後[編集]
しかし、手術から83日目の10月29日、宮崎さんの容態が急変。あっけなく死亡してしまう。
宮崎さんの死亡を伝える記者会見の席上で、和田教授は、「宮崎さんは、最近患った血清肝炎で体力が弱ったうえに気管支炎を併発していた。運悪く喉にからまったタンで呼吸不全を起こしたことによる急変であり、不運が重なったとしか言いようがない」と発表した。
しかし、その後の調査の中で、和田教授が行った心臓移植手術には多くの不審な点があることが発覚した。そして、それらの不審な点を重ね合わせると、ひとつの恐ろしい疑惑が浮かびあがってきた。
「山口さん・宮崎さんの両名は、不運で死んだのではなく、殺されたのではないか?」
これが、現在まで議論が続く「疑惑の和田心臓移植」といわれる事件の始まりである。
12月3日[編集]
宮崎さんが死亡してから約1ヶ月後の12月3日。大阪の漢方医ら6名は、殺人罪、業務上過失致死罪、死体損壊罪で和田教授を刑事告発した。大阪地裁は昭和44年1月20日、札幌地裁へ申送り、受理した札幌地裁は本格的な調査を開始した。
「現代医学の驚異」とまでいわれた和田教授は、なぜ「殺人犯」として訴えられたのか。日本初の心臓移植手術は、一体どのような状況下で行われたのか。
山口義政さん(当時21歳・大学生)[編集]
石狩湾に面した蘭島海岸に友人2人とキャンプに来ていた山口さんは、この日(8月7日)の午後には帰る予定だったが、帰る前にもうひと泳ぎしようと海に入ったところを不運な事故に襲われた。
溺れた山口さんが深さ2メートルの海底から引き上げられたのは、午後0時過ぎだった。救護所に詰めていた医学生らが蘇生に当たったが、山口さんが息を吹き返す様子はなく、午後0時30分、やっとのことで救急車に乗せることができた。
午後0時45分[編集]
山口さんを乗せた救急車が小樽市内・野口病院に到着。診察した外科医は、山口さんの自発呼吸と心音を確認し、「命に別状はない」と、診断を下した。
移動中の救急車の中で必死の蘇生作業をおこなった救急隊員の努力で、山口さんは危険な状態から脱し、良い方向に向かっていると見られた。このことは、翌日8月8日の読売新聞でも大きく取り上げられ、「心臓が動き出した!一度は死んだ水難大学生」と、大見出しで報道されている。
午後6時[編集]
山口さんの容態が安定しているのを見届けて、担当医師は帰宅した。
野口病院 勤務医の証言
- 山口さんは運ばれてきた時、すでに自発呼吸をしていた
- 点滴の血管の確保と酸素マスクだけで十分な状態だった
- 聴診器を当てても肺に水が入っているような音は聞こえなかった
- 血圧は安定していた
- 瞳孔の収縮が見られ、良い方向に向かっていた
午後7時[編集]
野口病院の院長の判断により、山口さんの身柄は、野口病院から札幌医大付属病院へ搬送される。
この転院について野口病院の院長は、「山口さんの容体が急変したため、高度な医療施設がある医大へ搬送した」と説明しているが、搬送に当たった消防士は、「患者は自発呼吸もあり、血色も良かった。こんな患者をなぜわざわざ札幌まで運ぶ必要があるのだろう?」と、不思議に思ったという。
午後8時5分[編集]
山口さんを乗せた救急車が札幌医大に到着した。和田教授ら胸部外科の医師、看護婦らを含む30名近いスタッフが待ち構えていた。
彼らは、山口さんの乗ったストレッチャーを取り囲み、そのまま手術室へ運び込んだ。当時、札幌医大で麻酔科助手をしていたN医師は、溺れた患者を手術室に入れたのを見て、非常に奇異に感じたといっている。
溺水者が運ばれてきた場合、人工呼吸は麻酔科がやるのが常識なのに、麻酔科に話がない時点でおかしいと思った。
また、溺水患者に行う基本的な処置(気管を筋弛緩剤で麻痺させて人工呼吸のための気管内送管を行う)は、麻酔科の仕事であるため、別の麻酔医が手術室へ入って処置を行おうとしたところ、
「おまえは、向こうへ行け!」と、胸部外科の医師たちに追い払われてしまったという。
午後8時30分[編集]
気になったN医師が手術室へ行ったところ、和田教授が助手に指示する声が聞こえた。
「この患者は高圧酸素療法適応ということで送られてきたが、高圧酸素タンクに入れても仕方がないから、心臓移植手術の提供者とすることにした。家族の承諾をとるのに時間がかかるから、君、2~3時間待ってくれないか」
N医師が確認のため時計を見ると、ちょうど午後8時30分であった。
もうこの時、手術室のドアの向こうでは恐るべきことが始められていた。医師団は、山口さんに対して溺水患者に施す処置を一切行わず、代わりに、大腿部付け根の内側を切開し、静脈に管を通して人工心肺を取り付けにかかっていたのだ。
(※人工心肺は、心臓移植手術に欠かせない重要な医療機器だが、溺水者の蘇生には、ほとんど意味がない)
和田教授は、山口さんが到着する前から、容態に関わりなく、心臓移植手術を行うことを決め、すでに準備を進めていたのである。
午後10時[編集]
午後10時頃から、和田教授は、山口さんの両親に心臓を提供するよう再三説得している。
「息子さんの蘇生のために我々は精一杯の処置をしたが、ついに万策尽きた。今ここで心臓を摘出することを許してもらえたら、ひとりの人間の命が助かるんです」
午前1時[編集]
山口さんの両親が、心臓を提供することに同意した。この時点では、山口さんはまだ生きていた可能性が高いといわれている。
しかし、もう誰にも和田教授の暴走を止めることはできなかった。
禁断のオペが始まった。
宮崎信夫さん(当時18歳・高校生)[編集]
小学5年生の時、リウマチ熱で重い心臓病を患い、中学を1年遅れで卒業した宮崎さんは、その後も入退院を繰り返し、札幌医大の内科に回されてきた患者だった。
当時、診察に当たった第二内科の宮原光夫教授は、「僧帽弁狭窄兼閉鎖不全症」と診断しており、「心臓に4つある弁のうち、僧帽弁を人口弁に置き換える手術を行えば、普通の生活に戻れる」と診立てていた。
宮崎さんは、和田教授の胸部外科でも診察を受けており、ここでも担当医は、「人口弁1個の移植が適当」と診断している。その後、宮崎さんが胸部外科へ転科したので、誰もが宮崎さんは人工弁の手術を受けるものだと思っていたという。
宮崎さんは、心臓移植を受けるほどの重病患者ではなく、弁の取り替え手術だけをしていたら、今でも生きていた可能性があるといわれている。
和田 寿郎 教授(当時46歳)[編集]
米国留学が長く、技術は抜群だが、地道な研究には不熱心で、一か八かの大胆な手術を好むため、手術による死亡率が高かったという。
なにか新しい手術をしたと言っては、「日本で最初の手術につき、記者会見を行いたい」と、マスコミに自分の功績を売り込むことに熱心だったことから、功名心の塊と噂されることもあった。
問題点[編集]
札幌地検が捜査に乗り出した結果、和田教授が行った心臓移植手術の問題点が浮き彫りになった。
宮崎信夫さんに関する問題[編集]
本当に移植手術が必要な病状だったのか?[編集]
「僧帽弁狭窄兼閉鎖不全症」であり、「心臓に4つある弁のうち、僧帽弁を人口弁に置き換える手術を行えば、普通の生活に戻れる」と、診断されていた宮崎さんに、心臓移植手術は本当に必要だったのか。
宮崎さんの心臓は、死後3ヶ月以上も行方不明になっていた[編集]
ようやく発見された時には、心臓の4つある弁は全て何者かによってくり抜かれており、それぞれの弁はガーゼにくるまれた状態で、心臓本体と一緒に標本瓶に入れられていた。
しかし、大動脈弁の切り口が心臓本体の切り口と合わないなど、他人の弁とすり替えられた可能性があった。
心臓移植手術に踏み切るに際し、和田教授は、「宮崎さんの心臓は大変危険な状態のため、一刻も早い段階で移植しなければいけない」と主張していた。そのため、実際の宮崎さんの心臓(移植手術が必要なほど悪化していない)を見せる訳にはいかず、隠蔽が行われたと考えられている。
検察もこれについては隠蔽工作があったのではないかとの疑いをかけたが、和田教授は、「門脇医師が担当したので、詳しい経緯はわからない。」と供述した。(門脇医師は、心臓移植手術の5ヶ月後に胃ガンで死亡しているため、「死人に口なし」の状態であった)
山口義政さんに関する問題[編集]
山口さんの転院理由[編集]
野口病院の院長によると、「午後6時30分頃、突然山口さんの容態が悪化し、うめき、もがき、母親が押えつけていないとベッドから落ちてしまうほどだった」という。
酸素不足のために起った症状であると判断した院長は、高圧酸素室療法がよいと考え、その設備のある札幌医大の和田外科へ電話し、その治療法を依頼したのだという。
しかし、この山口さんの転院の理由と必要性に関する院長の説明には、いくつかの疑問点がある。
まず、山口さんの症状の変化について、終始つきそっていた母親は否定しており、「押えつけなければベッドから落ちるような状態だったことは知らない」と述べている。
また、札幌医大ヘ搬送した消防士も、患者の血色もよく口唇の色も変えていないのに、なぜ転院の必要があるのかと疑問に思い、野口病院の院長に質問している。
さらに、同院長の転院の理由に関する説明は一貫性がなく、山口さんの容態が急変した折、「気が動転していて、札幌医大ヘ電話しただけで何の手当もしなかった」と述べるなど、医師として33年の経験をもつ院長の行動としては不可解で、理解しがたいものがある。
いかなる理由をもって山口さんを死亡と判定したのかが不明[編集]
和田教授は脳波・心電図をチェックせず、またそれらの記録も残さずに、午後10時10分、肺性脳死と判定を下しているが、それを後日、「モニターで確認していた」と言い直している。
更に最後には、「脳波と心電図を確認したのは、門脇医師だった」と、ここでもまた「死人に口なし」の供述しており、心電図の行方については「失くした」と答えている。
山口さんへの治療努力が見られない[編集]
そもそも高圧酸素療法を行うための転院であったにもかかわらず、転院直後の午後8時15分頃、手術室に入っていたのであれば、蘇生術は行なわれなかったとみるべきである。また、人工心肺を使うことは、溺水者の蘇生としてはほとんど意味がなく、蘇生のために用いたとは考え難い。
さらに、和田外科では、8月7日午後7時頃、山口さんを使用者とするO型の血液2000ccを北海道赤十字血液センターに注文し、また、午後7時30今頃には、宮崎さんと同型のAB型の血液を大量に調達可能かを問い合わせ、午後9時30分と11時頃の2度に分けて合計3800ccの血液が宮崎さん用として札幌医大に送られている。
山口さん用の血液を注文することが、必ずしも心臓移植と関係があるとは言えないが、宮崎さん用の血液を大量に注文したことについては疑問が残る。
移植手術の執刀を決意したタイミング[編集]
和田教授は、「手術当日の午前1時頃、ふと宮崎君のことを思い出して『心臓移植』を決めた」と記者会見で発表している。
しかし、もしこれが事実だとすれば、和田教授は「ふとした思いつき」で移植手術を決意した後、たった1時間で20名もの医師団を集め、さらに手術に必要な器具、機材などの準備を整えさせたということになる。それも、真夜中の午前2時にである。これはとんでもない話で、到底一時間で出来るとは思えない。
これら一連の事実を考え合わせた結果、山口さんを手術室に収容した8月7日午後8時15分の時点で、和田外科では、すでに心臓移植手術の決意がされていたと推測されている。
和田教授の医師としての技量の問題[編集]
和田教授は、医師として心臓移植を可能とするレベルにあったのか?
和田教授は、他人から臓器移植した場合の拒絶反応の知識が殆ど無かったといわれている。当時、拒絶反応を抑える免疫抑制剤“イムラン”の購入方法すら知らなかったという。
宮崎さんの死亡後の心臓を確認すると、明らかに拒絶反応が原因で、通常の4倍の1080グラムまで肥大しており、縫合分はゴツゴツして黒ずんでいたという証言がある。
また、和田教授は当初、「免疫反応とは関係なく、移植心臓も死の直前まで整脈を保ち、異常はなかった」「死因は急性呼吸不全である」と発表したが、剖検の結果、患者が著しくやせおとろえていたことが明らかになった。
これは、感染症による消耗、拒絶反応、心外膜心膜の強い癒着による心臓の運動障害、肺性心などからなる心不全、末期におこった腹腔内その他の大出血が死因となったことを物語っていた。さらに、心臓内には凝血があり、窒息死の兆侯は見られなかった。(急性呼吸不全 : 窒息死の場合は血液が暗赤色流動性で凝血しない)
宮崎さんは、明らかに拒絶反応に苦しんだ末に亡くなったのだ。
このような状況を見る限り、和田教授の起訴は確実と思われた。しかし、事態は意外な進展を見せる。
判決[編集]
― 嫌疑不十分につき、不起訴処分 ―
札幌地検は疑惑の立証を試みたが、手術室という密室の行為であること、また専門知識の壁に阻まれ、問題の心臓移植手術から約2年後の昭和45年8月31日、不起訴処分(嫌疑不十分)とした。
なぜ和田教授は罪を問われなかったのか?
当時の担当検事はいう。
「山口さんの検視で司法解剖をするかどうかが決め手だった」
「司法解剖こそが、科学的に客観的に証明できる資料だった。もし実施されていれば、山口さんの心臓が取り出される際、生きていたか、死んでいたか、専門家の手で明らかにされた可能性があります」
その1年後の昭和46年10月14日、札幌検察審査会は地検に再捜査を要求し、捜査が再開された。が、札幌地検は新たな証拠を得られないまま、翌年8月14日、再び嫌疑不十分として不起訴を決定した。
この疑惑に満ちた和田心臓移植の影響で、日本の移植手術は、世界の医療レベルに比べて40年は遅れをとったといわれている。また、この事件が国民に不信感を抱かせ、日本で臓器移植法が成立したのは、これから約30年後の平成9年のことである。
後日談[編集]
二度に渡る捜査を乗り切った和田教授は、その後は北海道を離れ、昭和52年(1977年)東京女子医大附属日本心臓血圧研究所教授に転任。
昭和62年(1987年)に65歳で退官。その後は、東京・有楽町駅前のビルの一室に『和田寿郎記念心臓肺研究所』を開設し、今に至る。
和田教授は、現在でも自分が行った心臓移植手術は正しかったと主張しており、ことあるごとに、「勇気を持って、心臓移植をどんどんやらなきゃダメだ」と、友人に語っているという。
小説「失楽園」や「ひとひらの雪」などで有名な作家の渡辺淳一は、当時、札幌医科大学の整形外科講師だった。この心臓移植問題を題材にした小説「心臓移植(のちに「白い宴 」と改題)」を1967年に発表している。
また、当時、心臓移植の取材を行っていた作家の吉村昭も、小説「神々の沈黙―心臓移植を追って 」、「消えた鼓動 」で、この問題に触れている。
1973年3月23日、当時の心臓移植手術の妥当性に関して、札幌医大ならびに和田教授は、日本弁護士連合会の警告を受けた。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 共同通信社社会部移植取材班 『凍れる心臓』、共同通信社、 1998年 ISBN 4764104067