世紀のトレード
世紀のトレードとは、プロスポーツで行われる交換トレードの中でも、特に前例が無く、今後も起こらないであろう事例に対しての俗称である。
なお、このネーミングは、1963年に山内一弘-小山正明の大物選手同士の交換トレードをマスコミが記載したことに由来する。また、近年はFA制度が確立されたことやアメリカメジャーリーグに移籍することも増えたことから、いわゆる「小久保無償トレード問題」のようなトレードの新概念の発生を除くと、それまでの「大物選手のトレード」は少なくなりつつある。
この項目では、「世紀のトレード」と謳われた山内-小山の交換トレードと、このトレード同様に球界を震撼させた主な大型トレードについて紹介する。
目次
- 1 世紀のトレード
- 2 世紀の大トレード
- 3 その他の主な大型トレード
- 3.1 1975年 張本勲(日本ハムファイターズ) - 高橋一三・富田勝(読売ジャイアンツ)
- 3.2 1975年 江夏豊・望月充(阪神タイガース) - 江本孟紀・長谷川勉・池内豊・島野育夫(南海ホークス)
- 3.3 1978年 田淵幸一・古沢憲司(阪神タイガース) - 真弓明信・若菜嘉晴・竹之内雅史・竹田和史(西武ライオンズ)
- 3.4 1978年 小林繁(読売ジャイアンツ)- 江川卓(阪神タイガース)
- 3.5 1982年 加藤英司(阪急ブレーブス) - 水谷実雄(広島東洋カープ)
- 3.6 1984年 田尾安志(中日ドラゴンズ) - 杉本正・大石友好(西武ライオンズ)
- 3.7 1986年 落合博満(ロッテオリオンズ) - 牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂(中日ドラゴンズ)
- 3.8 1988年 門田博光(福岡ダイエーホークス) - 内田強・原田賢治・白井孝幸(オリックスブレーブス)
- 3.9 1988年 中尾孝義(中日ドラゴンズ) - 西本聖・加茂川重治(読売ジャイアンツ)
- 3.10 1993年 秋山幸二・渡辺智男・内山智之(西武ライオンズ) - 佐々木誠・村田勝喜・橋本武広(福岡ダイエーホークス)
- 3.11 1997年 西崎幸広(日本ハムファイターズ) - 石井丈裕・奈良原浩(西武ライオンズ)
- 3.12 1997年 矢野輝弘・大豊泰昭(中日ドラゴンズ) - 久慈照嘉・関川浩一(阪神タイガース)
- 3.13 2003年 小久保裕紀(福岡ダイエーホークス) - 無償(読売ジャイアンツ)
- 3.14 2006年 多村仁(横浜ベイスターズ) - 寺原隼人(福岡ソフトバンクホークス)
- 3.15 2008年 二岡智宏・林昌範(読売ジャイアンツ) - MICHEAL(マイケル中村)・工藤隆人(北海道日本ハムファイターズ)
- 3.16 2013年 糸井嘉男・八木智哉(北海道日本ハムファイターズ) - 木佐貫洋・大引啓次・赤田将吾(オリックス・バファローズ)
- 3.17 メジャーリーグ
- 3.18 NHL
- 4 参考文献
- 5 関連項目
- 6 脚注
世紀のトレード
当時大毎のオーナーだった永田雅一は、ミサイル打線との愛称通り打力が強力な反面、投手力に難を抱えていた(この年規定投球回数に達したのは坂井勝二・小野正一両投手であったが、それぞれ14勝19敗、13勝17敗と負け越した)のを憂い、自らのチームであるオリオンズの主力打者だった山内のトレードを画策した。この話に、前年の覇者でありながら打力不足から連覇を逃した阪神が乗る形でトレードが実現した。
阪神が小山を選んだことについては、もう一人のエースであった村山実との確執が報じられたり、1962年の日本シリーズ第7戦で試合が延長に突入したときに自分の出番がないと思って「あがって」入浴した(結果的に阪神は敗れ、日本シリーズの敗北が決まった)ことなどが理由として挙げられていた。
トレード後の二人はともに新チームで優勝を経験し、長い現役生活を全うした。
世紀の大トレード
- 1926年 ロジャース・ホーンスビー(セントルイス・カージナルス) - フランキー・フリッシュとミー・リング(ニューヨーク・ジャイアンツ)
セントルイス・カージナルスの選手兼任監督としてプレイし、1926年に史上初のワールドシリーズ制覇に貢献したロジャース・ホーンスビーとニューヨーク・ジャイアンツのフランキー・フリッシュとジミー・リングのトレードは「世紀の大トレード」と言われた[1]。
その他の主な大型トレード
この項目では、前述の、山内-小山のトレード同様、球界を震撼させた主な大型トレードを紹介する。また、今後も起こらないであろう事を強調すべく、トレードされた時点でのキャッチコピーを記載する。
1975年 張本勲(日本ハムファイターズ) - 高橋一三・富田勝(読売ジャイアンツ)
前年首位打者、『安打製造機』張本のトレード
1974年オフ、V10を逃した巨人は川上哲治監督が勇退すると共に現役を引退した長嶋茂雄が監督に就任した。しかし、翌1975年は球団史上初となるシーズン最下位を経験すると同時に、その年球団創設25年目にして初のリーグ優勝を決めた広島東洋カープに本拠地後楽園球場で胴上げを許す結果に終わった。長嶋監督は同年オフ、パ・リーグのリーディング・ヒッター、『安打製造機』こと張本勲の獲得を希望。長嶋のチーム構想と旧東映色の一掃を構想していた日本ハムフロント陣の思惑、そして張本自身の巨人入りに対する熱意があり、堀内恒夫と並ぶ左のエース高橋一三、土井正三・河埜和正に次ぐ内野の守備要員だった富田勝との大型トレードが成立した。
その後、張本は王貞治と共に巨人のクリーンナップとして活躍し、二度のリーグ優勝に大きく貢献。また、張本の加入により三塁手にコンバートされた高田繁が期待以上の活躍を見せ、巨人にとって大きな効果をもたらすトレードとなった。一方、日本ハムに移籍した高橋もスローボールを巧みに操る技巧派投手として開眼。以降、長きに渡り日本ハム投手陣の主軸として活躍し、1981年のパ・リーグ優勝時には立役者の一人となった。巨人では目立った活躍が見られなかった富田も規定打席に到達して2年連続打率3割と奮闘した(ただし、前述の優勝時には中日ドラゴンズに移籍していた)。
1975年 江夏豊・望月充(阪神タイガース) - 江本孟紀・長谷川勉・池内豊・島野育夫(南海ホークス)
チーム2ケタ勝利量産投手同士のトレード
江夏のトレード話は前年から噂されており、当時、旧東映色の一掃を構想していた日本ハムの主砲・大杉勝男とのトレードがまとまりかけていた。しかし、この交渉は頓挫し、結果として大杉はヤクルトスワローズに移籍した。
江夏自身は「俺は阪神のエースだ」という自負があったが、年を追うごとに球が走らなくなっていることもまた自覚していた。さらに、前年から就任した吉田義男監督との間に確執があり、吉田は南海の野村克也監督に「江夏はいらないか?」と話を持ちかけて交渉が成立。当初は江夏 - 江本・長谷川・池内の形で交渉がまとまっていたが、両球団から選手を一人ずつ加えた形でトレードが成立した。当初、阪神側は佐藤正治もトレード要員として放出を考えていたが、『付録』という形での南海への移籍に難色を示した佐藤は現役を引退した。
江夏は南海で野村と出会い、一年目は先発で結果が出なかったことからリリーフに転向。投手は一人で投げきるものだと思っていた江夏がクローザーに転向した経緯には、球が走らない江夏に野村が「たった30球で飯が食える」ということを何気なく話したことが挙げられる。なお、江夏はトレードについて問うマスコミに対して「いや、知りませんでした」と話す吉田を見て許せなかったと語っている。
一方、吉田によると1974年オフの監督就任当時、フロントが江夏をトレードで放出しようとしていたため、再起を期して残留させたという。1975年のシーズン開幕前、江夏には「今シーズンの成績次第ではトレードもあり得る」と言い含めたと記している。しかし、成績がふるわなかった(12勝12敗)ことからフロントと吉田の間でトレードが決まったが、「人事の話はフロントから伝える方がいい」という長田球団社長の方針に従い、トレードを知らないと否認を続けた。この件について吉田は「江夏には申し訳ないことをした。自ら直接伝えるべきだった」と著書で記した他、キャンプの取材で顔を合わせた際、江夏に直接謝罪している。
トレードで阪神にやってきた江本は、南海時代に野村監督の緻密で考える野球に馴染んでいたため、阪神のよく言えば豪放、悪くいえば雑な野球に驚いたということを記している。江本はローテーション投手として一定の活躍を見せたものの、1981年8月に「ベンチがアホ」発言でチーム批判を行い、自ら「現役を引退します」と球界から身を引いた。
江夏はトレード相手であり1974年のオールスターゲーム第2戦で先発として投げ合った江本について、現役時代は歯牙にもかけないような発言をしていたが、引退後に覚せい剤取締法違反で逮捕・起訴されたときに江本が被告側証人として出廷したこともあり、現在では親交を持つようになっている。
1978年 田淵幸一・古沢憲司(阪神タイガース) - 真弓明信・若菜嘉晴・竹之内雅史・竹田和史(西武ライオンズ)
阪神タイガース不動4番打者の突然のトレード
阪神タイガース不動の四番打者であった田淵にトレード話が出たのは、チームが初の最下位となったこの年のシーズンオフにドン・ブレイザーが監督に就任してからである。広島東洋カープでヘッドコーチを務めていたブレイザーは、一塁への全力疾走をせず、捕手としてもキャッチャーフライを途中で追わなくなる田淵について、『年を追うごとに丸々と太っていく自己節制できない野球選手』というイメージしか無かったという(田淵には耳への危険球の後遺症で体質が変わったことや、腎臓病の薬の副作用があった。また、前述の後遺症で疲労が溜まると左耳がほとんど聞こえなくなり、耳で打球の方向を判断することが出来なくなる場合があったという)。また、チームが最下位となったことで、阪神ファンや在阪スポーツ紙の間でも同じような観点から、いわば「A級戦犯」として田淵を批判する声が少なからず聞かれるようになっていた。いしいひさいちの漫画『がんばれ!!タブチくん!!』の連載が始まったのもこうした風潮の中でのことである。
ただ、田淵も「これではいけない」と思い、トレード成立直前の秋季キャンプではプロ入り以来初めてというほど必死に練習し、減量に成功していた。
当時、阪神の球団社長であった小津正次郎は、球界では『オズの魔法使い』との異名を持つ社長であった。ブレイザーを監督に招聘したのも小津であるが、ブレイザーが最初に打ち出したのが『センターラインの強化』。ショートのレギュラーであった藤田平が満足に動けず、ファーストへのコンバートも決定していたことから、走・攻・守3拍子が揃ったショートの補強を球団に要求。希望の選手は、クラウンの有望な若手選手である真弓であった。
小津は、新生西武ライオンズの監督に就任した根本陸夫と何度も話し合いの席を持った。その結果が「ショートが必要だから真弓、田淵という大砲を出すのだから竹之内、田淵という捕手を出すのだから若菜、それに加えて投手陣整備のために竹田」であった。根本監督、新生西武にもプライドがあるため、さすがに1対4のトレードでは納得できず、面子を保つために一人加えた2対4で交渉が成立した(古沢も納得していたと言うが、阪神及び小津社長のやり方には理解に苦しむと語っている)。
トレードが決定した日、田淵は夜に麻雀をしてから帰宅。深夜0時過ぎに突然阪神球団から自宅に電話がかかり、大阪市のホテル阪神に呼ばれて小津社長からトレードを宣告される。突然かつ強引な決定であったため、田淵は球団首脳陣に歯向かい、泣き崩れた(小津社長が「根本監督は立派な監督だから、田淵に向いている」と話すと、田淵は「じゃあブレイザー監督はダメ監督なんですか?何でダメ監督を監督に招聘するんですか!」と言い返し、堂々巡りが数時間続いたと言う)。その後、ホテル阪神の部屋の前に詰めていた各記者に対し「俺がそんなにひどいというけれど、じゃあ阪神が俺を厳しく育てようとしたか?深夜に呼び出してこんな話をして、人を何だと思っているんだ!」と号泣しながら話した。田淵は所沢に移った後もずっと阪神のことを引きずっていたが、先輩で大エースだった村山実から励まされて吹っ切れたと言う。移籍後は根本の後任監督・広岡達朗によって叩き直され、不動の4番打者として西武でも個性的な活躍を見せた。前述の『がんばれ!!タブチくん!!』はアニメ化されて人気を博し、田淵は阪神では味わえなかった優勝(日本一)を経験している。交換相手として移籍した真弓も阪神で成長を見せ、特に1985年の阪神の日本一達成時には『恐怖の1番打者』として貢献。チームを代表する選手となった。
このように一度はチームを追われた形となった田淵だったが、TBSの解説や福岡ダイエーホークスの監督などを経て、2002年に阪神監督に就任した星野仙一が、親友である田淵を「チームの指導者として必要な人材」と訴え、24年ぶりに打撃チーフコーチとして阪神に返り咲き、濱中治などの選手を育てた。そして、現役時代に果たせなかった阪神での優勝を経験することになる。そんな田淵の姿を見て、トレードのためにそれまで田淵にふさわしくないとされた『ミスタータイガース』の称号者の一人に考えるファンも多く見られる様になった。
1978年 小林繁(読売ジャイアンツ)- 江川卓(阪神タイガース)
空白の一日から江川事件にまで発展したトレード
詳細は江川事件を参照の事。
1982年 加藤英司(阪急ブレーブス) - 水谷実雄(広島東洋カープ)
チーム立役者筆頭候補同士のトレード
入団以来阪急の主砲として君臨し続けた左の強打者・加藤にも、年齢による衰えが見え始めたと判断した阪急球団の首脳部はトレードを画策。最終的に候補として残ったのが、同じく広島球団に実力が衰えたと判断され、守備位置(主に一塁手)も似た右の強打者・水谷であった。
水谷は阪急の中軸(主に4番・指名打者)として自身初の130試合フル出場。共に自己最多の36本塁打・114打点と期待通りの活躍をおさめ、打点王のタイトルを獲得した。しかし、移籍2年目の1984年、開幕戦で頭部に打球を受けて調子を崩し、翌1985年限りで引退した。
一方、加藤はセ・リーグの環境に慣れず、肝炎を患ったこともあり1シーズン限りで近鉄へトレードされ、2年間のプレーの後、巨人、南海と移籍を繰り返し、引退する1987年にようやく本人の目標であった2000本安打を達成した。また巨人時代の1986年には全12球団から本塁打を放った。
1984年 田尾安志(中日ドラゴンズ) - 杉本正・大石友好(西武ライオンズ)
中日ファンを落胆させた、3年連続最多安打田尾のトレード
チームの選手会長を務め、1981年から4年連続で打率3割、並びに1982年から3年連続でセ・リーグ最多安打を放つなど、田尾は中日の中心選手の一人だった。だが、もともと一本気で曲がった事が大嫌いな性格だった田尾は選手会長という立場上、フロントと対話する機会が多くなり、その場で自分の意思を貫き通す姿勢がかえってフロントから煙たがられるようになり、不満分子扱いされ、放出要員に至ることとなった。
一方、西武は前年に打線の軸である田淵幸一、山崎裕之がそろって現役を引退。ジェリー・ホワイトの大洋移籍(正確には自由契約)、後に黄金時代を迎えた際の中心選手となる秋山幸二、辻発彦らが成長前だった事もあり、打線の強化が急務であった。田尾の交換要員には、先発陣強化のために杉本、故障の多い正捕手・中尾孝義の控えとして大石がそれぞれ選ばれた。最初にトレードの対象となったのは大島康徳であったが、マスコミに情報が漏れてしまい、結果として田尾に白羽の矢が立った。
突然のチームの中心選手である田尾の放出に中日ファンからは批判が相次ぎ、中京圏において中日新聞の不買運動が起こる事態までに発展したが、移籍した西武でも性格が災いしてベンチ・フロントと対立。さらには打率3割を切るなど成績が振るわなかった事もあってわずか2年で吉竹春樹、前田耕司との交換トレードで阪神に移籍した。中日に移籍した杉本は1986年から2年連続2桁勝利を挙げ、大石も控え捕手としてではあったもののリーグ優勝に貢献し、共に同年の日本シリーズで古巣・西武と対戦している。
1986年 落合博満(ロッテオリオンズ) - 牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂(中日ドラゴンズ)
三冠王、一億円プレーヤー目前の落合のトレード
落合はこの時点で三度の三冠王に輝き、『プロ野球界初の一億円プレーヤー』誕生も時間の問題とされた。親会社のロッテ側もこのことを大変喜び、「最初の一億円プレーヤーをうちから出せる」と乗り気であったと言う。だが、球団のある幹部が「親会社がガムをコツコツと、一生懸命売り続けているのに、一億円なんてとんでもない」と発言。主砲・落合と球団の間に軋轢が生まれた(これらは落合の発言による)。また、落合が尊敬していた稲尾和久監督の解任も球団への不信感・嫌悪感をより一層強めていった。このような原因からトレード要員となっていた落合であるが、最初にトレードを申し込んできたのは巨人であった。元々、巨人は落合をドラフトで指名する予定だった(当時の長嶋茂雄監督は落合を非常に買っていた)が、江川事件により頓挫。ノンプロ、二軍時代から落合に目をつけており、すでに巨人側はロッテ側に交換選手も提示し、ほぼ落合の巨人移籍は決定していた。
その話を聞いた中日球団及び当時の星野仙一監督は、落合の獲得予定などまったく無かったが、「巨人に落合が行ったら困る」と急遽トレード案を画策。中日側が提示した四選手は全員、年齢も20代の将来がある選手達であり、ロッテの新監督に就任した有藤道世が球団に要望した投手陣の整備にも当てはまる条件であったことから、トレードは中日と成立した。ちなみに巨人とトレード成立しなかった理由はロッテ側から求められていた交換要因として中畑清か篠塚利夫に+αという条件であり、当時2人とも巨人の主力打者であったため巨人側はトレードに躊躇していたためであるといわれている。
なお、トレードが発表されたその日になっても牛島はこの件を納得しなかったという。牛島を必死に二日がかりで説得し、新幹線の見送りに来たのもまた星野仙一であった。牛島は、その姿勢に号泣したという。
1988年 門田博光(福岡ダイエーホークス) - 内田強・原田賢治・白井孝幸(オリックスブレーブス)
ホークス身売り問題が影響したトレード
この年、門田は不惑の40歳にして44本塁打(40歳の最多本塁打記録)を放って本塁打・打点の二冠王を獲得し、その年の南海が5位だったにもかかわらずMVPに選出されるまでの活躍をした。
しかし、この年を最後に南海はダイエーに身売り、同時に本拠地も大阪市から福岡市へ移転する事となった。それを聞いた選手の多くは、最初は戸惑いながらも身売り・移転という現実を素直に受け止めた。しかし、門田は家庭的な事情から、「家族を残して関西を離れたくない」と、福岡行きを拒否するとも取れる発言をした。そしてその後の大阪球場での南海ホークスとして最後の試合終了後のセレモニーでは終始うつむいたまま涙を流し続けていたという。
球団は残留を要請するものの、本人の意志は固く退団が決定。そして本人の希望により関西のパリーグ球団、近鉄と、南海同様同年に阪急の球団身売りによって誕生したオリックスに絞って移籍交渉が進む。当初は近鉄が優位と見られていたが、金銭トレードを希望していた近鉄に対し、内田強・原田賢治・白井孝幸の若手3選手を交換要員として提示した、オリックスへの移籍となった。
移籍後の門田は、松永浩美、ブーマー・ウェルズ、石嶺和彦、藤井康雄らとの『ブルーサンダー打線』の4番を担い、41歳になった1989年には33本塁打、42歳の1990年にも31本塁打(どちらも年齢別最多本塁打記録)と連続で30本塁打以上を放ち、強打は健在である事をアピールした。
そして1990年オフ、阪急西宮球場よりも広いグリーンスタジアム神戸に移転するオリックスの球団方針、子供の自立、オリックス移籍後もラブコールを送り続けてきたダイエー上層部やファン(当時のダイエーファンは門田の打席が回って来る度に「帰れコール」を飛ばしたが、これは「裏切り者は去れ」の意味ではなく「古巣に帰って来い」の意味で用いられた)、そして最後の野球人生は古巣で終えたいなどといった条件が重なり、門田は古巣に復帰する事となった。だが、動体視力の低下など肉体的な衰えにより43歳の1991年は18本塁打、44歳の1992年は7本塁打と落ち込み、同年をもって現役引退する事となるが、実働23年間の長い現役生活を全うした。
なお、門田はその後、野球中継の解説などの際に「あれはレンタル移籍だった。球団にお願いして移籍させてもらったもの」と何度も発言している。
1988年 中尾孝義(中日ドラゴンズ) - 西本聖・加茂川重治(読売ジャイアンツ)
親会社が新聞社同士の異例のトレード
1987年の4月10日、中日の新監督であった星野仙一の初公式戦で、巨人の開幕投手西本聖はこの年にロッテから中日に移籍してきた4番落合博満に対し、全打席全球すべてシュート攻めで4打数1安打と封じ込め、完封勝ちした。これを見た星野が西本の度胸を絶賛し、いつかは獲得したいと常々考える様になった。翌年西本が4勝に終わり、巨人の監督が藤田元司に交代すると、星野は藤田と極秘に会談を行い、中日側の交換要員に中尾孝義、巨人からは西本プラス若手投手の加茂川重治でトレードの話をつける。もともと、巨人と中日は親会社がライバル同士だったこともあり、それまで巨人-中日間の選手同士のトレードは、戦力外扱いや他球団への在籍経験のある選手を除いて殆ど実績がなく、特に中日側の1対2の要求に読売新聞側の抵抗は強かったが、巨人は山倉和博の衰えにより捕手の強化が急務であったため、結局トレードを受け入れた。
翌年、西本は20勝をあげ最多勝利のタイトルを獲得。一方、中日では若い中村武志に押されて外野の控えに回っていた中尾も捕手として再生、持ち前の強気のリードで巨人投手陣を引っ張り日本一に大きく貢献、特に伸び悩んでいた斎藤雅樹をリード面で支援し、20勝を挙げるまでに成長させた。また自らも捕手のベストナインに輝いた。なお西本・中尾の両者はこの年のカムバック賞を同時受賞している。
1993年 秋山幸二・渡辺智男・内山智之(西武ライオンズ) - 佐々木誠・村田勝喜・橋本武広(福岡ダイエーホークス)
元祖「世紀のトレード」に最も匹敵するといわれる、前代未聞の極秘トレード
元々、秋山と当時の西武・森祇晶監督との確執は長らくマスコミを中心にささやかれていた。何度も「FA制度が確立されたら秋山は巨人に行くのではないか」という憶測も飛び交っていた。一方、ダイエーの中心打者であった佐々木は、弱小球団とはいえ球団の顔として活躍し、ファンからも人気があった。本人も福岡に骨を埋めるつもりで、市内に一戸建ての自宅も建設中であった。こちらも巨人の長嶋監督が高く評価しており、スポーツ報知を中心にトレードが報じられた事もあった。
ダイエーの代表取締役専務も兼ねていた根本陸夫監督は、福岡ドーム元年でもあった就任初年度はほとんどチームに手をつけず、結果は最下位に低迷。平和台球場から移ったチームは、元来から弱かった投手面だけでなく打撃面でも振るわず、佐々木はレギュラー獲得以後最低の成績に終わる(ただし、この年は全体的に投高打低のシーズンで、打率ベスト10入りは維持していた)。佐々木自身は「根本監督の無言のメッセージであり、このままやっていたのではチームはいつまで経っても勝てないんだと言いたかった」と後々語っている。
その結果、根本は「勝ち慣れた常勝チームの選手がいれば変わる」との考えに切り替え、古巣・西武の秋山にスポットを当てた。一方で森も佐々木の野球センスを買っており、獲得の意思を示す。ダイエーからは右のエースである村田と左の中継ぎ橋本を、西武からは豪速球投手の渡辺智と若手の内山を付け、3対3のトレードが成立した。
このトレードはダイエー・中内功、西武・堤義明両オーナーにもトレード成立まで情報が知らされなかった。佐々木は翌年から選手会長に就任することが決まっており、球団に呼ばれた際はその話だと思って指定されたホテルに向かったところでトレードが宣告されている。一方のダイエーも戸惑う3選手に中内オーナーがこれまでの感謝と今後の期待の言葉をかけた。
秋山は弱小球団のぬるま湯精神が浸透した選手達に練習への取り組み方や試合の迎え方を見せることでチームを引っ張り、結果としてダイエーは強豪球団へと進化を遂げることが出来た。また佐々木も西武でクリーンナップを任され、リーグ優勝に貢献した。橋本も7年連続で50試合以上投げるなど左のワンポイントとして活躍したが、残りの3選手は早い時期に現役を退いている。なお、このメンバーの中で最後まで現役を続けたのは橋本である。
1997年 西崎幸広(日本ハムファイターズ) - 石井丈裕・奈良原浩(西武ライオンズ)
ドーム移転で確執問題が生じた、西崎放出とも言えるトレード
西崎は、入団初年の1987年に新人王を争い、その後も毎年のようにローテを守るなど、ファイターズのエースとしての地位を不動のものにした。また、それらの実績に加え容姿などの魅力も兼ね備えており、女性を中心としたファンからは、「トレンディーエース」と呼ばれるなど、まさにチームの顔であった。
しかし一方で、西崎入団の翌年から、日本ハムは後楽園球場から東京ドームに本拠地を移すとともに、ドーム初年度で観客動員が12球団中2位となるなど、後楽園球場に比べ観客が増大してきたが、フロントはこの増大を、チームの戦力に関わらず増大が見込める「ドーム効果」と解釈するなど逆手にとり、それ以後はファンサービスやチームの補強策などをほとんど盛り込まなくなり、また選手との契約交渉でも強気な姿勢をとるようになった。そもそも、実際に観客数が増大したのは、同じ東京ドームを本拠地とする巨人戦のチケットが取れなかった一部のファンが、ドーム見物のために日本ハム戦のチケットを購入したのが実情であり、日本ハムファン以外の割合も多かったためである。
数少ないチームのスター選手である西崎も、このようなフロントと度々契約交渉でトラブルが発生し、フロントとの確執も徐々に顕著になりつつあった。そして、その確執が浮き彫りとなったかのように、自身2度目となる規定投球回未達の1997年に、一部関係者からは戦力外とも言われるトレードをされてしまった。
西武に移籍後の西崎は、1998年は故障で満足に成績が上げられなかったが、1999年に抑え投手として、そして2000年には再び先発投手としての役割を果たし、2001年に引退した。
西崎の交換相手においては、石井は投手タイトルを総なめにした1992年の輝きを取り戻せずに1999年に退団(台湾プロ野球に渡る)したが、奈良原は自身が売りとする守備力に加え、打撃面でも西武時代に比べて開花。2006年に中日に移籍し同年限りで引退するまでプレーするなど、貴重な戦力として扱われた。
また、日本ハム戦の観客数はドーム初年度の1988年から徐々に減少し、この西崎のトレードでさらなるファン離れが深刻化して、2001年には12球団中最下位にまで転落したため、その後本拠地を札幌ドームに移転するきっかけになったとも言われている。
1997年 矢野輝弘・大豊泰昭(中日ドラゴンズ) - 久慈照嘉・関川浩一(阪神タイガース)
ナゴヤドームトレードともよばれた、中日野球スタイル大型変更のトレード
ナゴヤドーム元年の同年中日は、狭いフィールドの前本拠地ナゴヤ球場から広いドームへの戦術の転換に対応出来ず最下位に終わった。星野監督は長打力を生かした「打ち勝つ野球」からディフェンス・走塁中心の「守りの野球」への転換を決意し、生え抜きの主砲ながら鈍足の大豊と二番手捕手で外野手の矢野を放出し、ゴールデングラブ受賞歴皆無ながら守備と犠牲バントのリーグを代表する名手久慈と捕手関川を阪神から獲得。
そして外野守備が苦手だった山崎武司を大豊の後釜の一塁手に、関川は俊足強肩を生かしセンターへコンバート。これが2年後の1999年プロ野球タイ記録やセ・リーグ新記録の開幕11連勝と11年振りのリーグ優勝の布石となった。また阪神に移籍した矢野も10年以上阪神で正捕手を務めることとなった。 このトレードは関川と矢野は移籍先で互いに成功したものの、大豊は2000年オフの契約更改において、球団と意見が一致せず自由契約となり中日に復帰しており、久慈も2002年にコーチ転身を断り自由契約となり、阪神に復帰している。
2003年 小久保裕紀(福岡ダイエーホークス) - 無償(読売ジャイアンツ)
前代未聞の主力野手無償トレード
それまで長らくチームの主砲であり続け、選手会長も務めたことがあり、秋山幸二の現役引退後はチームリーダーの役割も担っていた小久保は、同年3月に福岡ドームで行われたオープン戦の対西武戦でキャッチャーの椎木匠と交錯し、膝靭帯損傷の大怪我をした。
当初は夏頃復帰かと言われ、小久保は温暖でリハビリ施設も充実しているアリゾナに渡った。スポーツ医学界の大権威であるフランク・ジョーブ傘下の病院で手術を受け、手術は無事に成功した。この年には復帰することが出来なかったが、バックネット裏からチームの日本一を見守るなど小久保を尊敬する若手選手たちを影から励まし続けた。
だが、この年の11月に入った頃、『小久保がトレードに出される』との記事が地元紙に載り、11月3日の午前中、『小久保、巨人に無償トレード移籍』という内容のプレスリリースが各マスコミに届き、小久保・中内正オーナーの記者会見がこの日のうちに開かれた。
小久保無償トレード問題を参照
2006年 多村仁(横浜ベイスターズ) - 寺原隼人(福岡ソフトバンクホークス)
国際戦功労者多村のトレード
この年はシーズン開幕直前に第1回ワールド・ベースボール・クラシックが開催された年であり、多村は日本代表メンバーに選出され、チームの本塁打王・打点王となる活躍をしていた。また横浜の成績は、2002年〜2004年、そしてこの2006年と最下位続きの苦しい状況であったが、そんな状況の中でも、多村の成績はチームに貢献できると言えるものであった。
一方、交換相手の寺原は日南学園時代は大物ルーキーと呼ばれ、プロ入り後も1、2年目こそ一定の活躍を見せたものの、その後は成績が伸び悩み、またチームの投手陣の厚さと度重なる故障などから、チームの顔とまで言える成績は残せなかった。そのため一部ファンやマスコミからの評判は芳しくなかった。
しかし、翌2007年のシーズンで寺原は自己最高の12勝(12敗もしているが、先発ローテを守り、役割を十分に果たしている)を挙げ、横浜の成績もあと1勝で勝率5割到達の4位となり、チームに大きく貢献した。また、2008年は前年で退団したマーク・クルーンに代わる抑え投手としての活躍をした。一方、多村も2007年の開幕当初はクリーンナップを任され、自己最多の132試合に出場するなど一定の活躍を見せたものの、横浜時代のような成績をあげる事ができなかった。さらに多村は横浜時代からケガで離脱する事が多く、移籍したソフトバンクでもたびたびケガの影響で途中交代される事が多かった。2008年もやはり、ケガで離脱する事が多かった。
2008年 二岡智宏・林昌範(読売ジャイアンツ) - MICHEAL(マイケル中村)・工藤隆人(北海道日本ハムファイターズ)
巨人選手会長と日本ハム球団新記録セーブ王のトレード
二岡は入団から9年間、巨人の正遊撃手として攻守ともに好成績を残し2008年からは高橋由伸に代わり第15代選手会長に就任した。しかし、攻撃面では毎年優れた成績を残す一方で、守備面においては2007年のクライマックスシリーズの中日戦で惨敗した原因の一つに取り上げられるなど、この頃既に二岡の遊撃手としての守備範囲に限界が見えたと一部関係者から囁かれ、秋季キャンプの頃から「ポスト二岡の育成」などという表現が、多くのスポーツ紙で取り上げられるようになる。
それに伴い、2007年高卒ルーキーながら後半戦に出場を果たした坂本勇人の育成に、原監督をはじめとする首脳陣が力を注ぐなど、徐々に「ポスト二岡」が現実化するものとなった。二岡のもう一つのポジションである三塁手も小笠原道大が確実であった為、故障がちで調整を遅らせていた二岡は、ポジション剥奪の危機に焦りを感じ、無理に開幕戦に合わせた調整を行ってしまった。これが失敗し開幕戦で右ふくらはぎを痛め翌日から2軍で調整を行うこととなってしまった。
そしてさらに、1軍復帰目前とされていた7月10日にタレントの山本モナとラブホテルに出入りしていたことが報じられ1軍復帰を見送られる。同年7月20日に1軍復帰するも9月14日には右足首捻挫で再び2軍落ち、公私共に精彩を欠いたままシーズンを終える。その一方で開幕戦を除く全ての試合(開幕戦は二塁手で出場)で遊撃手でフル出場を果たした坂本は、二岡ほどの打撃は見られないものの、広い守備範囲などで何度もピンチを切り抜けるなど活躍し、事実上二岡は定位置を失う形となった。
一方で日本ハムの守護神マイケルは、2008年にチーム史上初の通算100Sを記録し、2006年や2007年の胴上げ投手もほとんどが彼が務めるなど、ほぼ安定した成績を残し、チームにとって欠かせない存在であった。
ただ日本ハムは、優勝と日本一を果たした2006年のシーズンオフに小笠原道大、新庄剛志と言った主力の打者が抜けるなど打線の低下が否めなくなってしまった。チームの投手力が磐石であった為に、翌年の2007年はチーム打率リーグ5位、チームHRリーグ最下位ながら2連覇を果たしたものの、2008年はその磐石の投手陣も後半戦で崩れてしまい、チームの貧打は相変わらず解消できず、結局3連覇を果たせなかった。
このトレードは形式上、右の強打者が欲しい日本ハムに対し、リリーフをさらに強化したい巨人が、磐石な投手陣が豊富な日本ハムの投手との交換という形であるが、巨人の選手会長が任期1年で終了しそれと同時にトレードで放出されるのは異例であり、上述の山本モナとの一件が原因の「厄介払い」という見方もある。また、左の中継ぎ投手を求める日ハムと外野手の故障が相次いだ巨人との狙いが一致し、同時に林と工藤のトレードも行われる事となった。また、日本ハムが安定していた守護神を思い切って放出したのは、マイケルが二重国籍であるが故に、年俸が高騰しやすいという事が一因とされている。
2013年 糸井嘉男・八木智哉(北海道日本ハムファイターズ) - 木佐貫洋・大引啓次・赤田将吾(オリックス・バファローズ)
二刀流ルーキーの存在が絡んだ、4年連続3割打者のトレード
チームの中心選手として活躍していた糸井は統一球導入による投高打低の中、前シーズンまで4年連続で打率3割を達成しており、前年の契約更改でもポスティングシステムを行使しての翌年オフのメジャー挑戦希望を球団に伝えるなど、「メジャーに最も近い男」としての呼び声も高かった。
一方、交換相手の一人であった大引は大学時代に「法政史上最高の主将」と呼ばれるなど常にオリックスのキーマンとして活躍し、昨年オフには引退した鈴木郁洋に代わる選手会長に就任するなどチームやファンの間での信頼が厚かった。
投手陣の強化と遊撃手の補強をねらう日本ハムと、坂口智隆の故障により外野手の手薄になったオリックスの思惑が一致したトレードであるが、この裏には前年のドラフトで日本ハムが1位指名で入団した二刀流ルーキー・大谷翔平の存在が隠されている。監督であった栗山英樹は大谷を投手と外野手の二刀流で育てることを宣言していたが、当時の日本ハムの外野手は中田翔・陽岱鋼・そして糸井といずれも球界を代表する外野手であり、大谷が1軍でプレーするには厳しい競争が予測されるために高年俸でメジャー行きを宣言した糸井を放出し、代わりとしてスーパーサブとして貢献していた赤田を獲得して育成と攻守の面で補強をしている。
メジャーリーグ
- 1920年 ベーブ・ルース(ボストン・レッドソックス) - 金銭(ニューヨーク・ヤンキース)
- 2003年 アレックス・ロドリゲス(テキサス・レンジャーズ) - アルフォンソ・ソリアーノ他(ニューヨーク・ヤンキース)
NHL
参考文献
- 「日本プロ野球トレード大鑑」ベースボール・マガジン社
- 「プロ野球トレード史II」ベースボール・マガジン社
関連項目
脚注
- ↑ [ttp://www.thanks-mlb.com/newpage206.html ロジャース・ホーンスビー]