武満徹

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武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、現代音楽の分野において世界的にその名を知られ、日本を代表する作曲家である。

経歴と作品概論[編集]

武満徹の作品一覧 も参照 1930年10月8日東京で生まれる。生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前小学校に入学。叔父の家に寄留。1943年、旧制の私立京華中学校に入学。終戦直前に聞いた、(当時の敵性音楽である)リュシエンヌ・ボワイエの歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』[1]に衝撃を受ける。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、東京芸術大学音楽学部を受験して失敗。無名時代、ピアノを買う金がなく、町を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという(芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は武満と面識はなかったにもかかわらず自分のピアノを貸し与えた)。

1950年処女作であるピアノ曲『2つのレント』を発表したが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と酷評され、映画館の暗闇の中で泣いていたというエピソードも残っている。

1951年、詩人の瀧口修造の下で、作曲家の湯浅譲二らとともに多方面の芸術家からなる集団『実験工房』結成メンバーに加わる(詳しくは該当項目を参照)。この最初期の作風はメシアンベルクに強い影響を受けている。「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義佐藤慶次郎福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。武満のメシアン研究の成果・影響としては「遮られない休息」「妖精の距離」(いずれも瀧口修造の詩から取られた題名)が挙げられる。また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として「水の曲」「ヴォーカリズムA.I」などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。

1953年、北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美(毎日放送の音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」)が病状悪化の早坂文雄を介して武満徹に「美幌町町歌」の作曲を依頼した。この頃、病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。

1957年、『弦楽のためのレクイエム』を書いた。この作品のテープを、1959年に自作の指揮のために来日したストラヴィンスキーがNHKで聴き、「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは…」と称賛した。この時期の作品では、他に「樹の曲」「地平線のドーリア」などが挙げられる。

1960年代前期は、特に管弦楽曲においてクライマックスを目指すヒートアップの方向性が明確に表れる。「アーク」(「テクスチュアズ」含む)「アステリズム」などがこれにあたる。この時期には西欧前衛の動向を手中に収め独自の語法として操る術を獲得しているが、特にヴィトルド・ルトスワフスキのアド・リビトゥム書法からの影響が直接的に現れている。もっともこれは結果としてルトスワフスキとの類似となったもので、直接には1960年代初頭に一柳慧によって日本にその思想が持ち込まれたジョン・ケージ偶然性の音楽の影響が見られる。武満はピアニストのためのコロナなどにおいて、直接的には図形楽譜による記譜の研究、内面的には偶然性がもたらす東洋思想との関連などを探った。そして帰結したのが時間軸の多層化という考え方である。

しかし前述の「アーク」などは、確かに表面上の手法においては“オーケストラの中でそれぞれの奏者が任意の時間を選択し一定の奏法パターンを繰り返す”というやり方によってオーケストラの内部における時間軸の多層性は確保しているものの、全体のテクスチュアの動きとしては“クライマックスを求めるヒートアップとその後の拡散(クールダウン)”という一元的な視点に帰結してしまう。この問題を曲全体の汎志向性というやり方で解決に導いたのは、1960年代後半以降である。

1960年代後期には、それまで映画音楽でのいくつかの試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。この頃から徐々に、上で述べた(1960年代前期までの)西洋音楽的な一次元的時間軸上の集中的指向性を薄め、東洋音楽的な多層的時間軸上の汎的指向性へと変化していく。その中で1967年ニューヨーク・フィル125周年記念の作曲をバーンスタインに依頼され、琵琶尺八とオーケストラの構成による『ノヴェンバー・ステップス』を作曲した。1970年には、日本万国博覧会の鉄鋼館音楽監督をつとめている。

後期には、前衛語法の使用から次第に調的な作風へと変化していった。具体的には「グリーン(当初の題は「ノヴェンバー・ステップス第2番」)」を発端とし、いくつかの中規模な作品を経て「カトレーン」「鳥は星型の庭に降りる」など1970年代終盤において明確に調性を意識するようになる。卓越した管弦楽法と絶妙に折り重ねられた和声は、多くの場面において時にドビュッシーを思わせながらも決してそれを安易な“過去の様式の模倣としての調性音楽”の次元にとどまらせず、独特の「タケミツ・トーン」と呼ばれる独自の音響へ帰結した。

モートン・フェルドマンのいう「オーケストラにペダルをつける」アイデアをここまで自家薬籠の物とした作曲家は彼だけであり、「タケミツ・トーン」とはこのことを指しているとも言われる。茫洋とした雰囲気の創出が「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う(細川俊夫)」点にあり、「実は数的秩序をハーモニーに導入している」と自らが語った晩年の創作軌跡の全貌は、明らかにされていない点も多い。

晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは「マドルガーダ」(邦題は「夜明け前」)となる予定であった[2]1995年膀胱、およびリンパ腺がんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた彼は数ヶ月の入院生活を送ることになる[3]。退院後、「森のなかで」「エア」を作曲。これらが完成された最後の作品となった[4]1996年2月20日、65歳で死去[5]

晩年監修を務め、彼の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられた。東京オペラシティの一連のオープニング・コンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために、「閉じた眼II」を弾いた。高橋は武満から「祈りとしての音楽」と「バッハをピアノで弾く」というテーマでコンサートを頼まれていた。演奏が終わって拍手がおこった時、高橋悠治は礼をせず、代わりに「閉じた眼II」の黄色い楽譜を高々と掲げて客席に示した。

彼や指揮者の小澤征爾らの世界的な成功は、戦後の日本の音楽界の存在を世界に知らしめ、その評価を上げることとなった。

娘の武満真樹は洋画字幕の翻訳家で、2005年からクラシック・ジャパンの副社長を務めている。

映画、テレビ、演劇などの音楽[編集]

武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、映画に限らず演劇テレビ番組の音楽も手がけた。

琵琶尺八の組み合わせで彼は純音楽として代表作『ノヴェンバー・ステップス』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いたのは映画『切腹』およびテレビ(NHK大河ドラマ)『源義経』であり、尺八は映画『暗殺』でプリペアド・ピアノやテープの変調技術とともに用いた。さらに映画『怪談』(監督:小林正樹)では、琵琶、尺八のほかに胡弓(日本のもの)、三味線、プリペアド・ピアノも、それぞれテープ変調と共に用いている。この『怪談』の音楽は、ヤニス・クセナキスがテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也との共同作業を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー・ステップス』その他に繋がった。

上記映画においては、映像と音楽・音響の同期・非同期が考察されている。例えば『怪談』では第1部「黒髪」で、主人公の武士が腐った死体を見て慌てて逃げ出すが、その際に床の木が腐っていて踏み外す。そこまでの足音はSEとして自然音らしく処理されているが、その踏み外した瞬間に、スタジオで作られたテープ音楽へと音が変わる。『暗殺』では主人公とライバルが剣道の試合をし、そこでの竹刀の音や足音は普通のSEだが、試合が終わって主人公が竹刀を壁にかける瞬間から、プリペアドピアノを変調したテープ音楽になる。映画の観客はそれらの場面で「バキッ」とか「カチャッ」という音が鳴ると思いきや、それらの期待した音に似つつも音楽として処理される別の音響へと音の聞き方が変わる。そこから繋がる場面では音楽としてそれらの音が継続されるが、もはや聴き手はそれらの音をSEとしては認識しない。どちらもSEと良く似た音素材によるテープ音楽だからこそ可能な音響・音楽的処理である。

また2台のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ独奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映画『沈黙』『美しさと哀しみと』『はなれ瞽女おりん』(すべて監督:篠田正浩)などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏会用組曲『2つのシネ・パストラル』としてもまとめている。

他にテレビの音楽としては『未来への遺産』においてオンド・マルトノを用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。

1985年の映画『』で、監督である黒澤明と対立。これ以後あなたの作品にかかわるつもりはないと言い放った。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている。同作品の葬送行進曲がマーラー風なのは「黒澤さんへの皮肉」とも武満は語っている。

短編ドキュメンタリー映画『ホゼー・トレス』でのジャズの語法をはじめ、1960-70年代当時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映画音楽やテレビの音楽である。

その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映画音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し石川セリが歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、彼の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律[6]をもとに、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。森山良子(『死んだ男の残したものは』)、小室等沢知恵らもこれらの歌をレパートリーとしている。

主な受賞歴[編集]

著作[編集]

彼がさまざまな媒体に発表した文章の大半は、新潮社から2000年に刊行された『武満徹著作集(全5巻)』に収録されている。

単著(日本語)[編集]

  • 『音、沈黙と測りあえるほどに』新潮社、1971年(著作集第1巻収録)
  • 『樹の鏡、草原の鏡』新潮社、1975年(著作集第1巻)
  • 『音楽の余白から』新潮社、1980年(著作集第2巻)
  • 『夢の引用』岩波書店、1984年(著作集第5巻)
  • 『音楽を呼びさますもの』新潮社、1985年
  • 『夢と数』リブロポート、1987年(自らの音楽語法について直接述べた著書)(著作集第5巻)
  • 『遠い呼び声の彼方へ』新潮社、1992年(著作集第3巻)
  • 『時間の園丁』新潮社、1996年(同年、点字資料版が日本点字図書館から刊行されている)(著作集第3巻)
  • 『サイレント・ガーデン』新潮社、1999年
  • 『私たちの耳は聞こえているか』日本図書センター、2000年(既刊書籍に収録されたエッセイを再編集したもの)

単著(日本語以外)[編集]

  • Confronting Silence: Selected Writings. trans. and ed. by Yoshiko Kakudo and Glenn Glasow. Berkeley, Calif: Fallen Leaf Press, 1995.

共著[編集]

  • 『ひとつの音に世界を聴く――武満徹対談集』晶文社、1975年
  • 『武満徹対談集――創造の周辺(上下巻)』芸術現代社、1976年;1997年新版
  • 武満徹、川田順造『音・ことば・人間』岩波書店、1980年 → 岩波書店(同時代ライブラリー)、1992年(著作集第4巻)
  • 小澤征爾、武満徹『音楽』新潮社、1981年 → 新潮文庫、1984年
  • 『音楽の庭――武満徹対談集』新潮社、1981年
  • 蓮實重彦、武満徹『シネマの快楽』リブロポート、1986年 → 河出文庫、2001年
  • 『すべての因襲から逃れるために――対談集』音楽之友社、1987年
  • 武満徹、大江健三郎『オペラをつくる』岩波書店、1990年(著作集第4巻)
  • 『歌の翼、言葉の杖――武満徹対談集』ティビーエス・ブリタニカ、1993年(著作集第5巻)
  • 秋山邦晴、武満徹『シネ・ミュージック講座――映画音楽の100年を聴く』フィルムアート社、1998年
  • マリオ・A[聞き手・写真]/埴谷雄高猪熊弦一郎、武満徹[述]『カメラの前のモノローグ』集英社新書、2000年
  • 木之下晃、武満徹『木之下晃 武満徹を撮る 武満徹 青春を語る』小学館、2005年(CD付写真集)

本人著作以外の関連書籍[編集]

音楽学[編集]

  • 『武満徹 響きの海へ』船山隆、音楽之友社 1998年
  • 『武満徹と三善晃の作曲様式 - 無調性と音群作法をめぐって』楢崎洋子、音楽之友社 1994年

エッセイ[編集]

写真集など[編集]

  • 『武満徹の世界』斎藤慎爾・武満真樹 集英社 1997年

関連項目[編集]

  • 東京オペラシティ - 大ホールにあたるコンサートホールが「タケミツメモリアル」と名付けられている。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. 何らかの原因でジョセフィン・ベーカーだと思いこみ、長らくそう記していた。立花隆に指摘されて以来一時期は訂正していたものの、「客観的事実より、自分の記憶の中の事実を大切にしたい」として、ベーカーに戻している(立花隆「音楽創造への旅」『武満徹全集第2巻』小学館、2003年)。
  2. 台本はすでに完成されており、2005年、野平一郎によって作曲された。経緯については本人サイトの「新創作ノート」1~7に詳しい。
  3. この時期の闘病日記が死後に発見された。また、娘のために、さまざまな料理のレシピをイラストつきで記していた。これらは『サイレント・ガーデン――滞院報告・キャロティンの祭典』(新潮社)で見ることができる。
  4. 未完の作品に、フルート、ハープ、オーケストラのための「ミロの彫刻のように」がある。オーケストレーションまで施されたのは冒頭の6ページのみ。
  5. 直接の死因は間質性肺炎(楢崎洋子『武満徹』音楽之友社 他)。ピーター・バート『武満徹の音楽』(音楽之友社から訳書が刊行されている)では、がんとなっている。直接の死因を、膠原病とする書籍もある。また、亡くなる前には入院先の病院にて武満が大好きだったバッハマタイ受難曲』がステレオで流れていたという
  6. 谷川俊太郎によって歌詞がつけられ、『MI・YO・TA』というタイトルの作品として発表された。この題名は、武満が長野県御代田町の山荘で作曲活動を行っていたことに由来する。

外部リンク[編集]

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