赤間文三
赤間 文三(あかま ぶんぞう、1899年5月31日 – 1973年5月2日)は、昭和期の政治家。元大阪府知事。佐藤内閣で法務大臣(24代)。大阪府知事時代は安井誠一郎東京都知事とともに、1950年代における都道府県知事のボス的存在として君臨し、赤間天皇の異名を奉られた。
来歴・人物[編集]
福岡県福津市(旧宗像郡津屋崎町)出身。1918年福岡県立中学修猷館卒業。旧制山口高等学校を経て、1925年東京帝国大学法学部独法科を卒業後、内務省に入省する。徳島県経済部長まで務めた後商工省に転じ、会計課長、燃料局醗酵工業部長、近畿地方商工処理部長、同地方商工局長を歴任した。本省会計課長時代、時の賀屋興宣大蔵大臣邸の勝手口から品薄の砂糖袋をかついで上がり込み、予算獲得の談判をしたという逸話が、赤間の強心臓ぶりを表すエピソードとして伝わっている。
1947年、大阪府知事選に立候補し、当初優勢が伝えられた社会党公認候補である香月保(修猷館の同級生でもある)を下して当選した。3期12年務めたが、在任中はそれこそ土曜日曜も無い精勤振りであったという。1950年ジェーン台風が大阪を襲来し、赤間は毎日ボートで被災地を視察しながら被害状況に心を痛めていた。その後9年掛けて大阪湾防波堤を完成させ、赤間府政のモニュメントとなった。その他、府営上水道網の整備や住宅建設計画に尽力し、1958年には千里ニュータウン建設を決定した。なお知事時代は、中央に陳情に出向いた時など「天皇」の異名に相応しく高姿勢な態度で臨み、一部の政界有力者の不興を買ったといわれている。また、大阪の清風中学校・高等学校を運営する清風学園の名は、幕末の長州藩の藩政改革者村田清風にちなんで1949年に赤間が命名したものである。一方、大阪府営の公営競馬・競輪については、早くから廃止の意向を持っており、1955年には開催中止を表明した。
1959年、自由民主党公認で大阪選挙区より参議院議員に当選。以後当選3回。参院では重宗雄三率いる「清新クラブ」に所属する。参院商工、外務各委員長を経て、1967年第2次佐藤内閣第1次改造内閣で法務大臣として入閣する。在任中は死刑執行の決済を求められると「勘弁してくれ。今度、俺にお迎えがきたらどうする」などと理由をつけて命令書に署名せず、死刑の執行が一件も無かった。1969年勲一等瑞宝章受章。