菅原 通済
菅原 通済(すがはら つうさい、本名すがはら みちなり、1894年(明治27年)2月16日 - 1981年(昭和56年)6月13日)は、日本の実業家。フィクサーとしても有名。名は通濟とも書く。
経歴
終戦まで
東京市麹町区(現東京都千代田区麹町)出身。父は鉄道建設業界の大立者であり、中野喜三郎(現在のナカノフドー建設(旧ナカノコーポレーション)東証1・1827の創設者。業界のボスで皇居造営で知られる)さえ畏れた人物。父の叔父に日露戦争講和条約の全権大使の一人であった高平小五郎がいる。名前は東京の通済門を父が完成した時に生まれた為ともいう。彼は菅原道真36代の子孫であるともロンドン大学を卒業とも自称したが不明な点が多い。少年期は日夜喧嘩・悪戯に明け暮れる悪童だった。中学時代も喧嘩や放蕩に明け暮れ、たびたび学校(旧制・海城中学(現・海城中学校・高等学校)や東京高等師範学校附属中学校にもいた)を退学処分となる有様だったが、1912年(明治45年)に一念発起し(自伝では天啓があったとする)日本を出国する。
日本出国後ジョホールにてゴム農園を興し成功するが、タングステンの密輸に携わるなど非合法的な行為も行っていたらしい。その後、アフリカキンバレー鉱山・ロンドン・ニューヨークを歴訪し、1920年(大正9年)に日本へ戻る。日本ではゴム貿易で利益をあげたが、その後米相場に失敗し莫大な負債をかかえてしまう。
しかしその後の関東大震災における復興需要で頭角を現して実業界に躍り出た。江ノ島電鉄の経営に関わったのを機に江ノ島開発に着手、日本自動車道株式会社を設立し大船~江ノ島間に有料道路を建設し、深沢地域の丘陵に高級別荘地を開発し鎌倉山と名づけて分譲するなど積極的に活動。戦後も湘南モノレール江の島線の誘致などに影響力を発揮した。交詢社に事務所を置き周辺のグループとも関係が深かったとされる。
戦後の活動
終戦直後には父の興した鉄道工業社長として土木工業協会の初代会長に就任する一方で、「売春・麻薬・性病」の三悪追放キャンペーンを主唱。売春防止法制定に力を尽くす。その他、複数の企業・団体の経営・運営に関わる一方で政府審議会の委員を務めたりした。三悪追放は口の悪い友人(大宅壮一とも言われる)は「アレ(女)は菅原がやり尽くした事だ」と皮肉られている。麻薬追放はかなり本気であり、麻薬追放国土浄化連盟という組織を作り山口組の田岡一雄や山岡荘八らとも連携している。また当時の菅原の書籍には見るべきものも多い。
鎌倉文化人の関係で小津安二郎の映画にしばしば出演、その数7本に及ぶ。「秋日和」ではすし屋の客、「秋刀魚の味」では笠智衆が演ずる父の同窓生菅井など、いずれも出演時間は短いながら独特の存在感を醸している。のちに小津が映画人初の芸術院会員となるため尽力したと言われる。映画監督の中島貞夫は菅原の原作を「戦後秘話 宝石掠奪」として映画化しているが、その著書において、菅原の小津映画への出演は菅原が骨董の名品を小津にあげていたからだとしており、その骨董は小津が没した後「貸したものだから…」と言って小津の下から菅原が持ち帰ったというオチまで紹介している。(「遊撃の美学」より)
趣味で美術品や古書を蒐集。菅原のコレクションを収めた美術館・常盤山文庫は、1942年(昭和17年)鎌倉山に創設され、1947年(昭和22年)から一般公開されていた。国宝2件を含む禅僧墨蹟、水墨画、天神関係資料などの収蔵品は超一級であったが、普通の民家のような建物に国宝、重要文化財が無造作に置かれていて、文化財保存の観点からは問題視されていた。常盤山文庫は、菅原の没後の1982年(昭和57年)から防災上の理由により公開を停止しており、2006年(平成18年)現在、再開の見とおしはない。なお彼の美術品収集を見ていた門下生が福富太郎コレクションを作り上げる。
晩年は奇特な思想に駆られ、新興宗教の後援などを積極的に行った。
昭和電工事件の張本人である日野原節三(1903年 - 1991年)は義弟である(日野原の妻・宣(せん)は、菅原の異母妹)。当時、財閥解体の対象であった昭和電工の社長に日野原が就任するために菅原の斡旋があった事や、菅原が芦田内閣の有力な支援者だった事から、菅原も事件への関与を疑われた。
1981年に肝硬変で死去、享年87。
城山三郎の小説、『乗取り』に出てくる「自称映画俳優、大蔵省公認文士、放送タレント、売春撲滅協議会長、財界世話業」の篠原明秋は菅原がモデルとなっている。
外部リンク
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