伊丹十三

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伊丹 十三いたみ じゅうぞう1933年5月15日 - 1997年12月20日)は、日本の映画監督俳優エッセイスト商業デザイナーイラストレーター、CM作家、ドキュメンタリー映像作家である。本名は池内 岳彦(いけうち たけひこ)。戸籍名は池内 義弘(いけうち よしひろ)。女優宮本信子は妻。俳優池内万作は息子。作家大江健三郎は義弟。バイオリン等の演奏や画家、料理通としても知られる。

来歴・人物

幼少~青年期

映画監督の伊丹万作を父親として京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる。第二次世界大戦末期、京都師範付属国民学校を経て、湯川秀樹によって当時構想された、科学者養成のための英才集団特別科学学級で教育を受けた。当時としては珍しく、戦時中に英語教育を実践していたと云われる。同窓に日本画家の上村淳之がいる。中学生の時に父親は死去する。京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)に入学。同窓に共同通信労組の林直久がいた。その後、愛媛県松山市へ移り、愛媛県立松山東高等学校に転入。ここで大江健三郎と知り合う。その後、二度落第して愛媛県立松山南高等学校に転入。同校を卒業したが、大学を受験して失敗したため、東京へ行き新東宝編集部を経て商業デザイナーとなる。明朝体を書かせたら日本一といわれ、その才能は後の映画のタイトル作りにも活かされた。

マルチタレントとして活躍

舞台芸術学院に学び、26歳の時大映に入社、「伊丹 一三」という芸名を永田雅一にもらい俳優となる。1960年に日本映画界の巨人である川喜多長政川喜多かしこの娘の川喜多和子と最初の結婚をする。同じ年に作家であり友人の大江が妹ゆかりと結婚する。1961年大映を退社する。その後『北京の55日』(1963年)『ロード・ジム』(1965年)などの外国映画に出演し、話題となる。1969年に「伊丹 十三」と改名し、映画とテレビドラマで存在感のある脇役として活躍した。『家族ゲーム』(1983年)、『細雪』(1983年)では、キネマ旬報賞助演男優賞を受賞している。

1960年代には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版し大ヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業においても名声を得る。これらエッセイにおける、気障に映りながらも、物事の本質をその細部にいたるまで理詰めで探求していく独自のスタイルは、その後の多くのエッセイストに影響を与えたとされる。

1970年代に入るとテレビ番組制作会社テレビマンユニオンに参加し、『遠くへ行きたい』等のドキュメンタリー番組の制作に関わり、自らレポートする。この時培ったドキュメンタリー的手法は、その後の映画制作にも反映している。また『日本世間噺大系』『小説より奇なり』に見られる、独特の聞き書き書体はこの時代の経験を反映している。また70年代後半には『アフタヌーンショー』のレポーターを務め、得意の緻密な画力で犯罪現場をスタジオで描いてみせた。

1969年山口瞳の媒酌で女優宮本信子と再婚し、宮本との間に子供を二人もうける(長男は俳優の池内万作、次男は池内万平)。家事や子育てにも関心が深く、著書訳書もある。ちなみに長男の万作は父の名前をそのまま取って命名された。

岸田秀の『ものぐさ精神分析』(1977年)を読み、彼の主張する唯幻論に傾倒する。『哺育器の中の大人』(1978年)は、伊丹が岸田から唯幻論についての講義を受けるというスタイルの対談である。また、岸田らを中心に取り上げた現代思想の雑誌『モノンクル』(フランス語で“僕のおじさん”の意)を1981年に創刊し、編集主幹を務めた。しかし、6号で終刊となる。伊丹の関わった記事のいくつかは、『自分たちよ!』に収録されている。

この一方で、文化人達が伊丹の周辺に集まり、一種のサロンを形成している。コピーライターの糸井重里、自称芸術家の篠原勝之、作家の村松友視は伊丹より直接の影響は受けていないかも知れないが、1970年代においてマイナーな分野を掘り下げていく作業において伊丹の精神を利用していると見えなくもない。この意味で高踏的文化人と見られていた伊丹が批評家や大衆と直接向き合い、時に罵声を浴びる覚悟で映画製作に乗り出したのは衝撃的でもあった。

映画監督への転身

1984年、51歳で、『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価をうけ、受賞した映画賞は日本アカデミー賞を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。この作品で伊丹はその前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせる事を発見し、その後も食欲性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』や国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザ民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテイメント性に富み、映画史的引用や細部にこだわった映画作品を作り、一躍日本を代表する映画監督となり、「伊丹映画」という1ジャンルを築く事に成功する。

特に1992年の『ミンボーの女』では、地上げやゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、ヤクザを描いた映画の多くはヤクザをヒーローとして礼賛して描いていたものだった。公開1週間後の5月22日夜に自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負うが、「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。警察は現場の車より山口組後藤組の犯行であることを突き止めた。5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。

1993年3月、自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど数々の被害や脅迫・嫌がらせを受ける事となったが、伊丹はさらに日本社会に鋭く切り込む映画を製作していく。襲撃事件により身辺警護を受けた経験は、1997年に『マルタイの女』で映画化された。『タンポポ』はアメリカでも配給され評判となった。1993年大病人』以後の作品は批評家の評価も厳しいものとなり、また『マルサの女』『マルサの女2』において、主人公(権藤)やソープ嬢を障害者とする設定を行ったことに対して、倫理的観点から厳しい社会的批判を受けた。しかし女シリーズに代表される「社会派コメディ」のジャンルを確立した事は大いなる功績といえよう。伊丹に続く社会派作品はほとんど出現していないというのが今の邦画界の現状である。

演出面での特徴は俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし俳優がNGを出しても決して怒鳴り散らしたりしないため、俳優にとっては非常にやり易かったという。

謎の「自殺」

1997年12月20日、写真週刊誌フラッシュ」により不倫疑惑が取り沙汰されたことに対して「死をもって潔白を証明する」とのワープロ打ちの遺書を残し、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンションから投身自殺を遂げた。しかしながら、他殺とされる見解も多い。それは不倫疑惑について週刊誌の記者からインタビューを受けた際に「妻に聞いてみればいいよ」と笑いながら、全く意に介さず「いつものことだから」のように軽口を叩いていた伊丹が突然それを「死を以って証明する」と自殺するのはあまりにも不自然すぎるからであった。伊丹十三の「自殺」を知った宮本信子は立ち上がれないほど憔悴しきってしまったという。

伊丹は、民事介入暴力を描いた『ミンボーの女』公開直後(1992年)に、怒った暴力団の男たちに襲われて重傷を負い、さらにその入院生活を元に製作した『大病人』公開時(1993年)には自称右翼の男によってスクリーンを切り裂かれる事件が起こっている。これらの背景を元にした他殺説として、『マルタイの女』(1997年)に怒った暴力団右翼団体謀殺または自殺に追い詰められたとする説がある。

その他

2001年、大江健三郎の小説『取り替え子』に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。

2007年5月、妻・宮本信子が中心となって、少年時代の一時期を過ごした愛媛県松山市に「伊丹十三記念館」をオープンさせた。晩年になって東京から移り住んだ湯河原の家などから遺品8万余点を集め、彼の名にちなみ「13」のコーナーに分けて展示公開している。

著作

  • 『ヨーロッパ退屈日記』(1965年)
  • 『フランス料理を私と』
  • 『女たちよ!』
  • 『再び女たちよ!』
  • 『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』
  • 『自分たちよ!』
  • 『日本世間噺大系』
  • 『小説より奇なり』
  • 『問いつめられたパパとママの本』
  • 『「お葬式」日記』
  • 『「マルサの女」日記』
  • 『「大病人」日記』

共著

  • 『快の打ち出の小槌』
  • 『哺育器の中の大人』(1978年)

訳書

  • 『パパ・ユーア・クレイジー』
  • 『主夫と生活』
  • 『ザ・ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』
  • 『中年を悟るとき』
  • 『ポテト・ブック』

出演作品

ほか

CM

制作総指揮作品

監督作品

外部リンク

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