足利義満
足利義満 | |
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足利義満像 | |
時代 | 室町時代 |
生誕 | 南朝:正平13年/北朝:延文3年8月22日 (ユリウス暦1358年9月25日) |
死没 | 応永15年5月6日(ユリウス暦1408年5月31日) |
改名 | 春王、義満、道有、道義 |
別名 | 室町殿、日本国王 |
神号 | |
諡号 | 鹿苑院太上天皇 |
戒名 | 鹿苑院天山道義 |
霊名 | |
墓所 | 相国寺 |
官位 | 従五位下、正五位下、左馬頭、 征夷大将軍、従四位下、参議、 左近衛中将、従三位、権大納言、 右近衛大将、従二位、右馬寮御監、 従一位、内大臣、左大臣、蔵人別当、 後円融院別当、源氏長者、准三宮、 淳和奨学両院別当、太政大臣、 贈正一位太上天皇 |
幕府 | 室町幕府征夷大将軍(在位1368年 - 1394年) |
主君 | |
藩 | |
氏族 | 清和源氏足利氏 |
父母 | 父:足利義詮、母:紀良子 |
兄弟 | 千寿王、義満、柏庭清祖、満詮、 廷用宗器、宝鏡寺殿 |
妻 | 正室:日野時光の娘・業子 継室:日野資康の娘・康子 側室:藤原慶子、春日局ほか |
子 | 義持、義嗣、義教、大覚寺義昭ほか |
足利 義満(あしかが よしみつ)は室町幕府の第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。官位は従一位太政大臣、贈正一位。封号は日本国王。幼名を春王という。父は室町幕府第2代将軍・足利義詮で、母は紀良子。正室は大納言日野時光の娘である日野業子で、後光厳天皇の寵姫である日野宣子(岡松一品)の介添えで義満の室となる。その後、業子のあとは業子の姪である日野康子が正室となる(のちの北山院)。側室は足利義持と足利義教の生母・藤原慶子、足利義嗣の生母・春日局など。
義満が御所を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。
目次
生涯
幼少時から将軍権力確立まで
1358年(正平13年/延文3年)に生まれる。尊氏の死から丁度100日目のことである。義満が幼少の頃の室町幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に加担し、1361年(正平16年/康安元年)には清氏や南朝の楠木正儀らに京都を占領され、義満は赤松則祐の居城播磨国白旗城へ避難を余儀なくされた。翌年には幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京しているが、帰途で摂津の国に泊まった際にその場所の景色が良い事が気に入り、「ここの景色は良いから、京都に持って帰ろう。お前らが担いで行け」と家臣らに命じ家臣らはその希有壮大さに驚いたという。1367年(正平22年/貞治6年)に父・義詮が病により死去すると、義満は11歳で3代将軍となる。
1368年(正平23年/応安元年)に評定始が行われ、1369年(正平24年/応安2年)には正式に将軍に就任した。幕政は管領の細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固める。1374年(文中3年/応安7年)には日野業子を室に迎える。
さらに京都の支配を強化するために、1370年(応安3年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。1378年(天授4年/永和4年)には幕府を三条坊門より北小路室町に移した。移転後の幕府は後に花の御所と呼ばれ、その所在地により室町幕府と呼ばれるようになる。朝廷と幕府に二分化されていた京都の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆や奉行衆と呼ばれる実務官僚を整備する。また、1385年(元中2年/至徳2年)には東大寺・興福寺参詣、1388年(元中5年/嘉慶2年)には駿河国で富士山を遊覧し、1389年(元中6年/康応元年)には安芸厳島神社参詣などの権力示威行為(デモンストレーション)も行っている。
権力強化と南北朝合一
1379年(天授5年/康暦元年)、義満は反頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した(土岐康行の乱)。
1391年(元中8年/明徳2年)には山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。
義満は祖父・尊氏や父を越える内大臣、左大臣へ就任し官位の昇進を続けた。1383年(弘和3年/永徳3年)には武家として初めて源氏長者となり淳和・奨学両院別当を兼任、准三后の宣下をうけ、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。
1392年(元中9年/明徳3年)には南朝勢力が全国的に衰微したため義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消されるかたちでの南北朝合一を実現し58年にわたる朝廷の分裂を終結させる。
義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が1393年(明徳4年)に死去し、自己の権力を確固たるものにした義満は1394年(応永元年)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。翌年には出家して道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家のそれぞれの頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家が追従して出家している。
1395年(応永2年)には九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。1399年(応永6年)には西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。
勘合貿易と北山文化
義満は若年の頃から明への憧憬が深く早くから日明通交を望んでいたが、明側では南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていたため、かなわなかった。南北朝合一後、「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、明側は陪臣との通交は認めないため天皇の臣下と名乗る者からの使者は受け入れられなかった。
そこで義満は出家し、太政大臣も辞した「日本国准三后源道義」の名義で1401年(応永8年)に博多の商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣する。ようやく明の建文帝によりそれまでの懐良親王に代わって日本国王に冊封され、明の大統暦が授与され国交が正式に樹立した。明の皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易を1404年(応永11年)から始め、また明に要請されて倭寇を鎮圧した(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。
遣唐使の廃止以来、独自の小中華思想に基づく孤立政策を採っていた公家社会では明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公な発言ができず日記などに記すのみであった。明の文化に心酔していた義満は明の太祖・洪武帝にあやかって日本の年号にも「洪」の字を使うよう朝廷へ圧力をかけたが、上記の理由もあり朝廷側が拒否したため実現しなかった。機嫌を損ねた義満は以後、逆に自分の生きている間には年号を変えさせなかったため応永年号は明治以前では最も長い年号となった。
1397年(応永4年)には藤原公経から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺)を造営した。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多い。
晩年と死後
1408年(応永15年)、急病のために死去、享年51(満49歳没)。法名:鹿苑院天山道義。
義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されている)。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義持は義満が偏愛した義満の次男・義嗣が出奔した際に、謀反を企てたとして殺害している。のちに義嗣の子孫は越前に下り、子孫は鞍谷御所とよばれるようになった。
6代将軍となった子である義教は義満の政策を踏襲した施政をはじめるが、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されたことで頓挫する。孫の8代・義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度をとりはじめる。
人物
義満は当時としては珍しく時間厳守を非常に重んじた人物であり、遅刻する者を厳しく処分したという[1]。永徳元年(1381年)7月23日の内大臣大饗に遅刻した御子左為遠が翌日の出仕で義満から追い出されたり[2]、応永元年(1394年)の南都(興福寺)の常楽会では義満が夜明けから桟敷に座り込み、遅参した公家・武家の同席を許さなかった[3]。 また義満は自分や周囲の服装にも口うるさく、応永13年(1406年)に明使を迎えるために兵庫へ下向した際には裏松重光・山科教興らが当時のカジュアル服である十徳を着用させられ、教興の父山科教言が「十徳の体、当世の風体」と嘆いている。自らは明使を応接する際には唐人の装束で歓待したという。また、朝廷においても毎月朔日の拝賀では武家装束の直垂を、中旬に行われる廻祈祷では公家装束である束帯の着用を指図しており、側近達は毎月直垂を新調していたという[4]。
義満から様々な冷遇を受けた今川了俊は、自身の鬱憤を晴らすかのように「上の明にわたらせ給はぬ(上が賢明でない)」などと書いている(難太平記)。
ちなみにウィキペには『佐藤進一はこの「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が義満の生涯を貫く政治テクニックだと評し、傲岸と卑屈さが同居した性格と評している(キリッ)』などと自慢げに書いているが、これは了俊が義満に酷い目に遭わされた私怨があるという事についての史料批判が足りない上、30年以上も前の書物である。そもそも義満は各大名は生まれながらの将軍なので自分より強い者など天皇家以外に存在しないし、その天皇家も圧迫している(天皇簒奪を参照)。
了俊は大内義弘が「今御所の御沙汰の様、見及び申す如くば、よはきものは罪少なけれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり(義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。この事とはみなが知っている)」と語ったと書いているが、義満が各大名を強権的に統率した事は良く知られており、まったく的外れな記述といえる。義満の猶子・三宝院満済が、明の使者や大名に対する接し方が義持よりはるかに丁重であったというが、そりゃあ将軍の子供に過ぎない人が将軍よりへりくだった態度を取るのは当然でしょう。
だがしかし、この点を指摘するとLaw somaという無知ペディアンに差し戻されてしまうので、ウィキペの方には書き込まないように。もちろん参考にもならない。
皇位簒奪と暗殺説
田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えており、これを受けて作家の海音寺潮五郎、井沢元彦らは義満の死が突然だったため、これは義満の皇位簒奪を阻止するための暗殺ではないかとの意見を提示している。
義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母(天皇の母扱い)ついで女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から奪い、死の1ヶ月前の1408年(応永15年)4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王並みに行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している。また暗殺説を取る各氏は、簒奪を阻止しようとした朝廷側による毒殺であると疑っている(井沢は著作で犯人を世阿弥と二条満基の共犯と推理)。
また、他には義満の義嗣偏愛によって将来が不安視された義持の陣営による暗殺と見る説もある。
しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとしたりその死を暗殺と疑った記録はなく、皇位簒奪計画や義満暗殺の直接の証拠はない。
なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権をもち院政を行う上皇のこと)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。次男・義嗣を天皇にして、自らは天皇の父親として上皇になろうとしたというのである
今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代[5]で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方の足利氏満は申年(しかし現在では亥年生まれとされる)生まれ、義満は戌年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。また井沢は、源氏物語をヒントにしているのではないかと推測している。
官職位階履歴
※()=旧暦
- 1367年1月7日(正平21年/貞治5年12月7日)、従五位下に叙す。12月24日(正平22年/貞治6年12月3日)、正五位下に昇叙。12月28日(12月7日)、左馬頭に任官。
- 1368年5月2日(正平23年/応安元年4月15日)、元服し、義満と名乗る。
- 1369年1月28日(正平23年/応安元年12月30日)、征夷大将軍宣下。
- 1374年1月7日(文中2年/応安6年11月25日)、従四位下に昇叙し、参議に補任。左近衛中将を兼任。
- 1375年12月13日(天授元年/永和元年11月20日)、従三位に昇叙。参議左近衛中将如元。
- 1378年4月21日(天授4年/永和4年3月24日)、権大納言に転任。9月19日(8月27日)、右近衛大将兼任。
- 1379年1月2日(天授4年/永和4年12月13日)、従二位に昇叙。権大納言右近衛大将如元。2月4日(天授5年/康暦元年1月6日)、右馬寮御監兼務。
- 1380年2月11日(天授6年/康暦2年1月5日)、従一位に昇叙。権大納言右近衛大将如元。
- 1381年8月13日(弘和元年/永徳元年7月23日)、内大臣に転任。右近衛大将如元。
- 1382年2月9日(弘和2年/永徳2年1月26日)、左大臣に転任。右近衛大将如元。3月4日(閏1月19日)、蔵人別当兼務。5月11日(3月28日)、牛車を許される。5月24日(4月11日)、後円融院別当兼務。
- 1383年2月16日(弘和3年/永徳3年1月14日)、源氏長者、淳和奨学両院別当兼務。7月26日(6月26日)、准三宮宣下。
- 1384年4月8日(元中元年/至徳元年3月17日)、右近衛大将辞任。
- 1388年6月30日(元中5年/嘉慶2年5月26日)、左大臣辞任。
- 1393年2月7日(元中9年/明徳3年12月26日)、左大臣還任。
- 1393年10月22日(明徳4年9月17日)、左大臣辞任。
- 1395年1月8日(応永元年12月17日)、征夷大将軍辞職。1月16日(12月25日)、太政大臣に転任。6月20日(応永2年6月3日)、太政大臣辞任。7月7日(6月20日)、出家(道有を号し、のち、道義と改める)。
- 1402年8月20日(応永9年9月5日)、明より日本国王に封ぜらる。
- 1408年5月31日(応永15年5月6日)、薨去。6月3日(5月9日)、太上天皇追号(幕府が辞退)。
主な家系
- 父:足利義詮(2代将軍)
- 母:紀良子(側室)
- 兄弟姉妹
- 千寿王丸
- 柏庭清祖
- 足利満詮
- 廷用宗器
- 女子(宝鏡寺殿。恵昌?)
- 正室:日野業子(日野時光娘)
- 女子
- 正室:日野康子(日野資康娘)
- 側室:藤原慶子(安芸法眼娘)
- 側室:加賀局(長快法印女)
- 尊満(友山清師)
- 男子(宝幢若公)
- 側室:春日局(摂津能秀女)
- 側室:寧福院殿
- 女子(大慈院聖久)
- 側室:藤原量子
- 側室:藤原誠子
- 梶井義承
- 側室:慶雲庵主(大炊御門冬宗女)
- 女子(光照院尊久)
- 側室:高橋殿
- 側室:池尻殿
- 女子
- 虎山永隆
- (以下生母不明の子女)
- 猶子
義満の偏諱を受けた人物
参考文献
- 臼井信義『足利義満』(吉川弘文館人物叢書、1989年(平成元年)新装版) ISBN 4642051503
- 今谷明『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』(中公新書、1990年(平成2年)) ISBN 4121009789
- 佐藤進一『足利義満 中世王権への挑戦』(平凡社ライブラリー、1994年(平成6年)) ISBN 4582760627
- 井沢元彦『天皇になろうとした将軍 それからの大平記 足利義満のミステリー』(小学館文庫、1998年(平成10年)) ISBN 4094023011
- 井沢元彦『逆説の日本史(7) 中世王権編 太平記と南北朝の謎』(小学館文庫、2003年(平成15年)) ISBN 4094020071
足利義満が登場する作品
小説
- 北方謙三『陽炎の旗』(新潮社/新潮文庫、1991年(平成3年))
- 安部龍太郎『バサラ将軍』(文藝春秋『室町花伝』/文春文庫『バサラ将軍』収録、1995年(平成7年))
- 平岩弓枝『獅子の座 足利義満伝』(中央公論新社/文春文庫、2000年(平成12年))
漫画
TVアニメ
脚注
- ↑ 早島2010、88頁。
- ↑ 『後愚昧記』。
- ↑ 『兼宣公記』。
- ↑ 早島2010、140-141頁。『教言卿記』。
- ↑ 現在では後小松天皇が100代目とされている。しかし当時は弘文天皇、淳仁天皇、仲恭天皇の即位を認めておらず、また室町幕府は当然北朝を正統としていたから後小松天皇で99代目となる。ただし、正平一統による後村上天皇への一時的な統一を認めるならば後小松天皇でやはり100代目になる。
室町幕府将軍 |
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