水野成夫

提供: Yourpedia
2010年11月21日 (日) 00:26時点におけるFromm (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成: '''水野 成夫'''(みずの しげお、1899年11月13日 - 1972年5月4日)は、日本実業家。「'''財界四天王'''」の一人。…)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 1972年5月4日)は、日本実業家。「財界四天王」の一人。「マスコミ三冠王」と呼ばれた。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長。元経団連理事。

来歴・人物[編集]

学生時代[編集]

水野彦治郎の三男として静岡県に生まれる。旧制静岡中学(現・静岡県立静岡高等学校)から、旧制第一高等学校を経て、1924年東京帝国大学法学部を卒業。学生時代は、文学に親しみ、夏目漱石島崎藤村森鴎外の作品に親しむ一方で、中学、高校時代柔道部に所属し、一高では猛者として鳴らした。東大時代には新人会に入り共産主義運動に身を投じる。

共産党員[編集]

1925年日本共産党に入党した。共産党時代に所属していた産業労働調査所を赤字経営であったのを黒字に転換させるなど、後年の経営者の片鱗を見せている。1927年日本共産党代表として、コミンテルン極東政治局に派遣され、中国武漢国民政府の樹立に参画する。1928年に帰国するが、三・一五事件で検挙され、獄中で転向を表明する。これが、獄中での転向声明第一号で、転向理論の原型を作ったと言われ、その後の獄中での大量転向のきっかけを作ることになる。出所後、1929年コミンテルンからの離脱を宣言し天皇制の下での共産主義運動を標榜する日本共産党労働者派(いわゆる「解党派」)を浅野晃らとともに結成、日本共産党批判に回るが、ほどなくして労働者派の組織・運動は消滅し、水野は大いなる挫折を余儀なくされる。以後、政治活動から離れ、翻訳業に就く。

翻訳家[編集]

水野は翻訳家・フランス文学者としても大いにその才能を発揮し、特に日本におけるアナトール・フランスの紹介に大いに功績があった。水野翻訳によるフランスの著『神々は渇く』は名訳として名高くベストセラーとなった。その他、『舞姫タイス』、『現代史』などフランスの著作約20作品、アンドレ・モーロア著『英国史』なども翻訳している。翻訳に当たってはフランス文学者の辰野隆の紹介で辰野の弟子に当たる渡辺一夫と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。また、この時期、尾崎士郎尾崎一雄今日出海林房雄などとの交友を持つに至った。

1938年憲兵隊に逮捕されるが、翌年保釈される。

財界人[編集]

1940年、同じく転向者で、その後も水野の片腕として行動を共にする南喜一と共に軍部の協力を取り付け、大日本再生製紙を創立し、常務取締役(後に専務)に就任する。

大日本再生製紙は1945年国策パルプと合併し、常務取締役。1946年、現在も続く出版社酣燈社を文芸・学術専門の出版社として創業するが、数年で手を引き、酣燈社は後に航空関係専門の出版社となった。

1946年経済同友会幹事となる。終戦後の労働攻勢の中で左翼運動に身をおいた経歴を持つ水野は、労働対策を担当し、財界首脳の信頼を得た。本業の国策パルプにおいても1948年に専務取締役、1949年副社長、1951年11月に社長就任。1960年会長に就任。

1956年、民間会社組織に改組された文化放送の社長に就任した。これを契機にマスコミ各社の社長に就任する。文化放送では「良心的」とされるドラマ番組や探訪番組の打ち切り・娯楽番組中心への編成変え、保守財界人の宣伝、政府批判番組の禁止、反対者の配転、労働組合潰しなどを進めた。「財界のマスコミ対策のチャンピオン」とまで評される。

1957年経団連理事に就任。ニッポン放送鹿内信隆と共にフジテレビジョンを設立し、同社初代社長に就任。

1958年には前田久吉から産経新聞社を買収して社長に就任。在京の新聞・ラジオ・テレビを握った為「マスコミ三冠王」と呼ばれるとともに、のちのフジサンケイグループの土台を築いた。水野のマスコミへの進出は、財界のマスコミ対策とも言われ、ジャーナリズムからは「財界の送ったエース」と書き立てられた。新聞社の経営に普通の会社の経営方針を持ち込んだものと言われ、通常の編集、販売、広告の順番を逆にしてまず広告主を見つけることを最優先課題とした。また、労働組合を味方に取り込むために、産経新聞労組と「平和維持協定」を締結し、役員、職制、職場代表による再建推進協議会設置など労使一体による体制を構築した。このような水野のやり方は合理化に伴う配転・解雇などを生み「産経残酷物語」とか「水野天皇制」と言われた。しかし、産経新聞そのものは、水野社長就任1年で黒字に転換し、フジサンケイグループの強固な基盤が確立されたとされる。1960年には森喜朗が入社する際に口利きを行なった。

1965年産経新聞社会長に就任。

池田勇人内閣時代に「財界四天王」の一人と称されるようになる。政商のイメージが強い水野であったが、政治に関してはかつて共産党に身を置き挫折したことから、「政治は、ワンストライクアウト。共産党でアウトになった。もう絶対やらん」と語っていた。自由奔放な性格で、共産党員、翻訳家、財界人と三段跳びの人生から人物評が定まりにくい人物であった。

文化的活動も支援し、1956年、文化放送の傍系事業として日本フィルハーモニー交響楽団を結成。また、1963年の日本近代文学館の創設にも尽力した[1]

その一方で野球をこよなく愛し、1953年日本生産性本部第二回欧米使節団に参加中、風邪と称してナショナル・リーグの観戦に出かけたり、1965年に日本国有鉄道(およびその関連会社)から国鉄スワローズを買収して、サンケイアトムズ(現、東京ヤクルトスワローズ)の経営を手がけたりした。

生前の水野は『男と生まれたからにゃやってみたいものが三つある。それは聯合艦隊司令長官オーケストラ指揮者、そしてプロ野球監督だ』と語ったことでもまた有名である。

1970年勲一等瑞宝章を受章。

1972年5月4日死去。享年72。

その他[編集]

辻井喬の小説『風の生涯』(ISBN 4101025274ISBN 4101025282)の主人公のモデルとなっている。

家族・親族[編集]

西武百貨店社長、参議院議員新党さきがけ政調会長をつとめた水野誠一は長男。

鈴木幸夫著『閨閥(けいばつ) 結婚で固められる日本の支配者集団』 114-115頁によると、「水野の閨閥は、兄彦治郎が元代議士静岡県農業界の大物、いとこ田畑政治がオリンピック組織委員という程度で特記するほどのものはない。ただ、長女のクララが元同友会代表幹事の二宮善基(もと興銀副頭取)の弟正義の夫人であることを付記しよう。」という。

翻訳[編集]

  • ペンギンの島 アナトール・フランス 春陽堂 1924
  • プロスペル・メリメ全集 第2巻 シャルル十一世の幻想、堅塁抜く、タマンゴ 河出書房 1938
  • 教育論 アラン 浅野晃共訳 創元社 1938 のち矢島剛一共訳
  • 舞姫タイス アナトオル・フランス 白水社 1938 のちUブックス 
  • 英国史 アンドレ・モーロア 浅野晃,和田顕太郎共訳 白水社 1939 のち小林正共訳、新潮文庫 
  • 作家の情熱 ジェローム・タロウ,ジャン・タロウ 仏蘭西文学賞叢書 実業之日本社 1940
  • 神々は渇く アナトオル・フランス 酣灯社 1946
  • われらの心 モーパッサン 中平解共訳 酣灯社 1948
  • アナトオル・フランス長篇小説全集 第3巻 現代史 第1 散歩道の楡の樹 白水社 1951

参考文献[編集]

  • 鈴木幸夫 『閨閥(けいばつ) 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社 昭和40年(1965年) 114-115頁
  • 人間・水野成夫 松浦行真 サンケイ新聞社出版局 1973

関連項目・人物[編集]

脚注[編集]

  1. 小田光雄『古本探求2』(論創社)より

テンプレート:フジテレビの社長 テンプレート:フジサンケイグループ テンプレート:ヤクルト テンプレート:戦前の日本共産党