冨士大石寺顕正会
冨士大石寺顕正会(ふじたいせきじけんしょうかい)は、埼玉県さいたま市大宮区寿能町に本部を置く宗教団体。日蓮正宗から正本堂建立時の国立戒壇の教義解釈が原因で破門された妙信講が母体。宗教法人法に基づく届出名は「宗教法人顕正会」。現在の代表役員は浅井昭衛。月3回、『顕正新聞』という機関紙を発行。
動向
- 教義及び折伏と称して行われる勧誘活動の方法が折伏大行進を行っていた時代の創価学会と似ていることで有名な団体である。顕正会信者が友人・知人を誘い出し飲食店で勧誘するパターンが多い。
- これらの動向に応ずる形で、公安調査庁が、「2004年の秋に信者総数が100万人になったと主張する宗教団体」や「開祖に背く日本は必ず亡ぶと言う書籍を各界関係者に配布した団体」という表現で動向を監視していることをプレスリリースで公開した。(特異集団)また、近年では、内部での上下関係が厳格で折伏の容易な警察、自衛隊関係者の中にも顕正会員が増加している。
教義
日蓮仏法の国教化を目指している。日本国の「真の国主」を天皇と規定し、天皇の詔勅と国会の議決にもとづく日本国立戒壇の建立こそが世界広宣流布実現の絶対必要条件であると主張しており、非国立の本門戒壇を容認する一切の動きに反対する。
法華宗各派の祖として知られる日蓮を崇め敬い、大石寺にある本門戒壇の大御本尊を最高の本尊としている。日蓮正宗や創価学会などの他の富士門流各派と同じく、日蓮本仏論の立場から、日蓮を「日蓮大聖人」と称している。
歴史
第二次世界大戦下の1942年、日蓮正宗妙光寺(東京都品川区)の総代だった浅井甚兵衛が初代講頭となって、妙光寺所属の法華講の一講中として結成した東京妙信講が前身。
戦後の東京妙信講は、妙光寺から法道会(東京都豊島区池袋)へと所属を変えたが、法道会法華講と合併するため、発展的に解散。
その後、妙縁寺(東京都墨田区吾妻橋)を所属寺院として新生妙信講を結成したが、やがて折伏大行進への社会党及び共産党支持者による物を主体とした社会的な批判による、広宣流布の教義解釈変更と、創価学会が中心となって寄進・建立した正本堂の教義上の位置づけをめぐり日蓮正宗と激しく対立するようになる。
なお、同年10月4日には、創価学会本部を標的とした襲撃事件を決行したため、同年11月4日、浅井甚兵衛講頭、浅井昭衛理事長(いずれも当時の役職名)らの旧・妙信講幹部は、日蓮正宗の信徒資格そのものを剥奪されている。
1975年、「宗教法人顕正寺」の成立に伴い、妙信講はその信徒団体として再出発し、第2代講頭に浅井昭衛が就任。
その後、日蓮正宗顕正会を経て現在に至る。
1997年 第1回目 一国諫暁
2003年11月6日 顕正会総会員数が100万人に達する。此れをもって2度目の一国諫暁の準備が本格的に始まる。
2004年 第2回目 一国諫暁開始 2004年4月28日 「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」という本を会長である浅井昭衛名義で発行。
2005年 新潟県民1万人を朱鷺メッセに結集して「新潟大会」が行われる。
2005年9月4日 男子部1万3千人を横浜アリーナ結集して「男子部大会」が行われる。
2006年5月14日 1万人を結集して「関西大会」が行われる。
2006年 沖縄県民3千人を結集して「沖縄大会」が行われる。
2006年9月4日 男子部5千人を大宮ソニックシティに 結集して「男子部臨時幹部会」が行われる。
主要役員、年間行事等
- 主要役員
- 会長 浅井昭衛(故/浅井甚兵衛の長男)
- 主任理事 浅井克衛(会長の長男)
- 男子部長 浅井城衛(会長の次男)
- 総合女子部長 加藤礼子
- 壮年部長 大野耕太郎
- 婦人部長 湯浅悦子
- 顕正新聞発行人 小峰勝彦
- 公称会員
- 約118万人。
- 年間行事
参考文献
- 淺井昭衞,『日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ』(2004,冨士大石寺顕正会)
- 『週刊新潮』2005年9月29日号(掲載ページ調査中)島田裕巳 「創価学会」も恐れる過激な原理集団 「顕正会」研究
- 『週刊新潮』2004年8月12/19併合号(P58-59) 「自衛隊」幹部に浸透する信徒100万「顕正会」
- 教祖逮捕―「カルト」は人を救うか ISBN 4796617191 月刊『現代』1999年12月号に掲載された記事の親鸞会関連の記述も含めた加筆版が掲載されている。
- 別冊宝島編集部 編 『「カルト」の正体。』 ISBN 4796616853 「救い」の正体。の文庫化
- 『「救い」の正体。』(ISBN 4796694617) 下記記事から冒頭部を除いて親鸞会関連の記載を削除し、顕正会関連記事に特化した物が掲載されている。
- 別冊宝島編集部 編 『「カルト」の正体。』 ISBN 4796616853 「救い」の正体。の文庫化