鶴見和子
鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年6月10日 - 2006年7月31日)は、日本の社会学者。上智大学名誉教授。国際関係論などを講じたが、専攻は比較社会学。南方熊楠や柳田國男の研究、地域住民の手による発展を論じた「内発的発展論」などでも知られる。
目次
来歴
生い立ち
1918年6月10日、東京府麻布区で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの1番目(長女)として生まれる[1]。
牛込成城小学校から1927年4月に砧の成城学園へ転校[2]。1929年4月29日の天長節に欠席して軽井沢へ行ったことが「不忠」だと学校で問題視され、同月、女子学習院5年へ転校[3]。
1934年頃から、父と親交のあった河合栄治郎の「国家権力に対する言論闘争」に共感、影響を受ける[4]。1936年3月、女子学習院を卒業し、同年4月、津田英学塾へ進学[5]。1937年7月、オーストラリアで国際会議に出席する父に同行し、初めて海外へ[6]。翌年夏には両親と米国へ渡航[7]。
1939年3月、津田英学塾を卒業し、同年9月に米国・ヴァッサー大学大学院(哲学専攻)に入学[8]。1941年に同大学院の哲学修士号を取得し、コロンビア大学大学院(哲学科)へ進学[9]。1942年6月、同大学院を中退し、ハーバード大学を卒業した弟・俊輔と共に日米交換船で帰国[10]。帰国後は東京に住み、市政会館内にあった太平洋協会のアメリカ分室に勤務した[11]。1945年頃、父と2人で東京に残り、ほか家族は軽井沢の別荘で雑居[12]。戦争末期には父と熱海へ疎開した[13]。
戦後
1946年、弟・俊輔、丸山眞男、武谷三男と4人で「思想の科学」同人会議を開き、同年、雑誌『思想の科学』を創刊[14]。この頃、共産党に入党し、党が所感派と国際派に分裂した1950年頃まで党員だった[15]。
1952年8月頃、代々木初台にあった、妹・章子の嫁ぎ先である内山尚三宅に下宿[16]。
1952年に、「生活綴方」運動の指導者・国分一太郎と出会い、「日本作文の会」の第1回作文教育全国協議会に招かれる。要出典
1953年1月、母・愛子が脳溢血で倒れ、妹・章子一家が父母と同居することになる[16]。
1955年2月、国際民主婦人連盟の招請により、スイス・ジュネーブで行われた世界母親大会準備会に出席[17]。
いつ?『山びこ学校』などの綴り方教育の実践報告に触発され、会の席上で提言した「自己を含む集団の研究」の方向性を模索すべく、同年牧瀬菊枝らとともに「生活をつづる会」を立ち上げる。要出典
いつ?四日市の東亜紡織泊工場にて澤井余志郎を中心とした女子工員らのサークル「生活を記録する会」に出会い、その交流はやがて『母の歴史』『仲間のなかの恋愛』の出版、また東京演劇アンサンブル(劇団三期会)による集団創作劇『明日を紡ぐ娘たち』(広渡常敏脚本)への公演に結実する要出典。
1956年5月、母・愛子が癌で死去[18]。
1957年、歳末から流感のあと肋膜炎・肺浸潤を患い、1年間療養生活を送る[19]。回復後、1959年6月の参院選に出馬した父・祐輔の選挙活動を支援[20]。 同年11月、父・祐輔が脳軟化症に倒れ、1年間の入院の後、自宅療養生活に入る[21]。鶴見は成城の自宅と軽井沢の別荘を処分して父が政治活動のために負った借金を返済し、父とともに練馬区関町に購入した自宅へ転居[22]。
1962年9月、米国・プリンストン大学社会学部大学院に入学し[23]、1964年4月に同大学社会学博士の資格試験に合格[24]。並行してトロント大学とブリティッシュ・コロンビア大学で客員教授として講義し、1964年9月からブリティッシュ・コロンビア大学助教授をつとめた[25]。
1966年4月、成蹊大学助教授[26]。1966年12月、渡米しプリンストン大学社会学博士号を取得[27][28]。
1969年上智大学外国語学部教授、同大学国際関係研究所所員[29]。要出典
八王子大学セミナーハウスの運営委員や市井三郎、桜井徳太郎などと「思想の冒険」グループ(他に、宇野重昭、内山秀夫、色川大吉、三輪公忠、菊地昌典、山田慶児)をつくり、水俣病や近代の超克などの共同研究を行った要出典[31]。
実現には至らなかったが日本の国連代表部公使の候補になったこともある(結局、選ばれたのは緒方貞子だった)。要出典
晩年
1995年12月に脳出血で倒れて左片麻痺となり[32]、車椅子生活を送りながらも[33]、これまで書かれた著作をまとめた『鶴見和子曼荼羅』(全9巻)や、生涯の中で関わりのあった様々な人物や学問上の関心が照応する相手との対談をまとめた『鶴見和子 対話まんだら』というシリーズを藤原書店より刊行。要出典
2006年7月31日に大腸がんのため88歳で没した要出典[34]。
人物・趣味
- 和歌や日舞、着物などの趣味の豊かさでも知られ、その方面の随筆、写真本などの刊行物もある。要出典
- 「萎えたるは萎えたるままに美しく歩み納めむこの花道を」と生前に詠んだ歌にふさわしく、最後まで実践と学問と道楽をひとつの生き様として華やかに貫いた。要出典
- 生涯独身[35]。弟の俊輔は『和子はおやじを非常に愛していた。率直に言って、生涯で一番愛した男なんだ。「父の娘」というのがいるでしょ。アナイス・ニンとか森茉莉とか、その型なんだよ』と述べている[35]。
皇族との関係
2007年7月28日に新宿中村屋本店で催された一周忌の集いには、美智子皇后も臨席した[36]。鶴見和子本人も生前、今上天皇と美智子皇后への深い尊敬の念を語っていた[37]。
家族
著書
単著
- 『パール・バック』岩波新書、1953年
- 『父と母の歴史 私たちの昭和史』筑摩書房、1962年
- 『ステブストン物語――世界のなかの日本人』中央公論社、1962年
- 『デューイ・こらいどすこおぷ』未來社、1963年
- 『生活記録運動のなかで』未來社、1963年
- 『好奇心と日本人』講談社現代新書、1972年
- 『漂泊と定住と――柳田国男の社会変動論』筑摩書房、1977年
- ちくま学芸文庫、1993年
- 『南方熊楠――地球志向の比較学』講談社学術文庫、1981年
- 『殺されたもののゆくえ わたしの民俗学ノート』はる書房、1985年
- 『暮らしの流儀』はる書房、1987年
- 『南方曼陀羅論』八坂書房、1992年
- 歌集『回生』私家版、製作:独歩書林、1996年
- 藤原書店、2001年
- 『内発的発展論の展開』筑摩書房、1996年
- 『日本を開く――柳田・南方・大江の思想的意義』岩波セミナーブックス、1997年
- 『女書生』(はる書房、1997年)
- 『コレクション鶴見和子曼荼羅』全9巻、藤原書店、1997-99年
- 『脳卒中で倒れてから よく生きよく死ぬために』婦人生活社、1998年
- 歌集『花道』藤原書店 2000年
- 『南方熊楠・萃点の思想――未来のパラダイム転換に向けて』藤原書店、2001年
- 『遺言 斃れてのち元まる』藤原書店、2007年
- 歌集『山姥』藤原書店、2007年
共著
- 石牟礼道子『言葉果つるところ』藤原書店、2002年
- 中村桂子『四十億年の私の「生命」――生命誌と内発的発展論』藤原書店、2002年/新版・2013年
- 佐佐木幸綱『「われ」の発見』(藤原書店、2002年)
- 上田敏『患者学のすすめ――"内発的"リハビリテーション』藤原書店、2003年
- 多田富雄『邂逅』藤原書店、2003年
- 西川千麗・花柳寿々紫『おどりは人生』藤原書店、2003年
- 武者小路公秀『複数の東洋/複数の西洋――世界の知を結ぶ』藤原書店、2004年
- 頼富本宏『曼荼羅の思想』藤原書店、2005年
- 服部英二『「対話」の文化――言語・宗教・文明』藤原書店、2006年
- 志村ふくみ『いのちを纏う――色・織・きものの思想』藤原書店、2006年
- 金子兜太『米寿快談――俳句・短歌・いのち』藤原書店、2006年
- 川勝平太『「内発的発展」とは何か――新しい学問に向けて』藤原書店、2008年
- 松居竜五編『南方熊楠の謎――鶴見和子との対話』藤原書店、2015年
編著
- 『エンピツをにぎる主婦』毎日新聞社、1954年
- 『父と母の歴史』筑摩書房、1962年/改訂版、1978年
- 『日本民俗文化大系 第4巻 南方熊楠』講談社、1978年
- 『日本の名随筆(別巻58)着物』作品社、1995年
共編著
- 市井三郎『思想の冒険――社会と変化の新しいパラダイム』筑摩書房、1974年
- 門脇佳吉『日本人の宗教心――宗教的エネルギーと日本の将来シンポジウム』講談社、1983年
- 川田侃『内発的発展論』東京大学出版会、1989年
- 新崎盛暉『玉野井芳郎著作集(3)地域主義からの出発』学陽書房、1990年
- 宇野重昭『内発的発展と外向型発展――現代中国における交錯』東京大学出版会、1994年
訳書
- パール・バック『この心の誇り』実業之日本社、1940年
- 上下巻・ダヴィッド社、1954年
- M・カーチ『アメリカ社会文化史(上・中・下)』法政大学出版局、1953年-1958年
- L・S・フォイヤー『精神分析と倫理』岩波書店、1962年
付録
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 石塚 2010 65
- ↑ 石塚 2010 118
- ↑ 石塚 2010 137
- ↑ 石塚 2010 185
- ↑ 石塚 2010 195,199
- ↑ 石塚 2010 198
- ↑ 石塚 2010 201,204
- ↑ 石塚 2010 206
- ↑ 石塚 2010 207,213
- ↑ 石塚 2010 216
- ↑ 石塚 2010 216,219
- ↑ 石塚 2010 223
- ↑ 石塚 2010 224
- ↑ 石塚 2010 227
- ↑ 鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』新曜社、2004年、291~292頁。鶴見俊輔の証言による。
- ↑ 16.0 16.1 石塚 2010 241
- ↑ 石塚 2010 247
- ↑ 石塚 2010 248,249
- ↑ 石塚 2010 252。最初の半年は面会謝絶状態にあった(同)。
- ↑ 石塚 2010 261-263
- ↑ 石塚 2010 256
- ↑ 石塚 2010 256,262,263
- ↑ 石塚 2010 265。鶴見にかわり、弟の直輔や俊輔夫妻が父の世話をした(石塚 2010 265-266)。
- ↑ 石塚 2010 266。首席合格し、ポッブズ・メリル賞を受賞した(同)。
- ↑ 石塚 2010 266
- ↑ 石塚 2010 267
- ↑ 石塚 2010 268
- ↑ 博士論文は「社会変動と個人」(英文)として出版された。要出典
- ↑ 1982-84年には同研究所所長。1989年定年退職。
- ↑ 石塚 2010 270
- ↑ それぞれに成果が刊行されている。要出典これらの調査・研究の中で試みられてきた「内発的発展論」への理論的構築の過程で柳田國男の仕事や南方熊楠の手がけた粘菌研究および「萃点の思想」にも着目。要出典男女、大人と子ども、人と動物から、世代、時代を超えた共生などにも自らの理論構築の中で大胆なアプローチを試みるようになった。要出典
- ↑ 石塚 2010 272
- ↑ リハビリの過程は、専門医の上田敏・大川弥生との共著 『回生を生きる 本当のリハビリテーションに出会って』(三輪書店、1996年、増補版2007年)に詳しい。
- ↑ 鶴見は、脳出血で半身麻痺になってから、京都府宇治市の介護老人ホームで、リハビリ生活を続けてきていた。だが、2006年4月に施行された「リハビリ医療の日数制限制度」により、リハビリを打ち切られていた。「日数制限制度」に反対している、自らもリハビリ患者である多田富雄は「鶴見さんの死の直接の原因は癌であっても、リハビリ制限が死を早めたことは間違いない」と記している。また鶴見も、生前に藤原書店の季刊誌『環 第26号』でリハビリ制限制度について、「これは費用を倹約することが目的ではなくて、老人は早く死ね、というのが主目標なのではないだろうか。この老人医療改訂は、老人に対する死刑宣告のようなものだと私は考えている」と記述している。多田富雄『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』(青土社、2007年)より
- ↑ 35.0 35.1 鶴見 加藤 黒川 2006 50
- ↑ 季刊誌「環」第31号(2007年11月)より。美智子皇后はその後も、鶴見和子を偲ぶ「山百合忌」に出席している(朝日新聞デジタル:「水俣の苦しみ今も」石牟礼さん、皇后さまに手紙 - 社会)。
- ↑ 『複数の東洋/複数の西洋――世界の知を結ぶ』(藤原書店、2004年)より
- ↑ 38.0 38.1 38.2 小谷野 2007 177,179
- ↑ 小谷野 2007 178-179
- ↑ 40.0 40.1 小谷野 2007 179
- ↑ 石塚 2010 17
- ↑ 小谷野 2007 177-179
- ↑ 43.0 43.1 黒川 2018 9
参考文献
- 黒川 (2018) 黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社、ISBN 978-4104444090
- 石塚 (2010) 石塚義夫『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、ISBN 9784876019120
- 小谷野 (2007) 小谷野敦『日本の有名一族 - 近代エスタブリッシュメントの系図集』〈幻冬舎新書〉幻冬舎、ISBN 978-4344980556
- 鶴見 加藤 黒川 (2006) 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』新潮社、ISBN 4103018518
- 河合隼雄ほか著『鶴見和子の世界』藤原書店、1999年、ISBN 4894341522
- 鶴見俊輔・金子兜太・佐佐木幸綱(著)黒田杏子(編)『鶴見和子を語る 長女の社会学』藤原書店、2008年、ISBN 978-4894346437
- 『鶴見和子短歌百選 「回生」から「花道」へ』〈藤原映像ライブラリー 3〉藤原書店、2004年、ISBN 4894344165