「上皇后美智子」の版間の差分
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皇后美智子(こうごう みちこ、1934年10月20日 - )は、日本の皇族。今上天皇の皇后。旧名・正田美智子(しょうだ みちこ)。身位は皇后。皇室典範における敬称は陛下。お印は白樺(しらかば)。日本赤十字社名誉総裁、国際児童図書評議会名誉総裁。
報道等が遣う敬称は、陛下もしくは「さま」。NHKは「皇后陛下」もしくは「皇后さま」、民放各社は「美智子さま」と呼ぶ場合もある。
目次
略歴[編集]
少女時代[編集]
1934年(昭和9年)10月20日、日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(1981年、富美子と改名)夫妻の長女として、東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)・東京帝国大学医学部附属病院で誕生。
大和郷(やまとむら)幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年雙葉学園雙葉小学校に入学するが、1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県の乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)、長野県の軽井沢東国民学校と転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。
小学生時代は活発で勝ち気である一方、成績は非常に優秀であった。また、ピアノ・絵画・料理、香道も習っていた。
1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は「ミッチ」「ミチ」。
1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文学)を首席で卒業。在学中はプレジデント(全学自治会会長)としても活動していた。卒業式では、総代として答辞を読んだ。美智子自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。なお、プレジデントとなった学生にはキリスト教の洗礼(入信)が推奨されるが、彼女は洗礼を受けなかった。
同年8月、軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。「テニスコートの出会い」として知られる。その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は美智子の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品したが、皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然と考えられていた時代であり、誰も彼女をお妃候補とは思わなかったようである。一方、資産家の令嬢とは言え旧華族出身でない事から、香淳皇后・高松宮妃喜久子や秩父宮妃勢津子ら皇族婦人に加え、常磐会会長松平信子(勢津子の実母)、歌人柳原白蓮らを始めとする旧皇族・旧華族の婦人たちから、成婚後も長く続く猛烈な反発と陰湿かつ苛烈な批判を受け続ける。
1958年(昭和33年)、ベルギーにて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行。
同年11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。同日記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは流行語にもなった。また第一印象について「ご清潔な方」とした。清楚で知的な美貌を持った美智子の姿は絶大な人気を集め、明仁親王と美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売される等のミッチー・ブームが起こる。テレビの受信台数も急増した。
皇太子妃時代[編集]
1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚、明治以降初めての民間出身(士族以下の意。ただし徳川氏の遠祖新田義重の重臣である徳川郷郷主生田氏の家系であり、南北朝時代まで遡ると家格は決して低くない)の皇太子妃となる。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まり、皇太子および同妃を熱烈に祝福した。
晴れがましいご成婚のパレード・民間での祝福ムードとは対照的に、成婚後もなお民間出身であること・選に漏れた他の候補者に元皇族の北白川肇子らがいたことなどの理由から、他の皇族・女官に受け入れられず、松平信子や梨本伊都子ら旧皇族・旧華族の婦人らからも一挙手一投足に至るまで非難され続けた。また世界各国の王制が革命で倒れ、パレードの際にも暴漢が馬車を襲撃しようとして刑事に取り押さえられる事件が起こるなど左翼全盛の1960年代を目前にした時代背景もあって苦難の日々が続いたが、皇太子および同妃は努めて献身的に公務をこなした。
このような状況にあって、皇太子明仁親王の弟宮にあたる常陸宮正仁親王は常に美智子妃を庇い、よき相談相手だった。そして、1960年(昭和35年)2月23日に誕生した第一男子浩宮徳仁親王が、美智子妃の心の支えだった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのような時でも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待された。この折、浩宮は出生後7ヶ月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。
1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ。特に、月刊平凡に連載されていた実名小説『美智子さま』(小山いと子作)は、美智子妃に大変な心労を与えたとされ大問題となった。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同月中旬の実名小説問題の直後、3月23日に流産の処置手術が行われた。その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3ヶ月間ひとりで静養する事態となった。7月上旬から皇太子・浩宮とともに軽井沢で過ごした後、9月1日に帰京。9月13日の山口国体から公務に復帰した。
1965年(昭和40年)11月30日、第二男子礼宮文仁親王誕生。
1969年(昭和44年)4月18日、第一女子紀宮清子内親王誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で小旅行を行なっていた。
なお、これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した(大正天皇・貞明皇后の時代より改革が行われ、続く昭和天皇・香淳皇后も女官制度廃止・乳母は置いたがほぼ母乳で育てる・内親王を学齢まで手元で育てる等を行った。明仁親王夫妻の改革もこれに続くものである。(1977年(昭和52年):昭和天皇・香淳皇后への那須御用邸での記者会見より))。
1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点を付けるか」との問いに対し、皇太子が「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。
1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫の手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪韓は中止になった。手術の際も皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断はぎりぎりまで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。
前述の経緯もあり、姑にあたる香淳皇后を始め秩父宮妃・高松宮妃らは美智子妃へは決して良い感情を持っていなかったとされる。一度だけではあるが、1975年(昭和50年)の昭和天皇・香淳皇后の訪米の見送りの際に皇后から公然と無視をされた。しかし、晩年の昭和天皇一家の写真にて、美智子妃が腰を悪くしていた香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃とは共にマラソンを観戦した姿も目撃、報道された(『FOCUS』昭和57年12月3日号)。また文仁親王・清子内親王は高松宮妃と関係が深く、孫のように可愛がられていたといわれる。このように、香淳皇后や他の妃達との関係は徐々に改善していった。
皇后時代[編集]
1989年(昭和64年)1月7日、明仁親王の即位に伴い皇后になる。即位後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。
1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日に赤坂御所にて倒れる。この時期は週刊誌等により、皇后への根拠のないバッシング・中傷報道がなされており、精神的な苦痛から失声症となった。声が出ない間は、清子内親王が皇后の言葉を代弁したりと、常に寄り添っていた。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している。また回復時の第一声は「もう大丈夫、私はピュリファイ(浄化)されました」であり、周囲を気遣う皇后の心遣いが現れたものであった。
1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に阪神・淡路大震災後の神戸を見舞い、神戸市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ(保存加工は日立交通テクノロジー株式会社の手による)、同市布引ハーブ園内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者を労る様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。
1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)]]」に際してビデオによる講演を行い、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年(平成14年)、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。
2002年(平成14年)10月20日、皇后陛下お誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で次のように北朝鮮による拉致問題についてコメントした。「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います。
2005年(平成17年)10月20日、清子内親王降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、徳仁親王が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという。
2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問。
国民に開かれた皇室の想起者といわれているが、数々の発言・行動に見られるように伝統を守ることを大切にしている。また訪問相手・周囲で仕える者に対する気遣いを常に怠らず、慈悲深い姿は多くの人々に感銘を与えている。
しかしながら、2008年(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討されている。特に膝を痛めることが多く、2009年(平成21年)春の園遊会では、本来ならば洋装のところ和服を着用し、足を覆った。
外遊歴[編集]
以下には、単独での外遊についてのみ記載する。
- 2002年(平成14年)9月28日 - 10月3日、スイス旅行。
- 国際児童図書評議会(IBBY)、スイス・バーゼル=シュタット準州州政府からの招待により、同準州州都バーゼルで開催される「国際児童図書評議会創立50周年記念大会」に出席のため。
逸話[編集]
呼称・報道等に関するもの[編集]
- 民放各社が「美智子さま」と呼ぶのは、明治以降初めての民間出身の皇族であるため軽んじているのではないか、という批判的な見方がある。もっとも明仁親王が独身の皇太子だった時代、テレビのインタビューで「皇太子さん」と呼ばれていたこともある(ただし、これには敗戦後、独立回復後間もない時期という時代状況も影響している)ほどで、呼び方も時代により変化して当然との見方もある。
少女時代[編集]
- 非常に優れた運動神経の持ち主で、学生時代はリレーの選手などに選ばれることが多かった。この頃は勝気な性格であったと伝わる。孫の眞子内親王、佳子内親王にも、この性格が受け継がれていると思われる幼稚園 - 小学校低学年時代のエピソードが伝えられている。
- 学生時代に学校において出会ったアイルランドの修道女たちに深い思いを寄せており、一人一人の顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。
成婚に関するもの[編集]
- 昭和30年(1955年)~31年(1956年)頃、東京・銀座の小料理店「井上」2階にて、独身時代の三島由紀夫と“見合い”風の対面をしている(同店女将・井上つる江談。『週刊新潮』2009年(平成21年)4月2日号)。
- 皇室に嫁ぐ際には実家の庭に白樺の苗を植え「これを私の身代わりにしてください」と言った。このとき父・正田英三郎から、「天皇陛下と皇太子殿下の御心に沿って生きるように」との言葉を贈られている。
- 成婚に際しては作曲家の團伊玖磨が「祝典行進曲」を作曲した。この曲は後に紀宮清子内親王が降嫁する際、皇居から帝国ホテルへ出発する内親王を送るためにも演奏された。
- 国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、この事に関し平成16年(2004年)の誕生日に次のように発表した。
- 「私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います。」
- 結婚の儀当日天皇から授けられた守り刀は、1955年に、刀剣では最初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された刀工高橋貞次の作。浩宮徳仁親王・礼宮文仁親王の守り刀も彼の作である。
- 一般的にいう「嫁入り道具」の総額が1億円相当だったと言われる。長嶋茂雄の契約金が1800万円だったことを考えると相当な金額といえる。
家庭・育児に関するもの[編集]
- 苦しい日々にあっても優しさを忘れず、「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の東宮御所奥公室に小さな厨房を設置。後に浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの弁当もこの厨房で自ら作ったこともある。宮中晩餐に関しては食材選びからメニューの選定まで、細心に心を配るという。
- 皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止、3人の子を全て自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、母子手帳が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた。「あづかれる宝にも似てあるときは吾子(わこ)ながらかひな畏れつつ抱く」はこの時の御歌である。なお、後に誕生した礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)、母子手帳の発給を受けることはなかった。
- 「ナルちゃん憲法」に関して、皇后自身は「書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない」としている。
- 第2子流産の折には、「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」といった批判もあった。この痛手から回復する過程において、ハンセン病患者や戦争の犠牲者への理解、慰めの心を深めたといわれる。
- 教育方針は丁寧ではあったが、過保護ではなかった。礼宮文仁親王がアオダイショウを追いかけ、紀宮清子内親王に捕まえるように言った際には、アオダイショウが無毒と分かると清子内親王に追いかけるように言ったというエピソードも残る。
祭祀・公務などに関するもの[編集]
- 天皇行幸の際には、ほぼ常に同行している(行啓)。そのときの服装は訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。例えば2007年(平成19年)の訪欧時には、各国の国旗の色をあしらった服や、コサージュを着用した。
- 明治以来の歴代皇后が行ってきた養蚕(皇后御親蚕)を継承している。紅葉山御養蚕所において奈良時代から飼育され続けてきた蚕の品種「小石丸」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。小石丸は今日では全国で飼育されるに至っている。また、各種美術品の修復にも用いられている。養蚕によって作られた絹糸で、皇后のドレスを仕立てた事もある。近年では、眞子内親王・佳子内親王が養蚕を手伝っており、内親王たちの着物に仕立てられたという。
- 特徴ある活動としては、児童への図書普及への取り組みが挙げられる。1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)]]」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」[1]では、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。またこの講演では幼少の頃に家族から聞かされた童話として新美南吉の「デンデンムシノカナシミ」を取り上げ、大人になってからもよく思い出される作品であると紹介した。講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。2002年には、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。なお、その時の祝辞は、『バーゼルより-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。皇后が単身日本国外に行啓した史上最初の例である。
- 戦没者慰霊の地に赴き、和歌を詠んでいる。
- 「かなしき」は硫黄島の防衛を指揮して壮烈な最期を遂げ、敵将からも称えられた栗林忠道大将の辞世の本来の結句であり、彼の最期に思いを馳せていたことが思われる。
他の妃・皇孫に対するもの[編集]
- 紀子妃は同じく旧皇族・旧華族以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。彼女の婚約が内定した際には「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。
- 皇太子徳仁親王の結婚の際には、雅子妃にルビーの指輪を贈った。これは自身の結婚の際香淳皇后から贈られたものであった。また、秋篠宮文仁親王の結婚の際には、紀子妃に真珠の指輪を贈った。
- 2006年(平成18年)2月、紀子妃の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。また、紀子妃が前置胎盤で帝王切開が必要なことがわかると、それを心配する言葉を寄せた。
- 無事に悠仁親王が誕生すると、皇后は白いベビーシューズを携えて見舞いに訪れた。このベビーシューズは秋篠宮家で大切に保管されていたとみられ、悠仁親王の1歳の誕生日写真においてソファ脇の机に飾られていた。
- また、同年の誕生日においては、敬宮愛子内親王との面会や彼女の着袴の儀を楽しみにしている旨を発表。なお、この年を境に、コメント・会見の際に「敬宮」と呼ばずに「愛子」と呼んでいる。
- 秋篠宮家との関わりは深く、天皇一家の記念写真においても幼い佳子内親王を抱きしめている写真がある。また、葉山で静養の際、途中で合流した秋篠宮一家の到着が待ちきれない様子で、皇后が入口の陰からわずかに顔を出している映像が残っている。
- あらゆる会見の中で、幾度となく皇太子妃・秋篠宮妃、そして皇孫たちに対する愛情に満ちた発言をしている。
その他[編集]
- 皇太子妃時代、庶民からの羨望の気持ちを込めて「同じ服は二度と着ない」ともいわれていたが、実際には丁寧に管理され、時には仕立て直しなどリフォームをして繰り返し着用しているという。
- 公務の際洋装に、日本独自のもの(佐賀錦等)をあしらったり、訪問先の国花・都道府県花等を身につけたり、国旗を意識した配色の衣服を着用する等の気配りを見せている。そのファッションセンスは、日本のみならず世界的にも高く評価されており、1985年・1988年・1990年の三度、国際ベストドレッサー賞を受賞している。植田いつ子らがデザイナーとして知られる。
- 1992年(平成4年)に、秋の国体(べにばな国体)の開会式臨席の際、暴漢が凶器(発炎筒)を投じた際、とっさに片手を挙げ身を挺して天皇をかばうなど、常に天皇を気遣っている(なお当時の警察庁長官は城内康光。衆議院議員城内実の父である)。
- 宮内庁職員組合文化祭には白木華子(=白樺子→シラカバ)の名前でひそかに手芸作品を出品したことがある。その時、紀宮清子内親王も「川瀬美子(かわせ・みこ→カワセミ)」の名前で出品した。
- 音楽に造詣が深く、学生時代よりピアノが得意とされる。バチカン訪問の際の音楽会では、即興でグノーの『アヴェ・マリア』の伴奏を弾いた。自宅でじかに演奏に接したピアニストの中村紘子は、あれだけ想いの深い演奏をするピアニストは日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている。またピアニスト・田中希代子の演奏を愛し、1996年(平成8年)に田中が急逝したときには深い悲しみを表している。このほかハープも得意とする。ハープを演奏する写真も撮影されている。2009年(平成21年)のカナダ訪問時に訪れたトロントの小児病院では子供たちを前に、子育てのとき子供たちに歌って聞かせた「揺籃のうた」(北原白秋作詞、草川信作曲)を歌唱した。
- 1999年(平成11年)、父・正田英三郎の死去に伴い、東京都品川区東五反田五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸が相続の対象になった際、相続権を放棄、のちに正田邸は物納され、取り壊された。跡地は小公園「品川区立ねむの木の庭」になっている。その際、全国で正田邸の保存を望む声が高まり、邸の前に近隣住民を主にした団体が詰め掛けマスコミで大きく報道された。
発言[編集]
- 「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」
- - 1958年(昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評
- 「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。いつになったら慣れるのか見当がつきません。(中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」
- - 1960年(昭和35年)4月11日、結婚一周年の記者会見で
- 「皇后様は一体どうお考へか、平民出身として以外に、自分に何かお気にいらないことがあるのか」
- 「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」
- - 1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。明仁親王の「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」をふまえ
- 「平成初めての大会に当たり、昭和22年以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになった皇太后陛下に、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」
- - 1989年(平成元年)5月31日、平成元年全国赤十字大会にて
- 「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」
- - 1994年(平成6年)、失声症から回復した際のコメントにて
- 「変化の尺度を測れるのは皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています」
- 「どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」
- - 以上1994年(平成6年)10月20日、還暦文書回答にて、皇后美智子が今上天皇とともに皇室に新風を吹き込んだという指摘に対して
- 「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」
- - 1995年(平成7年)10月20日、誕生日の文書回答にて
- 「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があって良かった、と、国民が心から安堵し喜ぶことの出来る皇室でありたいと思っています」
- - 1996年(平成8年)10月20日、誕生日の文書回答にて
- 「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しを頂いて加わりました」
- - 1998年(平成10年)10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して
- 「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略)先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」
- - 2002年(平成14年)10月20日、誕生日の文書回答にて
- 「清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」
- - 2005年(平成17年)10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に
- 「東宮妃の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、また東宮も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」
- - 2006年(平成18年)10月20日、誕生日の文書回答にて
- 「(かくれみのを用いて)混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田や神保町の古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」
- - 2007年(平成19年)5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、身分を隠し好きな所で一日を過ごすとしたらという問いに対し
- 「皇太子妃の健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、「妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい」という、私の以前の言葉に変わりはありません」
- 「この頃愛子と一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。周囲の人の一寸した言葉の表現や、話している語の響きなど、「これは面白がっているな」と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのような時、とても幸せな気持ちになります。思い出して見ると、眞子や佳子が小さかった頃にも、同じようなことが、度々ありました」
- - 2008年(平成20年)10月20日、誕生日の文書回答にて
- 「この度も私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」
- - 2009年(平成21年)4月8日、結婚50周年記者会見にて。先の25周年記者会見での発言をふまえ
- 「東宮も秋篠宮も孫として昭和天皇のおそばで過ごす機会を度々に頂き、また成人となってからは、陛下をお助けする中でそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います」
- - 2009年(平成21年)11月11日、今上天皇即位20年に際する記者会見にて
皇子女[編集]
今上天皇との間には、3子がいる。
- 浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと、1960年- ) - 第1皇子。現・皇太子。
- 礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと、1965年- ) - 第2皇子。秋篠宮。
- 紀宮清子内親王(のりのみや さやこ、1969年-) - 第1皇女。黒田慶樹夫人。
生家・正田家[編集]
- 祖父・貞一郎(実業家・日清製粉創業者)
- 父・英三郎(実業家・日清製粉名誉会長)
- 母・富美子(中支那振興常務理事副島綱雄の長女)
- 兄・巌(元日本銀行監事)
- 妹・恵美子(元昭和電工専務安西孝之夫人)
- 弟・修(実業家・日清製粉グループ代表取締役会長)
- 系譜
- 『正田貞一郎小伝』9-21頁によると、
- 「徳川家の菩提所である群馬県新田郡世良田長楽寺の伝えるところによれば、正田家の祖先は新田義重の家臣生田隼人となっている。天正年間、生田義豊は徳川家康に謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。
- 正田家は代々「米文」の暖簾のもとに米問屋を家業とし、上州館林および近郊きっての富商であった。「米文」の名声は江戸はいうまでもなく、なく大阪方面まで聞こえていた。弘化の頃(1844年 - 1847年)には名主の職にあり、名字帯刀を許されていた。
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(角川書店、2002年)385-386頁によると、
- この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を襲名するに至っている。江戸時代は“米文”の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島の米相場をうごかす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した米問屋であったが、明治六年、正田英三郎の曾祖父にあたる三代目文右衛門は、突然家業をやめ、“亀甲正”という商号で新しく醤油醸造業を始めた。」という。
(三代) 正田文右衛門━┳━正田文右衛門 ┃ ┏━正田明一郎 ┃ ┣━はる ┗━正田作次郎━━正田貞一郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━╋━正田建次郎 ┃ ┃ ┃ ┃ きぬ ┃ (五代目・正田文右衛門の長女)┣━勅子 ┣━正田英三郎 ┃ ┣━━┳━正田巌 ┃ 冨美子 ┣━美智子 ┃ ┣━恵美子 ┣━祐子 ┗━正田修 ┣━正田順四郎 ┣━正田篤五郎 ┗━和子
著作[編集]
和歌・発言集[編集]
- 『ともしび―皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年12月
- 『瀬音―皇后陛下御歌集』 大東出版社、1997年4月、ISBN 4500006338/新装版2007年、ISBN 4500007245
- 『あゆみ―皇后陛下お言葉集』 宮内庁侍従職監修、海竜社、2005年10月/改訂新版2010年3月、ISBN 4759310975
- 『道――天皇陛下御即位十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、1999年10月/新装版2009年 ISBN 4140813903
- 『道――天皇陛下御即位二十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、2009年、ISBN 414081389X
児童関連楽曲・書籍[編集]
- 『五木の子守唄 鮫島有美子』 Denon、1992年(作詞した『ねむの木の子守歌』を収録、作曲は山本正美)
- 『愛のゆりかご 日本の子守歌』 中目徹編、東亜音楽社、1995年(楽譜、19曲目に作詞曲を収録)
- 『どうぶつたち(The Animals):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、1992年9月、ISBN 4915777066
- 『ふしぎなポケット(The Magic Pocket):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、1998年6月、ISBN 4915777219
- 『橋をかける――子供時代の読書の思い出』 すえもりブックス、1998年11月/文春文庫、2009年4月、ISBN 4167753812
- 『バーゼルより――子どもと本を結ぶ人たちへ』 すえもりブックス、2003年2月、ISBN 4915777340